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2023年
NEW 森弘道さん
ミュンヘン・オペラフェスティバルに行ってきました
坂口行雄さん
坂口行雄さんの投稿の連載コーナーへの移行のお知らせ
アニメ ー 瀬戸の花嫁 (最新)
アニメ ー For You
アニメ ー 喝采
以上の3作品は連載コーナー(新連載 歌謡アニメ)に移動しました。
2022年
2021年以前の投稿
森弘道さんの投稿 | |||||||||||
森 弘道 このフェスティバルは1875年に開始された歴史あるイベントで、今年は6月23日から7月31日までミュンヘンのバイエルン州立歌劇場などで開催されました。今年のテーマは「戦争と愛」、私は7月26日から30日まで滞在してオペラ二本を観ました。ミュンヘンは涼しくて気温は日中最高の時でも摂氏22度程度、長袖が欲しい気候でした。帰国したら35度を超えるこの暑さ、すっかり参っています。
一本目の「アイーダ」はウクライナを意識した読み替え演出の新作で、第一幕の舞台は保育園か小学校の体育館で、天井が至る所破けている中で子どもたちが遊んでいます。緊迫した場面になると爆撃で天井の破れ目から大量の砂や灰が落ちてきます。そんな中でエチオピアの侵攻が伝えられ物語は始まります。第二幕はこのオペラの見どころ、凱旋パレードですが、何と行進してきたのは凱旋軍ならぬ戦傷兵の列、車椅子や松葉杖の行進です。私としてはこのような読み替えには抵抗があったのですが、休憩後の第三幕は歌が感動的で、第四幕のお墓に生き埋めになった場面は非常に綺麗で、保育園の子どもたちが天使のように上座後方に立ち、実に感動的でした。私はこれまでこのお墓の生き埋めがあるため、アイーダを観るのが億劫だったのですが、今回のこの最後の場面を観てホッとしました。最初の嫌な演出の後でこの印象的な最終場面、まさに演出のうまさを感じました。後味の良い舞台でした。 指揮:ダニエレ・ルスティオーニ(ミラノ出身の新進気鋭、将来の巨匠との呼声が高い) アイーダ:エレーナ・スティヒナ(ロシア生まれのソプラノ、2017年から世界的に活躍) ラダメス:ブライアン・ジャッジ(ニューヨーク生まれのテノール)
二本目の「トリスタンとイゾルデ」ですが、10年くらい前にパリのオペラ座バスティーユで見たことがあります。長くて退屈で、眠たくなるオペラでした。しかし、ドイツではやはりワグナーです。迫力のある歌いっぷりで、メリハリが効いて心打たれました。10年たって私の耳が肥えたのかもしれませんが。それに、終幕後のカーテンコールで観衆の熱狂ぶりには圧倒されました。皆さんスタンディングオベーションで、しかも足を踏み鳴らして大変な騒ぎでした。やはりドイツはワグナーの国です。オペラならワグナーでイタリアオペラなど眼中にないという人も多いそうです。 ミュンヘンではウクライナ支援の旗が至る所に見られました。地政学的にもNATOの一員としてもウクライナ侵攻は日本では想像できないくらい深刻なようです。もちろん世界的にも影響は大きく、今回の飛行ルート、日本航空なんですが、往路は太平洋をアラスカに向けて北上し、カナダ北部から北極圏を突っ切ってヨーロッパに入りました。かってのアンカレッジルートに近いものです。しかし着陸無しで15時間もの飛行でした。今回はビジネスクラスだったからよかったものの、エコノミーだったら私の歳では耐えられないところでした。復路はヨーロッパから黒海の上をトルコ沿岸に沿って飛び、カスピ海を横断し、中央アジア諸国、中国の上を飛んで北京上空から日本へ向かう南回りのルートでした。偏西風の追い風で往路より短く13時間程度の飛行でした。つまり、往復合わせて、ロシア周囲をぐるりと回るミニ世界一周の旅でした。私にとっては珍しいルートでしたが、ヨーロッパが本当に遠くなりました。これもロシアのウクライナ侵攻のせいです。 2023.8.11 投稿
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坂口 行雄様
一青窈さんのハナミズキも懐かしく、以前住んでいました指扇も懐かしく、小山に勤務していた頃春になると咲き誇っていた花水木も懐かしく、アニメにアレンジされた作品が心に滲みました。
松本
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小林 洋さんの投稿 |
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2022年9月(2)の「まちだより」に寄せられたメッセージの一部を転載したものです。
小林洋さんから寄せられた「まちだより」へのメッセージ
獺祭と雁木は同じ岩国市の蔵元で20年ぐらい前まではお互い小さな酒蔵でした。同じ岩国市内の五橋や黒松の蔵元に押さえつけられていて酒造組合でも意見を聞いてもらえない状況だったそうです。 町田香子さんの返信 初めまして、小林様 (2022.10.1 掲載) 2022年9月(2)の「まちだより」はこちらをご覧ください。
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樫村慶一さんの最新投稿 | |||
樫村慶一 今からちょうど50年前、1971年(昭和46年)5月24日は、KDDが世界に日本一を誇った?、大手町ビルのワンフロアーを占拠したTASと言う、富士通の230-60システムの巨大なコンピュータシステムが完成した年である。今年はそれから丁度半世紀、この偉大な産物は、その後どうなったのか、完成時にはすでに国際電報の取り扱量は下降線をたどり始め、巨大で新しい機能機器を満載して導入したにもかかわらず、相応の評価を得られず、いつしか、建設の中心になった9人のサムライ(現存3人)の目から離れ、行き方知れずとなった。 夢の島の冷たい潮風雨にさらされてか、はたまた第二の人生を歩んだか、それとも天に還ったか。50周年を祝う気持ちがありながら、コロナコロナで祝賀行事を行うことなど、夢のまた夢の計画であった。2021年は、世界的行事のオリンピックでさえ、観客のいない一目を忍んでの催行だったのだから、TAS50周年など誰にも気ずかれない、象が蚊に刺されたほどにも感じない出来事だったろう。 今はただ、過ぎゆく50年目の背中にむけて、あれ程にも仕事に夢中にさせてくれた日々、今では断景になった吸殻山の灰皿山脈、ラインプリンター用紙を染める2進法の冷徹な数字の絨毯、2米近い磁気テープラック、昔の映画館のフイルム入れのような磁気ディスクなどの感触、極めつけは医者しか着ないと思っていた白衣を着たことなどなど、数々の思い出を、もはや届かぬ声で呼びかけたい。 50周年を祝ってやれず、本当に残念だった。どこにいるのか我らがTAS君、来年からは歴史の中でひっそりと生き続けて欲しい、と、ただただ思うのみである。 (2021,12,20 TAS設計建設作業員を代表して 樫村慶一 記)
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樫村慶一さんの投稿 | |||
樫村慶一 80年前の太平洋戦争開始から今年で80年目になるが、やっぱり何事も終わりが大事である。終わりなくして結果なしだからである。どうしても8月15日の敗戦記念日に思いが飛んでしまう。戦争に負けたのになぜかマスコミは敗戦といわす終戦という、負けは負けではないか、変な負け惜しみはしない方がよいと思う。今年は敗戦後76年目だが、始まってからでは80年目になる。新聞などは精神論でしか記録を語らないし、話す人も通一偏の記憶しか喋らない。それはそうだ、話す人は一応戦前人間ではあるが、子供だった人達で、疎開などで都会にはいなかったので、空襲などを具体的には体験していないはずである。やっぱりはっきりした記憶を持っている人は、敗戦時15歳位の私以上の年寄ではないと具体的な話は知らないだろう。私は、この日のことはしっかり覚えている。この日だけとも言える、いや、この日一日ではなく、天皇の玉音放送を聞いて家に帰るまでの、凡そ3時間くらいのことだけである。 昭和20年(1945年)8月15日の正午、私は15歳で旧制中学の3年で学徒動員で、軍隊の靴を作る工場で、いつものように豚だかなんだか分からない動物の皮を貼り付ける作業をしていた。監督が今日は12時から重大放送があるから皆、ラジオの前に集まるようにと触れてきた。12時になった。15、6歳は子供と大人の中間だ、あどけない幼稚な奴もいるし、薄らと髭らしきものが生えだしてきたやつもいる、でも、国のため、と言う共通の目標に一致団結して行動していた。 その顔ずらが、古いニスの禿げた箱型のラジオの前にオデコをくっつけ合った。12時、ラジオが、ガーガーガーとなりだした。雑音が強く、声が低く、しかも言葉が難しい、ところどころに”チン”とか、”国民の”とか”国体”とかが聞こえる、全体の意味が分からないまま終わってしまった。監督が、突然大きな声で、戦争は負けたぞ! と怒鳴り出した。えーー?!子供たちは、しばらく意味のわからぬ表情で、キョトンとしていたと思う、私もその中の一人だった。そして、誰かがもう終わりだ、とか言ったように覚えているが、機械の音がいつの間にか静かになっていた。小さな工場が沢山集まっているこの地域も、外に出ると、どこもかしこも、がやがやする、いつものお昼の時間と全く違う雰囲気だった。その後どうしたのか覚えていないが、夕方近くには、千葉駅にいた。 そんなこの日、正午の天皇の放送から僅か3、4時間のことだけが頭に染みついている。そして、その日の夜を含め以後の生活も殆ど覚えていない、靴工場へも行っていない、どこで何をしていたんだろう。夢遊病者のような生活だったのかもしれない。私の8月15であった。
古い日本を変えた第二のご一新の二つの記念日の感想の違いを一つだけ挙げると、それは、戦争開始の発表報道が「意気軒昂で、とてもよく聞こえた」のに反し、敗戦放送は、「ザーザーと雑音の中で消え入るようなか細い声だったので、よく聞こえなかった」。 放送状態までが、国の気持ちを表していたように思う。 (2021.12.10 記)
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前尾津也子さんの最新投稿 |
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前尾津也子さんの投稿 |
宮沢賢治の「やまなし」(朗読動画)をYouTubeに公開 前尾津也子
趣味で十数年続けている朗読ですが、コロナ禍でイベントも開催できず、ボランティアで続けていた絵本の読み聞かせもできないまま1年が過ぎました。リアルで何もできないならと動画制作にチャレンジ。慣れないVideoPadという動画ソフトと格闘しながら、宮沢賢治作「やまなし」の動画を制作してみました。「やまなし」は小学校の教科書にも登場する作品で、カニから見た水の中の世界を描いています。
カニの頭の上を大きな魚が通り過ぎたり、二匹のカニの子供らが泡を吐いたり、ぽかぽかとやまなしが流れて行ったりします。そんな場面を、イラストを動かしながら、朗読と音楽と映像を合わせるのに悪戦苦闘しながら作りました。音楽はすべてオリジナル。イラストや動画は無料のフリー素材を活用しています。 ぜひ、宮沢賢治の「青い幻燈の世界」をお楽しみください。 <YouTube>
新型コロナウイルスはまだまだ収まりそうにありません。ストレスの多い日々ですが、どうか皆様、お元気でお過ごしください。 (2021年5月)
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お風呂の中で思うこと
樫村 慶一
私は肺が弱く気管支も弱い。慢性閉塞性肺疾患、すなはちCOPDである。50年間タバコを吸ってきたらだと言われたが、もうやめℒて20年近くなるけど、昔の罪は一生消えないのだろうか。肺房が少なくなっているから肺活量が少ない、そのため飛行機に乗るのが怖く、もう15年以上乗っていない。肺の中の気圧は.0.8気圧で、大気の気圧は普通1気圧(ヘクトパスカル、しょっちゅう変動している)なので、黙っていても空気は気圧の低い肺に入ってくる。だけど、飛行機の中の気圧は.0.8で肺の中と同じだ、だから内も外も同じ気圧なので空気は流れない、それでも普通の肺活量があれば平気なんだろうが、少ない人は、苦しくなることがある。そのとき自分だけ酸素マスクつけるなんて、はずかしくて恰好悪い。恥ずかしいだけならいいけど、大袈裟になって、どっかに緊急着陸なんてことになったらえらい騒ぎになる。だから乗らないのだ。かっては、もう結構というほど乗ったから、今更そんなに乗りたいとも思わない、もともとそんなに好きな乗り物ではないし・・・・・
さて、そろそろ本題に入るとしよう。書きたいことは、これからである。
・・・だから気管支を強くするためのことをしておかないと、もう少し歳をとった時(今でも十分年寄だけど)喉の筋肉が弱っていると、食べ物を飲み込むとき気管支に入ってしまう”誤嚥”という厄介な現象を起こすようになる。つまり、喉を通過した空気は気管支線へ、食べ物は食道線へと線路が分岐するポイントの役割を果たす弁が、きちんと動くように喉の筋肉を日頃から鍛えておくために、いくつかやっているが、その一つに大声を出す練習がある。それは何かというと、風呂にはいって湯気で湿った喉を、思い切り収縮拡張させようと大声で歌を歌うことである。マンションの風呂場は殺されそうな悲鳴を上げても外へは漏れないので思い切り大声で歌える。でも3,4曲歌うと飽きる。歌詞の本を歌うところを開いて大型クリップで止めて、ビニール袋に入れて防水し、手で捧げるようにして歌うのだ。歌う曲はいわずとしれた懐メロである。今は2020年代、テレビで懐メロといわれるのは、1970年代(昭和45年)頃の歌を言っている、それもむべなるかな、大阪万博が昭和45年で、もう50年も経ってしまったんだから十分懐メロの資格はあるだろう。でも私の懐メロは1925、6年頃(大正14,5年)から1957年(昭和32年)の”有楽町で逢いましょう”までなのだ。その約30年間に歌われた歌が、穏やかな昭和の時代の懐かしさを思い起こさせる、えも言われぬ幸福感をもたらす無上の催眠剤である。
そんな歌詞を歌っていて、昔の東京で子供の私には知らなかったことに思いついた。愛、恋、別れ、涙、旅、月、夜空などは、昔の流行歌、歌謡曲(演歌、艶歌とはいわない)の歌詞には欠かせない言葉だけど、その舞台になる東京の盛り場は、銀座、浅草、新宿の3か所と、たまに神田であって、渋谷、池袋は絶対に出てこないなと思ったこと。おそらくまだ田んぼか畑の田舎だったのだろうと思う。そして、勇ましい軍歌、軍国歌謡の中の男性は、父、夫、兄、弟だけで、恋人や好きな人、愛する人などは男性にはいなかった。夫は元はそうだった人もいただろうに、国力増強の一翼を担う種馬になったことで、男性リストに入れてもらえたのだと思う。
タバコを長年吸って、COPDになって、喉の筋肉を強くするために、風呂で懐メロを大声で歌う。そして、モボ・モガが闊歩した遥けき昭和を懐かしみ、昔の盛り場は銀座、浅草、新宿だけだったことを知り、軟弱な風潮と言われた恋愛は否定され、彼氏は男と認めてもらえず戦時下では不遇をかこっていたが、戦争に負けて民主主義になって、恋愛が自由を獲得して、彼氏が一人前に認知され、彼女は貞操観念を知らぬ新種の雌人間に生まれ変わった。
こんなことが、風呂の中で数曲の懐メロを歌う間に、頭の中を駆け巡る。喉の筋肉強化だけでなく頭の血管も血流が活発になるという副次効果が得られる。
・・・ああ いい湯だな・・・ ごぼごぼ
(2021.4.1 91歳の誕生日の夜)
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オークションで | 衝動買いの楽しみ |
(77年ぶりに懐かしいカメラを手にした喜び)
樫村慶一
私の父は1943年(昭和18年)、まだ戦争が内地には激しい衝撃をもたらさない前に逝ってしまった。77年前、私が13歳の時である。新宿の伊勢丹の並びにオリンピックと言うレストランがあり、その横の露地を入ったところで小さな写真屋をやっていた。今の紀伊国屋書店がある辺りになる。”現像焼付け引伸ばし”のことをDPEと言い、DP屋と言ったものだ。勿論カメラの修理や販売もする。その親父の夢を、昨年末に死んでから初めて見た。77年ぶりである。
脳細胞が頭の大掃除でもして一番奥にかくれていた記憶を間違って呼び起こしてしまったのだろうか。親父の夢はどうでもいいのだが、そのことに関連して、昔のカメラのことを思い出した。客が修理依頼に持ってきたものとか、売り物とか、とにかく戦前の蛇腹式レンズシャッターのカメラを弄り回して親父に怒鳴れた。神話のような思いでである。子供ながらにも欲しいと思っていた。
その頃のカメラがまざまさと蘇ってきた。ライカ、コンタックス、ローライ、エキサクタ、ホクトレンデル、ロボット、バルダックス、コダック・レチナ、国産の六桜社(小西六兵衛創業の小西六、今のコニカ)のパール、ミノルタなどなど、思い出すときりがない、どれも手に取って弄ったりした。特に蛇腹カメラの感触が手に蘇った。そして、今はこれらの懐メロならぬ、懐かしカメラはどうなっているのか気になった。10年位前までは、新宿東口の武蔵野館近辺に2,3軒の中古カメラ屋があり、ウインドウに色々並んでいた。それを思い出して早速ネットで検索すると、カメラ屋自体がほとんどない、最寄りの池袋にあるのを知り出かけた。次々に他の店を教えてくれ結局4軒当たってみたが、ライカ型の鏡胴式はあるが蛇腹カメラはどこにもない。やっぱり、もう化石になってしまったかと思ったとき、最後の店の年配店員が、カメラの名前で直接ネットを検索してごらんなさいとアドバイスしてくれた。そしてヤフオクというサイトに繋がった。これが次の喜びと感激につながった。
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それまで、ヤフオクという名前を知らなかった。ヤフーオークションの略ということを娘から教えられた。試しに”セミパール”と入力してみた。あるはあるは、蛇腹カメラが次からつぎへと出てくるではないか。昔も台数はとにかく、カメラの種類としては蛇腹はそんなに銘柄が多かったわけではない。決定的な欠点は、革製の蛇腹が使いこなすと切れて光が漏れることである。世界のカメラ界の王者だったドイツでも、ライカ、コンタックスを始め鏡胴式が多い。蛇腹式は、なんと言ってもカール・ツァイスのイコンタ・シリーズだ。イコンタ、セミイコンタ、イコンタ・ベビーイコンタの3兄弟、で、イコンタとセミにはそれぞれスーパーと言う距離計とレンズ焦点が連動したのがある。これをそっくり真似したのが六桜社のパールで、同じように3兄弟にスーパーまである。へーと驚きに満たされた私の心は逸った(はやった)。ルールもよくわからないままに、懐古心に心が乗っ取られたように、次々と入札を続け、年末の1週間で、何と7台も落札した。(写真参照)。
落札してからの気がかりはフイルムがあるかどうかである。イコンタ、パールは画面サイズが横6cm縦9cmで120型(昔のブロニー判)フイルムを使う。セミイコンタ、セミパールは縦が半分の4.5cmであって、同じフイルムを使う。ベビーは名前の通りとても小さくて可愛い。画面サイズは横4cm縦3cmと一回り小さく、フイルムも127型(旧ベスト判)を使用する。120型は5本で約4500円と高いけど市場には十分にあるが、ベスト判はなかなか手に入りにくいしもっと高い。次はいよいよ試写である。
写真を写す場合の基本は、距離、レンズの明るさを調整する絞り、シャッター速度の3条件が被写体にうまく合わないと良い写真は穫れない。今のディジタルカメラはこれらの仕事をみな自動でやってくれる。だからデジカメしか知らない人は、昔のカメラは使えない。写真とは中が真っ暗な箱の1面に針で孔をあけ、反対側にクモリガラスを置くと、目の前に見えるものが上下反対になってみえる。これが写真の原理だ。つまり、穴が小さければ小さいほど、焦点がぴったり合ってピンボケにならない、だけど、入ってくる光の量が少ないからガラスに映る画像が暗い、それと、近い物にはピントが良く合わない。こういった条件を合わせるために、指先で上記の3条件を被写体に合わせてカメラを調節するわけである。昔はこの作業が当たり前だったけど、今ではこの作業がないので、バカチョンと言われる所以で、この調節作業が写真を撮る楽しみの半分であったけど、今ではそれがなくなってしまったんじゃないかと思う。されど、昔だって1枚1枚、撮るたびに上記3条件を正確に合わせるわけではなかった。そうじゃないと一瞬の物は撮れないから。
そこで、ある数字に合わせておけば、大体うまく撮れる基準みたいなものがある。それに常時合わせておけば、とっさの場合にも一応見られる写真(ピンボケとか露出の過不足が極端にならない)が撮れるものである。だから、ロバート・キャパが有名な「倒れる兵士」なんて被写体をものにできるのだ。兵士が倒れるのを、ちょっと待って、今距離合わせているから、なんていったって通じない。私の経験では、距離は10メートル位に固定し、昼光だったらレンズ絞りをF6.3(フイルム感光速度をISO200~400の場合)、シャッター速度を125分の1にセットしておけば、兵士が倒れる瞬間が撮れると思う。この勘は昔弄った経験によるもので、一番の問題はフイルム感度とシャッター速度のマッチングがうまくできるかどうかである。80年近い昔の経験が今でも通じるかどうかが、高価なフイルム1本無駄にする覚悟で試写した結果にかかっている。
試写の結果はまずまずであった。距離、シャッター速度、絞りいずれも、昔の勘でセットしたがほぼ思った通りの出来栄えである。暗い場所でも露出速度が若干足りないものがあったけど、全体で75点くらいはつけられる。まずは目出たし目出たしの結果になった。次は可愛いベビーイコンタちゃんを使ってベスト判(今は127型という)の試写である。手振れが一番注意する点だ。
もうすぐ91歳、男の健常年齢は70歳といわれる、平均寿命79歳までの9年間は介護されてベッドで寝ている期間だとある週刊誌に書いてあった。もうとっくにその危険水域は抜けたけど、コロナのような悪魔が出没するこの太陽系の惑星上では、いつ何が起きるか全く見通せない。今日1日、明日1日、好きなことやをって過ごすのが利口な生き方だと思う。下手に白寿だとか紀寿だとかを狙うには、今の地球は危険が多すぎる。暮れから年越しになった77年ぶりの天国からの贈り物に、今再びの籠の鳥生活の恰好の慰めになっている。皆さんも今年が良い年になりますように。
おわり
(2021.1.15記)
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「世界の声の交差点で」 | (旧KDD東京国際電話局) | をYoutubeで | 期間限定配信 |
前尾津也子
「世界の声の交差点で」という本をご存知でしょうか。「KDDオペレータの素顔とその半世紀」とサブタイトルがついたこの本は、昭和62年に旧KDD東京国際電話局で発行されました。当時の三好安夫電話局長、桑山昌次副局長の後押しもあり、電話局の課長をされていた大谷恭子さんのもとに、何人かの編集メンバーが集まり作成しました。私も編集メンバーの一人として、資料室の古い資料を調べたり、先輩から話を聞いたりして、一生懸命オペレータの歴史をまとめました。
今年は戦後75年という節目の年でもあり、国際電話オペレータから見た第二次世界大戦を歴史の一部としても、広くご紹介したいと思いました。
![]() |
![]() 昭和25年当時のオペレータ |
(「世界の声の交差点で」より)
私は趣味で朗読を続けておりますが、今年はコロナの影響で、「朗読アラカルト」というイベントがオンライン開催になりました。より多くの方に聴いていただけるこの機会に、「世界の声の交差点で」を朗読したいと思い、KDDIからも快諾いただきました。
朗読した動画は、12月12日(土)~12月26日(土)までの2週間限定で、Youtubeで公開されます。
舞台で撮影した方も多い中、私はZOOMを使って自宅で撮影したので、画質も音質も悪く情けないのですが、オペレータの体験を通じて、国境を越えた人と人のつながりや戦争について考えるきっかけになればと願っております。また、懐かしい国際電話の時代を思い出し、話題にしていただけると嬉しいです。拙い朗読ですが、ぜひご覧ください。
<でご覧になる場合は、こちらをクリック>
前尾は29分位から登場します。
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幻の ミャンマー旅行 牛尾哲久
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2020年3月27日、私の78歳の誕生日、私は娘と孫娘を連れてミャンマーのヤンゴン空港に降り立った。空港にはミャンマー人の女性Kさんがにこやかに迎えてくれた。
翌日、ヤンゴン市内の金ピカの仏塔シェダゴンパゴダ等市内観光を楽しみました。次の日、飛行機でバガンという古都に移動。バガンには3300以上もあるという仏塔が広大な平原に散らばる。2019年に世界遺産に登録されたばかりで欧米からの観光客が急増中とのこと。私たちは夜明けとともに熱気球に乗って空から幻想的でエキゾチックな風景を眺めながら感動に浸った。翌日ヤンゴンに戻り市内観光、ショッピングのあとKさんの家族と会食、懇談。最終日にはヤンゴン郊外のKさんの祖父Nさんが眠る墓を訪れ墓前にNさんの遺影を供え在りし日のNさんを偲んだ。そしてミャンマーを後にした。・・・筈であった。
Kさんからのお誘いもあり3か月前から周到に計画しフライト、ホテル等すべて準備万端のところに降って沸いたようにコロナ騒ぎが発生しミャンマー旅行は夢と消えました。
そもそも今回のミャンマー旅行のきっかけは1967年のNさんとの出会いにあります。私が当時の国際電信電話会社(現KDDI)に入社したばかりの頃ビルマ(現ミャンマー)からNさんという技術研修生が訪れました。大手町の現場にいた私にその研修生を茨城の宇宙通信実験所の見学に案内するようにとの出張命令が下されたのがNさんとの縁の始まりです。その宇宙通信実験所は1963年のケネディ大統領暗殺のニュースを史上初の衛星テレビ中継で日本に伝えたことで知られています。
その後Nさんとはクリスマスカードを交わす程度の交流を続けていましたが、いつしか音信も途絶えNさんのことはすっかり忘れていました。
2017年夏のことです。見慣れない英文の手紙が届きました。要約すると「私はNの孫娘Kです。東京に住んでいます。今春、東京医科歯科大学博士コースを卒業しました。あなたは祖父Nの良き友人なのでぜひお会いしたい。祖父は1993年に他界」とのこと。彼女の夫も同大を同時に卒業、妹も日本のIT企業に勤めているとのこと。相次ぐ台風を避けてようやく9月に家内と娘と一緒に港区のレストランで落合い会食・懇談しました。
初対面なのにすぐに打ち解けました。ミャンマーの人たちの人懐っこさ、優しさ、義理堅さ、縁を大切にする心は仏教によるものなのでしょうか。再会を期して別れました。Kさん夫妻は12月に美しいクリスマスカードを送ってくれてほどなくミャンマーへ帰国しました。
2020年3月の「ミャンマー旅行」はコロナのお陰で幻になりましたがKさんとの再会はどうしても諦めきれませんでした。
そこで一計を案じました。「オンラインミーテイング」です。今の時代パソコンさえあればZoomというアプリで簡単に「会える」のです。問題は先方のインターネット環境とパソコン習熟度がどうなのかということです。Kさんにメールで問い合わせてみたら意外にも即座に「OK」との返事が来て驚きました。時差を考慮して出会う日時を調整し5月の「ステイホーム」のさなか海を越えてオンラインでKさんのご家族と出会い、親しくお話しをすることができました。
インターネットは素晴らしい!
コロナのお陰でオンライン化が急速に進展しています。「ピンチはチャンス」「災い転じて福となす」でいい世の中になればと思うこの頃です。
国際文化会館にて(左側、手前から二人目がKさん)
宇宙通信実験所出張時、 パラボラアンテナを背景に |
Nさん |
日々の報道に対する疑問 稲垣 和則 |
地球レベルで感染拡大を続けている新型コロナウィルスですが、政府が報じる日本国内の感染状況は、主な諸外国に比べて感染数、死亡数ともに圧倒的に少なく、上手く抑え込んでいるように数字上は見えます。この理由として、日本人は清潔好きで、手洗い、マスクの着用など、マナーをきっちりと守るなど、衛生面の習慣が身についていることにあると考えていました。
ところが、最近、政府が報じる感染者数、そのものに対し大きな疑問が湧いてきました。同じように思っている方が、皆さんの中にも少なからずおられるのではないでしょうか?
日本におけるPCR検査の数は、諸外国に比べて圧倒的な少なさです。日本でPCR検査を受けるには、まずは「相談」、次に「受診」、そして「検査」の手順となるようです。東京では検査までたどり着けるのは相談件数のたったの数%で、大凡97%の方が検査に辿り着けないのが現状と言われています。
この結果、日本の検査数は、欧米の主な国に対して1/10以下、お隣の韓国(人口、面積ともに日本の半分以下)と比べて数十分の1といった具合です。感染の確認にはPCR検査は不可欠ですから、PCR検査数を抑えると言うのは、例えれば、夜空の星の数を数えるのに、サングラスをかけて数えるようなもので、決して感染の実情を把握することにはなりません。
こうした疑念を抱き始めた最中、先日、慶應大学病院で行われたPCR検査の報告に目が止まりました。なぜなら、この報告をもとに現在の東京地区での感染状況を推測すると驚くべき結果となるからです。
まずは、慶應病院の検査報告ですが内容をこちらに引用します。
『4月13日から4月19日の期間に行われた術前および入院前PCR検査において、新型コロナウイルス感染症以外の治療を目的とした無症状の患者さんのうち5.97%の陽性者(4人/67人中)が確認されました。これは院外・市中で感染したものと考えられ、地域での感染の状況を反映している可能性があり、感染防止にむけてさらなる策を講じていく必要があると考えております。』
要するに、地域の67人の無症状の人を対象にPCR検査を実施したところ、そのうちから4人の感染が確認されたと報告しています。 この比率は約6%で衝撃的な値です。しかし、サンプル数が十分ではなく、この6%をそのまま市中感染率と推定するするはできません。たまたま、多くの感染者を拾い上げてしまったということがあり得るからです。
サンプル数に対して、何人の感染者がピックアップされるかの確率分布は二項分布になります。 そこで、この分布特性を使えば、より信頼高い結論を導くことが可能となります。
まず、サンプル数67に対して、感染者数が4以上になる確率と感染者割合(市中感染率)との関係を求めたのがこのグラフです。
同グラフから、市中感染率が高くなると、当然ではありますが67のサンプル中に4以上の感染者が含まれる確率は高くなり、感染率5.5%で0.5となることがわかります。しかし、この結果を持って直ちに感染率を5.5%とするには、繰り返しになりますが、サンプル数が十分ではなく信頼ができません。
そこでもう少し安全サイドで評価することにします。例えば感染率1%の場合の縦軸の値は小さすぎて図からは読み取れませんが、約0.005です。 このことは、感染率が1%では、サンプル67の中に、4人以上の感染者が見つかる確率は0.5%で、まずはあり得ないことを意味します。裏返せば、67のサンプル中に4人以上の感染者が現れた場合、市中感染率は99.5%の確かさで1%以上であると結論づけられます。
控えめの1%でも100人に1人で、現在の東京都の人口は約1,400万人で、この1%は14万人に相当します。この人数は、4月26日現在、PCR検査で東京都で確認された数3,836人の約40倍です。即ち、PCR検査数の極端な絞り込みの結果、東京都全体の感染状況の把握を見失っているのではと危惧されます。
それでも日本ではコロナによる死者数が、4月26日現在、358人で他国に比べて圧倒的に少ないと思われるかもしれませんが、陽性でもPCR検査を受けず亡くなっている人が少なからずいるものと推測されます。厚生労働省の統計によれば、肺炎あるいは誤嚥性肺炎で亡くなる方が毎年10万人以上います。1日あたり300人で、この数はコロナでこれまでに亡くなった人数に近いものです。このような日々300人近く亡くなっている肺炎などの患者の方々の中にも、ある程度の割合の人がコロナに感染し、死期を早めた人が含まれているものと思われます。こうした人は、死後PCR検査を受けることもなくコロナ感染者の死亡数にカウントされていないと推測します。
この無症状の67人中の4人にPCR陽性が慶應病院で確認されたとのニュースは、4月23日にTVのいくつかの報道番組で取り上げられました。連日TVに出ずっぱりで、すっかり顔馴染みになった白鵬大学の岡田晴江氏(同氏には実験データ捏造の疑いも報じられていますが)、この報告を引用し、極めて深刻な感染状態にあるのではと指摘していましたが、具体的な分析には触れませんでした。また、4月26日(日)TBS サンデーモーニングでもジャーナリストの青木理氏も慶應病院の検査結果に触れましたが、結果が示す深刻さがどの程度、視聴者に伝わったかは分かりません。
この感染率1%、感染人数が発表数の40倍と言うのは極めてショッキングな数字であり、俄かには信じられませんし、信じたくもありません。しかし、ニューヨーク州で実施された最近の抗体検査(感染経験のある無し)の結果では、14%で陽性で、実際は公式発表数の40〜50倍が感染していると報じており、上記の感染率1%、発表数の40倍といった値も現実味を帯びてきます。
コロナは、感染者の80%が無症状・軽症(その内 30〜50%が無症状)で、発症直前にもっとも感染力があるようです。私の推測ですが、見えない所で感染がここまで広がっているとすると、「Stay Home!」で新たな感染をそれなりに抑えられたとしても、既に陽性で今のところ無症状な人の中からも時間の経過とともに発症する人が少なからず出てくるものと推測されます。と言うことは、「Stay Home!」はさらなる感染を抑える点では大切ですが、短期的な効果を期待するのは難しく、長期戦を覚悟する必要があるように思います。
日本は初期対応が遅れたと思います。 限定したPCR検査のデータをもとに、「よく踏ん張っている、持ち堪えている・・」と政府は言い続けていましたが、この間に確実に感染が広まったと思います。中国の習近平氏の来日の話、東京オリンピックも初期対応の遅れに影響したでしょう。諸外国のように、PCR検査を幅広く行い、徹底した感染状況の把握と感染者の隔離をすべだったと思います。日本にはMers, Sars の経験がなかったことが、今回の対応の遅れの原因にもなったようです。
お隣の韓国では、徹底したPCR検査が功を奏し、最近では新たな感染者数が一桁台の日が続いています。PCR検査に加えて、IT技術を活用した台湾は、新たな感染者がゼロの日が続いており、生活も通常に戻りつつあり、プロ野球も再開される予定とのこと、羨ましい限りです。
遅まきながら日本もPCR検査を拡大し、感染状況の正確・迅速な把握と陽性者の隔離を実施し、併せて医療体制の整備、強化、拡大を図って欲しいものです。我々も、これまで以上に行動を自粛し、マスクの着用、手洗いなどに努め、感染の防止に務める必要があります。
政府には、今回のコロナによる被害の拡大、収束の遅れに対し、国民の行動制限や権利制限に限界がある現行法のせいにしたり、国民が「Stay Home!」を十分に厳守しなかったことを理由、言い訳にして欲しくはないものです。
以上
(2020.4.26 投稿)
国立西洋美術館 松方コレクションをめぐる物語
―原田マハ著『美しき愚かものたちのタブロー』―
島崎 陽子
「日本の若者に本物の西洋画を見せてあげたい」
「これから大国と渡り合っていくためには、文化・芸術が必要だ」
「わしには絵はわからん」が口癖の川崎造船所初代社長、松方幸次郎(1866-1950)には大きな野望があった、日本に西洋美術館を設立したいという当時の日本では革新的な強い想いが。西洋画に触れることができるのは印刷されたものだけだった。
史実に基づくフィクション。
英国人画家フランク・ブラングィンの船と船乗りの絵に触発されて購入したことをきっかけに、ブラングィンの絵を購入するかわりに彼に美術品蒐集のアドバイスと援助を受け、ロンドン、パリの画廊をめぐりながら「人を見て絵を買う」という松方はモネ、ルノワール、ゴッホ、ロダン等々の作品を精力的に買い付けていく。モネに会いにジヴェルニーにも出かけ、好意的な歓待を受ける。
社長の肩書きより「美術コレクター」の肩書きが西洋の社会ではものをいい上流階級やビジネス界での潤滑油になっていることを身をもって体得していく。松方コレクションは数千点に上る一大コレクションに成長し、アメリカやロシアの大富豪たちのコレクションに比べても決して遜色ないほどになっていた。
ところが、しばらくして川崎造船所は経営危機に直面し松方は責任をとって社長を辞任、パリでコレクションの保管を任されていた右腕、日置釭三郎(実在の人物)は、自分はどうなるのかコレクションはどうなるのか、と青天の霹靂のなかで生き延びていくことに精一杯という状況へ様変わりしていった。
そして、ドイツ軍ナチスの波が押し寄せてくる。
松方からコレクションを日本へ送ってほしいと命を受ける日置、「我がタブロオの命運は君に預けた。ともに生き延びてくれ給え。ただそれのみを祈る」
日置はコレクションの保管のためにパリの西にある小さな村アボンタンに家を買い、フランス人の妻とともにコレクションの保管に精を出す。自宅まで踏み込んできたドイツ軍には二階のコレクションに気付かれることなく気力で押し返す。今の松方コレクションがあるのはこの人物の命をかけた血のにじむ行動と功績をなくして語れない。
二つの世界大戦で膨大な数の美術品は焼失、散逸、第二次世界大戦戦勝国フランスは母国の絵は敵国には渡さないと一方的に主張しフランスに接収されてしまう。
1951年のサンフランシスコ条約で吉田茂がフランスに直談判、コレクションの返還が大きく前進するが敗戦国の日本の立場は弱かった。交渉に交渉を重ね1953年吉田内閣はフランスから「寄贈返還」される松方コレクションを受け入れる為に国立西洋美術館の開設準備を始めることとなった。
上野西洋美術館「常設展」、特別展にのみ眼を奪われすっかり遠のいてしまっていたが、先日久方ぶりに特別展の後に常設展にも足を伸ばした。これまで何気なく観ていた(素通りしていた)松方コレクションに寄せる私の気持ちは熱くなっていた。松方や日置の熱意なくしてはこれらの絵画は日本には存在し得ないのである。
ルノワール〈アルジェリア風のパリの女たち〉、モネ〈睡蓮、柳の反映〉が燦々と輝く太陽に照らされているように神々しく見えた。
ゴッホ〈アルルの寝室〉が展示されていないのは残念極まりない。
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