石垣英明さんを偲んで

 2024年6月11日ご逝去、  2024年12月8日掲載

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k-unetでの足跡を 思い出しつつ

k-unet副代表
楳本龍夫

 

 寒さを感じる日がようやくみられるようになった2024年の11月中旬、突然、石垣英明さんが6月に亡くなっていたとの知らせが届きました。
 石垣英明さんは、これまでk-unetの運営委員を務められ、本年3月末に退任されたばかりで、10年以上の長きに亘りともにk-unetの運営に携わってきた仲間であり、また僧侶でもあることから、仏教についてご指導を仰ぐ師でもありました。驚きとともに、深い悲しみを抱いた
のは言うまでもありません。
 k-unetの活動では、デジカメ講習会のアレンジを中心に、多大な貢献をされてきており、k-unetサイトのいたるところに、石垣さんの活動の記録が残されています。これら膨大な足跡のうち画像のいくつかを集めてスライドショーにしました。これらを鑑賞しながら石垣さんを偲びたいと思います。
 また、最近のマンスリーレターを中心にピックアップし、下にリンクを記載しましたので、ご覧ください。
 石垣さんのご冥福をお祈り致します。

 

 

遺稿リンク集

☞ マンスリーレター No.161
阿弥陀如来に助けられた話(最後の寄稿)

* マンスリーレター No.155
人工知能は人間を超えるか

* マンスリーレター No.149
雑感二題(徳川家康 / 人生そのものの問い)

* マンスリーレター No.135
アインシュタイン博士と「仏教」

* マンスリーレター No.125
大河ドラマ「晴天を衝け」なぜ今、渋沢栄一なのか

* マンスリーレター No.113
スマートウォッチで健康管理

* KDD思い出アルバム(写真集)~ボストークテレコムの思い出~

* KDDの思い出文集~なぜお坊さんになったのか~

* 石垣英明さんのプロフィール(自己紹介)
~運営委員のプロフィールから

 

 


 

哀悼文掲載に対する及川 紀子 様(ご長女)からのご返信

 

父の哀悼文やこれまでの寄稿文を準備していただき、ありがとうございます。

父がk-unetに残した数々の文章、特に最後の寄稿を読むことができて嬉しく思います。
私の知らない外の世界での父の顔を見ることができました。

父が亡くなってから半年ほど経ちますが、いまだに「体調が悪いのに無理するから〜」という父を責める思いや体調の変化に気づいてあげずに申し訳なかったと悔やむ思いなど、父を思い出しながら色々と考えてしまいます。

私はあまり宗教とかはわからないので、病院で死にかけたときに助けてもらえたのは、今まで父が頑張ったからだと思ってます。

それもひとえに周りの方々の支えによるものと深く感謝申し上げます。

生前、父のことを助けて頂き、ありがとうございました。  

及川紀子  

 

 小阪雅春さんを偲んで

 2024年5月2日ご逝去  2024年7月11日掲載、 訃報はこちら (アーカイブサイト 会員専用ルーム、 要ログイン)

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哀悼

  

小阪雅春さんには、大手町の国際電報局テレックス課の時代から、新宿のKDD総研調査部でのKDD総研R&A(Reseach & Analysis)創刊時に至るまで、大変お世話になりました。

優しい性格と、信頼に足る誠実さが懐かしく思い起こされます。

ご冥福をお祈り申し上げますとともに、改めて、感謝の思いを伝えさせていただきます。

小阪雅春さん訃報に接して

       伊藤英一

 


 

哀悼文掲載に対する小阪 幸子 様(ご令室)からのご返信

 

伊藤英一様の哀悼文を拝読させていただきました。
主人のことを覚えている方がいらっしゃること、また哀悼文をいただけることは、とても有難く嬉しい限りです。
厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。

k-unetホームページを拝見させていただきました。
多種多様なイベントがあること、会員の皆様方が生き生きと行動されていることがわかります。また、今は活動出来ない方々もこのホームページから元気をいただいているのではないでしょうか。
私も時折k-unetホームページを拝見させていただき、元気をいただきます。

益々のご発展とご活躍をお祈り申し上げます。

7月17日  

小阪幸子  

 

 大川典久さんを偲んで

 2020年7月10日ご逝去、  2023年7月24日  41会の墓参に際して掲載

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哀悼

 

小さな胡瓜 ・・・ 静寂の間際に

 

もう役立つ薬がなく治療することはできないと、病院で言われた。
自宅に戻り、家族の皆に看病してもらっていた。

治療薬がないとは何事だろうと、アメリカのサイトをあさり、やっと新薬を見つけた。
ぜひ使いたいと医者に乞うと、未承認薬を使う訳にはいかないと、にべもなかった。

あの日、「庭に小さな胡瓜ができているので、食べてみますか?」と妻が問うた。
いつになく浮き浮きとした気分になり、「食べてみよう」と言った。
すごく暖かい気持ちになり、それまでの激しい痛みが消えていくようだった。
小さな胡瓜をつみ、支度してくれている妻を楽しみに待っていた。

真っ青な明るい空へ、晴れ晴れとし全く痛みのない体が空気の様に浮き、のぼり始めた。
妻が枕元に近づいてきたようにうっすらと見えた、お盆にのせた小さな胡瓜と。

大川典久君の墓参後に奥様からいただいたお話をもとに

ご逝去を悼みつつ  ・・・巻田文男

 

☞ 41回の墓参の模様は、こちら(41会のページ)をクリックしてご覧ください。

 小関康雄さんを偲んで

 2021年9月4日ご逝去、  2022年2月28日掲載

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哀悼の言葉

遠藤榮造 

 

 先日K-unetの同報メールで永い間のお付き合いを頂戴してきた小関康雄さんの訃報に接し慨嘆の至りです。

 享年88歳とのことですから十二分に活躍されたご生涯であったと思います。
 小生は101歳でまだ「うろちょろ」しており、恥ずかしい次第。小関氏のお宅は成城(仙川寄り)で遠藤の狛江宅とは一駅離れのご近所同志、歩けば旧・仙川街道を1本道でお小関宅の玄関でした。

 特に思い出に残るのは、小関さんがロンドン事務所長の頃!! インマル会議でロンドンにはしばしば出かけ、我が家の如くお宅にお邪魔してお世話になった。会議は国際海事機関~IMO~のロンドン本部などで開かれる場合が多く、会場への送り迎えは元より、飛行場の送迎などもご自分の車で面倒を見て頂いた。航空機で早朝にロンドン入りの場合、時差ボケ解消のため、ホテルで寝込まないよう、ゴルフ・プレイにお付き合い頂いたことも度々。

 また、別投稿(百寿の追加のお話(後編)②の本文中にも触れているように妻を連れたウイーンの休日を楽しみ、色々とご面倒をお掛けしました。
 東京オリンピックはコロナ禍で無観客となったが、東京開催が決まった当初は「お・も・て・な・し」の合言葉が流行していた。小関さんの「おもてなし」は忘れられない。

 拙文ですが、思い出を綴りお悔やみとします。

 

 


 

k-unetへのご支援 を思い出しつつ

k-unet副代表
楳本龍夫

 

 年が明けてまもなく、会員の糸原さんから運営委員のもとへ小関さんの訃報が届けられました。小関さんは、私がデータ通信部に所属したときの部長でした。昨年9月にお亡くなりになっていたとのこと、まったく知りませんので、たいへん驚いたのは言うまでもありません。

 日頃からk-unetにはいろいろなご支援をいただいていました。元部下の私にはいつも親しく電話をいただき、何度か仙川のお宅にパソコンのサポートなどのためにお邪魔したことがあり、また趣味が共通していたこともあって、MP3にした音楽ファイルをお届けにうかがったこともあります。最後にお話ししたのは、コロナ騒ぎが始まるよりもずっと前、電話でしたが、「狛江の老人ホームに入ったのでk-unetを退会したい」旨の用件だったと記憶します。そのときは、また音楽ファイルでも準備して、一度ホームにお邪魔したいと考えていたのですが、そのうちにコロナ騒ぎになってしまい、それも果たせぬままになってしまいました。

 昨年新設したアーカイブサイトで、これまで小関さんからk-unetに寄せられた写真や投稿などがないか調べてみたところ、コンテスト出品作品や投稿写真が複数みつかりました。いずれも秀作で、主な作品を集めてスライドショーにしました。作品を鑑賞しながら小関さんを偲びたいと思います。
 小関さんのご冥福をお祈り致します。

 

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 高橋靖典さんの追悼文

 2021年5月16日ご逝去、  2021年5月25日掲載

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父とKDDについて
― 恩人・同僚の皆様 に感謝を込めて ―

高橋祐毅
(高橋靖典 長男)

 令和3年5月16日(日)父高橋靖典が永眠いたしました。享年75歳でした。

 私は現在仕事で米国に赴任しております。医師からの知らせを受けて4月30日(金)に日本に緊急帰国し、政府指定の二週間隔離の後、ようやく5月15日(土)に父と病室で再会することができました。

 既に大変衰弱してはいたものの、かろうじて会話をすることはでき、コロナの影響で先延ばしになっておりましたが、父にとって念願の1歳の孫との初対面も果たすことができました。その時の父の泣き笑顔は一生忘れないでしょう。その後一気に気力が抜けてしまったのか、翌日眠るように息を引き取った次第です。

 傍らに残された手帳には父のKDD時代の先輩・恩人にあたる皆様の連絡先がありましたので、一部の方に訃報の報告をさせていただきましたところ、吉澤様からK-unetの存在をご教示いただき、訃報の発出をご依頼しました。また、本K-unetサイトへの私からの寄稿についてもご提案いただき、木崎様の哀悼文を拝読いたしまして感謝の気持ちで一杯になり、大変恐縮ながらその勢いで筆を取った次第です。

 振り返れば、私が物心ついた時からKDDは家族の生活の大半を占めておりました。部屋にはKDDのロゴが付いたカレンダーが掛かっており、いつも周りにはKDDの紙やペンなどがありました。私の人生で最も古い記憶は、3歳の時(1983年ごろ)、埼玉県新座市栗原のKDD社宅のもので、いたずらをして私が母に追い回されて、団地中を逃げ回っているホラー感覚の映像です。その当時は団地に同年代の子供たちが沢山いまして、団地の皆さんが実は全員父と同じKDDの社員の方々であるという認識など全くなく、小さな友人に囲まれ、只々安心・安全・安定な幼少期を過ごさせていただきました。今の日本企業では社員の家族まであのように手厚く守ることは体力的にも慣習的にも難しく、時代の恩恵を受けていたのだと思います。

 KDDの名前を初めて意識的に認知したのは小学校受験の時です。面接の練習質問の一つに「お父様の会社はどちらですか」というものがありました。母から「KDDではなく”コクサイデンシンデンワカブシキガイシャ”と回答しなさい」と言われたのですが、6歳弱の私にはまるで早口言葉にしか感じず、どうしても覚えられなかったのです(当然、受験には失敗しました)。どうも電話の会社だということは認識しておりましたが、よく目にするNTTとの違いがわからず、幼稚園の先生からNTTとKDDは兄弟みたいなものと言われて、余計に混乱したのも懐かしく思い出されます。

 父はその後、米軍関連の業務で、沖縄に単身赴任となり、私の小学校時代はほぼ家には不在でした。そのあたりから、どうも父親の仕事は特殊で大変そうだ、というのがぼんやりと見え始めたのかと思います。小学校3年生ぐらいからは夏休み・冬休みに私一人で沖縄に行くようになりました。指定のタクシーでKDD那覇支社まで移動し、支社の見学もさせていただきました。また、ひめゆりの塔の見学と嘉手納基地やキャンプ・フォスターの帯同家族としての見学がほぼ同日程でありましたので、歴史と現在の正反対の二つの生情報を同時に与えられ、子供ながら日本を取り巻く国際関係や地政学を突き付けられている気がしたのをよく覚えております。

 父の顧客であった将校の方々やそのご家族のお家に訪問することも多々ありました。緊張から嫌気が差すこともあり、父の仕事を手伝うという大義名分がなければ、家でテレビゲームをやっていたところですが、今思えば国際交流を肌感覚で身に着けられる本当に貴重な体験でした。父は、私に将来役に立つ経験を積ませたいと考えていたのだと思います。お恥ずかしいことに当時の私は、逆に私が父に恩を売っているという勘違いの感覚でして、”労働の対価”としておもちゃを買ってもらっておりました。親への感謝というのは、自身が社会に出て、ようやくできるものだとつくづく思います。

 その後、父がKDDを早期退職した後も、人生の場面場面でアドバイスをもらうことがありました。それらのアドバイスは「俺はこう思う」というものではなく“会社時代にこういうことがあった”、“会社の恩人からこういうアドバイスをもらったことがある”、”米軍の関係者とはこう接してみた”というKDDでの経験を踏まえたストーリであることが多く、その解釈は常に私に任されていました。時代背景は大きく違うものの、アドバイスを直接伝えるのではなく、経験を共有する伝え方により、私自身反発することなく、受け入れられたように思います。また、この意味で、私自身も知らぬ知らぬ間にKDD OBの皆様に間接的にご指導をいただいていたと言えると思います。

 現在、私自身はNTTに入社し、米国関連業務に携わっております。時には連邦政府業務や米軍業務に関わることもあり、父と自身との不思議な縁について感じずにはいられません。さらに、マクロ観点で日本を取り巻く通信情勢を見ましても、5G/6Gの国際競争をベースにクアッドやシックスアイズ構想など通信の世界はより米国との強連携が求められており、そうした観点からもKDDの当時の米国・在米軍事業は、日米関係強化にも寄与した非常に公的な意味のある事業だったのではないかと今改めて感じている次第です。 生前、父はKDDの社員であったことを常に誇りにしておりました。素晴らしい上司・同僚の方々に囲まれた半生だったと思います。改めまして父に代わりまして生前のご支援・ご指導について御礼申し上げます。

 長い文章になってしまいましたが、本文章をお読みになった方で生前の父について思い出話などありましたら、ぜひご教示いただければ幸いです。 

 



高橋靖典さんを偲んで

木崎 洋

 

 下の写真は2017年2月24日に歴代の米軍担当の有志が新橋の魚金で集まって飲んだ時の写真です。
 今年の1月23日には飲み屋ではなくZOOMで有志が集まって親交を深めました。その後、4月に入院されてわずか1ヶ月でのこの訃報に関係者一同驚くとともに本当に残念に感じています。
 高橋さんの自慢の長男家族は現在米国で活躍されていて、すぐに日本に向かうも政府指定の2週間の隔離の後ようやく会えたのが5月15日。初めてみる1歳になる初孫との対面を無事果たせてホッとされたのか、翌日には眠るように息を引き取られたと伺っています。
 高橋さんの周りにはいつも国籍を問わずユニークな人が集まりました。高橋さんが沖縄に赴任されていた時には、Camp Kinserを案内してもらい、その縁あってか大手町の在日米軍担当グループでもご一緒させて貰いました。日米合同演習のために1.544Mbpsで日米4カ所をループ型で接続するネットワークを構築していたときに、演習が始める前日になって一部の暗号装置が1.544Mbpsに対応せずにトラブっていることを高橋さんに相談すると「僕だったら現地に行くよ」とアドバイスをいただき、夜20時頃でしたがそのまま仙台に飛んで徹夜で1.544Mbps から 1.536Mbps に全て切り戻したのを思い出します。
 いつも冷静に、ジョークを忘れず、誰にでも真摯に対応されていた姿を見て、多くの後輩が育ったと思います。
 高橋さんのご冥福を心よりお祈りします。

 

新橋の魚金にて(2017年2月24日)

左から 松本静子さん、塚田一幸さん、矢部静樹さん、高橋靖典さん、渡辺聖治さん、木崎、吉澤生雄さん

 牛尾哲久さんを偲んで

 2021年5月10日ご逝去、  2021年5月18日掲載

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k-unetへの投稿 をみながら  

楳本龍夫

 

 5月16日の同報メールで、牛尾哲久さんが5月10日にご逝去された旨のお知らせが届きました。

 たいへん驚きました。というのも、ちょうど1年前の昨年6月に「会員の広場」に投稿をいただき、また秋に実施したPCアートコンテストには組写真部門に一番乗りで応募されるなど、k-unetには多くの足跡を残していただいていました。昨年6月の投稿には続編があるということで、その到着を待っていたのですが、到着したのは原稿ではなく、訃報となってしまいました。
 k-unetへお寄せいただいた牛尾さんの主な投稿や応募作品を集めてみました。ここでは、これらの作品を見ながら、改めて牛尾さんを偲びたいと思います。牛尾さんのご冥福をお祈り致します。

 

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2020年6月の投稿 

 

 2016年3月
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