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多摩送信所とポツダム宣言

 聞き慣れない名前ですが「
多摩送信所」について、会員の松本一夫さんから情報が寄せられたので紹介します。
 「多摩送信所」はポツダム宣言受諾の海外発信を行った短波放送の送信所のひとつで、現存はしませんが、現在の法政大学の多摩キャンパスの中にありました。このたび、法政大學新聞にその経緯が掲載され、取材協力をされた松本さんからその記事をいただいたので、記事の内容を引用して掲載するものです。
 なお、「多摩送信所」については、松本さんの取材協力により、2008年8月16日、朝日新聞むさしの版 23ページに掲載されていますので、はじめに紹介します。
 
朝日新聞記事

ポツダム宣言受諾、町田からも世界へ
郷土史サークル10月、探訪会を企画
多摩送信所の歴史に光
 63年前の夏、日本が戦争終結を表明するポツダム宣言受諾が、町田市相原町の山間地にあった「多摩送信所」から世界に伝えられた。その歴史に光を当てようと、郷土史サークル「まちだ史考会」が送信所跡などを歩く探訪会を初めて企画。「身近な史跡から現代史をふりかえってほしい」と参加を呼びかけている。(永沼仁)

 多摩送信所が置かれたのは、旧南多摩郡堺村相原の山林内。戦争末期、本土空襲に備えて通信施設を確保しようとした軍部が場所を選定、45年4月、国際電気通信株式会社(現KDDI)が開設した。 約24ヘクタールの樹林に高さ約60メートルの支柱を立て、海外放送などを送信したほか、実際には使われなかったが、同盟国ドイツとの専用通信アンテナも配置した。同年8月10日から15日には、日本のポツダム宣言受諾を他の数力所の送信所とともに世界に発信。歴史的な役割を担った後、46年秋に閉鎖された。
 旧送信所を含む山林は70~80年代、法政大多摩キャンパスの開設に伴い発掘調査が行われ、88年には敷地内に記念碑が建てられた。そぱには支柱の台座が残り、当時の面影を少しだけ伝えている。
  「でも、ポツダム宣言と聞いても分からず、町田にこんな施設があったことを知らない人たちも多い」。そう話すのは同サークルのメンバー松本一夫さん(78)。KDDIの前身の国際電信電話会社(KDD)の元社員で、20年ほど前に多摩送信所のことを知り、歴史を調べてきた。
 45年8月15日の終戦時は15歳。当時いた大阪では、その前日、ポツダム宣言受諾が無条件でなかったために米軍が再開した大きな空襲に遭遇した。「ポツダム宣言受諾というと15日を連想するが、10日にも条件付きの受諾が発信されていた。多摩送信所をきっかけに、現代史を振り返ることができた」と語る。

 以下省略

 


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法政大學新聞の記事
2015年7月8日発行 法政大學新聞(第1029号)の記事

(法政大學新聞の紙面をご覧になりたい場合は右の写真をクリックしてください。新しいウィンドウで紙面のpdfが表示されます。)

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多摩キャンパス70年前の姿

 法政トンネルを抜け、スポーツ健康学部棟へと続く一本道の途中、左手に多摩送信所跡を今に伝える石碑がある。
 70年前、現在本学多摩キャンバス(町田市相原町)が立地する場所には国際電気通信株式会社(KDDIの前身)の多摩送信所があり、ポツダム宣言受諾表明を巡って、重要な役割を担っていた。

送信所建設の経緯

 第二次世界大戦中の1944年6月、空襲による既存送信所の破壊を危惧した軍部は、隠蔽送信所を建設することに決めた。
 関東地方では、国鉄の使用されなくなったトンネルを利用した足柄送信所(現・神奈川県足柄上郡上北町)と共に、町田市相原の多摩送信所の2局が建設された。
 相原が送信所として選定された理由は4つある。一つ目は、三方を山で囲まれ、南方だけが開けたすり鉢状の地形から、空襲を受けにくい場所であったこと。二つ目は、南南西2.5㎞には津久井発電所があり、電力供給には利便性があったこと。三つ目は真空管を冷やすため、電気を通しにくい純粋な水が手に入れられる恵まれた水源があったこと。四つ目は、相原に東京-奉天間を繋ぐ日満連絡ケーブルの中継所があったことが挙げられる。
 この他、多摩キャンパス建設当初、発掘調査を行った法政大学多摩校地遺跡調査団は「名崎送信所(現・茨城県古河市)- 八俣送信所(現・古河市)-小室受信所(現・埼玉県北足立郡伊奈町)- 多摩送信所 - 足柄送信所が一直線上にあることから、送信条件を配慮した選定があったと推測できる」と報告書に記している。しかし、国際電信電話株式会社(KDD/現・KDDI)の元職員で、25年前から多摩送信所について調べてきた松本一夫さん(85)によると、「使用した短波無線の特性上、送信所と受信所の間隔は十分空ける必要はあるが、各局が一直線上に並ぷ必要は全くなく、現に規模の大きかった小山送信所(栃木県)はこの線から外れている」と疑問を呈している。

送信所の規模と実態

 隠蔽送信所としての役剖を果たした多摩送信所。檜葺きの局所に、檜皮をはって、迷彩色を施した外装。民家に偽装した。
 多摩に収容された送信機の数は合計で4台。20kWの電信送信機―機と、八俣から移設された50kWの放送機(電話送信機)―機が据えられた。
更に多くの機器を収容するため、第2期工事が予定されていたが、出力に支障を来す被害を受けなかったことで、工事の必要性がなくなり、第2期工事は実現しなかった。

「海外放送」を出力した放送機

 50kWの放送機は、45年4月に移設工事が完了し、5月5日に本放送を開始した。社団法人日本放送協会(NHKの前身)の「(マル秘)封外放送実施表」によると、多摩送信所の放送機は、同協会が海外向けに制作した、短波による国際放送(封外放送)の1つ、「海外放送」に使用されていたことが分かる。
 しかし、本放送が始まる約1か月前の4月15日、川崎にある真空管工場が空襲による被害を受けると、真空管不足に追い込まれた。真空管のもちを良くするため、多摩の1機を含め各送信所の放送機の出力は20kW程に抑えられた。

ポツダム宣言受諾を知らせた「海外放送」

 8月10日20時過ぎ、海外放送は、「天皇大権を変更する要求を含まないことを条件に、ポツダム宣言を受諾する」という趣旨の文章を発信する。もちろん、外交ルートを通じても、宣言受諾を発信しているが、日本の対外放送である海外放送でも宣言受諾が発信されたということである。B‐29が発進したマリアナ基地にいた米軍はこの放送を聞き、大騒ぎになった。翌11日から13日までB‐29の姿は日本各地で確認されていない。
 さて、この10日20時過ぎの海外放送が多摩の放送機で出力されたという確証は得られていないが、20時過ぎは、多摩、名崎、八俣送信所から放送されていた時間帯と重なり、この3局からは出力されていた可能性が高い。もしポツダム宣言受諾を発信した送信所の1つであるとしたら、多摩送信所が歴史的に重要な役割を果たしたことは言うまでもない。
 また、社団法人日本放送協会の資料によると、20kWに抑えられていた放送機の出力が「12日から情勢緊迫下で送信出力を50kWに上昇させた」という記録も残っている。このことから、多摩を含む各送信所の放送機が10日以降も継統的にポツダム宜言受話のメッセージを流し続けたことが伺える。
 しかし、国民には海外放送や東亜放送などの海外向け放送が届くことはなかった。国民が宣言受諾と敗戦を初めて知ることになるのは、15日の玉音放送である。これは戦時中、国民は短波を聞くことを禁止されていたからである。

終戦後の送信所

 終戦後は一時停止したが、45年9月より約1年間、東亜放送に使用された。戦後、隠蔽送信所としての使命を終了し、46年10月25日には多摩からの電波は停止。同年11月10日には閉鎖された。多摩にあった放送機1機は八俣へ、送信機3台は。小山にそれぞれ返還され、コンクリート基礎やアンテナ土台を残し、完全に解体された。その後は、清算会社の手に渡り、多摩キャンパス建設まで荒地や雑木林になっていたようだ。キャンパス建設当時、遺構調査で訪れた本学伊藤玄三名誉教授は「コンクリート基礎も丈なす草の中に没しており、荒地や雑木林の中には空中線の張りめぐらされていたことをうかがわせるよラなものは何ひとつ見出すことは出来ない状態となっていた」と報告書に記している。

キャンパス建設と遺構調査

 本学多摩キャンパス建設を契機に、遺構の発掘調査が行われ、報告書「法政大学多摩校地遺跡群」が作成された。松本さんによると、「調査当初、送信所で働いていた方も存命で、報告書の執筆にあたり聞き取りがなされた」という。報告書について、「文量もあり、しっかり調査されている」と松本さんは感心する。
 現在、多摩送信所があったことを伝えるものは、キャンパスが竣工した88年3月に建立された石碑とその隣に遺されているアンテナ木柱台石だけだ。
 (資料提供 松本一夫)
     [法政大学新聞学会 幾野哲矢 (社会学部2年) ]  

 


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