連載コーナー


 島崎陽子の

美術散歩
美術散歩

 

シシィ(皇后エリザベート) 上野国立西洋美術館『ハプスブルク展』より  

  

 昨年10月~今年1月、上野国立西洋美術館にて『ハプスブルク展 600年にわたる帝国コレクションの歴史』が開催され、秋の日差しがさす休日に行ってきた。ハプスブルク家の隆盛の基礎を築いたマクシミリアン1世の絵画から始まり、マリア・テレジア、アントワネット、フランツ・ヨーゼフ、シシィ(エリザベートの愛称)、マルガリータ・テリサとハプスブルク家一家が一堂に会した展覧会だった。
今回はそのなかで不遇の一生を遂げたオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフの妃、絶世の美女シシィ(1837.12.24-1898.9.10)に焦点をあててみたい。私が訪れたことのあるオーストリア郊外のバート・イシュルとハンガリーとの関係に的を絞って進めていく。
 フランツ・ヨーゼフとシシィの出会いはザルツカンマーグート、オーストリア最古の温泉の町、皇帝一家の避暑地があったバート・イシュルである。ここでフランツのお見合いが行われたときのこと、お見合いの相手はシシィの姉だったがフランツが心惹かれたのは15才の妹シシィであった。フランツに見初められ求婚されたことでシシィの数奇な運命が始まる。  
 結婚してウィーンで華やかな宮廷生活に入るも姑のゾフィーが取り仕切る宮廷は居心地が悪く、フランツは業務に明け暮れシシィに真正面から向き合ってくれることはない。宮廷の堅苦しい儀式にも疲れ、シシィの日常は常に逃避の連続だった。ウィーンの生活に疲れるとシシィはバート・イシュルの夏の別荘カイザーヴィラにきて過ごしたという。シシィがくつろいで過ごした部屋は今も残っている。
 バート・イシュル、この町はもうひとつの意味で私には強烈な記憶として残っている。1914年7月28日、皇帝がサラエヴォ事件を受けてセルビアに対する宣戦布告に署名した場所であるのである。署名をしたカイザーヴィラの執務室の机の前に立ったとき、私は皇帝の気配を感じ生身のひとりの人間として感じたことを覚えている。一種の緊張感が走り、身震いするほどの思いをしたものだった。
 さて、シシィはオーストリア帝国からの独立を求めるハンガリー人に好意的になっていった。その理由は姑ゾフィーがハンガリーを嫌っていたという感情的な理由からである。シシィのその好意的な行為はオーストリア=ハンガリー二重帝国成立への真の立役者にシシィを成長させていく。ハンガリー民族の立場を尊重し、二重帝国に再編成するようにというシシィの勧告があって成立に至ったといわれている。
 シシィのハンガリー人への慈しみや愛情の表れはシシィの日常生活や身の回りにもみられた。ハンガリー人の侍従や女官を身近におき、ハンガリー語を自由自在に使い、ハンガリーを第二の故郷として頻繁に訪れた。そしてシシィのハンガリーへの思いと同等にハンガリー人もシシィを愛した。シシィが亡くなったとき、その柩の上には「オーストリア皇后」とだけ記されていたが、ハンガリーが抗議をして「ハンガリー王妃」と付け加えたという。
 ハンガリーの首都ブダペストにはエリザベートの名を冠した橋が架けられている。ハンガリー人のシシィへの情愛と敬慕の表れのひとつである。30年ほど前、私はウィーンからフェリーでブダペストへ入り、19時エリザベート橋のたもとにフェリーが停泊するため速度を落として、夕方から夜に変わろうとする銀色の世界のなかに高貴で華麗、優雅な真珠のごとく輝くブダ王宮が見えてきたとき、その幻想的な王宮を見上げながら感嘆の声を発するほど興奮していたことを思いだす。私のシシィとハンガリーとの出会いの原点である。

 シシィはハンガリーでは今でも絶大な人気を誇っている。
 シシィの生涯は苦悩の多い波乱に富んだ人生だった。ひとり息子のルドルフはマイヤーリンクで謎の死を遂げるなど悲劇に見舞われた人生を送った。
1898年9月10日、スイス、ジュネーブでシシィが暗殺された時、皇帝フランツ・ヨーゼフは「私がシシィをどれほど愛したかは誰にも分からないだろう」と側近に繰り返し言い続けたという。

 

 

 

ー ハプスブルグ展出品作品 ー

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