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不死鳥物語 第16話 前編


第16話
-前編―

<<幻の霞が関時代 ~KDD試練の歴史を見る~>>

遠藤榮造    
 
 k-unet掲載の「KDD発足60周年記念」投稿の中に、久保勝一さんのKDD業績年表を発見、興味深く拝見した。その「KDD事業所一覧表」によると、KDD本社が一時期「霞が関ビル」に移ったことが記録されている。つまり、1968年(昭和43年)5月の組織改正と共に本社部門が、KDD大手町ビルから新築早々の「霞が関ビル」に引っ越している。そして1974年6月に新宿副都心に完成した「国際通信センター(KDD新宿ビル)」に落ち着くまでの凡そ6年間のKDD本社の霞が関仮住まいであった。 
  因みに、霞が関ビルは当時、日本初の柔構造免震方式の超高層ビルとして知られ、1968年4月オープンの36階建。霞が関官庁街の西端に位置し、南東方向に虎の門から新橋方面の繁華街を俯瞰、当時は周囲を圧する景観であった。その後は40階超の超高層ビル群が各地に林立。最近では、更に巨大な超高層ビル(都心の六本木ヒルズ・渋谷ヒカリエ・虎の門ヒルズ等々)のオープンが続いている。
  さて、ご想像のとおり、KDD本社の霞が関への移転は、当時の急速な「広帯域通信施設」の拡張に対処するため、大手町局舎の関門局にスペースを確保する必要があったからである。つまり、幻のような6年間の本社霞が関仮住まいは、KDD半世紀の歴史を方向付けた広帯域通信事業の拡充と、その象徴としての国際通信センター(新宿ビル)の建設を成し遂げた要(かなめ)の時期であったと云える。以下に当時の事情・経過等を概観してみたい。
 

◆KDD設立時の状況は先刻ご存知の通りだが、設立直前の1952年には歴史的なサンフランシスコ講和条約が成立。日本は敗戦国から平和・文化国家として名実ともに独立、国際社会での活動を本格化した。資源の少ない日本としては貿易立国を標榜、その情報通信の脈絡を担ってKDDは1953年4月に誕生をみている。
 KDD設立趣意書(KDD設立委員会-1953年1月)によれば、KDDは民営企業として国際通信の設備・運用を一体的に経営するものとし、通信サービスを先進国の水準において提供することを早期に具現する・・・・・と謳っている。即ち、日本の電気通信事業は創始以来、政府の専掌としてきたが、戦後は国内通信をNTT公社により、また国際通信をKDD株式会社により提供する、と云う経営形態の一大転換が行われ、欧米先進国水準のサービスを目指したのである。
 因みに、KDDが担当した国際通信では、昔から対外通信施設を民間企業が建設保守して政府が運営した例は少なくない。例えば、明治初期以来、大北電信会社(デンマーク)により敷設運用されてきた日本海海底電信ケーブルをはじめ、その後の無線施設等の建設保守は、日本無線電信会社、国際電話会社、国際電気通信会社など戦前の国策民営会社により提供され、通信サービス自体は一貫して政府(逓信省など)事業として運営されてきた。戦後は、民営方式の優れた前例も採りいれて、通信事業を総体的に民営化した訳だ。
 勿論、国際通信事業における相手国側の経営形態は、国営・民営等様々であることは周知の通りで、問題は技術革新など世界的な潮流への逸早い対応能力が問われるところ。日本は身軽な民営形態を選択し、機動的な運営を目指した訳である。

◆さて冒頭に、KDD本社の霞が関への移転が広帯域通信事業展開の要であったと述べたが、当時開発された広帯域システムへの対応は、まさに民営として立ち上がったKDDの真価が問われる事態であったと云えよう。当時の経過を振り返えれば・・・・・。
 先ずは、広帯域システムとして大陸間を結ぶ海底同軸ケーブルの開発実用化が挙げられる。その開発は、先の大戦中に米英間の共同研究(米ベル研・英BPO)により進展していたが、新型ケーブルの特徴は、ケーブル被覆材にポリエチレン(1933年英化学企業開発)を導入、また海底ケーブルの一定区間ごとに中継器を埋め込むと云うもので、ケーブルシステムの耐久性・伝送品質・広帯域化において革新を遂げた。KDD発足の1950年代初めには既に実用化を迎えていたが、当時のKDD首脳部は情勢を把握し活用する段階にはなかった訳だ。
 つまり、1953年のKDD発足当初(本社:丸の内三菱21号館)は、当然ながら事業体制の整備が中心課題で、まずはNTT中央局(東京・大阪)に同居していた国際電信局・電話局の関門局施設を独自の局舎に収容すべくKDD東京局舎(大手町ビル)を突貫工事により1955年7月に完成。次いで大阪局舎(KDD備後町ビル)も翌年9月に完成して、東京本社・大阪支社などの管理部門も含めて、それぞれを総合局舎として整備した。
 これら新設の関門局は、当時の対外無線回線に対応したもので、例えば大手町ビルは、その後20年にわたり大規模な増改築等を必要としない余裕の目論見であったと云われる。
 ところが、前出の欧米間における新型海底同軸ケーブルの実用化、つまり大西洋横断海底同軸ケーブル(TAT-1)の登場(1953年)以来、主要国間に海底同軸ケーブル網の敷設が相次ぎ、安定した電話サービスの進展・ニーズの多様化と共に需要の急拡大を見るに至った。
 遅れを取ったKDDも急遽、米AT&Tの協力・支援を得て、太平洋横断電話ケーブル(TPC-1)の建設に取り組み、欧米に遅れること10年、1964年に漸くTPC-1の完成を見ている。
 引き続きKDDは、先行していた英連邦世界一周同軸ケーブル網(COMPAC・SEACOM)やその後の米比共同のグアム・フィリピン同軸ケーブル等とTPCとの相互接続を図って逸早く世界の新型ケーブル網に参加し、サービスの改革を進めた。
 また日本を取り巻く同軸ケーブル網の建設・整備も促進、例えば、日中ケーブル・東南亜ケーブル・日本海ケーブル等々も相次いで敷設、波及的な関連事業を含めてKDDは新型ケーブル・ブームを迎えていた。
 かくして1960年代後半から70年代かけて、我が国の国際通信環境は革新的に進化し、短波無線時代の面影を一新した。なお、その後のケーブル網は更なる技術革新により、光ファイバー方式への転換やデジタル伝送の進展により高速大容量通信網時代を迎えていることは周知のとおりである。
 このように新型海底ケーブルの成功的展開が、技術発展の賜ものであることは論を待たないが、一方で、経営的視点からも特筆される改革を挙げることができよう。
 つまり無線通信網時代の、所謂「50:50主義」が新型ケーブルの建設・運営上の概念として引き継がれたことである。それは建設・保守のコストを使用回線数に応じて折半分担し、通信収入も折半すると云うもので、新たな法的概念として「破棄しえない使用権(Indefeasible Rights Of User=IRU)」が国際的に導入・普及したことである。
 例えば、通信事業者が新型ケーブルの回線を利用する場合には、そのIRU使用権を取得し、使用回線数に相当するケーブルの建設・保守費等を分担する。いわばIRUは、所有権に近い使用権とされ、譲渡はできるが一方的に破棄はできないと云うもの。このような民主的(平等・透明)な概念による運営方式により、新型ケーブル網が国際間で発展的に拡大したと評価される。勿論、今日では多様な権利形態に進んでいることも周知のとおり。

◆上記新型海底ケーブル網の展開を追う形で、衛星通信システムの導入が進行したことも周知のとおり。つまり、戦後の東西冷戦下における米ソ宇宙開発競争の一環として、衛星システムによるグローバル通信網構想が米国を中心に具体化した。1964年には「世界商業衛星通信組織(インテルサット)」が取り敢えず暫定制度として創設され、早くも翌1965年には最初の通信衛星アーリーバード(Ⅰ型・F1)を大西洋上空に配置。太平洋上空には1966年10月にⅡ型・F1衛星の配置を計画したが、打ち上げに失敗。3か月後の翌年1月にⅡ型・F2衛星が再打ち上げにより配置された。更にインド洋上空にはⅢ型・F3衛星を1969年8月に配置。日米間・日欧間を含めてグローバル衛星通信サービスが開始されている。
 このグローバル・システムは、静止衛星方式によるもので伝送上のタイムディレーは避けられず、電話通話にはやや不向きであるが、当時は特に大陸間のテレビ中継が可能となり、大いに活用された。また一方でグローバル・システムは、途上国の通信事情の改善にも貢献している。つまり、経済的に設置できる小型地上局施設(VSAT)により国内外の通信網の整備が容易になり、衛星システムの広域性や使用料率の平等性などと相まって、いわゆるMissing Linkと称された途上地域の情報格差の解消に大きく貢献したとされる。
 さて、大陸間テレビ中継について見れば、今日では衛星システムと共に光ケーブル網なども利用されて日常茶飯事の情報インフラとなったが、インテルサット・システム草創期の出来事として、幾つかの感動的なエピソードが刻まれている。
 先ず挙げられるのは、インテルサット誕生直前の日米間の衛星伝送実験中の1963年11月23日に、J.F.ケネディ大統領暗殺の衝撃的ニュース映像がKDD茨城衛星通信実験所のモニターに送られてきた出来事。本コラムでも既に話題にしたところである(第6話)が、この衛星TV実験は、翌1964年の東京オリンピックの国際TV中継を成功に導いている。
 なお、ご存知の通りケネディ大統領は宇宙の平和利用の一環として、1961年の年次教書において「世界各国が参加するグローバル衛星通信システム」の実現と「1960年代末までに人間を月に送る宇宙技術」の開発を政策として声明していた。これらの政策は、何れも実現したが、大統領はそれを見届けることなく悲劇に見舞われた訳だ。
 更にKDDの係わった感動的エピソードが、グローバル・システム形成中にも続いた。
 その一つは、1969年6月インド洋衛星の配置・商用開始に伴い、KDD山口地球局と英グンヒリー地球局との間でテレビ伝送実験中のこと、偶々大西洋衛星が故障のために、英側の緊急要請により「英皇太子立太式典」の慶事を英連邦諸国等へ生中継することになり、山口と茨城両地球局によるインド洋と太平洋の両衛星をダブルホップする中継方式でカナダや豪州などに中継されたと云うエピソード。
 もう一つの出来事は、続いての同年7月に前記ケネディ大統領の声明どおり、「アポロ11号による米宇宙飛行士の月面着陸・探査・無事帰還」の快挙が達成され、その生中継を米航空宇宙局(NASA)と協同して、KDD茨城・山口両地球局がインテルサット衛星経由で世界をカバーした訳だ。

◆以上のように新型ケーブルや衛星システムによる広帯域通信網の導入に伴い、KDDは中央局施設の抜本的拡充整備をはじめ、冒頭に紹介した久保勝一さんの「KDD事業所一覧表」にも見るとおりケーブル陸揚げ局や衛星地球局の新増設等、事業拡大の対応に大童であった。
 中央局設備の整備について云えば;大手町ビルの二の舞にならないよう、十分に余裕を持った施設の建設。つまり、我らが長年お世話になったKDD新宿ビル(国際通信センター)の実現は、霞が関KDD本社の仮住まい6年間における重要課題の一つであった。
 些か敷衍すれば:国際通信センター建設の青写真は、1968年6月の局舎対策総合委員会の立ち上げに始まり、偶々開発中の新宿副都心街区の一角に所要敷地を確保(1969年3月)。また海外の先進的通信センターなども視察して資料を収集。建築専門家の助言等を取り入れて構想が固められた。ビルの建築は、大手建設会社(鹿島建設・大林組・清水建設)のジョイントベンチャーが担当。1971~74年の約3年間で、地上164m(塔屋を除く)32階建の超高層ビルを完成(1974年6月)。高さは霞が関ビル(147m・36階)を抜いたが階層は若干少ない。つまり、通信機器等を収容する運用スペースに必要な高さを各階(2~23階)に確保した、国際通信センターの特色と云えよう。

◆かくして霞が関KDD本社時代は、広帯域通信網事業の推進と、そのシンボルである国際通信センターの完成を成し遂げたユニークな時期。つまり、KDD設立趣意書に謳われた世界先進水準のサービス体制を準備してきたKDD史前半の試練を全社の団結で乗り切った時期と云えよう。
 一方、霞が関の仮住まい時代の様子については余り語られていない。今や幻のような6年間ではあるが、筆者は本社組織の一員として霞が関時代を経験してきたので、拙い記憶ではあるが当時の一端を振り返って見よう。
 私事になるが、大手町本社時代には愚生は協約課に所属し、TPC-1の建設保守協定やCOMPACとの相互接続協定、JASC建設交渉など新型海底同軸ケーブル関係も担当。1964年にインテルサットの暫定制度が立ち上がるのに伴い、社長室の衛星通信グループ副参事に転任し、その暫定委員会(Interim Committee of Satellite Communications=ICSC)関係を担当した。霞が関本社への移転(1968年5月)後も同様任務であったが、移転と同時に行われた本社機構の改正に伴い、新設の「計画参事室」に配属された。
 因みに、この計画参事室は誠にユニークな形態で、12室(業務系6:技術系6)の個室に分がれて22階の南東側窓際に配列、「馬小屋」のニックネームで呼ばれた。各参事室には、参事と副参事3~4人が机を並べた。例えば、小生が所属した外国参事室は、外国参事とICSC副参事、ITU副参事、国際業務副参事の4名のみ。小部屋に仕切られた馬小屋体制は、個室の静謐な環境で構想を練ると云う配慮によるものだが、一方で付随的作業(タイプ清書やコピー作成等)に人手不足をかこち、サポート部門(事務サービスセンターや資料センターなど)の利用にも不便なことから、馬小屋の住人には甚だ不評であった。結局は、3年ほどで計画参事室は廃止、馬小屋は取り払われて、新たな総合企画部や国際部などに移行、従来の部・課制が復活している(1971年10月)。




 
不死鳥物語 第16話 後編


第16話
-後編―

<<幻の霞が関時代 ~KDD試練の歴史を見る~>>
  
遠藤榮造   

◆KDDの大手町時代から霞が関本社仮住まい時代は、前編に見るとおり広帯域通信網の建設・拡大に総力を挙げた時期。そして広帯域網の一翼を担ったのがインテルサット衛星システムで、1964年に暫定的制度として発足したことは前編に述べた。実はこの暫定協定の規定により、インテルサットの恒久制度化の協議を1969年末までに開始することが要請されており、このため米政府は1969年2月に国際会議をワシントン(国務省)に招請した。会議には凡そ80余か国(当初はソ連圏も含め)が参加、大会議となった。
 因みに日本は、当時の下田武三駐米大使を主席代表とし、外務・郵政両省とKDDの関係者および法律専門家(ICU山本教授)等で構成する大代表団を送った。ICSC副参事も随員として霞が関の馬小屋から参加、足かけ3年に及んだ長丁場の会議の渦に巻き込まれた次第。その複雑な経過等については別の機会に譲ることとするが、実はこの会議の渦が、その後の通信界の変革・自由化の潮流に繋がっていることを実感する。なお、恒久制度の協定類(基本文書)は1971年8月に採択・73年2月に発効。この発効に伴い、筆者はワシントン事務所長に転任し、引き続き現地でインテルサット理事会関係等を担当。その後のインテルサットの変遷と国際情勢の変革にもタッチする機会に恵まれた。
 更に、インテルサットを追う形で開始された海事衛星システム「インマルサット」の創設協議の第1回国際会議(1975年・ロンドン)にも命によりワシントンから馳せ参じ、以来インマルサットの設立(1979年)にも係わってきた。この移動体衛星通信システム展開の潮流(端末の小型化・ハンドヘルド化の方向等)から、その後のケイタイ時代を予感するものがあったと云えよう。

◆このような通信界のダイナミックな進化・変革が、科学技術の進展(研究開発)に負うことは論を待たないが、同時に上記のような国際協議における制度的枠組みの対立・妥協など、両々相まって進化してきたことも知られるとおり。背景として、特に世界をリードしてきた米政策の変化・転換による影響が大きいと云えよう。以下、その流れについて概観してみよう。

①インテルサットが、米国の主導するグローバル衛星システムを早期に実現するため、取り敢えず暫定制度としてスタートしたことは既に述べた。つまり、暫定制度下のインテルサットは、コムサット社(米国策会社)を管理者とする「国際コンソーシアム(各国出資者の共同事業体)」体制で発進した訳だが、その後の恒久化協議では、欧側等の強い主張により「国際機関」型(非米化の方向)に再編され、米国の思惑を大きく外れる組織体制に移行した。
 また、システム運営上のコンセプトについても、米側はインテルサットを「世界単一システム」に位置付けたが、一方欧側等の強い主張により「国内や地域衛星システム」の創設も各国の権利として認める、と云う妥協的規定が含まれた。これにより、欧側では欧州の地域衛星システム「EUTELSAT」を、またアラブグループは「ARABSAT」の設立を進める等、インテルサットの「世界単一性」の概念と矛盾する事態に進んできた。

②このような状況を踏まえて米国は、南北米州を結ぶ地域衛星システム(私企業のパンナムサット)計画をインテルサット理事会に提議した。つまり「世界単一システム」を目指した米政策の大転換であり、システム間の自由競争化の発端となった。当然、理事会の大多数は私設衛星システムの参入に反撥し議論が噴出したが、結局のところ、妥協の道を模索、私設地域システムの参入も認めざるを得ない方向に進展した。
 因みに、米国の通信政策は連邦通信委員会(FCC)の手続きにより進められていることは周知の通りだが、その特徴を挙げれば:FCCは政治的に中立の独立規制機関として、5人の委員会を中心にスタフ1,900人余を擁する通信専門の組織。通信事業者等からの事業申請や事案の提訴を受けて調査・審議して、政策(認可・裁定・命令等)を発出しいる。
 上記の私設通信衛星パンナムサット・システムの参入を認める自由化政策をはじめ、当時における通信事業者の「提供サービスの自由化」政策等も米の政策転換として注目された。例えば、デジタル技術の進展によるデータ伝送サービスの多様化に伴い、伝統的な電話と電信(記録通信)事業者間のサービスの棲み分けが廃止された。つまり、長距離電話事業者(AT&T等)が記録通信事業にも参入できると云う自由化。当時の電信事業者(お馴染みのITTやRCA等)に大きな衝撃を与えたことが想起される。 このようなFCC政策の発出は、公開手続(申請、提訴、意見聴取、公聴会等)によるものだが、当然ながら国益を背景とし、国際情勢・社会動向・技術動向等々、幅広い分野の調査に基づいている訳だ。

③さて、1973年に恒久制度に移行したインテルサットであるが、上記のように衛星システム間の競争環境に巻き込まれて、早くも体制の見直しが俎上に上ってきた。つまり、衛星システムの設定・運営が技術的・経営的にも普遍化して私企業の参入が容易になり、国際機関としてのインテルサット体制が再び問われる事態に至った。例えば、暫定制度下の初期には、衛星打ち上げの確率は、4基に1基失敗と云う寥々たる状況であったが、その後、打ち上げ事業の多様化(米・欧・ソ連等の企業参入)に伴い競争場裏で打ち上げ成功率は向上した。また、衛星技術の普遍化については、インテルサットが、その事業(資金)により確保した技術特許・ノウハウ等を加盟国にも公開する等の手続きを維持してきたことも背景として挙げられよう。
 結局、20世紀末にはインテルサットの国際機関体制は民営化に移行したし、また1979年に国際機関として発足した海事衛星システム(インマルサット)も、ほぼ同様の経過で民営企業に移行した。もっとも、両機関とも公共的なグローバル性や遭難安全システムを確実にするため、それぞれに政府間機関体制も同時に維持したことは周知の通りである。

④更に東西冷戦の終焉を迎えて、通信界全体に自由競争の流れは一層促進されてきた。例えば、アル・ゴア氏(米クリントン政権の副大統領)が上院議員時代から提唱していた「情報スーパーハイウエー構想」も通信の開放的発展を促進した政策として注目された。特にアル・ゴア法案として知られるコンピューター通信法がインターネットの展開をリードしたことで知られる。1990年代のパソコン普及とともに今日のIT時代に繋がったとされる。

◆以上、1970年代後半から始まった通信事業の多様化・自由化の流れの幾つかを振り返って見たが、丁度その頃KDDは、前述の通り新宿副都心に懸案の「国際通信センター(KDD新宿ビル)」を完成(1974年)。新型海底ケーブル・衛星システムを中心とする広帯域通信事業に万全の体制を敷いて、多様化するサービスの提供を確実にしていた。なお、筆者はワシントンでの任務を終え1975年に新装のKDD新宿ビルの本社(衛星通信調査室)に戻った。任務は引き続きインマルサット設立協議を担当、インマルサット機構の発足・初回理事会(1979年7月)までヨーロッパ通いが続いた。
 その後は、旧ソ連圏の国際衛星通信システム(インタースプトニク)の理事会にオブザーバーとして招かれ、東側関係国を訪れる機会も得た。因みに、このインタースプトニク会議にはインテルサットやインマルサットの事務局長も招待されていた。また、東側代表との交流や接触を受ける(例えば北朝鮮等)機会もあり貴重な経験であった。インタースプトニクから招請を受けた事情については、インマルサットが国際海事機関(IMO)の主導により設立さられたこと、そしてIMOには旧ソ連をはじめ東側の海運国もメンバーであり、特にソ連はインマルサットの大口メンバーとして、その設立時には重要な交渉相手であったこと等によるものと思われる。

◆さてKDDは、1978年に目出度く創立25周年を迎えて盛大に祝賀行事が行われた。思い出すのは、海外の関係事業体のVIPを招待した京都一泊の観光行事。新幹線グリーン車両を借り切った大名旅行にお供して、10数年ぶりに邂逅できたVIP (GNTC社幹部等)もあり懐かしい限りであった。振り返れば、この行事はケーブル・衛星を中心とするKDD広帯域通信事業の集大成を画する一大イベントであったとも云えよう。
 ところが残念なことに、翌1979年秋に忌まわしい不祥事が首脳部および周辺において明らかになりKDDの業績・名声が大きく失墜したことである。内容については周知のところで、詳細に触れる積りはないが、既に数年前から本社首脳部の不規則な動きは我ら海外組にも少なからず影響及ぼしており、遂に密輸事件として発覚・・・直ちに社長辞任=会長の社長兼任/社長室廃止=秘書課設置/臨時株主総会(80年2月)を経て新社長・会長等の選任・・・と云う、KDD全社を揺るがす事態となった。社内の喪失感は勿論、事業活動に及ぼした影響は計り知れない。当時の新宿ビルの雰囲気は放心状態であったと云えようか。
 ”集団はリーダーを映す鏡“と云う諺があるが、首脳部・本社一部の不始末が、KDD全体に極めて深刻な事態を及ぼしたことは間違いない。1970年代後半から始ったグローバルな通信界の自由化・変革の流れに対するKDDの態勢には往年のような活力が見られなかったように思われた。まさに失われた10年の試練であったと云えようか?

◆その後は勿論、KDDは新鋭の幹部・職員の英知・努力により、サービス改革、事業拡張への対応も急速に復活してきた。しかし、1980年代に入って、コンピューティングと通信の融合、競争環境への対応が求められる事態になっていた。
 例えば、米国では上述のFCC政策の他に、反トラスト法(競争法・独禁法)に基づく司法手続きによる規制で、通信界の巨人と云われたAT&T社が1984年には、司法省との同意審決により分割された。当時驚きと共に大きな話題になったことを想い出す。
 つまり、反トラスト法はご存知の通り、米国流の寡占化排除の手続きで、「出る釘は打つ」と云う方式で当時の巨人AT&Tは、垂直統合の川下部門の地域電話事業や付属事業(研究・製造部門等)が切り離され、長距事業に縮小された。勿論その後も、サービスの多様化・競争の進展に伴い、更に事業体間の合従連衡が続いてきたことは周知のとおり。

◆世界的な変革・競争促進に遅れ気味であった日本の通信事業環境にも1985年には「電気通信事業法」が施行されて、それまでの「公衆電気通信法」に代わり多様な通信事業者の参入と競争環境が促進された。つまり、通信回線設備を有する第1種事業者(許可制)と回線をリース等で賄う第2種通信事業者(届出制)などの多様な事業体の参入を可能とした。NTTも公社から株式会社に移行。NTT・KDDによる国内・国際分業の独占時代も終焉した。
 当時、この新しい電気通信事業法に基づき新規参入を果たした、いわゆる「新電電」の主な事業者を一覧すれば次のとおり。

*第二電電(DDI):京セラを中心に三菱商事・ソニー等の25社の出資により設立。国内幹線網には主にマイクロ波通信施設を建設し、移動通信には各地にDDIセルラーを順次設立して対応。

*日本高速通信(テレウェイ):トヨタを中心に道路公団・電力系などの出資により設立。
 高速道路沿いに光ケーブル網を整備して対応。

*日本テレコム:JRの線路沿い管路を利用する光ケーブル網を整備して対応。三井・三菱・住友等の商社系も出資。なお、後に新興のソフトバンク社に吸収されている。

*日本移動通信(IDO):トヨタの主導する自動車電話を中核に移動通信システムを展開、NTTの移動通信事業に対抗。

◆このような通信事業の自由競争化と共にニーズの多様化が進展した。特に、デジタル・
データ通信の展開は、1990年代に入り、インターネット(IP)の急速な普及に繋がって
きたし、また一方で、ポケベルや自動車電話から始まった携帯型電話の急速な展開により、
通信事業は多様なニーズの革新時代を迎えていた。
因みに、NTTは1988年に「NTTデータ」を、1992年には「NTTドコモ」をそれぞれ分社化
して新サービスへの体制を整備している。
通信ニーズの変革・多様化の中でKDDは、収益の柱であった国際電話の料金値下げ・需要
鈍化などに直面。生き残こりを賭けて国内通信事業への本格参入を図った。
 
つまり、KDD設立の特別法である「国際電信電話株式会社法」の改正・廃止(1998年7月)
により、KDDは本格的な国内事業への参入が可能となり、まず、国内ネットの整備として、
日本沿岸を結ぶ光海底ケーブル網(Japan Information Highway=JIH)の建設等に着手(1997
年)すると共に、テレウェイ社との合併(1998年12月)により、同社の光通信網と接続し
て全国ネットの構築を進めた。なお、テレウェイ社との合併による社名を「KDD株式会社」
としてスタートした。

◆余談になるが、そんな困難を迎えていたKDDについて、我らKDD/OBも憂慮とともに新時
代の流れを実感していたことを想い出す。例えば、1990年代に入って我らがお世話になっ
てきたKDD同友会は母体KDDからの支援が打ち切られて、漸次会の事業を縮小、残念なが
ら、その後ついに解散(2011年末)し、KDD同友会は消滅した。
この同友会の事業縮小の困難期に、同友会会員(OB)のネットワーク構築を目指して誕生
(1998年4月)したのが、実はKDD同友会パソコンクラブ(k-unet)である。その経緯等
はk-unetホームページの「会員の広場―ネットインタービュー」の頁に詳しい。
 さて、KDD事業の困難な状況については、我らOBも実態的に体感していたのが、1990年代
から急速に発展してきたインターネットの存在と云えよう。筆者の経験で恐縮だが、1996
年春、遅ればせながらパソコン教室(NEC系)に誘われてデスクトップ型のPCを導入。
ワープロの延長として使い始めたが、メールやWEBの機能も驚をもって体験した。
 つまり、
同年夏のこと、コムサットの友人F氏から「マリサット20周年記念」の集まりを計画して
いるので参加されたい旨の手紙を貰った。早速、F氏のレターヘッドに載っていたメールア
ドレス(当時は電話番号のような数字の羅列)宛てに、習い始めのメールで「お礼と欠席」
の旨の返信を送ってみた。翌朝には早くも返事が届いており、この往復メールの費用は、
何とダイアルアップ通信料(20円)のみ?! この国際メールの初体験で通信事情の革新に
驚くと共にKDD国際事業の苦境を実感した次第。
なお、マリサット20周年記念行事については、コムサット社の財政不如意で、マリサット
衛星を製造したヒューズ社が主催し、同社から正式の招待状が届いた。小生らは偶々JTB
のアラスカ・ツアーを予定していた関係で、ワシントンの記念行事を止む無く欠席したが、
後日行事の模様を記録したビデオテープが贈られてきた。

◆さて、世界的に通信環境の革新が進展する中で、前述のように、わが国でも電気通信事業法の施行で新電電が参入し、通信業界の再編が続いた。既に述べるように1998年7月には「国際電電法」の廃止により、KDDとテレウェイ社との合併が実現し、純民間企業になったKDDも国内事業を本格化した。そのころNTTの分割・再編の動きが国の政策論議と共に進展していたことは周知のとおり。つまり、NTTはユニバーサル・サービス(国内電話インフラ維持)の継続と云う事情もあり、特別法により1999年7月、NTT持ち株会社の下に、NTT東日本とNTT西日本の地域会社を特殊会社として設立。長距離・国際事業のNTTコミュニケーション社(NTTコム)やその他の系列会社(NTTデータ・NTTドコモ等)は完全民間企業として、NTTグループを再編した。
 このようなNTTの対抗馬として実現したのがKDDIの設立。つまり、ベストミックスと云われる、「堅実経営のDDI」と「内外に事業資産(ソフト・ハード)を擁するKDD」それに「トヨタが主導する移動通信の新鋭IDO」の3社が合併(存続会社・DDI)に合意し1999年12月に覚書調印。そして、2000年10月に総合電気通信事業のKDDI が3社のシナージー効果の期待を担ってスタートした。その間の実情・経過等については門外漢の知るところではないが、当然ながら関係当局・当事者による調整・協議(日本式の根回し?等も含め)が続いたものと想定される。

◆「歴史は記録し伝承すべきもの」と云われるが、昨年のk-unet行事による「KDD発足60周年記念投稿募集」は時宜を得た施策であったと思う。諸兄姉の投稿ページを興味深く拝見していたころ、k-unet運営委員会の楳本CMGリーダーや佐藤顧問からお勧めと督励を受けて、筆者もKDD半世紀(48年)の歩みを、拙い経験・記憶をもとに纏めてみたのが本編である。認識不足・誤謬や不適切な表現の多いことを怖れるが、ご叱正を頂ければ幸いである。
 さて、戦後復興期の1953年、KDDは世界最先端の国際通信サービスを目指して誕生。初代社長(会長を含め)の足かけ10年に亘るリーダーシップにより、広帯域通信網の基盤を確立、KDDの発展を確実にした。因みに初代社長は、政財界に顔の広い文化人で、当時の大部屋役員室からKDD全員野球の態勢を敷いていたのを印象深く思い出す。KDDの発足時に乗り切った我らの試練であった。
 10年ひと昔と云われるように、通信界のイノベーションは急速に進展した。20世紀末にはグローバルな大変革・自由競争時代を迎えて、我らのKDDもM&A(合併・買収)を繰り返し、遂にその半世紀の歴史と資産は「KDDI株式会社」に引き継がれた。この大変革の試練を乗り切ったKDD最後の社長の英知と適切な決断に喝采を贈りたい。今日のKDDIの活躍には、我らKDD/OBも誇りと共に注視・応援を送っているところである。





 


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