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  時の話題


  『伝承・静御前』 横井 寛〈著〉の紹介

   k-unet会員の横井寛さんの近著が刊行され、大谷恭子さんに紹介文を書いていただきましたので
  以下に掲載します。
 
新刊紹介 
2016年1月28日
大谷 恭子

『伝承・静御前』 横井 寛〈著〉 発行:文芸社  定価 (600円+税)

 昨年の12月、ある会合で著者・横井 寛さんにお会いした折、「これは出たばかりの本です。以前出版した『西行と崇徳上皇・その後の静御前』と多少重複するところもありますが、新たに加筆、推敲を重ね纏めたものなので読んでみて下さい」と、本書を賜った。文庫で手に取りやすく、早速、拝読すると、伝承というより、文学作品に近く、静御前の肖像とその時代背景が見事に浮き彫りにされた興味深い読み物だった。
 
 義経と静御前に関する伝説やそれを題材にした歴史小説等は、世の中に数多くある。義経が平泉を逃れた後、北陸、奥州を経て北海道に渡り、さらにモンゴルへと進み、その地でジンギスカンになったという説や、静御前は義経の後を追い、日光街道を北上し、福島地方で義経の訃報を聞き、悲しみのあまり投身自殺をはかったというものなど… 。しかし、本書では、静御前は鎌倉八幡宮で頼朝を前に舞を収めた後、母親とともに故郷・讃岐にもどり、そこで出家、念仏の日々を送り、享年25の若さで生涯を閉じたことになっている。

 著者は本書を執筆なさるにあたり、多くの文献や郷土史等を調査なさった上で、故郷の讃岐地方に伝わる静御前の伝承や遺跡を、ご令弟とともに実際に尋ね歩かれ、ゆかりの寺の住職から直接お話を聞かれるなど、長年にわたり研究を重ねてこられている。従って、本書は綿密な裏付け資料に基づいた説得力のある推論となっており、読後、私も著者の説を支持する気持ちになった。

■ 本書の構成

第1章   静御前の母、磯禅師 
磯の生い立ち、西行との出会い、静御前の出生の秘密

第2章 白拍子静御前
神泉苑での舞

第3章 源平合戦 
義経との出会い、頼朝と義経、屋島合戦、長門・壇の浦での戦い

第4章 受難の日々
義経追放、堀川夜討、吉野の別れ、鎌倉での静の舞

第5章 母の故郷
讃岐への道、お遍路となった静御前、西行も歩いた道、讃岐における崇徳上皇、諸行無常

第6章 光を求めて
屋島合戦の跡、いろはにほへと、琴路の来訪、祈りの日々

第7章 後日談 
静御前親子の遺跡、静御前の菩提寺、佐藤継信(義経の身代わりとなって討ち死)の子孫、追記(1)、(2)


■  静御前の周辺の人々の記述

<静御前の母,磯禅師

  静御前の母、磯は讃岐の国の豪族の家に生まれ、舞や歌に天才的な素質を備えていたといわれ、12歳で都に上る。鳥羽上皇の寵臣・藤原道憲に目をかけられ、楽音や礼儀作法、舞踏、音楽の指導を受け、16歳の頃から節会の舞踏に出るようになる。そして御所で開かれた重陽の宴で、鳥羽上皇や崇徳天皇の御前で舞を舞った折、眉目秀麗にして、凛々しく、和歌の才に長けた佐藤義清(のちの 西行)を見かけ、心を奪われる。しかし、それから間もなくして、義清は突然出家してしまったので、磯は、深い失意を味わい、一層芸に励み、その後、鳥羽上皇にも目をかけられ、白拍子の巫女としては最高位の称号「禅師」を授けられる。

  
その後、保元の乱や平治の乱があり、朝廷内部でも皇位継承争いや権力闘争が繰り広げられ、崇徳上皇が讃岐へと配流され、後白河上皇の時代となる。磯は、この後白河上皇の後ろ盾を受けることとなり、ますます舞の道に精進し、やがて、後白河上皇を父とした静御前を懐妊。当時、後白河上皇40歳、磯は40を過ぎていたという。

<佐藤義清(のちの西行)>

  磯の初恋の相手・佐藤義清は、鳥羽上皇、その中宮璋子(後の待賢門院)、崇徳天皇などのお傍近くに仕えていた北面の武士。義清は、鳥羽上皇に仕えながらも、崇徳天皇の行幸にお供するなど、崇徳天皇とは年齢も近く、歌の道でも心を通わせる仲だった。義清は23歳で出家したのであるが、その翌年には、鳥羽上皇が崇徳天皇を強制的に退位させ、寵愛する得子(後の美福門院)が生んだ体仁親王をわずか2歳で近衛天皇としている。

  西行の出家の動機について、著者は、「諸説あるようだが、真相は今もって明らかではない。当時、摂関家の内紛と絡み、皇位継承の問題等があり、その醜い争いを見るに見兼ねて世の無常を悟り、その身を仏門に置きたかったのではないか」と、触れている。

  しかしこの点については、私は、待賢門院璋子に関する歴史小説を何冊か読み、ある概念が醸成されてしまったせいか、世の無常を感じたことは確かであっても、その他の大きな理由の一つに待賢門院(鳥羽上皇の中宮であり、崇徳天皇の母君でもあった、美貌と教養を備えた魅力的な高貴な女人)への失恋があったのではないかと想像してしまう。 璋子は西行にとって一回り年上の女人であったにしても、『源氏物語』のように年齢差や既婚、未婚に関係なく、恋物語が繰り広げられた平安時代にあったのだから。西行は、出家後も崇徳天皇やその母・璋子に同情を寄せ、側面から守りたいという気持ちが強かったのではないだろうか。   
   西行は、崇徳上皇が崩御(1164年)された4年後、はるばるその最後の地・讃岐を訪れ、荒れ果てた崇徳の御陵を修復されたりしている。

崇徳上皇
  崇徳天皇は系譜的には、待賢門院璋子を母とし、白河法皇の孫である鳥羽天皇の第一皇子として生まれたことになっているが、一般的には、父親は白河法皇であり、鳥羽天皇もそのことを知っており、ゆえに敵愾心をあらわにし、白河法皇がお隠れになったあとは、すぐに退位を迫ったり、諸々の紛争があったのだと伝えられている。また、それを題材にした歴史小説も幾つかある。
  しかし、本書の中では著者は、「これは単なるゴシップ的に捏造された作り話ではないか」との感想を述べられ、世俗的な通説には否定的な意向を示されている。これは、讃岐ご出身の著者ならではの、その地に伝わる昔話や伝承を詳細に集められ、調査、分析された結果の推論でもあろう。
  一方、
私は、このことについて、著者・横井さんは、静御前や西行、崇徳上皇にまつわる伝説やイメージは、できるだけ清らかな静謐なものとしてそっとしておきたいと望まれているのではないかとも受け止めている。それが横井さん的美学なのではないかと  

静御前義経の出会い>  

  静は、母に似て美しく、幼少より舞を修め、15歳のとき、旱魃が続き、宮中で「雨乞い踊り」の宴が催されたとき、後白河法皇の御前で舞を捧げたという。その群衆の中には、西行法師も潜んでいたのではないかと著者は推量している。
  その後、義経が 一の谷合戦に勝利して京都へ凱旋した際、後白河上皇の御所に招かれ、白拍子を呼んでの酒宴のあと、上皇から 「この白拍子の静をそなたの室として与える」と仰せられる。それからの二人の仲睦まじさ、義経が経験させられる壮絶な戦いや、兄・頼朝に追われるという受難の数々は、史実や伝承として後世に数多く伝えられているところである。

■ 著者・横井 寛さんのことなど

  私が横井 寛さんとお知り合いになったのは、 14,5年前だろうか。KDD時代、国際通信分野で数々の業績を残された方ということは、勿論存じ上げていたが、お話する機会は全くなかった。あったとすれば、確か機器部長をなさっていた頃、一度部長席まで何かの資料をお届けに上がった時、壁に素敵な額がかかっていたので、「これは部長がお描きになったものですか」と伺うと、「いや、私の父が描いたものです」とおっしゃった。それだけである。それから約 20数年後、友人に誘われて参加した「友歩会」や、k-unet (KDD・OBネット)行事等で、お目にかかる機会を得、大勢で歩く道すがら、ご趣味の日本画のことや、西行、静御前、俳句等の含蓄に富むお話をご披露いただいたりした。その後、何冊かのご著書をご恵贈に与り、またご出品の日本画展等にも足を運んだ。

  10年くらい前のこととなるが、行事の日がたまたま 2月のヴァレンタインデイと重ったので、日ごろのお礼を兼ねて小さなチョコレートを差し上げたところ、1ケ月後のホワイトデイに、何と横井さんの故郷・讃岐の西行ゆかりの善通寺の銘香「久の松」を頂戴した。この御香は澄んだ上品な白檀の香りで、とても嬉しく、いまも大事に使っている。 
 本書では、晩年の磯禅師と静御前親子も四国遍路の道すがら、この善通寺に立ち寄り、在りし日の西行を懐かしんだと記されている。私は、この薄い小豆色をした薫り高い御香を手にとると、西行よりも磯禅師と静御前の憂いを含んだ美しい姿を想像する。静御前は、現代に置き換きえると、夏目雅子さんのように美しい女性だったのだろうかなどと。

以上

 


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