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第18話

~ 原爆ドーム100周年 戦争と平和 ~

2015年4月 遠藤榮造

 本年は戦後70年の節目に当たり、天皇・皇后両陛下の太平洋線激戦地ペリリュー島(現・パラオ共和国)への慰霊の旅をはじめ、多くの行事が催されている。その中で先日、終戦の象徴なった世界遺産の広島原爆ドームが建設100年目に当たると云うテレビ報道を見た。広島出身の筆者は戦前の建物に些か馴染みがあり、記録や想い出があるので、その一端をまとめて見たいと思う。
 なお、パラオについては、本シリーズの3話・4話に船旅紀行の拙文があるので、ご参照願いたい。

◆ 原爆の悲劇と敗戦の様子は広く語られるところだが、当時広島では原爆を「ピカドン」として広島市民を未曾有の惨禍と恐怖に陥れた。ピカドンは1945年8月6日午前8時15分に投下された新型爆弾(ウラン型原子爆弾)で、爆心から半径およそ1kmの地域は強烈な熱線「ピカ」による焦熱地獄。今日爆心地付近に原爆モニュメントとして保存されるのが世界遺産の「原爆ドーム」。
 知られるとおり原爆ドームは戦前「広島県産業奨励館」として使われた当時のモダンビル。太田川支流の元安川河岸に建てられた5階建ての鉄骨・煉瓦・石積み造り。建物中心部の玄関ホールを吹き抜けとし、螺旋階段で各階を繋ぎ5階部分がガラス張りのドーム、昼間はこのドームから玄関ホールまでを明るく照らすと云うユニークな設えであった。チェコ人設計のバロック建築、1915年に完成している。因みに、この産業奨励館は物産展示のほかに絵画展や写真展などの文化活動にも利用され、一般市民に親しまれていた施設であったと云う。
 このビルは、原爆炸裂の中心点から僅かに200㍍東南に位置したため、一瞬にしてメルトダウン、ドーム天井階が骸骨のように残った。「ピカドン」は、まさにその威力を端的に表現したものと云えよう。つまり、ピカを直接浴びた人々は殆どが即死。2㎞範囲はピカ火災で焼け野が原。生存者にはケロイドの後遺症が多いと云われる。さらに3~4㎞範囲では爆風「ドン」により建物は殆ど壊滅という状況。被爆者の多くが水を求めて元安川などに集まったと云う惨状は語り継がれるとおりだ。当時の広島市民、人口凡そ30万の半数に近い10余万が即死ないし1か月以内に死亡したとされる。今日百余万の政令都市に躍進した広島では当時の面影を見付けるのは難しいが、いまだに放射能による健康被害者の苦痛はつづき、強力な殺傷・破壊力の原子爆弾の影響が語られる。
 因みに、爆心から北東3km程にある広島城も全壊(現在は再建されている)。実は、更に北東1㎞先にあった筆者の伯父(本家)の屋敷も全壊・家族は行方不明の悲劇に見舞われている。原爆投下間もなく呉在住の叔父などが捜索に駆け付けたが、投下の時刻が午前8時15分であったから、丁度勤めなどに出掛けていた頃と見られ、一家の行方は尋ね当たらずと云う。
 この広島原爆に続いて3日後の8月9日には長崎にさらなる新型のプルトニューム型原爆が投下されたことも周知の通りで、余りにも凄まじく痛ましい惨禍に見舞われ、戦争終結の道を模索していた日本政府は、遂にポッダム宣言(連合国側が出していた無条件降伏)を受諾し8月15日の終戦を迎えた訳だ。この原爆被災前に日本各地は既に広範囲な焼夷弾の空爆を受けて焼土と化しており、大戦終結時の日本国土の惨状は国民の記憶に深く焼き付いた。
 なお、筆者は戦局悪化の昭和19年夏、招集により台北(台湾)の部隊に配属され現地で20年8月の終戦を迎えた。宇品港(広島)に復員したのは、翌21年(1946年)3月のこと。新型爆弾の広島攻撃については台北の現地でも断片的な情報を得ていたが、復員により呉市で生き延びた母と弟との再会を喜び合うなかで、はじめて原爆の惨劇・伯父一家の全滅、また空爆下での妹の病死などを知らされ驚愕の極みであった。

◆ さて上記のように、世界で唯一最初の原爆被災国になった日本では、当然ながら原爆廃絶の世論で一致しているが、国際的には複雑な状況が続いている。そもそも広島への原爆投下の是非を巡っては未だに国際世論は大きく分かれる。当時の神懸かり的軍国主義の日本を降伏させ、戦争の早期終結手段として原爆投下はやむを得なかったとする主張(米・連合国側)。これに対し、原爆の使用は一瞬に市民を大量殺戮する人道上許し難い暴挙であったとする有識者等(科学者・宗教家など)の人道論が渦巻く。
 そのような世論の象徴としては、例えば米国では第2次世界大戦を終結に導いた記念として、広島上空に世界初の原子爆弾「リトルボーイ」を投下したB29爆撃機「エノラ・ゲイ」の機体をスミソニアン航空宇宙博物館(首都ワシントン)の別館に展示して原爆作戦の功績を称えている。
 一方日本では、ご存知のとおり広島の原爆ドームを惨禍のモニュメントとして世界文化遺産に登録(1996年)し、その一帯を平和記念公園として整備して犠牲者の慰霊碑・祈念堂や当時の悲惨な様相を後世に伝える平和記念館を建てて原爆の非人道性を証し、戦争の過ちを訴えて恒久平和を誓っている。
 因みに、広島上空で炸裂した原子爆弾「リトルボーイ」に搭載された原子核(ウラン235)の量は、50㎏とされるが、核爆発に成功したのはそのうちの僅かに1kgほどに過ぎなかった、と専門家は分析している。しかし、その僅かな核融合が広島に焦熱地獄をもたらした訳だ。そのエネルギー量を通常爆弾に換算すると、例えばその年の春、首都東京を焦土化したB29凡そ300機による焼夷弾攻撃の総体的威力の8倍余にも匹敵すると云う。その上、核被爆による放射能汚染が長期にわたり被災者・被爆地に深刻な影響を及ぼした。この強烈な非人道的破壊兵器・核爆弾の廃絶を訴える声は今や地球的な叫びである。

◆ 周知のとおり核軍縮や核廃絶の世論の下、1970年には国連条約として「核不拡散条約(NPT)」が発効、既に190余か国が加盟(2008年末現在)して核軍縮の要になっている。たが、残念ながら同条約への不参加国(インド、パキスタン、イスラエル)や北朝鮮のように一方的な脱退国もあり、核開発・保有の動きは政治的駆け引きのカードとしても使われ、さらなる紛争の種になっている。つまり、核保有を米英仏露中の5ヵ国に限定したNPT条約の矛盾が指弾され、核戦争の抑止が微妙なバランスの上にある。真の世界平和は地球上の核兵器の全廃がなければ実現困難との訴えが、年々原爆祈念日などを機に強く叫ばれる所以である。関連する米オバマ大統領のノーベル平和賞も記憶に新しい。
 顧みるに20世紀前半は戦争に明け暮れ、ついに核爆弾というパンドラの箱を開けてしまい、史上未曾有の惨禍にまみれた不幸な時代であった。戦争突入の無謀な過去を振り返り、戦争を再び繰り返してはならない、との祈りは日本人、否全人類共通の念願である。
 ともかく原爆の尊い犠牲のもとで日本は平和への歩みを進めることが出来た。皮肉にも我が国の戦後復興をリードし民主化のレールを敷いてくれたのも原爆を使用した米国であり、今や日米同盟のきずなで結ばれている。それは戦後の民主主義社会の繁栄につながり、われらが享受する今日の戦後70年の平和であることも紛れもない事実。この歴史と現実を踏まえて、如何に未来を指向するかが、我らに課せられた課題であろう?
 今日は、アフリカ・中近東から南西アジア地域にわたり、イスラム系過激派などのテロが続発、世界にその恐怖と影響をもたらす不安定な状況が憂慮され、70年の平和も脅かされている?!
~以上~  

 
 


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