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  Happy Birthday !

  掲載投稿集
 
 
  
Happy Birthday !


  12月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。 この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。


(バックナンバーは こちら を、また投稿者一覧は こちら をクリックして、ご覧ください。)




    
1. 新納 郁江 さん (12月3日)

  50歳でKDDを退職と同時に長年住んでいた横浜から東京の夫の生まれ育ったエリア、目黒に移り住んで20年になる。 退職後始めた趣味、活動はいくつかあるが、その一つに地域の活動に参加したいと調べ、外国人の方たちへのサポート活動である日本語ボランティアに組織立ち上げの時から関わり、今や私のライフワークの一つとなっている。
  今回 k-unet のコラム「Happy Birthday」にその日本語ボランティアで毎年発行の機関紙に先日掲載した原稿を皆様にもご紹介させていただきます。 原稿は外国人の方も読めるようにルビがふってあります。

119(ばん)緊急(きんきゅう)通報用(つうほうよう)番号(ばんごう)

犯罪(はんざい)災害(さいがい)発生(はっせい)(など)緊急(きんきゅう)対応(たいおう)機関(きかん)通報(つうほう)するための番号(ばんごう)として、日本(にほん)では110(ばん)警察(けいさつ)に、119(ばん)消防(しょうぼう)救急(きゅうきゅう)に118(ばん)海上(かいじょう)事故(じこ)()()てている。 番号(ばんごう)(くに)によって(こと)なり、消防(しょうぼう)救急(きゅうきゅう)においてはお(となり)韓国(かんこく)台湾(たいわん)では(おな)じ119(ばん)中国(ちゅうごく)では救急(きゅうきゅう)は120(ばん)消防(しょうぼう)(おな)じ119(ばん)、アメリカ(あめりか)カナダ(かなだ)では911(ばん)(もち)いられている。
(わたし)()んでいる目黒区(めぐろく)(みどり)(おか)自宅(<じたく)から(ある)いて2~3(ぷん)(ところ)東京(とうきょう)消防庁(しょうぼうちょう)目黒(めぐろ)消防所(しょうぼうしょ)大岡山(おおおかやま)出張所(しゅっちょうじょ)があります。 (さくら)並木(なみき)(うつく)しい(のみ)(がわ)(りょく)(どう)(そば)なので、(いぬ)散歩(さんぽ)途中(とちゅう)(まご)()れて見学(けんがく)()った(こと)もあった。 3(がい)(だて)ビル(びる)には(おお)きな消防車(しょうぼうしゃ)が2(だい)、そして救急車(きゅうきゅうしゃ)が1(だい)配置(はいち)されていて、隊員(たいいん)(かた)がよく訓練(くんれん)をなさっている。 救急車(きゅうきゅうしゃ)には20(だい)(ころ)一緒(いっしょ)(ある)いていた友人(ゆうじん)自転車(じてんしゃ)とぶつかり転倒(てんとう)後頭部(こうとうぶ)打撲(だぼく)救急車(きゅうきゅうしゃ)()一緒(いっしょ)()(<こ)んだ経験(けいけん)が1()あるだけだった。 その(わたし)がまさか救急車(きゅうきゅうしゃ)のお世話(せわ)になるとは?救急車(きゅうきゅうしゃ)のお世話(せわ)になった()、2013(ねん)11(がつ)20(はつか)()
  誕生花: 胡蝶蘭
  花言葉: 幸福が飛んでくる

シャンソン(しゃんそん)コンサート(こんさーと)数日後(すうじつご)(ひか)>/rp>え、その(ため)準備(じゅんび)()われ、翌日(よくじつ)ヘアサロン(へあさろん)予約(よやく)、この()ドレス(どれす)(/rp>マッチ(まっち)させた派手(はで)ネイル(ねいる)をしてもらったところだった。 その()夕方(ゆうがた)(なん)前触(まえぶ)れもなく、自宅(じたく)(わたし)突然(とつぜん)(たお)れ、119(ばん)()んで(いのち)(たす)けてもらった。 (からだ)はみるみる()え、意識(いしき)はもうろうとなっていく、それでも救急車(きゅうきゅうしゃ)()ぶのは()ずかしく抵抗(ていこう)があり、(いや)だと()()っていた(よう)だ。 (おっと)記録(きろく)したメモ(めも)によると、()()わせをした国立(こくりつ)医療(いりょう)センター(せんたー)医師(いし)指示(しじ)で119(ばん)にかけるや、その5分後(ふんご)には隊員(たいいん)4(にん)()せた(おお)きな消防車(しょうぼうしゃ)1(だい)(つづ)いて数分後(すうふんご)に3(にん)()せた救急車(きゅうきゅうしゃ)到着(とうちゃく)、7(にん)隊員(たいいん)(かた)がたの迅速(じんそく)的確(てっかく)判断(はんだん)対応(たいおう)措置(そち)により、出発(しゅっぱつ)して10分後(ぷんご)には昭和(しょうわ)大学(だいがく)病院(びょういん)到着(とうちゃく)する(こと)出来(でき)た。 病院(びょういん)では(ただ)ちに造影(ぞうえい)CT(など)などの検査(けんさ)がされ、その結果(けっか)急性(きゅうせい)大動脈(だいどうみゃく)解離(かいり)という(こわ)病気(びょうき)判明(はんめい)(そく)手術(しゅじゅつ)となった。 手術(しゅじゅつ)そのものも大変(たいへん)危険(きけん)であり、手術(しゅじゅつ)()48時間(じかん)以内(いない)半数(はんすう)(ひと)(いのち)()とす重篤(じゅうとく)病気(びょうき)()らされ、(おっと)は5(つう)もの同意(どうい)(しょ)サイン(さいん)をしていた。 手術(しゅじゅつ)無事(ぶじ)終了(しゅうりょう)、しかし手術後(しゅじゅつご)予断(よだん)(ゆる)さず(やく)1週間(しゅうかん)のICU(集中(しゅうちゅう)治療室(ちりょうしつ)()めとなった。 (かお)には酸素(さんそ)マスク(ますく)体中(からだじゅう)(くだ)だらけで機械(きかい)(かこ)まれたICUでの治療(ちりょう)何度(なんど)かきれいなお花畑(はなばたけ)()たが(つら)(くる)しい過酷(かこく)なものだった。 1週間後(しゅうかんご)(くだ)機械(きかい)から解放(かいほう)され(まど)のある病棟(びょうとう)個室(こしつ)(うつ)れた()(よろこ)びと感動(かんどう)。 最上階(さいじょうかい)にある(わたし)部屋(へや)(まど)から()正面(しょうめん)富士山(ふじさん)()えた。 (しず)みゆく夕日(ゆうひ)()らされて(うつく)しく、(なみだ)がとめども()くあふれ、(こえ)()して()いていた。 懸念(けねん)された合併症(がっぺいしょう)(など)()こらず順調(じゅんちょう)回復(かいふく)し、1か月後(げつご)には退院(たいいん)する(こと)ができた。 退院(たいいん)したとは()え、まだまだ規制(きせい)()普通(ふつう)生活(せいかつ)とは程遠(ほどとお)い。 (やく)半年(はんとし)(あいだ)(しゅう)に3(かい)リハビリ(りはびり)(かよ)わねばならなかった。 心肺(しんぱい)機能(きのう)アップ(あっぷ)のためのリハビリ(りはびり)ストレッチ(すとれっち)エアロバイク(えあろばいく)()(こと)メイン(めいん)であったが、(かい)(かさ)ねる(ごと)(からだ)回復(かいふく)実感(じっかん)でき、(おっと)(くるま)での送迎(そうげい)(ささ)えられ頑張(がんば)れたように(おも)う。 (からだ)回復(かいふく)比例(ひれい)して規制(きせい)()かれ、お料理(りょうり)(など)家事(かじ)(いぬ)散歩(さんぽ)(など)(ゆる)される、ささやかな(こと)だが、普通(ふつう)()らしができる(よろこ)びを(おも)()りかみしめた。 半年後(はんとしご)には年齢(ねんれい)相応(そうおう)(からだ)回復(かいふく)リハビリ(りはびり)卒業(そつぎょう)ゴルフ(ごるふ)旅行(りょこう)もOKと()われた。(うれ)しかった。 (また)大好(だいす)きな(うた)レッスン(れっすん)とくれよんに(かよ)える。 仲間(なかま)()えるという(こと)がすぐに(あたま)()かんだ。
今年の5月代官山のレストラン・ポールボキューでの
コンサートに出演し復帰することができました。
先日(せんじつ)()()(まえ)マンション(まんしょん)救急車(きゅうきゅうしゃ)()まった。 男性(だんせい)のご老人(ろうじん)(はこ)()まれたものの、救急車(きゅうきゅうしゃ)(うご)かない。 1時間半(じかんはん)()まったまま。 あまりに(なが)いので(うかが)ったところ、受入先(うけいれさき)病院(びょういん)()い、()まらないので救急車(きゅうきゅうしゃ)(うご)けないと()らされた。 救急車(きゅうきゅうしゃ)(ただち)ちに()けつけても、その()救急(きゅうきゅう)医療(いりょう)体制(たいせい)問題(もんだい)現実(げんじつ)()()たりにし大変(たいへん)ショック(しょっく)()けた。
4/1(づけ)日経(にっけい)新聞(しんぶん)救急(きゅうきゅう)出動(しゅつどう)記事(きじ)()にした。 2014(ねん)全国(ぜんこく)救急(きゅうきゅう)出動(しゅつどう)件数(けんすう)は598万件(まんけん)過去(かこ)最多(さいた)更新(こうしん<,/rt>)高齢化(こうれいか)(ともな)い、お年寄(としよ)りのけが(にん)病人(びょうにん)()えた(こと)要因(よういん)高齢(こうれい)傷病者(しょうびょうしゃ)増加(ぞうか)が76.8%、急病人(きゅうびょうにん)増加(ぞうか)が65.7%。 そして、(あき)らかに軽傷(けいしょう)なのに救急車(きゅうきゅうしゃ)()ぶ、タクシー(たくしー)()わりに使(つか)(など)不適正(ふてきせい)利用(りよう)()えている(こと)があげられ19.8%もあった。
消防庁(しょうぼうちょう)出動(しゅつどう)増加(ぞうか)搬送(はんそう)(おく)れを(まね)きかねない、不適正(ふてきせい)救急車(きゅうきゅうしゃ)利用(りよう)(ひか)えて()しい、と(ほう)じていた。 救急車(きゅうきゅうしゃ)にお世話(rせわ)になった、(また)なるかもしれない(もの)としていろいろ(かんが)えさせられている。


    
2.織間 政美 さん (12月5日生まれ)

 田中首相訪中のテレビ伝送の思い出

□ しくじれば辞職も覚悟して

   誕生花: 南天(ナンテン)
   花言葉: 機知に富む

1972年夏のある日、課員が、米国の大統領が訪中する際に可搬型地球局を持参し、テレビ伝送するとの情報を得た。 日本も負けていられないな、などと話していた時、部長に呼ばれた。 日中国交正常化で田中首相が中国を訪問される。 日本から可搬型地球局を中国に送って訪問時の映像を日本に伝送する計画が進められている。 この可搬型地球局を準備し発送する業務は、衛星通信課では出来ないので、無線課が担当してくれと言われた。 無線課の職務権限に他課に属さざる伝送設備の手配の項目があり、アメリカに負けられないと衛星通信課、回線統制部から社員の応援を得て実施すると引き受けたが、地球局の準備を短期間で実施するのは、通常では実現不可能な難しい問題があるので、くじれば辞職ものと覚悟した。

   □ 可搬型地球局のインテルサット承認テスト
可搬型地球局設備は、NECが所有し、直径10mのカセグレンアンテナと送受信機、端局で構成しているが、シートが歯抜けの状態だった。 不足部分をKDDが所有するシートで補充して調整し、KDDがこれを借用して電波検査を受ける。 可搬型地球局の電波検査は、初めてで、国内法に適合出来るか不明であった。 検査合格後、インテルサット衛星に接続してテストし、地球局の承認を得て、北京に送る手筈であった。 郵政省、NTT、NEC、KDDの関係者打ち合わせで、この検査、テストは、期間短縮のため、NECの構内での実施が検討
曾祖父 伊勢崎藩士で第14代荒木流拳法
師範大澤智栄要作の顕彰碑の前で
された。 茨城衛星通信所で実施すれば問題はないが、関東のほぼ真ん中のNEC構内に地球局を置くと、その電波が関東地区のNTTマイクロ波回線を干渉妨害し、NTT中継局の電波で可搬型地球局が干渉妨害を受け、検査、テストに合格しないおそれが多分にあった。 これに対しNTT側からトラフィックの少ない夜間であれば、回線を同軸ケーブルに切り替え、検査、テストに支障を与える無線局を停波すると有難い提案があり、また電波監理局から夜間での電波検査が了承され、検査、インテルサットの地球局テストは、1日限りの夜間での実施が決定した。



□ テスト成功の日にみた朝やけ
社員が突貫で電波申請書を作成し、電波監理局では極めて短期間に審査を完了し、設備の整備は社員立ち会いのもと精力的に進められ、スケジュール通り進行し、検査、テストの当日になった。 夜になりNTTから、マイクロ波の送信を停止したとの連絡があり、若手社員がてきぱきと、電波検査を受け、衛星経由でKDD茨城衛星通信所に接続してインテルサットのテストを進めた。 TV映像、音声伝送共にOKだが不要波が出ていると連絡があり、背筋が寒くなった。 インテルサットに確認したところ、不要波は、割り当て周波数帯域内であり支障ないとの連絡を受けた。 この連絡で電波検査は、合格し、引き続き、インテルサットの地球局承認の連絡が得られた頃には、夜はほのぼのと明けつつあった。 NTTから回線を復旧させたと連絡があり、心からのお礼を申しあげた。 東の空は、朝やけで、こよなく美しかった。
地球局が北京で稼働し、田中首相が飛行機のタラップを降り,周首相と握手する美しい映像がTVに映った時、日中友好に役だったと喜び、これで辞職はないなと肩の荷を下ろし、KDDを当事者として、郵政省、NTTおよびNECによる国家的事業が成功したなと思った。

+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+  会員の皆様から一言 +:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+

横井 寛さんからのコメント            2015/12/27 12:08:35

織間さんの誕生月のお話、大変興味深く拝読しました。 私もKDD時代に長らく衛星通信の仕事に携わっていましたので、日中間の国交復興に際して、KDDが、田中首相、大平外相が訪中した時、可搬型の衛星通信地球局を中国に持ち込んだことは知っていましたが、その裏に、このようなエピソードがあったとは知りませんでした 。
 今更ながら織間様始め関係各位に「有難う、ご苦労様でした」と申し上げます。
                                                         横井 寛

+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+  横井さんへの返事 +:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+

                                                     2015/08/27 11:32:13

極超短波課時代、横井さんにパラボラアンテナの改良をお願いし、成果を修めた事があります。その横井さんから感想とねぎらいのコメントを頂き、有難く、楽しい気分になりました。
                                                         織間政美




3. 横尾 常男 さん (12月5日生まれ)

 84歳の誕生日に思うこと (I like No.1)


  誕生花: ポインセチア
  花言葉: 祝福、幸運を祈る

  KDDが設立した当初は大報の外信科に所属して輪番をやらせて貰った。 36歳に田尻町議会議員に当選し、仕事の傍ら4年・6期も務めさせていただいた。 そして、定年の2年前にKDDを退社し、町長選に立候補した。 田尻町生まれでないよそ者が初めて当選を果たし、周囲から驚かれた。 町長選に際してはNTT・KDDの労組の皆さんに大いなる支援をいただき、町長在任中も長年にわたり多大なご支援をいただきました。 ありがとうございます。
  田尻町は町域が2キロ平方の広さで、紡績工場の多い町のため財政が豊かであった。 豊富な財政によって、田圃の畦道まで舗装したためか、野ネズミの足裏を守って動物を愛護していると周辺地域から揶揄されていました。
次に関西国際空港のことを話します。 伊丹空港は街なかの飛行場のため公害が問題視されていた。 また、関西に24時間利用できる空港建設が必要であるとして、府や国が検討した結果、泉佐野・田尻・泉南地区の沖合5キロの海上に空港を建設することを府や国が指定した。 紆余曲折の末に世界初の海上空港が平成6年9月に開港した。 湾岸地域には「りんくうタウン」や「湾岸線」もでき、その中心部には私が命名した橋「田尻スカイブリッジ」も完成。
 3年後、それに隣接して「関西国際センター」を誘致した。 
当初、知事から国の施設なので課税出来ないと言われた。 その施設は、外交官になる外国のエリート達に日本語を教える唯一の研修所ですから、外国との交流の窓口になるだろうと考えました。
  また関西繊維業界中枢を担った谷口房蔵氏(後の東洋紡績の社長)の別荘を空港開港の記念として買収し、「田尻歴史館(府の文化財)」としました。
  国際空港の中心の町ともなれば都市基盤整備が急務だとして、 PHOTO 下水道敷設率約100%を達成し、全国一にしました。 町内の狭い路地の下水道の敷設工事に堺市が強い関心を寄せられた。 堺市からの要請を受け、堺市職員を長期間受け入れて技術協力をしました。
  また、洪水から町民を守るために雨水路も町域の中心に径約3米の土管を950米に敷設しました。 そして空港連絡道路に府の55階建のゲートタワービルができた為に田尻町全域が電波障害の区域になってしまった。 電波障害対策として府の経費で全町にケーブルが敷設されました。 これは別の効果をもたらせてくれた。 それまで数年に一回の頻度で塩害のためテレビアンテナを交換していたが、ケーブルができたお蔭で、アンテナ交換が不要になった。

  新しい事業を起こすために為に町の税収入を増やす必要があった。 町長のわたしが税務課長と相談して、関空内のタバコ自動販売機を田尻町のタバコ販売店として指定し、関空内のすべてのタバコ税が田尻町に入る仕組みを作った。 これで関空全体のタバコ税17億7千万余が町の税収となる望外の喜びでした。
左端が筆者
 その後、あまりにも税収が多いという事で今では国に召し上げられてしまい、現在は約一割に減額されています。 それでも、財政は府下No.1の黒字の町です。
  最後になりますが、山田・佐賀さん等、その当時の労組役員のご尽力により、立派なKDD企業年金制度の恩恵を受けております。 そのお蔭で孫等からも「爺ちゃんの会社はいいね」と喜ばれています。
感謝・感謝です。


 
  

Happy Birthday !

  11月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。 この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。


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1. 瀧本 直孝 さん (11月7日生まれ)

 通信へのあこがれからKDDへ入社そして定年、あっという間に古希!


   誕生花: シンビジウム
   花言葉: 誠実な愛情

  定年まで健康で働くことが出来ました、皆様に感謝しております。 あっという間に10年、「古希」です! 私の趣味のアマチュア無線(ハム)とパソコンについて紹介させていただきたいと思います。
  ハムでは一般的なパソコンの使い方だけでなく、信号、符号を作成して無線機に送る、受けるというツールにもなっています。(もちろん、一般的なメール送受、WEBの検索等もします)

(1) 電話モードでのアマチュア無線(ハム)時代と一般的なパソコン活用
15年ほど前、KDD東京ハムクラブの先輩に誘われ長年休んでいたハムを再開しました。 再開当初、私は、音声による交信のみで、パソコンは交信記録を入れるだけの一般的なパソコンのデータベース利用でした。

霧島にて
(2) モールス通信とパソコン活用
ハム再開から2,3年過ぎた頃、モールス通信をやってみようとしたのですが、私の技量が速いモールス信号にはついていけず、お世話になったのがパソコンでした。 信号の受信はパソコンでモールス解読フリーソフトを活用、(日常の運用では自分の耳とパソコンを併用してモールス信号を解読しています。)  一方モールスの送信ですが高校生の時、無線従事者免許を取るために我流で習得した素人で、かつ久しぶりでした。 しかし加齢のせいか早く打てないという難題にぶつかりました、そこで、これもパソコンにお世話になることにしました。 今では欧米の高速モールス信号に負けない速度でパソコンによるモールス通信を楽しんでいます。

(3) 各種電波形式と作成ツールとしてのパソコン
その後、ハムクラブ先輩の指導により、モールス通信以外に、パソコンによる符号信号交信(プリンター信号)を各種電波方式での通信(PSK31,63,125 RTTY JT65など)にも拡張しました。 これら通信は各種送信信号をパソコンで作成して無線機で電波で送出、無線機からの受信信号をパソコンで解読して通信を行います。(パソコンがプリンターの代わり) なお、パソコンと無線機はUSB、サウンドカードなどで接続しています。

(4) その他ハムの一般的なパソコン活用
一方、交信証(QSL)も紙に印刷して交換する方式から、欧米をはじめ世界規模で提供されている電子交信証交換サービスが有りこれに参加しています。 (右は友人の高宮さんに書いていただいた似顔絵です。 ハムの交信証(QSL)にもいれています) また、無線局免許も総務省WEBから設備や住所変更や免許更新も行っています。

 最近のアマチュア無線はパソコン無しでは考えられない世界になっています。 パソコンとハムは末永くIN-DOORの趣味として続けていきたいと思っています。 現行、22インチの一体型PCをWINDOWS 7で使っています。 k-unet講習会で教えていただいた内容を基に、冬にもWINDOWS 10に入れ替えようと考えています。



    
2. 甲斐野 幸一 さん (11月11日生まれ)

 これから歩く道へ


   誕生花: 椿(白)
   花言葉: 完全なる美しさ

  退職後17年目の誕生日を迎え振り返ると、これまでの社会とのつながりで良かったのか、他に道が在ったのではないかと思い悩む日がありますが、勿論過去は戻らないから、前へ進むことで解決すべき課題ととらえ、自分の生活環境に合った範囲で夢を少しでも叶えることとしました。(自分自身への宣言でもあります) 退職直前に関西自然学校にて自然環境を学ぶ機会があり、ここでの学習から私は樹木への関心を強め、以降、樹木観察インストラクターを目指す活動に生活の軸を展開してまいりました。
活動の仲間(筆者は左端)
  樹木でも、現在も数百年~千年間を生き続けている巨木や巨樹と出会い胸打つ感動や、畏敬の念から巨木に特化した普及活動を手掛けることとし、ボランティア事業の立ち上げを行い今に至っている次第です。
  目下、奈良県の巨木調査、市民や児童を対象の観察会、奈良春日山原始林をまもる作業、巨木案内ツアーや小冊子の発行など、日々これらの対応にバタバタした時間を過ごしておりますが、いつの日か日本中の巨木を訪れて紀行文などを制作できれば、一度きりの人生としても、まずまず良しとすべしでしょうか。

山桜の巨木

「グリーンあすなら 巨樹巨木の会」のサイトをご覧ください。
  http://www.kyoboku.jp/  










    
3. 石垣 英明 さん (11月14日生まれ)

 日ロ合弁会社ボストークテレコムの思い出


   誕生花: シクラメン(赤)
   花言葉: 遠慮、きずな

  ロシアの極東地域の通信事情を改善するため、ウラジオストクに設立された日ロ合弁会社の立ち上げ、地球局の建設等の現地工事そしてボストークテレコム(極東通信会社)の事業運営の3年間は,私にとって、人生の宝物になっています。 
  極寒の時期に地球局と国際交換施設の建設工事を行い、1993年1月8日開通試験、そして1月15日直通国際電話18回線のサービスインを行った感激は、22年たったいまも鮮明に記憶に残っている。 小さい社屋の社長室で、故ゼーマー社長と机をならべて事業運営について話し合った日々、アパートで一人住まいをした日々、アメリカ、韓国との直通回線、国際テレビジョン伝送サービスを開始するため、毎日のように地球局に出向きロシア人スタッフを指導したこと、ハバロフスク、ユージノサハリン、イルクーツクを訪問し、交換局の回線運用を指導したこと等、苦しくもあり、楽しくもあり、我が人生の中で最も充実した3年間だった。
  Happy Birthdayの思い出は、ボストークテレコムでは、社員の誕生月にみんなでお祝いをします。 ある日、女性社員から声をかけられ、これから誕生日パーティをしますから出てくださいといわれ、食堂にでむくと、十五・六人のロシア人が大きなケーキを囲んで集まっていました。 社長がお祝いの言葉を述べてプレゼントを渡し、花束を贈呈いたします。 従業員を大切にしている会社だなと思いました。 当初は50人たらずの会社で、非常に結束が強く、アットホームで和気あいあいとした会社でした。 KDDからボストークテレコムのサポートのため、私のほかに関根勝昭さんと藤田徹さんが派遣されました。 言葉の壁はあったものの、すぐにロシア人スタッフと仲良くなりました。
  今でも、ロシア人との親交があります。 フェイスブックでメッセージを交換しています。 2012年6月30日、ボストークテレコム創立20周年のBirthday Partyに招待されました。 斎藤正範さん、関根勝昭さん、鈴木常春さん、金澤政和さんと私の計5人がウラジオストクを訪問しました。 ロマン社長はじめロシア人スタッフから熱烈歓迎をうけました。 設立時の仲間のビデオスピーチを流し百万本のバラのロシア民謡をうたいました。 社長が功労のあったスタッフに記念品を手渡ししていたのが印象的でした。 歌あり踊りあり数々の趣向をこらしたパーティで一生の思い出となる一日でした。 写真は、パーティで故ゼーマ社長夫人と一緒に撮ったものです。 






 
  
Happy Birthday !


  10月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。 この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。


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1. 舘野 孝 さん (10月2日生まれ)

 近況報告

  1997年9月に退社し、カナダ横断旅行をしている時にカナダに住むかな、と考えていたところ、急に北海道を思い出し、若い頃2度ほどスキーに行ったニセコに土地を購入。 2000年4月に移住して15年半経過しました。 1年目に家造りを行い、2年目に転職希望だった大工さんの見習いになりアルバイト。 勤めだした3ヶ月後飲み過ぎか多忙かで身体を壊し3週間ほど入院。
  冬のニセコしか知らずに来て、春、夏、秋も素晴らしいことに気付き、団塊の世代を呼び込もうとして、2002年不動産屋を興し現在に至っています。 団塊の世代は移住してきませんでしたが、その代わりパウダースノーに憧れ外国人が移住してきています。 通信業から未知の不動産業に転身しましたが今思うと怖いもの知らずでした。
 ニセコ町の人口は5000人弱です。 隣町倶知安町のヒラフ地区を併せてニセコと呼んでいます。 ヒラフ地区 は冬には公用語が英語になり、スキーヤー・

   誕生花: 金木犀
   花言葉: 謙虚、気高い人

ボーダーの80%以上は外国人でまさに異国で、海外のスキー場に行った気分です。 夏には自転車が流行っています。
  ニセコは自然環境が素晴らしいところです。 空気と水が美味しいし四季の移り変わりが刺激的でもあり魅力的です。 スキーは勿論、ラフティング、ゴルフ、登山、フィッシング等、アウトドア・スポーツは何でも出来ます。 多種多様な温泉も豊富です。 会社時代には野球をやっておりましたが未だソフトボールをしています。 テニスの回数は減りました。 年に1回羊蹄山を登っています。
スキーもシーズンでコンディションの良い日を選び15日ほど滑っています。 ゴルフは半年で40ラウンド前後します。 スキー場、ゴルフ場まで20分以内で恵まれています。 ニセコに来たら是非お立ち寄り下さい。  
(元東報局、名古屋営業所、研修センター等)



町内の祭りにて(右から2番目が筆者)










    
2. 太田 忠一 さん (10月3日生まれ)

 電信切手

  郵便切手を集めて60年、電信切手に興味を持って50年がたった。 電信切手を集めているというと、切手収集家でも「それなに?」という返答が返ってくることがほとんどなので、一般の人には電信切手は全く認知されていないと思う。
日本の電信切手
  電信切手は電報料金の前納用に使用されたもので、ほとんどが19世紀の先進国で使用された。 その使用はたかだか10年程度でその後は郵便切手が使用された。 日本でも明治時代に3年間ほど使用されている。 図の切手は日本の電信切手で1銭から1円まで10種類ある。 明治18年(1885年)7月に当時電信を所管していた工部省から発行され、約3年間使用された。 その後は逓信省ができたこともあり、郵便切手が使用された。 全世界で発行された電信切手は約3000種で、数十万種以上発行された郵便切手に比較すると極端に少ない。
  郵便では、郵便切手は封筒などに貼られ、そのまま受取人に届くのに反して、電報では、電信切手は電報の頼信紙に貼られ、発信人の電報局にとどまり、電文だけが電気信号で受信側に送信される。 受信側の電報局からは受信人に送達紙が届くだけである。 今日使用済みの電信切手が我々の手に入るのは電報局から電信切手の払い下げがあるからである。
作品の前での筆者
  当初は仕事の関連から、電気通信関係の郵便切手を中心に集めていた。 電信切手に本格的に取り組むきっかけになったのは5年ほど前に地元の郵趣会での電信切手の講演依頼である。 各国最低1枚の電信切手の現物を目標に世界各国の電信切手をリスト付きで紹介することにした。 カタログと首っ引きで作業を始めたが、整理してみると必要な切手が足りないことがわかった。 ネットオークションや欧米の切手商のオークションに入札し、入手した。 その後も特にイギリスの電信切手を中心に集め続けた。 国内の競争展にも出品し、上位入賞を果たした。
  今回縁あってイギリスの国内切手展展(STAMPEX 2015)に出品した。 会期は2月17日(火)から21日(土)までロンドンで開催された。 作品は「イギリス帝国の電信切手」で80ページ(5フレーム)に及ぶもので、郵送するのは問題があったので自分で持参し、展示して持ち帰った。 

    誕生花: 楓(カエデ)
    花言葉: 非凡な才能

そのためロンドン滞在は前後に余裕を見て9日間となった。 幸い大金銀賞をいただいた。 写真は出品作品の前での筆者である。 会期中はほとんどイギリスの友人と一緒で、ロンドン在住の電信切手のコレクターのお宅を訪問したり、大英図書館の電信切手のコレクションを見たりした。 オークショナーの店で電信切手のオークションの下見にも付き合った。 ロンドンには9日間滞在したが、切手展関係のイベントもあり、いわゆる観光スポットにはほとんど行く時間がなかった。 それでも訪英の目的は十分果たされたと思っている。 なお、イギリスの切手展に出品した作品は、次のウェブサイトで見ることができます。
       http://1drv.ms/1urfISF


      
出品作品の電信切手のリーフの例      表彰状







3. 玉木 久光 さん (10月22日生まれ)

 万事不如意

  会員の皆様お元気で毎日を送っておいでの事と存じます。 今月は私の誕生月で、近況を書くようにご依頼をうけました。 平素お世話ばかりになっていますので、せめてもの償いに快くおうけしました。 この十月で私は92歳になります。 2年前に卒壽を迎え、人生の卒業を晴れがましく思ったものでした。 私に近い会員の皆さんは前代未聞の敗戦を経験し、皆夫々に苦難の歴史が詰まった経験をしたものです。
  10年位前当時大学生であった孫に余り話したくもないその頃のことを話しました所、是非もっと詳しく教えてくれと頼まれました。 生来の不精でほったらかしにしておりましたが、卒壽を迎えおぼろげな記憶を思い出しながら、「生い立ちの記」「私のシベリア抑留記」を書き終えました。 息子が製本をしてくれヤット肩の荷を下ろしました。 会社時代は大勢の皆さんに支えられ大過なく過ごす事ができました。 中でもおもいでに残るのは、沢山の新入社員を迎えて、沢山の独身寮を造らされた事や企業年金規定など知識も経験も無い仕事をしたことでした。 成立の過程では私だけが知る難しい事や、書き残すことのできない嫌なこともありましたが、其のことは墓場まで持っていくことにしています。
  80歳を過ぎた頃からは、万事不如意となりましたが、ことに帯状疱疹と脊椎管狭窄症を患い、いまだに、

    誕生花: ミニバラ
    花言葉: 無意識の美

その後遺症に悩まされております。 周囲の皆さんの善意に支えられながら、半人前ですが残りの人生を送って参りたいと思っています。 この際少しでも恩がえしをしようと近くの老人ホームでの、デイサービスの方々に、ボランティアとして書道教室を月4回、手本を書き一緒に楽しいひと時を過ごしております。 始めてから3年以上経ちましたので、この辺が引き所かなと、内々考えていますが、皆さんが、辞めないで下さいと懇願され、今少し頑張ってやりたいとおもっています。 『権勢に依阿する者は満古に寂寥たり』を信条として生きてきましたが顧みて心の痛む思いもします。 地震、水害と天災が続いていますが、会員の皆様のご健勝をお祈りして駄文をおわります


+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+  会員の皆様から一言 +:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+

玉木氏の記事を拝見して         堀 忠彦 2015/10/10 22:26:09  

  久し振りに、ホームページを開いて見た。 10月は私の誕生月なので、誕生月の方の投稿を見たら、小野受信所時代お世話になつた玉木氏の記事を拝見、私も一言書いてみました。
  小野から大信調,支社、昭和50年JICAえ出向イランへ2年派遣され、帰国後大阪支社・大回統局と回り、昭和60年定年退職、以後趣味に生きる事とし、漆工芸を5年間山下正峰氏に師事して塗り・螺鈿・蒔絵と漆工芸全般の技法を習得、日本全国の主漆器産地を見て回り、各地の塗りの技法を研鑽、平成7年漆遊会を主宰、芦屋・吹田で教室を開き、漆工芸を教えた。今も芦屋の教室は続けている。
  そのほかゴルフも東条湖CCの福寿会(シニアーの会)月1回はプレイしている。
  車は55年間無事故、そのほかカラオケ・料理教室にも夫々20年間通った。
  定年後65歳の時心臓バイパス手術、74歳の時前立腺癌の手術と大病をしたが、長壽の家系、{私の父は94歳5代前の亀次郎は慶応3年86歳}のお蔭で長生きしている。 長生きの秘訣は時々聞かれるが、私は煙草は吸わない・酒は飲まない・6時起床11時就寝と規則正しい生活、食事にも注意し何でも食べる.歯も自分の歯、寝る前に歯間ブラシも使用して十分手入れ。
  夕方20分のダンベル体操、週2~3回の棒振り(庭にネツトが張ってある)を行っている。

以上

1925年10月17日生れ 卒寿 堀 忠彦

※ 堀さんの一言は「会員の声」のページにも掲載しております。



4. 武田 伸子さん (10月23日生まれ)

 職場と私

◆こども時代
2014年3月 作品展で
タヌキ囃子伝説の証城寺、歌舞伎の「お富・与三郎」の舞台の浜、漁師と芸者の港町。 今では、潮干狩りと海苔の千葉県木更津市で、1944年に兄二人・姉二人の末っ子として生まれました。 旧姓は大日方。 パラリンピック長野大会でのアルペン(チェア)スキーの金メダリスト 大日方邦子さんと同じで、「おびなた」と読みます。 三代続く、内科医でクリスチャンの家庭です。 正義感が強く、気も強い。 弱い者いじめの男の子を丸太でぶん殴るなど、男まさりでした。 伸「子」は、のぶ「こ」ではなく、のぶ「し」と読む、といわれたほどです。 「謝りに行きなさい」と言われても、「私はわるくないもん」と強情を張り、いじめっ子の家に謝りに行くのは、いつも母代わりの姉。 母が病弱のため、長姉が母代わりだったのです。 お祭り好き。 飼育にはすぐ飽きるくせに、動物好き。 手仕事には興味津々、大工など職人さんの仕事ぶりをじっと見て飽きない子供でした。 地元で高校を終え、青山学院へ進学しました。

◆ KDD生活

   誕生花: 竜胆(リンドウ)
   花言葉: 勝利、正義感

NHKのアナウンサーに憧れていました。 港町育ちのせいか、「語気」が強すぎといわれ、諦めました。 親は教員を勧めましたが、縁あってKDDの電話オペレーターに採用されました。 大手町ビルでスタートし、KDDビルで終えた、輪番勤務。 母の日・クリスマスの繁忙、夜食、モーニング、お茶、歓送迎会、忘年会、お正月の箱根駅伝、おりおりのレク行事、研修、などなど。 そのころの写真をみるたびに、 よき仲間・先輩・後輩に囲まれて過ごせた職場の日々がはっきりとよみがえってきます。 育児休職や特別勤務の制度に後押しされ、自分にぴったりの仕事30年。 ほんとうに幸運だったとしみじみ思います。

◆近況
昨年、命拾いをしました。 お寺での集まりの後片付けでのこと。 重い座卓を持ち上げたとき、畳の上ですべり、ころんで座卓の縁に喉を打ち付けました。 次の日、息苦しさがひどくなり、急遽、気管切開手術を受け、10日ほど入院しました。 運よく、一命はとりとめましたが、一年たった今なお、声帯に障害が残り、大きな声、高い声が出ず、困ることがあります。 もともと難聴気味のところへ、声の劣化ですから、得意だった電話での受け答えが苦手になりました。 お風呂で歌ったりして声帯のリハビリに努めています。

2014年6月
バンクーバーで
  転倒防止のためだけでなく、筋肉は免疫のもと。 健康には大切なものと知り、30分間のストレッチと筋力トレーニングのプログラムに参加しています。 おかげで、飛距離は短くなりましたが、好きなゴルフも続けられています。 雑種ネコ3匹の面倒をみながら、ときおり、日帰りバス旅行に参加し、シャンソン・コンサート、演劇、落語などを聴きに出かけます。 家事の合間の息抜きに、草木の手入れをし、テレビのスポーツ番組やドラマ(刑事もの)を見ています。
  習い事は、グラスリッツェン。 ガラスの表面を専用の針で削り、模様を描いていくのです。 昨年はじめて作品を出展しました。 ここ3年で、五人兄弟姉妹が二人に減り、母代わりの姉も逝ってしまいました。 さびしくなりましたが、やむをえないこと。 私はとりとめた命を大切に、生きていこうと思っています。









 
  

Happy Birthday !

  9月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。 この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。


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1. 坂本 令子 さん (9月7日生まれ)

 私の一週間

  私はKDDが合併する直前の8月末、早期退職しました。 あれから15年。 退職後はどんなに暇になってしまうだろうかと、少し不安でしたが思いの外楽しく過ごしています。 趣味のこと等、日々の過ごし方をご紹介したいと思います。 


   スロバキアのブラチスラバの旧市街にて
   友人と (右側が筆者)

★月曜日の午前は月2回、マンションの集会室で「英語」の勉強会。 英語の先生をされていた方を中心に、英語の本を読んでいます。 ついおしゃべりに花が咲き、勉強時間は2/3位ですが。 今は「赤毛のアン」を読んでいます。


★月曜日の午後は、毎週「コーラス」。 明るく楽しい先生を中心に、近くの公共施設で行っています。 年1回の発表会があり今年は金子みすゞの詩による歌曲などを練習しています。 練習後は自由参加でテイータイムがあり、先生と生徒のコミュニケーションの場となっています。 平均年齢は60代後半、歌声は30代です。



  誕生花: マーガレット
  花言葉: 誠実、心に秘めた愛

★水曜日の午前はボランテア。 高齢者施設の書道クラブで、書道をされている方々のそばで、道具の準備、後片付けなどなんでも。 時々お喋りもでき、先輩の皆様から人生も学べます。 この施設はコーラス、カラオケ、生花、園芸、映写会、麻雀などの7クラブ活動の他に、月一回のランチ、年一回の温泉旅行でお出かけの機会もあります。


★水曜日の夜は「バレエ&ストレッチ」。 バーレッスン・ストレッチ・フロアレッスンから成り、正しい姿勢を保つのに最適です。 正しい姿勢はからだに負担をかけず、健康に良いそうです。 音楽に合わせて身体を動かすことが出来、優雅なひと時です。



 キルトの作品のひとつ

★金曜日は月2回、国立市のキルト教室に通っています。 手先を使うのでボケ防止になるでしょうか?。 色彩・柄の組み合わせ方で作品の印象が大きく変わってきます。 楽しくもあり難しくもあり、いつも宿題に追われています。


  この他に年1~2回、海外旅行・国内旅行・スキー・ハイキングを楽しんでいます。 今年の春は中欧五か国の旅を楽しんできました。 今後もk-unet会員の皆様からの情報や企画への参加を楽しみに、一日一日を大切に過ごしていきたいと思います。 




    
2. 大場 一則 さん (9月15日生まれ)

 初めての海外生活・旅行


プノンペンにて
  初めての海外生活・旅行について書いてみたい。
  初めて海外に出たのは32年前、1983年の4月初め、青年海外協力隊で西アフリカ、ガーナ国に行ったのが初めてであった。 それまで、海外には全く関心が無く、海外旅行にも特に行きたいと思うことは無かった。 当時茨城衛星通信所に勤務しており、JICAの衛星通信技術コースの講師を務めていたので外国人と接する機会は多かったがどちらかといえば仕事とスポーツに夢中だったことを覚えている。 ガーナ国に行くきっかけについてはここでは省略するが、海外にとりたてて行きたかったわけでは無かった。
  ここでは海外生活・旅行の話であるので続ける。 さて、ガーナ国にて一年過ごした後、一か月の休暇旅行がもらえることになり、どこに行こうかと考えたところ、周辺の国かまたはイギリスに行っても良いことがわかり、休暇旅行としてイギリスを選ぶことにした。 (周辺の国はフランス領だったので言葉も気になった)

ガーナ地球局にて
  イギリスを選ぶにあたり、せっかくだからグーンヒリー地球局を訪問し、ガーナ地球局の送信キャリアーを実際に観察できないかと考えた。 茨城地球局からガーナ地球局にボランティアで技術指導にいった者としてガーナ地球局は驚嘆といえる惨状であった。 ガーナ地球局は茨城地球局とは大違いで、多くの通信設備が故障しており技術指導は名ばかりで設備の修理に追われた。 (LNA(注1)の電子冷却素子を交換したのを覚えている。 茨城局のNEC製は密封してあるが、現地の米国製は密封してなかった)また運用もあやうい運用をしており、ESC(注2)は故障しており、マニュアルでIOC(注3)、他局とTTY(注4)の接続方法を考えたりした。  また、電源事情も悪く、しばしば、停電があり、運用が中断することもあった。 地球局への交通手段は車での送り迎えがあったが、時々ガソリンが無く地球局にいけないこともあった。 さらに付け加えると、当時、発電所の有るアコソンボダムの貯水量の減少が続いておりアクラ(ガーナの首都)市内の計画停電が始まった。 生活においても私の住んでいたアパート周辺も含まれており、夜8時以降電気が止まった。 そのため、冷蔵庫もあったが、ほとんど役に立たなかった。 ろうそくも品が少ないので9時にはベッドに入ることもあった。

 
  話をイギリス旅行に進める、イギリス休暇旅行は往復の航空券のみアクラで購入した。 後は、ロンドン到着後考えることにした。 イギリス休暇旅行が初まった。 何も考えずロンドン到着後、早速ツーリストインフォメーションセンターを訪れ宿を予約した。 金はあったが、節約するために主にB&Bを利用した。 宿を確保後、KDDロンドン事務所を訪れ、グーンヒリー地球局見学申込みをしてもらった。 グーンヒリー局から連絡が有り見学できることになった。 (事務所に事前連絡もせず行くことは当時無謀だったと思う)翌日、列車でHelstonに向かいグーンヒリー局を訪れた。 周辺はほんとに田舎で田園風景が広がっておりきれいな景色であった。 局では設備見学、ESCで茨城局に連絡したり、スペアナでガーナ局の受信キャリァーを見せてもらったりした。 ガーナ局の送信キャリアーは想像していた通り、送信スペクトラムが不安定なことが確認できたのを覚えている。 見学終了後、ホテルに行く。 グーンヒリー局の近くに泊まったホテルはこぢんまりとした小さなホテルだったが、部屋はきれいで料金は安く、とても快適に過ごせた。 翌日ランドエンドまで足を延ばし英国の西の果てを見た。
  一足とびにロンドンに戻り、今度は北に向かうことにした。 列車でスコットランドまで行き、ヱジンバラを訪れた。 当時日本人は珍しかったのだろうか車内でチケットチェックのとき、どこに行くのか日本人かと尋ねられた。 スコットランドに着いて、ホテルを探し予約し、ネッシーで有名なネス湖を見たり、エジンバラのゴルフショップでセーターを購入した。 そのセーターは30年以上経過した今でも着ることができる。

  誕生花: 実蔓(サネカズラ)
  花言葉: 好機を掴む、再会

  その後、湖水地方を見たりしてロンドンに戻ってきた。 当時西も北の地方も出会う人が少なく、街を歩いていてもあまり人に会わずとても静かだったことを覚えている。 ロンドンに戻り、しばらく滞在し大英博物館・美術館等を見て回った。 宿は、地方とロンドンではB&Bを利用したが、地方では6~8ポンドで朝食付きの良質の部屋と調度品も良いイギリスの家に泊まれとても良かった。 ロンドンのB&Bは値段が高く15ポンド位したが部屋もそまつであまり良くなかった。 若かったし、ガーナでの生活に比較したらイギリスのB&B等でも天国であった。 快適な旅行だった。
  休暇旅行も終わりに近づき、イギリス滞在に未練を覚えた。 このままロンドンにいたかった。 ガーナに戻るためガトイック空港でチェックインし、飛行機に乗り込むと周りは黒人だらけ、東洋人は私一人であった。 日本から遠く離れた場所にいることをひしひしと感じたが寂しさを感じることより見知らぬ世界での生活に夢中だった。
  遠い昔の海外生活・旅行について書いてみましたがいかがでしょうか、振り返れば今まで語ることが無かった経験談です。 遠い昔の話ですが若いときは無謀と思えるような行動をしたものですがとても懐かしい思い出です。 

  (注1) LNA : Low Noise Amplifier (低雑音増幅器)
  (注2) ESC : Engineering Service Circuit (技術連絡用回線)
  (注3) IOC : INTELSAT Operation Center (インテルサット運用センター)
  (注4) TTY : Teletype (技術連絡用テレタイプ)



    
3. 北田 勲 さん (9月24日生まれ)

 古希を迎えて

  皆さん、こんにちは今月で古希を迎えます。人生70年を振り返ってみました。

◆子供の頃から電気いじりが好きで無線に興味を持ち、1964年に運良くKDDに入社。東京オリンピック開催、新幹線開業、TPC-1開通と心に残る年に入社できたことは幸運であった。

  小山送信所に配属となり、送信所の運用・保守に携わりいろいろなことを経験させて頂いた。就業後には、「全国テニス大会に出場しよう!」を合言葉にテニスに没頭した青春時代を懐かしく思いだす。


  誕生花: ダリア(黄)
  花言葉: 優雅、威厳

◆東京へ来てからは、データ通信設備の建設・運用・保守を担当した。 現在ではパケット通信という言葉は小さい子供でも知っているが、40年前にはこの様に身近になるとは誰も思ってもいなかったのではないだろうか?

◆研究所管理課・小山国際通信センター・KDD-NSで電力設備の管理業務を担当した。 この経験がKDD退職後大いに役立っている。 現在は、「公益社団法人東京電気管理技術者協会」に所属し、個人事業主として電気管理事務所を開設して、太陽光発電設備及び中小ビル・工場・学校等の高圧受電設備の保安管理業務を受託し、毎月お客様の施設を訪問し、点検している。自営なので自分の裁量で決めることができ、楽しみながら仕事ができるのはありがたい。



 五稜郭公園前にて、左から井草さん、山本さん、
益子さん、松澤さん、筆者(右端)
  遠い所では、九十九里近くまで行き、竹馬の友が営む工場の設備を点検した後いろいろ話が弾む。 協会会員の多くは強電の経験者が多いが、最近ではIT技術や通信技術も求められ、KDDで培った技術も役に立っている。 3.11震災以降、再生可能エネルギーの普及が目覚ましく、発電出力が1,000KW以上となる大規模太陽光発電施設の「メガソーラ」の管理業務も受託している。 無人の施設なので遠隔監視制御装置が必須となり、KDDでの無線中継所や海底線中継所等の監視技術が役に立っている。
  電力経験者、電気管理技術者のKDDOB仲間も増え10名超になった。 暑気払いと忘年会で情報交換を行っている。  昨年は北海道へ研修旅行に出かけ、函館山、五稜郭公園を回り間もなく開通する北海道新幹線工事の現場も視察した。 健康第一に好きな仕事で生涯現役を貫きたい。




 
  
Happy Birthday !


  8月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。 この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。


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1. 肥田  俊 さん (8月7日生まれ)

 KDD時代の苦い思い出とその後


 展示会への出展作品に囲まれて
  給料に見合った仕事が出来ない不甲斐なさと併せ悠々自適の生活を夢見て、平成9年7月、56歳の手前でKDDを退職、電気通信業界に身を置いた証として執筆した専門書に添えた挨拶状か早期退社の挨拶状か忘れたが「種々の重要なプロジェクトに参画する機会を得て、得難い経験をさせて頂いた反面、世話になった皆様の期待に十分応えたと言い難いと思いますが、常に自分に正直に生きた人生だったと自負している」と記したのを見て、一部先輩から「お前は宮使い向きではないな」と言われたのを今回の執筆の依頼を受け、改めて思い出しました。

  誕生花: オシロイバナ
  花言葉: あなたを想う 内気

  まず、それに纏わる苦い経験を二つ紹介してKDD時代の思い出とさせて頂きます。
  一つ目は本社で数的に一番大きな課の課長を拝命した直後の身上調書、会社の事を思って書いた一節が人事部ないし上司に十分理解されず、課長職を解かれ技術本流から傍流、さらに業務傍流と一度も復権することなく転々と渡り歩いた事。
  二つ目はその業務畑で「札束をどぶに捨てるような」(と当時言われた)職場に配属された時代、周りが定年近く無事退職を迎えたいと言う管理者が多かったことも手伝い、誰も異議を唱えない中、只一人不正に無言の抵抗をし、職場全体からいびりの対象になり筆舌に尽くし難い苦労しながら、部外者の精神的応援を頂き耐え抜いた事。 今では時効では有るが、仕事に行こうと家を出たものの足が新宿に向かずUターンして家に帰った事も! いずれも自己責任で有るが、二つ目は忘れがたい事例でもある。
  早期退職の理由としの一つ「脱サラと田舎暮らしによる悠々自適な生活」があるが、栃木県の片田舎にセカンドハウスの居を構えるも趣味が少ない人間にとって「毎日サンディ」は辛く、転身準備休暇を利用して執筆した専門書をもとに高専の講師をやる傍ら、造園、社会保険労務士、はたまた今はやりの「ウエアラブル端末」の権威者である大学教授と結託して起業にも挑戦、経済的に恵まれたKDD時代の蓄えが有ったからこそ出来た、男のロマンを追い求めた時代でもあった。
  60歳過ぎて仲間づくりのため地元のいきがい(老人)大学に入学、卒業後もその校友会の世話役(会長)として10年、とても趣味とは言えないかも知れないが、絵画、コーラス、ハイキング、グラウンドゴルフ等を通して大勢の仲間を得る一方、地元の皆さんと囲碁、陶芸と忙しく過ごしている。

 科学ものづくり教室風景
  70歳を過ぎた現在は、以前から行っていた小中学生を対象とした科学ものづくりのボランティアに加え、地元中学校の業務員(昔で言う小遣いさん)として、若い先生、生徒からエネルギーを貰いながら、"You can get pocket money without any stress!"(納会の余興としての英語の挨拶から) と気楽な余生を送っている。

 (原稿を書き終えて)
  今回、事務局から投稿の依頼を受け、「いろいろお世話になった方も大勢いますが、『不遇のKDD時代を送った身』として少々愚痴も入る投稿になるかも知れませんが」と言って受諾したが、原稿を読み返すとやはり愚痴ぽいなと感じた次第。 これも自分らしいところなのでご容赦を!


    
2. 小川  明 さん (8月15日生まれ)

 父のこと

  私の誕生日は8月15日で、終戦記念日と同じです。
  1945年8月15日は私の8歳の誕生日でした。 その日の昼に天皇陛下の放送があるとのことで、父とラジオを聴いていました。 そうしたら、父は日本が負けたので、その旨隣組に知らせてこいと母に言いました。 というのは、うちのラジオは米国RCA製の高周波1段付スーパーで比較的高感度明瞭に聞き取り易かったからです。 当時私達家族は京都市伏見区に住んでいて、父は宇治の近くの大久保というところの飛行場で練習機の設計制作に携わっていました。
  当時京都は爆撃を受けず、比較的のんびりしていました。 もっとも学校の帰りに機銃掃射を受けて、肝を冷やしたことをおぼえています。 また食料が不足して、芋の葉っぱや茎で作った団子ばかりを食べていました。 戦時中の生活は言い出せばきりがないほどいろいろありますが、ここではやめておきます。
  父は殆ど時を移さず、出身地の名古屋に戻り、愛知高専機械工学科の教授になりました。 もともと名古屋高専の教授だったのですが、戦争が始まって、飛行機作りに変わりました。 多分給料が高かったのではないかと思います。 物資不足で制作が思うにまかせなかったようで、結果として特攻隊員増加につながったかしらと想像しています。 どうせやるなら名古屋でゼロ戦でも作った方がよかったのにと思いましたが、真相は聞かずじまいでした。 家族は、父が帰名してから数か月後に東海道線の有蓋貨車に乗って、東山と逢坂山の長いトンネルを煙にむせびながら通過し、やっとの思いで名古屋にたどり着きました。 そして、そこで焼け野原を見て仰天しました。

    誕生花: 蓮
    花言葉: 清らかな心、雄弁
  名古屋では、中村区稲葉地というところで2階を間借した生活で、母は大変苦労したようです。 父は学生に機械工学を教えるより、学生達と畑仕事で、収穫物を抱えて帰宅するのが日常でした。 その後、私が中学生になったとき、千種区にある県営アパートに移ることができ、狭いながらもやっと人並みの生活ができるようになりました。 この頃から朝鮮戦争が始まり、その特需で生活レベルが上がり、朝鮮戦争が終った中学卒業の頃には、貧乏から少し抜け出たかなという気がしました。 韓国のお蔭ですね。 父も正常に教育をするようになりました。
  通っていた中学が愛知高専の一部を借りていて、授業をさぼって友達と遊んでいたら、そばの教室で父が講義をしているのが見えて驚いたことがありました。 なお、愛知高専は、名古屋高専と合併して、名古屋工業大学となり、父はそこの機械工学科教授になりました。 驚いたことといえば、KDDの研究所に勤めるようになって或る時、榎本さん(後の東工大教授、故人)から父の書いた機械設計の本を高専時代に教科書で使ったといわれたことです。 どうして私の父であることがわかったのでしょうか。 その本は上下2巻からなり、20年以上出版され続けたもので、私が見ても実例に富んでわかりやすい本と思いました。 父は図面を描くのが得意で、その本にある設計図面を全て自分で描いたとのことです。
  父は、私に勉強を教えたり、強いたりはしませんでしたが、1度大学教養時に図学の宿題があり、ばねの図を描いていたら、何と下手くそだと言って、あれこれ文句を付けられました。 そのため、専門課程では父が期待していた機械工学には進学しないで、電気工学に進むことにしました。 そして新しい所で生活したいとの気持ちもあって、名古屋に職場のないところとしてKDDを選びました。 親不孝者でした。

  最後に、父は写真や絵に趣味があり、若い頃からよく軍艦の絵を描いていました。 そこで、その1枚をここに載せさせて頂きます。

+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+  会員の皆様から一言 +:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+

軍 艦 名         町田 香子 2015/08/24 19:53:40  

小川さん
町田です。
「ハッピーバースデーのお便り」拝読しました。
お父様がお描きになった絵の軍艦名は、ご存知でしょうか。
去年、亡くなった私の父が、昔 海軍経理学校で軍艦に乗っていたようです。
軍艦「伊勢」の話しは聞いたことがあります。軍艦「武蔵」や「大和」に乗っていた知人もいたようです。もし、描かれた軍艦名がわかりましたら、父の同期で91歳のお元気な方もおられますので聞いてみたいと思います。
町田 香子

+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+  小川さんからの返信 +:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+

Re: 軍艦名    小川 明  2015/08/27 11:32:13

町田さん
コメント有難うございました。
絵の軍艦名は残念ながらわかりません。 ただ、艦の形から戦艦ではなくて巡洋艦のようです。 他にも巡洋艦の絵を描いていましたので。


+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+  会員の皆様から一言 +:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+

軍 艦 名         樫村 慶一 2015/09/01 22:11:16  

 誕生日のメッセージ8月生まれの中に、小川明さんの投稿で、軍艦名が知りたいというのがありました。それに対して、町田香子さんが回答しています。これらについて私の知るところを申し上げます。

 この絵の軍艦は、日露戦争のときの東郷平八郎元帥が率いた連合艦隊の威風堂々たる威容です。最後尾の軍艦ですが、マストの間に2本煙突は、旗艦戦艦、三笠、戦艦富士。戦艦朝日、装甲巡洋艦、常盤、浅間などでしょう。煙突の煙の向きや、船の形態からみて艦隊は絵の左に進んでいます。つまり北に向かっているわけで、最後尾は三笠だと思います。
 この状態は、連合艦隊が有名は”敵前回頭”をしているところと思われます。つまり、通常の進行ではこの絵の最後尾は先頭になっているわけで、其の場合の最後尾は、アルゼンチンが供与してくれた装甲巡洋艦「リバダビア」で日本に来て春日と命名されました。しかし春日はマストが1本で両側に煙突がありますすから春日ではありません。これらの状況から推測して、この軍艦は、恐らく旗艦三笠だと思われます。

 絵にするには、はっぱり、有名な状況をモデルにするのが普通ですから、意味のない状態の絵ではないと思います。マストの人カ型ですが、これはマストを支えるロープを太く書いたものでしょう。余談ですが、このときに先頭になった春日は集中砲火を浴びて、大分やられました。この辺のことは私のホームページ 「ラテン・アメリカと私」をキーワードにしてグーグルででも検索してみて下さい。開いた目次の中の「春日のピアノ」の中に色々書いてあります。





3. 杉原 裕俊 さん (8月19日生まれ)


  57歳で早期退職して以来、15年になります。 愛知県の郷里で天候に左右されながら有機農業の日々を送っています。 その傍ら町内会・自主防災会での担務、地元神社の氏子総代また市役所の環境インストラクターなどを務め、市民の方々のエコ活動を応援し、その普及を図っています。 そんなこともありまして私自身、自然エネルギー(ソーラーエネルギー・バイオマスエネルギー)を利用し、その自給率は、年により異なりますが年間150%前後を推移しています。 さて、エコ・エネルギーのことは、別の機会に譲るこことして、今回は、会員の皆様方にも関心をお持ちの方もいらっしゃるのではないかと思い「ガンの予防と再発・転移を防ぐ」をテーマに私の経験から記させていただくこととしまた。
  今から6年ほど前になりますが、毎年受けている自治体のガン検診で胃にガン細胞が見つかりました。 幸い発見が早くステージ1にも満たないものでした。 主治医として担当されるDrに「EMRで取りますか?ESDで取りますか?」と訊ねますと[ESDで取ります。 ]そして「先生のESDの実績は?」と尋ねますと「年間40件ほどです。 」との答えが返ってきましたので即刻お願いしました。
 (注)ESDはとは、内視鏡での電気メスによる粘膜剥離手術です。 また、EMRは高周波電流を流した金属の「輪っか」で
    切り採る内視鏡手術で、大腸ポリープなどの除去ではこれが用いられることがあります。

  手術中は、めったに無い機会でもあり、ずっとモニター画面を見ていようと思っていましたが、点滴液の中に睡眠剤を入れられ不覚にも眠ってしまい、その過程を見ることは叶いませんでした。 「杉原さん、終わりましたよ。 」の声で眠りから覚めました。 私のガン体質改善は、このガン細胞が見つかった、まさにその日から直ちに始まりました。 一連の経験から良い勉強をさせていただいたと思い、一人でも多くの方々にお話していくことが私の務めだと解釈し、「ガンと正しく向き合うための11ヶ条」を書き、いろいろな機会を通してお話し、私の思いをお伝えすることが、新たな仕事に加わりました。

ちょっとひと言・・・(ガンと正しく向き合うための11ヶ条について)

1 ここでの大切なことは、毎日、数千個も生まれているというガン細胞を消滅させるために、ひとり一人の免疫細胞を活性化させ、併せてDNAの修復・細胞の抗酸化・有害物質の解毒を図ることです。 そのための項目を記しています。

2 トランス脂肪酸については、この6月、米国のFDAが健康リスクを理由に使用禁止を発表しましたので、記憶に新しい方もいらっしゃるかと思います。

3 ゲルソン・ジュース。 ドイツの医学者マックス・ゲルソン博士が提唱するガン対策野菜ジュースです。 その用法は本来極めて厳格なものですが日本では、日常手に入れられる食材で組み直されています。 目的は免疫細胞をバックアップするために必要な栄養素と「生きた酵素」を摂るためです。 それ故、出来上がった野菜ジュースは、その場で飲まれるようお勧めします。 予防には目安として、400ミリリットルを1日3回、治療時には同量を5回飲用するとされています。

4 ほうれん草は、有用な野菜ですがシュウ酸があり生食はお勧めできません。 湯掻いて、シュウ酸を湯に溶かし、カルシウムと一緒に摂ることでシュウ酸の害を抑制できます。 「鰹節」や「ジャコ」を載せた「お浸し」は、その意味で極めて理にかなっていると言えましょう。 先人の知恵に驚くばかりです。

5 ヨーグルトは、無脂肪のプレーンヨーグルトをお勧めします。 私は、温度と時間を任意に設定できるヨーグルトメーカーで自家製の豆乳ヨーグルトを作り食しています。

6 身体の修復は「成長ホルモン」により睡眠中に行われます。 よって深い睡眠が求められます。

7 第11条はメンタル面から免疫細胞を活性化しようというのが目的です。

8 最近、女性の大腸ガンが増加しています。 肉類や脂肪を摂ると、消化のため胆のうから胆汁が分泌されることは皆様方ご承知のとおりです。 この胆汁が便秘などで腸内に滞留し酸化しますと二次胆汁酸となり、発がん性を帯びることとなります。 食物繊維を十分に摂り腸管活動を活発にして便秘の解消に努めましょう。 免疫力の向上にもつながります。

9 免疫力低下の原因は、主として、ストレスや食生活の不摂生、粘液(唾液や鼻水)の低下、腸内環境の悪化などです。 より良い生活習慣を心がけましょう。



     誕生花: グラジオラス
     花言葉: たゆまぬ努力
  森羅万象、宇宙の果てのそのまた果てまで、すべての事象・物事には「道理」があります。 それを無視しては、全ての事柄は前には進みません。
  今後も多少なりとも意義ある道を歩いて行きたいと思っています。

ガンと正しく向き合うための11ヶ条
(ガンの予防と・再発・転移を防ぐ)

  癌は生活習慣病の最たるものです。 従って「手術で切り取ったからもう安心です。 」というものではなく、退院してからがご自身による本当の治療になります。  正しく癌体質の改善をすることにより必ず道が開かれます。

1 限りなく無塩に近い食生活
  出汁・下味以外塩分は使わず、個々の食材が持つ味を楽しむ。

2 動物性たんぱく質・脂肪、アルコール、タバコ、白砂糖、揚げ物等カロリーの高い食品、マーガリン・ショートニング・プロセスチーズ等トランス脂肪酸、また、食品添加物を含む食品を控える。 だだし、ヨーグルトを除く。 (乳脂肪”0”のものがお勧め)

3 新鮮な野菜と果物の大量摂取
  カリウムを始めとする各種栄養素と生きた酵素を大量に摂取する。  ゲルソン療法による野菜ジュースを
  飲用。 ⇒別稿
4 乳酸菌、海藻、キノコ、豆腐・納豆を始めとする大豆製品・豆類、イモ類、未精白の穀物(玄米・胚芽米・
  全粒粉)の摂取
5 レモン・ハチミツの摂取

6 主食は天然の抗ガン剤を生み出す「玄米」を常食とする120℃以上で空炒し、抗癌成分(RBA・RBF)を現出させる。

7 食物繊維の摂取
  大量の食物繊維を摂取して腸管活動を活発にし、副交感神経を優位に立たせ、体温の上昇と免疫力の
  強化を図る。
8 よく噛む
  ひと口50~60回、最低でも30回は噛む。 豆乳・野菜ジュース等液体の食品も同様。
9 オリーブ油・ごま油の活用
  加熱料理には、酸化しにくいオリーブ油・ごま油を使う。
10 睡眠は午後11時から午前6時までの7時間(午前0時~5時は熟睡すること)
11 感謝の心と勤労奉仕
  日々、生かされていることに感謝し、人々に役立つこと・世の中に役立つことを実践する。

参 考


副交感神経が優位の時は、リンパ球が増加しガン退治には、さらに有利に働きます。


    
4. 佐藤 軍吉 さん (8月27日生まれ)

 KDDと私のマドンナ

◆ 上京からKDD退職まで
私の生家は宮城県の南端に位置する丸森町で、阿武隈川に沿った米作を主とする農業地帯です。 1941年8月に丸森町で生まれ、中学卒業後に地元の普通高校に入学しましたが、海に憧れて船舶通信士として海洋船に乗るべく、高校を中退して通信士養成校の国立仙台電波高等学校に入学しました。 通信士にはモールス信号の送受信技術が必要ですが、入学後のトン・ツーの実技授業で私には素養が無いことが分かり、通信士への道は入学早々に諦めました。

    誕生花: 芙 蓉
    花言葉: 繊細な美、富貴

電波高卒業後、KDDからの採用が2~3年無いため不採用になると思い、父の手前、一度入社試験を受けてから法学部への進学を目指すことを秘かに決めました。 しかし、KDDから想定外の採用電報が届き、入社することになってしまいました。 KDD入社のため、1961年3月末に夜行列車で上京し、4月1日(土)の入社式に臨みました。 社内訓練等で2ヶ月が経過し、6月1日に、研究所通信研究部受信課勤務の辞令が出ました。 受信課配属後、上司からマイクロ波や電子回路の本を読む様に渡されましたが、内容を理解するのに精一杯でした。 電波校では文系の大学受験に必要な授業は数学と英語以外は殆んど無く、下宿での受験勉強はあまり進みませんでした。 上京早々の失恋もあり、いろいろと迷った末にKDDに勤めることを決意し、2年後に芝浦工大の2部に進みました。
研究所に配属されてから、恵比須の目黒研究所で27年間、上福岡研究所での10年間と併せて37年間の研究所一筋の勤務になりました。
研究所で開発に関与した主な装置関係は、衛星通信用低雑音増幅器、FM-TVの高感度復調器、マイクロ波帯電力増幅器の効率化を図った非線形補償回路(リニアライザイー)、誘電体共振器を用いたフィルターや高安定固体発振器等です。 また、通信方式としては、日韓間のダイバシチイ通信、TDMA通信、国際間デジタTV伝送方式、加入者無線、光りアナログ伝送方式等になります。
これらの開発には、研究所、本社部門および関連メーカーの方々の指導と協力を得て、常に興味のある事柄に携わる事が出来たのは幸いでした。

◆ KDD退社以降
東京デジタルホン、ジェイフォンと携帯電話関連企業で、関東地区全体の無線基地局やネットワークセンター等の建設・保守に携わり、KDD研究所時代とは一変した競争社会を経験することが出来ました。
電波高では海洋部に入り松島でヨットに出会い、以来、8年前に横浜港で脊椎圧迫骨折事故を起こすまで、50年間に亘り江の島、鎌倉、横浜でヨット、クルーザー等を楽しみました。
現在は、自宅近くで100坪余の畑を作っています。 今春は、ジャガイモ、インゲン、ナス、トマト、ピーマン等が収穫出来ました。 8月末から秋野菜の栽培に入ります。


私のマドンナ(孫娘)
(2015年正月、姪の結婚式で)
◆ 私のマドンナ
電波高3年の夏、仙台で憧れだった中学同級生のマドンナに会い、上京するまでの半年弱、映画を観たり石巻・金華山へのハイキング等と楽しく過ごし、将来を夢見た交際を期待していました。 ところが、上京直後から突然連絡が途絶えてしまい、かなり落ち込み寂しい成人式を迎えた苦い思い出があります。 後年、再会してそれなりの事情があったことが分かりましたが、この頃から私のマドンナ(女性)に対する尊敬と畏怖の念が混在し、KDD入社以降の私のマドンナに対しても積極的に行動出来ませんでした。
なお、現在の私のマドンナは、小学3年生と4年生の孫娘二人(写真参照)です。 彼女たちも自我が芽生えてきて、以前ほど無心に遊んで貰えなくなってきています。
私のマドンナの結論としては、秘めた片思いといったところです。


    
5. 堀井 勉 さん (8月28日生まれ)

 香港今むかし


 2015年、旧香港テレコム・インターナショナル営業部の同僚
 とともに。右端は筆者。銅鑼湾World Trade Centreの5階に
 ある Hooray という Bar にて乾杯。
 筆者は1990年8月から1995年8月まで5年間、KDD香港有限公司および国際テレコメット香港有限公司に勤務しました。
 さて、2015年4月、6年ぶりに香港を訪れました。
 香港は相変わらず、ものすごいスピードで発展中でした。 真新しい超高層のオフィスビルやマンションが次々と増えていました。 恐ろしいほどのパワーを感じました。
 若い人の比率が多いのも驚きでした。 東京では新宿といえども街を歩く人の高齢者比率は半々程度だと思いますが、香港は8割方が20~30歳代に感じました。
 また、料理の味付けですが、日本の中華料理に慣れて来ると、香港の中華料理は大雑把・大味に感じました。 年のせいかもしれません・・・。
 また、日本のスロースピードに慣れていると、疲れてしまうほどハイスピードです。 銅鑼湾の「そごう」は昔と変わりませんが、「三越」や「日本人倶楽部」のあったビルはHysan Placeという真新しい超高層複合ビルに変身していました。

     誕生花: 桔梗
     花言葉: 清楚、気品
 スターフェリー(尖沙咀行き)はセントラル側の乗り場が、以前の郵政総局前からセントラル寄りとなり、また埋め立てにより前方に引っ越しておりました。
 また、以前の地下鉄用ICカード「オクトパス」は、現在ではバス、2階建てトラム、ピークトラム、スターフェリーなど、ほぼすべての乗り物で使えるようになったので、小銭のコインがほとんど不要になりました。
 今も昔も変わらないところと、大きく変貌しているところのモザイク模様が非常に楽しく、慣れ親しんだ外国へたまに行く新鮮さは何事にも代えがたい魅力があります。
 次回はもっとゆっくり1ヶ月ぐらい滞在して、今回回れなかったところも見てきたいと思いました。





 
  

Happy Birthday !

  7月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。 この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。


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1. 横山 喜明 さん (7月4日生まれ)

 筆道中


師、叶澄石先生の作品
「自彊不息」
 ジキョウフソク=ジキョウシテヤマズ
  この7月に齢80才をむかえます。 一休流に表現すれば、傘寿とは「冥土の旅の一里塚、めでたくもありめでたくもなし」の心境です。
  56歳のとき、会社の仕事のからみで書道を始めることになりました。 たまたま出会った師匠の書作品の深淵に吸い込まれるような線の深さにこれまで味わったことのない衝撃的な感銘を受けました。 たちまちその魔力に籠絡され、師の線質に少しでも近づくことこそ私の書道の生涯目標であらねばならないと思うようになりました。 以来、盲追すること24年。
  その間、師の意向もあって年6回くらい書道展覧会に出品するようになりました。 作品は主に幅53㎝、長さ235㎝の画仙紙に漢詩を2行か3行、行草体で書く形です。 一出品の準備に2~3か月はかかりますので、これを年6回繰り返すためには時間の許す限り筆を動かさなければ追いつかない状態になりました。 のめり込み易い自分の性分も手伝って無我夢中で運筆を続けましたが、求める線質ははるかに遠く、やがて書の世界の宏遠さに気づき、抜き差しならない無力感におそわれました。
  寡黙な師匠から稀に、「この線はいいね」と言われる一言が唯一の励みになって悪戦苦闘を続けておりましたが、20年ほど経った頃、「未だに一文字も満足な字が書けたことがない」とふともらしたところ、書歴70年の師匠からすかさず「私もそうです」と返されて絶句。 書の世界はそのように浅薄なものではない、と諭されているようで、冷汗三斗の思いでした。

毎日書道展、「毎日賞」2回目の
受賞作品
作品サイズ 横53㎝×縦175㎝
  3年前、師匠が亡くなられ、かけがえのない羅針盤を失って私のマインドは漂流状態となり、書道生活は大きな壁に突き当たりました。 しかし、それでいて煩悶を続けながらも筆は止められない。 何故か。
一般的に書道を続ける人々の目標となっている展覧会での受賞、資格の取得、塾経営、書壇活動、名声、ステータス等の利得に私自身は関心がなく、一方、少なくない経済的負担、時間的拘束、身体的負担、錬成の厳しさ等に耐えながら、何が私を書作に駆り立てるのか。
  確かに運筆に集中できた一瞬の充実感、作品を仕上げた時の達成感、素晴らしい作品を目の前にしたときの感動、心和む書友との交流等にそれなりの快感はありますが、そのことが、私が書を続ける理由の本質とは受け止められません。
  高名な登山家が登山の理由を尋ねられ、「そこに山があるから」と答えた有名な言葉がありますが、キザを怖れず言い表すとすれば、私が書道を続ける理由は「そこに書道があるから」とするのが一番近い感じがしており、この後も残り少ない余命の限り、かなたに聳える師の線質を追って筆道中を続ける心積もりです。
余談ながら、書にまつわる不思議なおはなしを一つ。

      誕生花: 捩花(ネジバナ)
      花言葉: 思慕
  毛筆で書かれた文字の墨痕を電子顕微鏡で観察すると、普通は墨の粒子が不規則でばらばらに散らばっていますが、超絶した書家が全精神を傾注して書いた場合に限り墨の粒子は整然と並んでいる事実が、科学的に証明されています。
  一見不条理とも思えるこのような現象がどうして起きるのか。 気功の「気」の力になぞらえて原因説明を試みた事例はありますが、納得できるような合理性はくみ取れません。
  KDD出身者には博識の方が多くいらっしゃるので、どなたかこの原因究明の鍵をご教示いただけませんか。


    
2. 関根 勝昭 さん (7月9日生まれ)

 うれしいこと、そして少し心配なこと

① 3年ほど前人間ドックで、PSA値が高い!と言われ、定期的に検査していたが、ついに昨年「前立腺ガン」との診断。 元KDDの人が、「手術したが後が大変」という経験を聞き、悩んだ末〝放射線治療〟にした。 治療は入院でなく通院で、しかも38回毎日「千葉県がんセンター」に通った。 終わった結果はPSA値がガクッと落ちた。 しばらく(5年間ほど)様子見となるが、とりあえず後遺症もなく楽しくすごしています。(「放射線治療」についてお知りになりたい方は直接メールをどうぞ。)


② 娘に3月下旬、男子誕生(つまり私の孫)。 娘も結構な年で半分あきらめていたが、思わぬ褒美で毎日好々爺をやっている(でもこの子には「カッチャン」と呼ぶよう教育中!)。 孫誕生はうれしいのだが、ちょっと心


       誕生花: キボウシ
       花言葉: 静かな人
配は、今国会で議論している「安保法案」なる、自衛隊を海外で戦争させる法律案だ。 この子が自衛隊に入るとは思いたくないが、その先「徴兵制」にでもなったら大変、というのが実感です。







    
3. 若原 恭 さん (7月25日生まれ)

 退職後の15年を振り返って

     誕生花: インパチェンス
     花言葉: 豊かさ、強い個性
  1999年10月末にKDDを退職してから15年経ちました。 その間、東京大学の情報基盤センターに勤務し、学内LAN(UTnet:University of Tokyo network system)のバックボーン部分の運用と、大学院学生指導を含む研究等に取り組み、今年の3月末に定年で退職しました。
  東大の運営組織は、自律・分散・協調系と言われることもあるように、その構成要素である学部、大学院、附属研究所、センター等の部局の自治を尊重しながら、全体の調和を図った協調連携に特徴があります。 UTnetは、各建物内の支線部、及び、各支線の相互接続と学外との接続を担う基幹(バックボーン)部とから構成され、自律・分散・協調系の精神に基づき、支線部は、その建物を管理する部局の責任と権限で運用されており、基幹部は全学的なポリシーによって情報基盤センターが一括して運用しています。
  UTnet基幹部は、セキュリティ対応を含む機能、トラフィック処理に係わる性能や品質等UTnetの要となることから、規模は大きく、機能的にも複雑となります。 しかし、財政は厳しいものがあり、高信頼度化や安全対策は完全とは言えません。 運用のための教職員もかなり限られています。 基幹部の大きな特徴の一つは、支線部との接続の仕方の変更が非常に多く頻度が高いことです。 例えば、学内では常に建物の新設や改修の工事が行われており、2014年度1年間に本郷キャンパスでは、安田講堂の改修、法文学部1号館・2号館の改修、学術研究館の新設等があり、加えて組織変更や人事異動に伴うUTnet構成変更は非常に多く毎日のように対応が必要でした。 基幹部に関するルーチン的な業務はほぼ職員が対応していますが、新しい要求やトラブル等については、教員を含む全関係者で相談しながら解決にあたっています。 幸い、15年間でキャンパスレベルでの大トラブルはなく、実質的な責任者としてはホッとして退職できました。 しかし、セキュリティインシデントは日常茶飯事レベルにあり、不正侵入や情報漏えいだけでなく、学外組織への加害の可能性も含め、常に緊張感を持って取り組むことが必要でした。


写真1 大幅な改修が終わった安田講堂

  外見は改修前とあまり変わらないのですが、耐震強化やエレベータ設置等が実現し安全で使い
  やすくなりました。 東大のシンボルであるとともに、東京都の登録有形文化財第1号でもあります。

  一方、世の中のネットワークと同様、UTnetに対するサービスや機能の要求も着実に変化し多様化してきました。 15年の間に、高速化と広帯域化に加え、不正アクセスへの対策、スパム(迷惑メール)の隔離/削除、無線LAN、ハウジング、ソフトウェアライセンス配布等の新サービスを企画し実現しました。 中には、全学無線LANのように、学内各部局との連携と協力が必須のものもあり、そのとりまとめには多くの労力と時間を要しましたが、やりがいのある結果が得られました。
  UTnetへの需要の更なる拡大への対応や学外との接続先ネットワークSINETの運用ポリシー変更への対応を実現するため、現在UTnet基幹部は再構築・更改の時期を迎えています。 その立ち上げ段階で大学を離れることになったのは非常に残念ですが、幸い間断なく後任者が着任されたので、問題を抱えつつも大過なく乗り切れるものと期待しています。
  研究に関しては、指導を含め大学院学生との共同で取り組むという形態で主に取り組みました。 主要なテーマは、無線ネットワークのトラフィック転送能力や転送品質に係わる技術で、無線ネットワークの応用システムやネットワークセキュリティ技術等にも及びました。 研究成果が実用化されるには至りませんでしたが、優秀な学生が多く、毎年のように学生が表彰を受けたのは、望外の喜びでした。 昔と異なり、最近は海外からの留学生が非常に多くなっていますが、学生は極めて多様だと感じます。 猛烈に勉強し研究に励む学生から、卒業・修了と就職だけを目指しているようにも伺える学生まで非常に幅が広い気がします。 まったく日本語が話せないまま入学したものの、日本で就職することを決意した後は馬車馬のごとく日本語に取り組み、1年後には打ち合わせで日本語を使いたいと希望し、2年後には希望通りの日本企業に入った学生もいます。 総じて、東大生の情報の収集能力は極めて高く、理解力・整理力にも優れていますが、創造力・企画力は決して高いとは言えない気がします。 例えば、新研究課題の発見や開拓を苦手とする学生が少なくありません。 しかし、いったん研究課題を設定できると、その後は解決に向け能力を磨きながら秀逸な結果を出していく学生も少なくありません。 一方、協調性やコミュニケーション能力が十分でないと判断される学生もあり、就活で失敗する一つの理由になっているようです。 いずれにせよ、潜在的能力は素晴らしく、社会に出て大いに活躍して欲しいと常に願っていました。
  東大では、様々な基本能力を高め、よりグローバルで、よりタフな人材の輩出を目指した総合的な教育改革が始まり、例えば、これまでの2学期制に代わり、今年度から4ターム制が学部に導入されました。 来年度からは大学院にも導入される見込みです。 東大を離れた昨今、このような改革の成果を大いに期待しています。


写真2 教壇に立った教室がある工学部2号館

歴史あるレトロな旧館の上に近代的な高層新館が覆いかぶさったユニークな構造となっています。 遠方
からみると(左写真)違和感があるかもしれませんが、近づいて少し横から観察すると(右写真)太い丸柱で
支えている構造が分かり興味を覚えます。



写真3 最終講義の一コマ

  2015年2月の最終講義では、大学勤務時代だけでなくKDD勤務時代の研究についても言及
    しました。

  東大を退職した後については、既に大病を経験し、視力や記憶力等も衰え始めた中、男性の健康寿命が70歳程度であることを考慮し、今後、やらなければいけないこと・やりたいこと等を現在整理中で、可能な範囲で順次取り組んでいきたいと考えています。 例えば、国家試験のお手伝い、学会の活動、依頼原稿の執筆等に加え、自宅の整理、実家の後片付け、家庭菜園、植木の整姿・剪定、私的旅行、楽器演奏、料理、囲碁等を候補に考えています。 今後とも、引き続きよろしくお願いいたします。


    
4. 島田 常五郎 さん (7月27日生まれ)

 KDDを退職から20年

  皆さん、今日は、私はこの7月で80歳になります。 「 光陰矢の如し」の言葉が実感しています。


     誕生花: 風露草(フウロソウ)
     花言葉: 変わらぬ信頼

◆ 20年前にKDDを退職した年は、私にとって忘れられない阪神淡路大震災に遭遇した年でした。  幸か不幸か、自宅は屋根瓦が30枚ほど破損し落下、浴室の壁面タイルが亀裂し、家具の一部が倒壊した程度で、大きな被害は免れました。  しかし、阪神間の旧市街はビル、マンションや家屋の倒壊・焼失が多く、そのうえ道路・鉄道の破損が大きく、公共交通機関が不通状態となりました。  そのため、バスや他社鉄道に代替えしての出社が約4カ月続きました(この期間の1週間・1カ月が大変長い1週間・1カ月であったと思いました)。  その後、道路・鉄道の回復により、平常通勤ができることになり、5カ月後にKDDを退職しました。


◆ KDD退職の翌年に私は「木彫教室」に入り、趣味としての木彫を始めました。
7年間教室に通った後、同好の仲間7人と月1回(毎月第3水曜日の午後に北須磨文化センターの一室を借りる)集まって木彫りを続けていました。  しかし、昨年10月に仲間のうち2人が病気入院したため、この同好会を解散することになりました。


◆ 1997年には、私は神戸シルバーカレッジ(3年間、週2日制の老人生涯学習学校)に入学しました。  そこでは学校の授業以外に、課外活動として、書道、陶芸、ゴルフ、コーラス、社交ダンス等、十数種類のクラブがあり、私は「歴史探訪クラブ」に加入しました。  このクラブは他のクラブと違って同期の者だけの集まりではなく、学年の違うOBも一緒になって、年3回観光バス2~3台に分乗して日帰りの「歴史探訪旅行」をしました。  行先は主として近畿圏でしたが、なかには福井県の永平寺や岐阜県の関ヶ原にも行きました。  バスでは歴史解説をしてくれる先生が乗り、走行中に色々と説明してくれるなど有意義な楽しいクラブでしたが、約20ケ所を巡ったことを期に、我々同期の者は退会しました。


◆ 4年前のKDD同友会の解散までは、私は関西地区ハイキング同好会に加入し、年4回のハイキングには皆勤し、高校時代からの友とは月1回20kmのウオーキングをしてきました。  しかし、私は昨年11月に変形性股関節症と言われ、現在歩行には杖が必要な状態になり、整形外科のリハビリに通っていまして・・・。 何とか杖が不要な状態に戻るように努力していますが・・・、皆さん、くれぐれも健康にご留意ください。







 
  
Happy Birthday !


  6月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。 この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。

今月のお誕生会員:  岡田 哲也 さん   町田 香子 さん

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1. 岡田 哲也 さん (6月2日生まれ)

 外敵は自分で守る

  鎌倉の谷戸深く住みついてから40年ほど経ちました。 蛙の鳴き声うるさかった土地も、今では周囲ぎっしりの住宅です。 しかし、犬の無駄吠えさえなければ、依然として鳥のさえずりだけが聞こえる静かな環境です。 なにしろ、バス停まで徒歩15分。 食品を買える店までは20数分。 鎌倉駅までは3キロある僻地です。 そんな環境ですから、自然の生き物も跋扈しています。
  私は、どちらかと言えば寒い冬より暑い夏の方が好きなんですが、その季節になると悩まされるのが、ムカデとスズメバチの存在です。 ムカデはどこから侵入してくるのか、夏になるとよく10センチを超えるような奴が潜んでいます。 人間の匂いが好きらしく、洗濯物の中、浴室にもいることがあります。 わが家では靴を履くときは、かならずいちど蹴飛ばします。 初夏には、2~3センチほどの子供のムカデが枕の横を這いずっていたりします。 子供だと馬鹿にしていると、とんでもなく腫れ上がって酷い目に遇います。
  この防衛には家の周囲に薬の散布しか手がありません。 スズメバチの方はもっと怖い存在です。 昔はほとんど見かけなかったのですが、この10年ほど激増しています。 どういうわけか、向こう三軒両隣どこの家も大丈夫なのに、わが家だけ毎年スズメバチに巣を作られます。 私はもう2回刺されているから今度刺されるとアナフラスキーショックが怖いと医者に脅かされています。 少し暖かくなると、巣を作りそうなところに蜂退治の薬を噴霧してまわりますが、防ぎきれません。 スズメバチの巣の撤去は素人には困難です。 市役所に頼めば無料で撤去してくれますが条件があり、作業員の手の届くところの巣だけです。 例えば、高いハシゴをかけなければならないとか、羽目板を剥がさねばならない場合は取ってくれません。 代わりに専門業者を紹介してくれますが、喜んではいけません、撤去費が通常4~5万とべらぼうに高いのです。 3回も頼んだ夏があって参りました。 そこで、春先からスズメバチ捕獲用のトラップを作って軒下や植木の枝にぶら下げて置くのです。 暖かくなるとまず越冬した女王蜂が巣作りを始めます。 その段階で女王蜂を一匹殺せば、大きな巣を一個消滅させたことになります。 巣作りをした女王蜂が産卵して、育った働き蜂が活動し始めたらもう援軍を頼むしかありません。
  捕獲トラップの作り方簡単です。 2リットルのペットボトルの四方の肩の辺りに、2cm平方ぐらいの小窓を4個空けます。 中に酒300ml 酢100ml 砂糖125gを入れたものを4~5個作って家の周りの適所に吊して置くのです。 蜂が匂いにつられてトラップの窓から中に入るともう出られなくなり溺死するという仕組みです。 真夏になり働き蜂がボトル一杯になるぐらい捕まても全体としてたいした効果になりません。 それより春から初夏にかけて女王蜂が沢山捕まって欲しいのですが、なかなか思うようにはなりません。 その挙げ句が大きな巣の発見騒ぎです。 専門家の援助を待つのみです。 トラップ作りは簡単ですが、費用がバカになりません。 2ヶ月もすると蒸発して中味が少なくなるから作り替えが必要なのです。 その都度、酒一升、酢一瓶、砂糖一袋がなくなります。
  私の誕生日は6月2日です。 なので、横浜市が開港記念日と兼ねて私のため花火で祝ってくれますが、その頃になると、昔の防空演習よろしく空を睨んでスズメバチの来襲に備えます。 庭に飛んでいればかならず近くに巣があるのです。 これって、日米安保の話に似ていると思いませんか。 そんな84回目の夏が今年もやってこようとしています。 

+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+  会員の皆様から一言 +:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+

お久しぶりです       織間 政美 2015/06/23 10:00:08  

お久しぶり織間です。 誕生日おめでとうございます。 昔を思い出し、懐かしく思ってます。
自然に近い環境で元気でお過ごしの様子が記事で分かり、とても嬉しいです。 これからも幸せでお過ごし出来るよう祈っています。


    
2. 町田 香子 さん (6月8日生まれ)

 窓口あれこれ

  昭和56年入社、中目黒の研究所で経理係の契約担当者として、一階玄関に近い窓口に座っておりました。  35年後の現在は、地元の新聞にボランティア記事の取材・掲載をしたり、市民活動センターの活動相談員として窓口に座っております。 ここでは、ボランティア活動に関する相談者に地域の資料などで、できる限りニーズに沿ってお答えしています。 中学生や高校生からは、夏休みの宿題のボランティア活動、シニアの方からは定年退職後に何かやってみたいという活動相談を、また最近は、就活に有利な奉仕活動は何かという本来のボランティアとはちょっと違うかなと思う大学生もやってきます。
  相談員として5年目になりますが、いろいろな相談者との出会いがありました。 留学生が「帰国が迫っているが留学条件のボランティア活動がバイトでできなかった、どうしよう?」と飛び込んできたときは、こちらのほうが焦りました。 たまたまサッカー好きということから、競技場のボランティア活動と繋ぎ、事無きを得ました。 あるときは、「特に趣味もなければボランティアも経験無し。 でも、このままではいけないと思って、ネットで探して思いきって来た」と言う青白い  顔の女子大生がいました。 その寂しそうでおとなしい表情から、もしかしてこの子は、小さな子どもとなら同じ目線で遊べるかなと思い、「小さな子の障がい者施設のお手伝いをしてみない?」と勧めてみました。 すると、彼 女は1週間後に頬をピンクに染めて、報告に来てくれました。 「小さな子が、私の膝にチョコンと座って、『お姉ちゃん』と言ってくれたんです!」と明るくしゃべり出しました。 結局この子はその後、大学の文化祭委員を担い、就職は彼女をとても必要としている施設に決めたと聞きました。
  私はこのことで、自分にマッチングした活動に出会ったら、人生を変えるくらいの世界が広がり、飛び立てるのだなあと思いました。 私に活動力の驚異を教えてくれた人たちに感謝しています。




 
  

Happy Birthday !

  5月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。 この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。

今月のお誕生会員:   林  雅和 さん    佐藤 敏雄 さん

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1. 林  雅和 さん (5月8日生まれ)

 城址巡り1,000

  皆さん、今日は。 私は、KDD退職後の凡そ20年間を中心に、日本の城址巡りを続けています。
  半分は歩くことが目的で、北は北海道の五稜郭、松前から南は沖縄の首里、今帰仁、座喜味まで、昨年10月に1,000城を越え、本年4月末現在1,030城に達しています。 そのお陰か、今の所、幸い足腰は元気です。

城址の定義: 広義のもので、陣屋跡、館跡、代官所跡等も含みます。 但し、観光施設の熱海城とか、両国で見られる逸ノ城などは含みません。

◆ 無駄足覚悟: 初めは、天守閣が現存する12城(姫路、伊予松山、松江、備中松山等)から始まりますが、1,000城位になると、遺構などはなく、石碑、標柱、解説板程度しかない、まさに「兵どもが夢の跡」を訪れることになります。 時には、本に紹介されているので行ってみたら全く何も見当たらず、地元の人に聞い

ても分りません、なんて云うこともありますが、半分は歩くことが目的ですから、今日は収穫がなかったけれど1万歩歩いたからマアいいかと、半分満足して帰って来ます。

◆ お勧めどころ: 桜の頃の弘前です。 天守閣(現存)は小ぶりですが、清楚な感じが良く、また、桜の散り花でお濠全面が覆われているのは壮観です。 お城ファンでない人でもお勧めです。



◆ 天空の城: 今人気の出ている兵庫県の竹田城は、凡そ20年前に行きましたが、今ほど道が整備されてなく、前夜の雨でぬかるみ、本丸跡まで登るのが大変。 手前の解説板を読んで引き返し、麓から石垣を眺めるだけでした。 これは何時か再トライの要。 でも、同じような天空の城、津和野、越前大野も良かったです。



◆ 車で登城: 山城で本丸跡まで、車で登れる所もあります。 但し、幅が狭く未舗装で片側崖みたいな道を行くのでヒヤヒヤです。 周防若山(山口県。 陶氏の居城)、横地、天方(両者とも静岡県。 駿河今川氏関連)等

◆ 城址が学校: 登城するのが、一寸 厄介です。 先ず事務室で許可を貰って、石垣、土塁、石碑、解説板等を見せて貰います。 歴史の先生呼んで来ますと言って呉れる所(愛宕山塁:練馬区。 太田道灌の陣城)もありますが、一方、女子校はムクツケキ男が行くと駄目で入れさせて呉れません。 ガッカリ。 (狛江入道館:調布市。 現在の狛江市本拠の豪族の館)

◆ 戦国大名発祥の地: 結構意外な所が多くて勉強になります。 徳川氏発祥の地は群馬県の世良田(東武鉄道世良田駅前に大きな看板があります。 徳川義季館)、中国地方の毛利氏は神奈川県の厚木(毛利季光館)、房総里見氏は群馬県の榛名(里見城)、徳島蜂須賀氏は名古屋近郊(蜂須賀城)等

◆ ドラマ黒田官兵衛: 毎回ドラマの最後に官兵衛関連の城址が紹介されていました。 その殆どは既に行っていましたが、未登城の城址が3城ありました。 日帰りで姫路近辺まで行ってきました(御着、英賀、加古川)が、新幹線代等で1城1万円と高くつきました。 バカ見たいですネ。 それでも行って大満足です。


私の登城はまだまだ続きます。 退職後の愉しみにご参考になれば幸甚です。

        (注) 姫路市広報 姫路城(改修後)写真集
               http://www.city.himeji.lg.jp/topic/photobank/_32629.html  より引用


+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+  会員の皆様から一言 +:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+

城址巡り1000         鎌田 光恵 2015/05/03 17:27:49

「両国の逸の城」とは飛びっきりのユーモアですね。 一度読んだ時は無感動に通過してしまい、二度目に読み直して「フフツ」とつぶやいた次第です。 面白い。


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1000城址踏破とは驚き     來山 征士  2015/05/25 23:02:43

日本には1000城があるんですね。 それらを回られたご健脚に敬服です。 現存の天守は少ないんですね。
去る5月19日に、KDD同期入社4人と、天守が国宝指定となる松江城と、山城で天守が最も高こといといわれている備中松山城を訪れました。 双方とも素晴らしいお城でした。



    
2. 佐藤 敏雄 さん (5月21日生まれ)

 もう今年で83歳

  この5月で83歳となる。 母親は54歳で亡くなった。 胃がんだった。 今ならもっと良い治療を受けて長生きできただろうに。 父親は「もう80だ」と言いながら、1年早く旅立ってしまった。 今で言う認知症だったようだ。 その父の年齢をいつの間にか超えてしまった。 そう言えば今日3月26日は母の命日。 こんな記事を書こうと思い立ったのも母の引き合わせか。
  生まれ育ちは新潟県長岡市。 元々、星や宇宙、更には無線が好きだったが、高校に講演に来られた大先輩、宮憲一さんに憧れてKDDに入った。 八俣送信所に2年在職した後、研究所で衛星通信の仕事をした。 史上初の宇宙中継テレビ伝送実験では直径20mのカセグレンアンテナ開発に携わった。 これが偶然にもケネディ暗殺を伝えるという歴史に残るイベントになったのだが、若手の自分はアンテナ制御室に籠り、アンテナが無事動くかどうか臨戦態勢で監視していており、映像を見ることはできなかった。
  1971年から73年にかけ、ワシントンのCOMSAT研究所にインテルサット派遣職員として勤務した。 この間、KDD研究所時代に開発した「誘電体装荷ホーンアンテナ」を、衛星メーカーのヒューズ社が2基のインテルサットIV-A衛星に「グローバルビーム・アンテナ」として無断で搭載していることが分かった。 このアンテナは交差偏波の利用により回線数が2倍となるため、全世界の地球局の性能確認に利用され、その後、多くのインテルサットVI号衛星にも搭載され、国際テレビ伝送で活躍した。
  今年は東京大空襲70年と喧伝されるが、我が長岡は終戦2週間前の8月1日夜半、B29の焼夷弾攻撃を受けて全市が焼け野原となった。 当時は中学1年生。 父母と妹と4人、猛火に追われて近くの神社の境内へ。 なおも追われて境内裏にあった川に飛び込んだ。 これが幸いし、火と煙で息が詰まりそうになりながら川の水のおかげで何とか命拾いした。 長時間水に浸かっていたため真夏なのに寒い。 焼けて熱くなった護岸の石垣にへばりついて体を温めた。 見渡す限りの焼け野原。 黒焦げの死体を横目に10キロほど先の父の実家まで歩いて避難した。 あの惨劇の経験は生涯忘れることができないだろう。


長岡が燃えた日 (写真は、長岡市発行 「長岡の空襲」 より)

  長岡と言えば夏の花火大会。 信濃川の中州から三尺玉などが賑やかに打ち上げられる。 8月1日では焼夷弾を思い出すから、2日と3日になったと言われる鎮魂のイベント。
  長岡中学では戦時中でも英語の授業が行われていた。 その英語教師が金井朋和先生。 一等通訳の免状を持っていたという本場仕込み?のKing's English。 発音を含め、極めて厳しい先生で綽名は「ガチ」。 下手をするとすぐにチョークが飛んでくる。 でも何故か指名されるのが楽しみで、おかげで英語が大好きになった。 インテルサット、インマルサットと、永年、国際関係の仕事をすることができたのもこの「ガチ」先生のおかげだと感謝している。
  1970年後半、インマルサットが設立されるに当たり、遠藤栄造大先輩のもとIMCO(現在のIMO)主催の設立準備会議などに出席。 更にインテルサットの技術諮問委員会(BG-T)など、多くの国際会議に出席した。 1977年、夏休みに家族連れで海水浴を楽しんでいたところに遠藤さんから電話があり、インマルサット技術運用諮問委員会(Advisory Committee on Technical & Operational Matters )の議長になれとのご命令。 やむなく引き受けたが、この長ったらしい名前の委員会の略称は「ACTO」。 議長就任最初の会合で、この略称は日本流で読むと「悪党」になる。 私は「ギャング」のChairmanにはなりたくないから、「Matters」のMを入れて、「ACTOM」に改名しようと提案し了承された経緯がある。 世界各国代表の種々雑多な英語に苦労しながら、3年間議長を務めた。 1981年、第7回のACTOM会合は東京で開催された。
  2005年から2011年までk-unet代表として皆様のために奉仕した。 現在は顧問としてささやかながらご協力申し上げている。 うるさがられないよう気を付けながら!
  同友会も解散した現在、k-unetはKDD OB達の重要な情報交換の場になっている。 今後共、この会が大きく発展し機能していくことを期待している。





 
  
Happy Birthday !


  4月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。 この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。



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1. 樫村 慶一 さん (4月1日生まれ)

 85回目の4月

  私は、今から85年前、1930年、昭和5年4月1日に生まれた。 ということになっているが、実際は5月生まれらしい。 変な言い方だが、エープリル・フールの走りのようなものである。 昔は戸籍法なんていい加減で、子供が生まれてもすぐ届けなくてもよかったようだ。 届けたのは、大分後(2~3年後)で、親は体が大きいのをみて、早生まれぎりぎりの4月1日にしたと聞いた。 4月1日までが早生まれなのは、3月31日の夜中に生まれた子は午前0時前とそれ以後の子では差別ができるので、これを防ぐためだと聞いたことがあったが、本当かどうか眉唾だ、だって4月1日の夜中の12時までは早生まれなのか、疑問は尽きない。 まあーそれはとにかく、早生まれにすれば前年に生まれた子供と同じ学年になり、その後の人生全てが、遅生まれの子よりも1年先行することになり、何事も得をする、と親は思ったようだ。 定年が誕生日になっていた頃は、4月1日生まれは、昇給して退職なので得したな、と言われたことがある。 しかし、それも何時のまにかに変ってしまった。 結局ちっとも人生得をしたと思ったことはなかった。 そう言えば、昔KDD社内に11歳も年をごまかしている人がいた。 幼年期は、周りの目にどう見られたんだろうか。
  私の番は来ないだろう、と思っていた「誕生月のエッセイ」を書く役目が、とうとう回ってきた。 なにを書くか頭をひねった。 昭和28年にKDDができたとき、当時の電電公社の中央電報局の外信課にいた者は、私を含めてほぼ自動的にKDDに入った。 それ以来37年、振り返ってみれば、死にたくなるほどの苦労もなく、世に言う"お公家さま集団"の中の年功序列体制の中で、大きな実績もなく、ぼおっと過ごしてきたように思う。 だから、現役時代のことなんて書いたって、まだ知っている人が大勢元気で過ごしているので、新鮮味がなかろうと思って、この機会に、自分の歴史をうーんと戻して、古い記憶を広げてみようと思った。
  私が生まれたのは中野区の上高田で、西武線の新井薬師駅前から哲学堂方面に向かってほんの数分の所だった。 今の東亜学園のすぐ奥である。 午後になるとトタンのなめこ塀が、がらがら音を立てる。 東亜の生徒が塀を三角定規とかなにかでこすりながら歩くためだ。 母がよく、うるさいと怒鳴っていたのが、かすかに頭の隅ある。 当時"東亜しょうぎ"は、今で言う落ちこぼれの子供の集まりだったと、親は言っていた。
  3歳位の頃、新井薬師駅の反対側に引っ越した。 三輪車をこいで自分で移動した思い出が、私にとって最古の明確な記憶である。 童謡"たきび"の発祥の、大きなケヤキが立ち並ぶ道のすぐ近くだった。 その頃は、新井薬師駅の前、線路に沿って法政大学の野球部のグラウンドがあり、選手の中にはプロ野球の南海の名二塁手で、後監督になった鶴岡一人さんがいたという。 線路に沿って下り坂になっていて下に野方刑務所の塀が見えた。 その頃の男の子の遊びは、50坪くらいの空き地があると三角ベース野球、相手の尻に頭をつけて並び、馬を作って走って飛び乗る遊び、水雷ごっこ(ルールは忘れた)、とんぼとり、ばったとり、木登り、などなどだが、お小使いをもらうと、模型飛行機を作った。 妙正寺川の土手を登って哲学堂の垣根の下をくぐって園内に入るのが大冒険で、鮮やかに記憶に残っている。(当時は入園料をとっていた)。 東洋大学の創始者で哲学者井上円了が建てた、奇形なお堂のような建物に入り込み、番人に怒鳴られて追っかけられた。 妙正寺川沿いのKDDの落合社宅があった敷地の隣、今は少年野球場になっている場所は湿地帯で、やもりやおたまじゃくしが沢山いた。 東京山の手の中野の里には、平穏な時代の、のどかさを絵に書いたような風情が漂っていた。
  西武線の新井薬師前から中井に向かっては低地になっていて、粘土質で草が少ない"ばっけが原"と言って、とんぼやばった捕りの絶好の場所だった。 上高田国民学校3年になると、新井国民学校が新設され、上高田から多くの生徒がそちらへ移った。 親友がいなくなったのが寂しくて、今で言う登校拒否に近い心境になったのも遠い思い出の一つだ。 在学中に奉安殿とプール建設が行われ、生徒がバケツ・リレーの泥運びに動員された。 豊島園まで歩く遠足があった。 砂利を敷いた工事中の道を歩かされたが、今にして思い出せば、あれは、建設中の十三間通り、今の目白通りである。 子供の目には物凄く広い道に見えたものだ。
  戦争の足音が忍び寄ってきた時代とは言っても、市井は平和だった。 だから、たまに起きた強盗や殺人事件は歴史に残っている。 昭和4年の説教強盗事件は家の近所一帯に被害が多く、怖かったと母がよく言っていた。 7年の玉の井のおはぐろどぶのばらばら事件も、世間は大騒ぎをしたらしい。 11年の阿部お定事件の定さんが勤めていた小料理やは、新井薬師前の通りにあり、家から近く、通りかかると指をさしたものだ。 同じ年の2.26事件の日は大雪が積もってた日で、やたらに飛行機が飛んで、なんだか騒がしい日だったことを思い出す。 何故だか分らないが事件のことはずっと後になって知った。 2.26事件を除けば、今なら日常茶飯事なことばかりである。 僅か8、9歳くらいのときに、友達と「日独伊防共協定を結んだんだってね、日本は凄いね」、なんて話をしたことが、はっきりと瞼の裏に焼きついている。 戦時教育の恐ろしさの一片かもしれない。 双葉山の70連勝を安芸の海が阻んだ相撲を、ラッパのラジオにかじりついて聴いたのも、強く懐かしい記憶の一つである。
  昭和16年の12月8日の朝、前日は雨だったと思う、なぜならば、校庭に水溜りが出来ていたからだ、それほど寒さは感じなかったが、整列させられ、ボリュームをやたらに大きくしたため声が割れて、なんだかさっぱり分らない放送を聴かされた。 ・・・大本営発表、帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋において・・・例の、日本崩壊の始まりの日である。 国民学校最後の冬であった。
  この頃までの出来事が色々頭の中にあるのだが、実際にはどうやって記憶したのか分らない。 学校の先生に聞いたか親に聞いたのか、友達同士で話あったのかもしれない。 新聞はほとんど読んでなかったし、ニュースなんかほとんど聞いてなかったのだから。 覚えていることが沢山あるのに父親の思い出がほとんどない。 昔は父親は怖いものと言うのが普通の感覚で、どこの家もそんな環境だったように思う。 反動的に母親の存在は濃かった。 その父親が私が府立中学3年のとき死んだ。 そして、3月10日の東京大空襲で学校は丸焼け、生徒は呆然自失でちりちりばらばらになった。 私の人生の下り坂の始まりである。
  その後の終戦を挟んだ数年間、思い出したくもない私の思春期は、原発の核の廃棄穴よりも深い深い闇に包みこんだ。 有為転変を経てKDDに入った。 そして結婚、人生は上向きに変わり、話は初めの部分に戻る。 小さい頃のことを文字にしたのは初めて、よい機会を下さったと感謝している。 読む人には面白くもなんともないだろうけど。 せいぜい四季雑感を読んで頂きたい。 これには比較的現代のことを書いているつもりである。
  今、ここに85回目の4月を迎えるわけだけど、頭の中の演算機は歳ほど古くなっているとは思わないが、周辺機器が皆陳腐化して、特に歩くのが弱くなり速度が落ちた。 後、何回4月を迎えることができるだろうか。 妻が肺がんに冒されたけど、最新の分子標的抗がん剤の驚異的効果で元気を回復している。 妻の天寿をしっかり見届けるまでは、私は、この世に幕を下ろすわけにはいかない。 次の、その次の、また次の4月も・・・・・      この辺で   (2015.3.12記)



    
2. 嶋田 英一 さん (4月16日生まれ)

 近 況

  k-unetの会員の皆さん ご機嫌如何ですか。 現在、埼玉県坂戸市で暮らしています。 4月で86歳になります。 無駄な抵抗かも知れませんが、健康の維持に努めています。

1. 早寝・早起き、毎朝のラジオ体操第1・第2(録音したCD使用して)をやってます。

2. 毎日午後、太陽の下、携帯音楽プレーヤー(ipod nano 8)で音楽を聴きながら、近くの高麗川の堤防を約1時間歩き(約6,000歩)、軽く汗を流しています。



  今のところ特に病気はしていませんが、右の目が「加齢黄斑変性」になりました。 直線が曲線に見える症状です。 埼玉医大の眼科へ1年ほど通って、レーザー光線の照射、注射を3回しましたが、ただ進行を止めるだけの治療です。 現在0.9の視力があり、不自由はしておりません。 皆さん、目の健康には十分注意しましょう。 呆け防止に役立つかと、パソコンを次のように使っています。

1. 日誌の記載とワープロ機能の利用。 手書きでは、文字が直ぐ頭に浮かばなってきたので、これで助けてもらってます。

2. メールによる親族間の交信、知人との情報交換(パソコンの利用を止める方が増えて残念。)

3. インターネットによる情報検索(Google Chromeなど)

4. FM放送の音楽番組(クラシック音楽、歌謡曲、民謡)の録音、 テレビ番組の録画などUSB接続の外付けハードディスクに保存して、寝たきりになったときは、枕元のノートパソコンで再生しようと思っています。

5. その他の楽しみとして、もっぱら自宅でテレビを観ることです。 kddiの関連会社 J:COM関東のケーブルテレビに加入して、日本映画、外国の映画、時代劇など古い映画などを観て、昔を思い返し、「毎日が日曜日」を十分楽しんでいます。




    
3. 松浪 鋭四郎 さん (4月23日生まれ)

 近 況

  私は退職してもう20年近くになります。 職歴は大阪で入社し東京に転勤、国際電報のシステム化、営業部、テレコメット、研修所、ゴルフ練習所等いろんな職場を経験しました。 仕事よりもバドミントンに熱を上げまして、会社のチームを作り東京都から全国大会に出場できるチームを作り上げました。 その関係で国体の東京都監督、日本実業団、日本リーグ、日本協会の役員まで務めさせてもらい全国に友人ができいい経験をさせてもらいました。
  退職後、家内は10年以上前に亡くしましたが毎日ボランティアで小学生の送迎、地域の防犯パトロール、趣味としてはゴルフ、グランドゴルフ、ステンドグラスの作成等で毎日忙しく余生を送っております。 K-UNETには何の協力もできませんが皆様によろしくお伝えください。




    
4. 磯村 栄一 さん (4月25日生まれ)

 あれやこれや …
◇ k-unet との係わり
  パソコンに触れあれこれ楽しんでいた頃、もう亡くなられた石田さんに誘われ入会しました。 今のような規模ではなく、何方がおられたか記憶が無いほど昔のことです。 昨年、娘に傘寿とやらに辿り着きました。
  会の規模も大きくってあれこれが活動し「運営委員会」なるものが有りました。 今のようなネットやアプリも無かった頃です。 ホームページの作成、管理など担当していました。 写真は、今は当り前になったデジカメではなくスキャナーの世話になっていました。
  自分自身のホームページを立ち上げています。 「会員ページ」に小生のページの url を載せて頂いています。 趣味の「野鳥観察」や「天体観測」です。 が、殆ど未更新!

天体観測(写真はプレアデス星団)
  左の写真は、数年前まで町田に住んでいた頃、自宅ベランダで撮ったものです。
  市街地からの燈火が少ない場所でした。 直ぐ傍の街灯光がレンズに入らぬようフードを付け撮影。 追尾機能付き赤道儀にカメラを載せベランダで撮ったものです。 好きな写真です。



  http://members3.jcom.home.ne.jp/eisomura/w33/astro_w/m45/m45.html  (ネット上で撮影条件など)

  機動力を召上げられ、部屋の狭い窓からの撮影環境は劣悪です。 そこを何とかしようと能トレです。 短時間露出の画像を「重ね合せ」で「追尾撮影」並みの狙いを画策しています。 使える機材が少ない上、町田に比べ街の空が明るいなどのマイナス要素が行く手に立ちはだかります。

◇ 流星観測 
  晴雨時刻を問わず観測出来ます。 観るのではなく、流星で散乱された電波を受信。 発生からの消長の様子が判ります。 老人住宅で受信アンテナをどう設けるか悩んでいます。 受信画像から、その流星の流れ具合を想像?!
  http://members3.jcom.home.ne.jp/eisomura/w33/astro_w/meteor/pattern/extended.html

◇ StreetViewとPlateTechtonics 
  最近、google がStreet Viewをネット上で提供してくれます。 撮影車輌が世界中を駆け巡っています。 お陰で、世界漫遊が出来ます。 昔、駐在したアメリカ事情もチェック。
  大昔、大手町時代、図書室整理で廃品図書に「PlateTechtonics」。 その冊子で得た知識が蘇りました。切り通しの山肌に刻み込まれた脈動の痕跡を追います。  三浦半島南の入り組んだ入江に地肌に左側に沈み込むように傾斜した襞層をgoogleで発見。 写真は、googleで視た状態です。 岩肌が左下に傾斜 … 。
  …と、こんな調子で過ごしています。  (2015/3/5記)





 
  

Happy Birthday !

  3月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。 この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。


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1. 庄司 竹夫 さん (3月7日生まれ)

 近 況

  ハッピーバースデイの原稿を!とのことですが、原稿としてお出しできるほどの私ではありません。 でも、元気に79歳の誕生日を迎えることができそうで、ハッピーなのでしょう。
  私、定年を機にお絵描き(水彩)を始めました。 また、以前から楽しんでいる下手なテニスも続けております。 テニスは週2回、お絵描きも週2回程度です。  目標としては、80歳までテニスを続け、90歳までお絵描きを楽しむことです。  テニスは楽しんだだけ疲れが残るだけですが、お絵描きでは、楽しんだだけ悩みが残りますね。 随分沢山の紙屑を作りました。 適当に破棄しておりますが、 人生あとが少なくなり、悩みのタネですね。  でも、私の誕生日、やはり元気でハッピーと言えるかも・・・








    
2. 小野 欽司 さん (3月9日生まれ)

 シルクロードの旅

ディジタルシルクロード
  シルクロードはドイツの地理学者リヒトホーフェンが名付けたユーラシア大陸を縦横に走る交易路で、また文化交流の道でもありました。 私は国立情報学研究所(NII)の教授をしていた2001年にUNESCOと共同でディジタルシルクロード・プロジェクトを立ち上げました。 プロジェクトの主目的はシルクロードの文化遺産等のディジタルアーカイブで、インターネットを通して広く世界に公開しています。 ( http://dsr.nii.ac.jp/  ) 
  プロジェクトではシルクロードに関わる国内外の大学、研究所、歴史家、画家、音楽家、写真家いろいろな方々の協力のもとに様々なテーマについてディジタルアーカイブを進めています。 特に、東洋文庫にはシルクロードと関連する貴重書が豊富にあり、この貴重書ディジタル化(http://dsr.nii.ac.jp/toyobunko/)を最初に行いました。
  プロジェクトを開始して間もなく、イランのテヘラン大学でキャラバンサライ(シルクロードの隊商宿)の研究をしていた女性がこのプロジェクトへの参加を希望し博士課程の学生として受け入れ指導しました。 来日間もない2003 年12月、イランで大地震があり世界遺産Bam城塞が崩壊し、彼女の強い要望で破壊されたBam城塞のディジタル復元に取り組みました。 これには破壊前の写真やビデオが必要でNHKをはじめ、世界中の多くの人たちが提供してくれました。 
  ( http://dsr.nii.ac.jp/bam/ )
昨年、テヘラン大学でディジタルシルクロードのシンポジウムが開催されました。 Bamのディジタル復元は相当進み、バーチャルに昔のBamの姿を再現しています。 この成果はイランの文化遺産観光庁(ICHTO)で実際の復元の貴重な参照データとして重用されています。
  広大なシルクロードのほんの一部分しか私は訪問していませんが、ディジタルシルクロードのWebサイトでヴァーチャルなシルクロードの旅を楽しんでいます。 皆様も是非ご訪問されたシルクロードの写真やビデオなどを投稿してみてください。 ( http://dsr.nii.ac.jp/imdsr/ ) 

一期一会
  振り返ってみると、自分の人生で人との出会いが私の人生まで変えることになっていることに気が付きました。 KDDへの入社もたまたま科学雑誌での難波捷吾さんの「KDDが宇宙通信の研究を始める」という記事を見つけ、それがどういうことか調べようとKDDの研究所を訪ねてお会いした宮憲一さんの勧めで入社を決めたこと、私がKDDの研究所長をしていた平成3年、東大名誉教授の猪瀬博先生からの懇請で学術情報センターへ移り、大学教授としての教育・研究と新しい情報学の研究所設立のお手伝いをすることになったことなど色々あります。 また、ディジタルシルクロードには現在も名誉教授の立場で関与し、様々な方々のご協力を得てプロジェクトは広く、深く進展しています。
  KDDの皆様には、色々な場面で大変お世話になりました。 思いもかけず、平成14年には紫綬褒章、昨年は瑞宝中綬章受章の栄に浴し、祝賀会では多くのKDD(KDDI)のOB,現役の方々にも祝っていただきました。 深く感謝しております。




    
3. 金城 晴八 さん (3月13日生まれ)

 沖縄の田舎に伝わる伝統演武・棒術

  誕生日投稿の依頼を受けた時は軽い気持ちでお引き受けしたのですが、なにを書けばよいのか考え始めて、はたっと困りました。 在職中の思い出を書くのも良いのですが、沖縄に出自のある名前を持つ私が沖縄のことを書くことは、k-unetの諸兄へこれまでと違った趣の話ができるのではないかと思い、『=沖縄の田舎に伝わる伝統演武・棒術=』としました。 ちなみに、沖縄の田舎とは沖縄県島尻郡東風平村字小城(こちんだそん・あざ・こぐすく)です。 このような棒術が昔から連綿と伝えられていることをお知りいただければ幸甚です。 文中でてくる方言にはルビの代わりに( )内に読み方を示しました。
  小城(こぐすく)は那覇からKDDI沖縄海底線中継所への途中にあり、沖縄には珍しい海に面しない東風平(こちんだ)にある両親の故郷である。 居間から糸満(いとまん)の輝く海が見え、その沖合に慶良間(けらま)列島が見渡せる山間の農村地帯である。 沖縄と言えば、コバルトブルーの海と白砂の浜辺がイメージされるが、ここ東風平はそれとは縁のない地帯である。
  さて、村には古くから伝わる棒術がある。 それは旧暦八月の豊年祭の中で演じられる。 この棒術は百八十年余り前、先人達や首里奉公人等が護身術として習得し、村人に広めたのが始まりと伝わる。 その後、二百余名で演じる集団棒巻(たかまち)が創作されて今日に継承されてきた。 豊年祭の時期が近付くと、村芝居や棒術の練習で村中が慌しくなり、練習に明け暮れる亭主との夫婦喧嘩が絶えないと聞く。
  祭の当日、早朝から旗頭を先頭に行列が練り歩く。 辻々では老若男女が演技を披露する。 村を一巡した後、村発祥の地や南山王(なんざんおう)縁の拝所で勇壮な武術や優雅な踊りを奉納する。 行列が馬場に入ると棒術が始まる。 若者の迫力のある演武、長老の円熟した演武が続く。 そして勇壮な集団棒巻(たかまち)の始まりである。 上手と下手から百名余の壮年・青年が雌雄の棒を各々抱えて現れる。 馬場中央に進むと各々の棒が渦を巻き始める。 巻き終わると、二組の棒巻(たかまち)が大きな掛け声に乗せられて天に突き上げられる。そして蛇がとぐろを解くように棒もちの頭が渦の中から姿を現す。 二組の棒巻が解き終えると、次に合体して二百名余の大きな渦を描くと、豊年を祝う勇壮な掛け声と共に棒巻が沖縄の空に舞う。 そして、雌雄の棒が元の隊列に戻ると、小城の棒巻が終わる。 この棒巻(たかまち)は五穀豊穣を祈願する蛇の舞とも、大空高く悠然と飛ぶ鷹になぞらえた若武者の舞とも言われている。 残しておきたい故郷の伝統演武である。次の豊年祭は平成二十九年である。




<追伸>近況は次の通りです。
   ◇大阪府高齢者大学校関連
     平成25年度エッセー文学科終了
     平成26年度古典文学を楽しむ科修了
     平成26年度自然文化研究科修了
     平成27年度 未定
   ◇ボランティア関連
     大阪市城東区おもちゃ病院勤務(平成25年8月~)
   ◇自主研究について
     明治10年頃の東風平村字小城の状




 
  

Happy Birthday !

  2月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。 この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。

今月のお誕生会員:  川添  質 さん   松田 隆治 さん
    

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1. 川添  質 さん (2月3日生まれ)

 退職直後のベンチャ企業の経営と苦難について

  私はKDD退職後縁あって今で言うベンンチャ企業の或る介護関係のソフト開発会社の経営に携わりました。 その会社は某有名国立大学の医学部の若手研究者との間で介護ソフトを共同開発しており、そのソフトが当時は非常に画期的な物でしたので一時は全国的に広く売れ、大手監査法人の指導のもと2-3年後には株式上場が出来そうなところまで急成成長したのですが、それ迄一手に委託販売契約をしていた業界大手の或る販売会社が社内抗争から任期途中の社長、専務の引退と言う不測の事態を引き起こしたため、それまでの同社との提携販売契約が崩れたのと時を同じくして、私の関係する会社でも最も信頼していた優秀な技術開発部長の莫大な背信横領事件が発覚し、意図空しく会社を整理せざるを得ないと言う正に晴天の霹靂の様な大変な事態に遭遇しました。 
  それは規模こそ違い、まさに、あの忌まわしいKDD事件を思いださせられる様なものでした。 その時はじめて実社会でも醜い派閥抗争ガあることを再確認させられ、一時は人間不信に陥り疑心暗鬼になりました。 以後の何日間は社長と二人で主たる出資会社や出資者への事情説明と謝りで、時には怒鳴られたり、罵声をあびせられたりしましたが、最後は誠意を汲んでくれて、逆に励まし、やアドバイスを頂いたりして、折に触れつくづく人の情を感じるとともにKDD時代はよかったなあーと回想させられました。 
  この様な事があって其の後一時体調をくずし急性心筋梗塞を併発しましたが、今は亡き妻の臨機応変による救急車手配で九死に一生を得てなんとか健康を取り戻しました。 その時こそしみじみKDDは恵まれた本当に良い会社だったと痛感した次第です。 

 現況について

  現在は町内会のシニア倶楽部に入っており、毎月2回の囲碁教室と同じく月2回の麻雀同好会に参加し、地域の人達との友好交関係を深めています。 また、或る人の紹介で数年前から三井物産OBの毎月の麻雀大会に特別会員として参加させてもらっていますが、この会はさすが海千山千のエリート商社マンの集まりだけに、当初は緊張し、時には大敗したりカモラレたりしましたが、今では楽しみながら気軽に対戦し、これ迄に3回程優勝もしました。 KDD時代に覚えた麻雀とは段違いにハイレベルの厳しい対戦相手ばかりですが、人柄がよく、かつ、紳士的で対戦後の場所を変えての銀座のクラブでの夜の懇親会では、政治、経済、海外事情等の話題に花が咲きいつも勉強させてもらっており、それも楽しみの一つになっています。 その他春、秋2回のゴルフコンペもあり、お陰様でKDD時代には経験できなかった異業種の人達との交流が出来、見聞を広め、ある意味では生き甲斐を感じています。 
  私は昨年妻を亡くしてからは一時落ち込みましたが気晴らしも兼ね、家での読書のほかは、以上の様な交友関係の広まりのお蔭で今はなんとか年相応に元気でやっています。 [人生は只一度の招待です]ので今は残り少ない人生を日々悔いの無いように生きたいと念願しています。 
  写真は、例年12月第一土曜日に銀座で開催しているKDDの同期会(1964年入社時のデンデン虫をなぞった、かたつむり会)の今年の写真です。





    
2. 松田 隆治 さん (2月11日生まれ)

 近況報告

  私は昭和12年2月11日の生まれで、この日は当時紀元節、現在建国記念の日とされていて誕生日はいつも祝日です。 生まれた年に日中戦争がはじまり、戦中戦後の大変な激動期に私は幼少年時代を過ごしました。 そして平成27年2月に私は78歳の誕生日を、4月に私たち夫婦は金婚式の結婚記念日を、お蔭様で元気に迎えようとしています。 
  平成9年3月末に会社を退職した後、私はすぐにKDD友歩会に入会し、会社にいた多くの人たちと親しく交友を続けてきました。 昭和62年に発足した友歩会は、私が入会した頃はその最盛期で、奥様を同伴したりして100名を超える参加者が長い列をつくって12Km以上の距離や山登りも平気で皆元気に歩いていました。 入会の翌年から私は世話人としてずっと会の企画や運営に携わってきて、2年前に石川恭久さんの後を継いで3代目の会長を務めています。 
  しかし、友歩会はKDD退職者の会であるため、KDDの合併後は新たに入会する人が断たれてしまい、お蔭で会員の高齢化とともに参加者は減る一方です。 k-unetのようにメールでも参加できる会とは違い友歩会では実際に集合場所に集合して一定の距離を歩かねばなりませんので、足腰が痛いなどと参加を取り止める方が出てきます。 高齢化は本人だけでなくその配偶者にも同時に訪れるため、影響はわれわれの予想以上に速く、参加者は年々確実に減少しています。 そのため世話人会ではバスや電車を利用して歩く距離を短くしたりして昨年11月には神楽坂の街を一巡りした後、第350回の記念大会を別亭鳥茶屋で開催し、そこで今後もできる限り長く会を続けたいと皆で話し合いました。 私は友歩会で退職後もこのように長年にわたってKDDにいた人たちと山や川や海岸、名所旧跡などをともに巡り歩いて親しく語り合い、楽しく人生を過ごせたことをとても幸せに思っていますし、歩くことによって健康な体を保持できたことにも感謝しています。 
  友歩会以外では、私は現役の頃からずっと庭でバラを栽培し、盆栽や鉢植えを数多く育て心が癒されてきましたので、この趣味はこれからも生涯続くことでしょう。 数年前に急に夫に先立たれた私の姉から「夫婦とも元気なうちに行きたいところへ行っておきなさいよ」とアドバイスを受けて、私たち夫婦は最近あちこちへ一緒に出掛けています。 行き先は2人が若い頃から好きだった山が主ですが、最近では登りに若い人の2倍も時間がかかってしまうため、これからの山行は、新穂高、乗鞍岳、立山、筑波山のようにバスやロープウエー、リフト、ケーブルカーで山の中腹や頂上近くまで楽に行ける山が、調べれば他にもいくつもあると思われるのでそういうところにしようと考えています。 これも友歩会と同様の高齢化対応です。 私は富士山の写真を撮影することも趣味にしてきましたので、週間天気予報で晴の日を選び周辺の撮影ポイントにも2人でよく出掛けています。 また私たち夫婦は大阪生まれの熱心な阪神フアンで、阪神タイガースの殆ど全試合をCATVの実況中継で観戦しており、毎年西武・阪神2連戦には西武ドームまで応援グッズ持参で応援に行っています。その他JAF(日本自動車連盟)が東京で開催する新日本フィルや東響のコンサートには毎回必ず応募して入場券が入手できると一緒に出掛け、素晴らしいクラシック音楽の演奏を楽しんでいます。
  以上述べたように私の近況は、友歩会と趣味に生きる毎日です。 




 
  

Happy Birthday !

  1月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。 この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。

今月のお誕生会員:  真田 一郎 さん   西澤 太郎 さん

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1. 真田 一郎 さん (1月14日生まれ)

 快汗快眠が体に一番

  昨年1月にKDD退職から14年が経過して古希を迎えました。 生来のネクラにも拘らず大きな支障もなく健やかに過ごせるのはどうやら運動好きの女房の影響があるように思います。 恐縮ですが、これといった健康法は意識していませんが「気持ちよく発汗する」と良い生活サイクルに入れるという単純なものです。 
  現役時代は主に近隣のテニス好きの人達とファミリーテニスを、退職後はこれに加えて主に京都の禅寺巡りとか地元に近い大峰山系などの軽登山・ハイキングがこれに加わり現在の健康に繋がっているのかと思います。 数回でしたがOBテニス東西交流会に参加して懐かしい愛好家のメンバ-とご一緒したのが良い思い出になりました。
  冬季は週に数回は低目の温度に調整された露天風呂を選んで2時間近く温まります。  一回当たり 2kg 弱のウエイトコントロ?ルをすると具合は良くて、ほぼ若い頃の体重に維持しています。 ちょっとこれは筋肉量の減退分を考慮しないとまずいのですが。 湯温 38 央ぐらいの温浴です。 ぬるま湯なので、読書する人も見かけます。 30分を過ぎるあたりから湯温が沁み始め、1時間経過すると上半身を出して心臓の負担を軽くします。 体調を見てさらにもう1時間の半身浴です。 その結果、夜は「素晴らしい睡眠」が得られます。翌朝は体がポカポカしており、これを数度経験すると止められなくなりました。 ここ暫く腰痛でテニスは控えていたのですが、温浴効果なのでしょうか小康状態になり、今はさらに良くなってきました。 車で南に約20分のところに古くは「阿騎野(あきの)」と呼ばれていた狩場だった自然の中で湯煙に酔いながら世俗を超越した気持ちになれるのが気に入りです。
  食の方では、香り豊かな蕎麦に憧れて50才台後半に蕎麦教室へ通い始めたことでしょか。 毎年11月末頃に新しい蕎麦粉が届く頃、今年の出来具合はどんなんやろか、香りはどうか、などとソワソワします。 我が家のクライアント以外に菜園の友を招いて試食をしてもらったりしています。 新蕎麦を食べ始めて数週間すると体が軽くなったように感じます。 蕎麦湯も食するもので、血管のごみ掃除に役立っているのでは...などと勝手に思い込んだりしています。
  このような日常に加え、現役時代に思いが実現できなかった10日ほどの海外旅行を数年毎に楽しんでいます。 窮屈な機内に閉じ込められる10時間余の飛行に耐えられる体を維持していたいのです。
   第二の青春をいつまで楽しめるのか...これは「神のみぞ知る領域」です、先輩諸氏のご投稿を拝読させていただき参考にさせていただきたいと存じます。



 <写真説明>

瑞西マインフェルト オ-バ-デルフリガッセという場所にあるハイジ村(おなじみのアニメ映画ロケ地)の入り口付近の公園です。 サンモリッツの宿泊場所に向かう途上で立ち寄り散歩しました、空気は美味かったです。





    
2. 西澤 太郎 さん (1月26日生まれ)

 ポカラ(ネパール)の思い出

  ポカラは、ネパールの首都カトマンズから「西北西」に約200kmにあるヒマラヤ登山の入り口としてとても有名な地域です。 私がポカラを訪れたのは、今から40年弱前のことで確か35歳頃のことでした。 当時の日本とネパール間の通信手段は、短波によるものでした。 数年前に日本(KDD)が供与した短波の送受信設備による通信状況が安定しない時間が多くなって来たため原因の調査をすることになり、私が短波の受信設備の担当として調査団の一員として出張することになりました。 
  当時のネパールは、電源の状況が著しく悪く、頻繁に停電するのは当たり前のことでした。 電源のルートを見てみると、一般の商用と通信用の電源が入り混じっていて、停電即通信断につながる状況でした。 従って、通信が頻繁に途絶える原因の一つに停電があることが現地に入って直ぐ解りました。  

◆ 短波送受信設備の点検・修理
  私は、受信設備の調整・修理に取り掛かりましたが、大きな問題はありませんでした。 急遽、中央局の設備(LINCONPEX方式)がうまく動作しないので見てほしいとの要請が出され、私の専門外でしたがこの設備の基本的な方式について知っていましたので早速とりかかることにしました。 ところが、この方式は非常に細かな周波数調整を必要とするもので、調整には周波数カウンターが必須です。 持ち込まれた周波数カウンターで調整を始めたところ、どうもこのカウンターの表示がおかしいことに気づきました。 途方にくれたのですが、このカウンターを使う他に方法が無いので、まずカウンターの校正から手がけた次第ですが、表示のおかしい桁を運良く見つけることに成功し、無事調整を完了できました。  

◆ ポカラへの旅
  ネパールの通信の主管庁により我々調査団にポカラへの視察が1泊2日で設定せれ、同行することになりました。 ポカラには、国内通信の無線基地があるということで興味を引かれました。 
  当時の国内通信の手段としては、無線周波数帯としてVHF帯(アナログTV時代のTV放送で使っていた周波数帯付近)を使っていました。 非常に過疎な地域の通信としては、無線通信は、効率的かもしれません。 (カトマンズからポカラへのルート: http://goo.gl/xXcYV0 ) カトマンズを車で後にしてポカラまであと40乃至50kmに達した時、あるはずの橋が洪水により流出していました。 水の流れる川を車で渡らざるを得なくなりました。 目の前でバスが川を渡っていくのを見ていましたが、運転手が躊躇していると、現地の親切な人が、川の中に石を投げてここを通れば渡れるとルートを示してくれました。 お陰で無事に渡ることができポカラに到着しました。 ポカラはとても景色の良いところで、ヒマラヤの山々を臨めるところです。 特に魚の尾という意味を持つマチャプチャレという山は、マッターホルンを思わせる鋭い山頂をもち、当時は信仰上の理由からネパール政府がまだ登頂を許可していなかったそうです。 幸運なことにこの山並みが私達の到着に合わせてベールを脱いだのです。  

◆ 本場のカレーの辛さ
  夕食にインド風の料理がでてきましたが、一口くちにしてびっくりです、口を閉じることが出来ないほとの激辛です。 また、薬味のように付いてきた緑色のものを、振りかけたところ更に辛さが増したのです。 ネパールに滞在中、この辛さに馴染んでしまい、今でも辛いものが好きになってしまいました。  

◆ 行きは、良い良い帰りは怖い
  往路は簡単に川を車で渡れましたが、帰りは安易に考えたのか? 躊躇なく車は川に入っていったのです。 川のほぼ中央で少し大きな石に当たったようでエンストとなりました。 私達は、後部座席に座っていましたが、次第に車内の水嵩が増え、ついに膝のあたりを水が流れる様になったため書類やカメラを持って脱出することになりました。 川の水は腰の下ぐらいあり、何とか川岸にたどり着きましたが、問題はカトマンズまであと200km弱をどのようにして帰るかでした。 車は、川の真ん中に止まったままです。 そこで異様な光景を目にしたのです。 現地人が20名ほど土手の上に現れ見物しているではありませんか。 すると運転手は、彼らと交渉して金を払い車を川岸まで押出しました。 
  ここからがさらに感心したことです。 運転手は、水が入ってしまったエンジンオイルを全て抜き取り、新しいオイルに交換したのです。 作業が完了するまで約2時間、エンジンは見事にかかったのです。 ガソリンスタンドや自動車整備工場のないようなところで車に乗るには、入念な準備と技術が必要なことを痛感させられました。 しかし、車の座席には、スポンジが入っていて水をタップり吸い込んでいました。 カトマンズまでの約4時間強の間、座席からの水がズボンを濡らし続けていました。 お陰で帰国後ひどい風邪を引いてしまいました。 その後ネパールの国際通信は、CW (Cable & wireless) からの地球局の供与により衛星通信に移行しました。  

◆ 最後にちょっとおもしろい話
  Yes は、「首を横に振る」。 これは、イエス・キリストのことではなく、インド系の多くの方が Yes という返事をする時のことです。 ニコニコしながら Yes といい、首を横に振る仕草に最初はとても戸惑いました。 でも慣れるととても親密感を抱くようになりました。 ネットで調べたところ、この仕草に戸惑った日本人は、少なくないようです。 
  懐かしい昔の話です。

+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+  会員の皆様から一言 +:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+

ネパールでの思い出

織間 政美 2015/01/07 00:33:02

私は当時の有竹常務と市原回線統制部長の御供をしてビルマからネパールに入りました。 ビルマで出された干しブドウが乗った1口サイズのケーキを食べようとしたら動くので、良く見たら蝿取紙から落ちてきた蝿でした。 止めると失礼なのでそのまま食べました。 翌朝から下痢がはじまり次のネパールに行き、送受信所の視察をおえてホテルに入った頃はかなりひどい状態でした。 翌日ポカラ観光を誘われたが、ひどい状態なので、ホテルで休ませてもらいました。 ベットの上で、視察した内容をまとめ、ネパールにあったHFシステム構成と必要な機材を図表にしておきました。 翌日会議の日カトマンズの官庁が火事で、ホテルの中で会議し、この図表が承認され、必要な機材をKDDが供与し、設置することになりました。 この工事には、懐かしい亡き浪間さん田尻さんが行き、無事回線が出来ました。 その後西沢さんが保守に行ったことを知り、浪間さん田尻さんを思い出して、我が仲間がネパールに関与したと大変嬉しく懐かしく思っています。





 


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