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興野龍介さんの投稿
私の終戦後の一年
平成24年11月 
                     興野龍介
まえがき
 昭和20年(1945年)8月、あの終戦の年から早67年が経った。
 この記事をお読み頂いている方の中には、戦後生まれの方もおられると思いますが、第2次世界大戦終戦直後の、旧満州国(現中国東北部)における私の少年時代(当時18才)の、生涯二度と体験することのない、最早「死語」になりかけた「敗戦」当時の思い出の数々を、記録や記憶をたどりながら、拙文ではありますがk-unetサイトに投稿致します。

戦国民の惨状
 この終戦を境にして、日本の「内地」にいた人々にとっては、焦土の中であれ、終戦は夏の晴れた青空の様に開放感の伴うものであったという。また、灯火管制の為の黒い布をとった裸電球の明るさに、「平和と自由」を実感した人も多かったとのことです。
 他方、旧満州国においては、支配民族として君臨した日本人はまさに戦争が終わった瞬間から、侵略の責めを負う敗者として、苦難の日々の始まりとなった。
 8月9日、ソ連軍の参戦により、ソ満国境近くにいた日本人は侵入してきたソ連兵や中国人暴徒に襲われ、親兄弟を亡くした子供や、一家の主人が軍に招集され、そのままソ連軍の捕虜となってシベリヤに連行されたり、或いは、職場を忠実に守るため、家族のみを避難させたため一家が離散し、避難途中で辱めを受けるのではないかと、幼児共々青酸カリで自殺した母親(当時のM先輩の奥さんもその内の一人)、過酷な逃避と衣食住に苦しみ、断腸の思いで、幼児を現地人に預けたり放棄したりせざるを得なかった母親、その現実が、今も続いている中国残留孤児の肉親捜し(朝日新聞2012年24年10月17日朝刊)、この目で見た敗戦国民の悲惨さと屈辱と忍耐は、筆舌に尽くす事ができない。      
 また、この一年の間に、異境の地で望郷の夢を抱き、焦りと苦しみに耐えながら、遂に帰国を果たせず、無念の内に、彼の地の露と消えて行った同僚も数多くいる。
自分自身は、若年のため身軽であったことと、幸運に恵まれたため、翌年の昭和21年8月9日(偶然にもソ連が参戦して丁度1年目)無事帰国し、郷里熊本の実家に帰宅することが出来たが、昨今の中近東における難民が、荷物を担いで幼児の手を引き乍ら徒歩で集団避難している姿や、略奪等の報道記事を見聞きすると、無法状態の中での当時の事が走馬燈のように脳裏に浮かび未だに忘れることが出来ない。

のどかな環境
 昭和20年4月、私は、現中国東北部の元渤海王国の王城があった小さな町の電報局に通信士として赴任した。局員は30名位で、この内日本人は、局長、技術主任、それに通信士の小生と、5名の電話交換手の計8名で、その他は現地人(旧満州人)要員であった。  
近くには関東軍の航空部隊とこれを守備する部隊がいて、軍事的には、東満州から南満州に通じる陸路交通の要衝であった。
 当時、沖縄では、既に米軍が上陸していて、日本内地の緊迫状態が、この東満州の小さな町にも伝わって来ていたが、空には航空隊の赤とんぼ(練習機)が飛び交っており、また、民間人として食料に困るようなこともなく、休日には、近くの湖沼に魚釣りに出かけたりして、戦争に負ける等とは思ってもいなかった。

ソ連軍の参戦
 同年8月9日,突如としてソ連軍の参戦(前述)となり、怒濤のようにソ連軍の戦車部隊がソ満国境を越えて侵入してきた。当時65万人と言われた関東軍の主力部隊は、前述の赤とんぼも含めて、何時の間にかその大部分が、主戦場となっている沖縄や南満州に転進しており、残った軍隊には、手にする十分な武器もなく、ソ満国境に置いては玉砕(全滅)する守備隊があったりして、在留邦人を救出すべもなく、南満州へと後退していった。
 後に残された数多くの開拓団や一般民間人は、統率の執れていない残虐非道のソ連軍兵士(囚人部隊といわれていた)によって、思うままに蹂躙され、略奪に合い、数多くの行方不明者をだして悲惨な運命にさらされた。 これらのことは、今まで発刊された多くの著書などにも記録が残されている。

撤 退
 ソ連の参戦後は、勤務時間外に、警察署との非常電話の架設などを応援していたが、8月13日、戦局は益々不利が伝えられ、 通信回線も途絶したため緊急事態を察知し、局長の指示により、日本人局員は家財道具を防空壕に搬入して隠し、貴重品と身の回りの品のみをリュックサックに詰め、折から南下撤退してくる軍用車両(トラック)の指揮官と折衝して便乗させて貰った。 当時、多くの電電社員が、関東軍の通信要員として派遣されていたため、「電電」の腕章を着けていると、軍からも優遇されていた。
 こうして、夜はトラックの下に潜って夜露を凌いで仮眠し、昼は延々と続く山また山を、濛々と土煙を上げながら撤退してくる幾十台ともしれない軍用トラックの列の中の一台の荷台に身を任せた。
 途中の山から牡丹江方面を望見すると、大きな黒煙が一筋空高く昇っており、多分弾薬庫等が爆破されたのだろう。
 走行中は故障して走行不能になった車両には追跡してくるソ連軍に利用されないように火が掛けられ、その炎と煙が天高く、幾箇所ともなく舞い上がり、まさに悪夢を見ているようであって、今でも脳裏から消えない一駒である。
 この途中で局長は、東満州から避難して来る電電社員の誘導支援のため、東京城に引き返していったが、その後は消息不明となった。

終 戦
 8月15日、鏡泊湖(現在は、中国東北部の観光名所になっている)に到着、幾人かの電電関係者の群れと合流,野営中に敗戦の情報を聞いたが、その時の感動は、あまり記憶にない。
 その後は、小さな軍用舟艇に乗せて貰い、湖を渡り,川を遡り、とある小さな船着き場に上陸した。
 これからは、トラックなどの便はなく、それぞれのリユックサックを担ぎ、あるいは、子供の手を引いて、ぞろぞろと、徒歩での避難民となった。
 翌日の夕刻、避難の中継地点である市街の手前の小さな橋のたもとに到着した。ここでは、武装解除を待っている数百人の日本人部隊が停止させられていた。(おそらくこれ等の軍人は捕虜としてシベリヤに送られた事でしょう)
 我々もここで待機させられ、橋の下で野営する事になったが、通信士としての責任上、今まで大事に腹に巻き付けていた暗号書を、技術主任立ち会いの下で焼却、暗号書を敵にとられた場合の自殺用として、腰に付けていた手榴弾を川に投げ捨てようとしたが、非力のため川まで届かず慌てたが、爆発しなかったので、難を逃れた。


その2へ続く)
 


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