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私の終戦後の一年(その2)
私の終戦後の一年(2)
≪その2≫
平成24年11月
興野 龍介

やっと畳の上に
 その翌日、電電社員100余名が集結している市内の工事用社宅に入り、6日ぶりで、畳の上に脚を伸ばし、夜は、布団に寐ることが出来た。
 ここでは、途中から局長が不在となったため、付き添って守ってきた局長の奥さんが、不安と疲労のため、夜中から悪寒がして発熱したが、それようの薬も無く、小生の布団を提供して介護したが、徐々に症状も回復してきた。
 その後は、避難列車を待つため数日間滞在していたが、ソ連軍兵士の執拗な住居侵入があって、腕時計や万年筆などの貴重品が取り上げられたが、婦女子は、頭を丸刈りにして男装したりして、素知らぬ振りをしていたので大事には至らなかった。

屈辱の避難列車
 数日後、避難列車の手配がついて出発することになったが、途中の治安が悪く貴重品や現金などは、暴徒に襲われ略奪されるかもしれないとの情報があり、小生は、まだ隠し持っていた万年筆や腕時計を宿舎の回りにいた中国人に売り渡して現金にした。 そして彼らに襲われても発見されないように紙幣を柔らかく揉んで違和感がないようにして着ていた衣類の裏側に縫いつけた。  
 その他の連中もそれぞれベルトの裏側に貼り付けたり、或いは、こよりにして、下着のゴム通しの部分に縫い込んだりして隠し持った。
 時季は、9月半ば頃のため、夜は冷え込むが昼間はまだ暑い最中ではあったが、出来るだけ身につけられる物は着込んで、最初の避難目的地である新京(現長春市)に向かう事になったが、夜になっても列車が到着せず、駅前の広場で待つことになった。 ここでは、我々難民の隙を見て荷物をかすめとろうとする輩が徘徊していたので、婦女子や荷物を中心にして、男性が回りを囲んで待機していた。
 深夜になって出発することになったが、列車は常にのろのろ運転で、駅でもない所に停車した。その都度マンドリン銃(自動小銃)を持ったソ連兵が乗り込んできては、まだ大切なもの(勲章などの貴重品)を処分しきれないで、隠して持っていた人は、それらを取り上げられたり、他の車両では、女性が拉致されて、辱め受たものもいたとのことであった。
 このような事があって、漸く目的地の新京駅に着く直前、列車が停車したと思ったら、急に車内が騒がしくなり、今度は、中国人の暴徒が棒きれを振り回し、威嚇しながら、ドヤドヤと乗り込んできて、身につけ隠し持っていた現金、特に女性には、男性の目の前で下着のゴム部分にまで手を入れ、縫い込んだ現金を取り上げ、又、網棚に乗せていた子供連れの家族の物を含めて、それぞれの全財産を入れたリュックサックなど、根こそぎ大きな袋(麻袋)に入れて強奪していった。 これで我々一行の大部分は、全くの無一物になってしまった。 偶々小生は、暑いにもかかわらず防寒着を着込んで下着の両肩に縫いつけていた紙幣(400円位だったと思う)は発見されずに済んだ。
 それにしても、これだけの屈辱を受けながら、何一つ抵抗することも出来無かった当時のことを思うと、これが敗戦国民の置かれた立場だったのかと、全く無念で、痛恨の極みである。

難民となって
 こうして電電本社がある新京に辿り着いた。
 ここでは、我々と同様,東北満州から殆ど無一物同然で、続々と避難して来る社員のための避難対策室が設けられ、家族毎に分散し、独身者は独身寮に、それぞれ自給生活をすることとなった。 
 今まで同行してきた局長の家族は、会社の援護に委ねる事としたが、その後この家族はどの様にして生活し、帰国されたかは定かではない。 おそらく病弱な2年生の子供を抱えた若い母親には、食べることにも事欠いていたのではないだろうか。噂によるとこの少年は,栄養失調で死亡したとのこと、今でも気に掛かる事柄である。
 市内では、既に方々で日本人による市場が開かれ、市内に在住していた人達は、自宅の家財道具や衣類などを売り捌いて暮らし、また、先着した難民達は、生活用品や食料品の販売などの商売をして活発に活動していた。そこでは、戦時中には簡単には手に入らなかった砂糖や米、着物や洋服、日常雑貨から食料品等あらゆる物資が豊富に出回っており、盛況を呈していた。
 さて小生は一日も早く生活費を稼ぐ手段を講じなければ食べていけなくなるので、先着していた同室の友人に習って、お菓子の立ち売りを始めることにした。 まずは、早朝に起き出して、4.5キロ離れた市場に行って、和菓子を仕入れ、部屋にあった机の引き出しに雑誌の紙を敷き、お菓子を並べて、腰のベルトを外して首に掛け、これに引き出しを乗せ、生まれて初めての商売に、胸をドキドキさせながら、街頭に立ち大きな声を張り上げて売り始めた。
 ところが、なんと小生のお菓子はいとも簡単に売り切れてしまった。そこでまだ売れ残って、隣で一緒に売っていた友人の物を手伝っていた。

幸運・恩師との巡り会い
 こうして、目の前を通る人々の顔を見ながら立ち売りを手伝っていたところ、急に目の前で「おい興野ではないか、お前良く生きていたな」と声を掛けてくれた人がいる。 全く夢のようであった。其れはまさしく小生が慕っていた通信学校時代の恩師で国語の教官のS先生だった。 先生は、当時本社の人事部に転勤になって、会社難民の援護事務所に勤務していて、続々と避難して来る社員名簿に小生の名前がでて来ないため、家族共々大変心配して下さっていたとのことである。
 早速翌日から先生の家庭にお世話になることになり、幸運にも内地に引き揚げてくるまで、衣食住に困ることもなく、東北満州から避難してきている多くの同窓生が、衣食住に困り、中国人の家で住み込みで働いたり、あるいは寮生活で栄養失調やパラチブス(シラミなどで感染する)で死亡している中で、自分だけがこのような苦難もなく、本当にラッキーだった。
 先生は、帰国後小学校の校長や国語検定委員などを勤め、定年後は、晴耕雨読、奥さんと菜園などを楽しみながら、しっとりとした老後を過ごしておられたが、10数年前ご夫妻を訪問(広島県)し、当時の思い出話し等をしながら、お礼を申し上げた。


その3に続く)                                                                                    (その1へ戻る)

 


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