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松田隆治さんの投稿

松田 隆治(高 7期)
 私の故郷は河内
 私が故郷河内の地を離れたのは18歳で早稲田大学に進学したときである。以来57年、私は旧KDDに入社して間もなく神戸の国際電報局に勤務した1年間を除いて、ずっと東京とその近くで暮らしてきた。「故郷は遠きに在りて想うもの」と詩に詠われたとおり、私も故郷のことを懐かしく想い出すし、その評判も大いに気にかかる。東京にいるとよく「お国はどちらですか?」と聞かれる。私は決まって「大阪です」と答え、さらに「大阪はどちらですか?」と聞かれると、「富田林です」と答えてきた。しかしこれを「河内です」と答えようものなら、とたんににやりとされ、ああ、あの柄の悪い所から出てきた人だと思われるのが嫌だからで、このことを私よりずっと後で東京に出てきた富田林高校の同級生と話していたら、「僕にはそれが出来ないんだよ」と嘆いていたが、彼は河内長野の出身であった。私はその彼らと「在京富七会」(東京近辺にいる富高7期生の会)を立ち上げ、現在もその万年幹事をしている。 
 河内が柄の悪い所と全国の人たちに思われるようになったのはそう遠い昔のことではない。私が大学に進学した昭和30年頃、今東光が八尾の小さなお寺の住職をしていて河内の風土や人間に親しみ、「闘鶏」、「こつまなんきん」、「河内風土記」、「東光太平記(楠正成)」など一連の河内ものの小説を書き、ともに世に出て以来のことである。彼は郵船会社の船長の息子として横浜に生まれ、父親の転勤で函館などの各地を転々とし、川端康成とは旧制茨木中学の同級生であった。長じて出家し天台宗の僧侶となったが、すでに文壇の重鎮であった川端康成などに勧められ小説を書くようになった。私は今東光の小説は読んだことはないが、学生時代に唯一「河内風土記」の映画を観た。その映画は生駒山や二上山、河内平野を流れる大和川の景色、闘鶏に熱狂する人たち、河内音頭の歌声に合わせ団扇を持って盆踊りをする人の群れなどを背景に、寺に出入りする檀家の助平な男たちと派手な格好でチャラチャラとしてモンローウオークで腰を振って歩く軽薄な女などと の人間模様を面白おかしく描いていて、河内弁で怒鳴り合いの喧嘩をするようなシーンはなかったと思うが、その映画を観て私はそれら登場人物のことよりも今東光を好色なエロ坊主だと思ったことを記憶している。今東光が河内のことをどのように小説に書いたのか私はわからないが、河内のことを全国の人たちに広く紹介したのは今東光が最初であったことは確かだ。
 河内についてはそのずっと後に中河内生まれの歌手中村美津子が「河内おとこ節」を唄い、これが全国的に大ヒットして我々も故郷のことを想いながらカラオケで唄ったものである。
一方大阪については谷崎潤一郎や織田作之助などの文学作品をはじめ、いわゆる大阪ものの映画、演劇、流行歌、テレビドラマなどを通して大阪の街や人々の生きざまが様々に描かれ伝えられた。通天閣がある新世界のじゃんじゃん横丁の賑わいや、騒動などがあって釜ヶ崎のドヤ街など猥雑な街の様子もテレビでよく報道された。また大阪から若いお笑い芸人たちが続々と東京に出てきて、テレビでどぎつい大阪弁で掛け合い漫才やどたばた喜劇などをして、面白いが柄の悪さや品のなさを印象づけた。さらに関西を本拠とする暴力団山口組が東京をはじめ全国に進出してきた。
 そしてそうこうするうちに何時の間にか河内のイメージが我々河内出身の者が知っているものよりもグロテスクなものに誇張され、河内はすごく柄の悪い所だと全国の人たちの固定観念になってしまった。それというも地元大阪市内や河内の周辺の人たちが自分たちに降りかかる火の粉を払うかのように、柄が悪いのは河内なのだと言い立て、地元の人たちが言うのだからと真実味をおびて信じられたからである。いったんそのような悪いイメージが定着してからは私など河内出身の者がいくらそうではないと反論しても誰からも納得してはもらえなかった。
 
 大阪と河内は違うのか
 私は学生時代に上京して以来ずっと標準語を話しているが、本社の課長だった頃、昇進で私をライバル視していた同じ部にいた河内長野のずっと奥の和歌山県橋本出身の学卒で1年先輩の人から聞いてきて、私の課の東大出の若い社員が「課長も河内の出身だそうですね。すごく柄の悪い所なんでしょう?」と不躾に話しかけてきた。私は「本当はそんなにひどい所じゃないよ」と笑いながら反論したが、彼には全然納得してはもらえなかった。その頃、同じ階の隣の部に印象悪く思われているのを知ってか知らでか、河内弁丸出しで大声で話をする年配の管理者が大阪支社から転勤できていたせいもある。
 
 そうして我々河内出身の者まで本当に柄が悪いのは今東光がいた中河内で、富高への通学区域でもあった南河内は違うのだと苦しい言い逃れをしていたこともあったが、昭和も終わりに近い1980年代、南河内の河南町に出来ていた大阪芸大出身の若い漫画家たちが「南河内なんとか」(私は劇画の類も全く読まないので詳しいことは知らないが)というタイトルの河内弁で怒鳴りまくる劇画を書いたので、私たちも悪いのは中河内だと言い逃れすることも出来なくなった。
 私の長女は大学を出てある大阪の財閥系銀行の東京本社に就職し、結婚するまで秘書として勤めていたが、ある日役員と秘書たちとの雑談で河内のことが話題になったので思わず「私の父は河内の出身なのです」と話したそうだ。私が南河内から出た楠木正成や河内源氏のことをお国自慢で誇らしげに子供たちに語っていたからであろう。娘は大阪から来た役員に「河内は本当に柄が悪い所なんだよ」と言って笑われたそうで、帰って来て「もうあんなことは言わない」と悔し涙をためて私に話したことがある。
 そのようなことがあったので今年後期高齢者になった私は、河内が柄の悪い所と思われる原因についていろいろと考えてみた。
 
 河内のルーツ
 そもそも河内の国は飛鳥時代に明日香から見て大河淀川の内側にあるのでそう名付けられたのであろうが、奈良時代にそこから茅渟(ちぬ)の海(大阪湾)に近い和泉の国が分離された。戦国時代に豊臣秀吉が天下を統一して大坂城を築き、摂津、河内、和泉の人たちは平和の到来を期待したが、さらに二度の大坂の陣が起り、河内から大坂城にかけて激しい戦場となった。大坂夏の陣が終わり長く続いた戦乱の世もようやくしずまったが、摂河泉の所領配置は入り乱れ、すでに複雑なものになっていた。豊臣勢を打ち倒すために長年苦労を重ねてきた徳川家康は天下の台所大坂の重要性に鑑み、大きな外様大名はもちろん我が子の大名でさえ摂河泉には入れようとはしなかった。そして苦心して幕府直轄領、旗本領、小さな大名領を一層入り組ませ、岸和田藩の5万3千石を最高にあとはいずれも5万石以下、しかもその間には諸藩の飛び地や幕府の直轄領を入り組ませ、古文書に書かれている「碁石を打ちまぜ候やう」にしたのである。摂津には高槻藩(3万6千石)と麻田藩(1万石)、和泉には岸和田藩(5万3千石)と伯太藩(3千6百石)が置かれ、河内には丹南藩(1万石)と狭山藩(1万石)が置かれたに過ぎなかった。大坂城を除けばお城のある城下町となったのはわずかに岸和田藩と高槻藩だけであった。
言語などの文化はその国や地方の支配階級のものが浸透するとされている。京都の言葉はお公家さんや女御たちの言葉が入っているのだろうか。現在東京で話されている東京弁ないし標準語は、徳川氏が三河弁を江戸に持ち込み、その江戸弁に明治政府が長州弁や上方の言葉を加えて出来てきたものである。摂津大坂は城下町でもあったが、有力な豪商がいて商人の街であった。明治以降の大阪も豪商が財閥となり商工業都市として著しく発展したが伝統的に商人文化の街であり、「もうかりまっか?」、「ぼちぼちでんな」の大阪弁は確かに商売にうってつけの言葉である。翻って河内は、前述したような事情から大藩金沢100万石に比べるまでもなく小藩2つ合わせても2万石しかなく、武士の数が最も少ない地方であった。そのためこの地方に土着の百姓たちの言葉や風習が色濃く残ってきたものと考えられる。
 
 河内弁のイメージ
 現在の河内は大阪のベッドタウンになっているが、大阪市内に比べればまだ田舎であり、大阪の下町が持つ猥雑な面や暴力団に絡まれそうな物騒なことは全くない。では何故そのように柄が悪いと思われるのか。河内の中で同じ者同士でいればあまり気が付かないかも知れないが、河内弁はどうしても残念ながら他の地方の人たちに柄が悪く聞こえてしまうのである。なかでも一部の言葉、怒鳴ったり声高に言うときの言葉、特に男性がそれを使う場合(もっとも女性は元々男性が喧嘩するときのような乱暴な言葉は使わないが)、言葉それ自体が持つ語感に柄悪く聞こえる原因がある。それらの言葉は他の地方の人たちの言葉に比べすごく汚らしく、泥臭く、品が悪く、乱暴で恐ろしくも聞こえてしまうのである。
 例えばその最たるものに巻き舌で叫ぶ「おんどりゃ! われっ! 何さらしてけつかる!」という言葉がある。「おんどりゃ」は河内では昔から軍鶏(しゃも)(私たちは子供の頃「喧嘩鶏(けんかどり)」と呼んでいたが)という勇敢な鶏による闘鶏が盛んに行われていて、その雄鶏(おんどり)からきているのであろう。闘鶏で雄鶏に叫んだり、野良犬や野良猫を追っ払ったり、牛を叱ったり、悪童たちや喧嘩相手を怒鳴りつけたりするときに使われていた。軍隊で使われた「貴様!」、東京で使われる「この野郎!」と同じ意味で使われるが以前はあまり全国に知られてはいなかった。
 私の家とは親戚で同じ村に住む小学校の同級生で仲良しの明(あき)ちゃん という幼友達がいた。彼の父親は戦前に樺太現在のロシア領サハリンに渡り、そこで大阪や東京の中央市場などに向け北海の海産物を扱う商売を手広くやっていたが、終戦前に一家で故郷の村に引き揚げて来た。樺太で生まれ育った明ちゃんは私と同じ学年の男子組 に編入したが、校庭の隅にあった防火用の貯水プールに張った氷の上をすいすいとスケート靴も履かずに上手に滑れたし、東京風のアクセントでとってもきれいな標準語を話していたので担任の女の先生は国語の教科書を読むのをよく彼に当てた。しかし大阪市内から疎開で来ていた子供たちの「・・・へん」と語尾につける言葉使いも軟弱に聞こえた、いたずら盛りの我々悪童たちは彼を「樺太」、「樺太」と呼んだり、彼が母親を「お母(っか)さん」と呼んでいるのをまねて「おっかさん」、「おっかさん」と言ってからかった。すると彼は1年もしないうちに折角のきれいな標準語を話すのを止めて我々と同じ河内弁になってしまった。彼は富田林一中を出て引き揚げ後父親がやっていた小規模な農業を手伝いながら富高の定時制に通おうとしたが、入学して1週間目に煙草を吸っていたのを先生に見つかり退学になった。彼はその後大阪市内の町工場や商店などの職場を転々とし、「俺は隆(たか)ちゃんと違ごて学歴が無いさかい今えっらい苦労してるんやで、・・・」と私が学生時代に帰省したときに話していた。しかし彼は昭和40年頃ようやく1台の大型トラックを買い、村で運送屋を始めた。そして阪神地方の鉄鋼会社からの重い建設用の鋼材などを積んで、その頃までに整備されていた東海道や山陽道などの国道を東に西に長距離を殆ど不眠不休で日夜突っ走り、交通事故になりそうになったとき、あのような言葉を発していた。効果抜群、そのど迫力に相手は「皆んなびっくりして震えあがってしまいよるで、・・・」と話していた。彼は河内弁で遠く離れた地方の人たちを怒鳴りつけた最初のトラック野郎の一人であった。その頃大阪市内でも「河内ナンバーには注意しろ」と言われていた。実際には河内に「河内」と名のつくナンバーは無く、河内も含め大阪府南部の車は「和泉」ナンバーであったが、河内の若者たちがトラックやマイカーで大阪に行き、同様の言葉で怒鳴っていたためと思われる。明ちゃんとは私が帰省するたびに会って話をしたが、それまでの無茶な飲酒がたたったのか胃癌になり50歳代で亡くなってしまい、今は私が帰省しても村にはもう彼はいないし、私の父母も亡くなって久しく淋しい限りである。明ちゃんは決して根っからの悪(わる)ではなく、憎めない気の優しいいい奴で小学校の同窓会など改まった席では標準語で照れながら話をしていたことを懐かしく思い出す。
 やはり河内弁で特にどぎつく聞こえるのは男性が怒鳴ったり声高に主張する言葉でそれ以外の言葉は普通の関西弁であり、格別悪いとは思えない。もちろん女性の言葉も関西で一般に使われている言葉とそう大差はない。上品な京言葉とされる「はんなり」とか「まったり」とかいう言葉を私の母は河内にいて普段よく使っていた。このように殆ど大部分の言葉を共通に使い地方によって若干語尾が異なるだけであるのに、品の良いのは京都で、悪いのは河内なのである。富田林にあった大阪第二師範を出て小学校の先生や幼稚園の園長をしていた私の姉も職業柄何時もきちんとした標準語を話していた。
 要するに繰り返しになるが河内弁の特に男性の怒声など、その言葉自体が柄悪く聞こえるだけであって、もちろんのことだがそこに住む河内の人たちが皆人柄が悪く、下品なわけではないということだ。中河内に住んでいた歴史小説の作家司馬遼太郎は「河内弁は柄が悪いが、河内の百姓たちが太閤秀吉からそのまま使ってよいと許されたので天下御免なのだ」という趣旨のことを書いていたが、河内の知識人としてはちょっと暢気過ぎる。このように何時までも全国の人たちから河内だけが実際以上に柄悪く思われ続けているのを私は愛する故郷のために耐え難く、長く東京に住み故郷の評判を気にかけている人間にとっては重い問題なのである。
 河内ではもうずっと以前から大規模な養鶏場があちこちに出来ていて農家の庭先で鶏を飼うこともなくなり、私が子供の頃には村で行われていた闘鶏もすたれてしまった。そこで河内の人たちは喧嘩をするときはもう「おんどりゃ!」ではなく、「この野郎!」と標準語ないし東京弁で怒鳴ってはもらえないものだろうか?京阪神地方のサラリーマンも方言丸出しで声高に話す人は少なくなり殆どの人が標準語で話をしている。もう太閤さんの時代ではなく教育が普及しテレビやラジオから毎日標準語が流れているので、誰でも話そうと思えば標準語が話せるのである。河内弁で声高に話せばどうしても他の地方の人たちに柄悪く聞こえてしまう。日常努めて標準語で話し、河内弁が発する独特の泥臭さ、アクの強さを薄め、河内の評判を少しでも改善してもらいたいもので、私から愛する故郷の人たちへの願いでもある。そして今迄言われ続けた地元大阪市内や河内周辺の人たちにも巻き舌の東京弁で怒鳴り返してもらいたい。「この野郎!てめぇらっ! 悪いことをみんな河内のせいにするな!」と。(平成24年3月記)
 
 本稿執筆の後で
 前記「故郷河内の評判が気になる」の原稿を富高の同級生やKDDの同期生、その他の親しい人たちにメールで送ったところ早速数名の方から感想を頂いたがそのうちの3通をここに紹介する。

 ★貴兄の母校富田林高校の校友誌「菊水卿」に投稿された立派な原稿興味深く、また懐かしく読ませて頂きました。思えば昭和39年当時東京オリンピックに関連してKDD河内送信所に何度か出張でお伺いし、町内の安い旅館に宿泊しましたが、私が言葉のあらい茨城県生まれの為か、鈍感なのか、柄の悪い印象など感じた事はおもいだせません。松田さんは意外と繊細なんですね!あまり気にしない、大らかに行きましょう。懐かしい河内の事飲みながらにでもいろいろ教えてください。(KDDの先輩ME氏)

 ★力作を早速読ませていただきました。河内出身者が持つコンプレックスと、ルーツ探しの気持ちがよく現れていて、共感するところが多くありました。自分自身を振り返って見ると、KDDへ入社して小野に転属になるまでの半年は東京の人たちがまぶしく見えましたが、関西での2年半の勤務を終えて東京に来たときには、もう余り感じなくなっていました。平気で大阪弁入りで話していたように思います。河内がガラの悪いところとして知られていたことについても、余り気にせず、問われれば河内の藤井寺の出身と言っていました。上辺より中身を大事にする気質とガラの悪さは同じものの表裏で、自分がそうならしょうがないというところでしょうか。唄わされれば浪花恋しぐれや河内音頭というのも、そんな気持ちだったかもしれません。おかげさまで久しぶりに河内出身ということに思いが及びました。(大阪大学を出て同じKDDに入った在京富七会のKY氏)

 ★松田さんの記事を興味深く読ませていただきました。河内はガラの悪いところという話は聞いた事はありますが、私はそのように思ったことはありません。楠木正成の話やその遺跡、また河内送信所の懐かしい思い出などがあるからでしょうか。松田さんは河内の方言を気にしておられるようですが、私はそれぞれの地方における方言や地名は大切に伝承していって欲しいものと思っています。高校の東京同窓会に出席するのも昔懐かしい方言が聞けることと話せることという楽しさがその理由のひとつになっています。松田さんは次のような詩をご存知でしょうか。「血でつながる故郷、言葉でつながる故郷、心でつながる故郷」この次お会いした時に河内の方言を聞かせてください。(KDDの先輩で退職後防衛大の教授もされ著作も数多く出版されている讃岐出身のKY氏)

 ところで今年はNHKの朝ドラ「カーネーション」が放送され、そこで全国的に有名な岸和田の“だんじり”がよく登場した。私も故郷の“だんじり”のことを懐かしく想い出しインターネットで建水分(たけみくまり)神社の例大祭のだんじり祭りを検索していたところ私が生まれ育った村である北別井(きたべっつい)の“だんじり”がYouTubeの動画で、勢いよく走ったり前後左右に激しくゆすったりする勇壮な映像が太鼓や鉦や笛の音と若い衆たちの掛け声とともに大音響で飛び込んできて驚かされた。水分(すいぶん)神社(建水分神社)は楠木家の氏神であったものを正成の時代にその領民も含めた氏神として祭られてきたもので、丑年生まれの私が数えで5歳のとき七五三のお祝で「もぉーん」(牛のこと)の模様の入ったセーターを着せてもらい往復2里(約8km)の道のりを母に連れられ歩いてお参りをした古い記憶がある。また子供の頃秋のお祭りで“だんじり”の綱を引いて神社近くの兵の間(へのま)(昔楠木軍の兵が集結したところと聞いた)へ行った。
 そこでは当番村の人たちが担ぐ大きくて立派な神輿がひとしきり練りまわって鎮座した後、30台近くの村々の“だんじり”が順繰りにその村の青年たちによる俄(にわか)(”だんじり”の上にある小さな舞台で行う即興芝居)が演じられた。そして夕方村へ帰る長くてきつい登り坂(胴の坂(どのさか)と呼んで敵兵の首を切った胴体を並べていたと聞いた)を激しく打ち鳴らす太鼓の音とともに「おーた、おーた、おーた、おーた、・・・」と掛け声をかけて一気に駆け上るその勇壮さに私たち子供もすっかり興奮したものである。このように我が故郷の“だんじり”は数の多さでは岸和田を遥かに上回っている。岸和田の名前の起こりも賢夫人と言われた楠木正成の奥さんが楠木軍の実務を取り仕切った和田氏の出でその和田一族が後に海岸に築いた城だから岸和田城と呼ばれたことに始まっていて我々の方が歴史は古い。
 私が生まれた村は楠木正成が南河内に設けた45の陣地のうちの一つ別井城(べっついじょう)があったところで、胴の坂の他にも高台には口(くち)の城、上城(うえんじょう)、中の城、奥の城が、谷筋には狭間(はざま)という地名が今もなお残っている。先に河内弁はこの地方土着の百姓たちの言葉であろうと書いたが、私の祖先もこの別井城に立て籠もり、何万とも何十万とも言われた敵を迎え撃ち、あるいは楠木さん(地元では親しみを込めてそう呼んでいた)とともに赤坂城、千早城と転戦した勇敢な兵士であったかもしれない。感想をいただいた最後のKY氏が書いておられるように、これらの地名も大切に伝承してもらいたいと思う。
 感想をいただいたお3方はいずれも私が河内の柄悪いことをあまり気にすることはないと言ってくださり、また河内以外の生まれのお2人は私も河内弁を話して河内のことをいろいろ教えてほしいとのことだが、インターネットで調べると富田林には河内弁の研究会があり、中世の公卿の言葉の影響があるとのことだが、具体的にそれがどのような言葉か教えていただきたいものである。

 


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