趣味の広場 - 音楽


ラテン音楽コーナー

◆ ラテン音楽のお話し by Kuno Joaquín Casimilla
 
  バックナンバー

 

No.6 コロンビア(クンビア)  ~ 音楽以外で話題の多い国
No.5 キューバ(クーバ)  ~ ラテンアメリカ音楽発祥の地
No.4 ペルー  バルスペアーノ
No.3 タンゴ  A media luz
No.2 べッサメ ムーチョ  Bésame mucho
No.1
 

 

ラテン音楽のお話し (No.6)  

 

by Kuno Joaquín Casimilla

 

コロンビア  クンビア(音楽以外で話題の多い国)

 

 コロンビアは南米諸国の中でも、音楽に関しては貧弱な国で、日本で知られている大衆曲は殆どありません。1950年代にベネスエラの音楽家、ドミニカ出身のビージョ、ことルイス・マリア・フロメータが率いたビージョス・カラカス・ボーイズがドミニカのメレンゲやキューバのマンボ、それにコロンビアのクンビアなどのカリブ海各地の音楽をひろめたことが記録されている程度であります。クンビアはもともとはヨーロッパやイギリスから渡ってきた、フォークダンスを元にしたような、男女がペアーになって足を踏み鳴らし腰を振り、手をかざす踊りです。このスタイルは他の南米の色々な国にある音楽の踊りに共通した形になっていますが、特にチリのクエッカに似ています。ベネズエラの農村地帯のダンス音楽、ホローポの影響を受けていると思われます。ボゴタの一流のショー・レストランでは、お客の国の国旗を背中に付けた踊り子が、クンビアに合わせて同じような振付の繰り返しの踊りを長々とやっていますが、お客は飽き気味です。一々聞くわけでもないのに、どうしてお客の国籍がわかるのかが不思議に思います。音楽の話はこのくらいにして、他のお話しに移りましょう。

 コロンビアといえば、まず思い浮かべるのは、コーヒーと宝石のエメラルド、そして、日本のかなりの量のカーネーションがコロンビアから輸入されているということです。コーヒーは、南米ではブラジルに次ぐ生産量を誇っています。中西部アンデス山脈の1300メートルから1800メートルのアンティオキア州の高原で栽培され、現地ではティントと呼ばれており、そのマイルドな味は日本人にも珍重されています。
 その昔、クレオパトラがすっかり気に入っていたと言われたエメラルドは、世界の60パーセントを産出しています。エメラルドには澄んだ色(透明度が高いので色が薄い)のものから、濃い緑色までありますが、欧米人は澄んだ色のものを好み、日本人は濃い色を好むと言います。石の中に別の結晶があるのが良いとされていますが、私には本当のところは分かりません。
 かっては、市内の薄暗い通りなどで、汚い子供がポケットから、エメラルドらしき緑色の石をいくつも取り出して ”安いよ安いよ” と売りつけたりしていましたが、今はいないようです。高価なものですから、やはりきちんとした店で買うのが安全です。こうした宝石店は、扉が二重になっていて、その上にガードマンがピストルを持って立っています。それぞれに鑑定書をだしてくれます。宝石にとって絶対に欠かせない金やプラティナもコロンビアは南米大陸で最大の産出国ですが、その割には指輪でもブローチでも、驚くほど安いと言うわけではなく、値段はせいぜい日本の半分位だったと覚えています。

 コロンビアは、宝石や金、プラティナがたくさん採 れ、国花にもなっている美しい蘭の花があちこちに咲き誇り、色とりどりの果物が溢れ、美味しいコーヒーがふんだんに飲め、人々は陽気なクンビアのメロディーに乗って踊る、色彩溢れる美しい国です。その上、コスタ・リカ、チリと並び、3Cの国・美人の多い国と言われ、石を投げれば美  
人に当たると言われるほど、すべてが羨ましい国なのに、長いあいだ麻薬にからむ血生臭い抗争が続き、何となく敬遠したくなる国でした。
 それに、この国はチリ南部を起点に南米西海岸から北上
する火山帯の上にあり、ご多聞に漏れず地震が多く、火山の爆発もります。1985年には西部のネバダ・ルイス火山が爆発し、泥流で麓のアルメロという町が消滅しました。
1993年1月にはガレラス火山が爆発し日本人研究者も危険な目にあいました。1994年6月、1995年
2月、1999年1月 とM6以上の大きな地震が起き、最近では、2008年5月に中部でM5.6の地震があり6人が死にました。
 ボゴタ市内にある黄金博物館は、コロンビアに行ったら是非見学しなくてはならない場所です。エル・ドラ-ドと言う言葉は、新大陸の征服者達がアマゾン川の流域
に求めた黄金境のことですが、この伝説の発祥地がコロンビアです。1939年に建設された博物館で、サンタンデール公園の一角にあり、ものものしい警備がなされています。収蔵する黄金の品々は36000点に及ぶといわれ、中に入るとガラス・ケースの各陳列棚には、大は宗教儀式の装身具や装飾品から、偶像、器などまで、まばゆいばかりに飾られています。装身具などの小物はは、並べてあるのではなく、雑然と放り込んであると言う表現がぴったりします。因みにボゴタ国際空港もエル・ドラド空港と言います。

 1980年代後半になりますが、五木寛之原作を元にした「戒厳令の夜」と言う映画がありました。南米のどこかの国(この映画ではグラナダとなっていたと思う)から流出した有名絵画を、主役の二人がその国に返しに行き、そこで起きた反乱に巻き込まれて死んでしまうと言う筋書きに、自衛隊の幹部がクーデターのようなことを起す話が絡んでいたように思いますが。古い話なので残念ながら詳しい事は覚えていません。物語りの中の反乱は、チリのアジェンデ政権を倒した、ピノチェット将軍の革命(1973.9)をモデルにしているようです。この革命シーンの海外ロケがコロンビアでありました。見覚えのあるモンセラーテの丘やら、国立競技場だとか、ボリーバル広場などが出てきたのですぐに分かりました。モンセラーテの丘は、市の西に立っていてボゴタのシンボルです。ケーブルカーで登ります。ここからは新旧市街が一望にでき、特に夜景が素晴らしい所です。頂上には教会があり、祭壇の後に回ると、何百、いや何千かもしれない松葉杖と、落書がびっしり書かれたギブスが、通路一杯に積み重ねられています。ここは、身体障害にご利益のある寺院なのです。丘の手前に南米解放の英雄シモン・ボリーバルの別邸があり、年中観光客で賑わっています。

 ボゴタから50キロ程北へ行くと、シパキラの岩塩洞窟があります。ここは、海抜2650メートルの高地にあり、岩塩の山を刳り貫いて教会の形に造ってあります。中の温度は平均14度で、ひんやりとします。教会の壁を舐めてみるとどこもしょっぱい味がします。ここは、スペイン人が侵入してくるまでは、原住民の酋長シパの住居だったものです。ボゴタ郊外にはこれと言った観光ポイントがないので、シパキラの岩塩洞窟の教会は、唯一の観光地とも言える場所でもあります。この先に行くと、衛星通信用アンテナがあるチョコンタ地球局があります。
かってはアンテナは一つでしたが、今はどうなっているでしょうか。懐かしい所です。

 コロンビアには、植民地時代の面影を今も色濃く残し   
 ているカリブ海に面したカルタヘーナとか、コーヒー、砂糖産業の中心地カリとか、常春の気候で国花の蘭の主生産地メデジン、それに紀元前900年頃まで栄えた石像文化の遺跡があるサン・アグスティンなど、観光地としての魅力を十分に備えた所が各地にありますが、訪れたことがないので紹介することができません。
 メデジンと言う都市の名前が出てきたついでに申し上げますと、アルゼンチン・タンゴの不世出の偉大な歌手、カルロス・ガルデルが、1935年6月24日にメデジンの空港で飛行機事故で死んだという悲しい話が残っています。別の機会にこれについてお話いたしましょう。メデジン空港のある、アンティオキア州という所は、「タンゴは我々の州の音楽だ」などと言うほど、狂信的タンゴ・フアンの多い所です。ガルデルが、このような所で死んだというのも、神話の導いた運命かもしれないと言われています。
 ラテン音楽のコロンビア編とは名ばかりの、横道にそれた内容になってしまいましたが、正直言って音楽的には題材がありません。コロンビアという国の概要がお分かり頂けれたらば幸いです。この辺で幕にしたいとおもいます。おわり  次回はボリビアです。  

2020.11.1
(つづく a continuacio’n)

 

 

▲INDEX

 

ラテン音楽のお話し (No.5)  

 

by Kuno Joaquín Casimilla

 

キューバ(クーバ)~ ラテンアメリカ音楽発祥の地

 

 キューバの首都ハバナへはメキシコ市のベニート・フアレス国際空港から毎日午前と午後に数便が飛んでいます。ほんの一っ飛びという感じです。飛び上がってすぐメキシコ湾の上空になり、じきに右手にユカタン半島の半分が見えます。なによりも感嘆するのは空から眺めるカリブ海の多彩な青さです。一面が同じ青緑というのではなく、おそらく海底の高低に関係がるのでしょう、海の中に縞模様が出来ています。と、思う間もなくキューバ島に入ります。島の西部にある観光地、ピナール・デル・リオの景勝が空から眺められます。1時間足らずのフライトです。外貨不足に悩んでいたキューバはハバナのホセ・マルティ空港の荷物運び用のカート使用まで1ドルの料金を徴収します。
 
 2015年頃は、キューバがらみのニュースが目につきました。オバマ前大統領がフィデル・カストロの弟のラウル・カストロと交渉し、自身も米国大統領として初めて訪問するなど雪解けが急速に進んでいったからです。数年前までは、キューバ観光は米国との国交が回復するまでが旬で、それ以降になると観光資本が世界から入ってきて、古きよきキューバの魅力が失われ、ただの島国になってしまう、と言わていました。たしかに、1950年代のガソリンを撒いて走ると言われる、5,000CCクラスのビュイックやクライスラー、ダッジなどは国宝級です。この光景を見るだけでもキューバへ来る価値はあります。
 しかしトランプの時代になって、180度雰囲気が変わってしまいました。何十年ぶりかで国交を回復したのに、トランプが横暴にも再び断交してしまい、この雪解けムードは淡雪のごとく消えてしまいました。今までの耐乏生活に終止符を打てるかもしれないと期待したキューバ国民には気の毒なことです。鉄のカーテンに覆われた北朝鮮とは比較できませんが、経済的には相当参っていると思います。しかし、あくまで表面は明るいラテン人は、朝から音楽に踊に精を出しています。

 音楽のお話しをしなくてはなりませんが、私は音楽の専門家ではありませんので、紙やモニター画面で音楽のことを表すのは至難の業です。そこで、音楽の話は二の次にして、写真を使ってキューバのお話をすることにしたいと思います。
 今の世界には社会主義国は10もないでしょうけど、正統派社会主義?を実践してきた誇り高き国です。ソ連の後盾がなくなり、親友だったベネスエラのチャベスが居なくなり、四面楚歌なのに反乱も暴動も起きないのは、カストロ議長が自から労働者や下層階級と同じレベルの生活をしていたからだと言われています。
勿論政治家の汚職やスキャンダルはありません。まさに、社会主義の見本のような国です。中国や北朝鮮の指導層にカストロの爪の垢でも飲ませてやりたい思います。そして社会主義が嫌いの日本とは不思議に午が合うのか、昔から友好親日国です。
   
 スペイン語の正式国名はクーバです、CA(キャ)、CU(キュ)、は文字通りカ、クで、COはコでキョの発音はあません、キョはkioと書きます。ですからトウキョウはtokio (トーキオ)少数派だが(toquio)もあります。ぎゃあぎゃあ騒ぐグループにtokio というのがありましたが、あれは東京のことなんでしょうか? CI はシ、CEはセです。ついでに申し上げておくと、Hは発音しないので、ハバナはラ・アバーナ(La Havana)と言います。 
 ハバナの市内をざっと見ただけでもこの国の縮図を見ることができます。すなはち、2,3階建てのアパートが多いが各部屋には家具らしいものはあまりなく、あるのはキッチン道具と数脚の椅子とテレビとベッドくらいでしたが、近年は冷蔵庫や家電製品も入るようになりました。街には宣伝広告が一切ないのは社会主義の世界には競争原理が働かないので宣伝広告は不要だからだと言います。貧富の差をなくすのが社会主義な  
ので乞食(ホームレスのような)が居てはまずいけど(特に観光客に目のつく所に)、実際は乞食同様の物乞いがいるのも事実です。物不足で質素な生活のため余分な食料がないので犬が少ないのも特徴です。
 そして輸出品もユニークです。コーヒーとか砂糖はとにかく、音楽とか葉巻、ラム酒、そして大きなものとして、キューバ独特の形態といいますか、野球選手と途上国への医者の派遣です。彼らは国家公務員であって、稼いだ米ドルは国庫の収入になり、報酬はキューバの通貨ペソで貰います。時には売春婦も外貨を稼ぐ功労者だと比喩されたこともありました。フィデル・カストロが健在の頃は、彼の   
ことを話題にするときには、左の襟に人差し指と中指2本をあてて、議長を表す襟章を指すわけです。言葉で名指しはしませんでした。

 キューバはラテン音楽の発祥の地と言われています。ハバネラ(アバネラ)、トローバ、ルンバ、マンボ、チャチャチャ、ボレロ、コンガ、ソン、などなど多種多様です。人口は日本の十分の一にも満たないカリブの島国は独立するのも他のラテン主要国に比べ1世紀近くも遅かったものです(1898年米西戦争の結果)。それにもかかわらず、キューバはこと音楽に関してはまさに大国です。アルゼンチン・タンゴも西アフリカからキューバ経由でラプラタ河口地帯に売られてきた、奴隷達が持ってきたアフリカのリズムが、タンゴに発展したという説もあります。キューバにはこんなに多種多彩な音楽(みなラテンリズムの代表的のようなもの)があると言うことを下記にご紹介して、キューバ編を閉じたいと思います。

1.ハバネラ(現地ではアバネラ)
 世界で最初に始まったラテン音楽です。その源流はヨーロッパから伝えられたコントラダンサ(カントリーダンス)ですが、アフロ的なリズム感覚を持つ。19世紀半ばにハバナの社交界で流行しました。イタリア
民謡「オー・ソレミオ」や日本の「枯れすすき」「別れの一本杉」などはこのリズムを使った曲です。

2.カンシオン・クリオージャ (トローバ)
 スペインからの移民がギターをキューバに持ち込みました。そして2世3世の時代になり、キューバならではの感覚を持った戯曲もつくられるようになりました。中南米やカリブ海生まれのヨーロッパ移民の子孫の白人をクリージョと呼びますが、キューバ生まれの戯曲をカンシオン・クリオージャといいます。その作者をトロバドール(吟遊詩人)と言い、作品をトローバとよびます。

3.ボレロ
 カンシオン・クリオージャにギターの伴奏がつき、それが発展したのがボレロです。

4.グアヒーラ
 内陸部の農村地帯で生まれた農民の歌で、19世紀に入って盛んになりました。グアヒーラの代表作「グアンタナメーラ」は1960年代に米国のビート・シンガー達の唄で世界的に流行しました。

5.ダンソン
 1で述べたダンサが発展して生まれたダンス音楽。ダンサより一層アフロ的な感覚が強いダイナミックなダンス音楽です。

6.チャチャチャ
 器楽音楽のダンソンのメロディやリズムをシンプルにして、代わりに唄をいれ、コーラスも入りました。当初は唄入りダンソンと呼ばれていました。
                                   
7.ルンバ
 アフロ系の音楽は神々に捧げるものが多く、その場合聖なる太鼓がつきものです。太鼓の響きに仲介されて人と神の交流が始まるからです。ルンバは古くからそうした伴奏音楽から派生したと言われてきました。こうしたキューバ固有のルンバとは別に、社交ダンスにもルンバがあります。1930に発表された「コーヒールンバ」が大ヒット、世界的ルンバブームに火がつきました。

8.コンガ
 カーニバルの行列がパレードする時の音楽。

9.ソン
 18世紀後半から200年以上も昔からキューバ東部のオリエンテ州にあったと言われるダンス音楽。
古くから「キューバ音楽はスペインのギターとアフリカの太鼓の結合によって生まれた」と言われてきましたが、ソンはアフリカとヨーロッパの結合で生まれたと言われます。ソン(son)は、英語のサウンドと同意義ですが、キューバでは基幹音楽ともいうべき音楽の名称として知られています。

 ラテンアメリカ諸国は今でも経済はフラフラ、格差は広がり治安も落ち着きませんが、キューバは私の知る限りでは、旅行者にとって安心できる国です。メキシコへ行ったら是非、ちょいと飛んでみてください。カンクンからだと、たった45分です。

おわり

2020.10.1
(つづく a continuacio’n)


(記事の一部を竹村 淳著「ラテン音楽パラダイス」講談社文庫より使わせて頂いた)

 

 

▲INDEX

 

ラテン音楽のお話し (No.4)  

 

by Kuno Joaquín Casimilla

 

ペルー ~ バルスペルアーノ(ペルーワルツ)

 

 1074年頃、私は仕事の関係で一人のペルー人と出会いました。当時、彼はまだ30歳そこそこの若者で、当時の国際通信の花形KDDへ研修に来ていた電気通信技術者でした。私は彼と新宿で天麩羅を食べ、彼がお祭りのようだと驚いた、ネオンの洪水の街から品川駅近くのホテルに帰ったのは午前様でした。ソファーに腰かけて一服していると、彼が来日して真っ先に買ったと言うテープレコーダーから、聞きなれない、テンポの速いラテンの曲が流れてきました。
 彼が遥か地球の裏側の異国での孤独を慰めるために持ってきたカセット・テープは2本ありました(注)。聞く程に、その8分の6拍子のマリネラに似たメロディーが、乾いた喉に染み込むビールと共に、私の心の奥深く、みるみる広がっていきました。でもよく聞くと歌詞は暗い感じのものでした。それでも、ペルーの音楽というと、それまではケーナやチャランゴの伴奏のついた、アンデス高原地方のフォルクローレに代表されるものばかりだと思っていた、私の常識はショックを受けました。これが私とバルス・ペルアーノアとの出会いです。
(注)この2本は、「私のギターが泣くとき(Cuando llora mi guitarra)」もう一つは「捨て子(El expósito )」という曲です。はじめの曲はバルス・ペルアーノの中でも、ペルーのクンパルシータと言われる「ニッケの花」と共に、ベスト3に入る曲です。2曲とも日本人好みのメロディーです。

 一般にペルー音楽と言うと、日本では 「コンドルは飛んでいく(El Co'ndor pasa)」がすぐ思い出されます。しかし、これはアンデス山中のフォルクローレであって、ペルー音楽を代表しているとは言えません。何故かと言うと、ペルーには海岸地方(ペルーの都会地域を意味する)には、リズムの早いフォルクローレがあり、 フォルクローレ・デ・ラ・コスタと言って、はやりペルー音楽としての立派なジャンルが確立されているからです。
 16世紀の始めまで、北はコロンビアの南部から東はボリビア、アルゼンチンの北西部、南はチリの中部までを、その版図に収めていたインカ帝国は、多くの種族の集まりでした。その指導的民族はクスコを中心として、ほぼ現在のボリビアを故郷とするケチュア族です。インカの子孫であるケチュア族は、かっての首都クスコを中心に、アンデスの高原で農耕生活を送っていて、その生活圏においては、国境線をあまり意識していません。そのため、この民族に生まれたアンデス・フォルクローレは、ペルーの歌とかボリビアの歌とか言うよりは、インディヘナの歌なのです(インディオのこと、インディオは差別用語)。「コンドルは飛んで行く」は、このアンデス・フォルクローレの一つなので、ペルー人はペルーの歌だと言い、ボリビア人はボリビアの歌と言います。従って、「コンドルは飛んで行く」は、本当はペルー音楽の4分の1の代表と言うべきかもしれません。

 海岸地方のフォルクローレ (フォルクローレ・デ・ラ・コスタ)とは、バルス・ペルアーノ(ペルー・ワルツ)を始め、ウワイノ、テンデーロ、フェステッホ、マリネラ、ポルカなどを総称したもので、ヨーロッパと交易をする船の船員が運んできたものや、奴隷として連れてこられた黒人が、アフリカから持ち込んできたものです。マリネラは、元祖と称する 「太平洋戦争、(ボリビア・ペルー連合軍対チリ戦争、1882~1885) 」 の時に、軍艦の乗組員の士気を鼓舞するために作られたものだと言われています。これらの中の代表的なものであり、海岸地方のフォルクローレの中で最も都会的な音楽であるバルスについて、ペルー政府文化局が出版した「El waltz y el vals criollo (本場のワルツと地元のワルツ) 」と言う本には、次のように書かれています。
 『バルス・ペルアーノの起源はウインナ・ワルツである。スペイン人が南米を征服した後、今のボゴタ、ブエノスアイレスと共に、リマに副王府を設けたので、この地にヨーロッパから多数の役人が集まるようになり、彼らが持ってきたワルツは、中流階級以上の人々の間で19世紀末まで愛好されていた。それが、20世紀に入ってから、大衆の中にも広がり、下町の長屋の狭い中庭や、路地裏などでも踊られるようになってきた。それと共にステップも、狭い場所で踊るため、こちょこちょとした、せわしないものに変わり、リズムも当時流行していたマズルカ、ガロップス、クアドリージャ、ホータと言った、早い曲の影響を受けて、本来の4分の3拍子が半分の8分の6拍子に変わってきた』。と書いてあります。従って、比較的歴史の浅い音楽で、ペルーの「ラ・クンパルシータ」と言われる、バルス・ペルアーノの代表曲「ラ・フロール・デ・ラ・カネーラ(にっけの花)」も1950年頃の作品で、作詞作曲をした、チャブーカ・グランダと言う女性は1983年まで健在でした。 バルス・ペルアーノとしての形態が整い、インディヘナとの混血が多いペルー人の中に定着するのにつれて、本来のヨーロッパのリズムの中に、アンデス地方の独特のメロディーがこもるようになり、日本人にも共感の持てる音楽になってきました。歌の歌詞と言うものには、愛だ恋だの涙とか悲しみなどと言う言葉はつきものですが、バルス・ペルアーノにも沢山でてきます。

 昔から、母国のアルゼンチン・タンゴを始め、ラテン音楽には人並み愛着を持ってきた私にとって、バルス・ペルアーノに出会ったときには、世界にこんなにも心に焼き付く音楽があったのか、と思わず感嘆しました。そしてまた、こんなにも素晴らしい音楽が、ラテン音楽フアンの多い日本で、殆ど聞かれないのは何故かと不思議に思っていました。
 かって、私が東京に住み始めた頃、西新宿のKDDビルの31階にFM東京がありました。1975年頃の話です。もう45年も前になりますが、時々行く地下の社員食堂は出演する俳優や歌手などで賑わっていました。そこでI さんと言うプロデューサーと知り合い、彼の担当する昼の番組の中で、バルス・ペルアーノを1曲づつ 2週に渡って放送してもらったことがあります。
さて、反響はいかにと胸をときめかせて期待していたのですが、僅かに放送局内で、「聞き慣れない音楽だな、リズムは良いがなかり泥臭い。歌詞はスペイン語のようだけど、何処の国かな」と言った人が一人いただけで、一般聴取者の反応は全くなく、どんな反響があるかと興味を持っていた私の期待は完全に裏切られてしまいました。「日本では、どんなジャンル(例えば鳥の鳴き声だけとか、波の音だけとか)のレコードでも最低600枚は売れるんだそうです。しかし、それでは商売にならない」と、Iさんは言っていましたが、所詮バルス・ペルアーノも、その類なのかとひどく落胆いたしたものです。
 日本にはラテン音楽フアンが大勢いる。勿論ペルー音楽が大好きな人も多い。しかし、ペルー音楽と言うと、大方がアンデス・フォルクローレと思っているのではないかと思います。しかし、バルス・ペルアーノには、民衆の日々の生活の中での喜怒哀楽の感情が、すすり泣くようなギターの音に込められたセンチメンタルなメロディーと共に、ある時はオーバーに、ある時は切々と歌い込まれています。これを聞いた人は、きっと、主にお祭りの踊りのために作られたフォルクローレとは全く違った、ペルー音楽の素晴らしさに、新しい目を開いてくれるものと思っています。

 バルス・ペルアーノを歌った歌手の中で、代表的な歌手として知られているのが、ルチャ・レジェスです。彼女は、 ラ・モレーナ・デ・オーロ・デル・ペルー(ペルーの黄金の褐色人)と言われた歌手で、肌も髪も濃い褐色で、でっぷりと肥った堂々たる体型でした。肥っていたため持病の心臓病に悩まされ、1973年10月に40歳の若さで死去しました。新聞は1400万国民が等しくその死を悲しみ、涙を流したと伝えています。歌手人生が短かかったこともあり、吹き込んだレコードは7枚だけです。
 しかし、彼女は、海岸地方のフォルクローレの代表的歌手の一人だったので、ポルカ、マリネラ、ウアイノ、フェステッホなど、どんなジャンルの歌もこなしましが、やはりバルスが圧倒的に多い。ギターとピアノによるメランコリックなメロディーの伴奏で歌うのですが、その分厚い唇から流れる歌詞は極めて明瞭で、声は体つきに似合わぬ甘い響きを持っていました。その上に彼女の歌は前奏・間奏が素晴らかったものです。
 彼女のレパートリーの中でも、死期を悟った病院のベッドの上で歌ったと言われる、 「ミ・ウルティマ・カンシオン(私の最後の歌)」が出色です。死期を悟ったとき、フアンに感謝しながら、こぼれる涙を拭きながら、涙声で歌うラストが印象的です。このレコードは彼女が死んだ後に発売されたため、一層の感動を呼んだと言うことです。

 少し話は変わります。1964年5月24日、東京オリンピックのサッカー南米代表決定戦、ペルー対アルゼンチンの試合が、リマの国立競技場で行われました。この試合は後半試合終了間際まで0対0だったのが、レフェリーの不手際(オフ・サイドを見落としたためと言われている)で、ペルーが1点を奪われたため、観衆が騒ぎ出しました。この試合は引き分けでもペルーが代表権を得ることになっていたのです。これを静めるため警官が発砲したので、逃げ惑う観衆に押し潰される人々が続出、死傷者が800人もでると言う大惨事が起きました。敬虔なクリスチャンであったルチャ・レジェスは、この事件で親を失った孤児達を多数自宅に引き取り、死ぬまで面倒を見ていたと言う、美しい逸話が残っています。
 ルチャ・レジェス亡き後も1970年代は、チャブーカ・グランダ、ヘスス・バスケス、アリシア・マギーナ、ベロニカ、セシリア・ブラカモンテなどのベテランを始め、セシリア・バラッサ、エバ・アジョーンなどの若手歌手 (何故かペルーには男性のソロ歌手は殆どいない) の他に、ロス・モロチューコス、サニャルト兄弟、ギターの名手オスカル・アビーレスのグループなどが活躍して、バルス・ペルアーノは人気を保っていました。日本では、丁度その頃、「ボタンとリボン」で、戦後の暗い世相に明るい風を吹き込んだ、池真里子さん(2001年に亡くなった)が、銀座のペルー料理店でバルス・ペルアーノの名曲で、一番歌詞が長いと言われる「ホセ・アントニオ」を歌い始めました。(ちょっとだけ内輪話をすると、彼女に歌詞を提供して進めたのは私です)。

  しかし、その後、"失われた80年代"と言わしめた、ラテン・アメリカ全域を襲った、凄まじい経済混乱の嵐は、ペルーにも容赦なく押し寄せ、一時は年間1万パーセントを越えるハイパー・インフレなどもあって、市民生活はすっかり沈滞してしまいました。こうしたことから、リマ市内の下町で繁昌した一流店、パリサーダとかハロン・デル・オーロなどのペーニャ(ライブ・ハウス)も相次いで姿を消し、若手や新人の育つ環境がなくなってしまったり、若者の嗜好がロックなどへ変わったりしたことなどで、バルスは以前のような人気を失ってしまいました。 近年は、友人を通して手に入れたCDやDVDなどを通して、バルス・ペルアーノを聞く程度ですが、エバ・アジョーンとかセシリア・バラッサ、ルシア・デ・ラ・クルスの他は、名の知れた歌手がいないように思えます。いや、いないのではなくて、私自身が歳をとり、バルス・ペルアーノに対する執着心がなくなり、新曲への関心が薄れ、新しい媒体の入手に熱が無くなった為かもしれません。でも、今でもラテン音楽で一番好きな曲は、ときかれると、ためらうことなく「我がギターが泣くとき」を挙げます。ちょこちょこ古いCDやユーチュブで聞いています。「捨て子」と共にこの二つの曲は、今でもちゃんと歌詞をおぼえていて伴奏がなくても歌えます。若いころの記憶力は恐ろしいですね。もう一度申し上げますが、皆さんも是非一度、バルス・ペルアーノを聞いてみて下さいさい。
 では、また次回まで。   つづく A continuación

(写真提供、筆者 2020.9.4 )

 

 

▲INDEX

 

ラテン音楽のお話し (No.3)  

 

by Kuno Joaquín Casimilla

 

タンゴ ~ ア・メディア・ルス A media luz 淡き光に

 

 今月はタンゴです。タンゴには2種類あるのはもうご存知だと思います、一つは1928年にヨーロッパから入ってきた、コンチネンタル・タンゴです。1920年代にアルゼンチンからフランスに輸入されたタンゴを、ヨーロッパ人が演奏しようとしたが、バンドネオンの難しい操作がうまくこなせず、タンゴ独特のザッザッザというスタッカートが出せない。そこでバンドネオンの代わりにアコージョンを用い、スタッカートの部分を柔らかく丸めてメロデイー主体のタンゴにしたのが日本で言うコンティネンタル・タンゴです。もう一つは、言わずと知れた本場アルゼンチン・タンゴです。前者の方が日本に来たのは速いのですが、本場アルゼンチン・タンゴのリズムとテンポの歯切れの良さが日本人の心を捉え、日本は世界で本場についで、2番目にアルゼンチン・タンゴ・フアンの多い国と言われるようになりました

 アルゼンチン・タンゴといえば、泣く子も黙る、じゃないが、時の大統領の名前は知らなくても、この曲を知らない人はいないと言う 「ラ・クンパルシータ」 が代表ですが、この作曲者はアルゼンチン人ではなく、エラルド・エルナン・マトス・ロドリグエスと言うウルグアイ人です。 だからという訳ではないのですが、今回ご紹介するのは、ラ・クンパルシータではなく、「ア・メディア・ルス」と言う抒情詩的タンゴです。
 なぜこれを選んだかというと、第一回でも申しましたが、私の大好きなタンゴで、かつ歌詞が電話に関係しているからです。それは電話番号の部分に秘密があるからです。ただ、これを知っている人は、タンゴの解説者を自尊している人でも知らないと思います。私もKDDの友人のKさんに聞いて知ったのですから。事実、大学でラ米音楽を講義している東大の先生も知りませんでした。ブエノスアイレス人もほとんど知らないと思います。

「ア・メディア・ルス」
 例によって題名の意味から入りましょう。A media luzの、ア は英語の to とか for に当たる言葉ですが、それ以外にも沢山の意味があります。mediaは半分、という意味で、luzは 光です。mediaの反対の”全部”にすると、”真昼のように明るい”というような意味ですが、半分というのは、”ぼんやり、とか”ほのかな” という意訳で、”淡き”、とも同意義です。a がないとただの ”淡き光” になってしまい情緒がありません、 a が”に”に当たります。それでは「ア・メディア・ルス」の”秘密”の部分までの歌詞を対訳で紹介しましょう。

<ア・メディア・ルス>

(注1)1階は、プランタ・バッハ(木の下)と言って階とは言いません。2階から1階、2階、3階と言います。
(注2)ポルテーロは管理人ですが、日本のマンションの管理人より多彩な業務をこなします。
(注3)古い伝統を持つ家具店。KDD事務所の近くにあったが1980年代の超インフレ時代に倒産しました。
(注4)原文は「答える電話」ですが、ここでは、”すぐ出る”と訳しました。
(注5)ブエノスアイレス市の電話自動化は、この曲ができる前年の1923年なので、慣れていない人が多かった。temorは恐怖、不安などの意味ですが、ここでは、遠慮なく、と言うような意味だと思います。 
                      
 このタンゴは、作詞カルロス・レンシ、作曲エドアルト・ドナートで1924年(大正⒔年)にできた曲です。この歌詞には主人公がいません。娼婦(多分高級?)の部屋を彷彿させるもので、当時のアパートの中の様子をうかがい知ることができるものとして有名です。1924年当時にこの部屋に、前年の1923年に自動化が始まったばかりの自動電話があったということは、職業柄?必要としたとしても、また社会構造が違うと言っても、アルゼンチンの先進国ぶりが想像できます。
 日本の電話自動化は、アルゼンチンより11年早い、1912年(明治45年)に京橋局からです。然しその後の普及は遅く、一方1923年に始まったブエノスアイレス市の自動化は4年後の1927年には市内中心部は殆ど自動化されていました。

 そこで、秘密の話です。電話番号が フンカル(Juncal)局1224番となっています。この曲の舞台のコリエンテスと言う通りは、両側がアルゼンチンの経済社会文化活動の中心地です。(政治活動の中心地と隣接している)。ブエノスアイレス市の写真に必ず出てくる広い7月9日通りと十字路を作り、その真ん中に四角の尖塔(オベリスコ)が立っている通りです。丸の内のような環境で、かっての東京銀行の支店もコリエンテス420番地にあります。偶数番地ですから凡そ40米離れた並びです。
 作詞者は、この地域がブエノスアイレス市内で最も重要な地域ですから、すでに自動化されているのは知っていたと思います。電話番号を1224とした理由は分かりません。しかし、電話局名はコリエンテスとしたかったと思いますが、歌詞1番の冒頭にコリエンテスと言う言葉がでているので、同じ言葉を2度使うのを嫌ったのだと思います。そこで、自分が住んでいる地域の電話局名フンカルを付けたものと思われます。しかし、この時はフンカル局はまだ自動化されていませんでした。 しかし、コリエンテス地域にフンカル局の名前がでてきても、特に気する人はいなかったでしょう。フンカルという場所は7月9日通りの北の端近くで、コリエンテス地区から約2キロ離れています。凡そ30年後にエビータが永眠するような、特権階級の霊廟があるレコレータ墓地に近い、閑静な高級住宅地域です。つまりこの曲ができた頃はすでにコリエンテス地域の電話は自動化されているし、歌詞もそのように書いているのに、電話局名はわざわざ他所の地域の自動化されていない電話局の名前を付けたフィクション、つまり事実ではないことを書いたということです。最も歌詞全部がフィクションだと思えばどうということはありませんが。この歌詞の矛盾に気がついたKさんは、かってアルゼンチン電気通信公社=Entelに、コリエンテス局とフンカル局の自動化の時期について確認したと言っていました。 ささやかだけど、Kさんと私以外誰も知らない、有名なタンゴの歌詞の ”フィクション”のお話です。 おわり

では、また 次号まで ( つづく A continuación )

2020.8.1

 

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ラテン音楽のお話し (No.2)  

 

by Kuno Joaquín Casimilla

 

ベッサメ ムーチョ Bésame mucho

 世の中、相変わらずコロナ、コロナと緊張しています。其れはさておき、早速講義にはいりましょう。

 ラテンアメリカ音楽(以下ラ米音楽と言います)の話をする場合、二通りの話し方があります。一つは、すべてのラ米音楽のルーツをたどり、その後発展しながら各国々や地域に分派し、そこでさらに特徴を持ったものに発展していったというようなことや、リズムは何分の何拍子だとか、どんな楽器が使われるかなど、学術的に学ぶ話です。私が大学で勉強したのはこの方式でしたが、あまり面白くありません。二つ目は、日本人にもよく知られた人気のある曲をとりあげ、作詞・作曲者はどんな人だとか、題名や歌詞の意味をささやかながら解説したり、曲にまつわるエピソードなどを紹介する方法です。私は後の方法で行こうと思います。ということで、ラ米地域の一番北のメキシコから始めたいと思います。

 

「ベッサメ ムーチョ」 
 ベッサメとは、”くちずけをする”という動詞besar(ベサール)の二人称命令形besaに、一人称の直接目的語meを付けた形で、「私にくちずけをして」、という意味です。後ろにmeがついたためアクセントの位置が繰り上がり正常位置ではないeの上に来るので、アクセント記号を付けます。普通はベサメと書きますが、正確にはアクセントをつけるため、ベッサメです。ただ、日本語は言葉の最初にアクセントがくるのでベッサと書かなくても自然に”ベ”にアクセントがつくのでベサメと書いてもベッサメになります。ベサメに似た言葉で、besana(畑の畝の溝)がありますが、この場合はアクセントの位置は文法通り後ろから2番目の母音 a にあるので記号は不要です。発音はベサーナです。 ムーチョは、もうご存知の”沢山”という意味です。

 音楽の著作権有効期間は世界の大多数の国は作者没後50年間です。あらゆるジャンルで、古い有名な曲で著作権の切れた名曲は沢山ありますが、アルゼンチンタンゴの名曲ラ・クンパルシータもとっくに50年以上たっていますから、世界中の誰でもが、どこでもいつでも自由に演奏できます。
 地球はいつもどっかが昼で反対側は夜です。昼も夜も世界中のどこかでラ・クンパルシータが演奏されていると言われています。それと同じ位に演奏されていると言われているのが、ベッサメ ムーチョです。日本人も大抵の大人は知っているでしょう。この歌を知らずに、ラ米音楽云々というなかれと言っても言い過ぎではありません。この歌は、ピアニストで歌手のコンスエロ・ベラスケス・トーレスという女性が1941年に発表した歌です。コンスエーロと末尾が 0 で終わっている名前は男性名詞なので私は、てっきり男性だと思ったら、女性の名前でした。辞書にもわざわざ「女性の名前」とでています。

 日本では1953年にトリオ・ロス・パンチョスが来日して歌って一挙に流行しました。有名にはなりましたが、初めはダンスホールのチーク・ダンス(今の若者は知らない言葉かもしれません)向きの曲との印象が強かったものです。日本語の歌詞が「もっと キスして、・・・もう一度、もう一度かわすくちずけ・・・・」などといかにもダンス向けに訳されていたし、メロディも甘ったるい調子です。しかし、原文の歌詞を読むと、、「今夜が最後の夜になるかもしれない・・・ 」とか「君を失うのが怖い・・・」とか「明日は多分、僕は君からうんと遠く離れた場所にいるだろう・・・」という意味になっています。私は日本語訳と原文は違うな、とは思っていました。訳は自由ですけど。

 それが、NHK・FM放送のディスク・ジョッキーを長年やっていた竹村 淳さんの書いた『ラテン音楽 名曲 名演 名唱 ベスト100 (1999.10発行) 』 という本を読んで、そうかと目から鱗が落ちました。つまり、コンスエロが女友達の恋人を病院へ見舞いに行った折、友人にせがまれて作ったものだというのです。友人の彼氏はいまわの際にあり、今生の別れに彼女にくちずけを求めていた様子を表したものだとというのです。それならば、「君を失うのが怖い・・」とか「遠くに離れた・・・」もつじつまが合います。納得がいきました。ただ、このエピソードが本当かどうかは、著者にも自信がないと書いてあります。

 そもそもメキシコ音楽の走りは、1519年スペイン人のエルナン・コルテスの侵入が発端です。ギターの伴奏でスペインの音楽が沢山はいってきました。サパテアード、コリードとか他にも沢山あります。メキシ湾岸のベラスコス州のソン・ハロッチョは米国ですっかり根を張りました。ベッサメ・ムーチョはボレロですが、日本ではマリアッチも知られています。マリアッチはハリスコ州生まれの音楽でメキシコを訪れる観光客は誰もが一度は聞くでしょう。正式にはガリバルデイ広場と言いますが、通称マリアッチ広場と呼ばれる広場には夕闇の訪れと共にどこからともなく、横に縞の入ったズボンにソンブレロを被ったマリアッチの制服を着た楽士が集まってきます。メキシコシティへ行ったら一度はこれを見ないと行った価値はないでしょう。民芸品でも音楽ものはマリアッチ楽団の陶器の人形が人気です。実際の編成は7~9人位ですが、土産屋に売っているのには7人構成です、6人になっているのは割れたりして減った欠陥品だと店の人は言います。最低7人で一組でなければならないそうです。 
 
 メキシコは日本から一番近いラテンアメリカです。フィリピンがラテンだという人がいますが、確かに、フィリピンはスペインに800年間もの間統治されていたので、ラテンと言えないこともありませんが、米西戦争で米国に負けて以来英語の国になってしまいました。今では、スペイン語は上流階級の中に僅かに残っているだけだと言われています。やっぱりアジアには合わないのでしょう。そういえば、マカオもポルトガル植民地だったけど、ラテンとの結びつきは聞いたことがありませんでした。メキシコは直行便もあるので行きやすいし、ここを足掛かりにして、ラ米音楽のルーツとも言われているキューバへ行くのもいいものです。真っ青なカリブ海を見下ろしながら1時間足らずです。 今回はこの辺で 次回まで さようなら (つづく A continuación)

2020.7.5

 

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ラテン音楽のお話し (No.1)  

by Kuno Joaquín Casimilla

 

 皆さんこんにちは、クーノ・ホアキーン・カシミージャと申します。アミーゴのセニョール・ウメモトにたのまれて、このホームページのラテン音楽欄になにか書いてくれないか、ということで、何か書こうと思います(文章は直してもらいました)。世の中、コロナ、コロナと緊張している時代ですが、音楽の世界にはコロナは関係ありません。これから始まります話を読んで、一息ついてください。

 まず、ラテン音楽と言うときの”ラテン”とはどうゆう意味かということから、説明しましょう。ラテンとは、紀元前に長靴のような形のイタリア半島の狭い地方に、ラティウムと言う所がありそこを言いました。ラテン語とは、その地方の言葉だったのです。それがローマ帝国の公用語になり、ローマ帝国が強大になるとともに、使用される地域も広がっていったのです。使われる範囲が広がるにつれて、いくつかの言葉にわかれ(俗ラテン語といいます)、その中の一つの派閥が、スペイン語、ポルトガル語、フランス語、イタリア語、ルーマニア語のグループになりました。これらをローマ帝国の言葉として一括してロマンス語といいます(正確には西ロマンス語と東ロマンス語が合わさったものです)。ラテン音楽のラテンとは、大元の言葉をとったものですが、そのラテンとアメリカを結び付けたラテン・アメリカと言う定義は難しいものがあります。日本人はアメリカと言うと、アメリカ合衆国を指しますが、南米の人たちからみると、北も南もアメリカ大陸なので、彼らは必ず北米 (ノルテ・アメリカーノ)とか合衆国(エスタードス・ウニードス)といいます。

 一口にラテン・アメリカと言うと、メキシコを含む中米、カリブ海諸島、南米大陸の国々で、スペイン語かポルトガル語を話し、ラテン文化を継承している国々のことを言います。
 フランス語もラテン語なので、 ハイチ、グアドルーペ、マルティニク、ギアナなども含まれます。ただ、フランス系住民が30%もいるカナダは一般的にはラテン・アメリカには入りません。 英語圏のジャマイカ、ベリーズ、スリナムもラテンと言うのは難しいところです。しかし、「中南米およびカリブ海諸国」と地理的範囲で言う場合は、言語、文化に関係なく、中米、南米、カリブ海諸国を言います。メキシコは地理的には北米ですが、中南米という場合でも、ラテン・アメリカという場合でも、どちらの場合にも含まれますが、「メキシコをふくむ中南米(およびカリブ海)諸国」とわざわざ言う場合もあります。

 言葉の話はこれくらいにして、肝心の音楽のお話しを始めましょう。上記のように、北はメキシコから南はマゼラン海峡のもっと南のウスアイアまでの広大な大陸と、さらにカリブ海の島々までを含む広い広い地域で栄えたラテン音楽には、この地域に住む人種(種族)と同じ位の数の種類があります。その中から、皆さんがご存じの歌を順番にご紹介していきましょう。
 しかし、歌は聞くものです、読むものではありません。ですから、どうやって書けばいいのか正直困ってしまいました。知っている曲を思い出させるように書くのか、誰が作ったのかなどを書くのか、はたまた、曲にまつわるエピソードでも書くのか、いろいろ考えました。そして、手元にあるいくつかの参考になる本を見ながら、私の経験や独自の知識などを織り交ぜて書いてみようと思いつきました。
 ただお断りしておかなくてはならないのは、こうした、無数にあるものの中から数を限って選ぶというときは、どうしても書く者の好みで選びます。なんでこんなものをとか、なんであれを選ばないのかとか、意見が必ず出てきますが、それは100人100色と言います通り、お分かりいただけると思います。 つづく (A continuación)

 

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