絵画を鑑賞しながらアフタヌーン・ティーを楽しむ、第2回です。暖かい紅茶が美味しい季節になってきました。コージーなひとときをお過ごしください。
6. イギリスで紅茶がひろまる
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ピーター・レリー キャサリン・オブ・ブラガンザ(1664年頃) ロイヤル・コレクション 蔵 ☞ 画像をクリックすると大きく表示されます。
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イギリスは、始めはお茶を手に入れるためにオランダを経由しなければなりませんでした。しかもそれらのお茶は中国や日本からの緑茶が主体でした。いつごろ逆転しお茶がイギリスで主流となっていったか。1637年、イギリス東インド会社の商船が、中国の広州から約50キロのお茶を積んでイギリスへ向かいました。ヨーロッパからアジアへの航海に要した時間は約8カ月、往復で1年半近くの歳月、海賊や病気などさまざまな危険も待ち受けていたでしょう、この長旅の末に手に入れたお茶が、どれほどの貴重品だったかは容易に想像がつきます。東インド会社というのは、17世紀初頭にイギリス、オランダで相次いで設立された、インド以東のアジア地域との貿易を特権的に行う会社で各地に商館を置いて活動の拠点としていました。
1657年、ロンドンにあるコーヒーハウス「ギャラウェイ」で初めてお茶が売り出されました。オランダからの輸入品でした。因みにコーヒーハウス(いまでいう喫茶店)の1号店は1650年オックスフォードで開店。コーヒーハウスは文字通りコーヒーを飲み、上流階級や商人たちが内外の最新情報を交換しお喋りをする場所でしたが、新しい飲み物としてお茶も登場してきました。お茶がいかに高価な品物であったか、お茶1gで銀2gが買えたほどです。コーヒーハウスはロンドンという町の発展とともに栄えていきます。17世紀後半―18世紀前半の最盛期には市内だけで3000軒、政治家も商人も文学者も、みな行きつけのコーヒーハウスを持ち、そこは談論風発の社交サロン、いわば民主主義の実戦場となりました。
いよいよ紅茶の出番です。イギリスは緑茶やウーロン茶より紅茶が自分たちの口にあうことに気が付いていきます。イギリスの水が石灰分を多く含み、硬度が高く、緑茶よりも紅茶に向いていたことも大きな要素でした。不発酵茶の緑茶はお茶の渋味のもとになるタンニン(カテキン類)が硬度の高い水ではほどよく出ず、発酵茶の紅茶はタンニンが多く含まれるためちょうどよい味になり、労働者階級にもお茶が広まっていくようになったのです。
イギリスでお茶を飲む習慣が広まったもうひとつの大きなきっかけは1662年チャールズ二世がポルトガルの王女キャサリン・ブラガンザと結婚したことです。政略結婚でした。ポルトガルはオランダのライバル、イギリスはオランダに対抗すべくポルトガルと手を組んだのです。チャールズ二世は清教徒革命によって共和制となったイギリスを追放され、フランスに亡命していましたが、クロムウェルが死亡した後の1660年、王政復古とともに帰国しました。キャサリンの嫁入りは、7隻の船にひとかたまりのお茶の他に満載の砂糖をイギリスに持参、ポルトガルではお茶は万能の薬、自分の身を守るためのもので、一種の精神安定剤として持っていきました。中国や日本からの茶道具や磁器の茶碗も持参し、お茶を飲む風習をイギリス王室に広める役割も果たしました。王室、ロイヤルファミリーは社会の流行のリーダーであり、このころから薬から飲み物へと紅茶の転換が始まり用途も大きく広がっていったのです。
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ロンドン初期のコーヒーハウス(1695年頃) 作者不詳 大英博物館 蔵 ☞ 画像をクリックすると大きく表示されます。
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砂糖は、キャサリン王妃が船を安定させるためにバラストとして積んできたとされますが、それだけではありませんでした。当時、砂糖は金にも匹敵する貴重な戦力商品。それに砂糖を入れるのは紅茶だけ。いつから砂糖を入れて飲まれるようになったのかはっきりしていませんが、キャサリンの持参品に砂糖が入っていたということは、少なくとも1662年の結婚の時までにはすでに砂糖入りの紅茶を飲んでいたという有力な証拠になるのではないでしょうか。
宮廷から上流階級へ、女性たちの間ではワインにかわってお茶が人気を集めるようになっていきました。しかしこのころオランダとイギリスは再び戦争状態に入り、1669年イギリスはオランダからお茶を買うことを禁止します。増えてくるお茶の需要をイギリスは、いよいよ自前で調達することを考えねばならなくなった。
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フィリップ・メルシエ 茶盆を持つ若い女性の肖像(18世紀) 個人蔵 ☞ 画像をクリックすると大きく表示されます。
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そこに、1717年イギリス初のティーハウス「ゴールデン・ライオンズ」がロンドンにオープンします。開いたのはトワイニング紅茶の創始者のトマス・トワイニング。高まるお茶の人気に「これはいける」と思ったのでしょう、紅茶専門店を開いたのです。ティーガーデンとも呼ばれ、殺風景なコーヒーハウスとことなり、インテリアに凝ったおしゃれな雰囲気で女性客の評判をとりました。この直後からイギリスでお茶の消費量が爆発的に拡大しはじめます。他のヨーロッパ諸国が圧倒的にコーヒーの国々であるのに、イギリスだけがコーヒーから紅茶の国へと変わっていった背景には、王妃キャサリンをはじめとしてお茶を好んだ女性たちの存在が無視できません。まさにその時、歴史は動いた、のでしょうか。
紅茶をイギリスにひろめた功績のある女性で他にも有名なのは、19世紀の中頃、アフタヌーン・ティーを始めたベッドフォード公爵夫人のアンナ・マリアです。当時のイギリスの夕食は午後8時頃からと遅く、昼食と夕食の間がかなりあいていました。しかも昼食は軽いものでおなかがすくことこのうえありませんでした。夫人は午後3時~5時頃までに、サンドイッチなど軽食を紅茶とともに食べることを始めたのです。訪れた客たちにふるまうと好評でたちまち広がりました。
公爵夫人の午後のティ・テーブルには、刺繍などレースをほどこした白い木綿のクロスが敷かれ、銀製ポット、ティ・スプーン、ボーン・チャイナのカップ、銀の茶こし、ミルク入れ、サンドイッチ用の皿、ケーキ・スタンドなどが、やがてそろっていきます。このような優雅な午後のティ・タイムは、これまでどこの国のいかなる家庭にも存在していませんでした。このヴィクトリア朝時代はやがて後期にいたると、ますます紅茶の種類や品質も豊富、そしていっそう上質となっていきました。そしてこの時代の人々にはヴィクトリア女王が範を示したとされる、良い家庭に対する強い憧憬があって、アフタヌーン・ティーの機会はそのようなマイホーム志向の中流階級の人々の間にも広がっていきました。歴史的にいって、イギリス人にはその国民性として家庭的志向は根強いものがありました。あの寒い北国では、とくに長い冬のあいだ暖炉を中心とした家庭のもつ温かさは、生活を営むうえでも欠かすことのできない要素であって、彼らが家庭志向になることは、きわめて当然のことでした。イギリス人の家にいくと、部屋の中心に暖炉があって、その周辺に座り心地のよい椅子やソファが置かれ、イギリス人が好む「コージネス」(暖かく心地よい)」の感覚がその家庭的雰囲気を醸し出しています。
イギリスへのお茶の輸入が安定するのは、1717年、中国と直接茶貿易を行えるようになってからでした。輸入が増えれば人々がお茶を飲む機会もふえ、多く飲めばさらに輸入をふやす。こうしてイギリスにおけるお茶の急速な広がりがうかがえます。フランスではカフェオレ、イタリアはカプチーノとエスプレッソ、オランダはダッチコーヒーとそれぞれ有名なコーヒーがありますが、こうしてイギリスではコーヒーよりお茶が飲まれていくようになりました。
イギリス東インド会社がはたした役割の大きさも指摘できそうです。東インド会社は最盛期には茶貿易を独占し、供給量をコントロールし、価格まで思いのままにすることができたのです。このあと、イギリスはインドで茶樹を栽培するようになっていきます。
7.ニッポン紅茶の生まれるまで
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クロード・モネ 昼食(1871) オルセー美術館 蔵 ☞ 画像をクリックすると大きく表示されます。
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明治維新が体制づくりを急いでいたころの時代、新橋―横浜間に初めて鉄道が開通、群馬では富岡製糸工場が開業しました。製糸業は時の日本の最大の輸出産業、富国強兵と殖産興業の時代でした。
この時代、緑茶の輸出は大きく増えました、出先はアメリカです。アリカでは日本茶もメニューにそろっていました。アメリカで1869年大陸横断鉄道が完成したおかげで東部の都会へ物資を運ぶことが容易になっていたころです。大久保利通は外貨獲得のために有力輸出品を選びました。それらが生糸と紅茶(飲んだことも作ったこともない)、明治維新の無鉄砲さがみられますが外国で求められていたのは紅茶でした。
紅茶の日本のパイオニア、多田元吉(もときち)をご紹介しましょう。政府は1875年中国に人を派遣し紅茶づくりの実際を学ばせることにしました。選ばれたのが多田元吉(武士出身)、日本の茶業の発展に大きな足跡をのこすことになります。千葉県富津市生まれ、幕末 多田は徳川幕府の一員として大阪や長州にまで送られ、討幕軍の警備を担当したり戦闘にも加わっていました。多田は駿府(静岡)に移り住み、茶の栽培に本腰を入れます。静岡で茶業にとりくんだ元武士は多田だけではなく1000人あまりが大井川西方の牧之原に移住し茶園を開きました。静岡が日本一の茶どころとなった基礎は、彼らによって築かれました。
多田は、1875年11月通訳とともに中国に派遣されます。紅茶の産地をたずね歩き、各地で紅茶の見本や種子を買い集めては日本へ送り、翌年1月に帰国しました。ただし多田の中国行きは労多くして功少なしでした。中国の茶葉は緑茶向きで、紅茶にはインド、とりわけアッサム茶が向いていたのです。多田の中国視察は、紅茶づくりの手本として中国はふさわしくないとわかったことでした。紅茶づくりのモデルはどこにあるのか、インドでした。紅茶産業は、インドのアッサム地方で中国を圧倒するほど活発であるという情報が政府に入ったのです。1876年3月多田(47才)はインドへ、約40日かけて向かいました。日本人訪問の第1号としてダージリンに着きます。茶園を訪れ、紅茶工場を見学し、葉をもむための最新式の揉捻機(じゅうねんき)を操作させてもらうなど、紅茶の知識や技術を積極的に吸収していきました。もうひとつの産地アッサムへも向かいます。アッサムの環境は厳しく、多田らはゾウに乗り、ジャングルを分け入って茶園を訪れました。
1877年2月帰国、多田の観察はいかにも技術者らしく、とてもこまかく具体的。どのような自然でお茶は栽培されるのか、茶園風景も克明に観察しています。インド式紅茶づくりの指導と生産のため全国行脚、各地で紅茶ブームが一時的に訪れました。各地に紅茶伝習所が誕生、多田の紅茶製法を学んだ者は650人にものぼります。多田の指導でできあがった日本の紅茶は中国の紅茶よりはずっとよいできで、外国商社にも高く買われていき、販売会社が各地に作られていきました。しかし、国内で紅茶ブームが高まったといっても、大規模な茶園で大々的に栽培を行うインド紅茶に日本の紅茶が歯が立つはずがなく、またセイロン紅茶も評判をとり、日本はいよいよ不利になり紅茶ブームは早晩去っていったのです。その後多田はインドから持ち帰った種子の品種改良をしたり、緑茶の改良にもとりくみ、茶業への長年の功績がみとめられ、藍綬褒章(らんじゅほうしょう)を受賞するのを区切りとするように静岡市丸子に戻り、1896年、67才の生涯を終えました。
しかし国産紅茶はほろんでいません。紅茶のパイオニア多田が生涯を閉じた同じ静岡市丸子で、すばらしい紅茶をつくっている人がいます、村松二六さん。《丸子紅茶》という品質の良さで海外からも引き合いがきています。まろやかさ、ほんのりしたあまみ。村松二六さんは多田が眠る長源寺の近くに住み、子供の頃から「多田さんという偉い人」のことを耳にして育ちました。丸子の里を紅茶発祥の地として全国に知らせようと、紅茶作りに取り掛かりました。多田がインドから持ち帰った茶は、多田系インド雑種とよばれています。その後品種改良や交配を重ねてさまざまな紅茶の品種が生まれています。境内には多田がインドから持ち帰り育てた、茶の原木が残されています。丸子まで紅茶を買いにくるファンも少なくありません。一種の静かなる国産紅茶ブームなのでしょうか。
8.紅茶の効用
動脈硬化・高血圧 糖尿病 ガンの予防 老化防止 水虫退治 食中毒の防止 肥満防止 インフルエンザ・コロナの予防 成人病の予防
などがあげられます。
イギリスでは茶の価格が下がり大衆化により普及していったころ死亡率が低下していきました。産業革命のあった18―19世紀の都市の膨張とともに人口と疫病が増加しさらにコレラも蔓延していったなか、紅茶は沸騰した湯を使うため経口感染する殺菌を殺し、衛生面でも大きく役立ちました。
イギリス軍兵士は一杯の紅茶で寛ぎ伝染病をも遠ざけていたというお話があります。チャーチル厳命「紅茶はきらすな」 戦時中、チャーチル首相は「たとえ戦地で弾丸がきれようとも、紅茶は絶対にきらしてはならない」と厳命したのです。戦場で戦う兵士達の士気を鼓舞する為に、午前・午後の休憩時間に紅茶のサービスを続行しました。船舶、戦車、塹壕、病院、軍需工場、作戦本部、集会所、各種学校、教会 その他あらゆる施設に“給茶隊(主としてボランティア”が「マグ(カップ)・オブ・ティ」を供給。当時は、リーフティ(ルーズティとも言います)主体でしたから、大変な作業でした。挙国体制で「紅茶をきらすな」でした。こんな首相は他にはいないですね。英国ならではかもしれません。
チャーチル首相は、実は躁うつ病と心臓発作をかかえた不健康な身でしたが、91歳まで生きました(1965年没)。昼寝をすることも日課で、国会首相官邸に“昼寝用ベッド”も有りました。昼寝と紅茶が長寿に良かったのでしょうか? 因みにチャーチルは政治活動だけでなく、絵画と文学もたしなみ、“ノーベル文学賞”を受賞しています。なるほど“偉大な英国人”ですね。
最後にみなさんへのメッセージ:
紅茶の繊細な味わいを鑑賞する最善の方法は「静かに味わう」ことであり、それ以上に洗練された方法はない。カップ一杯の心理的効果、一杯の紅茶を飲むときに世の人々が求めるのは、穏やかな効果であると。
(2025.11.1)