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    哀悼
 
  嶋田英一さんの逝去を悼む2017.7.7 掲載
 前川氏の追悼文(2016.11.28 掲載)
 永田敏さんを語る(2015.5.24 掲載)
 安室さんを偲んで(2013.1.27 掲載)
 亀田治さんご逝去に伴う皆さまからの追悼(2013.1.9 掲載)
 

樫村慶一  

 嶋田英一さんが急逝した。享年米寿、男としては長寿であった。文字通り急逝である。4月25日のk-unegt総会に出席した3日後の28日、晩飯に、普段と変わらずウイスキーの水割りを一杯飲んで、ご飯を食べて、彼は早寝のほうで、10時前には寝た。夜パソコンをやるので奥さんとは寝室を別にしていた。夜中になり2階からふらふらしながら降りてきて気分が悪いと言った。奥さんは、「どうしたの」と尋ねたが、その時はすでに呂律がまわらず、何を言っているか分からなかったと言う。寝ていて、脳出血を起こし嘔吐したのが後で分かった。すぐ救急車を呼び、埼玉医大病院に緊急入院したが、脳内出血は少量だが、頚椎に損傷が起きているということで、手の施しようがなかったと医者は言っていた。約1か月以上意識が半分ないまま、6月9日に眠るように亡くなった。以上は奥さんの話である。
 人間にとって理想的な死に方だったのかもしれない。苦しまず痛がらず、家族に世話をかけずであったという。総会の日は、今年初めて都内に出てくると言うので、池袋で一緒に昼食を取り、帰りも懇親会を失礼して池袋まで送った。例年の総会ではそこまでは付き合いわないのに、今年はなぜか、最初から最後まで付き合った。虫の知らせだったのかもしれない。嶋田君は、k-unetの創成期からのメンバーで、当初は世話人(今の運営委員)もやっており、日経新聞発行のパソコン専門誌の愛読者で、年寄りの中では一際パソコン知識の豊富な人であった。私は随分と助けられた。
 昭和24年、GHQの学制改革により、公務員養成機関であった各省付属の講習所が廃止されたため、通信の主管庁だった電気通信省は、それにかわる機関として電気通信学園を創った。間もなく新設された「国際電信業務科」の第2回生として入学して、福井の田舎から出てきた嶋田君と知りあった。まだお互い19か20歳の若造である。私が持っていた、玩具のようなカメラを物珍し気に見ていた、あどけない顔が今でも脳裏に残る。
 それ以降は、当時(昭和40年代前半)KDDが誇った最初の大型コンピュータシステムであるTASの建設で一緒になり、原始的言語であるアセンブラーを使ったプログラム作成作業では、1年先達である彼に随分と教えてもらった。西落合の同じ社宅に住み、家族同士の付き合いも深まり、やはり先達の岡田哲也氏に勧められて一緒にゴルフを始め、社宅に隣接していた広い空き地で、休みの日には両端に別れて、互いに打ちっ放す練習に励んだ。彼は、一般に言えることでもあるが、地方人特有の生真面目さと、ねばり強さと、面倒見の良さ、幅広い指導力を持つ貴重な人材であったと思う、総会の日の直前までパソコンのアドバイスをしてもらっていた。
 彼の死をk-unetの同報で知ったが、知った翌日埼玉県の坂戸の家を弔問した。会社の人は誰も来ないと言った。奥さんがまず私に電話したかったが、電話番号がわからず、駆け付けた息子さんが、友人リスト等を探すため彼のパソコンを開こうとしたが、パスワードが掛かっていてどうしても開けない、やむなく別のリストの友人に頼んで、k-unetに連絡してきたものと分かった。何はともあれ、嶋田英一君は私にとって、実に頼りになる心強い友人だった。同じように在職中世話になった宮沢文雄さんと3人で、時々は池袋で食事したことが、もはや遠い過去の思い出の一つになってしまった。宮沢さんも寝たきりの生活と聞く。歳の数は容赦なくのしかかり四肢の動きと脳の働きにプレッシャーをかけてくる。いつまでこの老化と言う敵と戦わなくてはならないのか。神のみが知ることである。いずれ余り遠くない日に同じ道をたどるけど、先に逝った友人として、どうか、仲間を見守っていてほしいと願う。我々はただただ先達のご冥福を祈るのみである。  
  南無阿弥陀仏
    (2017.7.7 七夕の日、記す)
 
     

沖縄時代の前川氏
(沖縄観光速報社の記事より)
同期の前川昌道さんの訃報に接し、驚いています。
私たち1961年KDD入社の同期は、しばらくは同期会をかなり頻繁に開いていて、情報交換をしていました。その後、それぞれいろいろな部門へ配属となり、会合も数年に1度となりました。同期の多数が集まったのは、確か、同期の川角さんがジュネーブに赴任する前の歓送会だったと思います。前川さんは、パキスタンに赴任、国際協力室に配属、マドリッド事務所長、KDD関連会社ニューヨークのテレコメット社役員、沖縄支社長等を歴任しました。沖縄では、現地新聞の編集者の追悼記事にある通り大いに活躍し、KDDの名をあげたようです。青い琉球ガラスの瓶に入った泡盛「海の道」というKDDブランドを考案し、売り出して話題になりました。同期では、大谷さんと榑松さんが54歳で退職、確か前川さんはその1年後に55歳で退職しました。そのころ、開催された同期会には、確か前川さんも出席し、当時は、沖縄にも支所のある医療法人関係のお仕事をしていると伺いました。「病気になったら、僕に連絡くれれば、日本で一番良い病院を紹介してあげるよ」とおっしゃり、名刺を呉れたのが印象に残っています。それから数年後に、同期会では前川さんのご住所、連絡先がわからなくなり音信不通になりました。同期会の皆で「どうしているのだろう」と、時々話していました。前川さんは、KDDマンの中でも、かなりユニークで、いわば自由人、またアイディアマン、チャレンジ精神が旺盛だったなあという印象です。この度、前川さんが、伊豆の自宅で、今年3月に他界なさったという報に接し、今頃はきっと千の風になって世界中を駆け巡り、神出鬼没で、どこかからヒョッコリあの笑顔で現れるのではないかという気がします。ご冥福をお祈りします。合掌 
  

昭和36年入社の同期会有志

 
 今年3月24日、フランス南東部の山岳地帯に墜落したジャーマンウィングス機の乗客名簿にk-unet会員の永田敏さんの名前がありました。墜落現場での身元確認がまだされておらず、その日から2ヵ月経つ今日まで彼はデュセルドルフの自宅に戻っていません。副操縦士が故意に機体を墜落させたという悲惨極まりない「事件」に巻き込まれことが、私達の悲痛な思いをさらに深めています。
 彼を知る親しい5人の方々に、彼について語っていただきましたので、ここに、深い悲しみをもって、掲載させていただきます。
2015年5月24日
k-unet運営委員会
【お詫び】
 本記事の掲載時に気付きませんでしたが、5月20日の報道によると、「3月24日にアルプス山中で墜落したジャーマンウィングス機の乗客乗員150人全員の遺体の身元を特定した」とのことです。例えば、
こちら をご覧ください。
 そこで、上記文中の「墜落現場での身元確認がまだされておらず」の部分を取消しますことをお詫び申し上げます。
 永田敏さんがお亡くなりになったことが確定し、改めて、彼のご冥福をお祈り申し上げます。

【続報】
去る8月21日に永田敏さんの葬儀が、ご家族により郷里の鳥取県琴浦町で密葬として行われました。
ドイツからもご家族が参列され、少しの遺骨を水葬と永田家のお墓へ納骨されたそうです。
あらためて、永田敏さんのご冥福を深くお祈りし、追悼の意を表します。
k-unet会員 原田建夫さんからの連絡により
2015年9月6日
k-unet運営委員会



永田さんを偲んで(昭和47年入社 松中直人)
 3月25日に、小川明義さんから、「突然ですが、先程、昨日墜落したドイツのLCC Germanwingsの搭乗者リストに永田敏さんの名前があるとの外務省見解をNHK TVで観ました。 茨城その他でいろいろ付き合いのあった永田さんだけに、どうか間違いであることを祈りたいです。何方か確認が取れましたらご連絡方宜しくお願いします。」とのメールが飛び込んできた。 慌てて、ネット等で航空機事故関連の情報収集を始めたところ、デュッセルドルフ在住で60代の永田敏さんは鳥取県出身であるとの情報が出てきた。
 永田さんと私は、山口衛星通信所で一緒に衛星通信用設備の保守や建設工事を担当したが、仕事以外に登山、スキー、駅伝、夜の飲み屋等を通じた付き合いが印象に残っている。 永田さんは、昭和44年にKDDに入社し、茨城衛星通信所勤務の後、海外青年協力隊に応募し、ザンビアに派遣された。私が永田さんと知り合ったのは、永田さんがザンビアから帰国して山口衛星通信所に配属されてからであった。
 永田さんとは、スキーで浜田の大佐山や大山スキー場に一緒に行き、鳥取の永田さんの実家に泊めてもらったこともあったので、鳥取県出身の永田さんというと間違いなかった。 永田さんは、先輩であったが、先輩風を吹かせること なく、当時の若手社員とともに、よく遊び、よく働いていた。 永田さんは、ザンビアに派遣されていた時に、ドイツから同じく海外青年協力隊員としてザンビアに派遣されていたドイツの女性と親しくなったとして、ドイツと連絡を取っていた。
 その後、私は本社の衛星伝送部に異動した後、永田さんがドイツ(デュッセルドルフ)駐在事務所員としてドイツに赴任することになったと聞いた。 永田さんがドイツ事務所に異動することになったのは、件の女性と結婚したためであることは後で知った次第である。 その後、私は、スイスやベルギーに出張した際、永田さんにケルンを案内してもらったり、ベルリンのお宅に宿泊させてもらったり、大変お世話になった。
 永田さんは一旦ご家族と共に日本に戻り山口、大阪での勤務を行った後、再度ドイツ勤務となり、その後、KDDを退職してドイツの現地雇用という形で、ドイツ定住に踏み切ったことを知った。 ドイツ定住後も、日本のご両親の見舞いのため、毎年日本に帰国するようになり、日本に帰ってくるころになると、永田さんから飲もうよとの連絡が入り、毎年飲み会をして近況報告をしてきたので、今年から永田さんと飲めないかと思うと、寂しさが募ってくる。
 今回の飛行機墜落事故は、その後、副操縦士が多数の乗客乗員を道連れに自殺を図ったことが明らかとなり、このような身勝手な男の行動によって、最愛の家族を残して不慮の最後を遂げざるを得なかった故人の無念を思うと、また、新たな憤りを禁ぜざるを得ない。

永田君を偲ぶ (昭和45年入社 関戸芳二)
  私は今、ドイツはアーヘンに来ています。 本来ならこの旅行の前後でデュッセルドルフの永田君を訪ねるつもりでしたが、果たせなくなりました。旅程の相談で連絡しようとしていた矢先にドイツ機の墜落事件に巻き込まれていたことがわかり、何も話せないままになって、とても理解できない憤りと悲しみで涙が止まりませんでした。
 永田君は私が1970年に新入社員で茨城通信所に赴任した時に一年先輩、人生では私が5年先輩で、タイプも人生観も同じくする同僚で遊び仲間の生活が始まりました。 会社でも寮でもいつでも一緒に走り回っていました。 そんな永田君に、私が「21才の時は日本に居なかった」と言ったら、「25才の時、俺は日本に居ない」と返して来ました。 ライバル宣言でした。 それ以来彼はアフリカに海外青年協力隊員で出かけ、ドイツ人の彼女を作り、ドイツに駐在し、ドイツに永住して定年後は世界を駆け巡り楽しむと豪語して実践して来ました。 
 私もドイツに留学して、アメリカに駐在、ロンドンで定年生活をしていますが、彼の足元に及びませんでした。 2000年にロンドンに来てからは、日本から離れている仲間として何かと連絡して、何回も行ったり来たりしましたが、食事の世話はいつも一方的で、日本食の手の込んだ料理を毎日食べさせてもらいました。 このところは参加登録に出遅れて果たせないでいましたが、9月にはベルリンマラソンを走る会でみんなを誘い、年に一回会える機会を作ってくれていました。
 私は昨年からはドイツのアマチュア無線の日本人組の旅行会に参加するようになって前後永田君を訪ねる機会を作り始めたところでした。 昨年はこの旅行の時には永田君は日本でしたが、そのあとで衣畑さんと一緒にロンドンに来たのが永田君と会う最後になりました。 定年生活は私が7年も先に初めていましたが、ライバルとしてはとっくに先を越されてしまいました。 インドやアフリカなど色々出かけていたようですが、これからはスペイン語を本格的にマスターするということで、スペインの語学研修仲間との楽しい写真がFacebookにアップされて、それが最後の写真になってしまいました。 彼にとっての時間はここでストップしています。
 遺されたクラウディアさんと3人の娘さんには何もしてあげることができません、ただただご冥福を祈ります。

永田 敏さんとの思い出(昭和45年入社 小川明義)
 Germanwingsの航空機事故のTVニュースを観ていた時、突然画面に現れたテロップで事故後初めて永田さんの氏名が報じられ、「えっ、まさか!」と一瞬絶句。 昨年9月に一時帰国した永田さんと大久さんや衣畑さん共ども飲食を一緒して、今春の再会を約したことが昨日今日のように思われ俄かには全く信じられなかった。 「何かの間違いでは?」と次いで頭を過ぎった思いは、その後の報道等によって新たな状況が判るに従って日々徐々に徐々に薄らぎはしたものの今なお消え去ってはいない。 
 私は永田さんと仕事の上や職場で一緒になった事はない。 しかし、入社直後から茨城衛星通信所に頻繁に出張して電波伝搬実験をしていた時に(私と同期で同通信所勤務だった)関戸君の仲立ちで我々より1年先輩で通信所勤務の永田さんを知ることができた。 そして、直ぐに気心の知れた仲となった。 私が実験を終えた夕刻、社宅へ降りる通信所の通勤バスに便乗させて貰った車内で永田さんと会うと「どう、今晩?」と何方からともなく夕食後の約束を交わし、何時も決まった店で会って楽しく飲み交わしたことが何度もあった。 また、夜を徹して伝搬実験をする際には、私が作業をしている7mアンテナサイトとは少し離れた局舎から日勤を終えた永田さんが自転車に乗って訪ねて来て暫くのあいだ実験に付き合ってくれることもしばしばだった。 こんな極めて親しい付き合いは彼が転勤で茨城を離れるまでの数年間続いた。 さらに、永田さんが山口衛星通信所に勤務していた時も、私が山口に出張するたびに茨城時代同様の楽しい交流を重ねた。 勿論、その後も機会ある毎に・・・。 そんな彼との懐かしい思い出の中には何処までも人懐っこい彼の笑顔が常に収まっている。
 生来の誰に対しても親切で且つ大らかな人柄から、永田さんには社内外に大変幅広い人脈があった。 そんな彼に永く付き合って貰った一人として、今回の事故遭遇は何としても残念極まりない。 

同期入社の永田敏さんを語る (昭和44年入社 齊藤秀樹)
 信じ難い悲報を同期からのメールで知り、搭乗者に2名の日本人との報道は耳にしていたが、まさかその一名が彼とは、言葉を失う。 安否確証未だ不明の由、三人の聡明なお嬢様はじめご遺族のご心情如何ばかりかと心が痛みます。 只々無念、哀しき哉、悲しき哉、大らかな彼の笑顔が目に浮かぶ。 彼は44年技術系入社、業務・電話系同期の想い・感謝を織り込み彼を語ることとしたい。
 「新入社員紹介」に以下の言葉を記している。 素直な自己分析で、今読み返せばその信条通りの生き方を遺したように思う。
 1)我が道を行く。 あらゆる行動に対して自己を殺さぬ生き方を
 2)非凡を愛し、平凡に徹する
 3)趣味:放浪、スポーツ 愛読書:北杜夫
彼の配属先は茨城衛星通信所、赴任まで世田谷寮で同じ屋根の下。 私は研究所、当初は実験でほぼ茨城駐在、彼の独身寮に転がり込み飲み語ったことを思い出す。 彼は酒が強く私は弱く先に寝てしまう。 結婚してからも田無の社宅にひょっこり現われたり、山口では出張時社宅に呼ばれドイツ人の奥様(海外青年協力隊で知り合った)と3人で談笑したことも浮かんでくる。 彼は同期では若いグループで皆から愛され、特に長老組、電話局の女性陣から可愛がられていた。 奥様の母国、ドイツ現法との関わりから長くドイツ在住で、帰国時にはタイトな飲み会のスケジュールを縫って集いが開かれた。 私も何度か参加させてもらったが独特な話ぶりと屈託のない笑顔が思い出され心が痛む。 この4月にも帰国、会が開かれる予定であったと聞き悲しみを誘う。 因みに報道された彼の写真の笑顔の写真は昨年若い同期3人組で新宿の飲み屋で撮ったスナップとのこと。同期には海外出張時や、退職後EU諸国を仲間や家族で旅した際に素晴らしいおもてなしを受け突然の悲報にショックを受けている人が多くいる。 以下は旅でお世話になった電話局同期の感謝の言葉:
 ① 面倒見がよく、困った人がいたら見過ごせない優しい人、旅のエスコートから手料理のおもてなし、
   気配り万全で「お嫁さんに欲しいひと」
 ② 向学心、好奇心旺盛。スペイン語学習、南米へ一か月一人旅・登山謳歌。 筆まめで記憶力抜群、
   ユーモア溢れる紀行メールにいつも感銘
 思い出は悲しみ・苦しみを伴う。 屈託のない笑顔とともに多くの人の心に彼はあり続け、それを「思い出寿命」というと聞いたことがある。 一期一会の大切さ、しっかりやれよと諭されている気もする。 想いの侭に我が道を貫いた彼の「生き方」に敬服、安かなれと献杯し文を終える。 

永田敏君を想う (昭和42年入社 衣畑晃治)
 永田君との出会いは1969年、茨城衛星通信所建設の最なかであった。 私は入社2年目、彼は入社後すぐに通信所に配属されたばかり。 アンテナ設備は三菱電機が、通信設備はNECが担当しており、我々は大久正壽さんの現場指揮のもと、通信設備の現地検収のための試験データの収録に大わらわであった。 昼夜を問わずの突貫作業であったが、日本初の商用通信所の完成に向けて皆燃えていた。 ユニークな新入社員関戸さんも居て、よく働き、よく飲んだ。 さる飲み屋には鄙に稀な楚々たる美人が居て、永田君のロマンスが生まれかけた・・・とか。 そういえば、大久さんの未来の奥さん、ミス高萩、に会ったのもこの頃である。
 下って数年、彼が海外青年協力隊から帰任の直後、赴任先ザンビアで知り合った奥さんクラウディアさんを伴って山口勤務に就いた頃、社宅の畳部屋でキャンドルのもとドイツ料理をご馳走になったのも忘れられない。
1980年であったか、イタリアのジェノバで開かれたディジサット会議の前にデュッセルドルフ事務所員として彼の地にいた彼を訪ね、ケルンの大聖堂などを案内してもらった。 アイスバインとコールスローを知ったのはこの時。 その後1984年、デュッセルドルフから突然彼が当時インテルサットにいた私を訪ねてきた。 仕事のストレスが溜まって息抜きに来たとのこと、事務所に勤務していた関戸さんと3人で旧交を暖めることができた。
 最大そして最後の思い出は、去年、ドイツ、イギリスの旅をしたことである。 5月20日から28日までドイツ、続いて6月2日までロンドンに滞在した。 すべて永田君がアレンジし、ガイド、運転手を兼任してくれた。絶好の観光シーズン、南ドイツ、ババリア地方は晴天続きでアウトバーン沿いの絵のような牧場を走り抜け、点在する街、教会、城を巡る。 ニュールンベルグから始まり、ヴァルハラ神殿、レーゲンスブルク旧市街などを巡り、ミュンヘンを目指す。 ここで私はインテルサットでの元同僚Dr.ボーネマンと30年ぶりに再会、永田君はたちまち打ち解けて旧知の間柄に。
そしてDr. ボーネマンの自宅を訪問し、ドイツ流の引退生活を垣間見る。 整頓された居室、完璧に片付いたキッチン、流石である。Dr.ボーネマンと別れ、旅を続ける。 シュバンガウ、シュタインガルテンなどを経てオーストリアにまたがるロープウエイで国境を俯瞰する。 再びババリアに戻り、人気のロマンティック街道に入り、城や教会を訪ねる。 ローテンブルグで日本人画家が営む画廊でその画家作の水彩画を買い、ハイデルブルグでは多くの階段に閉口しながら古き良き時代を想い、リューデスハイムからのライン河下りではローレライの岩を見あげる。 永田君は自分の兄弟や母校、職場の友人を案内して10回以上このコースを辿ったそうだ。
5月29日、永田君と関戸さんの待つロンドンに向かう。 ヒースロー空港には関戸さんが迎えに来てくれていた。 永田君は関戸さんと会うのは3年振りという。 彼の家では数人の日本人が下宿していて、晩には永田君の手料理とワインで賑やかに過ごす。 続く3日間、大英博物館、市民大学の沖縄グループのエイサー踊り、ドッグショー、ローズガーデン、シティ界隈などの散策を楽しんだ。 6月3日、羽田に帰着。
45年に亘る永田敏君の想い出をざっと振り返ってみた。  大久さんの言う" 我らが永田くん"を失った悲しみは大きい。
デュッセルドルフの自宅での永田君

<デュッセルドルフの永田君の家にて>

ニュールンベルグ郊外のビアガーデンで

<ニュールンベルグ郊外のビアガーデンで>

永田君宅の書斎

<永田君宅の書斎>

Dr.ボーネマンとババリア地方民族衣装のウエイトレス

<Dr.ボーネマンとババリア地方
民族衣装のウエイトレス>

(上掲の写真4葉は衣畑晃治さん提供)


「永田さんを語る会」の開催
 去る5月1日、衣畑さんの発案で永田さんを良く知る10人が集まって「永田さんを語る会」を開きました。
最初は「永田さんを偲ぶ会」としていたのですが、集まった皆さん総てが「未だに信じられない」との思いが強く、「偲ぶ会」改め「語る会」と呼び直しました。 全員が永田さんとの懐かしい思い出やエピソードを順次入れ替わって語り、彼の人柄を想い心より讃しました。 
 なお、元山口衛星通信所で永田さんの上司であった高倉典之さんからは山口の銘酒「獺祭」をわざわざ送って頂き永田さんを想いつつ皆で美味しく頂きました。 彼を暖かく想う気持ちを遠方から届けて頂き、ありがとうございました。(小川明義記)

「永田さんを語る会」参加の皆さん
(左から 衣畑、巻田、大久、來山、関戸、斎藤、望月、湯口、小川、原田(敬称略))


 
 

矢部 靜樹さん    
 昨年11月4日、沖縄勤務中、公私にわたり、昼夜共にお世話になった安室 正美(77歳 )さんが亡くなられた。沖縄の仲間に電話をすると安室さんの息子さんが2ヶ月ほど前に居酒屋を開店した、1月にはKDD沖縄会の新年会がある、とのこと。沖縄行きを決めた。 1月18日『美食酒楽 あむろ』で昔の仲間たちと安室聡さん夫妻の手料理で故人を偲んだ。店はゆいレール那覇空港から3つ目の奥武山(おうのやま)公園駅から5分ほどの住宅街にある。泡盛が飲みたくなるような落ち着いた雰囲気。安室さんをご存知の方には写真を見ていただければお分かりかと思うが、偲ぶ必要は無いほど、聡さんは父親にそっくり。沖縄美人の奥様と2人でしっかり店をやっている。安室さんも草葉の陰で目を細めているだろう。 1月21日、新年会後の2次会では上原さんが“今夜は安室がここに居る”と言ってテーブルの中央に置いた泡盛のグラスを囲んで、皆で安室さんの好きだった“五番街のマリーへ”を歌った。 東京に戻る前、美ら海水族館でジンベイザメを見たのちに登った八重岳は彼岸桜が満開だった。
 『美食酒楽 あむろ』那覇市鏡原町8-7  tel:098(859)1876


  
     左奥から 知念、上原、玉代勢                                安室聡ご夫妻と筆者夫婦    
     右手前から 筆者、高安、安室聡 (敬称略)
 
織間政美さん
私の記憶では、亀田さんは、NTTの通信研究所で同軸ケーブルの研究をされていましたがKDDが海底ケーブルの建設計画を推進するための人材の不足から、NTTに要請して移籍された方たちの一人で、移籍後KDDのすべての同軸海底ケーブル建設、保守に寄与されて、KDDの発展に貢献された方です。昭和57年には、海底線建設本部海底線部長をされていました。

石川恭久さん
亀田さんの訃報拝受しました。
大先輩が櫛の歯を引くように居られなくなってしまうこの頃です。 
 『1961年(昭和36年)の夏に、TPCプロジェクトの応援要員としてNTTから、有線伝送技術のエキスパートとして当時の海底線建設部の調査役で入社されました。その後二宮海底線中継所長等を経て、KDD研究所に移られたのは、同軸ケーブルの建設が一渡り終わって、研究所で光ファイバーの海底ケーブルの開発が始まった頃かと思います』。

小関康雄さん
亀田 治さんのご逝去、慎んでお悔やみ申し上げます。
グアム・二ノ宮間の第一太平洋海底同軸ケーブルの建設の為、当時の電電公社から移ってこられ、初代の二宮海底ケーブル陸揚局所長を勤められました。
海底ケーブルに付いてはKDDでの第一人者です。
また、Contract Bridge Gameの分野で、KDDにContract Bridge を普及させた第一人者でもあります。JCBL:Japan Contract Bidge Leagueのメンバーでもあります。
中央高速道路の無い頃、私も一度、亀田さんのお供で車で、諏訪湖の電電公社のクラブ鵞湖荘まで、Bridgeの試合を泊り掛けで行った記憶があります。
個人的にも親しくさせて頂きました。ご自宅にも何度かお伺いしました。
亀田さんのお人柄は穏やかな何時も笑みを絶やさない、おっとりとした方でした。
海底線関係の方は、皆さん好くご存知と思います。
ご冥福をお祈り致します。

佐藤 敏雄さん
亀田さんの訃報に接し、心からのお悔やみを申し上げます。
NTTからKDDに転籍され、当時手薄だった海底ケーブルの開発に大きな業績をあげられました。会員の中には多くの知己がおられると思います。
コントラクトブリッジを教えて頂いたり、厳しくも楽しい方でした。


 


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