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米寿を迎えて

 

小室 圭吾さん

 

この度は、米寿のお祝い、有難うございました。
これまで大病にもかからず、一昨年から一病息災(心房細動)で過ごしております。
最近になって、いくつか残っていたお役目からも解放していただき、あと一つ、日本アマチュア無線連盟の参与というのが残っております。

私の過ごしたKDD時代は、短波無線通信から始まって光海底ケーブル通信まで、数字で見ると、ものすごい変化の時代でした。一生にこれだけの変化に会えるというのは稀有のことと思い、有難く思っています。
通信速度は、短波モールス信号の数10wpmから光信号の数10Gbpsまで、
使用周波数は、短波の数MHzから光通信の数10GHzまで、
使用高度は、+35,786kmの静止衛星軌道から ―10,000mの太平洋海底ケーブルまで、
ということになります。

ここまで来て、新型コロナウイルスというものに出会うとは、夢にも思いませんでしたが、何とか乗り切りたいと思っている今日この頃です。

 

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入江 正さん

 

コロナの最中に運転免許証を更新しました。

身分証明だけが目的でしたが、これにより認知症(一番の心配事)、動作能力、聴力、視力がOKとわかり、日常生活に自信がもてました。

願いはピンピン、コロリです。 

 

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永田 秀夫さん

 

自分が米寿とは、一瞬疑いましたが確かに数え歳ではそうなります。

いまは鋭意終活中ですが、ことはなかなか進みません。

受動喫煙COPD(昔はどこでもタバコの煙だらけ)で日常の肺活量がほぼ半減し ていますが、毎朝晩軽い体操をする、時には下手なゴルフやテニスを、また この十年来、近隣の仲間と防犯パトロールで歩くことなどで、身体はなんと か少しは動いています。

最近感じるのは社会の変化で、このようなディジタル時代の到来は予想でき ませんでした。またいまはキナくさい匂い動きもあり、小学生の時が戦争中 だった当方には、人間はなんと懲りないものかと思われてなりません。

一昨年、ルンドバーグ氏(当方がインマルサットの理事会議長をしていた時 の事務局長)が娘さんと一緒に日本に観光にきた折、共に川越に行き、旧交 を温めたのは楽しい思い出です。  

 

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遠藤 實さん

 

昔のKDDコーラスの流れをくむ小さな合唱団とICUグリークラブOBを中心とした中程度の合唱団の2グループに参加し、合わせて週1~2回の練習会で、思い切り歌った後、気の合った仲間たちと一緒に一杯やって楽しむ、というのが我が健康法で、お陰で大過なく米寿を迎えることが出来たと思っています。

ところがここに来て、新型コロナの大騒動で、3月以降この健康法が全然使えなくなり、外出も近間だけの買い物、郵便局、銀行、歯医者程度で、後は家に閉じこもり、只管コロナの早期終息を祈りながら過ごしています。  

 

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喜寿を迎えて

 

 

塚田 一幸 さん
(1944年9月14日生)

 

 仕事から退いて14年目。喜寿(数え77歳)を迎えた。この度k-unetからの依頼により、退職後の生活スタイルの一部を振り返ってみることにする。

 ① 75歳は退職後人生の転換期

 昨年、満75歳になったが、この75歳というのは、私の老後の人生における大きな転換期‘(ターニング ポイント)であったような気がする。

(ⅰ)健康保険証の切換え

まず一番インパクトがあったのは、健康保険の変更であった。75歳を期にKDDI健康保険から自動的に後期高齢者保健に変更されたことである。

 退職後は1年半から2年おきに人間ドッグを受診していたが、KDDI健保ではこれに対し補助金を給付する制度があり、これまでも家内ともどもありがたく利用させていただいた。昨年はこの制度を利用する最後の機会であるので、早めに予約をとり、昨年2月に受診した。その結果いくつかの再検査事項が見つかった。自覚症状がない疾患であり、6月に入院・加療を受け、一週間ほどで無事退院できた。自分にとっては意義あるKDDI健保を利用しての+人間ドッグ受診であった。

 ちなみに退職後のOBに対するKDDI健保の特例保険は、大変ありがたい制度で、このことを他社の友人たちと話題とするとおおいに羨ましがられた。

(ⅱ)運転免許証の更新

つぎにインパクトがあったのは、運転免許の更新である。ご承知のように70歳以上では事前に運転講習の受検が義務付けられているが、75歳以上ではこれに加えて、認知症テストが課せられる。久しくテストなるものを受けていないので幾分のプレッシャーがあった。幸いテストの中身内容は県ごとにネット上で公開されている。これに目を通しておいたおかげで、本番では上々の出来栄えであった。

 ここ数年、高齢者の運転に厳しい目が向けられており、自分の周りにはすでに免許を返上している方達が増えている。自分の場合、次回更新時は78歳であるが、更新か返上かは、その時点で判断する。今のところ五分五分である。

② 囲碁講座

 退職後にすぐに始めたのが囲碁講座の受講である。囲碁は学生時代に覚え、KDD入社後もすぐに囲碁部に入部した。会社現役中も囲碁を打っていたが、いつかは一度しっかり勉強したいとは思っていたこともあり、2007年の3月末に退職し、5月から日本棋院の囲碁講座(高段者コース)に入会した。

 月4回、講師のプロ棋士の久保6段、(のちに林子淵7段)河野光樹7段から指導を受け、棋譜解説、布石、、中盤の打ち方、手筋、詰碁、指導碁などを学んだ。 この講座に通いだして4年半たったころから少し手ごたえを感じるようになった。入会時では5段格で打っていたが、講師のプロ棋士に4子の指導碁に連勝したり、また受講者同士の対局やその他の対局でも8割以上の勝率をあげるようになった。 そしてある時、講師であるプロ棋士から6段で充分打てますとお墨付けをいただいた。石の上にも3年というが、私の場合は4年半ということになろうか。

 この講座には通算5年半通ったが、充実した時間であった。講座受講はやめたが、今でも囲碁は続けている。思えば口座に通っていたこの時期が一番強かったかもしれない。

 

③ 囲碁合宿

これも囲碁に関することであるが、KDDI囲碁部合宿について紹介させていただく。

 ご承知のようにKDDはDDI、IDOと合併したが、合併相手のDDIにも囲碁部があったことから、両者の囲碁部関連者同士が相談し、新会社KDDIでも囲碁部を設置しようということで合意した。この合併後の囲碁部では、月一回の例会と年2回の囲碁合宿を主な活動とした。  特に囲碁合宿は特筆ものである。合併前のKDD部では合宿は行っていなかった。 新会社の囲碁部では、合宿を年2回開催することとし、場所は秩父(小鹿野町)の旅館「越後屋」とし、2007年から春・秋(いずれも土・日)に実施してきている。翌日の日曜日には任意参加で近くのゴルフ場でゴルフを楽しんでいる。  この囲碁合宿には毎回プロ棋士の川村八段(日本棋院関西総本部)に参加いただき、指導碁、棋譜解説、詰碁などを指導していただいている。を鍛えていただいている。川村八段の参加により、本合宿は大変充実したものとなっており、おかげで13年連続の年2回の開催を達成している。実は、川村八段の子息がKDDIの社員であることから、このような関係を築くことができた。感謝申し上げる。  合併を機に、KDDI囲碁部を発足させ、当初はDDIをはじめ、他社出身の方達も参加いただいたが、気が付けばいつの間にか旧KDDの出身ばかりとなっている。  

 また、囲碁部も高齢化が進み、若い社員の入部勧誘もうまくいかず、この先多難である。

④ ゴルフ

 退職後の人生において、ゴルフは大きなウエイトを占めてきた。退職に合わせて、自宅から比較的近い入間カントリー倶楽部のゴルフ会員券を入手した。現役時代に入手した錦が原ゴルフ場と合わせ、この二つのゴル場を中心に、年間30~50回くらいラウンドしてきた。ゴルフでは社内外の多くの人達とプレイでき、また新たなゴルフ友達もできたりして、新旧を問わず、多くの友人との交友を楽しんでいる。生活リズムの一部にもなっている。退職直後は、上達を目指した時期もあるが、今では飛距離ガタ落ち、スコアを意識せず、気楽にプレイする「健康ゴルフ」に徹している。健康維持のためこれからも続けるつもりである。(ひょっとして人生5回目のホールインワンを達成するかも!)

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山本 隆臣 さん


<近況など>

昨2019年4月にKDDI退職後16年間務めたソフトウェア会社の常勤監査役を退任しました。2月に後期高齢者になっていたので、丁度良いタイミングだったと思いますが、その背景には一昨年にパーキンソン病を発症していたという事情もありました。幸い良い薬があり、症状をかなり軽減できるので、今のところ日々の生活にさほど不自由はありませんが予断を許さず、新型コロナ対策にも留意しながら、医療技術の進歩を願いつつ適切に対応していく必要があります。当面は散歩・運動と庭仕事そして家事手伝いを主な日課として、のんびり過ごしていきたいと思います。

<KDD時代の思い出>

 30歳から6年間インテルサット事務局財務部へ出向し米国勤務をしたこと。財務課長時代に第3太平洋海底ケーブル計画で財務委員会共同議長を務めたこと。様々な業務を通じて30数ヶ国・地域へ出張したことなど…。

 

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 野村 幸男 さん


① 日頃心掛けている健康法、日々の過ごし方

快食、快眠、規則正しい生活、毎日6㎞前後のウオーキング、菜園作業、パソコンによる各種作業等。

② 最近うれしかったこと

特になし   

③ 最近気になること、気が付いたこと

自身:体力の若干の低下、後で思い出すがとっさの氏名、物の名前が出てこないことがある

世間一般:日本(限定)の未来を憂いている。未来志向のない現政権の傍若無人対応、新型コロナ等対応の国民感情との大幅な乖離、また、最近の高齢者並びに若者の自己中心のわがままや思いやりの欠如

④ KDD時代の思い出

定年までに本人の意思に関係なく転籍を含めて数社転職しているが、組織、体制、給与、福利厚生、社員の資質等KDDに勝る会社はなかった。

特に衛星通信に関与したくKDDI入社希望し、初配属先が商用を目指していた茨城、山口衛星通信所の建設を担当する衛星建設部で、色々苦労はあったがすごく充実した毎日だった。また、東京から大阪経由宮崎までの自前のマイクロ波伝送路の建設には縦割りの組織での軋轢が問題であったが、社内横断的な組織としてマイクロ波建設室を構成し、担当者との融和を図り問題なく完成できたのも大きな喜びでした。その他中央局の電源設備の建設など多くの工事にも関わり転職先での建設にも大いに役立ちKDDには大変感謝しています。

 

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 関戸 芳二 さん


いつの間にか喜寿を迎えるとは、まだKDDの新入社員の頃からほとんど時間がたっていない気分ですので、晴天の霹靂ですが、鏡と手足を見れば時のうつろいを認めざるを得ません。

① 日頃心掛けている健康法、日々の過ごし方

十数年過ごしたロンドンを引き払い、岡山の里山で隠遁生活をしていますが、登校不安定な孫3人の見守り以外は予定も責任もないストレスフリーの毎日で、健康不安は今のところありません。気ままな素人農業ですが、夏は草刈り作業が尋常でないので、毎日汗をかいてます。現役の時は忙しい中で連日運動していましたが、今や時間はいくらでもあるのにほとんど動かなくなりました、たまに自転車を数10キロ走るくらいです。

② 最近うれしかったこと

もう一年ほど過ぎてしまいましたが、岡山在住の澁野日名子が全英オープンゴルフ優勝など大活躍しました。岡山県民のひとりになれたのを幸い、次なる飛躍にワクワクしています。今だに優勝ビデオを見てなごんでいる毎日です。  

③ 最近気になること、気が付いたこと

連日コロナと災害のニュースが続いているので、いよいよこの地球も終わりかと大げさに考え込んでます。

④ KDD時代の思い出

ほったらかした写真や思い出の整理をしようと意気ごんでいましたが、全く手つかずです。不慮の航空機事故に遭った永田君との思い出写真も出したり引っ込めたりで進みません。不義理をしている皆さんとの思い出も、ぼけないうちに何とかしないと。

⑤ その他

しばらくノートパソコンが不調で、ついにログイン画面が出なくなり、最後の頼みでWindows10インストールUSBを作成するために格安中古パソコンを手に入れ、見事修復に成功しました。はからずもパソコン2台が気持ちよく動くことになり、長いことスマホだけで充分と思っていたことが嘘みたいです。k-unet も身近になります。

 

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長寿会員からの投稿

 

卒 寿 の 記

樫村 慶一

 私は元号が嫌いである。もっとも、昭和時代は極く自然に昭和を使っていたし、西暦だって普通だった。それが平成になってからは、換算がややこしくなり、令和になると、西歴との関係が全く断ち切られてしまった。
 人間90年も生きてくると、この世の中に暴力以外では怖いものがなくなってしまう。昔の日本の美徳などについてとんと縁のない現代人とは、意見がすれ違うことがあるのは当たり前である。世間には長寿を目指して体操をやったりサプリメントを飲んだりする人がいるが、クローンの自分を作り、やる方とやらない方を比較して、はじめて効果が証明されるのだと思っている。結局は自己満足の範囲を出ないと思う。その証拠には日夜体を鍛えたアスリートだって比較的早く亡くなる人も沢山いるし、逆に私の知人で、胃袋がなく他の内臓も一つくらい手術し、なお96歳で老人カートを押して一人で歩いている人がいる。だから寿命は運命であって、努力で左右されるものではないと思っているので、極端なことはやらない。長寿の秘訣を時たま尋ねられるが、私は、ストレスを溜めないことと答えている。年寄の三原則と言って、「風邪ひくな、転ぶな、義理を欠け」という言葉がある。言いえて妙である。考えてみれば、私が生まれた1930年(昭和5年)は、明治が終わって17年しか経っていないし、大正が終わってからたった4年だ、そんな昔からよくぞ生きてきたものだと思う。

 1937年(昭和12年)7月、中国(当時は支那)の盧溝橋で、その後の太平洋戦争に続く”日支事変”が始まった。日本軍は破竹の勢いで南京、徐州、重慶、新型コロナウイルスで有名になった武漢とかの都市を占領していった。そのたびに提灯行列があった。7,8歳の男の子達は最高の興奮状態で、万歳万歳と大はしゃぎだった。小学校5、6年くらいの頃、日本が世界列強の圧迫に反発して国際同盟を脱退し、日独伊三国同盟ができた時のことを不思議に覚えている、遊び仲間どもと、すごいねーー なんて室戸台風で倒れた大木に腰掛けながら生意気な気勢を挙げていた。
 その後、府立の旧制中学へ進んだ。1942年4月、米空軍のドーリットル爆撃隊が日本本土初空襲を敢行、B25の見慣れぬ黒い機体がかなり低空で不忍の池の方へ飛んでいくのを、下校途中の上野駅の山手線のホームで、不思議な目で眺めていたのが、はっきりと記憶にある。1943年、父親が病死したため母親が千葉県の軍需工場に勤めたのを機に千葉へ移った。1944年3月、中学4年になるときに東京大空襲で下町はまる焼けになり、瓦礫の平原のようになった。省線(現JR)も都電も学校もなくなってしまった。いつ開通したのか全く覚えていない。千葉の空襲では、焼夷弾が落ちる、シュルシュルという不気味な音を防空壕で小さくなって聞き、六角形の筒から火がついたグリスのような油が地面一面に散らばっているのを、水に浸した火叩きで消した。その頃小学校の子供はもう東京には誰もいなくなり、中学生以上はみな動員され、私は大森近辺の工場で兵隊の靴を作っていた。

 靴工場のおんぼろラジオに、食らいつくようにして友達と敗戦の詔勅を聞いた。難しい言葉が多く、しかも音声が悪いので半分しか聞き取れないが、負けたらしい、という肝心のことは分かった。さあ、大変だ、負けたんだったらどうなるのか、色々な恐ろしいデマが飛んだ。アメリカ野郎がやってきて、女はみんな強姦され、男は睾丸を取られて東京湾へ投げ込まれるとか。多くの人が信用した。母親の軍需工場もみな解雇され、靴工場は閉鎖されて行くところはない。座して飢えを待つ状態になってしまった。15歳だった私は浪人のようになり、人生の目標を失い呆然となっていた。戦争末期の東京には、学徒動員の名のもとに、兵隊には少し歳が足りない、私のような14,15歳くらいの少年が、大小の軍需関係工場で働いていた。14,15歳は志願すれば軍隊に入れたが、そんな勇気はなかった。その後は、母親ともども弟妹を食べさせるために苦労が続いた。そのため、胸を張って話せる青春時代というものがない。人生は山あり谷ありと言うが、私は妻と知り合うまでは、人生の谷底を、下を向いて石ころを避けながら歩いているような毎日だった。

 1953年、KDDの発足とともにそれまでの電電公社から東京国際電信局に配属になった。その頃はようやく戦後の苦境を乗り越え、逓信省職員となり生活は安定してきた。ある日、歯の治療に局の診療所に行った。ところがこれがとんでもない乱暴な藪医者で、前歯を抜いたら2日間血が止まらない。愛想をつかし、家の近所の歯科医院に通うことにした。いうならば、これが人生の最大の転換期になったと言える。
 歯医者の奥に、年ごろの、ちょっと色の浅黒い、とても可愛いけど田舎くささが抜けない女の子がいた。なんとも言えない剽軽なしぐさが可愛かった。1953年秋、友人から都合が悪くて行けないのでと、日比谷公会堂のタンゴ演奏会の切符をもらった。しかし、私にも心当たりがあるわけではなく、思い余っているとき、神の啓示が歯医者の娘を思い出させ、ダメ元で誘ってみた。女の子を誘うのは初めてではないが、相手が医者の娘となると相当勇気がいった。しかし案ずるより産むが易し、結果はなんと一発でOKである。ここから、2年後の駆け落ち同然の事実婚生活を始めるまでの交際が始まった。その年のクリスマスには、生まれて初めての”クリスマス・プレゼント”を買った。銀のネックレスだ。そして、これも初めての ”くちびる” というものに、恐る恐る触れてみた。まだこの頃の男女の交際は、戦前からの美徳の一つとも言うべき慎みがあり、恥ずかしさとはにかみがあった。現代の動物の如きモラルのない男女から見たら、とても理解できない行動と言うだろう。

 1954年3月、短大を卒業した彼女は教師を希望していたが、母親が早死にして、父親が一人で育ててきた彼女の就職を許してくれないため悩んでいた。でも明るい性格で皆んなに好かれ、学生のボーイフレンドも両手に余るくらいいた。それなのに、なぜ社会人の私に気を許したのかを後年尋ねたら、社会人は落ち着きがあって、大人に見えたからだと言っていた。父親の目を盗んだ交際が日増しに深まって行くのを、誰も止められない。お互いにやり取りした変色した便せんの手紙類は、今でも大事な箱の一番下に、恋の化石としてひっそりと眠っている。彼女の父親の弟で、逓信省の役人で北海道の電波管理局長をした叔父は、KDDをよく知っており将来の安定性と私の仕事に深い理解があり、陰ながら二人の交際を応援してくれた。それに加え、事実上の仲人役を果たしてくれた会社の上司の援助で、駆け落ち同然の同棲生活が始まった。1955年7月31日、江戸川区新小岩のバラック同様の家の2階一間が愛の巣になった。結婚式はない。

 1955年12月、会社の住宅資金25万円を借り、その年の暮れには、埼玉県の蕨に、まさに ”小さいながらも楽しい我が家” が手に入った。猫の額の如き狭い庭の付いた、ちっぽけな立ち売り住宅だったが、ようやくにして本当に二人だけの生活が始まった。やがて長女が生まれ、勤めも順調に過ぎていった。「もはや戦後ではない」と言う言葉が聞かれるようになった頃だ。1958年、皇太子(現上皇)の結婚を控え、馬車行列をみようとする人達が増え、テレビが普及し始めた時代で、いち早くアンテナを立てたため裕福な家と誤解され、私が夜勤の留守に強盗に入られた。胸の痛い思い出である。お腹には次女を妊娠中だった。そしてほぼ同じころ、猛烈な伊勢湾台風がやってきた。大雨のため低地の川口市が増水し、さらに埼玉県側の荒川堤防が決壊したため、我が家も床上30センチの浸水を被った。強盗騒ぎや浸水騒ぎと、不幸が立て続きに起こった。希望に燃えて始まった蕨の生活であったのに、次第に風向きが変わってきた。生活基盤を変えたい願望にかられ、妻の強い希望に押されて会社に転勤希望を出した。当時の転勤は、相手側に希望者がいて実現する交換転勤制度だった。1961年春、大阪への転勤が実現し、一時高野山への途中にある送信所社宅に住み、半年後に宝塚社宅に落ち着いた。

 そして6年後、運勢を変える時期がやってくる。1967年に本社に国際電報を自動処理するための、新しい一大コンピューター・システムTASの建設プロジェクトが立ち上がり、建設要員が全国の事業所から集められた。私も運よく選考の対象に入り、本社への転勤が実現した。1967年4月、高揚した気分で帰京した東京の社宅は、奇しくも生まれ育った中野区上高田と目と鼻の先の、妙正寺川の畔の西落合にあった。空襲が激しくなった1943年に、疎開するように東京を出てから、24年目の里帰りだ。哲学堂の桜が満開だった。東京に戻った1967年から1972年までの5年間は、アセンブラとかフォートランなどのコンピュータ言語を覚え、2進法に取り組み、コンピュータの理屈を会得した。1972年TASが完成し、プロジェクトは解散、それぞれが新しい職場へ散っていった。私は総合企画に残り、1974年新宿ビルが完成した時に運用部に移り、東京支社を経て、ブエノスアイレス事務所へ赴任することになった。足掛け4年のアルゼンチン生活を無事に終え、1985年晴れて帰国した。

 1990年3月末に定年。その後の60歳代が一番元気があり、お金もあり、鎌倉に別荘を持ち、外国を贅沢に旅し、車で国内を乗り回し、人生最高の10年間だった。70歳は病気の年代で、80歳は再び遊びが柱になった、と思ったら妻が逝ってしまった。妻と知り合ってからの人生は常に上昇機運にあり、犬も食わない喧嘩は多少あったけど、ついに定年まで妻の強運にも支えられ、一度も躓くことなく、会社人生を全うできた。5年前に、じゃあお先と逝ってしまった妻、彼女は私の最高の”あげまん”だった。何度感謝してもしきれるものではない。
 一人になってもう5年も過ぎてしまった。本当に月日が矢のように飛んでいく。

 妻が居なくなった後の寂しさの中での悩み、迷い、思考錯誤に、ようやく自分なりの哲学を見つけた。それでも、寂しさは癒しきれるものではない。今でも精神的な落ち込みに襲われることが時々はある。幸い、気持ちが落ち込むことがあっても、生来の楽天的性格でストレスをかわしてきた。独居生活になっての唯一の利点は自由であることだ。毎週土曜日は立教大学のラテンアメリカ研究会の講義を聞き、帰りに友人と池袋駅近くの隠れ家で焼酎をたしなみ、週1~2回はサンシャインの囲碁サロンに通い、第二日曜は目黒のラテン・サロンの「古い映画の会」で昭和黄金期を懐かしみ、後の2次会を楽しむ。また映画の他にもタンゴの歌詞を勉強に行ったり、ラテン音楽やジャズライブの誘いに乗り、家にいればパソコンが遊び相手で、退屈する暇はない。
 意欲がある間、体が動く間、頭が考えられる間、酒が飲める間は、娘夫婦のアテンドに甘え、自然に過ごすことが、卒寿になった人間が、妻に再会できる日までの生き方であろうと思っている。 おわり     (2020.4.10記)

 

 

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