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   衛星通信実験50周年記念投稿

 

衛星通信実験50周年記念に寄せて

横井 寛  

 衛星通信の実験時代、地球局アンテナとしていかなる形式のものが最適であるかは未定で、米国ではホーンリフレクタアンテナが、フランスはこれを輸入、英国はバラボラアンテナ、そして日本ではカセグレンアンテナが製作された。これらは何れも口径が20m程度の大アンテナである。
 カセグレン型はホーン型よりも小型で、またパラボラ型よりも給電導波管を短くできるので、その分雑音の影響を小さくできると考えられたのだが、まだ新しいアンテナで未知の要素もたくさん残されていた。
KDDのアンテナは三菱電機が製作し、われわれはこの利得、指向性ならびに雑音温度などの特性測定を行うことになったが、まずその測定器から考えなければならなかった。結局、ラジオメーターという機器に幾つかの改良を加えて対応したが、満足な性能を出すのに随分と苦労をした。
 ここでの測定はアンテナ設置場所から5,5㎞離れた石尊山という山に疑似衛星を置き、この電波を受信する形で行われた。
 指向性と雑音温度については、ほぼ当初に予想した数値が得られたが、利得については送受とも設計値よりやや低い値であった、しかし衛星実験が迫っていたのでそのままとされたが、後になって問題となり、その改良が加えられていく。
 なお当初のアンテナは、レードームと呼ばれる球形のドームに収められていた。
 局全体でみると、まず追尾装置(アンテナ口径6m)が6月に完成して、7月7日、テルスター2号からのビーコン電波を捉えることに成功し、その追尾を行った、その他の装置も9月までには整備され、何度かの実験も行った後、昭和38年(1963)11月20日に茨城宇宙通信実験所として開所された。そして衛星利用で米国からのテレビを受信する公開実験はそれからわずか3日後に行われたのである。
KDDは当初、テルスターを対象に考えていたのであるが、この時期、軌道の関係でテルスター2号は利用できず、NASAのリレー衛星を用いることとなった。衛星からの電波は両者ともに4GHzであったので米国からの電波を衛星経由で受信するだけの実験となった。
 23日(祝日)の朝、実験所にはテント村ができ、100名近い報道陣が詰めかけていた。彼等は敷地のほぼ中央にある管制塔で実験を見守り、アンテナおよび送受信の担当者はそれぞれレードームの中にいた。
 午前5時57分、第1回の電波が米国西海岸からリレー1号を通して日本に送られてきた。受信は見事に成功、しかし、当初予定されていたケネディ大統領からのメッセージは流されず、事前のテストでも使用されていたモハビ砂漠をバックにしたパラボラアンテナとサボテンの映像が映し出されるのみであった。日米双方から衛星が見えるのは僅か20分18秒の放送であったが、世紀の実験としてはいかにも物足りない内容であった。
 ところが、その2時間半後の第2回実験で送られてきたのは、当時ニュヨークに駐在していた毎日放送の前田特派員による
「日本の皆様、この歴史的電波に乗せて、まことに悲しむべきニュースをお伝えしなければなりません・・」
の沈痛なアナウンスに始まる“ケネディ大統領暗殺“というあまりにも衝撃的な大ニュースであった。

 この日米初の公開宇宙通信テレビ実験はその思いがけない内容によって、宇宙通信の有用性を日本中の人々に強く印象づけることになった。
 後でわかったことであるが、事件の発生後、米国側からの電話で
「亡くなった大統領のメッセージを送ることはできないが、どうしたものか?」
と相談があり、当時のKDD研究所次長であった新川浩さん(後のKDD常務取締役)が
「ではそのニュースを送ってほしい」
と対応されたということである。
 偶然にしても、悲しい宇宙通信の幕開けであった。しかし、この実験成功が翌年の東京オリンピックにおける初めての衛星によるテレビ中継につながったのである。
 余談になるが、この実験が終わって常宿としていた山岩旅館へ帰った時、尾頭付きの赤飯がみんなに用意されていたのに感激した。女将の温かい気持ちが嬉しかった。



 


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