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 島崎陽子の

美術散歩
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第10

 

夏目漱石と 女性像  
     

 

 夏目漱石関連本を読んでいたら、漱石はジャン=バティスト・グルーズ《少女の頭部図》のこの蠱惑的な女性像を好んでいたそうである。
 意外な印象を受けた。正直驚いた。私が創り上げてきた漱石の小説の中の女性像は、竹久夢二の描くような女性の中に芯の座った、一本気の通った細身の女性である。この絵に描かれているぽっちゃりした少女は想像外だった。
 1985年、当時上映された映画「それから」を観に行き三千代を演じる藤谷美和子が登場してきた時、う~ん、違うなあ~とうなったことを覚えている。あのぽっちゃり感は違う違う、私の描く女性像とは違う、と反感を覚えたものだ。しかしながら、映画監督の森田芳光は漱石好みの女性を知り尽くしたうえで藤谷美和子を選んだのかもしれない、と35年という長い年月が経った今、思い直しているところである。

 『草枕』に那美さんという、キ印とうわさされている女性が出てくる。
 鏡が池に散歩にきた主人公の余は、こんな所に美しい女の浮いているところを描いたらどうだろう、と元の所へ戻ったりと鏡が池周辺を歩きながら想像をめぐらす。ジョン・エヴァレット・ミレイ《オフィーリア》を思い起こす場面である。
 ここで余の脳裏に登場してくるのが那美さんである。
 「お那美さんが記憶のうちに寄せてくる。」
 しかし直後に次のように語る。
 「人間を離れないで人間以上の永久という感じを出すのは容易なことではない。第一顔に困る。あの顔を借りるにしても、あの表情ではだめだ。苦痛が勝ってすべてを打ち壊してしまう。といって無暗に気楽ではなお困る。…やはりお那美さんの顔が一番似合うようだ。しかし何だか物足らない。…あれに嫉妬を加えたら、どうだろう。嫉妬では不安の感が多過ぎる。憎悪はどうだろう。憎悪は烈しすぎる。怒? 怒では全然調和を破る。恨? …ただの恨ではまり俗である。色々に考えた末、しまいにようやくこれだと気が付いた。多くある情緒のうちで、憐れという字のあるのを忘れていた。憐れは神の知らぬ情で、しかし神にもっとも近き人間の情である。お那美さんの表情のうちにはこの憐れの念が少しもあらわれておらぬ。そこが物足らぬのである。」
 漱石は「憐れさ」を醸し出す女性を好んだようだ。
 『草枕』の最後の場面は、那美さんが元夫を汽車で見送るプラットフォームで見せた「憐れ」の表情で主人公余の絵がやっと出来上り、小説の完了となる。

 漱石は小説で花を象徴的に使っていることが多い。
 椿の花の狂おしい女性の擬人化の場面が『草枕』で描かれている。凄味を感じるほどだ。エロス。突き刺さってくるような魔力さえ感じる。長いがこの場面も抜粋してみたい。鏡が池での背景場面である。
 「向う岸の暗い暗い所に椿が咲いている。椿の葉は緑が深すぎて、昼見ても、日向で見ても、軽快な感じはない。ことにこの椿は岩角を、奥へ二、三間遠退いて、花がなければ、何があるか気のつかない所に森閑として、かたまっている。その花が! 一日勘定してもむろん勘定しきれぬほど多い。しかし眼が付けばぜひ勘定したくなるほど鮮やかである。ただ鮮やかというばかりで、いっこう陽気な感じがない。ぱっと燃え立つようで、思わず、気を奪られた、後は何だか凄くなる。あれほど人々を欺す花はない。余は深山椿を見るたびにいつでも妖女の姿を連想する。黒い眼で人を釣り寄せて、しらぬ間に、嫣然たる毒を血管に吹く。欺かれたと悟った頃はすでに遅い。…あの花の色はただの赤ではない。眼を醒ますほどの派出やかさの奥に、言うに言われる沈んだ調子を持っている。悄然として萎れる雨中の梨花には、ただ憐れな感じがする。冷ややかに艶なる月下の海棠には、ただ愛らしい気持ちがある。椿の沈んでいるのはまったく違う。黒ずんだ、毒気のある、恐ろし味を帯びた調子である。この調子を底に持って上部はどこまでも派出に装っている。しかも人に媚ぶる態もなければ、ことさらに人を招く様子も見えぬ。ぱっと咲き、ぽたりと落ち、ぱっと咲いて、幾百年の星霜を、人目にかからぬ山陰に落ち付き払って暮らしている。ただ一眼見たが最後! 見た人は彼女の魔力から金輪際、免るることはできない。あの色はただの赤ではない。屠られたる囚人の血が、自ずから人の眼を惹いて、自ずから人の心を不快にするごとく一種異様な赤である。見ていると、ぽたり赤いやつが水の上に落ちた。…あの花は決して散らない。…また一つ大きいのが血を塗った、人魂のように落ちる。また落ちる。ぽたりぽたりと落ちる。際限なく落ちる。」

 『草枕』では、主人公余が湯に浸かっている時、ガラッとお風呂場の戸が開き那美さんが知らぬ顔で入ってきて入浴する場面がある。唖然とする余ではあるが、那美さんの美しい裸体にしびれてしまう。しかし何かが起こるわけではない。
 漱石が女性の裸体を描いたのは全作品のなかで唯一この場面のみだそうだ。妖艶でどこか娼婦的な女性像を展開させながらも一線を越えないところで留まっているところに、漱石は決して女性を性的対象にはせず、女性に対してのリスペクトをわきまえていたのではないかと思う。
 そして派手派手しい女性ではなく、内部から密かに狂おしさをにじみ出している女性が漱石の本には登場してくるように思われる。内に秘めた魔性の女、色っぽく科を作る艶のある少女めいた女性。椿の花の毒々しさと重なる女性。小説という架空の世界では思う存分、現実離れした好みの人物像を創り上げ、実生活とはかけ離れたところの女性像を漱石は楽しんでいたのだろう。
 鏡子夫人の写真を見た時、ぱっちゃり型の凛としたそのお顔は、冒頭で取り上げた絵の少女にも相通じるものがあると私は合点してしまったのである。

(2020.12.13)

 

 

ー グルーズの作品から ー

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