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私の終戦後の一年(その3)
私の終戦後の一年(3)
≪その3≫
平成24年11月
興野 龍介

(帰国を待つスリルの日々)
ソ連兵の蛮行

 終戦後の数ヶ月間は、ソ連軍が駐留しており、マンドリン銃(自動小銃)を肩に、単独で一般民家に押し入り、女性を捜したり、めぼしい物を強奪していった。 我々は、ソ連兵が来てドアーをドンドンと叩いたり、ソ連兵の姿を見ると、女性は、押し入れに隠れたり、裏口から隣の家に逃げ込んだりして難を逃れた。残った男性や子供は、土足で上がり込んだ兵士のなすがままに、ただ怯えながら見守るだけだった。
 彼らは、数ヶ月間主要なビルなどに駐留し、満州国内にある重工業用の工作機械などを続々と運び出していった。

どさくさ紛れ
 ソ連軍が撤退した後には、国民政府軍(蒋介石軍)が、進駐してきたが、交代する数日間は、全くの無法状態となり、日本人(小生を含めて)も中国人も入り乱れて、ソ連軍撤退後のビルに入り込んで金になりそうな物品を探しては、手当たり次第掻っ払って(略奪?)来るのが流行っていた。
 因みに、降雪のあった早朝、近くのビルからソ連兵が撤退したのを察知した小生は、早速そり(雪上で荷物が運べるようにした手製の物)を引いて掻っ払いに出かけた。
 その時の小生の戦利品(?)は、通信機器についていた真空管)4・5本と小型のトランス(変圧器)1個、小さな四角い缶詰1個、一斗缶11個。モービル油が半分くらい入ったドラム缶一本である。 これに味を占め、その日の夕刻先生の息子(小学4年生)を連れて再び侵入したが、既にめぼしい物は残っていなかったので、そりを引いてビルから出てきたところ、中国警察官に見つかり、二人とも捕まってしまって警察署に連れて行かれた。そこでは何をされることでもなかったが、こちらは子供と若い青年の二人のため、冷やかし半分に脅かされたりして、夕方暗くなってやっと解放された。
 無法状態とは、人々の心をこのようにしてしまうものなのか、不思議なことに、このような略奪並みのことをやっても、 良い物を見つけたという感覚で、少しも罪悪感が無かったことである。

戦利品の処理
 このとき得た戦利品(?)は、真空管は市場に持っていっていくらかに売れたが、缶詰の中身は、白濁で弼状のもので何か判らなかったので数日経って廃棄したが、先生から『アレは阿片だったらしい、もし持っていたら、あの缶に入りきれないほどの札束になったそうだよ』と言われてびっくり。
 11個の一斗缶は、印刷用のインキだったが、友人が「ブローカーを知っているから、売り捌いて上げる」と行って持って行ったが、数日後、「あれは、ブローカーに持ち逃げされた。申し訳ない」といってきた。 これもパーだ。
 トランスは、同居で、別室にいた技術屋さんが、「これを巻直して使えば、水道が凍結しているのを溶かすことが出来るよ」との助言があり、措置をして貰って、いよいよ[水道溶かし業]を始めた。
 この小さな機械をソリに積んで引っ張り、日本人の家庭を一軒一軒「水道は凍っていませんか」といってまわった。これは結構成功して商売になったが、同じ商売をやっているところに声を掛けてしまって、「商売の邪魔をするな」と怒鳴られ、怖くなって方々の態で逃げて帰った事もあった。

市 街 戦
 5月頃になって、今まで統治していた国民政府軍は、八路軍(中国共産軍)に包囲され、市街戦が始まり、政府軍は孤立し、救援物資が空からパラシュートで投下されていたが、風の為政府軍の上空を通り過ぎて、八路軍部隊に着陸するのが多く見られた。
 この市街戦では、我々日本人は、流れ弾を防ぐため、窓に畳を立てかけて、隙間からこの戦闘模様を眺めていた。この戦闘で、隣家には迫撃砲弾が着弾して、2階部分が破壊された模様だった。

札束の箱の山
 戦闘が終わって、銃声も聞こえなくなったので、小生はリュックサックを背負って、戦闘で死亡した兵士の死骸が、そのまま転がっているのを,目を覆いながら吉野町(当時の繁華街)方面に出かけたが、途中でソ連兵が撤退したらしい大きなビルから煙が出て、その中から幾人かの民衆が出入りしているのを見掛け、何か獲物がありそうだと思って、飛び込んだところ、ジャガイモが山のように保管してあった。今日は、これで一日の仕事になったと思いリュックサックに一杯詰めて帰ることにした。
 ところが、途中、大同広場の満州中央銀行から、茶箱ぐらいの大きさの白い箱を担いで出てくる人々がいるのを見て、これは札束の箱だと直感。 小生は直ちに、いままで背負っていたリュックサックを、近くの植木の茂みに入れ、急いで銀行内に入ってと行くと、講堂の真ん中にこの箱が山積みにされていた。 中には幾つかの箱が壊されて、五十銭札の札束が散乱しており、小生はこの札束を5~6冊ポケットに入れ、初めて見る札束の山に興奮しながら、箱の一つを担いで道路に出てきた。
 ところがである、混乱の警備に当たっていた八路軍兵士に、拳銃を向けられ、その箱を元に戻してこいと警告された。 不思議と怖くはなかったが、やむを得ず近くにあった防空壕に入れて隠し、再び何食わぬ顔をして、木の下に隠しておいたリュックサックのジャガイモを背負って家に帰り、このことを先生に話した。
 午後から先生に見張りをして貰う事にし、先ほどの防空壕に入ったところ、その箱は在ったが、中身の札束は、既に誰かに持ち去られていた。 全く、泥棒に取られたトンマな泥棒とはこの事だ。 因みに、ポケットに入れてきたお金は2~3百円あり、小遣いになったが、数週間後、この五十銭札は、使用禁止になった。

内地送還
 中国共産党が勝利を収めた後は、八路軍の軍律も厳しくて、市内の治安も良くなり、日本人も落ち着いて生活し、避難してきた人々は、それぞれ市場で商売をしたり、日雇い労働者になったり、中国人の家庭に住み込んだりして暮らしていた。(同期生のK君は八路軍に入隊して、中国各地を転戦,重慶あたりまで行き、13年後の昭和33年に帰国した。)
 終戦後約1年が経った昭和21年7月、急遽内地送還命令が出て、技術引き継ぎのため残留することになった者を除き、荷物一人1箇のみを持って、無蓋貨車に乗せられ、いよいよ帰国することになった。
 この頃は気候も暑い真っ盛りで、無蓋貨車の上に掛けるテントも、用を足す便所の用意もなく、動く車上の片隅にバケツを置き、これに用を足していた。列車は、屡々途中で停車したが、何時発車するかもしれないため、うっかり下車して用でも足していたら、大地に取り残されることになる。
 数日後、小都市の避難民収容所に到着、畳や板張りもない屋根の下(土間だったと思う)のアンペラの上で過ごし、引き揚げ船が配船されるのを待った。

懐かしの故郷へ
 数日後、漸く引き揚げ船の手配が出来て、渤海湾に面したコロ島から米軍の上陸用舟艇(LST)に乗船、昭和21年8月9日、長崎県佐世保港に上陸した。
 埠頭に於いて、米軍MPの監視の下、頭から背中、また、持ってきた手荷物まで、真っ白になるほどDDTの消毒。
8月13日懐かしの故郷、熊本に帰郷した。
 
あ と が き
 振り返って見ると、この日は偶然にも終戦直前,東京城を撤退してから丁度一年が経っていた。
 この間、実際には無法状態の中で随分と危ない目にあったり、愉快な事もあったが、今はただ、少年のころの貴重な体験として、懐かしい思い出だけが残っている。
 ただ、戦後生まれの方には、この記録が、全く滑稽でお伽噺話のように聞こえるかもしれないが、これが約70年近く前の敗戦時まで、比較的物資も豊富で生活も豊かな暮らしをしてきた人達が、一瞬にして無一物の避難民となり、住むところも収入もなく、明日からの暮らしの糧を如何にして得ていくか、この人達の心理状態がどの様に変わっていったか、ご理解頂けるのではないでしょうか。

(了)

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