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大竹忠一さんの投稿

終戦前後の私

ふと気が付けば86歳 光陰矢のごとし 

昭和18年3月26日逓信省に採用され国際電話調整所(通称ボーダス)に勤務した、国際電話と申しましても太平洋戦争の為相手局は極めて少なく同盟国であったドイツのベルリン、イタリヤのローマ 中立国スイスのベルン、日本と友好関係にあった南米のブエノスアイレスぐらいで、あとは日本の勢力下にあった新京、上海、台北、昭南島(現シンガポール)、パラオ、マッカサルでした。

戦局は日本の敗色が一段と濃くなり職場の先輩も一人又一人と出征していった。

昭和20年7月初め、私にも命令下った。陸軍参謀本部通信隊軍属という肩書で新潟県佐渡郡相川気象観測所に赴任した(佐渡と新潟間の無線電話建設工事)。8月10日新潟へ戻れとの命令があったが船が無く新潟港に着いたのは8月14日夕方でした。港には日本の駆逐艦3隻が停泊していた。これを見ていた人々は「日本はまだまだ負けんぞ」と叫んでいたが、翌15日正午に日本は連合軍に無条件降伏した。

この報で体中の力が抜けたようになり、何もする気がしなかった。

昭和21年4月頃進駐軍の要請によりマッカーサー司令部のルーフ・ラジオ・ステイションで働くことになった。条件は当時の月給と同額の進駐軍手当が付いた。その他休暇は日曜日とクリスマス半日で正月は1月元旦1日だけ、仕事の内容はVHF通信機器の保守運用でした。

約1年半の勤務を終えボーダスに復帰した。

 


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