名曲ピックアップ

 
グスタフ・マーラー 
交響曲 第5番 嬰ハ短調から
第4楽章 アダージェット
ベルリンフィルハーモニー管弦楽団
指揮:サイモン・ラトル

Gustav Mahler (1860-1911)
Symphony No.5 in C-Sharp Minor
~ 4th mov. Adagietto
Berliner Philharmoniker
cond. Simon Denis Rattle
 
 マーラーの交響曲 第5番は、1902年の完成された中期を代表する作品です。マーラーのウィーン時代の「絶頂期」と言われる時期に作曲されました。
 ピックアップした第4楽章のアダージェットは、ヴィスコンティ監督による1971年の映画『ベニスに死す』(トーマス・マン原作)で使用されたことから、1970年代後半にマーラー・ブームを起こしたことで知られ、マーラーの交響曲のなかで人気の高い作品のひとつです。ゆったりとお聴きください。
 なお、時間の許す方はこちらから全曲もお聴きください(カラヤン/ベルリンフィルの往年の名演奏です)。
 
(楳本)
オールディーズコーナー

 
 
昭和 60年代 歌謡曲  懐メロ60年代  人気曲 メドレー
JAZZコーナー

 
Benny Goodman - Greatest Hits
 

 

今月のラテン音楽

Valses de Amor, Vol. 1 - Lucha Reyes (Full Album)

Siempre Te Ayudaré - 0:00
Jamás Impedirás - 3:37
Corazón - 7:12
Ya Ves - 10:33
Perdón Por Adorarte - 14:27
De Puerta En Puerta - 17:10
Un Fracaso Más, Que Importa - 20:04
Aunque Me Odies - 22:29
Locura Y Pasión - 25:30
Cautiva De Amor - 29:08
Castigo - 32:21
Soy Tu Amante - 35:04

 

ラテン音楽のお話し (No.4)  

 

by Kuno Joaquín Casimilla

 

ペルー ~ バルスペルアーノ(ペルーワルツ)

 

 1074年頃、私は仕事の関係で一人のペルー人と出会いました。当時、彼はまだ30歳そこそこの若者で、当時の国際通信の花形KDDへ研修に来ていた電気通信技術者でした。私は彼と新宿で天麩羅を食べ、彼がお祭りのようだと驚いた、ネオンの洪水の街から品川駅近くのホテルに帰ったのは午前様でした。ソファーに腰かけて一服していると、彼が来日して真っ先に買ったと言うテープレコーダーから、聞きなれない、テンポの速いラテンの曲が流れてきました。
 彼が遥か地球の裏側の異国での孤独を慰めるために持ってきたカセット・テープは2本ありました(注)。聞く程に、その8分の6拍子のマリネラに似たメロディーが、乾いた喉に染み込むビールと共に、私の心の奥深く、みるみる広がっていきました。でもよく聞くと歌詞は暗い感じのものでした。それでも、ペルーの音楽というと、それまではケーナやチャランゴの伴奏のついた、アンデス高原地方のフォルクローレに代表されるものばかりだと思っていた、私の常識はショックを受けました。これが私とバルス・ペルアーノアとの出会いです。
(注)この2本は、「私のギターが泣くとき(Cuando llora mi guitarra)」もう一つは「捨て子(El expósito )」という曲です。はじめの曲はバルス・ペルアーノの中でも、ペルーのクンパルシータと言われる「ニッケの花」と共に、ベスト3に入る曲です。2曲とも日本人好みのメロディーです。

 一般にペルー音楽と言うと、日本では 「コンドルは飛んでいく(El Co'ndor pasa)」がすぐ思い出されます。しかし、これはアンデス山中のフォルクローレであって、ペルー音楽を代表しているとは言えません。何故かと言うと、ペルーには海岸地方(ペルーの都会地域を意味する)には、リズムの早いフォルクローレがあり、 フォルクローレ・デ・ラ・コスタと言って、はやりペルー音楽としての立派なジャンルが確立されているからです。
 16世紀の始めまで、北はコロンビアの南部から東はボリビア、アルゼンチンの北西部、南はチリの中部までを、その版図に収めていたインカ帝国は、多くの種族の集まりでした。その指導的民族はクスコを中心として、ほぼ現在のボリビアを故郷とするケチュア族です。インカの子孫であるケチュア族は、かっての首都クスコを中心に、アンデスの高原で農耕生活を送っていて、その生活圏においては、国境線をあまり意識していません。そのため、この民族に生まれたアンデス・フォルクローレは、ペルーの歌とかボリビアの歌とか言うよりは、インディヘナの歌なのです(インディオのこと、インディオは差別用語)。「コンドルは飛んで行く」は、このアンデス・フォルクローレの一つなので、ペルー人はペルーの歌だと言い、ボリビア人はボリビアの歌と言います。従って、「コンドルは飛んで行く」は、本当はペルー音楽の4分の1の代表と言うべきかもしれません。

 海岸地方のフォルクローレ (フォルクローレ・デ・ラ・コスタ)とは、バルス・ペルアーノ(ペルー・ワルツ)を始め、ウワイノ、テンデーロ、フェステッホ、マリネラ、ポルカなどを総称したもので、ヨーロッパと交易をする船の船員が運んできたものや、奴隷として連れてこられた黒人が、アフリカから持ち込んできたものです。マリネラは、元祖と称する 「太平洋戦争、(ボリビア・ペルー連合軍対チリ戦争、1882~1885) 」 の時に、軍艦の乗組員の士気を鼓舞するために作られたものだと言われています。これらの中の代表的なものであり、海岸地方のフォルクローレの中で最も都会的な音楽であるバルスについて、ペルー政府文化局が出版した「El waltz y el vals criollo (本場のワルツと地元のワルツ) 」と言う本には、次のように書かれています。
 『バルス・ペルアーノの起源はウインナ・ワルツである。スペイン人が南米を征服した後、今のボゴタ、ブエノスアイレスと共に、リマに副王府を設けたので、この地にヨーロッパから多数の役人が集まるようになり、彼らが持ってきたワルツは、中流階級以上の人々の間で19世紀末まで愛好されていた。それが、20世紀に入ってから、大衆の中にも広がり、下町の長屋の狭い中庭や、路地裏などでも踊られるようになってきた。それと共にステップも、狭い場所で踊るため、こちょこちょとした、せわしないものに変わり、リズムも当時流行していたマズルカ、ガロップス、クアドリージャ、ホータと言った、早い曲の影響を受けて、本来の4分の3拍子が半分の8分の6拍子に変わってきた』。と書いてあります。従って、比較的歴史の浅い音楽で、ペルーの「ラ・クンパルシータ」と言われる、バルス・ペルアーノの代表曲「ラ・フロール・デ・ラ・カネーラ(にっけの花)」も1950年頃の作品で、作詞作曲をした、チャブーカ・グランダと言う女性は1983年まで健在でした。 バルス・ペルアーノとしての形態が整い、インディヘナとの混血が多いペルー人の中に定着するのにつれて、本来のヨーロッパのリズムの中に、アンデス地方の独特のメロディーがこもるようになり、日本人にも共感の持てる音楽になってきました。歌の歌詞と言うものには、愛だ恋だの涙とか悲しみなどと言う言葉はつきものですが、バルス・ペルアーノにも沢山でてきます。

 昔から、母国のアルゼンチン・タンゴを始め、ラテン音楽には人並み愛着を持ってきた私にとって、バルス・ペルアーノに出会ったときには、世界にこんなにも心に焼き付く音楽があったのか、と思わず感嘆しました。そしてまた、こんなにも素晴らしい音楽が、ラテン音楽フアンの多い日本で、殆ど聞かれないのは何故かと不思議に思っていました。
 かって、私が東京に住み始めた頃、西新宿のKDDビルの31階にFM東京がありました。1975年頃の話です。もう45年も前になりますが、時々行く地下の社員食堂は出演する俳優や歌手などで賑わっていました。そこでI さんと言うプロデューサーと知り合い、彼の担当する昼の番組の中で、バルス・ペルアーノを1曲づつ 2週に渡って放送してもらったことがあります。
さて、反響はいかにと胸をときめかせて期待していたのですが、僅かに放送局内で、「聞き慣れない音楽だな、リズムは良いがなかり泥臭い。歌詞はスペイン語のようだけど、何処の国かな」と言った人が一人いただけで、一般聴取者の反応は全くなく、どんな反響があるかと興味を持っていた私の期待は完全に裏切られてしまいました。「日本では、どんなジャンル(例えば鳥の鳴き声だけとか、波の音だけとか)のレコードでも最低600枚は売れるんだそうです。しかし、それでは商売にならない」と、Iさんは言っていましたが、所詮バルス・ペルアーノも、その類なのかとひどく落胆いたしたものです。
 日本にはラテン音楽フアンが大勢いる。勿論ペルー音楽が大好きな人も多い。しかし、ペルー音楽と言うと、大方がアンデス・フォルクローレと思っているのではないかと思います。しかし、バルス・ペルアーノには、民衆の日々の生活の中での喜怒哀楽の感情が、すすり泣くようなギターの音に込められたセンチメンタルなメロディーと共に、ある時はオーバーに、ある時は切々と歌い込まれています。これを聞いた人は、きっと、主にお祭りの踊りのために作られたフォルクローレとは全く違った、ペルー音楽の素晴らしさに、新しい目を開いてくれるものと思っています。

 バルス・ペルアーノを歌った歌手の中で、代表的な歌手として知られているのが、ルチャ・レジェスです。彼女は、 ラ・モレーナ・デ・オーロ・デル・ペルー(ペルーの黄金の褐色人)と言われた歌手で、肌も髪も濃い褐色で、でっぷりと肥った堂々たる体型でした。肥っていたため持病の心臓病に悩まされ、1973年10月に40歳の若さで死去しました。新聞は1400万国民が等しくその死を悲しみ、涙を流したと伝えています。歌手人生が短かかったこともあり、吹き込んだレコードは7枚だけです。
 しかし、彼女は、海岸地方のフォルクローレの代表的歌手の一人だったので、ポルカ、マリネラ、ウアイノ、フェステッホなど、どんなジャンルの歌もこなしましが、やはりバルスが圧倒的に多い。ギターとピアノによるメランコリックなメロディーの伴奏で歌うのですが、その分厚い唇から流れる歌詞は極めて明瞭で、声は体つきに似合わぬ甘い響きを持っていました。その上に彼女の歌は前奏・間奏が素晴らかったものです。
 彼女のレパートリーの中でも、死期を悟った病院のベッドの上で歌ったと言われる、 「ミ・ウルティマ・カンシオン(私の最後の歌)」が出色です。死期を悟ったとき、フアンに感謝しながら、こぼれる涙を拭きながら、涙声で歌うラストが印象的です。このレコードは彼女が死んだ後に発売されたため、一層の感動を呼んだと言うことです。

 少し話は変わります。1964年5月24日、東京オリンピックのサッカー南米代表決定戦、ペルー対アルゼンチンの試合が、リマの国立競技場で行われました。この試合は後半試合終了間際まで0対0だったのが、レフェリーの不手際(オフ・サイドを見落としたためと言われている)で、ペルーが1点を奪われたため、観衆が騒ぎ出しました。この試合は引き分けでもペルーが代表権を得ることになっていたのです。これを静めるため警官が発砲したので、逃げ惑う観衆に押し潰される人々が続出、死傷者が800人もでると言う大惨事が起きました。敬虔なクリスチャンであったルチャ・レジェスは、この事件で親を失った孤児達を多数自宅に引き取り、死ぬまで面倒を見ていたと言う、美しい逸話が残っています。
 ルチャ・レジェス亡き後も1970年代は、チャブーカ・グランダ、ヘスス・バスケス、アリシア・マギーナ、ベロニカ、セシリア・ブラカモンテなどのベテランを始め、セシリア・バラッサ、エバ・アジョーンなどの若手歌手 (何故かペルーには男性のソロ歌手は殆どいない) の他に、ロス・モロチューコス、サニャルト兄弟、ギターの名手オスカル・アビーレスのグループなどが活躍して、バルス・ペルアーノは人気を保っていました。日本では、丁度その頃、「ボタンとリボン」で、戦後の暗い世相に明るい風を吹き込んだ、池真里子さん(2001年に亡くなった)が、銀座のペルー料理店でバルス・ペルアーノの名曲で、一番歌詞が長いと言われる「ホセ・アントニオ」を歌い始めました。(ちょっとだけ内輪話をすると、彼女に歌詞を提供して進めたのは私です)。

  しかし、その後、"失われた80年代"と言わしめた、ラテン・アメリカ全域を襲った、凄まじい経済混乱の嵐は、ペルーにも容赦なく押し寄せ、一時は年間1万パーセントを越えるハイパー・インフレなどもあって、市民生活はすっかり沈滞してしまいました。こうしたことから、リマ市内の下町で繁昌した一流店、パリサーダとかハロン・デル・オーロなどのペーニャ(ライブ・ハウス)も相次いで姿を消し、若手や新人の育つ環境がなくなってしまったり、若者の嗜好がロックなどへ変わったりしたことなどで、バルスは以前のような人気を失ってしまいました。 近年は、友人を通して手に入れたCDやDVDなどを通して、バルス・ペルアーノを聞く程度ですが、エバ・アジョーンとかセシリア・バラッサ、ルシア・デ・ラ・クルスの他は、名の知れた歌手がいないように思えます。いや、いないのではなくて、私自身が歳をとり、バルス・ペルアーノに対する執着心がなくなり、新曲への関心が薄れ、新しい媒体の入手に熱が無くなった為かもしれません。でも、今でもラテン音楽で一番好きな曲は、ときかれると、ためらうことなく「我がギターが泣くとき」を挙げます。ちょこちょこ古いCDやユーチュブで聞いています。「捨て子」と共にこの二つの曲は、今でもちゃんと歌詞をおぼえていて伴奏がなくても歌えます。若いころの記憶力は恐ろしいですね。もう一度申し上げますが、皆さんも是非一度、バルス・ペルアーノを聞いてみて下さいさい。
 では、また次回まで。   つづく A continuación

(写真提供、筆者 2020.9.4 )

 

 

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