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2016年 12月 11月 10月

 

2018年7月

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お盆
 東京のお盆は7月で、地方のお盆は8月。これって誰が決めたのかなあと思います。小さなときは、お盆とは日本中が神社の夏祭りの頃だと思っていました。なんとなく去りゆく夏と、海水浴禁止の寂しさがお盆のイメージを幼心に残しました。
 去年の11月に母を亡くしたので、この7月に新盆を迎えます。
 父の月命日の墓参を始めたのも、3年前の父の新盆の頃からだったような気がします。お墓参りなど、ろくにしたこともなかった私が、「何を持参し、どうやって掃除をするのだろう」と誰にも聞けずに思案にくれていた頃、毎月の墓参りをかかしたことがないとうK-unetの大先輩にたまたま、お話を伺える機会がありました。その大先輩いわく、「墓参りには、墓参グッズがある。まず携帯用椅子、仏花、線香、100円ライターが必需品だ」との教えに一筋の光を見出し、墓参パワーをいただいたように行動を開始しました。しかし聞くのとやるのとでは、格段の差がありました。まず、携帯用椅子ですが、座っていると蚊の攻撃に遭い、墓前で父とゆっくりと話している場合では無く、また100円ライターも、不良品だったのか固くて着火スイッチが押せずじまい・・・。もはや、何のために来たのかと諦めようとしたら、たまたま通りかかった地下足袋姿の墓地の植木屋さんの握力のおかげでスイッチが動き、墓前に線香を手向けることができました。
 最近は、墓掃除が趣味の域に達してきて、墓石の磨き方にも、マイブラシ持参でかなり手際良くなりました。母の新盆のお花は仏花ではなく、クレマチスなんかどうかなと余裕も出てきています。
 そういえば、先日留学生の日本語レッスンで、日本の四季イベントの「お盆」を説明していたら、「オー、ソレ、知ってるヨ。キッチンのおぼんを持って、踊ることネ!」と嬉しそうに答えるので、どこからどういう風に説明したらよいか、これは私の宿題だと思い、レッスンを早々に終わりにしたのでした。

(写真と文 町田香子)
 
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綺麗な水ありきところには
 せせらぎの音を聞きながら、一人散歩をしていると、心が和みます。玉川上水や、自宅近くの新緑の二ケ領用水は、この季節は最高のウォーキングコースです。木々の間から降りそそぐ太陽の下に、透き通った水面には親子連れのカモが泳ぎ、どこからか聞こえる小鳥のさえずり・・・。
 水あるところに、生きとし生けるものが集まります。
 人が、水の音が好きなのは、赤ちゃんのときにお母さんの羊水の中で遊んでいたからと読んだことがあります。私的にもう一声言わせていただくなら、綺麗な水あるところに、お酒ありです。
 先日生まれて初めて、埼玉県熊谷の某蔵元が開いた「利き酒大会」に知人らと参加してきました。片道約2時間、へべれけになったら、自宅まで帰れません・・・。緊張して滞在時間は2時間と決めました。しかしながら、小さなお猪口で8種類ものお酒を飲み、あーでもない、こーでもないと言い当てるのですが、日本酒がよくわからない私には、「オリ」とか「ニゴリ」とか会話自体が、異国のようです。値段が3倍も違うらしい種類のお酒も全て皆同じ味に感じ、申し分けないほどでした。その上、口にお酒を含んだらすぐそばのバケツに口から勢いよく出すらしいのですが、口に1度入れたものを捨てるなんて、父が生きていたら雷が落ちるくらい怒られそうですし、実はお酒がもったいなくてできません。それでも、宴はあっという間に予定の2時間が来てハイヤーに飛び乗り、無事に駅から新宿湘南ラインに乗った途端、緊張感から解き放たれました。皆はおもむろに、駅のキヨスクで買った喉から手が出るほど飲みたかった缶ビールを開け、車内宴会と相成りました。ガラガラのグリーン席を、乗ったこともないヨーロッパ鉄道のコンパートメント席みたいだと知ったかぶりに話しながら。
 これからの季節、キンキンに冷えたビールは、特に私の場合、何物にも代えがたい「命の水」と呼べる水分になりそうです。

(写真と文 町田香子)
 
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合気道あれこれ
  風薫る5月です。そろそろ大学生の新入生歓迎コンパの嵐となります。この頃になると、渋谷、新宿、池袋などの居酒屋の前では、赤い顔をして気炎を上げている若者たちをよく見かけます。
以前、目の荒いザルに棒が付いたようなものを持っている集団に出くわし、「何ぞや?」と思ったのですが、程なくしてそれが当時アメリカから到来したばかりの「ラクロス」部だとわかりました。
学生たちの青春を謳歌している楽しそうな姿が眩しく「一緒に騒ぎたいなあ~」と宴会好きな血が騒ぎます。でもその反面、女子には「しっかり、家まで帰るのですよ」とおせっかいオバサンの心も、もたげてきます。
時々、OBとして学生時代のサークル「合気道」の現役の会に参加しますが、昨今の学生宴会は厳しいものがあります。まず、店側から未成年者は「ソフトドリンク・オンリー」というバッジを渡され、「飲みません」という誓約書を書かされます。びっくりしたのは、乾杯時にビール以外を飲む学生に、バケツのようなピッチャーが回ってきたかと思いきや、同じ琥珀色でもウーロン茶でした。あまりの厳戒態勢に恐れをなした私・町田先輩は、彼らが注ぐビールは飲めても、返杯は飲み物ではなく、自分のツマミを彼らの皿に分け与えることしかできませんでした。思い起こせば、40年前の私たちの頃の新歓コンパはいい加減なものでした。それでも、他人や店に迷惑をかけなかったのは当時、地元の警察署長さんの娘さんが、先輩にいたからだと思います。各々が「先輩の顔に泥を塗ったら大変だ」という暗黙の掟でスクラムを組んでいたのかもしれません。
1年生のときは、弱々しそうな白帯に白胴着の子たちも、4年生になると黒帯に黒袴になり、昇段試験で2段を取り、社会に飛び立っていきます。今、フレッシュな新入生諸君にエールを送りたいです。
「5月病なんて吹き飛ばせ!くじけそうになったら、このオバサン先輩のところにおいで!」と。

(写真と文 町田香子)
 
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カーリングあれこれ
 平昌オリンピックでは日本の女子カーリングチームが大活躍しました。理詰めの高度な頭脳が必要な氷上のチェスと言われてますが、このオリンピック期間中、カーリングだけは試合開始時間になると、我が家でもワサワサとテレビの前に皆が集合です。もはや、家族間の会話も弾まない唯我独尊の町田家ですが、このときばかりは「初めは、漬物石を滑らして遊んでいるように見えたが、真剣に見てたらルールがわかってきた」、「自分の戦略と、それが美人の某選手のはじき方と同じだったときは、最高だ!」、「人生、やり残したスポーツはカーリングだ」など、皆が言いたい放題でした。でも結局ルール解明に遅れをとった私だけが、仲間はずれ状態で「なぜ、この氷上のスポーツの発祥が南極観測に行った隊員でなくて、スコットランドの凍った池の村人なのだ」、とか「スエーデン女子の腕に彫ってある文字はなんだ」と、孤独を別の疑問で紛らわせました。
 このカーリング女子旋風はその後も私のまわりで続いてます。自宅前を登下校する小学生は、「ヤーップ」、「ウオー」とか大声で叫んでるし、もぐもぐタイムのイチゴに関しては、うちに遊びに来た女子大生の福岡県人と栃木県人は「あまおう」と「とちおとめ」の甘さ自慢で揉めていました。
 不思議なことに、カーリングのミックスダブルスに関しては、全く盛り上がりません。残念ですが、なんだかあの某美人選手の隣りに男子は無理、いつもキラキラした女子だけでいてほしいと思うのは国民の願いなのでしょうか。そういえば、私は若いときから口癖が普通に「そうよね」でしたが、今やそれを「そだね」にしないといけないような気がして、たいへん苦しい日々を送っています。

(写真と文 町田香子)
 
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マスクあれこれ
 大流行したインフルエンザも下火になったようです。ボランティアで通う地元小学校でも、一時はこのインフルエンザが猛威を奮い、学級閉鎖の嵐でした。校内でもマスク着用者が多く、顔の半分が隠れているせいか子どもたちとの会話が少なく、盛り上がりに欠けました。まあ、騒ぐ子はいつのまにか、マスクが顎にずれたり、耳から単にぶら下がったりして全く用を足してないのですが・・・。
 そういえば、手話サークルで、聾者は相手がマスクをしていると音声言語を口の形から読み取れず、コミュニケーションがうまく取れないと言っていたことを思い出しました。
 私がマスクで困ることは、顔にキッチリ付けると、クッキリとゴムの跡が頬に残ることです。若い時にはありえませんでした。どれだけ、お肌の弾力性が失われたのでしょうか。以前、マスクを外した外出先で、この偽シワを見つけたときは、洗面所に走り白粉で隠そうとしましたが、その頑固な一本筋を埋めることは不可能でした。
 先日は、電車内で見てしまいました。風邪らしき強面の若者が、マスクをはずしたら、その唇にピアスが。人に見せたくて、ワザワザ穴を開けただろうに、自己アピールより感染予防を考えたこのマスク青年、けっこう優しいかもと、握手をしたい気持ちになりました。そして、芥川賞の本に「蛇にピアス」はあったけど、「口にピアス」はないし、舌にピアスの若者が「ラーメンが引っかかるんスヨ」と言ってたなあと、こちらもマスクで酸欠になった頭に他愛もないことが浮かんできました。
 春の訪れもそろそろです。そのうち、私がマスクと決別する日も近そうです。

(写真と文 町田香子)
 

2018年1月

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寒波到来!
 新年明けてホッとしたと思いきや、48年ぶりの寒波到来です。そういえば、確かに小さい頃には寒い時期もあったなあと思い出します。まだ幼稚園だった頃、真冬に父の勤務先近くにあった有楽町の「三笠会館」というレストランで、チョコレートパフェというものを食べたら帰りは寒くて震えが止まらず、父に抱っこされて帰ってきたのを覚えています。今、悩みのタネの冷え性はその頃に芽生えていたかもしれません。
 家屋自体も今のようなコンクリート建築の完全暖房ではなく、昔は木造建築、匂いのキツイわりには効率の悪い石油ストーブで、障子のすきま風を毛糸の靴下で抵抗したり・・・。おまけに念願の一人部屋を与えられても、「ストーブは危ないから、こたつだけだ!」と命ぜられ、期末試験の勉強中にうっぷして寝てしまい何度、自己嫌悪の朝を迎えたことでしょうか。
 そういえば、実家が環七に近かったせいか、寒い夜にチャルメラの音が聞こえてきました。切ない旋律に魅かれて、兄と2人で家族分の大鍋を持っていくとなぜか、おでん屋の屋台でした。兄が食べたソーセージは、私の好きな大根の2倍以上の値段で、当時流行っていた漫画「おそまつ君」のおでんチビ太に、「その差は何?」と憤慨しました。キンキンに冷えた夜に、モウモウと湯気の立つ屋台は、満天の星からスポットを当てられたように幼心に残りました。その後、大人になって屋根付き立ち飲み屋が大好きな女性に育つとは、家族の誰も、そして自分さえも想像していませんでした。
 広辞苑にも「角打ち」の新語が入ったとのこと、嬉しい限りです。 
(写真と文 町田香子)

 

2017年11月

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お酒に想う
 夏を越した清酒が秋風のたつ頃、樽詰め出荷後にお披露目されて飲める「冷やおろし」の季節となりました。猛暑の間は、ひんやりした蔵で眠って熟成を深め、秋の到来とともに目覚めるとは、なんてロマンチックな魅惑の飲み物でしょうか。
 全国の地酒をチビリチビリと嗜んでいると、どんな居酒屋でも居ながらにして、その地を旅している気分になるから不思議です。静岡県が蔵元の「出世城」は飲んだら浜松の雄大な浜名湖が浮かび、神奈川県の「赤とんぼ」は丹沢の山々を思い出し、京都府の「伊根満開」は赤米から紅色したそのフルーティーな味わいに、いつの間にか自分が上品な京女に変身しています。お酒のネーミングでは焼酎も心の琴線に触れるブランドがあります。「百年の孤独」(麦)、「天使の誘惑」(芋)など、女性の心をガッツリ掴んで、切なくさせるようなイメージは、40度を超える度数を知らなかったら、カクテルとばかりにゴクリと飲んでしまうレディもいるのでは・・。逆に、可笑し過ぎる焼酎の名前もあるようです。「爆弾ハナタレ」(芋)は、ボトルを前にしただけで笑ってしまうだろうし、「笑って答えず」(米)は飲んだら笑いが止まらず、「なに見てござる」(米)は、笑い過ぎて開き直った酔客を例えた感じです。
 ここまで書いてきた私ですが、実はビール党で特にクラフトビールには目がありません。私のお気に入りの手作りビール工房では、名付け方が素晴らしく、「多摩の恋」、「登戸の渡し」「川崎のやぎ」等々。地産地消を生かし、万福寺人参や王禅寺柿を使用したビールも実現したそうです。この店で「どれが美味しい?」と訊ねた客がいましたが、「あなたに合うビールが一番です」との返答に、店内全員の客が妙に納得していました。
(写真と文 町田香子)
 
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なんちゃってピアニスト
 施設でお世話になっている母に会いにいくたびに、たいして上手くもない素人ですが、ピアノを弾いております。なんせ、その施設はワンフロアーにピアノが3台も置いてあり、思わず職員の方に「弾いても構いませんか?」と聞いてしまいました。ピアノを弾き始めた最初の頃は、入所者の娘が弾いてるとは知らず「えっ、誰が!誰がピアノを!」とスタッフの方が、パタパタと走ってくる音がしていました。きっと若い頃のスキルを忘れずにいる認知症の誰かが、突然弾きだしたと思われたのかもしれません。
 そのうち、私が弾きだすと、車椅子の方々が回りに集まってくださるようになりました。先日、おばあ様に「バラが咲いたを弾いてくれない?」と初めてリクエストをされました。私が小学校の頃に流行った「マイク真木」の歌だとは知っていても、すぐに弾けるわけがありません・・・。しかし、いつも持ち歩いてる「歌って弾ける日本のポップス名曲集」をパラパラとめくってみると、なんとあるではありませんか!早速弾き始めると、突然その方が歌いだすので、気分はまるでスタジオ・ミュージシャン。
 音楽で母に元気になってほしいと思うようになったのは、3年前に大動脈乖離で倒れた母がICUに運ばれたとき、4日後に音楽で意識が戻ったという経験があったからです。「耳は聞こえてますから、できるだけ呼びかけて」との看護士さんの声に押されて、母の大好きな「もしもピアノが弾けたなら」と「アメージング・グレース」の2曲を私が弾いてスマホのボイスメモに録り、その名演奏を耳元で聞かせたのです。こんな技を使う私ですが、実は小さい頃はピアノレッスンが嫌で嫌で、泣きべそばかりかいては母に叱られていました。それが、今や歌謡曲から民謡まで、手を変え品を変え必死に母に弾いて聴かせているのですから、人生とは不思議なものだとしみじみです。
(写真と文 町田香子)
 
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珠玉のお言葉に感謝
 「まちだより」も来月で1年となります。文章掲載をお任せしているU編集長からの暖かくも手厳しい叱咤激励に応えつつ、毎回自撮りのバックの写真には「1000ピクセルで!」との意味がわからず「ピンボケ」や「残念な解像度」でご迷惑をかけております。
 読者の方々からも特に「いいね」はもちろん、「ヘタだね」という反応も特になく(押すボタンもないのですが)、全員にスルーされているのではないかとか、タイトルの「まちだより」が、私の名字の「町田」をかけてコジャレたつもりが、「町便り」のようなイメージで、「そんなもの、いらない」と、きっぱりスクロールされているかもと、目に見えない疑惑と寂しさがつのる日々を送っていました。
 ところが今月、お目にかかった大先輩のOBの方が、「町田さん、『まちだより』楽しみにしてますよ」と初めて私に、お声をかけてくださったのです。そのときの私は、驚きを通り越して感激、直木賞をド素人がいただいたような高揚感に包まれました。
 言葉を変えれば、できの悪い生徒が校長先生に褒められたような、もしくは、シンデレラが王子様から愛を告白されたような幸せな気持ちになったと言っても過言ではありません。とにかく、珠玉のお言葉は胸にドカンと響きました。
 「1人の愛読者さえいれば、また頑張れる」と、お盆もとうに過ぎた清里行きの日帰りの旅で、車窓からの雄大な景色に誓いを新たにしたのでした。
(写真と文 町田香子)
 
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留学生との夏
玄関先のオシロイバナが咲き、門扉の上の百日紅の花が道にはみ出して自己主張する7月になると、なんだかソワソワ落ち着かなくなります。毎年、この季節になるとボランティアで携わっている日本語レッスンの留学生たちが、すき焼きを食べに我が家にやって来るのです。
築60年の1軒家、廊下の奥には畳の仏間があるような典型的な日本家屋は、若き外国人には1度は行ってみたい興味の的のようです。あまりたくさん来られて、自宅の床が抜けたりすると大変なので6人限定にしています。なかなか準備も大変で、大掃除や、大量のすき焼きの食材やあらゆるお酒の購入で1週間前からバタバタします。
15年も続けていますが、これまでにいろいろなハプニングがありました。昔は、女子の方が積極的で、台湾・中国・タイ・マレーシア・韓国など、なぜかアジアの女子だけになってしまった年がありました。一番喜んだのは夫で、すき焼きの説明を真摯に聞く彼女らに感激、娘に百人一首を持って来させ、「蝉丸」「紫式部」などの解説していましたが、あれから彼女らが古典を好きになったかどうかは不明です。今、記念撮影を見ると真ん中で微笑んでいる私がアジアンパブのママさんのようでもあります。
また、180センチ以上の台湾と中国の留学生が来た時は、朝食を抜いてきたとかフラフラの様子でした。1人はバスケットの選手、1人はボディービルが趣味と思い出したときは遅く、彼らは肉に火が通るのももどかしい様子で、用意した大量の肉はすべてお腹の中に。「今日の栄養でこれからもグローバルに頑張ってね」と思わず日本のお母さんはつぶやいたのでした。
(写真と文 町田香子)
 
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池袋の街から
友だちと喫茶店で話すことを覚えた街、お酒に強くなった街、朝とは全く違う夜の顔を持つ街、私にとって、そんな街は、池袋しかありません。
今では、あらゆる路線の電車が一気に乗り入れ、目印だった待ち合わせ場所「テレビ塔前」も、「池袋のふくろう像」が取って代わり、何羽もあちこちに建ってしまいました。
そんな池袋とは、学生時代から約40年以上のお付き合いになります。最初は、異常とも言える人の波に右往左往し、恐い街のイメージから、なかなか好きになれなかった駅前ですが、朝からトースト食べ放題の喫茶店「蔵王」を見つけたときは狂喜乱舞、また女子だけなら食べ放題、飲み放題で500円のディスコ「アップル」を見つけたときは、合気道部の女子だけで喜んで乗り込みました。(昭和53年の頃ですから・・・)。女子の先輩に地元警察官の父上がいて、大きな安心感に支えられて決行したのかもしれません。
卒業時に同期が駅前の西武デパートや東武デパートに就職、ありがたく彼らのコネを使い、安くて美味しいクラス会を満喫しました。いまや、小粋なフランス料理屋や異文化の本場アジア料理も食べれるようなオシャレな街に変貌してきました。
この5月には、駅前をパレードが通るという情報をキャッチして、もちろん見てきました。立教大学が6大学野球で18年ぶりに優勝し、58年ぶりに全日本学生選手権で優勝したのです。久々のお祭り騒ぎに、沿道は笑う人々の顔で満ち溢れ、500円の記念提灯も小旗もあっというまに売り切れ御免でした。長嶋茂雄さん万歳。
(写真と文 町田香子)
 

2017年6月

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映画大好き人間ですが、今ではすっかり映画館とは縁遠くなってしまいました。小さな頃、よく両親に連れられて、目黒の権乃助坂にあった「目黒スカラ座」に足繁く通いました。映画館は独特な香りというか、ポップコーンや雨上がりの湿った匂いが入り混じり、照明も暗い異空間だった気がします。幼稚園の頃から館内の「三船敏郎」や「高峰秀子」のポスターに親しみ、最中アイスを買ってもらうのが最高の楽しみでした。
小学校4年のとき、父と2人だけで初めて銀座に「マイフェアレディー」という映画を見に行きました。ひたすら緊張していたのを覚えてます。帰りに銀座の、今は無き店で中華料理を食べたのですが、一人グビグビとビールを飲む父の前で、何か話さなくてはと焦り、「あんな綺麗な女優さんになりたい」と口走ってしまいました。すると、父は、ジョッキを持ったまま眉根を寄せ「無理だ。なぜそのような事を考える」と怒ったようにつぶやいていました。
もしあの時、私が素直に「やはり、そうか」と思わなかったら人生、別の道があったかなあと考えることがあります。
成人してからは、株主優待券を貰い、よく一人で「丸の内東映」という映画館に通いました。朝一番の上映時間に合わせて有楽町駅前の、これも今は無きパン屋で焼きたてのパンを買って館内の中央の端の座席を陣取りました。「映画鑑賞は一人が何より」はここで学びました。どこを旅するよりも、夢の世界にひとっ飛び、空想の中で至福のときを過ごせます。早く、60歳になってシルバー割引の千円で見るのだと思っていた私ですが、この歳を迎えたこの1年、新聞屋さんにもらった無料チケットで見た以外、この特権をまだ使っていません。
(写真と文 町田香子)
 
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 「かかあ天下と空っ風」で有名な群馬県ですが、焼きまんじゅうや蒟蒻などご当地グルメから最近はブーム到来のようです。ユルキャラの馬のぐんまチャンTシャツは大人気だし、ドラマ「おまえはグンマを知らない」は夜中の番組だったのに好評で、この夏には映画化が決定しています。
 そんな中、前橋出身の後輩が1泊2日の「群馬ツアー」を考え、同窓の40歳代女性5人に呼びかけました。そして、かなり先輩で神奈川在住の私にまでお誘いがありました。「おっ、光栄!」というか、「えっ、いいの?」という感じでしたが、どう考えてもこのネーサンを誘うという原点は、共通項の「単なる飲兵衛同士」しかありません。有難くオファーを受け、爽やかな春風が吹く土曜の朝に皆で高崎駅に集合しました。今回のこの旅の一番の私の興味は、グンマ地元民が何をアピールするかでした。
 まず、初日のランチは伊香保の水沢うどんで舌鼓を打ち、ちょっと行ったところの「おもちゃと人形・自動車博物館」で昭和のレトロな気持ちに浸り、老舗旅館「福一」に直行、夕飯までに階段街で両脇の土産屋をひやかしながら見物しました。しかしながら、あまりに長いこの階段に嫌な予感がして、道行く人に聞いたらここは365段あるそうで、あわてて心臓破りの階段をUターンしました。もはや皆、「福一の大宴会に間に合うように帰らねば!」というただ1つの想いしかなかったのです。
 二日目は、私以外は皆、二日酔いとは無縁に朝風呂に飛び込み、朝食後は一路、榛名湖を巡り、パワースポットの榛名神社へ。エネルギーをご神体からいただいた後輩らは、ラストの白衣観音見学で胎内に入るやいなや、騒いでいましたが町田先輩だけは、観音様の頭部に着いた頃には、息も絶え絶えでした。この旅で深く自覚したのは、「若さには勝てない」ことでした。でも帰りの新宿湘南ラインでは帰宅できる喜びからか、グリーン車の車内宴会で一番元気だったのは、この私でした。
(写真と文 町田香子)
 
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「動物園で真っ先に見たいものは?」と聞かれたら、私はやはり「サル山!」と答えます。親ザルのあのデーンとした肝っ玉ぶり、思わず抱っこしたくなる子ザルの可愛さ、親子の毛づくろい、チビザル達の追いかけごっご等、すべての状況がまるで筋書きのないドラマのように楽しめます。
私のサルが大好きだという理由は、申年だからという要因が大きいと思うのですが、小さいときから、サルが出てくる絵本や昔話には同じ血筋か即効、反応していたと思います。同じ絵本でも「猿蟹合戦」では猿の顔がどうにも極悪だし、アメリカの「おさるのジョージ」はなんてお茶目なのか、世界のサル顔表現に日本のサルの不平等さを感じました。映画「猿の惑星」はあまりにリアル過ぎて好きになれず、映画館に行ったのは1作だけです。また、小学校時代に読んだ老作家のエッセイに「サルを飼うときは、まず首根っ子を噛み、誰が飼い主であるかをわからせる必要がある」という文章に仰天し、最近の小説「猿の見る夢」(桐野夏生氏)では、同世代の男性社会の悲哀を感じました。
ここ10年は、サルグッズのコレクターでもあります。サルのストラップはもちろん、サルの押し絵の壁掛け、サル顔の便箋封筒、ハンコウ、お猪口など年を越すごとにマニアックになってきました。趣味の手芸で靴下からサルも作りましたが、どうにも自分の顔と目を合わせたくない出来栄えで、棚の上に無造作に鎮座ましましています。
いつもサルに囲まれていて日常は財布の中には、上海で買ったミニザル、エコバックの中には香港のサルのお守り、枕の横には北京動物園で買ったサルの縫いぐるみが寝ています。こんなサル好きの私ですが、高校の頃はコロコロに太っていたのでお気に入りの白のコートなどを着ていると「白クマみたいだ」とよく言われたものです。私自身、クマからサルに体型がよく進化したものだと思います。
(写真と文 町田香子)
 
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 今や空前の犬猫ブームですが、自宅には物心ついた頃から家に犬や猫がいました。最初の犬との出会いはどこからか貰ってきた紀州犬のデリカで、2匹目は六本木のバーのマダムから父に「吼えて煩いから飼ってくれない?」と言われて、酔っ払った父に抱っこされて来たスコッチテリアのヴィッキー、3匹目は犬猫レスキューのボランティア団体から譲り受けた雑種のコムギでした。運命のように我が家に来るべくしてきたような犬たちで、ペットショップとは無縁です。
 どの犬とも思い出深いものがありますが、40歳代で飼い始めた、コムギとの11年間後の別れは本当に悲しくて悲しくて大変でした。一言で言えばペットロス症候群なのでしょうが、1年間はこの私が腑抜けのように泣き暮らしました。一緒に歩いた散歩道が通れなくなり、スーパーのペットフードの前を通ると涙が出て、そっくりな白い犬を見ると抱きしめたい衝動にかられ・・・。特にその暮れのクリスマスのときは悲惨で、酔っ払いながら愛犬が恋しくて、滂沱の涙を流しながら山の手線を半周してました。本当に自分が喪失感に苛まれてどうにかなってしまうのではないかなと思いました。
 そんなとき、見かねた友人の「愛で育てた動物は先に天国にいっても、虹のかけはしという所で飼い主を待っていてくれるんだって」という言葉に救われました。
 あれから約10年が経ちます。今では犬友だちと、見送った愛犬の「うちの子が一番よ」という思い出話で杯が重なります。よく思いだす光景に、コムギと散歩している時に初老のご夫婦が「まあ、飼ってたうちの子にソックリ」と涙ぐまれたことがあります。飼い主の誰もが味わう悲しみは、看取る責任と同じくらい至極当然だと思えるようになりました。そして「悲しみに効く薬は時間しかない」という言葉に共感しています。
(写真と文 町田香子)
 
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  30歳代になって洋裁という趣味に目覚めました。これは不思議なことに、中学・高校時代に大嫌いだった被服(昔は裁縫の授業をこう言いました)の概念を覆すことができたのです。
 被服の授業が好きになれない原因は、とにかく先生が恐かったのです。自分の祖母のような年齢で、いつも超高級な紬のお着物を召して一瞬の隙も見せないお姿でした。私たち生徒は自分の縫ったものが一糸間違えずに出来たかを、お伺いをたてるために教壇に一列に並び、その先生の判定を待つのでした。その緊張感と言ったら、いつもおしゃべりでやかましい女子たちが一言も発しません。身体どころか指も力強かった私は、「あらあら、あなた、この縫い目は粗すぎますわよ」と先生に、惜しげもなく何回、ツーッと糸を抜かれたことでしょうか。
 また、自分と学校のミシンとの相性で、その日の出来栄えに優劣の差がありました。ミシンと言っても相手は足漕ぎマシンです。このマシンがスムーズに動いてくれればなんの問題も無いのですが、調子が悪いとなると、1時間授業のほとんどを、修理屋のオジサンのようにミシンと格闘しました。はては、ミシン針の穴に糸が通らないという焦りも手伝い、生地の表裏を間違えて縫ったりと散々で、どれだけ放課後に居残り命令が出たでしょうか・・・。それでも怒られながら、チョウチン袖のワンピースが完成したときの喜びは大きく、未だに大切に取ってあります。
 当時、アメリカ大好き少女だった私はアメリカの国旗柄で、スティービー・ワンダーの唄を聞きながら、遠い異国を夢見て作りました。 あれから45年経ち、アメリカも私もだいぶ変わりました。冬でもサブリナパンツに金のサンダルで闊歩していた少女は、今は5本指ソックスの2枚履きです・・・。
(写真と文 町田香子)
 

2016年12月

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大きい小学生
 私は小学校6年生のときにはすでに身長が160センチありました。今も同じような背丈なので、12歳から成長が止まっていることになります。この歳になって、まあ頭脳的には人並みになったと思いますが、数学的な理解力だけは身長同様、止まっているかもしれません。
 小学校で大きいと、色々な屈辱を味わいました。なんといってもランドセルを背負わずに駅の改札口を通ると何度、駅員さんから「お客さん、何歳?」と呼び止められたことでしょう。昔は国鉄の切符に赤く「小」と印字されていましたが、私がそんなに生意気な顔をしていたのでしょうか。現在の改札口は小学生が通るとピヨピヨと、ひよこ音が鳴りますが、誰からも何も言われない幸せな社会になったものです。もし身長の低さを察知して音が鳴るのなら、今、合気道の摺り足で腰を低くして通過実験したい衝動に駆られます。
 そして、第2の屈辱はもっと悲惨でした。とにかくデパートに行っても可愛い子ども服が着れないのです。色も型もみな地味なウエスト無しのオバサン服ばかりです。着る服がないというトラウマと紺のセーラー服を12年間着用したストレスは、その後、「ハデな色ばかり着るオバサン!
」という強烈なイメージを、会う人ごとに与えてしまっているようです。
 でも、思い起こせば30歳のときに洋裁を習うことで、人生観が変わったと思っています。
 ~{続く}~
(写真と文 町田香子)
 

2016年11月

その1

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お弁当
幼稚園から高校まで一貫した女子校で育ちました。しかしなぜか、幼稚園の2年間だけは、男子が5人ほどいました。貴重な幼き頃の共学体験があります。食が細くて、いつもお弁当が全部食べられずにメソメソ泣いていたある日、「ボクのお弁当、ウナギだぜ、イエーィ」と話しかけてくれたタロー君。あまりのインパクトのある慰め言葉に「何、それ?」とすっかり涙も乾きました。ただでさえ、丸々と太っていたタロー君はその後も大きくなりすぎて、よくブランコから落ちていました。20歳の頃、風の便りに「大きなアメフトの選手になった」と聞き、幼馴染として心からエールを贈りました。
(写真と文 町田香子)

 

その2

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2世の会
「皆さん、幼馴染ですか?」。先日、同年代の仲間で行った浅草のどぜう屋の宴席で聞かれました。とても楽しそうで、竹馬の友の集まりのように見えたらしいのです。実は、この飲兵衛の会は父親たちが海軍経理学校35期の子どもたち、つまり「2世の会」なのです。もう誰も父親がいません。この会で、海軍のことを何も話さなかった父が生前、同期の子息の面倒を見、杯を交わしていたのを知りました。家族よりも、生死を共にした同期の桜を大事にした父の熱い想いは、人との交流が好きで酒好きな娘の血に流れてます。よく、言われたものです。「お前が、男の子だったらなあ」と。
(写真と文 町田香子)

 

その1

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この夏、残念な品々
今年の夏は実に暑かった。ちょっと奮発して買った日傘、着慣れた白のサマーセーター。これらはこの猛暑で電車に置き忘れた残念な品々です。車内の冷房に夢心地、降りてしばらくして気がついたので、捜索願いが大変。我が駅は南北線と東急線が乗り入れており何回、鉄道会社に電話したことか・・・。諦めたはずでした。しかし、秋の声をきくと、やはりあの愛用品が恋しくてたまりません。向こうも私を探しているのではないかと・・・。
(写真と文 町田香子)

 

その2

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ちょっとーぉ!
1日に落し物を2個目撃し、おせっかいオバサンのようになってしまった日がありました。1個目は女の子の傘でした。雨の日にもかかわらず、恋バナに夢中のキャピキャピギャルは、案の定、学生カバンだけで降りようと。私が追いかけて渡すと「ヤダー」と一言、事なきを得ました。でも、振り返ったら、私の席は他人が鎮座してました・・・。2個目は電車待ちのホームで男性高齢者のポケットから切符が、ポロリ。思わず拾って手渡ししたら、漏れた一言が「なんでだろ」。すみません、こっちが聞きたいです。
(写真と文 町田香子)

 

その3

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挟ンデレラ
「駆け込み乗車におやめくださ~い」。車内にこのアナウンスが流れるたびに、5年前の痛い思い出が蘇ります。若い頃に合気道で鍛えた運動神経で、「間に合わない」なんてありえないはずでした。しかし、残念なことに身体はセーフでも右カカトがドアに引っかかり・・・。思い切って足を抜いたら、車内につんのめり、ハイヒールだけがドアに挟まれておりました。
乗客たちの冷たい視線の中、ふと思ったのがシンデレラは片足で、どうやって城から自宅まで帰ったのかということでした・・・。
(写真と文 町田香子)
 


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