会員の広場   長寿の広場



 

 

2024年に米寿・喜寿を迎えられる会員の方々に長寿のお祝いを申し上げます。
k-unet役員一同、心よりお祝いを申し上げます。

 

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米寿を迎えて
(寄稿順)

 

喜寿を迎えて
(寄稿順)


 

寄稿のバックナンバー

昨年度以前の米寿、喜寿の皆さんからの寄稿はアーカイブサイト掲載のバックナンバーをご覧ください。

 


 

 米寿を迎えて 
(寄稿順)

 

佐藤 明 さん

佐藤 明さんの近影
  (写真をクリックすると大きく表示)

  KDDを卒業してはや27年、そのかん小学校放課後教室の補助職員や独居老人のための料理教室の指導員などを行って忙しく過ごして来ました。自分では、社会への恩返しと自負しています。
 長い人生を振り返ってみて、これといって自慢すべきものは、思い当たりませんが孫が4人いるので、DNAは、引き継げたかなと思っています。
 その他、私も妻も健康には恵まれて、病気で入院したこともなく、月の半分は、南房総にある現役時代から使っている小さな別荘で、海と山を楽しんでいます。片道100kmですが、運転免許更新時の認知症テストに、からくも合格して、安全装置の完備した自動車で、往復しています。今後、2回ぐらいは、更新する積もりです。
 今や、人生100年時代、 更に、健康に気をつけながら生活して行く積もりです。
 皆様のご健康をこころより祈っています。 


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榊 博史 さん

榊 博史さんの近影 

  KDDを卒業して四半世紀が経過しました。
 会社の年金に支えられて米寿に至るまでやってきました。

日頃心掛けておられる健康法

 歩くとよいのですが、1回3000歩がやっとです。駅前の用足しや医者通いで強制的に週3日ぐらい外出するようにしています。しかし最近の暑さはこたえます。
 また家内の作ってくれるバランスのとれた食事を食べております。

最近うれしかったこと

 深層学習にはまっております。「新納浩著:PyTorch 自然言語処理プログラム ; インプレス刊 ; 2021年3月21日」という本に出会いました。この本は素人でもニューラルネットワークを組み立てることができるというものです。私はNVIDIA製のGPUを積んだゲーム用パソコンを買ってトイシステムですが機械翻訳方式を組み立てました。翻訳性能は惨憺たるもので、私たちがKDDで開発したものの足元にも及びませんが、中学生のとき作った5球スーパーラジオが動作したときと同じわくわく感が得られました。

最近気になること

 最近の生成AIの発展がものすごいことです。これは結局膨大な情報を巨大データセンターのような膨大な情報処理装置にかければ、どんな難問も解けるということで、よく言われているように産業革命に匹敵する進歩です。

KDD時代の思い出

 小野受信所にいたとき深夜の勤務で冷麦を食べたことや、目黒の研究所の5階で丹沢山と富士山の間に入る夕日を眺めたことを懐かしく思い出します。

その他

 この間大学の同窓会があり、同級生の40%が逝去されたことを知りました。また同窓会では年数回高さ450メートルの大文字山に登るという人がいたり、2本杖をついて歩いている人が居たり様々です。私は三峰神社と麓の駐車場の標高差40m位をカバーできるということで体力的には同年代の標準のように思います。


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小川 明 さん

小川さんご夫妻の近影
 (写真をクリックすると大きく表示)

  現在は、東京都大田区の多摩川近くに住み、健康法として夫婦共々毎朝6時に片道徒歩15分の川沿いにある公園でシニア体操をしています。これに加えて、毎週土日に太極拳もやっています。また、夫婦共々趣味として、絵を描いています。
 日本画府と、ぐるうぷ・いまあじゅという団体に属し、年に数回展覧会に出品しています。
 更に、結婚60周年を記念して、今年の6月に北海道北端の宗谷岬、ノシャップ岬、利尻島に行ってきました。印象的な旅でした。

 

 

 


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金澤 徹郎 さん

 金澤徹郎さんの近影
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  この度、米寿のお祝いのお言葉をいただき誠にありがとうございます。

 何とか元気に過ごしております。これからもよろしくお願いします。


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松田 隆治 さん

 松田隆治さんの近影

  令和6年2月、私は米寿を迎えました。私の健康については、KDDを60歳で定年退職してから7年ほど経ってステージ4まで進行していた大腸癌の手術を受けて無事回復、その後今から7年前に狭心症と心筋梗塞で2度心臓のカテーテル手術を受けました。そのため掛かりつけの医院の先生が一括して処方してくれる沢山の薬を毎日飲んでいますが、現在体調はとても良く元気です。
 私は退職後KDD友歩会などでよく歩いていましたが、4年前新型コロナが流行してからは最寄りの駅前まで歩いて往復するのは医者通いや買い物などで月に数回だけになり、ワクチン接種も7回受けてきました。そして普段は家のなかでテレビを見たり新聞を読んだりして過ごし、夕方少しの間庭に出てバラや盆栽や庭木の手入れや水やりなどをしています。またときどき車で買い物などにも出掛けていますが、最近の夏は「命にかかわる猛暑」と言われる日が多いので秋になり涼しくなってから天気の良い日に5,000歩程度は歩きたいと思っています。
 私は若い頃から数々の大病を患いましたが、このように元気に米寿を迎えられたことをとても幸せに思っています。そして遠くから見舞いや手術直後の介添えに駆け付けてくれた兄や姉たちに、心配をかけた私の家族に、また30日ごとに診察を、5ケ月ごとに血液検査を、さらに年1回健康診断を受けている掛かりつけの先生とその紹介先の大学病院の先生たちやそれらの医療や薬局従事者たちにも感謝しています。
 ところで、昨年は大阪生まれの私にとって嬉しかったことが二つありました。
一つ目は、言わずと知れた阪神タイガースの18年ぶりのセ・リーグ優勝(ARE)と38年ぶりの日本一達成です。私は小学生の頃からの大のタイガースファンで以前は応援グッズを持参して夫婦で球場にも足を運んでいましたが、最近は阪神タイガースのほとんど全試合を地元のCATVである多摩テレビなどでもっぱらテレビ観戦しています。また、以前からスクラップブックに阪神タイガースの新聞記事を全部切り張りしています。朝日新聞は従軍慰安婦問題でひどい偏向報道をしたので、我が家は読売新聞に切り替えましたが、この新聞もプロ野球の報道では正々堂々とすごい偏向報道をします。プロ野球の紙面の半分は巨人戦の巨人びいきの記事や勝っても負けても巨人の選手に焦点を当てた写真で埋めつくされ、他の10球団の記事はあとの半分だけです。しかし、昨年巨人はセ・リーグ4位に終ったので、その後のCSと日本シリーズは公平な報道になりました。私は岡田監督の指導力にも感心し、スクラップブックの背表紙に「2023岡田阪神セ・リーグ優勝と日本一達成!!」と大書しました。
 昨年私が嬉しかったことの二つ目は、一つ目とは違って目立たないことですが、昔の神々や天皇が河内弁で会話をする芥川賞作家町田康氏の著書「口訳古事記」が講談社から出版されたことです。新聞で紹介されていたので早速その本を買ってきて読みました。
 昔から大和と河内の旧2ケ国は相互に関係が深く、風習、食事、言葉、交通などの生活習慣や文化圏が同じです。両国の間には山脈がありますが、お互いに山の向こう側に親戚がある人も多く、私も2~3歳くらいの頃、父に連れられ奈良の興福寺の猿沢の池の近くにある叔母の家を訪れた後、池で緋鯉や真鯉を見てその大きいことに驚き、公園では沢山の鹿に囲まれてこわごわ煎餅をやり、若草山では滑ったりして遊んだことをいまだにありありと憶えています。現代の人の流れも同じで大阪の阿部野橋から出発した近鉄南大阪線が河内の古市まで来て、一方はそのまま大和の樫原神宮や吉野へ、他方古市で分岐した近鉄長野線が私の故郷、富田林を経て河内長野へと運行されていて、大勢の人たちが通勤や通学、行楽などで日夜行き来しています。
 河内の我々の村では私が中学生の頃まで毎年男の人たちが山伏の姿をして大きな法螺貝を吹き、大和の山上ケ岳登山に泊りがけで歩いて往復する習慣がありました。また、結婚式に花嫁が柿の苗木を持って行き婚家の庭に植える風習があり、これを「大和柿」と呼んでいました。そして、朝食に節約した少量のお米に番茶を袋に入れて炊いたお粥、いわゆる「大和の茶粥」を食べていましたが、これはすぐお腹が空いてしまうので私の実家では戦中戦後そこにさつま芋を入れて美味しく食べていました。
 ところが、これら昔からの風習や習慣、食事などの多くは戦後しばらく経ってからなくなりました。おそらく、洗濯機、掃除機、冷蔵庫、テレビなどの家電製品や自動車などが普及して日本経済が急速に成長し、日本人全体の生活や文化が大きく変化したからでしょう。山上ケ岳登山は当時社会問題になった女人禁制は存続しましたが、村から団体で出掛けることはなくなりました。朝食も風邪で熱がある場合などを除いてお粥は食べなくなり、ご飯やパンを主とした食事に変わりました。結婚式はその後もしばらくはそれぞれの自宅で挙げていましたが、やがて誰もが式場で挙げるようになり、「大和柿」の風習もなくなりました。しかし、旧2ケ国で「大和柿」、「大和の茶粥」などと呼ばれていたのに、なぜか言葉だけはこちら側の国の「河内弁」と呼ばれ以前より有名になりました。隣の国の言葉でも紀州弁は語尾に「~ですノ~!」とつけて強く発音するので河内弁とは少し違いがあります。
 町田康著の「口訳古事記」では、昔の神々や天皇が独特の抑揚があり節のついた河内弁で生き生きとしたやりとりをする様子が描かれていて、私には地域性や時代考証上からも正しく、より自然で身近に感じられ、面白くこの本を読みました。
私が小学5年生のとき、片道約8キロでその半分は細い山道でしたが、東山の平石峠を越えて国宝の曼荼羅、中将姫伝説、芍薬などで有名な大和の当麻寺への遠足がありました。お昼にその寺のいくつかあるお堂の一つの縁側に座り母が作ってくれた巻き寿司の弁当を食べた後、また同じ山道を辿って帰る途中突然の激しい夕立にあい、皆で平石の高貴寺の軒先に駆け込み雨宿りしたことなども懐かしく思い出されます。
 河内と大和の間の山脈の真ん中にラクダの2つこぶのような姿をした二上山(にじょうざん)があります。私は中学生のとき2人の姉と一緒にこの山に登ったことがあり、角帽を被った大学生たちも登ってきていて同年配の姉たちにいろいろと話しかけていました。頂上からは、南西の方角に私たちの実家が肉眼でよく見ることが出来ました。そして顔をやや南東に向けると畝傍山、天香久山、耳成山の大和三山が彼方に眺められました。このように大和と河内とは山で隔たれてはいますが、地理的にもその他の多くの面でもとても近い関係にあります。
 ところで、その二上山を西側から見てその右側の少し窪んだところを日本最古の国道、竹ノ内街道が越えて大和の飛鳥(明日香)に通じています。その窪んだところの竹ノ内峠はあたかも生垣の真ん中にある「木戸」のように見えるので、私は「やまと」とは、漢字で表すと「山戸」の意味で、向こう側の国をそう呼んでいたものと考えます。「大和」を「やまと」と最初から読むことは出来ません。昔、中国では魏志倭人伝のように日本を「倭国」、日本人のことを「倭人」と書いていました。漢字を習い始めた日本人はこの「倭(わ)」という文字は「小人(こびと)」の意味だと知り、これを同音で良い意味の「和」という字に書き改め、当時の日本の首都でもあるので上に「大」の字をつけ、「大和」と書いて「やまと」と読むようになったものと、これはあくまで私の推測ですが、河内で生まれ東の山々をずっと見て育った私はそのように考え、確信しています。


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梅田 昭夫 さん

梅田昭夫さんの近影
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いつまでも続くKDDとのつながり

米寿のご祝辞有難うございます。

 同友会なきあとも、歴代の世話役さんのご尽力によりk-unetが沢山のOB/OGをつないできてくれました。
 心からお礼申し上げます。
 おかげでいつまでもKDDとのつながりを実感することができ、うれしいかぎりです。
 加えて私にはHAMの仲間がおり、まだまだ交流が続いています。

 1970年から80年ころには東京・大阪のKDDハムクラブが活発に活動しており、毎年のように東西の中間点・浜松辺りで合同ミーティングを行うなど、交流を深めていました。 東西交流の一環として1983年、東西間による定時交信を始めました。
毎週日曜日09時 周波数7.007MHz 電信(モールス通信)
これが脈々と今日まで続いています。
 さすがに参加者は減ってしまい、現在関東・関西双方とも3人になってしまいましたが、まだまだ元気にトン・ツー トン・ツーとやっています。 1文字づつしか送れないモールス通信では長文のやり取りは苦手ですが、それでも電波はどこまで届いているか、誰に聞かれているか分からないので「格調高い英語による簡潔な交信」を心がけながら、とにかく毎週日曜日、雨が降っても 風が吹いても「GM」(Good Morning)から始まり「CU AGN」(See you again)で終わる交信をン十年続けています。

 まだまだこの先も、「脳」がモールス信号を解読できなくなるか、「手」がトン・ツーという信号を送れなくなるまで頑張るつもりです。


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大場 光男 さん

 

米寿にあたり祝辞をいただき、誠にありがとうございます。

 いろいろあって返礼が遅れ申し訳ありません。

とりあえず90歳を目標に頑張ります。

 皆様のご健勝をお祈りしてます。
 重ねてありがとうございました。


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伊藤辰夫 さん

 

1. KDD時代の思い出

(1)40年の在籍した部署等

 KDDの在籍は、昭和32年(1957)に「大阪国際電報局」(以下、「大報」)に入社し、定年は「伊奈ゴルフプラザ」の平成9年(1997)の40年間でした。
 いずれの職場でも厳しい先輩や上司及び同僚等に恵まれ、本当に楽しくいろいろな仕事をさせていただきました。感謝に耐えません。
 大報で訓練終了後,内信課に配属されたとき、諸先輩方の猛烈に早い鑽孔スピードに驚きました。具体的には、テープに鑽孔するスピードは、東販間(大阪から東京に送る電報)の確か60ボーの送信機に負けないくらいの速さの鑽孔であったと記憶している。(間違っていたらごめんなさい。)
 仕事以外では、六甲山へのハイキングをきっかけに、休日には「大阪の金剛山、葛城山、岩湧山、「滋賀県の蓬莱山,武奈ケ岳」を歩いた。また、始めて2泊3日の大峯奥掛けの一部の奈良県・洞川から「山上岳(宿泊)、弥山(宿泊)、前鬼」も先輩と一緒に歩いたな。弥山からの下りで途中、雨に降られ重いポンチョをかぶり前鬼まで下山したな。
 次に転勤した「名古屋国際電報電話局」では、運用と受付作業を担当した。ここで始めて「電話で電報を受信する作業」を経験した。
 次に電報自動中継化(TAS)の関係で「東京国際電報局マニュアル運用課(略称、MOR)」に名古屋から転勤。今まで紙でしか見たことのない国際電報を、ここで始めてディスプレイ上にて見ることになった。またシステムオペレーションルーム(略称:SOR)の作業も経験させていただいた。
 次に本社・営業部及び建築部で慣れない作業(連絡カードや事案決定書を書く)を経験させていただいた。
 次は名古屋通信事務所に転勤し単身赴任した。2年後、建築部に戻り、その後、KDD開発に移動し、スポーツ事業部に在籍し、神鳥谷カントリー俱楽部(小山送信所の跡地)の立ち上げに参画させていただき、ゴルフ場オープン前に小山に転勤し、コース管理作業を担当した。
 この後、国際通信施設(KTI)に転勤、最後に「伊奈ゴルフプラザ」の2年間で定年を迎えさせていただいた。

(2)退職後

2011年度の
運営委員紹介から

 友歩会に参加させていただき、妻と共に100回位参加したように思います。また、同友会ゴルフにも参加させていただいたが、途中で幹事になり、かれこれ8~9年近く他の幹事と共にコンペ開催したのも、懐かしい思い出です。

2.定年退職後の思い出

 退職後、4年ほどゴルフ三昧の生活を送ったが、平成15年4月、埼玉県主催の「彩の国いきがい大学・川越学園に1年、東松山学年に2年在籍し、全く知らない定年退職後の人々と一緒に講義を年30回超すくらい受講し、卒業した。
 川越学園の在籍中、クラブ活動のハイキングに入り、埼玉近辺の山を歩く楽しさを覚え、卒業後もハイキング同好会組織を作り、その活動を続け年に10回位、その内2回は貸切りバスでハイキングした。この活動は、約13年間位続けたな~。年齢にあった比較的に高低差のなくて高くない山を選んだ。
 その活動範囲は、埼玉県(天覧山、宝登山、鐘撞堂山、弓立山:頂上には 茨城~東京間マイクロルートの中継所 が設置された。官ノ倉山など)、東京都(御岳山、八王子城跡、陣馬山、高尾山、影信山など)、栃木県(半月山、切込湖・刈込湖、三毳山:頂上には 茨城~東京間マイクロルートの中継所 が設置された。)、茨城県(筑波山)、千葉県(鋸山)、神奈川県(駒ヶ岳・神山、箱根旧街道、大山、鎌倉アルプスなど)、山梨県(冨士山宝永火口、足和田山、美し森・天女山など)、 新潟県(八海山)、長野県(入笠山、湯ノ丸山、美ケ原、八方尾根第三ケルンなど)、福島県(安達太良山)、群馬県(谷川岳)、宮城県(蔵王山)などをハイキングした。
 おかげで、60代と70代はハイキングを中心とした、楽しい人生を経験させていただきまました。こうして歩けたのも戦争中及び戦後の食糧難の時代にも関わらず健康に育ててくれた両親と結婚後の食事に気を遣ってくれた妻に感謝です。
 東松山学園の関係で、花木の好きな人と友達になり、それがきっかけで有名な花木のある所をカメラ持参でよく散策したな。ハンカチノ木と数種類のサクラの新宿御苑(甲州街道からいつも「KDDビル」を懐かしく眺めた。)、ヤマユリとセツブンソウの森林公園、サギソウの九品仏浄真寺、サギソウとセツブンソウの昭和記念公園、ロウバイの宝登山、ウメの生越梅林、クマガイソウの大宮尾島家、レンゲショウマの御岳山など。このほかにまだあるが、このくらいにしておく。
 一番感激したのは、長野県松本から車で美ケ原を目指して車を走らせて、途中の管理事務所の駐車場に車を止め、歩いて美ケ原頂上を目指す途中で、「マルバタケブキ」が咲き誇り群生する場所で「アサギマダラ」(チョウ:遠距離を飛ぶことで有名)が乱舞している光景を見たことだ。後にも先にもこんな状態を見たことはない。
 80代の現在は、病気の為、ハイキングも散策も叶わず療養を続け、病院通いです。パソコンで遊んでおります。

 最後に、KDD生活等を振り返る機会を与えてくれた「k-unetの企画と幹事様」に感謝申し上げて、終わることにします。
 ありがとうございました。

(2024.09.23 記)


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吉田 和男 さん

 吉田和男さんの近影
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KDD退職後を振り返って

KDDの役員を退任になったのが60歳のとき、その後ヘッドハンター会社を利用して米国モトローラ社の東京駐在の職を得たのが61歳のときでした。モトローラでは業界変化の荒波に揉まれて社内求職を余儀なくされましたが、1年後には日本モトローラの仕事を得て67歳まで仕事を続けることができました。
 65歳のときに中小企業診断士の資格を取り、松戸市の経営相談室の一員として市内中小企業経営者からの相談に対応しました。70歳のときに町内会の役員に、その2年後には町会長になり、5年間町会長をつとめました。地域では地区社協の広報部長を10年間つとめ、今年退任しました。この20年余りの地域活動は私の生活を豊かにしてくれ、今振り返ってもやってよかったと思っています。

 今は食事、家事、テレビ、散歩、体操、買い物、運転、晩酌などの日常を家内と二人で楽しんでいます。そして時々のゴルフ、グラウンドゴルフ、旅行、息子たちとの食事会なども楽しみです。高齢化でできることがどんどん減っていきますが、何とか折り合いをつけて行きたいと思っています。

 今に残るKDDとの関わりは、企業年金、k-unet、サテライト会、昭和会(先ごろ終了。)、KDDI年金ユニオン、そしてKDDI株式です。KDDIの企業年金がいただけることは大変ありがたく、当時DDIとの合併に尽力された方々に感謝しています。


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川角 靖彦 さん

川角 靖彦さん
  (写真をクリックすると大きく表示)
シルトホーン頂上の回転レストランから見たスイスアルプス。左からアイガー、メンヒ、ユングフラウ。「女王陛下の007」で有名な観光スポット。

 想い出
(米寿お祝いにお応えして)

 この度k-unetから米寿のお祝いメールを頂き大変嬉しく関係者に御礼申し上げます。
 ありがとうございました。

 KDDに入社するきっかけは、学生時代に新聞で日米間に太平洋横断海底ケーブルを建設すると云う記事を見て、これを進める国際電信電話(株)を知ったことでした。早速、慶應義塾(電気工学科)4年の夏に目黒にあるKDD研究所に1か月実習に通いました。担任の先生にはKDDは官庁臭いから推薦しないと云われましたがそれでもと入社を希望。ちょうど工学部ブームだったので売り手市場、無試験で入社出来ました。
 入社後海底建設部を希望したところ、最初は短波の送受信所に配属が会社の方針だから、無茶なことを云うではないと人事から云われましたが、海底線建設部が創設されるところだったので、英語が得意ですと云ったら技術課に配属が決まりました。以来5年間AT&Tやベル研究所との技術文書のやり取りを任されて昼夜働きました。
 無事に1964年6月19日に日米第一太平洋同軸海底ケーブル完成、東京オリンピックではそれまでの短波回線に代わり大いに活用されました。

 TV伝送は試験段階のシンコム衛星がオリンピックの映像伝送に利用され、世界に向けて各国選手の活躍が配信されました。私事では、海底ケーブル完成に時期を同じくして結婚、1964年は記念すべき年になりました。

 技術課では徳江さんと云う係長の下でエコーサプレッサの開発に携わり、ベル研究所が持ち込んだ1Aエコーサプレッサとベル研から乗り込んできたエンジニアのフレーザーさんと一緒に両装置の比較試験を行い、我が装置の通話品質が良いと云うことで採用になりました。このエコーサプレッサは一対で動作するものなので、日本だけでなく海底ケーブルでつながる相手側の関門局にも設置されることとなり、特許料収入が会社にもたらされ、社長表彰を受けました。
 ケーブル完成後、海底線端局装置の保守のため現場に配属になり、輪番を経験しました。その後、1967年にKDDとRCAとの交換職員制度で選ばれて、米国に6週間派遣されました。当時の為替レートは1ドル=360円。丁度ベトナム反戦運動が盛んなときで、ヒッピーがサンフランシスコにアシュベリー・ハイドストリートやゴールデンゲート公園にあふれていました。プレイボーイクラブに案内され目の前で踊る白人女性の見事さに圧倒されました。
 西海岸のオークランドから大陸横断鉄道のゼファー号と云う特急で5泊6日かけてニューヨークに向かいました。ニュージャージーのRCAサーノフ研究所やATTのホームデル研究所に案内され、サーノフ研究所では、すでに液晶の研究がなされているのを見学、ホームデル研究所では実用化目前のPCM回線を利用したTV電話を体験しました。

 レマン湖の噴水とモンブラン遠景

 東京海底線調整所、東京回線統制所から本社の回線統制部に戻り、回線運用や網管理を経験しました。電子交換機が開発され、電話回線数は半自動から全自動になり、ものすごい勢いで回線数が増えました。そうこうしているうちにジュネーブ事務所に配属となり、1972年4月に羽田からJALのDC8でシベリア経由、家族5人でジュネーブに赴任しました。

 ジュネーブには4年間駐在、主に東京からの出張者とともにITUの会議に毎月のように出席、多忙を極めました。幸いなことに家内がフランス語を学生時代から勉強していたので、子供3人を伴った駐在生活でしたが、現地の小学校や幼稚園へ子供に同行、病院通い、出張者を週末に自宅で食事接待、食材の買い物等で大いに活躍してくれました。家内は駐在に行く前に料理を研究、近所の魚屋さんで魚のおろし方など修行していたので、毎週末自宅での接待を一生懸命こなしてくれました。残念なことに2010年に病没してしまいました。

 その当時は出張者を週末にシャモニーのモンブランに案内するのが定番でした。高速道路が開通していなかったので片道3時間位かかりました。駐在中60回くらい案内で通いました。ブルゴーニュのワイン街道巡りを希望する常連の出張者がいて何回か案内しました。週末にはグリンデルワルドやマッターホルンのスキー場への案内もしました。

ブルゴーニュのワイン街道には
出張者を案内してロマネコンチなど
銘酒の畑やワイナリー巡りをしました。

家内とプライベートで
ブータンに旅行した時の写真
(古都ブムタンの郊外で)
 
(写真をクリックすると大きく表示)

 1972年のミュンヘンオリンピックにNHKの放送スタッフの通信サポートで出張しましたが、最中に映画(ミュンヘン)になったイスラエルの選手がテロで殺害される事件がありました。
 ジュネーブはヨーロッパの中心にあり、子供の学校が休みになるとスイスはもとより、フランス、ドイツ、オランダ、ベルギー、イタリア、スペインに家族5人でドライブ旅行、美術館巡り、有名な観光地巡りを楽しむことが出来ました。駐在中に合計10万キロ以上ドライブしました。一日に1100Km運転したこともあります。

 ブルゴーニュのワイン街道には出張者を案内してロマネコンチなど銘酒の畑やワイナリー巡りをしました。
 退職後、家内の苦労に報いるために何度となく一緒に海外旅行をしたのは楽しい想い出です。
 
 帰国後国際部のITUの国際標準化を担当する部門に配属され、G3デジタルファクシミリの国際標準化を担当したのも想い出に残ります。日米太平洋横断第一海底ケーブルの建設とともに関係者の業績が米国電気電子学会(IEEE)のマイルストーンに認定されKDDIの飯田橋本社に両業績についてのプラークが飾られております。

 日米第一太平洋ケーブル建設の
IEEEマイルストーンプラーク

 KDDを定年の少し前に退職して、新規参入通信事業者の一つ日本テレコム(株)に転職しました。同社では経験を活かしてITU活動を支援、国際通信に関する渉外の仕事等を担当しました。中でも総務省から要請を受けITUの開発セクターで研究委員会(Study Group)の副議長を12年勤めました。途上国へインターネットを普及させるためのプロジェックトに関わったりして、ブータン、ネパール、ミクロネシア、マーシャル諸島、フィジー、パプアニューギニア等に出張しました。毎年1月にハワイで開催される太平洋電気通信評議委員会(PTC)には現在も自費で参加して太平洋島嶼国の電気通信普及を進めるグループで活動を続けています。
 
 とりとめもない話になりました。先輩、同輩、後輩達と仕事をした苦労や、想い出がとめどもなく沸いてきますが、この辺でおしまいにします。

  (1961年入社)

 


寄稿された米寿の方へのメッセージ

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 喜寿を迎えて 
(寄稿順)

 

江尻 義廣さん

 

江尻義廣さんの近影
 (写真をクリックすると大きく表示)

喜寿のお祝いを頂きありがとうございました。

 毎日のちょっとした予定を、そつなく送っている感じの生活です。
 この2月に数年検討していた結果が、JSMEの論文集に掲載されました。
 ゴルフの他に何かないかと考え、4月からソロキャンプを開始。写真は孫が撮影した、長野県の高原での雨中キャンプ時の様子です。
 ゴルフは暑さ寒さを避け、月2回のラウンドです。幹事さんが予約してくれるので、楽しくプレイしています。ほぼ隔日でお酒を飲んでいますが、OBの方々などと月一回、居酒屋談義を楽しんでいます。
 夫婦元気で生活しています。
 皆様お元気でお過ごし下さい。

☞ 江尻さんへのメッセージが寄せられています。


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松本 潤さん

 

近況

松本潤さんの近影
 (写真をクリックすると大きく表示)

 時の流れは容赦がないないとつくづく感じます。自分が喜寿を迎えることになるとは思ってもいませんでした。
 会社を辞めてから15年が過ぎてしまいました。この間、陶芸、ギター教室、近所の大学の社会人講座受講、海外旅行、ゴルフとそれなりに充実した時間を過ごしてきました。ところがコロナ禍を機にその多くは今も中断してしまっています。

 そろそろ海外旅行でも再開しようと考えていた矢先の今年の2月、高校の新年会からの帰宅の途上で急に左ひざの関節に強い痛みを感じました。翌朝に早速整形外科に行ったところ、相当に重症らしく人工関節置換術を勧められてしまいました。手術にはそれなりの覚悟が必要なので、とりあえずは自己血の血小板を凝縮し患部に再注入するPRP療法を受けることにしました。これはプロ野球選手がよく受ける治療法で、大谷翔平には効果がなく、田中マー君には効き目があったとのことです。
 私の場合は、症状は幾分緩和されましたが、まだ痛みがあり不安が払拭されるには至っていません。医者の勧めもあり、運動とリハビリを兼ねてスポーツジムに真面目に通う日々を送っています。

KDD時代の思い出

 入社後研究所に配属となり、テレビ信号の衛星伝送に使用する符号化方式の研究プロジェクトに加わりました。研究用のソースデータ収録のために、初めての出張で山口衛星通信所に行きました。
 山口ではヨーロッパとの間のテレビ信号の送受信を行っていてノイズの少ない良質なデータの収録が可能でした。その時は確かウインブルドンのクリスエバートの試合を録画しました。
 田園風景の中に巨大なパラボラアンテナを初めて目にした時の感激は今でもありありと覚えています。衛星通信所の皆さんの家族的な雰囲気の中にも使命感にあふれる仕事ぶりをみて、この会社で頑張らねばと思ったことを記憶しています。
 入社同期の山本勝美君(現k-unet代表)が山口に配属になっていて、彼の車で秋芳洞に行ったことも楽しい思い出です。


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寄稿された喜寿の方へのメッセージ

江尻さん 

喜寿おめでとうございます。それに加え、喜寿の年齢で、歴史と権威のある日本機械学会の論文誌に投稿され、掲載されるという快挙、素晴らしいです。論文をネットで検索して入手し、拝読しました。表題の光海底中継器筐体の言葉や内容から考えると、江尻さんが恵比寿の研究所に在席されておられた頃の研究課題に関連する研究テーマの一つではないかと思いました。そうだとすると40数年前後になるのではないでしょうか?以来、ずっとその研究課題を頭に温め、検討され、そしてそれを論文として纏められた根気と、努力、そして未解明であった敷設時、回収時における海底中継器を含むケーブルのバックテンションの望ましい値、その計算手法の提案を含む実用的にも重要な結果を残されたのではないかと思います。心から尊敬いたします。ゴルフとキャンプも楽しんでおられるとのこと、益々のご健康とご活躍をお祈り申し上げます。

論文発表、おめでとうございます。

江尻さん

JSMEの2月の論文抄訳を探し出しました。光海底中継器筐体とは懐かしいですね。江尻さんが、長年に亘って従事・研究されていたドラムエンジンを使った敷設や回収についての機械工学上の分析、研究の論文ですね。数式など詳細は理解できませんが、大変な論文と思います。電気、光通信での論文は多数ありますが、KDD関連で機械工学、力学上の論文は数が少ないと思います。
江尻さん、論文を発表され、おめでとうございます。

2024/8/4
京極雅夫

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   2022年度の投稿

     遠藤榮造さんの投稿

   〜 百寿のつぶやき 〜 ① 袖触れ会うも多少の縁

     樫村慶一さんの投稿

   私の2年遅れの卒寿祝いの写真

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百寿の追加のお話

前編 後編① 後編②

2020年度の投稿

遠藤榮造さんの投稿

結婚70周年目のプラチナ婚祝い

百寿の祝いー プラチナ婚の続き(後編)

樫村慶一さんの投稿

卒寿の記

 


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