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   衛星通信実験50周年記念投稿

 

宇宙中継50周年
佐藤 敏雄  
2013年11月17日  
(1)当時は短波全盛
 1956年(昭和 31年)、卒業と同時にKDDに入社した。プロパー第3期生である。同期には、後に副社長となった小林好平、野坂邦史の両君がいた。苦労したお二人、残念ながら共に早世した。最初に配属されたのが八俣送信所。輪番に入り、先輩の指導で夜食には洗面器でうどんを煮て食べたものだ。当時最新鋭の100kW短波送信機を用いてNHKの国際放送を行うと共に、大半の国際電話を送信していた。八俣からの北米回線は僅か6回線に過ぎなかった。1958年に研究所の電波課に転勤し、宮憲一博士のご指導の下、アンテナの研究に携わった。
 1957年初めてソ連が人工衛星スプートニクの打ち上げに成功した。米国もすぐに追い付き、1961年にはAT&Tベル電話研究所が通信衛星テルスターを打ち上げ、更にNASAがリレー衛星を打ち上げて、通信の本命として衛星が注目を集めるようになった。KDDでは早くも1961年には衛星通信の重要性に着目し地球局の建設を開始した。
 初めての海外出張を命じられたのがこの頃である。新川さん、三宅さん、榎本さん、室井さんのお供をして、ワシントンにおけるCCIR SG-4(注)の第1回会合に出席した後、米国の宇宙通信技術を調査することとなった。このSG-4は、記念すべき第1回会合ということで、開会式ではジョンソン副大統領の基調演説があったのだが、彼の南部訛り?のせいか?全く理解出来なかった恥ずかしい記憶がある。
  (注)CCIR(国際無線通信委員会)
     SG-4(第4研究委員会)は固定衛星業務を担当する 

 会議終了後、全員でメーン州にあるAT&Tベル研究所のアンドーバー地球局やカリフォルニアのジェット推進研究所(NASA)の地球局等を訪問した。


(2)第1号アンテナと宇宙中継
 当時KDDはマイクロ波の経験も少なく、初めての宇宙通信用としてどのようなアンテナを作るかが問題であった。各種文献や見学調査の結果などを参照し、カセグレン型という2枚の反射鏡を持つ直径20mのパラボラアンテナを採用したのであるが、これが後に世界の主流になるとは予想だにできなかった。ベル研ではレドームに覆われた巨大なホーンリフレクターを建設し、英国は風でびくともしないように強度を増した重量級の1枚反射鏡のパラボラを使っていたのである。
 
 私は当初6mの追尾アンテナを担当したが、間もなくこの20mアンテナの建設と運用を担当する事となった。組み上がったアンテナに厚い布製のレドームをかぶせる作業は困難を極めた。深夜、煌々と照らされた照明の下、中々いうことを聞かない30mのレドームを、三菱電機 森川係長の大音声の指揮でやっと膨らませることができた。
 施設が完成し、1963年11月23日、初めての太平洋横断テレビ中継デモンストレーションが行われた。その第2周目に送られてきたのがあのケネデイ大統領暗殺のニュースであった。リレー衛星が地上から見える時間はたかだか20分。巨大なアンテナが高速で衛星を追いかけなければならない。 ところがこのアンテナは油圧駆動装置に難があり、しばしば故障していた。中継途中でアンテナが停止しては大問題である。担当の私はアンテナ真下の制御室にこもり、アンテナの動きを示すメーターを必死に追い続け、少しでも異常があればいつでも手動に切り替えられる体制をとっていた。テレビモニターなどもなく、あの感動的な瞬間は、イヤホンから漏れてくる管制室でのやり取りに耳を澄ますだけであった。その時の実況は、本特集で、横井さんや小野さん達が書いておられるのでそちらにお任せするとしよう。
 海の彼方で今起っていることがそのまま鮮明に見られるという異様なカルチャーショック。これがその後の私の衛星人生を決めたといっても過言ではない。


(3)問題の連続
 このような技術開発には常に難問が付きまとうが、この宇宙通信も例外ではなかった。先ず最初の洗礼は、翌1964年春のこと。強烈な北西の季節風でレドームが吹き飛んでしまった。列車に飛び乗って高萩に急行し、取り敢えず雨仕舞をして実験を継続したが、このアンテナの電気的性能にはもっと大きな本質的な問題が潜んでいた。
 大統領暗殺という衝撃的な事件を伝えることができ、この実験は表向きには大成功ということになったのだが、その後の数多くの検証試験の結果、どうしても衛星からの電波受信強度が足らないのである。
 当時アンテナの性能(利得)測定は、約 5km 離れた石尊山の上から試験電波を発射し、受信される電波強度を基に計算で求められていた。石尊山で作業中、雲行きが怪しくなりついに鉄塔に落雷。トランシーバで、「落ちたァ!」と喚いたのだが、後で聞くと、地上では、「電話でしゃべったのだから生きてるんだろう」とつれない話だったとか。
 電波の性質から、直径20mのアンテナで必要な測定距離は20km 以上ということが理論的に分かってはいたが、それではアンテナの仰角が3度と低くなり過ぎ、地面からの反射波やフェージングの影響が無視できない。そのため、5kmでの測定データを理論的に補正して利用していたのである。絶対的な利得測定法を見出すことが急務であった。

(4)星を見つめて(S&S 38号参照)
 そこで考えられたのが当時漸く注目されてきた天体電波源(電波星)の利用である。星は無限の彼方に存在するから距離の問題はない。また高い仰角で観測できる利点がある。
 
 世界中の天文学者が、色々な電波星について、色々な周波数で精密に測定した放射密度が天文学会で公表されていた。宇宙通信で使用する4/6GHz 帯で最も強い電波を出している電波星は、カシオペア座にある超新星の燃え残りのガス雲で、カシオペアA (Cas-A) と呼ばれている。
 次が牡牛座にある「かに星雲」(Tau-A)。これは超新星爆発の名残で、後冷泉天皇の時代(1054年)に強烈な光を放つ星が現れたと、藤原定家が明月記に記載している珍しい「星」である。電波的には、この星は他と異なり、直線偏波を放射しているという特徴がある。一方白鳥座にあるCyg-Aは図のように極めて狭い範囲に波源が2箇所ある理想的な電波源なのだが、電波強度が弱くて、観測対象には不向きである。
 Cas-Aの電波が強いと言っても極めて微弱な雑音である。横井さん達による高感度ラジオメーターの開発も進められ、これを使って連日、徹夜で悪戦苦闘の結果、この第1号アンテナの利得は設計値より2dB(30%)程低いというとんでもないことが判明した。
 結論から言えば、メーカーの設計自体が間違っていて、謂わばピンボケの状態で使われていたのである。この推論を実証するためアンテナを天頂に向け、一次放射器である大きな円錐ホーンを上下に動かしては、電波星の電波を受信し、最も強く受かる位置を探すという、泥臭い実験が続けられた。折しもクリスマスイブ。寒空に凍えながら、文字通り星を見つめながらの作業が続けられた。幸いこの実験は大成功。真の焦点はホーンの中ほどにあるという我々の推論の正しいことが実証され、ホーンの設置位置を変更してこのアンテナは理論通りの性能を発揮することができるようになった。20mアンテナにより国際電話サービスが始まったのは、このすぐ後の事である。

(5)衛星搭載アンテナの研究
 以上のような経緯から円錐ホーンアンテナの性質を徹底的に調べる研究を開始し、やがて画期的な衛星搭載用の誘電体装荷円錐ホーンが誕生したのだが、その詳細はS&S 46号に詳しく述べてある。
 この研究が一段落する頃、命じられてワシントンのコムサット研究所に勤務することとなった。そこで発表した私の研究成果の一部に目敏く着目したのが米国の衛星メーカー、ヒューズエアクラフト社である。このアンテナはヒューズの提案するインテルサットIV-A衛星2基に搭載され、全世界の地球局の交差偏波特性の測定に利用された。更にその後、同VI号衛星6基(左写真赤矢印)にも搭載され、長く国際テレビ中継などに利用されてきた。
 その後、宇宙飛行士が衛星を捕まえて修理した(右上写真)ことが話題となったが、捕まえてくれたあの衛星に私のアンテナが乗っていたのである。

(6)IEEEマイルストーン登録
 2009年11月、元KDD茨城衛星通信所が、IEEEのマイルストーンに認定され、2009年11月23日、高萩市において贈呈式が行われ、IEEE本部から小野寺社長(当時)にマイルストーン銘板が贈呈された。この認定は、1963年のKDD茨城宇宙通信実験所における初の太平洋横断テレビ中継と、その後の技術的な貢献に対するものである。(S&S番外参照)

(7)語り部として

 2005年11月、KDDI経由、NHKより依頼があり、プロジェクトXに出演の機会をいただいた。キャスターの膳場貴子さんが美しかった。
 また2007年には産経新聞から、茨城と山口の統合についての取材があった。いずれもKDD関係者全員の問題であり、私などはとてもと固辞したのであるが、誰かが語り継いでいく必要があるのだろうと、お引き受けした次第。
 

(8)おわりに

 諸先輩の温かなご指導を受け、多くの同僚の協力のお蔭で、幸運な楽しい衛星人生を過ごすことができた。セレンデピティの賜物と言ったら言い過ぎだろうか。これまで殆ど部外に出たことのない当時の写真などをご覧いただき、往時を回想して頂けたら幸いである。

以上  



 


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