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お知らせ

貴志俊彦氏のOKITAIケーブルに関する新論文のお知らせ

1970年代東アジアにおける広帯域通信ネットワークの形成-沖縄台湾間海底ケーブルの建設を契機として」(村上衛編『近現代中国における社会経済制度の再編』京都大学人文科学研究所、2016年、429467頁)
こちらをクリックすると上記論文をpdfで閲覧することができます。


この論文集は、下記URLの
サイトにある目次から、論文題目をクリックすると、閲覧できます。

  http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~rcmcc/murakami-paper1


なお、貴志教授は、現在、OLUHOケーブル(沖縄〜ルソン〜香港)について調査中で、関連情報があれば、ご連絡いただければ幸いとのことです。


 

2015年3月~ 掲載

『日中間海底ケーブルの戦後史』 (著者:貴志俊彦)に寄せて


 
☆☆☆
『日中間海底ケーブルの戦後史』 (著者:貴志俊彦)

  
京都大学の貴志俊彦教授が表題の著書を出版されたことを知り、早速拝読した。KDDに長く勤務した私にとっては、「国際間の海底同軸ケーブル」という語には、入社後何度も耳にした“国際通信の夢”とか、“KDDの誇る新技術”という語に置き換えられるような、ある懐かしさと親近感が宿る。
  本書は、1972年8月22日 当時の菅野義丸KDD社長を団長として組織された国際電気通信訪中団が北京を訪れ、5日間の協議を経て日中間に海底ケーブルを布設することに合意、その後の双方の限りない努力と協力により数々の困難な問題を克服、1976年10月25日の開通に至るまでの経緯・史実を、これらの事業に携わった両国関係者に対し、著者自ら直接聞き取りをされたり、残された文書や資料を綿密に調査され、国交正常化後の初の日中共同プロジェクトがいかに意義あるものであったかを浮き彫りにしている。   
   KDD (現在のKDDI) に関係する者にとっては、日中間海底ケーブルの歴史を外部の先生が、こんなに立派な記録として纏め上げて下さったことに、心からの感謝と感嘆の念を抱く。
 私は、KDD内部者として本書を読み、学術書のような記述の行間から、当時の関係者として登場する多くの先輩方の顔や、声、表情までも思い浮かべることができる。まるで、モノクロ写真が、立体感と色彩を伴う動画に変化していくような …。

<興味深かったことなど> 

中国と日本の国民性・言語の違いなど  
  両国で合意文書を作成する際、Arrangementの訳語として、中国側は「協議」を使用し、日本側は「取極」 を用いたということ、お互いに漢字使用国でありながら、こういう1語にも妥協せず、相手の主張を理解するように努めた上で、ニュアンスの違いを認め合ったのであろう。そのほか、「敷設」と「布設」なども。両国の交渉担当者の並々ならぬ忍耐、歩み寄りの積み重ねがあったことが伺える。また、日中交渉団の一員として北京を訪れたというKDDの先輩・織間政美さんからは、次のようなお話も伺い、私には国と国が理解し合うための小さな出来事として印象に残っている。
 「中国側の担当者の一人は、当初いつも気難しい顔をして、寄り付き難かったが、ある日、プライベートな会話の中で、“中国の歴史書として、日本では『十八史略』* があり、今回記念に、この原書を買って帰りたいと思い、書店に行ったが見当たらなかった”と話したところ、“ヘぇー、日本では『十八史略』になっているの?中国では 『二十四史略』として、小学校で習っているよ”と教えられ、こうした会話の後は、何となく親しみ易い表情に変わってきた」と。
 *  元の曾先之によってまとめられた中国の子供向けに、纏められた歴史読本の日本版。

ケーブル障害と復旧までの5年間
  日中間海底ケーブルは、1976年10月25日に開通後、幾度も断線という事故が発生し、約2年後に一時サービスを停止、その後復旧までに5年を要している。当時、この断線に関しては、マスコミでいろいろな憶測による噂が取り沙汰された。「ナゾの切断」とか、「上海寄りで似た原因不明の切断」など、まるで人為的な工作でもあるかのように。その後の調査で、これはこの海域で操業するトロール船の底曳き漁業によるものだと判明した。かなり昔、日本国内で、線路上に電車が脱線するに足るかなり大きな石が並べられるという事件があり、数日間、一体何者が ? 何の目的で ? などとマスコミで人為的なものであるかのような憶測記事が書かれたことがあったが、後日犯人はカラスであったことが判明、皆が「ナーンダ」と、胸を撫で下したことなどと考え合わせると、興味深い。 (文責 大谷 恭子)



 読書感想 

『日中間海底ケーブルの戦後史』 を読んで
       永田秀夫   

 貴志俊彦先生のこの本を読むと、建設の一端に参加した私自身も知らないことが実に多かった。忘れられ、消えかけているこの日中間海底ケーブルの全体を、今回、先生がわかり易くまとめて残してくださったことに感謝したい。労作である。ただ、著者も断わっているが、技術的な話が比較的多く、政治的側面を含む交渉のそれがどちらかと言えば少ないのは残念だが、関係者からあまり話が聞けなかったのか、物故者が多かったのか、どうも双方らしい。もう、古い話である。
 このケーブルの最大の特徴は、すべて国産技術による日本最初の国際海底ケーブルである(その後の日本の国際海底ケーブルの基になった)こと、特に、世界でも有数な広い浅海での約660キロメートルにも及ぶ海底ケーブルの埋設は世界にも前例のない大きな事業だったことである。
 ただ、その後の石油ショックによって、漁業が最も盛んな東シナ海では、海底を深く掘る漁法が始まり、これにより海底に埋設されたケーブルでも切断障害が多発したこと、また回線容量が格段に大きな光ケーブルの実用化の時期が近くなっていたことで、その能力が十分に活かされたとは言い難いことは残念である。
 思うに、国際海底ケーブルは国際関係に振り回されることが多い。古くは、日本は中国清との紛争の際、長崎・釜山間に大北電信会社に電信ケーブルを敷設してもらったかわりに、1883年同社にアジア大陸とその近くの国々へのケーブル敷設の独占権を認め、後々まで禍根を残したことはよく知られている。この日中間海底同軸ケーブルも、日中国交が再開されたことによって突然建設が決定されたので、ケーブル埋設技術の開発などに十分な時間がとれたとは言い難いのではないか。
 


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書評

次の記事は、新納康彦さんからお寄せいただいた原稿で、3月13日発行の週刊読書人に掲載されたものです。



「日中間海底ケーブルの戦後史」
国交正常化後の貴重な記録
新納 康彦   
バーティ・エアテル・ジャパン代表取締役    
元KDD海底ケーブルシステム会社社長    

 日本と中国は、今から約40年前の1972年に日中共同声明に調印しようやく終戦を迎えました。 戦後の日中間の国際通信は、貧弱な短波無線2回線で細々とつながっていたにすぎなかったのです。日中国交正常化により通信の改善のため海底ケーブルの建設が計画されました。当時、私は30才代でKDD入社後海底ケーブルの研究を行っていた亀田研究室の一員として、日中間海底ケーブルに採用されたCS-5M方式の端局設備の開発を担当していました。海底ケーブルの教科書は、アメリカのベル研究所のBSTJで辞書片手に必死に勉強していたことが思い出されます。
 1976年、日中間海底ケーブルの敷設が行われました。中国、上海の陸揚げ局の試験要員として中国に初めて海外出張しました。陸揚げ局では一か月にわたり局に寝泊まりして中国の人々と一緒に仕事をしました。中国の人々はみんな親切で何でも協力してくれました。初めての海外出張は見るものすべてが斬新であり、楽しい毎日でした。陸揚げ局は揚子江に近く水は赤茶色で白い下着は洗濯のたびに赤茶色に染まってしまいました。陸揚げ局の周辺は一面桃の木畑で静かで平和な農村でした。しかし、外出すると、いつのまにか党員と思われる人が横にいました。
 週末には、中国側の配慮で高級車「上海」-と言っても窓ガラスは隙間だらけでしたーで上海のホテルへ行くのが楽しみでした。上海では外出が許され上海デパートへ買い物に行きました、われわれの色物のシャツが珍しかったのか人民服の大勢の中国人に囲まれ異様な感じでした。上海の町は自転車ばかりで車はほとんど走ってなく町全体が人民服の灰色でした。
 当時は、無我夢中で設備の試験を担当しており、日本と中国との間でどのようにして海底ケーブルの建設が計画されたのか、どのような議論が行われたのかなど全く分かりませんでした。本書を読んで改めて当時のことが思い出され、断片的であった記憶がつなぎ合わされました。
本書の目次は次の通りです。

プロローグ  日中間通信の幕開け/   1 「終戦」の合意から日中初の共同事業へ/   2 建設前の日中間交渉/   3 海底ケーブル建設工事/   4 ケーブルの開通から断線まで/   5 復旧への長い道のり/   6 グローバル通信の時代へ/   エピローグ 日本の技術的成果と中国の政治的意義

 本書は、日中間海底ケーブルの建設の歴史を4年以上にわたり失われつつある資料を丹念に調査し、両国の当時の関係者のインタビューを行ってまとめた力作です。特に筆者は中国語が堪能であり当時の中国の関係者の生の声の記録は貴重です。多くの日中の関係者から「この事業は日中友好の成果であった」ことを繰り返し聞いており、現在の軋みのある日中の関係の中で特に感銘を受けています。本書は日中間の通信インフラの記録のみでなく、国際通信の業務、技術に関すること、国際海底ケーブルの計画から敷設までの技術、業務について幅広く網羅しています。また普通書かれることのないプロジェクトの失敗談について、なぜ運用停止という最悪事態になったのか、その時中国側の対応はどうだったかなど、貴重な記録となっています。さらに豊富な注意書きや参考文献が載せられており、この分野の研究のヒントを得るための資料としても貴重です。

 


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日中間海底同軸ケーブルに携わった思い出


大荒れの東シナ海
<遣唐使も渡った海路に想いを馳せて>

織間 政美     

   今から35年程前の話である。上海で開催された日中間海底同軸ケーブル障害復旧対策の特別会議の休憩時間に、上海郵電管理局の袁驊技師長に、本屋で十八史略の原本を探したが見つからなかったと話したら、中国には、二十四史というのがあるが、との返事だった。私は、荒れた海での遣唐使の絵が頭に浮かび、うかつにも、大昔、遣唐使が二十四冊の史本を頂いて日本に帰る途中、東シナ海が荒れて史本が流れてしまい、日本には、十八史しか到着しなかったのかもしれないと話したら、袁驊さんと周囲の人が笑っておられた。この時、後に私自身が東シナ海で、大荒れを経験するとは、まったく気付いていなかった。

 海底ケーブル障害復旧対策
   1979年末のKDDの大人事異動で、陸上通信、衛星通信を担当していた私が、突然、海底線建設を担当する事になり、その第1の仕事が前記会議であった。障害対策に心を砕いていたが、もう一方では、部に着任する以前から、海底ケーブルの障害復旧対策の一つで、海底に露出したケーブルを再び埋設する再埋設装置が検討されていた。再埋設は、海中の潜水艇を(3次元)操作してジェット水流で海底に穴を掘るやり方と海底の車両を(2次元)操作して多くのジェット水流で海底に穴を掘るやり方がある。潜水艇方式は、移動が海底の地質にあまり左右されないが、操作が3次元なので難しく、埋設速度が遅い。車両方式は、移動が海底の地質に左右されるが、操作が2次元なので容易で、速度が速い等の利点がある。潜水艇方式は、研究が進められ、米国などでは実用されていたが、車両方式は、資料が無いので実用性を確かめる必要があった。
 検討を依頼していた船舶製造会社の提案は、大きな鉄の無限軌道(キャタピラ)を持つ数億円もする大がかりのもので、重く、とてもやわらかな海底を走行出来るとは考えられなかった。車両方式は、地質により走行出来ないとゆうリスクがあり、経費を出来るかぎり少なくして実用性を検討する必要があった。伊澤副参事から、重量を軽減し、経費を100分の1以下と少なくするため、ゴム製の無限軌道を着けた田用の農具を利用して2分の1の海中走行モデルを作り、走行実験する計画が提案され、実施する事にした。伊澤さんがリーダーで、海に行く前に、池を借りて試作モデルをテストした。モニターを積んだ小舟を棹で漕げる人がいないので、視察に行った私が、漕ぐ事になった。生家に川船があり、漕ぐのは手慣れていた。この池では上手く走る事が出来たので、次にヘドロを多分に含んだぐちゃぐちゃの田に水を張り、上手く走る事を確認した。

 東シナ海での再埋設機走行実験
  東シナ海での走行実験は、伊澤さんが船酔いするので要請されて、私も参加した。KDD丸よりごくごく小さい作業船に乗り、門司を後に東シナ海に向かい、試験海域に到着して待機した。波と風が気になったので、通信室に行き、若い頃に航空気象学を学び、天気図を書く訓練を受けている事を話し、最新の天気図を見せてもらった。上海付近に小さな低気圧があるが海域の気圧配置は平坦で、問題なしのように見えたが、東シナ海のデーターが極めて少なく、等圧線が書けない状態にあると判断し、現在位置のデーターを気象無線局に連絡して貰った。他の船舶局も同調し、やがて見返りに天気図が送られて来た。それによると、低気圧が発達し、かなり荒れると予想された。船長と相談し、直ちに引き返し、五島列島の陰に退避する事にした。
 途中で、雨、風が強くなり、海は、だんだん荒れてきた。大きな防波堤のように見える波の中に船首が突っ込むようになり、音と振動、ピッチングで大揺れに揺れるようになった。夕食の時間になったので食堂に行ったら、船長他乗組員2名がいただけで、KDD社員は、1人もいなかった。他の社員を呼びに行こうとしたら船長さんから、「織間さんは、何でもないですか」と言われた。「揺れるのでお腹がすいた」と言ったら、皆さん顔を見合わせて、「船員でも酔っていますから、KDDの方も船酔いで動けないのだと思います」とのことだった。心配で見舞いに行きたかったが、苦しい時は返って迷惑になるようで、ソーットしておくことにした。ちなみに食事は、左手で汁椀を持ち、左手肘でご飯茶碗を抱え、逃げるように動くおかずの皿をおっとっとと箸で引き寄せて食べた。KDD社員は、その時の航海で、すごい船酔いで苦しみ、お腹の中のものは全部出し、最後は血まで出した人もいたそうで、苦しかったろうと心が痛んだ。
 五島に着いたら極めて平穏で、地面が動かないので、天国の様だと皆が喜び、元気を取り戻していた。翌日また東シナ海の試験海域に行った。小さなうねりがあるだけで、絶好なテスト日よりだった。KDDの社員は、船酔いで青い顔をして苦しそうな人もいたが全員デッキに出て作業した。苦しくとも仕事はやりとげようとする根性を感じ、感激した。ただ、下を見ると気分が悪くなるとのことで、海中テレビのモニターのワッチは私が担当した。
 テスト車は、初めのうちは少し海中で動いていたが、粘土が溶けた様な海水が湧きあがり、やがて動かなくなった。海底は、予想以上に柔らかく、無限軌道でも土を掻きだし腹部を土につけて無限軌道がから回りし動けなくなるようだ。海底を走る車両型再埋設機では、日本の柔らかい土質の田程度の海底であれば、充分に作業が出来るが、長江で運ばれた粘土が溶けたようなヘドロが堆積する障害地点の海域では、作業出来ない事がわかった。

 大昔、遣唐使も この東シナ海で… 
   この時のテストで、東シナ海は、突然荒れ、大きな波が発生する事を体験した。大昔、遣唐使が平穏だからと船出し、航海中に突然天候が悪化し、木造のさらに小さい船は、波風に翻弄され、海水が船に流れ込み、歴史書が海に流れるどころか生命さえも脅かされ、大変な苦労だったろうと思った。
 帰社して落ち着いた頃、ゴルフ仲間が、食堂で、テストに同行した若手社員が、おやじさんは、なんで船酔いに強いのだろう、我々は、船酔いにやられ、しっちゃかめっちゃかだったと言っていたと、冷やかし半分に教えてくれた。私は、若い頃、飛び込み転回、連続バック転などのマット運動を仕込まれ、長じて急斜面でのスキーなど加速度系の運動をしていたので、乗り物酔いに強い体質になったのだろうが、それよりも船酔いで気分が悪く、青い顔をしてでも、デッキに出て作業する社員に感動し、偉いと褒めていたと伝えて貰った。

 


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京大 貴志教授からいただいたご連絡


日中間海底ケーブルの戦後史(著者:貴志俊彦京大教授)の刊行について


ー 著者の貴志教授からk-unetへ以下の連絡があったので掲載します。ー

 KDD等のOBの方々のご協力とご支援をいただきまして、ようやく拙著が刊行されました。感謝の気持ちを込めて、ご報告いたします。(貴志俊彦 京大教授)

 貴志俊彦
 『日中間海底ケーブルの戦後史-国交正常化と通信の再生』
  (吉川弘文館、2015年1月19日配本)
   
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b186311.html
 1976年、戦後初の共同プロジェクトとして、日中間に開通した海底ケーブル。経済体制の違い、先の戦争における傷を抱えながらも、事業の実現に向け尽力した姿を追う。忘れ去られようとしている秘められた海の戦後史。
目次 : プロローグ 日中間通信の幕開け /   1 「終戦」の合意から日中初の共同事業へ /   2 建設前の日中間交渉 /   3 海底ケーブル建設工事 /   4 ケーブルの開通から断線まで /   5 復旧への長い道のり /   6 グローバル通信の時代へ /   エピローグ 日本の技術的成果と中国の政治的意義


【著者紹介】 貴志俊彦 : 1959年兵庫県に生まれる。
1993年広島大学大学院文学研究科博士課程後期単位取得満期退学。
現在、京都大学地域研究統合情報センター教授、日本学術会議第二三期連携会員。
 


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