哀悼
目次
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■ 小阪雅春さんを偲んで
2024年5月2日ご逝去 | 2024年7月11日掲載、 | 訃報はこちら(要ログイン) |
哀悼
小阪雅春さんには、大手町の国際電報局テレックス課の時代から、新宿のKDD総研調査部でのKDD総研R&A(Reseach & Analysis)創刊時に至るまで、大変お世話になりました。 優しい性格と、信頼に足る誠実さが懐かしく思い起こされます。 ご冥福をお祈り申し上げますとともに、改めて、感謝の思いを伝えさせていただきます。
哀悼文掲載に対する小阪 幸子 様(ご令室)からのご返信
伊藤英一様の哀悼文を拝読させていただきました。 k-unetホームページを拝見させていただきました。 益々のご発展とご活躍をお祈り申し上げます。 7月17日 小阪幸子
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■ 大川典久さんを偲んで
2020年7月10日ご逝去、 | 2023年7月24日 | 41会の墓参に際して掲載 |
哀悼
もう役立つ薬がなく治療することはできないと、病院で言われた。 治療薬がないとは何事だろうと、アメリカのサイトをあさり、やっと新薬を見つけた。 あの日、「庭に小さな胡瓜ができているので、食べてみますか?」と妻が問うた。 真っ青な明るい空へ、晴れ晴れとし全く痛みのない体が空気の様に浮き、のぼり始めた。
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☞ 41回の墓参の模様は、こちら(41会のページ)をクリックしてご覧ください。
■ 小関康雄さんを偲んで
2021年9月4日ご逝去、 | 2022年2月28日掲載 |
哀悼の言葉 遠藤榮造
先日K-unetの同報メールで永い間のお付き合いを頂戴してきた小関康雄さんの訃報に接し慨嘆の至りです。 享年88歳とのことですから十二分に活躍されたご生涯であったと思います。 特に思い出に残るのは、小関さんがロンドン事務所長の頃!! インマル会議でロンドンにはしばしば出かけ、我が家の如くお宅にお邪魔してお世話になった。会議は国際海事機関~IMO~のロンドン本部などで開かれる場合が多く、会場への送り迎えは元より、飛行場の送迎などもご自分の車で面倒を見て頂いた。航空機で早朝にロンドン入りの場合、時差ボケ解消のため、ホテルで寝込まないよう、ゴルフ・プレイにお付き合い頂いたことも度々。 また、別投稿(百寿の追加のお話(後編)②)の本文中にも触れているように妻を連れたウイーンの休日を楽しみ、色々とご面倒をお掛けしました。 拙文ですが、思い出を綴りお悔やみとします。
k-unet副代表
年が明けてまもなく、会員の糸原さんから運営委員のもとへ小関さんの訃報が届けられました。小関さんは、私がデータ通信部に所属したときの部長でした。昨年9月にお亡くなりになっていたとのこと、まったく知りませんので、たいへん驚いたのは言うまでもありません。 日頃からk-unetにはいろいろなご支援をいただいていました。元部下の私にはいつも親しく電話をいただき、何度か仙川のお宅にパソコンのサポートなどのためにお邪魔したことがあり、また趣味が共通していたこともあって、MP3にした音楽ファイルをお届けにうかがったこともあります。最後にお話ししたのは、コロナ騒ぎが始まるよりもずっと前、電話でしたが、「狛江の老人ホームに入ったのでk-unetを退会したい」旨の用件だったと記憶します。そのときは、また音楽ファイルでも準備して、一度ホームにお邪魔したいと考えていたのですが、そのうちにコロナ騒ぎになってしまい、それも果たせぬままになってしまいました。 昨年新設したアーカイブサイトで、これまで小関さんからk-unetに寄せられた写真や投稿などがないか調べてみたところ、コンテスト出品作品や投稿写真が複数みつかりました。いずれも秀作で、主な作品を集めてスライドショーにしました。作品を鑑賞しながら小関さんを偲びたいと思います。
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■ 高橋靖典さんの追悼文
2021年5月16日ご逝去、 | 2021年5月25日掲載 |
高橋祐毅 令和3年5月16日(日)父高橋靖典が永眠いたしました。享年75歳でした。 私は現在仕事で米国に赴任しております。医師からの知らせを受けて4月30日(金)に日本に緊急帰国し、政府指定の二週間隔離の後、ようやく5月15日(土)に父と病室で再会することができました。 既に大変衰弱してはいたものの、かろうじて会話をすることはでき、コロナの影響で先延ばしになっておりましたが、父にとって念願の1歳の孫との初対面も果たすことができました。その時の父の泣き笑顔は一生忘れないでしょう。その後一気に気力が抜けてしまったのか、翌日眠るように息を引き取った次第です。 傍らに残された手帳には父のKDD時代の先輩・恩人にあたる皆様の連絡先がありましたので、一部の方に訃報の報告をさせていただきましたところ、吉澤様からK-unetの存在をご教示いただき、訃報の発出をご依頼しました。また、本K-unetサイトへの私からの寄稿についてもご提案いただき、木崎様の哀悼文を拝読いたしまして感謝の気持ちで一杯になり、大変恐縮ながらその勢いで筆を取った次第です。 振り返れば、私が物心ついた時からKDDは家族の生活の大半を占めておりました。部屋にはKDDのロゴが付いたカレンダーが掛かっており、いつも周りにはKDDの紙やペンなどがありました。私の人生で最も古い記憶は、3歳の時(1983年ごろ)、埼玉県新座市栗原のKDD社宅のもので、いたずらをして私が母に追い回されて、団地中を逃げ回っているホラー感覚の映像です。その当時は団地に同年代の子供たちが沢山いまして、団地の皆さんが実は全員父と同じKDDの社員の方々であるという認識など全くなく、小さな友人に囲まれ、只々安心・安全・安定な幼少期を過ごさせていただきました。今の日本企業では社員の家族まであのように手厚く守ることは体力的にも慣習的にも難しく、時代の恩恵を受けていたのだと思います。 KDDの名前を初めて意識的に認知したのは小学校受験の時です。面接の練習質問の一つに「お父様の会社はどちらですか」というものがありました。母から「KDDではなく”コクサイデンシンデンワカブシキガイシャ”と回答しなさい」と言われたのですが、6歳弱の私にはまるで早口言葉にしか感じず、どうしても覚えられなかったのです(当然、受験には失敗しました)。どうも電話の会社だということは認識しておりましたが、よく目にするNTTとの違いがわからず、幼稚園の先生からNTTとKDDは兄弟みたいなものと言われて、余計に混乱したのも懐かしく思い出されます。 父はその後、米軍関連の業務で、沖縄に単身赴任となり、私の小学校時代はほぼ家には不在でした。そのあたりから、どうも父親の仕事は特殊で大変そうだ、というのがぼんやりと見え始めたのかと思います。小学校3年生ぐらいからは夏休み・冬休みに私一人で沖縄に行くようになりました。指定のタクシーでKDD那覇支社まで移動し、支社の見学もさせていただきました。また、ひめゆりの塔の見学と嘉手納基地やキャンプ・フォスターの帯同家族としての見学がほぼ同日程でありましたので、歴史と現在の正反対の二つの生情報を同時に与えられ、子供ながら日本を取り巻く国際関係や地政学を突き付けられている気がしたのをよく覚えております。 父の顧客であった将校の方々やそのご家族のお家に訪問することも多々ありました。緊張から嫌気が差すこともあり、父の仕事を手伝うという大義名分がなければ、家でテレビゲームをやっていたところですが、今思えば国際交流を肌感覚で身に着けられる本当に貴重な体験でした。父は、私に将来役に立つ経験を積ませたいと考えていたのだと思います。お恥ずかしいことに当時の私は、逆に私が父に恩を売っているという勘違いの感覚でして、”労働の対価”としておもちゃを買ってもらっておりました。親への感謝というのは、自身が社会に出て、ようやくできるものだとつくづく思います。 その後、父がKDDを早期退職した後も、人生の場面場面でアドバイスをもらうことがありました。それらのアドバイスは「俺はこう思う」というものではなく“会社時代にこういうことがあった”、“会社の恩人からこういうアドバイスをもらったことがある”、”米軍の関係者とはこう接してみた”というKDDでの経験を踏まえたストーリであることが多く、その解釈は常に私に任されていました。時代背景は大きく違うものの、アドバイスを直接伝えるのではなく、経験を共有する伝え方により、私自身反発することなく、受け入れられたように思います。また、この意味で、私自身も知らぬ知らぬ間にKDD OBの皆様に間接的にご指導をいただいていたと言えると思います。 現在、私自身はNTTに入社し、米国関連業務に携わっております。時には連邦政府業務や米軍業務に関わることもあり、父と自身との不思議な縁について感じずにはいられません。さらに、マクロ観点で日本を取り巻く通信情勢を見ましても、5G/6Gの国際競争をベースにクアッドやシックスアイズ構想など通信の世界はより米国との強連携が求められており、そうした観点からもKDDの当時の米国・在米軍事業は、日米関係強化にも寄与した非常に公的な意味のある事業だったのではないかと今改めて感じている次第です。 生前、父はKDDの社員であったことを常に誇りにしておりました。素晴らしい上司・同僚の方々に囲まれた半生だったと思います。改めまして父に代わりまして生前のご支援・ご指導について御礼申し上げます。 長い文章になってしまいましたが、本文章をお読みになった方で生前の父について思い出話などありましたら、ぜひご教示いただければ幸いです。
木崎 洋
下の写真は2017年2月24日に歴代の米軍担当の有志が新橋の魚金で集まって飲んだ時の写真です。
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■ 牛尾哲久さんを偲んで
2021年5月10日ご逝去、 | 2021年5月18日掲載 |
楳本龍夫
5月16日の同報メールで、牛尾哲久さんが5月10日にご逝去された旨のお知らせが届きました。 たいへん驚きました。というのも、ちょうど1年前の昨年6月に「会員の広場」に投稿をいただき、また秋に実施したPCアートコンテストには組写真部門に一番乗りで応募されるなど、k-unetには多くの足跡を残していただいていました。昨年6月の投稿には続編があるということで、その到着を待っていたのですが、到着したのは原稿ではなく、訃報となってしまいました。
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