会員の広場   長寿のページ

 

 


 米寿を迎えて 

 

溝辺了恵さん

 

① 日常生活と健康

 現在ひとり暮らしですので、健康には随分気を使っております。13歳のトイプードルを飼っており、朝晩の散歩は欠かせません。お蔭で多くの犬友達ができました。
 これだけでは不足なので、一日一回は国立駅近辺まで出かけることにしていますが、猛暑や豪雨に阻まれることがあります。そんな時は、家の中でスクワットをより入念にやることにしてます。
 週一回近所の方と老人のための体操、約一時間をやっています。

② 仏像彫刻

 趣味で始めた仏像彫刻は今も続けおります。個人に頼まれて彫ることもありますが、寺院に奉納することもあります。
 東北大震災後、岩手県のお寺に奉納したこともありました。
 また、NHK学園で仏像彫刻を教え始めて、20年近くなります。2年毎に生徒さんの作品展を国立駅近くの画廊で開いてきました。今年も5月に第7回展を開催したのですが、コロナの中で見に来てもらえるか心配でした。でも例年の半分近くの250人もの方が見に来ていただき、みんな大変喜んでいます。無事終了してホッとしておりますが、最近うれしかった事の1つです。
 また、優れた仏像を拝観することは彫刻をする上でも欠かせないので、同好の士と仏像拝観の旅をしておりましたが、コロナのため、今は中止しております。京都の国宝修理所にも何度かお邪魔して貴重な経験をすることができました。 このように仏像彫刻に熱中できたのは、2人の大先生との出会いがあったからだと思います。実技面では西村公朝先生で、理論面では西川京太郎先生です。出会いの大切さを痛感しています。

 下記作品集をご覧ください。

③ コロナが収まってやりたい事

 ほぼ毎月、大学時代の友人と展覧会などを見て、一杯やる事にしてましたが、早く復活したいものです。
 好きな仏像や展覧会を自由に拝観できるようになって欲しいものです。
 次女がフランスにいるので、娘や孫達に会いに行きたいものです。

④ KDD時代の思い出

 思い出は尽きないのですが、一番鮮烈に記憶に残っているのは、次の2点です。

 宇宙中継の開始で、ケネディ大統領の暗殺の画像が飛び込んで来た時。

 国際電話の全自動化の開始。

⑤ 最近気になる事

1.SNSの普及についてです。自由な発言はいいのですが、いわれのない非難や中傷が善意の人を傷つけ、死に追いやる恐れもあります。これは自分の身元が分からなければ、何を言ってもいいと考えるためだろうと思います。これら無責任な意見をろ過する方法はないでしょうか。あるいは人間の性(さが)として諦めなければならないのでしょうか?

2.国防意識の欠如、日々のニュースを見れば誰でも感じていることと思います。

作品集

 

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 喜寿を迎えて 

 

沖 和美さん

 

日頃から心がけている健康法

 いつの間にか私の健康法となっているのは“バレエ・ストレッチ”です。
 40才台半ばから始めました。 
 30才台半ば(球技とか偏った部分のみでなく)体全体を均等に動かせるものと 思い(ダンスが好きだった事もあり)ジャズダンスを習い始めました。そしてバレエに変更したきっかけは一緒にレッスンを受けていた友人に良い先生がいらっしゃるのでと勧められ、 場所もその時の職場(目黒ビル)から近かった事もあり、この歳からバレエ??と思ったのですが 関心もあったので恐る恐る始めました。ストレッチが主で、丁寧なレクチャーで徐々に慣れてきました。
 大阪勤務になった時も(様子が分からなかったので)阪急デパート内のカルチャーのクラスで続けました。
 東京に戻ってから自宅近くのカルチャーに移り、並行して“ジャザサイズ”というのも体験しました。アメリカン・ヒットチャートの曲にあわせジョギングのような動きで飛んだり跳ねたりという動きはいつも体を柔軟に キープしたいという私の目的には合っていませんでした。それに引き換えバレエは科学的に分析された人間の体の構造やこの様な所に力を入れているとこの辺りに 筋肉がついて醜くなってしまうというような大変参考になる説明もして頂けるので(人間の体は必ずしも対称的ではないが) 体の歪みを考えたり、自分のその時の体調と相談しながら続けています。

 使用する用語はフランス語ですがこの基礎原理はイタリア発祥と聞いています。
 そしてこれを考え出した人々、国民というのは素晴らしいといつも感心しています。
 ゴルフの前日なども打ちっぱなしへ行くよりはストレッチをした方が好調でした。
 そして何より気に入っているのは美しい音楽を聞きながらどのようなしぐさ・ポーズが見た目に美しく見えるかにも重点が置かれている事です。 特に現在指導して下さっている先生は、レッスンの最後に少し練習する“振り”にバレエお馴染みの曲はもとより、その時期に合わせた曲(X’mas にはくるみ割り人形とか)を取り入れて下さっていることもうれしいことです。

 ただ、今はさすがにハードな面もありいつまで続けるか迷いながら(やめてもこのまま体は硬くなってしまうし・・・ と思いながら)続けています。

 


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 鈴木健二さん


 皆様、ご無沙汰しております。

 1976年から2000年3月まで、KDD研究所に在籍し、通信プロトコル、データ通信システム、ソフトウェアや通信システムの製品検証などの研究に従事し、子会社であるOSIプラス社の立ち上げ、発展に参加した鈴木健二です。
 2000年4月からは沼津にある通信システム開発のベンチャー企業に参加し、2002年12月からは、有限会社ケニスブロンを立ち上げ、通信とコンピュータに関するコンサルタントとして、国内外の企業のサポートをしてきました。
 この間、2005年11月から2011年3月までは、電気通信大学情報工学科の教授を務めましたが、退任後は、ケニスブロンに戻り、コンサル事業を続けています。

① 日頃心掛けておられる健康法、日々の過ごし方、

 私自身、自由奔放な生活を送った学生時代、オランダ留学、ヨーロッパ放浪の経験、ならびに、真面目になって、勉学と研究に励んだ大学院時代やKDD研究所時代を経る中で、私としては、一つの夢が出来上がりました。自分がやりたいことをやれる時間はそんなにない、自分のやりたいことがあれば、それを大事にしよう。この考え方は、今も続いています。そのため、自分で作った会社は一人会社にし、従業員は雇っていません。何事も自分で決め、行動したいからです。大きな仕事をする時には、協働できる従業員のいる会社とチームを組んだり、最近では「類は友を呼ぶ」というか、同じような一人会社の責任者達とタッグを組むことが多くなりました。外国の友人達とも、密に連絡しており、やりたいことはやれています。最近のコロナ感染症の影響で、海外・国内旅行はなくなり、飲み会やゴルフの回数は減りましたが、一人でできる山歩きもしますし、川や海で釣りもします。また、庭作業、家庭菜園もやっています。   

② 最近、うれしかったこと。

 うれしいことは一杯あります。3歳、1歳の孫がビデオ通話で私を識別でき、レスポンスをくれること。母が101歳の誕生日を迎えたこと。7月28日の土用の丑の日、今年もまた例年通り、自分が釣ったウナギのかば焼きを食べたこと等々です。

③ 最近気になること、気づいたこと

 やはりコロナ感染症の影響が大きく。外出の機会がものすごく減りました。かつては、電車やバスに乗らず、毎日、10km近く歩いていたのが、今はほとんど車での外出。1日、1km歩くことがない日もあります。夜の10時過ぎ、慌てて、外に出て、川沿いの遊歩道を歩くことも多い今日この頃です。
 気づいたことでは、世の中には、一芸に秀でている人が多いことです。スマホで撮った写真を手持ちのプリンタソフトで印刷した時、スマホ画面の端に映っている部分が印刷されず、困りました。そのことを懇意にしている若手研究者に話したら、その場ですぐ解決策を教えてくれました。自分で解けないことができたら、知っていそうな方に聞いてみることが必要だと思います。

④ KDD時代の思い出

 私の在籍したKDD研究所は、その所在地が恵比寿から上福岡に移動しました。入社以降、研究者として、いろんな課題に対応してきた若い時代を過ごした恵比寿、研究管理者としての時間が長い上福岡を比較すると、恵比寿時代が、とても華やかで、懐かしく思います。特に、データ通信の黎明期に、VENUS-Pのサービス開始を目指した皆様の生き生きした姿が忘れられません。


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金坂祐爾さん
(昭和38年入社)


近況など                      

①フレイル予防策と日課

体のあちこちで故障・機能低下だが、a)毎日適当な時間にTV体操(1週間分の録画を2ヶ月毎更新)。b)週二回各60分前後の速足ウォーキング。c)食事は腹九分目。アルコールは夕食時ほろ酔い初期程度。d)屋上ミニ菜園の世話。今は茄子と隠元の収穫がピーク。e)家事手伝い。あとはWeb上を気ままに散歩。

②認知症防止策

昨年春、放送大学全科6コースを14年かけて卒業、永らえばこその目標達成。その後は選科コースを更新、好みの数科目だけのんびり。

③嬉しいこと

「大谷翔平 申告敬遠2つ含む3四球、苦笑い」「藤井聡太棋聖が最年少タイトル初防衛、九段昇段決める」明るく只管感嘆讃嘆するニュース。

④気になること

コロナの動向、地球温暖化、専横国家、テロリズム(武器・サイバー)……。

⑤KDD時代

八俣送信所6年、大手町・新宿の施設局・網セあわせて28年間、沖縄支社2年弱。
各職場内・職務外でお世話になったよき上司・同僚・部下のあの方・この方との懐かしい思い出。お顔は浮かんでも残念なことにお名前がすぐには……。乞ご容赦。
写真は入社(s38)当時、八俣送信所調整室、休憩時の一コマ。背後は調整卓と監視盤。送信機室階下に行くとあちこちの変調トランスが数ヶ国語の国際放送を混ぜこぜに囁きかける。深夜の一人巡回は少しビビる。尚、もっじゃもじゃの髪はアフロでも鬘でもなくポマードが効かない縮毛。過去の自分にアンビリーバブル! 
現在は鏡を覗いて対照的にアンビリーバブルにつき写真添付取りやめ!(笑)。
でも老いの現実には素直に従うべきかも。  皆様お達者で。 

R3.7.4記

 

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 長寿会員からの投稿 

百寿の
追加のお話
(前編)

遠藤 榮造
(2021年7月吉日)

誕生日のお寿司・昼食をとる遠藤夫妻

 先の拙文投稿では、思いを尽くせなかった割に、沢山の星印を頂戴し有難う御座います。色々と疑問・質問を頂戴し、もう少し明確に説明しなければとの思いです。遅くなりましたが、言い訳の追加をお許し頂きたい。

 先ず、大方の疑問点を要約すると「この度の百寿到達は、目出度い限りだが、達成のための健康法?心がけ?或いは秘訣?について知りたい。」と云うようなことであろか? 100歳まで生きるための健康法とか・秘訣などが特にあるとは思わないが、強いて言えば、私の場合は会社の仕事が一段落した70台後半頃から夕方の時間を利用して体操教室に通った。単純に老後の健康を願ってのこと、友人の誘いで入ったのがヨーガ体操教室。インドでヨーガを勉強してきたと云う女性の先生は元々指圧を仕事にしていた由で、一人ずつに指圧を施術してくれながら、教室全体には号令でヨーガ体操(*鼻呼吸など各種呼吸法を含む)を指導。約1時間で指圧とヨーガの二刀流と云うところか?月謝は少々お高めだが、生徒は熱心に受講していた。 次に、近くの禅寺で、夏:冬に早朝座禅会(6時には座禅の体制で座る)を公開していた。欠かさず参禅した。座禅も呼吸法が中心要素の活動(修養)になっていると思った。つまり、修養を重ねるうちに呼吸が安定(自律神経が副交感神経に移る)して雑念を離れ「只管打坐」の境地で、足の痛さも忘れ身体が爽やかになる。大げさに言うと安心立命?という感じ。

 呼吸法よりも何よりも日本を世界の長寿国に押し上げた「健康保険制度!(1950年代成立?)」をまず挙げるべきであろう!つまり医療費の3割(現役・現役並み収入の方)or1割(退職後)の自己負担で病気治療を受けられる。最近は年収200万円の75歳以上に2割負担の制度を新設の模様。 健保制度や呼吸法も長生きの要素だが、小生の場合、更に老齢化後の在り方として老人ホームを選択したことにもあると思う。その事情等を若干振り返えると:―   

  小生は、KDDの発足(1953年4月)で広島から出てきたお上りさん。つまり、国の通信機構改革で、既に半年ほど前(1952年7月)にはNTTが発足していたが、小生は、広島電気通信局において中国5県の国際通信を統括(国際主査)していた関係でKDD本社に採用された(NTT公社が国内通信、KDD会社が国際通信を分担した時代)。

 さて、当方家族5人(小生の母親、吾ら夫婦と子供2人~何れも幼稚園児)であったが、大東京には適当な借家などもなく、当時の転任・引っ越しは大変であった。幸い友人の協力を得て郊外に分譲地が見つかり、小さな家を新築することにした。KDDから厚生資金を借り入れ、広島の退職金等と併せて資金の目途を立てた。

 新居での生活はひとまず順調であったが、母親は老化に伴い寝込むようになり、妻(嫁として)は1年間ほど看病に明け暮れる生活が続いた。当時はまだ病院での完全介護は整備されておらず、医療事情も遅れていた時代。

 吾ら自身の老後を考え出したのは勿論定年を迎えた頃からだが、最近の新聞報道などに「ヤングケアラー(学生などの若者が介護に苦労)」の問題を報じているのを見て、吾らも母親のように老齢化を迎えて子供に苦労は掛けたくないと云う気持ちが強くなっていた。その頃、巷では老人介護事業も漸く盛んになり、施設の改善・多様化が進んできた。当方も老人ホームの見学やお試し入居などにより、種々選択を試みた。結局自宅近くに新設された大手のベネッセ有料介護老人ホームに二人揃って入居した次第。月々の支払等も考慮した積りだが、有料介護老人ホームは入居一時金も必要だし、安い買い物ではない。それでも最近は人気ホームの競争は激しいようだ。吾ら入居10年を過ぎたところだが、家内は心臓冠動脈の難しい持病で時に専門病院等への入院を繰り返している。勿論小生も持病はあるが、お陰で百寿達成の栄に浴した次第。

 

 さて、樫村さんのk-unetでの活躍振りは余りにも有名。残念ながら当方については、殆ど馴染みがないとのお話。当方はお上りさんだから友人は極めて少ないわけだ。それでも敢えて言えば、2000年の通信事業の再編でKDD時代の終焉を迎えたころ、KDD/OBの情報網を何らかの形で残したいとの声が上がり、有志の話し合いに参加したことはある。その際に当方が叩き台に出した会則案やk-unetの名称など。その名称が今も継続しているのは有り難い。もっとも今日のk-unet は有能・賢明な有志により再建されたもので、近代的親睦ネットとして運営されており、ご同慶の至り。

 当方と樫村さんとは年齢的には一昔ほど離れていることもあり職場での交流はなかった訳だが、樫村さんの投稿から推察するとラテンアメリカ方面でご活躍の様子。当方も海外での仕事に追われていたが、ラテンアメリカでの経験は殆どない。一度だけインテルサットの総会で、メキシコシティとアカプルコ方面に出張したことがあり貴重な経験であった。メキシコシティはご存知の通り海抜4千メートルほどの高地に開けた大都会、航空機から降りて駆け出すな!と注意を受けたが、アカプルコはその海岸リゾート。メキシコシティからの航空機はまさに急降下爆撃機?のようだ。そこで同行者と相計り、帰途は途中一泊の「登り坂」バス旅に切り替えた。登り道は殆ど昔からの石畳みでスピードは出ないが途中に見る風物は高度に従い、草木・風物の様子にも変化が現れ楽しい観光になった。途中南米の桜にも例えられるジャカランダの満開も見られた。信仰に熱いメキシコらしく地震で崩れかけた大きな教会に信者は絶えない。教会のはす向かいに、コジンマリした土産物屋が目に入り、妻はショーウインドウの宝石が目に止まったらしく現物を見せて貰っていた。店員の説明によると「メキシカンオパール」とか!我々一般に知られるオパールは水色に煌めく宝石だが、これは地味な茶色。大きさやカットの出来栄えを含めて百ドルはお土産に手頃と思いカードで購入した。この辺の様子は既に樫村さんの投稿で知られているかも知れない。

 

 さて仕事の話に若干触れるとすれば;小生は主に初期の衛星通信の組織問題で国際会議に派遣された。先ずは米国主催のインテルサット恒久制度(1973年発効)、引き続きインマルサット(海事衛星システム・機構)の設立関係:1975年本社指示で、ワシントンからロンドンに飛び、第1回インマルサット政府間会議に出席。この会議は国連の海事専門機関(IMO・本部ロンドン)主催。IMOは、衛星通信が出現した当初から船舶での衛星利用について研究を行い、問題点を掘り下げていた。その後衛星システムの技術的進歩と共に民間資金(所謂~ファウンド)からの投資も自由化され。また遭難安全通信の自動化システム(GMDSS)も開発されてきた。映画「タイタニック」でお馴染みのSOS遭難呼び出し方式等は衛星に切り替えられて廃止された。そのような技術的・制度的革新の関係でインマルサットの設立はやや時間がかかり1981年。因みに遭難安全問題は、一般条約の所謂「海上における人命・財産の安全条約」の細目改正にまで及んでいる。 云うまでもなく、上記の政府間会議は外務省の所管(代表は初め頃には大使であった)。KDDからは役員(副社長~常務)が出席。小生らは、日本の大代表団の随員、言わば金魚の糞のようなものだが、それでも会議の記録・報告書の作成等、大変勉強になった。オマケに・・・・・このような会議は小生らの担当が定年後まで続き、KDD参与や関連会社の役員等の肩書で国際会議もカバーしてきた。

 

 余談の追加になるが、国務省でのインテルサット会議は、3年に及ぶマラソン審議であったが、会期中には世の中に変化を及ぼすような重要出来事もあり、例えば;当時の米大統領・リチャード・ニクソンは、国務省での会議進行を励ましながら重要発表の演説を行っていた。その一つは「突然の訪中決定」の発表。世界注目の出来事で、米・中二大国の歴史的交流に繋がった。(今日でも中国との政治状況は複雑。) もう一つは1971年8月15日のニクソン演説で、戦後の世界金融を支えてきた「1844年のブレトンウーヅ体制」が変更(所謂、ニクソン・ショック)。例えば、それまではドル紙幣を米国の銀行では同額の金貨に交換して呉れていたが、米国でも金の裏づけを確保できなくなった訳で、世界中の金融体制を根本的に変更する政策に移行。以来米ドル安の傾向が続いて来たことはご存知の通り。なお、ニクソン大統領はご存知の通り、ウオーターゲイト事件で、汚い大統領選挙を行ったとして、結局は議会から追放を受けて大領職を退いている(大統領弾劾決議は避けられていた。)

 

 小生、衛星通信システムに関わる以前に実は忘れられない歴史的!?新型海底ケーブルの事案を担当した。つまり、明治初期に敷設された長崎―ウラジオスト電信ケーブルの近代化である。18世紀に欧米で発展してきた電信ケーブル網は、19世紀半ばにはアジアにも進出。英国系通信企業が南回りで清(今の中国)大陸にも進出、重要都市(例えば、シンガポール・上海等)を結んでいた。これに対抗してロシアが北回りで計画したのがウラジオストクからの電信ケーブル。日本(長崎)への陸揚げは、幕末~明治維新に日・露/デンマーク間の外交交渉で始まった。デンマークの大北電信会社「Great Northern Telegraph Co.(GNTC)」は、ロシアとの特約により、この交渉に関与した。日本側は当時の外交機関である外務卿が担当。日本へのケーブル陸揚げや国内通信路建設などで、多くの提案が先方より提示されたが、外務卿は長崎陸揚げ以外すべて断っている。この旧電信ケーブルの敷設・運用は戦前GNTCが独占担当してきたが、戦後は日本側の陸揚げ施設・ケーブルの運用はKDDが引き継いでいる。 さて、戦後の新型ケーブルについてKDDは、太平洋電話ケーブルの他に、東南アジアケーブルや多くの案件を抱えていたが、旧電信ケーブルの更新を熱望するGNTCの計画に応えて検討。紆余曲折を見たが両社の意見やロシア側の地理的・政治的事情等により日露間の最短区間としてナホトカ―直江津間に新設、JASC(日本海ケーブル)として1969年に完成している。このJASC交渉は主にGNTC本社(コペンハーゲン)で行われ、小職も随員して参加、合意文書などにかかわった。ロシア側の担当次官(英語通訳帯同)・GNTC社長・KDD副社長の3社代表により、最終合意が確認された。 中継増幅器を内蔵する新型ケーブルは、電話・テレビ中継等の広帯域分野で活躍。既に大西洋側その他で成果を上げ、当時太平洋横断電話ケーブルの建設も米国(ATT)の協力を得て進めていた。技術進歩は目覚ましく、間もなくファイバー方式や光方式で大容量のケーブル通信を実現している。電話事業の大改革!忘れられない時代だ。

 

 さて前回の投稿で、老人ホームのウ~ドデッキをシニアーカーで散歩中の栄造本人の写真を掲載したが、ご質問を頂いた。 ウ~ドデッキは言わば構内の遊歩道。土地の形状等にも関係して、ホーム設計当初に色々苦心があったようだが、当ホームのウ~ドーデッキの広さは、南北に長く概ね50メートル・幅5メートル位とコジンマリとした遊歩道。花壇にはハナミズキ3本や草花等が咲き乱れる季節もあり癒される。更にビーチパラソル3基もおいてあり、遊歩道としては些か狭い方かも知れない。なお、この遊歩道の東側は一般の駐車場でホーム側を板塀で囲っている。反対側つまり塀の内側がホームの4階建てのビル施設で、1階には、玄関・受付・事務所の他、ホームの中心的施設である「ダイニングルームやファミリールーム等」が配置される。オープンエアーのウ~ドデッキからはバリアーフリーで硝子戸を通って出入りができる。ホームのイベントや入居者の散歩には重要・手頃な施設である。    

以上。

 

 

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遠藤榮造さんへのメッセージ

百寿およびプラチナ婚をお迎えになり誠におめでとうございます。

遠藤 榮造 様

興味深く拝読いたしました。

k-unet創設の際の名称や会則(案)の叩き台の作成に参加されたとのこと。改めて、諸先輩方のご尽力により成り立ち継続していることに深く感謝いたします。今後の私共の励みにもなりますので、無理のない頻度で投稿を続けていただけたらいいなと思います。よろしくお願いいたします。

松本房子

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 長寿会員からの投稿 

百寿の祝い 
プラチナ婚の続き
(2021年2月・後編)

遠藤 榮造

 

最近の著者
― ウッドデッキをシニアーカーで散歩

 梅のつぼみがほころぶ季節となり、春の訪れが待ち遠しく感じます。

 予想通りと云うか?新型コロナウイルスは新年に関係なく勢力を強めながら、年明けの世界中を驚かせているようだ。一応医療関係の対応としてワクチン問題も含め前進しているのが救いと云えようか?

 昨年・2020年2月のコロナ禍の始まりには、マスクの貿易で一儲け、と云う経済問題から始まった騒動が印象的だったが、兎も角マスクは新型コロナウイルスの感染防止には必需品として急速に世界中に普及した。

 かなり昔の話になるが、スイス観光を楽しんでいたころのこと。ご存知の通り、スイスは国策として険しく美しい山岳地帯を売り物に、氷河特急に代表されるように山岳地帯の交通網を整備し、手軽に山歩きを楽しめるようにしている。山登りの重装備でなく、トレッキングの軽装でもかなりの高山が楽しめる訳だ。 吾ら夫婦も、ユングラウヨッホ、アイガー北壁、モンブラン、マッターホン等3千から5千メートルのお決まり高山の景観を楽しんだ。宿の主人の勧めで好天のマッターホンのトレッキングに出かけた時の話。30~40人乗りの大型ケーブルカーのゴンドラで山頂真下に向かった。可なりの高度に到着したので、外気温との変化を考えた吾らは、降り際にマスクを着用した。その瞬間!!ゴンドラ同乗者の殆ど全員の視線が吾らに向いたのには驚いた。つまり、吾ら日本人などは日常的にマスクを使う習慣があるが、ゴンドラ同乗者(スイス人?・ヨーロッパ人?:因みにスイスには赤十字社の本部もある。)には、吾らのマスク姿が異常に珍しかったのだ。今回のコロナ禍で世界中が色・形とりどりのマスク姿に覆われたのを見るにつけ、当時のスイス観光を思い出して笑い話にしている。

  兎も角マスクが生活の必需品として世界中を覆っていた昨年(2020年)10月25日に小生は100回目の誕生日を迎えて、思いがけず「百寿の栄」に浴した。思いかけずと云うのは語弊があり、実は誕生日の半月ほど前から、早々と総理大臣より百寿の「祝状と銀杯」を、また栄造の留守宅(狛江市)を管轄する自治体の長(東京都知事・狛江市長)からもそれぞれの祝状・記念品が贈られてきた。ご存知かと思うが、これは昭和38年制定の「老人福祉法」により、国や地方公共団体が実施するもので、最近では年間8万件余(男1:女7ぐらいの割合)で全体的に年々増加しているという。お祝いや贈り物は個人的にも親戚・友人等からも頂戴した。立派な贈り物をホームの狭い個室に飾っておくにはスペースが足りない。やむを得なく子供たちに措置を任した次第。

 申すまでもなく、当方の百寿到達は、先ずはわが国の優れた社会・生活環境にあると思う。さらに個人的に言えば、ここ10年ほど当方は、老人ホームのお世話になってきたので、長寿はホームの環境にも預かって大きいと云えよう。つまり、同老人ホームの責任者(ホーム長)はじめスタフ・関係機関等のご協力のお陰であり、特に今次コロナ禍では、その禍に巻き込まれた施設等も少なくないと云われる中で、当ホームは、細心の注意で切り抜け、安心・安全な運営を維持してきた手腕は高く評価されなければならない。

 ところで、今次新型コロナウイルスは昨年1月に中国で発生したとされるが、目下国連のWHOが中国政府の協力を得て現地入りし、発生の詳細を調査中。日本政府は現下のコロナ対策として、コロナ禍鎮静の決め札として、来月7日を期限とする「緊急事態措置宣言」を発した。2月早々の節分の鬼退治と行くかどうか?!?! 

 

 

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 長寿会員からの投稿 

結婚70周年目の
プラチナ婚祝い
(2020年12月・前編)

遠藤 榮造

 
最近の著者

 私ども夫婦は、本年(2020年)の5月で無事に結婚70周年、つまりプラチナ婚を迎えることが出来た。その前の金婚記念(50周年目)には、「金婚旅行記」を出版してお祝いとしたが、さて今回のプラチナ婚では何をお祝いにしようかと思ったが、ご想像の通り、世界中を震撼させている新型コロナウイルス騒動の真っ最中にぶつかり、お祝いどころではない、当方の老人ホームでの生活にもそれなりの不自由さに直面している。なお、当方の老人ホームへの入居・生活状況等については、既に、k-unetの話題としてもお知らせしている通りで、ボケ防止のため時々webを開いて、k-unet各位のご活躍の様子を拝見しているが、今回は当方の近況もお伝えしたいと思い「長寿のページ」にお邪魔した次第。

 金婚祝いに続く今回のプラチナ婚までの20年間の、凡そ後半の10年は老人ホームでの生活と云うことになる。ご存知の通り老人ホームは感染症に対し最も厳しいところで、しかも、今回のコロナ禍は世界中で未経験の感染症と云うことになる。周知の通り、この新型コロナウイルスは2019年12月中国湖北省武漢市で集団発生したウイルス性肺炎(COVID-19)と呼ばれるが、国連の専門機関「WHO」は発生場所などまだ公式の見解を出していないとも云われている。老人ホームに限らず、多くの方々がこの感染症からの試練を受けている今日だが、特に高齢者の集団である老人ホームへの影響が憂慮されている。

 このような状況でプラチナ婚のお祝いは諦めざるを得ない状況であったが、偶々6月6日が家内の誕生日でもあり、ホームの計らいで出前の特注お寿司を取ってもらい、ホームのコーラスグループによる$Happy Birthday$とともに二人だけのささやかなお寿司パーティーながら、「コロナ禍のプラチナ婚祝い」として便乗した。

 さて、新型コロナウイルスの襲来では、どうなることか?!と肝を冷やした方も少なくないと想像するが、まだその脅威は続いており。恐らく有効なワクチンが普及するまでは収まらないというのが一般的見方のようである。

 ご参考までにコロナ襲来時等の当ホームの様子の一端を紹介してみよう。

①  まず、新型コロナウイルスの襲来時には医療関係者は別として、ホーム入居者は、外部との接触を一切遮断する措置がとられた。例えば、美容サロンの職人やマッサージ師、ボランティアの慰問団等の来訪は当面すべてお断りと云うことになった。その後コロナ禍の状況や社会一般の事態の推移等を勘案しながら、数か月も散髪を待った入居者への美容サロンのサービス対応が漸次改善されてきた。例えば「カットサービス」を去る7月から始め、順次時間のかかる複雑なメニューにもサービスが拡大されている。

②  コロナ禍以前のように、家族・保証人などの自由なホーム訪問は未だ解禁されていない。当面は必要に応じてホームの玄関先での検温等身体検査を受けて、届け物の手渡しや短時間の面談が許される方向にある。

③  巷の報道などによると、コロナ禍は目下第3波の最中とも言われ、ホームに家族を迎え入れられる自由往来は当面無理のようで、コロナ禍の不自由には忍耐を要するようだ。医療関係者をはじめ、ホーム運営者のご尽力に感謝し、更なる改善を期待している。

④  なお、老人ホームなどの施設の中には、コロナ禍に巻き込まれたところも少なくないよ うだが、当ホームは関係者の適切な施策・判断のお陰で目下のところは安全・安心を享受している。

以上は当老人ホームでの近況報告だが、以前のように家族の自由な往来は当面のコロナ禍の状況から無理のようだ。 

(前編終わり)

なお、後編(こちら)では、私の百寿到達の報告などを予定します。

 

 

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メッセージもよろしく


遠藤榮造さんへのメッセージ

お祝い 紀寿おめでとうございます。

 百歳を紀寿とも申すそうです。なにはともあれ、一世紀生きてこられましたこと、お祝い申し上げます。遠藤さんとは直接仕事上でご指導頂いたことはございませんが、ご尊顔は良く存じております。私は間もなく(4月1日)91歳になります。70歳の折、縁あって、愛知県”知多半島の半ばにある「野間の大坊」と申す古刹の住職から。”貴方は104歳まで生きる” とのご宣託を頂きました。この住職は姓名判断で全国的に高名な人だと言ういことを後で知りました。その後、大病をするたびに、「俺はまだ死ぬはずはない、104まで行くんだから」、と暗示にかかったような気分で闘病して参りました。遠藤さんのお写真を拝見しますと、顔色もよく、補助器具を使ってとはいえ、自力で歩くことができるとは100歳でも健常者であると拝察いたします。宣託の104まで本当に行けるのか、自信はございませんが、私が人に90歳まで元気で生きる秘訣を聞かれるのを自分に置き変えて、あと10年どう生きるか、その秘訣を遠藤さんにお伺いいたしたく存じます。気がむかれましたら、紙上にてご披露頂ければ幸甚です。ますますのご健康とご多幸をお祈り申し上げます。ごきげんよう。 2021,2,20  樫村 慶一

100歳おめでとうございます。

100歳でパソコンにてエッセイを記載れる力に感服です。

私も1月に81歳になりました。誕生祝は5色のボールペンです。

遠藤さんはご自分へのプレゼントは何になさいましたか?(鎌田光恵)

遠藤さんへメッセージを送りましょう。

お元気そうな遠藤さんからの投稿でした。
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 長寿会員からの投稿 

 

卒 寿 の 記

樫村 慶一

 
2020.4.1
90歳の誕生日の祝い会で
椿山荘・錦水亭

 私は元号が嫌いである。もっとも、昭和時代は極く自然に昭和を使っていたし、西暦だって普通だった。それが平成になってからは、換算がややこしくなり、令和になると、西歴との関係が全く断ち切られてしまった。
 人間90年も生きてくると、この世の中に暴力以外では怖いものがなくなってしまう。昔の日本の美徳などについてとんと縁のない現代人とは、意見がすれ違うことがあるのは当たり前である。世間には長寿を目指して体操をやったりサプリメントを飲んだりする人がいるが、クローンの自分を作り、やる方とやらない方を比較して、はじめて効果が証明されるのだと思っている。結局は自己満足の範囲を出ないと思う。その証拠には日夜体を鍛えたアスリートだって比較的早く亡くなる人も沢山いるし、逆に私の知人で、胃袋がなく他の内臓も一つくらい手術し、なお96歳で老人カートを押して一人で歩いている人がいる。だから寿命は運命であって、努力で左右されるものではないと思っているので、極端なことはやらない。長寿の秘訣を時たま尋ねられるが、私は、ストレスを溜めないことと答えている。年寄の三原則と言って、「風邪ひくな、転ぶな、義理を欠け」という言葉がある。言いえて妙である。考えてみれば、私が生まれた1930年(昭和5年)は、明治が終わって17年しか経っていないし、大正が終わってからたった4年だ、そんな昔からよくぞ生きてきたものだと思う。

 1937年(昭和12年)7月、中国(当時は支那)の盧溝橋で、その後の太平洋戦争に続く”日支事変”が始まった。日本軍は破竹の勢いで南京、徐州、重慶、新型コロナウイルスで有名になった武漢とかの都市を占領していった。そのたびに提灯行列があった。7,8歳の男の子達は最高の興奮状態で、万歳万歳と大はしゃぎだった。小学校5、6年くらいの頃、日本が世界列強の圧迫に反発して国際同盟を脱退し、日独伊三国同盟ができた時のことを不思議に覚えている、遊び仲間どもと、すごいねーー なんて室戸台風で倒れた大木に腰掛けながら生意気な気勢を挙げていた。
 その後、府立の旧制中学へ進んだ。1942年4月、米空軍のドーリットル爆撃隊が日本本土初空襲を敢行、B25の見慣れぬ黒い機体がかなり低空で不忍の池の方へ飛んでいくのを、下校途中の上野駅の山手線のホームで、不思議な目で眺めていたのが、はっきりと記憶にある。1943年、父親が病死したため母親が千葉県の軍需工場に勤めたのを機に千葉へ移った。1944年3月、中学4年になるときに東京大空襲で下町はまる焼けになり、瓦礫の平原のようになった。省線(現JR)も都電も学校もなくなってしまった。いつ開通したのか全く覚えていない。千葉の空襲では、焼夷弾が落ちる、シュルシュルという不気味な音を防空壕で小さくなって聞き、六角形の筒から火がついたグリスのような油が地面一面に散らばっているのを、水に浸した火叩きで消した。その頃小学校の子供はもう東京には誰もいなくなり、中学生以上はみな動員され、私は大森近辺の工場で兵隊の靴を作っていた。

 靴工場のおんぼろラジオに、食らいつくようにして友達と敗戦の詔勅を聞いた。難しい言葉が多く、しかも音声が悪いので半分しか聞き取れないが、負けたらしい、という肝心のことは分かった。さあ、大変だ、負けたんだったらどうなるのか、色々な恐ろしいデマが飛んだ。アメリカ野郎がやってきて、女はみんな強姦され、男は睾丸を取られて東京湾へ投げ込まれるとか。多くの人が信用した。母親の軍需工場もみな解雇され、靴工場は閉鎖されて行くところはない。座して飢えを待つ状態になってしまった。15歳だった私は浪人のようになり、人生の目標を失い呆然となっていた。戦争末期の東京には、学徒動員の名のもとに、兵隊には少し歳が足りない、私のような14,15歳くらいの少年が、大小の軍需関係工場で働いていた。14,15歳は志願すれば軍隊に入れたが、そんな勇気はなかった。その後は、母親ともども弟妹を食べさせるために苦労が続いた。そのため、胸を張って話せる青春時代というものがない。人生は山あり谷ありと言うが、私は妻と知り合うまでは、人生の谷底を、下を向いて石ころを避けながら歩いているような毎日だった。

 1953年、KDDの発足とともにそれまでの電電公社から東京国際電信局に配属になった。その頃はようやく戦後の苦境を乗り越え、逓信省職員となり生活は安定してきた。ある日、歯の治療に局の診療所に行った。ところがこれがとんでもない乱暴な藪医者で、前歯を抜いたら2日間血が止まらない。愛想をつかし、家の近所の歯科医院に通うことにした。いうならば、これが人生の最大の転換期になったと言える。
 歯医者の奥に、年ごろの、ちょっと色の浅黒い、とても可愛いけど田舎くささが抜けない女の子がいた。なんとも言えない剽軽なしぐさが可愛かった。1953年秋、友人から都合が悪くて行けないのでと、日比谷公会堂のタンゴ演奏会の切符をもらった。しかし、私にも心当たりがあるわけではなく、思い余っているとき、神の啓示が歯医者の娘を思い出させ、ダメ元で誘ってみた。女の子を誘うのは初めてではないが、相手が医者の娘となると相当勇気がいった。しかし案ずるより産むが易し、結果はなんと一発でOKである。ここから、2年後の駆け落ち同然の事実婚生活を始めるまでの交際が始まった。その年のクリスマスには、生まれて初めての”クリスマス・プレゼント”を買った。銀のネックレスだ。そして、これも初めての ”くちびる” というものに、恐る恐る触れてみた。まだこの頃の男女の交際は、戦前からの美徳の一つとも言うべき慎みがあり、恥ずかしさとはにかみがあった。現代の動物の如きモラルのない男女から見たら、とても理解できない行動と言うだろう。

 1954年3月、短大を卒業した彼女は教師を希望していたが、母親が早死にして、父親が一人で育ててきた彼女の就職を許してくれないため悩んでいた。でも明るい性格で皆んなに好かれ、学生のボーイフレンドも両手に余るくらいいた。それなのに、なぜ社会人の私に気を許したのかを後年尋ねたら、社会人は落ち着きがあって、大人に見えたからだと言っていた。父親の目を盗んだ交際が日増しに深まって行くのを、誰も止められない。お互いにやり取りした変色した便せんの手紙類は、今でも大事な箱の一番下に、恋の化石としてひっそりと眠っている。彼女の父親の弟で、逓信省の役人で北海道の電波管理局長をした叔父は、KDDをよく知っており将来の安定性と私の仕事に深い理解があり、陰ながら二人の交際を応援してくれた。それに加え、事実上の仲人役を果たしてくれた会社の上司の援助で、駆け落ち同然の同棲生活が始まった。1955年7月31日、江戸川区新小岩のバラック同様の家の2階一間が愛の巣になった。結婚式はない。

 1955年12月、会社の住宅資金25万円を借り、その年の暮れには、埼玉県の蕨に、まさに ”小さいながらも楽しい我が家” が手に入った。猫の額の如き狭い庭の付いた、ちっぽけな立ち売り住宅だったが、ようやくにして本当に二人だけの生活が始まった。やがて長女が生まれ、勤めも順調に過ぎていった。「もはや戦後ではない」と言う言葉が聞かれるようになった頃だ。1958年、皇太子(現上皇)の結婚を控え、馬車行列をみようとする人達が増え、テレビが普及し始めた時代で、いち早くアンテナを立てたため裕福な家と誤解され、私が夜勤の留守に強盗に入られた。胸の痛い思い出である。お腹には次女を妊娠中だった。そしてほぼ同じころ、猛烈な伊勢湾台風がやってきた。大雨のため低地の川口市が増水し、さらに埼玉県側の荒川堤防が決壊したため、我が家も床上30センチの浸水を被った。強盗騒ぎや浸水騒ぎと、不幸が立て続きに起こった。希望に燃えて始まった蕨の生活であったのに、次第に風向きが変わってきた。生活基盤を変えたい願望にかられ、妻の強い希望に押されて会社に転勤希望を出した。当時の転勤は、相手側に希望者がいて実現する交換転勤制度だった。1961年春、大阪への転勤が実現し、一時高野山への途中にある送信所社宅に住み、半年後に宝塚社宅に落ち着いた。

 そして6年後、運勢を変える時期がやってくる。1967年に本社に国際電報を自動処理するための、新しい一大コンピューター・システムTASの建設プロジェクトが立ち上がり、建設要員が全国の事業所から集められた。私も運よく選考の対象に入り、本社への転勤が実現した。1967年4月、高揚した気分で帰京した東京の社宅は、奇しくも生まれ育った中野区上高田と目と鼻の先の、妙正寺川の畔の西落合にあった。空襲が激しくなった1943年に、疎開するように東京を出てから、24年目の里帰りだ。哲学堂の桜が満開だった。東京に戻った1967年から1972年までの5年間は、アセンブラとかフォートランなどのコンピュータ言語を覚え、2進法に取り組み、コンピュータの理屈を会得した。1972年TASが完成し、プロジェクトは解散、それぞれが新しい職場へ散っていった。私は総合企画に残り、1974年新宿ビルが完成した時に運用部に移り、東京支社を経て、ブエノスアイレス事務所へ赴任することになった。足掛け4年のアルゼンチン生活を無事に終え、1985年晴れて帰国した。

 1990年3月末に定年。その後の60歳代が一番元気があり、お金もあり、鎌倉に別荘を持ち、外国を贅沢に旅し、車で国内を乗り回し、人生最高の10年間だった。70歳は病気の年代で、80歳は再び遊びが柱になった、と思ったら妻が逝ってしまった。妻と知り合ってからの人生は常に上昇機運にあり、犬も食わない喧嘩は多少あったけど、ついに定年まで妻の強運にも支えられ、一度も躓くことなく、会社人生を全うできた。5年前に、じゃあお先と逝ってしまった妻、彼女は私の最高の”あげまん”だった。何度感謝してもしきれるものではない。
 一人になってもう5年も過ぎてしまった。本当に月日が矢のように飛んでいく。

 妻が居なくなった後の寂しさの中での悩み、迷い、思考錯誤に、ようやく自分なりの哲学を見つけた。それでも、寂しさは癒しきれるものではない。今でも精神的な落ち込みに襲われることが時々はある。幸い、気持ちが落ち込むことがあっても、生来の楽天的性格でストレスをかわしてきた。独居生活になっての唯一の利点は自由であることだ。毎週土曜日は立教大学のラテンアメリカ研究会の講義を聞き、帰りに友人と池袋駅近くの隠れ家で焼酎をたしなみ、週1~2回はサンシャインの囲碁サロンに通い、第二日曜は目黒のラテン・サロンの「古い映画の会」で昭和黄金期を懐かしみ、後の2次会を楽しむ。また映画の他にもタンゴの歌詞を勉強に行ったり、ラテン音楽やジャズライブの誘いに乗り、家にいればパソコンが遊び相手で、退屈する暇はない。
 意欲がある間、体が動く間、頭が考えられる間、酒が飲める間は、娘夫婦のアテンドに甘え、自然に過ごすことが、卒寿になった人間が、妻に再会できる日までの生き方であろうと思っている。 おわり     (2020.4.10記)

 

 

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