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  2025年

 

 NEW 田代 務さん
米国小学校における子女教育体験など
〜 会社サイト掲載の宇宙開発新時代過去ブログから 〜

 

  2024年

 

 田代 務さん
フライ・ツー・ザ・ムーン・アゲイン
〜月への宇宙開発新時代と通信〜

 

  伊藤英一さん
パトリツィア・ヤネチコヴァPatricia Janečkováに花束を
─ 若き歌姫の死とメディアの光 ─

 

  2023年

 

 森弘道さん
ミュンヘン・オペラフェスティバルに行ってきました

 

 

  2022年

坂口行雄さん

アニメ ー 花水木(秋の続編)

 

小林 洋さん(町田香子さん)

山口県の酒「獺祭」「雁木」裏話

 

坂口行雄さん

アニメ ー 花水木(本編 続編)

 

  2021年以前の投稿

 

 

☝上のバナーを クリックして アーカイブサイトで ご覧ください。

 


2025年の投稿

 田代 務一さんの投稿

 

 

米国小学校における子女教育体験など
〜 会社サイト掲載の過去ブログから 〜

田代 務

自身はひと昔前、主に企業テレワーク等に係わる関連ブログをA2A株式会社WEBに連載しておりました。先般これを読み返したところ、現在なお通用する部分があると思われたので下にリンクを示します。
また、右の表紙の画面をクリックするとビューアで全文をご覧になれます。


https://a1a.jp/report/columnrev.pdf    

 

おりしも米国では新大統領が就任、一方、日本では少数与党政局下での高校無償化の決議もあり子供達の教育環境の変化が気になります。

それもあってか米国在住時の次のような経験知見を思い出した次第です。

暇な折りにご笑覧ください。

特に下記ページはpdfの目次にて下線をクリックすると当該ページにジャンプします。また、下記の項目をクリックすると直接、当該ページが開きますので、拡大してお読みください。

16 主夫業も慣れたもの
17 テレビCMを作る
56 Star of the Week
59 米国のコミュニティカレッジ
97 大統領からの手紙
112 父さんとドーナッツ
113 Back to School Night
117 先生は褒め上手

 

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2024年の投稿

 田代 務一さんの投稿

 

 

フライ・ツー・ザ・ムーン・アゲイン
〜月への宇宙開発新時代と通信〜

田代 務

先日、「フライ・ミー・ツー・ザ・ムーン」というラブストーリー映画を観て、1960年代の米ソ宇宙開発競争の頃が懐かしくなりました。
アルテミス計画では、日本人宇宙飛行士が月面に降り立つ日も期待されます。
そこで、過去の宇宙開発の歴史とともに月に関する科学や面白いお話をまとめた文書を次の2つのサイトに掲載しました。

https://a1a.jp/     http://a2a.jp/

 

その目次は次のとおりです。

1 1960年代の宇宙開発競争
• アポロ11号
• 米ソによる宇宙開発競争
• 月面撮影に使用されたTVカメラ
• 映画「フライ・ミー・ツウ・ザ・ムーン」
• アポロ11号月着陸のTV中継
• 当時の通信やテレメトリ等の方式
• 70年大阪万博での宇宙関連展示

2 月の歴史と環境
• 月の起源
• 月の昼夜や地球での潮の干満
• 百人一首に詠まれた月
• 月から見た地球
• 月の表と裏の2分性
• 月面環境 (重力や温度)
• レゴリス
• レゴリスの利用

3. 月探査の新時代
• 月探査ミッションの歴史
• 日本のSERENE「かぐや」
• 日本の小型月着陸実証機「SLIM」
• 月面基地の候補地
• 米国アルテミス計画
• アルテミスII号
• アルテミス計画での通信リンク
• アルテミス計画での使用周波数

お暇なおりにご笑覧頂き、間違い等あればご指摘頂ければ幸いです。

 

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メッセージもよろしく。

 

 

 伊藤英一さんの投稿

 

 .

 パトリツィア・ヤネチコヴァ Patricia Janečková に花束を

─ 若き歌姫の死とメディアの光 ─

伊藤 英一

目次
1 . 若き歌姫の死を悼んで
2 . オストラヴァそしてチェコの花が世界へ
3 . 小荘厳ミサ曲の小天使として
4 . モラヴィアの空を見上げて
5 . ビロードの歌声はアクセス禁止の国境を越えて
6 . パトリツィアの闘病に花束を
7 . 天使の翼とメディアの光
参考資料、参考サイト
PDFダウンロード
♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥
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☞ 伊藤英一さんへのメッセージ
 

 

 1 . 若き 歌姫ラ・ディーヴァ の死を悼んで

「悲しいニュースがチェコのクラシック音楽界にもたらされました。歌姫パトリツィア・ブルダ・ヤネチコヴァが25歳で早世したのです。(1)
 2023年10月8日、チェコ放送傘下の国際プラハ・ラジオのスペイン語放送は、その1週間前の10月 1日、日曜日に逝去した若き歌姫を悼んで31分8秒の追悼音楽番組を放送した。輝かしい未来を約束 されたかに思われた、歌姫パトリツィアの成功への飛翔が、余りにも唐突に中断されてしまった痛 みが伝えられた。
 どこまでも澄み切った、しかし優しいふくよかさにつつまれたソプラノで、彼女が朗唱するヨゼフ・ハイドン作曲のサルヴェ・レジナS a l v e  r e g i n a とアントニオ・ヴィヴァルディによる同曲名のサルヴェ・レ ジナが流された。ハイドンおよびヴィヴァルディの2大作曲家の手になるサルヴェ・レジナが捧げ られた聖母マリアの優しさとパトリツィアの歌声が渾然一体となったような深い憐れみを感じさせ る時空間となっていた。
 サルヴェ・レジナは聖務日課の終わりに歌われることが多い聖母讃歌とか元后讃歌と呼ばれる聖 歌であるが、パトリツィア・ヤネチコヴァが古楽器を主体に編成されたコレギウム・マリアヌムを バックに朗唱する音の響きが素晴らしかった。

 そんなスペイン語放送だけでなく、10月8日の国際プラハ・ラジオは、フランス語、ドイツ語、 ロシア語、英語の放送でも、多少の編集上のヴァリエーションを加えながらも、いずれも30分前後 の枠でパトリツィアの歌声と人となりを紹介する追悼音楽番組を流した。

 フランス語放送(2)では、スペイン語放送よりも多少ポピュラーな話題と曲も選ばれており、番組は パトリツィアが12歳だった2010年に歌った「Time to Say Goodbye」で開始された。これは、チェ コおよびスロヴァキア両国のテレビ会社合同開催によるコンクールであるタレントマニアで120万票を得て、1万人の参加者から勝ち抜きパトリツィアが優勝(3)した時のものである。もっとも、それ は冒頭のさわりのイントロだけで、パトリツィア・ヤネチコヴァへの追悼番組にふさわしい、彼女 の歌う聖歌をメインに置く流れに直ぐ切り替えられたのではあるが。
 パトリツィア・ヤネチコヴァ(Patricia Janečková)は、スロヴァキア人の両親の下、ドイツの バイエルン州ミュンヒベルクで、1998年に誕生した。しかし、生後3ヶ月で、父がチェコのオスト ラヴァに本拠を置くヤナーチェク・フィルハーモニー管弦楽団のコントラバス奏者として赴任した 為に、一家もオストラヴァに同行。以来、パトリツィア・ヤネチコヴァは25年の生涯を乳癌により 閉じざるを得なくなった2023年10月1日迄、大半の時をオストラヴァで過ごしたのだった。彼女は 一昨年2022年2月に癌との診断を受け、苛酷な闘病生活に入ることを公表していた。亡くなる3ヶ月 前となった昨年の6月には、スロヴァキアの俳優ヴラスティミル・ブルダ(Vlastimil Burda)氏と 念願の結婚、パトリツィア・ブルダ・ヤネチコヴァ(Patricia Burda Janečková)と新夫ブルダの 姓も織り込まれた名前と変わった。
 フランス語放送では、2010年のタレントマニアに出場した時の思い出として、「歌うのが好き だったので、勝ち負けは大事ではなかった。未だ、子供だったこともあり、優勝した後は、カメラ やインタヴューに慣れていないせいで、大変だった。内気だったし、大人の人達とどう話して良い のかも判らなかった」との述懐も紹介している。
 その後で、パトリツィアの本領発揮の分野である、教会での歌声を流しての、30分14秒の放送時 間であった。

 ドイツ語放送(4)では、彼女がドイツで生まれたものの、オストラヴァで成長、ヤナーチェク音楽院 で学んだことに触れた後、オストラヴァにあるモラヴィア・スレスコ(シレジア)国立劇場でレ ナード・バーンスタインの「ウエスト・サイド物語」に出演、マリア役で喝采を浴び、来シーズン の主役となる演目も予定されていた彼女の死を伝えた。
 急逝した彼女の美しい歌声を思い出すよすが としてと、2019年に南モラヴィアのユネスコ世界遺産レ ドニツェ=ヴァルティツェ(ドイツ語ではアイスグルプ=フェルツベルク)で開催された古楽器 フェスティバルで彼女がコレギウム・マリアヌムと共演した折の録音が流され、29分56秒の番組と なった。

 ロシア語放送は「オペラ歌手のスターが消えた(5)」と報じ、2年にわたって癌と戦って亡くなった若い パトリツィア・ブルダ・ヤネチコヴァの死が、チェコ共和国に衝撃をもたらしたと伝えた。2014年 ローマで開催された国際典礼音楽歌唱コンクールで優勝、2016年にはチェコ・ボヘミア西部の温泉 都市カルロヴィ・ヴァリ(ドイツ語名;カールスバート)で開催されたドヴォルザーク歌唱コン クールで三つの賞を受けたパトリツィア・ヤネチコヴァを追悼した30分01秒の番組であった。

英語放送は、「日曜の半時間、今日の音楽の時は、少しaほろ苦いb i t t e r  s w e e tものです」と前置き、「オペラ界の輝く新進の星、パトリツィア・ブルダ・ヤネチコヴァは、25歳で癌に倒れました(6)」として、いき なり彼女の歌うサルヴェ・レジナを聴かせていた。番組は30分13秒で終了したが、最後の視聴者への慰めとして、「25歳だったが、彼女は録音・録画を永続的遺産として残してくれた」の言葉で締 め括られた。
 とはいえ、ハード媒体での記録は、CDが12年ほど前、タレントマニア優勝時に出されたものが 一枚とクリスマス・ソングを他の奏者と共に歌ったものが一枚、加えてスロヴァキア語の童話朗唱 が一枚あるのみで、最新の録音・録画技術を駆使したものが残ってくれていたらと切に願いたい。

 チェコの国際プラハ・ラジオの追悼音楽番組からは、スロヴァキア人の両親に守られドイツで生 まれたパトリツィアが、育ったチェコで暖かく迎えられ、惜しまれつつ亡くなった悲しみと哀悼が 伝わっていた。そこには、国籍や国境の制約が全く影を落とさない空気感も感じられた。 同時に、パトリツィアへの追悼音楽番組であり、30分前後と時間の枠がありながらも各々の言語 による番組の内容と選曲には差異があり、時間のずれに関して柔軟性があり、編成上の自由に幅が あることにも、興味が持たれる番組となっていた。

 尚、パトリツィア逝去の翌々日、2023年10月3日の国際プラハ・ラジオは、その3日後の金曜日6日に開催されるレドニツェでの音楽祭(7)は、パトリツィアに捧げられると報じていた(8)。ちなみに、レ ドニツェはドイツ語ではアイスグルプと呼ばれ、リヒテンシュタイン家ゆかりのワイン畑と史跡で 有名なところである。

 また、チェコ放送(Český rozhlas;ČRo)のディジタルによるクラシック音楽チャンネルである ČRo D-Dur は、2023年10月25日水曜日の午後8時から「Zpívá Patricia Janečková(9)(パトリツィ ア・ヤネチコヴァは歌う)」とのタイトルで、4時間に及ぶ長時間番組を編成放送した。「25歳で早 世したパトリツィア・ヤネチコヴァを偲ぶ最良の手立ては、録音を通して」と、ラジオ放送用録音 ストックからドヴォルザーク歌唱コンクールに於ける彼女の歌声等(10)を選曲しての番組だった。前半 はバロック音楽を中心に取上げたが、後半に入ってから、パトリツィアが素晴らしい声を披露して いるロッシーニの小荘厳ミサ曲(本稿 3 で取上げる)全曲を紹介した。

 続いて、一昨年(2022年)にスプラフォンのレーベルで発売されたCDから、パトリツィアが 歌ったクリスマス ・ ソングとして「Tichá nocテ ィ ハ  ノ ス 」を含む3曲を選び番組を閉じた。「Tichá nocテ ィ ハ  ノ ス 」は、 「静かな夜」との意味で、日本でも「きよしこの夜」としてお馴染みである。ザルツブルク近郊のオーベルンドルフで1818年のクリスマスに初演された賛美歌「Stille Nachtシュティレ ナ ハ ト 」は、オーストリアの 無形文化遺産としてユネスコが2011年に指定しているが、ボヘミアやモラヴィアでも19世紀半ばか らチロル民謡のように愛唱されて来た。 チェコ放送の音楽チャンネル名である「D-Dur」とは「ニ長調」を意味している。同時に、Dは神デウスD e u sの頭文字あることから、D-Dur とは神デウスD e u sの長調、即ち「神の調べ」を示唆している のであろう。オーストリア近辺では、ヴィーン・フィルハーモニー管弦楽団を、そのドイツ語名 「Die Wiener Philharmoniker デ ィ  ヴ ィ ナ ー  フ ィ ル ハ ル モ ニ カ ー」の冠詞 Die と「ヴィーンの」を意味する Wiener をリエゾン風に続けて、ラテン語の Divinaデ ィ ヴ ィ ナ(神の)と同音同義のように呼ぶことを好む音楽ファンが多いのと同様 の感じを受ける。

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2. オストラヴァそしてチェコの花が世界へ

 国際プラハ・ラジオのフランス語放送では、番組冒頭にパトリツィアが12歳だった2010年に、 チェコおよびスロヴァキア両国のテレビ会社合同開催によるコンクールであるタレントマニアで優 勝した折に歌った曲で開始されたことを前の項で述べた。 その番組をインターネット上でストリーミングにより流すだけでなく、ニュース部分を文字で要 点を伝えると共に、番組で放送できなかった曲目をカヴァーするユーチューブ等をウェブサイトで 紹介している。それはフランス語放送だけでなく、他の言語による放送も同様であるものの、紹介 された曲目と曲順はいずれの放送も差異があり、自由に選ばれている。

 フランス語版(11)の紹介サイトでは、先ず、放送時には冒頭のさわりの部分だけに留められた 「Time to Say Goodbye(12)」を、ユーチューブで全曲視聴出来るようリンクを張っている。 次いで、パトリツィアが機械仕掛けの人形オランピアに扮して歌った「生垣には、小鳥たち (Les oiseaux dans la charmille)(13)」が紹介されている。ジャック・オッフェンバックの幻想的オペラO p e r a  f a n t a s t i q u e である「ホフマン物語」の第2幕で、機械仕掛けの粋を尽くした精華である人形オランピアにより 歌われる曲である。

 この「生垣には、小鳥たち」は、パトリツィア自身が2016年5月15日にユーチューブ上にアップ している。以来7年余り経過した2023年12月7日11:00JST(日本標準時)現在で視聴回数20,002,730 回と、2千万回を超えており、クラシック音楽では異例とも言えるヒット数を伸ばしている。上演 されたのは、2016年1月7日のオストラヴァ新春コンサートで、ヤナーチェク・フィルハーモニー管 弦楽団が共演している。指揮はマティアス・フェルスターであるが、当時パトリツィアは未だ17歳 であり、コントラバスを支える父君はさぞ嬉しかったであろうと思うと微笑ましい。機械仕掛けの 人形を生身の人間が演じるアンビバレントな魅力を見事に出している。機械仕掛けの人形そのもの を本当の娘(fille)のように錯覚させる可愛らしさ、コロラトゥーラやトリルの見事さは勿論とし てスタッカートの歯切れの良さをはじめとした歌い上げる技術の正確さ、声の清澄度と暖かさの融 合した素晴らしさ、と魅力に満ち溢れた逸品となっているところが世界の人々を魅了しているので あろう。同時に、そのコメント欄に世界各地から寄せられた1万4千を超えるメッセージから溢れ出 る、パトリツィアの早世を悼み、悲しむ声の多さに圧倒される。

(この「生垣には、小鳥たち」へのアクセス先は https://youtu.be/mVUpKIFHqZk

 第3曲目には、アントニン・ドヴォルザークが作曲した「ルサルカ(14)」から、水の精ルサルカが歌 う「月に寄せる歌」が掲げられている。人間の王子様との恋に落ちてしまった水の精のルサルカ。 はかなくも、危うい恋が成就したかに見えながらも、ルサルカ自身が人間の姿でいる限りは口もき けず、話すことも出来ない水の精の切ない悲しみを、月に訴える歌である。

 そして最後の4曲目にシャルル・グノーがヨハン・セバステアン・バッハの前奏曲に聖句「アヴェ・マリア(15)」を重ねた曲が紹介されている。

 スペイン語版では、フランス語版の4曲に「私のお父さん」1曲を加えた計5曲とし、その「私の お父さん」を2番目に紹介している。
 ジャコモ・プッチーニ作曲のオペラ「ジャンニ・スキッキ」の中で、娘のラウレッタが父スキッキに「私のお父さん(16)(O Mio Babbino Caro)」と呼びかけながら、彼女の願いである、愛する彼と 一緒になる為の指輪を買い行きたいとの思いを歌い上げるアリエッタ(短いアリア)である。 

 ドイツ語版(17)は、パトリツィアが機械仕掛けの人形オランピアに扮して歌う「生垣には、小鳥た ち」の一曲のみに絞っている。 

 ロシア語版(18)では、バッハ=グノーのアヴェ・マリアに加え、「私のお父さん」、と「生垣には、小 鳥たち」の3曲が紹介されている。

 一方、英語版(19)では、「Time to Say Goodbye」、ルサルカからの「月に寄せる歌」、「私のお父さ ん」、「生垣には、小鳥たち」の順序で4曲が選ばれている。

 このように国際プラハ・ラジオがウェブサイトで案内しているユーチューブでのパトリツィアの 活躍を見てみると、25年の生涯を殆どオストラヴァで過ごした彼女がオストラヴァから、チェコ全 国に、更には地球全体、くまなく世界の各地から視聴者層の熱烈な支持と情熱的関心を集めている ことが判って来る。オッフェンバックのホフマン物語「生垣には、小鳥たち」への2千万回を越え る視聴者が受けたであろう感激、印象、哀悼を多様多彩な言語によるコメントの数々から読み解い て行くと、彼女の歌声の素晴らしさとその力の大きさと共に、ユーチューブのグローバル性も同時 に理解できる。
 だが、他方で、25歳で散った彼女、オストラヴァそしてチェコの花としてのパトリツィアが残し てくれた録音・録画に残された歌声そのものは素晴らしいものの、音質と画質には問題があり、記 録そのものも断片的なものが多く、その水準が彼女の真価を伝えるのにふさわしいものなのかどう か淋しく思える部分があることは否めない。

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3 . 小荘厳ミサ曲の小天使として

 ブルノのチェコ・フィルハーモニー合唱団はそのホームページ(20)で、合唱団の推奨演奏録画を掲げている。その筆頭に、ジョアキーノ・ロッシーニの「小荘厳ミサ曲(21)(La petite messe solennelle)」 が挙げられている。これは、同合唱団による2020年〜2021年シーズンの第4回定期演奏会の模様を 録画した1時間27分に及ぶものだが、この演奏会でソプラノのソロを担当したのがパトリツィア・ ヤネチコヴァで、彼女の素晴らしい歌声を思い起こす為の貴重な記録となっている。
 ジョアキーノ・ロッシーニ(22)は1869年、76歳の時にパリのパッシーで没している。その数年前の 1863年から1864年にかけて、アレクシス・ピレ=ウィル(Alexis Pillet-Will)伯爵の求めに応じて ロッシーニが作曲したのが「小荘厳ミサ曲」で、当時71歳、引退表明してから既に34年を経た頃の 作品である。 小荘厳ミサ曲は演奏時間に1時間半近くを要する大曲の部類に入るが、「小(petite)」との形容 詞が冠されているのは、オーケストラのような大編成ではなく、ピアノ2台とハーモニウム(リー ド・オルガン)1台によるコンパクトな小編成での伴奏を想定していたからである。この作品は、 発注者のアレクシス・ピレ=ウィル伯爵の館での私的な集まりで、法王庁大使も出席の下、1864年3月14日に初演されている(23)
 その小編成の伴奏により、逆にソプラノ、アルト、テノール、バスと合唱団による歌唱パート(24)の素晴らしさ、繊細さが際立つ場合もある。

 もっとも、ソプラノのソロによる部分である Crucifixus(クルシフィクス)および O Salutaris Hostia(オ・サルタリス・オスティア / ホスティア)の内、後者の O Salutaris Hostia は当初の小 編成による曲には入っていなかったと言われる。ロッシーニが後にオーケストラ編成の曲を用意し た際に、トマス・アクィナスによる O Salutaris Hostia の冒頭4行分に曲を付け、小荘厳ミサ曲に 加えている。以後、ピアノ2台とハーモニウムをバックとする小編成の場合も O Salutaris Hostia を含む形で演奏され、歌われるのが慣例となったとされる。
 この慣例の御陰で、ブルノのチェコ・フィルハーモニー合唱団による小編成の演奏でも、パトリ ツィア・ヤネチコヴァによるソロ独唱での O Salutaris Hostia を、Crucifixus に加える形で視聴す ることが出来たのだとも言えよう。 ここでは、まさに小編成のメリットである繊細さが生かされ、特にパトリツィア・ヤネチコヴァ のソプラノが際立っている。

(小荘厳ミサ曲のアクセス先は、https://youtu.be/CqrzmdevQSI である。ここで取上げたパトリツィア・ヤネ チコヴァ独唱の Crucifixus は、冒頭から45分29秒〜48分50秒、O Salutaris Hostia は1時間12分48秒〜1時間17 分54秒の部分で視聴出来る。)

 Crucifixus は、andante sostenuto(アンダンテ・ソステヌート)で、音を丁重に扱いながら歩 く速さで演奏される変イ長調の部分であるが、ピアノ伴奏の静かな下支えを受けながら、パトリ ツィアの伸びのある声が天上に届くかのように響いている。十字架上でキリストが受ける苦難と試 練の場が天上の世界に通じていることを確信させるようである。
 パトリツィアがこのパートを練習している模様の録画はチェコ語版(25)とスロヴァキア語版(26)双方のウィキペディアに掲載されており、後に英語版(27)にも追加されている。そこでの彼女は歌唱とメロ ディーの美しさそのものを楽しんでおり、十字架上のキリストの受難が大きく開かれた天上の門へ 繋がっていることを信じながら歌っているようだ。新約聖書の使徒言行録2-36にある、「あなたが たが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです(28)」とのペトロの説 教を体現するかの雰囲気が感じられる。
 文豪スタンダールは、彼の『ロッシーニ伝』の序文で、ロッシーニのことを「才気があり、何もかも笑いとばす男(29)」と描いており、案外、パトリツィアが練習している時のような明るい歌声が ロッシーニの本意に近いのかも知れない。 とは言っても、やはり演奏会本番で、パトリツィアが聴かせている清澄な響きの方が、魅力的に 思われる。

 O Salutaris Hostia は、「天の門を私たちの為に開いて、励まして下さる聖体に感謝します。追ってくる敵と闘う力をお与え、お救い下さい(30)」と祈るトマス・アクィナスが綴った冒頭の4行部分に、 ロッシーニは、andante mosso(アンダンテ・モッソ / 躍動して早めに歩くような速さ)でト長調 の曲を付けている。

 小荘厳ミサ曲の歌い手は、小天使に他ならないとロッシーニは言い、また使徒になぞらえたりも こな している。この小荘厳ミサ曲で、属音上の七の和音等を縦横無尽に使い熟して歌い上げ、アルペジ オで高音部に向かうパトリツィアの声は、まさに小天使になりきっている。
 もっとも、小荘厳ミサ曲を歌うパトリツィアを、真珠に例えるコメントもあり、頷かれもする が。
 3行目の「Bella premunt hostilia(追ってくる敵と)」との、少々好戦的にも受け止められるトマ ス・アクィナスの表現は、この曲を嘗て聴いた際には余り良い印象は持たなかった。しかし、パト し リツィアが、この演奏会の1年後から闘うことを強いられた敵がコロナ禍であり、更に引き続いて の病魔であったことを思えば、「Bella premunt hostilia(追ってくる敵と)」と朗唱する合間に置かれた無音の部分の重さが胸に迫って来る。頑張れと応援したくなる場面である。敵と戦うための援 軍と救いが差し伸べられ、快癒に向かう術はなかったのかと疑念も湧いて来る。

 パトリツィアは両親がスロヴァキア人の為に、スロヴァキア人として紹介されることも多い。ま た、パトリツィア自身も、自己紹介時にはスロヴァキア人と称することを好み、選択している。そのスロヴァキア出身のソプラノ歌手としては、1939年生まれのルチア・ポップ(31)が個人的な印象に 残っている。
 1968年4月14日の日曜日、ウィーン国立歌劇場でモーツァルトのオペラ「魔笛」が上演されたが、 その時、「夜の女王」役を務めたのがルチア・ポップだった。当時、彼女は未だ29歳で、パミーナ の母親役は一寸可哀想とも思った記憶がある。しかし、そのコロラトゥーラは素晴らしかった。
 ただ、その前日、1968年4月13日の土曜日、レナード・バーンスタイン指揮によるプルミエール 初日公演「ばらの騎士」は割れんばかりの拍手が鳴り止まず、観客の熱狂振りが凄かった。その余 韻が冷めやらぬ中の翌日の公演で、ルチア・ポップがパミーナの母親役を務めるよりも、前日の公演(32)にあったヴェルデンベルク侯爵夫人の役で彼女の声を聴いてみたかったと、贅沢にもあらぬ配役 をイメージしたりした。
 そんなルチア・ポップが、脳腫瘍の為に54歳で亡くなった時も早世と感じたが、25歳で逝去して しまったパトリツィアの若さは、余りにも苛酷なものに思われ、惜しまれる。

 2013年、15歳になったばかりの頃のパトリツィアは「誰を理想像としているか?」とのインタヴューに答えて、「音楽上のモデルと考えている人はいないけれど、オペラ界のスターだったルチア・ポップが大好きです。私たちの間に、もういらっしゃらないのが残念(33)」、と語っていた。 「何故、大好きなのか?」との更なる突っ込みに対しては、「ルチア・ポップのグローバル(全体 を包み込むようなとのニュアンス)な表現は、多くの面で美しい。彼女の歌は、軽くて、簡潔であると同時に、敏感で、優しく、やすらぎと幸せの感興を運んで来てくれます(34)」と、しっかり答えてい た。
 それから、10年目、まばゆいばかりの天才的な閃光をきらめかせながら25歳で亡くなったパトリ ツィアが、15歳の時点で、既に先輩のルチア・ポップの業績から、謙虚に、また懸命に学びとる努 力を払っていたことが推察できる回答だった。

 また、時系列的には時をさかのぼることになるが、2011年11月、13歳のパトリツィアが父君と共に雑 誌のインタヴューを受けた際、「将来の夢として、是非、歌いたい一曲は?」との質問に、「魔笛の 中で夜の女王が歌うアリアだ」と答えている。ただ、「うんざりする程、練習して、アリア中の最高音 F3もこなせるようになったけれども(35)」との話だった。「音楽でじけることはありますか?」 との質問に対して、パトリツィアは「Ne(Non;いいえ)」と即座に否定したのに加え、父君は「恐れるのも、敬い過ぎるのも駄目で、何事も挑戦と受けて立つのが大切(36)」と補足していた。

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4 . モラヴィアの空を見上げて

 パトリツィア・ヤネチコヴァの素晴らしい歌声を、ブルノのチェコ・フィルハーモニー合唱団演 奏会での小荘厳ミサ曲で視聴出来ることを、先の項で紹介した。

 ブルノはチェコ第2の都市であり、モラヴィア地方の中心地であるが、音楽の都ヴィーンまで高 ただよ 速道路 E461と A5で南下すると130km 程の至近距離であり、オーストリアの香りが漂う街でもあ る。逆に、オーストリア側から見れば、ドイツ語ではブリュン(Brünn;泉、源泉)と呼ばれるブ ルノの都市名どおり、泉湧く憩いの地なのだ。

 そのブルノを出て東南東に向かうと23km 程でスラフコフ・ウ・ブルナ(Slavkov u Brna)、ド イツ語でアウステルリッツ(Austerlitz)に着く。
 ブルノから東南の方角、数 km 足らずの一帯は、1805年12月、ナポレオン・ボナパルトが7万 3200人の兵力を擁するフランス軍の本陣を構えた場所である。その先、東方向は、アレクサンドル 1世とクトゥーゾフ総司令官が指揮する8万7千人のロシア軍に加え、腰は引けていたもののフラン ツ1世の擁するオーストリア軍が加わり、墺露連合軍は優勢を確保、兵力的には劣勢のフランス軍 と対峙した場所になる。

 1805年12月2日朝からの「アウステルリッツの戦い」の描写は、ロシアの大文豪トルストイの 『戦争と平和』を一読、再読+α回、読み直すことを薦めておきたい。史実に近いか否かの問題はさておき、正に血湧き肉躍る描写から味わえるダイナミックな小説の面白さは、『戦争と平和』を 読んでこそ味わえるものだと言える。サマセット・モーム(Somerset Maugham)、ジョン・ゴー ルズワージー(John Galsworthy)、ロマン・ロラン(Romain Rolland)、アーネスト・ヘミング ウェイ(Ernest Hemingway)を始めとした小説家が、世界第1級の作品と評価していることが腑 に落ちる。

 戦いに敗れ、重傷を負ったアンドレイ・ボルコンスキー公が、出血多量で意識朦朧となっていく中、それでも軍旗を手に、仰向けになったまま、プラツェンP r a t z e n 高地から見上げる空は、あくまでも高く、清らかで、寛やかだった(37)。そんな空を眺めていると、勝利で慢心し虚栄心にまみれたナポレオ ンが、とてもちっぽけに見えた。そのように描かれた紺碧の空は、プラツェン高地やアウステル リッツを包摂するモラヴィアに拡がる無窮の空である。 トルストイが描くモラヴィアに拡がる空に触れたからには、フランスの文豪スタンダールの描い た『パルムの僧院』の話を避けては通れない。 「アウステルリッツの戦い」から下って、ほぼ9年半後のことになる。『パルムの僧院』に描かれ る、侯爵家のうら若き青年ファブリスは、崇拝するナポレオンがエルバ島を脱出したことを知り、 1815年6月18日のワーテルローの戦いに向け、フランス軍に組みするべく馳せ着けようと試みる。 未だファブリスが16歳半ばから17歳にかけての頃であった。しかし、フランス軍は敗れ、故郷イタ リアの景勝地コモ湖周辺は敵方オーストリアの保護下に入ってしまった。そこで、ナポレオンの共 鳴者と見做され逮捕投獄されることを恐れての、ファブリスの逃避行と恋の遍歴が始まるのであ る。ファブリスの老恩師が語る、「(恩師は司祭に昇任されなくて、かえって良かった)もし司祭に なっていたら、モラヴィアの丘の牢獄、シュピールベルクに行く運命だったのだ(38)」との回想は、 ファブリス自身にとっては身近に迫った恐怖であった。「(ファブリスが官憲に)見つかったらコモ湖畔からシュピールベルク一筋道(39)」を辿らざるを得ない窮地に立たされていた。

 このように、スタンダールは『パルムの僧院』の中で、モラヴィアのシュピールベルク城塞を牢 獄として描いている。それから125年程後の第2次世界大戦中、シュピールベルク城塞は、ナチスド イツの秘密国家警察ゲシュタポ(Geheime Staatspolizei)により利用された時期もあった。

 しかし、シュピールベルク(ドイツ語で Spielberg、チェコ語では Špilberk)とは、ドイツ語の 意味では「遊ぶ(Spiel)山(berg)」であり、楽しく遊ぶ野山なのだ。事実、シュピールベルクは ブルノの市街を眼下に望み、周囲に拡がるモラヴィアを一望に眺められる景勝の地である。
 シュピールベルクを軍事拠点として利用することは1959年に廃止、ブルノ市立博物館として改装 され、本来の「遊ぶ(Spiel)山(berg)」との意味に近い場所に戻りつつある。

 更に、2000年からは、夏になると、シュピールベルク城塞の庭園でシュピールベルク音楽祭 (Festival Špilberk)(40)が開催されるようになった。
 2019年8月14日から22日にかけて開催された第20回シュピールベルク音楽祭では、その初日にパトリツィア・ヤネチコヴァがブルノ・フィルハーモニー管弦楽団と共演している。
 エクトル・ベルリオーズの「夏の夜(Les Nuits d’été)」から「田園詩(Villanelle;牧歌)」、フ ランツ・レハールの「ジュディッタ(Giuditta)」から「私の唇は…(Meine Lippen Sie Kussen so Heiss)(41)、オッフェンバックの「ホフマン物語」から「生垣には、小鳥たち(Les oiseaux dans lacharmille)」等、パトリツィアの十八番おはこがプログラムに選ばれており、特にレハールの曲では、彼女の声の潜在性の高さが示されていたとの評価であった(42)。また、この日と同様のメンバーとプログ ラムで、8月24日、ドイツ・ベルリンのブリツァー庭園で野外コンサートが開催されており、楽団の人達に夏休みの無い様子も伝えられている(43)

 2019年から2020年初頭にかけては、オストラヴァ、ブルノ、スロヴァキア、ポーランド、ドイツ と、パトリツィアの超過密スケジュールが続いていた。本拠地であるオストラヴァの管弦楽団に加 え、プラハのスメタナ・ホールでは西ボヘミア交響楽団と、ポーランドではポズナン・フィルハー モニー管弦楽団等と共演し、素晴らしい躍進を示していた。 しかし、パトリツィアの飛翔する空が大きく拡がったかに思われた元気溢れる時期、2020年初頭 から、世界中がコロナ禍に席捲されてしまった。そのコロナ禍に前向きに挑戦しようと葛藤するパトリツィアの様子が、自宅の携帯ピアノで弾き語り、歌う姿(44)から覗われるのが痛ましい。

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5. ビロードの歌声はアクセス禁止の国境を越えて

 ロシアはロシア国内の消費者権利を保護する為として、国際プラハ・ラジオのロシア語放送ウェブサイトへのアクセスを2021年7月15日以降、全面的に禁止する措置をとった(45)、と報じられている(46)。 禁止の理由は、その20年前の2001年に国際プラハ・ラジオが取上げた、ヤン ・ パラフ(Jan Palach)に関する報道内容が、自殺を肯定的に語ることを禁止するロシア国内法に抵触するとの理由によると(47)推測されている。

 2021年のアクセス全面禁止措置の起因となった、対象報道は20年前の2001年のものだが、その報 さかのぼ 道の内容そのものは更に半世紀以上前の1968から1969年にかけての時期に遡るものである。
 当時、ヤン ・ パラフはチェコスロヴァキア・カレル大学の学生で20歳だったが、プラハの中央に あるヴァーツラフ広場にあるヴァーツラフ像の下で、1969年1月19日に焼身自殺した青年である。 その前年、1968年の新春から晩春にかけて、チェコスロヴァキアには、報道、表現、流通の自由が もたらされるかと期待された「プラハの春」と呼ばれる季節があった。しかし、ソ連主導のワル シャワ条約機構軍による侵攻を受けて、期待された夢が敢え無く潰えてしまった。その後のチェコスロヴァキアでは、自由が抑圧されているにも拘わらず、あきらめムードが蔓延、チェコスロヴァ キアの人々だけでなく、世界の反応も消極的になってしまっていた。ヤン ・ パラフはそんな状況に 抗議して、焼身自殺を決行したのだった。

 ヤン ・ パラフの歿後20年を過ぎた1989年2月、ヤン ・ パラフのメモリアルに花束を捧げようとした劇作家のヴァーツラフ・ハヴェルが逮捕され、9カ月間の禁固刑に処せられた。これが、チェコ スロヴァキアでの革命の切っ掛けの一つとなり、共産党による一党独裁が終焉する糸口となった。 この革命が、比較的平和裡に推移し、ビロードの表面が白鳥の羽毛のように柔らかく優しい感触で あるように、共産主義から脱却する革命がスムーズに成就したことから「ビロード革命」、あるい は平穏に革命が実現したことから「穏やかな革命」とも呼ばれるようになったのである。そこで、 ヴァーツラフ・ハヴェルはチェコスロヴァキア大統領に就任した。
 なお、チェコスロヴァキアで41年間続いた一党独裁に終止符を打った、1989年11月17日から28日 にかけての革命を、チェコ語では Sametová revoluce(ビロード革命 / The Velvet Revolution / La révolution de Velours)と呼んでいるが、スロヴァキア語では Nežná revolúcia(穏やかな革命 / The Gentle Revolution / La révolution douce)と呼ばれている。
 更に、続いて、1992年末にはチェコとスロヴァキアの二国に別れる分離独立により、1993年1月1 日、チェコ共和国とスロヴァキア共和国が誕生した。この時、ハヴェルがチェコ共和国初代大統領 となり、ミハル・コヴァチがスロヴァキア共和国大統領に選出されている。
 この一連の分離独立について、英語やフランス語ではビロード(velvet;ヴェルヴェット / divorce velours;ヴルール)との比喩を援用してビロード離婚との表現を用いる向きもある。しかし、現 地ではチェコおよびスロヴァキアの両国とも、単にチェコスロヴァキア解散あるいは分離と呼んで いる。両国とも、分離独立に伴う痛みを味わっており、そのメリット / デメリットについての評価 は今も賛否相半ばと言われており、ましてや離婚に喩えられるのは好まれていないようだ。2004年に両国がヨーロッパ連合に加盟し、分離の痛みは軽減したとも言われているが(48)

 様々な紆余曲折があったにせよ、ユーゴスラビアのような悲劇が分離独立に伴って多々見られる 中で、チェコとスロヴァキアの温和な関係は高く評価されるべきである。それこそ、ビロード (ヴェルヴェット)のように柔らかくふんわりとした静穏な分離が実現し、その後もヴェルヴェッ トのような関係を保っており、そんなゆったりした穏やかな関係を世界中が範としてくれたらと願 わざるを得ない。

 ただ、そのような穏やかな革命や国家関係の礎に、もう半世紀も前の話になるが、当時、未だ20 歳だったヤン ・ パラフの焼身自殺による抗議、犠牲があったことは事実である。 その半世紀前の、しかし忘れられてはならないと思われる事実が、20年前の2001年に於ける国際 プラハ・ラジオの報道内容に含まれた。それが、自殺を肯定的に語ることを禁止するロシア国内法 に抵触するとされ、2021年7月15日以降、国際プラハ・ラジオのロシア語放送ウェブサイトへのア クセスを全面的に禁止するとの措置に繋がったのであろう。

 しかし、「オペラ歌手のスターが消えた(49)」と報じた国際プラハ・ラジオのロシア語放送の例に見るよ うに、国際プラハ・ラジオ側の報道姿勢は健在である。
 また、パトリツィア・ヤネチコヴァが残したウェブ上の歌声は、ロシアでも根強く愛されている ようである。ロシア語によるファンのコメント投稿も多く、またそこで表明されている彼女の死を悼む思い(50)には深いものがある。

 シャンソン歌手のシルヴィ・ヴァルタンS y l v i e  V a r t a n が、故国ブルガリアのマリツァ川を偲ぶと同時に、自由を求めパリへの亡命を家族帯同で先導してくれた父君への感謝を込めて歌った曲に「 La Maritza ラ  マ リ ザ ァ(想い出のマリッツァ;ジャン・ルナールJ e a n  R e n a r d 作曲)」がある。この曲に、チェコの作詞家パヴェル・ ザックP a v e l Ž á k の歌詞を付けた「Co mi dáš(51)(何を私に下さるの)」を、パトリツィアが歌っている。彼女の 歌声に寄せられた、ロシア語でのコメントや、パトリツィアへの愛惜哀悼からは、中欧から東欧に かけて通底する文化的な香りが感じられる。
 もっとも、ロシア語で書き込みされているからとか、ロシアに割り当てられている国別コード= トップ・レベル・ドメイン名(ccTLD)が使われているにせよ、必ずしもロシア国内からの発受 信とは断定出来ないが。しかし、ロシア語を話し書く人々のパトリツィア・ヤネチコヴァを愛する 層は広く厚いのである。

 スロヴァキア人の両親の下にドイツで生まれ、スロヴァキア人の恋人と結婚したパトリツィア・ ヤネチコヴァが、チェコのオストラヴァで活躍、チェコ放送傘下の国際プラハ・ラジオの追悼音楽 番組で哀悼の意が世界に伝えられるという、まさにビロードのような環境に包まれた、パトリツィ ア・ヤネチコヴァの歌声が国境の壁を超克していることが実感される。

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 6. パトリツィアの闘病に花束を

 コロナ禍からの黎明がようやく輝きだした2021年末から2022年にかけて、コンサート、オペラ、 ミュージカルと予定も目白押しで、パトリツィア・ヤネチコヴァの素晴らしい活躍と一層の飛躍が 期待されていた。

 しかし、「2022年1月31日の月曜日、快晴の朝、太陽の光を反射して、氷結した木々や道路がきらめき壮麗だった。電話では検査結果を伝えられないので、直ぐ来るようにと医師から告げられ、病院 に出掛けた。その帰り、救急車から出ると、既に空は雲に覆われていました(52)」と、パトリツィア・ ヤネチコヴァは、後に雑誌の対談で語っている。

 2022年2月9日、インスタグラム(53)およびフェイスブック(54)で、更に、その2週間後にはユーチューブ (55)を介して、1月末に乳癌との診断を受けた為、厳しい闘病生活に入らなければならないと公表した。 舞台を離れ、コンサート等の予定もキャンセルしたことを伝えると同時に、チェコの芸術家支援基 金を通じての援助を依頼した。そして、病魔との戦いに打ち勝って、歌う世界に何時か凱旋するこ とを誓ったのだった。

 インスタグラムおよびフェイスブックでの公表に衝撃を受けた人々から、お見舞いや激励の言葉 が寄せられた。チェコ語やスロヴァキア語によるものは勿論だが、ドイツ語、ポーランド語、英 語、日本語、韓国語、中国語、スペイン語、イタリア語、ロシア語、ポルトガル語、フランス語、 等々、世界各国語によるメッセージが投稿された。フェイスブックでの700を超えるコメントは、長文も多く、懇切丁寧な治療方法や望ましい食事なども綴られている。
 もっとも、「総てのメッセージが優しいものでは無く、それが人間の本質の一面なのでしょう(56)」 と、ミラン ・ バトール記者との4回目のインタヴューで、厳しくも重い現実を述懐している。

 しかし、そのような暗いニュースが流れた2ヶ月後には、一転して明るいメッセージが届けられ た。化学療法結果は良好で、担当の腫瘍医と相談した結果、慎重を要するもののミュージカルに出演することは可能とのことであった(57)。オストラヴァのモラヴィア・スレスコ(シレジア)国立劇場でのミュージカル「Harpagon je lakomec?(58)(アルパゴンは強欲か ?;モリエール「守銭奴」のオリ ジナル・ミュージカル版)」で4月6日舞台に復帰し、4月12日には「ウエスト・サイド物語」のマリア役(59)で出演している。

 その後も、癌の治療は順調で、8月10日からの外科手術は厳しいものの成功しているとの経過が 果敢にアップされ、回復基調にあることが報告されていた。
 2022年12月15日には、ベドルジハ・スメタナのオペラ・ブッファ「売られた花嫁(Prodaná nevěsta / La Fiancée vendue)」のエスメラルダ役で舞台に出ている。しかし、12月22日のインタヴューでは、「本来の力を出せない(60)」との苦悩も漏らしている。
 闘病を続ける彼女を支援し、激励する為のコンサートが2023年1月7日、オストラヴァ福音教会で開催されている(61)。半年後の6月18日には25歳の誕生日を迎え、更に彼女が「人生で最も美しかった日(62) 」と書き込んだ6月24日には結婚と、朗報が続いた。 

 しかし、夏には肝機能の不全が重症化し(63)、薬石投与を含む利用可能な治療が望めなくなり、パトリツィア・ヤネチコヴァを救うことが出来なかったと報じられた (64) 。2023年10月1日夕刻のことである。その前々日、9月29日に結婚式の模様(65)ユーチューブにアップし、30万回を超える視聴と、1千 通を超えるコメント欄での祝辞が寄せられる最中であった。

 病魔という敵に勇気を奮って挑戦し、頑張って、立派に闘ったパトリツィア・ヤネチコヴァに花 束を贈りたい。

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 7. 天使の翼とメディアの光

「天使のような才媛は、その翼を完全に拡げるには時間が足りなかった(66) 。しかし、彼女は最善を 尽くした。」
 オストラヴァの日刊文化サイトである「オストラヴァン」でミラン ・ バトール記者は、パトリ ツィア・ヤネチコヴァが逝去した翌日の記事に、そのような見出しを付けた。

 しかし、パトリツィア・ヤネチコヴァを8歳の頃から指導し、更にはヤナーチェク音楽院、オストラヴァ大学を通じて、公私双方で彼女に寄り添って来て、彼女の心に極めて近い存在であるエヴァ・ドリズゴヴァ教授からは、「パトリツィアは子供のころから翼を拡げ、人生で他の人より多くのことを成し遂げました。それで、今は天にいるのです (67) 」とのメッセージがあったことを同時に 紹介している。
 更に、パトリツィア・ヤネチコヴァは、余りにも拙速にこの世から離れてしまったものの、信じ られない程の努力家で、強い責任感に裏付けされた、多岐に亘る能力を見せながら、輝ける、消されることのない極印を残したのだと記した(68)

 生徒としてのパトリツィア・ヤネチコヴァと、彼女を指導し「パトリツィアは子供のころから翼を拡げ…」とのメッセージを寄せたエヴァ・ドリズゴヴァ教授との、息の合った二重唱 デ ュ オ を視聴して みると(69) 、良い関係の雰囲気に二人が包まれている様相が実感される。

 そんな二重唱の例として、先ず、「そよ風によせて(Sull’aria...che soave zeffiretto)」にアクセス してみよう(アクセス先;https://youtu.be/d4s5VHlAwDw
 モーツァルトのオペラ「フィガロの結婚(Le Nozze di Figaro)」の第3幕で、放蕩の過ぎる伯爵 を懲らしめる為に、結婚を間近に控えたスザンナと伯爵夫人が二人で手紙をドラフトする場面で歌われる「手紙の二重唱」とも呼ばれる小曲 canzonetta である。
 伯爵夫人ロジーナ役を先生のエヴァ・ドリズゴヴァが、スザンナ役を生徒パトリツィア・ヤネチ コヴァが務めているが、如何にも二人が共同作戦を練っている様子が上手く演出されている。 なお、この二重唱のバックで共演しているのはオロモウツのモラヴィア・フィルハーモニー管弦 と 楽団であるが、指揮者は先に3項で紹介した小荘厳ミサ曲の指揮をったパオロ・ガット(Paolo Gatto)で、エヴァ・ドリズゴヴァ先生の伴侶である(70)
 2013年8月17日、モラヴィアのヤルメリッツ城 (71) での音楽祭最終日の模様が録画されたもので、パトリツィアが15歳になったばかりの頃となる。演奏後、パオロ・ガットにうながされ、聴衆の拍手に応 える二重唱の2人の笑顔が素晴らしい。

 二重唱の二番目の例として、23歳になったパトリツィア・ヤネチコヴァがエヴァ・ドリズゴヴァ 先生と出演したリサイタルでの模様にアクセスしてみたい(アクセス先;https://youtu.be/- kgXyWa_SDo)。
 この録画は(72)、コロナ禍で苦闘する教育関係者支援の為に、チェコ・テレビの支援の下、オルロ ヴァのシレジア福音教会に於いて、2021年4月24日に非公開で行われた。出演者は二重唱の2人にピ アニストとアナウンサーの計4人に留められている。録画の長さは1時間9分54秒であるが、例とし ての曲は、録画の最後の部分となる1時間3分42秒以降の小曲を視聴してみよう。

 レオ・ドリーブ(Léo Delibes)作曲のオペラ「ラクメ(Lakmé)」第1幕からの一曲(73) で、1883年4 月14日にパリのオペラ ・ コミック座で初演されたものである。イギリス統治下のインドで、バラモン教僧侶の娘ラクメが侍女マリカと共に、ジャスミンの花咲く寺院 D ô m e へ出掛け、青い蓮の花を一緒に 摘みましょうと歌う「花の二重唱(duo des fleurs)」である。可憐な娘ラクメとイギリス軍将校 ジェラルド、二人の未来を待ち受ける悲恋を予知させる曲となっている。
  娘ラクメを演じるパトリツィア・ヤネチコヴァと、侍女マリカ役のエヴァ・ドリズゴヴァ先生と の掛け合いが、静寂な中で穏やかな雰囲気を醸し出している。
 二人が、同時に、しかし異なる歌詞を掛け合わせる部分が絶妙な調和を保っており、フランス語 みんな での文意が鮮明に伝えられて来る。二人が違ったことを語っているのだけれど、しかし一緒。皆が 違って、皆が良い、との二重唱版となっている。
 一方、コロナ禍が続く中で、様々な制約があったことが再確認される記録ともなっている。2021 年初春は未だ、コロナ感染予防の為、非公開を余儀なくされていた時期でもあり、静寂な環境の利 点もあるものの、拍手や観客の反応が得られない寂しさがある。また、教会の中の暖房設備の制約 からか、厚手の外套を着込んでの長時間演奏の厳しさも伝わって来る。パトリツィアたちが抱えて いた苦難が偲ばれる。

 前例の2013年に歌われた「手紙の二重唱(そよ風によせて)」では15歳だったパトリツィアが、 後者の例の「花の二重唱(duo des fleurs)」を歌った2021年には23歳となり、その間の技倆の進展 に著しいものが覗えると同時に、エヴァ・ドリズゴヴァ先生の良き指導も推察される。
 パトリツィア・ヤネチコヴァとエヴァ・ドリズゴヴァ先生が一緒に歌う二重唱の例を追って見る と、良き伝統を次世代に継承しようとする微笑ましい関係が麗しい。
 エヴァ・ドリズゴヴァ先生は、「パトリツィアの声を変えることや、歪めることが無いように、「力を入れないで、漸進的に成長できるようなレパートリーを選ぶようにしている(74)」と、2014年に 語っていた。「力を入れない」、「無理をしない」との、先生の的確な判断やアドヴァイスが報われ つつあり、喜びや期待には大きいものがあったのは確かであろう。

 とは言え、ミラン ・ バトール記者の「信じられない程の努力家で、強い責任感に裏付けされた …」との記述からも推察されるパトリツィアの長所が、逆に2022年の術後スケジュールを厳しいも はこ のに留めてしまった可能性は否めない。公演予定をキャンセルしたとのメッセージどおりには運ば なかった事情が垣間見える。もっとも、2022年4月の「ウエスト・サイド物語」のマリア役での出 演は、当の本人の希望に沿ったものでもあったようで、その際の写真が彼女の逝去を報じるニュー ス等で多く使われていた。
 結果として、師よりも次世代を担う若者が早世してしまうような痛ましいケースもあり得ると の悲劇が実感させられてしまう。
 同時に、若い世代から学ぶこともまた多く、パトリツィア・ヤネチコヴァが、翼と十分に拡げら れたのかどうかはさておき、「パトリツィアは子供のころから翼を拡げ…」との先生の述懐も共感 させられる思いがする。

 パトリツィア・ヤネチコヴァとエヴァ・ドリズゴヴァ先生との世代の境界を越えたコミュニケー ションが織りなす、ほのぼのとした空気感は、『戦争と平和』でアンドレイ公が見上げるモラヴィ アの紺碧の空のように、あくまでも高く、清らかで、寛大な感じをもたらしてくれる。

 1805年12月2日朝からの「アウステルリッツの戦い」を含め、第一次と第二次に及ぶ世界大戦を挟み、更には20世紀末の冷戦終結時までを振り返って見ると、国境の壁、人種や国籍による境界、 言語や信仰信条への干渉、等々で苦難の歴史を辿ったのが、バイエルン、ボヘミア、モラヴィア、 シレジア、スロヴァキアにかけての地域である。

 しかし、1998年6月18日にドイツのバイエルン州ミュンヒベルクでスロヴァキアの両親の間に生 まれたパトリツィアが、チェコのオストラヴァで育ち、学び、歌いながら、2023年10月1日夕刻、 天に召されるまで、嘗ての地域的な対立が影を落とした形跡は皆無である。
 20世紀の終わりから21世紀の現在にかけて、バイエルン、ボヘミア、モラヴィア、シレジア、ス ロヴァキアにかけての地域に穏やかな、寛容度の高い、清澄な空気が流れていることが感じられ る。

 しかし、不寛容の風潮が地球を取り巻くように蔓延し、国家間の対立や悲惨な戦争が、音楽を始めとした芸術の分野にまでインパクトをもたらしている昨今の世界情勢である (75) 。パトリツィアが活 躍し、翼を拡げつつあった地域の優しく、穏やかで、ふくよかさに包まれた寛容度の高い在り方を 模範として考え直して見る必要があると思われる。

 また、パトリツィアが早世したこともあり、DVD やテレビ放送等による高品質メディアの記録 が殆どないことは残念である。しかし、逆に方式や地域性の制約を受けないメディアによる世界へ の拡がりが、インスタグラム、フェイスブック、ユーチューブ等の双方向メディアで確保され、そ の光の恩恵を世界の人々が享受出来ることは幸せであると思われる。特に、パトリツィアの投稿し た録画やメッセージを巡って飛び交う多様な言語からは、そのコミュニケーションを支援する自動 翻訳機能の精度が高まり、言語の壁が克服されつつあることが実感される。

 ただし、そのようにコミュニケーションが容易な時代であればこそ、パトリツィアを苦しめた、 「総てのメッセージが優しいものでは無く、それが人間の本質の一面なのでしょう」と述懐させた ような、悪意ある虚偽メッセージに関しては、そのようなメッセージの流通交換を決して許さない システムの構築が迫られている。

 歌姫パトリツィアの成功への羽ばたきが止むことなく、翼が更に拡がり、迎え入れられた天での 飛翔に支障が無いことを、そして彼女の歌声が世界中で更に愛され続けることを祈りたい。

なお、脚注に付したウェブ等の参照日時は、特に記載の無い限り、2023年 10月1日から2024年1月22日23:00JST にかけてのものである。 また、チェコ語、スロヴァキア語、ロシア語、スペイン語、ポルトガル語 から、フランス語、英語、ドイツ語への自動翻訳および照合にあたっては、 主として Google translate に依拠した。特に、注釈中に引用紹介したチェ コ語サイトのフランス語文は Google translate の「チェコ語→フランス語 自動翻訳」機能を利用、記録した結果である。 

 

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2023年の投稿

 森弘道さんの投稿

 

 

ミュンヘン・ オペラフェスティバル に行ってきました

 

森 弘道

 このフェスティバルは1875年に開始された歴史あるイベントで、今年は6月23日から7月31日までミュンヘンのバイエルン州立歌劇場などで開催されました。今年のテーマは「戦争と愛」、私は7月26日から30日まで滞在してオペラ二本を観ました。ミュンヘンは涼しくて気温は日中最高の時でも摂氏22度程度、長袖が欲しい気候でした。帰国したら35度を超えるこの暑さ、すっかり参っています。

フェスティバルのため ジェンダーレスカラーの 虹色で彩られた バイエルン州立歌劇場正面

  一本目の「アイーダ」はウクライナを意識した読み替え演出の新作で、第一幕の舞台は保育園か小学校の体育館で、天井が至る所破けている中で子どもたちが遊んでいます。緊迫した場面になると爆撃で天井の破れ目から大量の砂や灰が落ちてきます。そんな中でエチオピアの侵攻が伝えられ物語は始まります。第二幕はこのオペラの見どころ、凱旋パレードですが、何と行進してきたのは凱旋軍ならぬ戦傷兵の列、車椅子や松葉杖の行進です。私としてはこのような読み替えには抵抗があったのですが、休憩後の第三幕は歌が感動的で、第四幕のお墓に生き埋めになった場面は非常に綺麗で、保育園の子どもたちが天使のように上座後方に立ち、実に感動的でした。私はこれまでこのお墓の生き埋めがあるため、アイーダを観るのが億劫だったのですが、今回のこの最後の場面を観てホッとしました。最初の嫌な演出の後でこの印象的な最終場面、まさに演出のうまさを感じました。後味の良い舞台でした。

指揮:ダニエレ・ルスティオーニ(ミラノ出身の新進気鋭、将来の巨匠との呼声が高い)

アイーダ:エレーナ・スティヒナ(ロシア生まれのソプラノ、2017年から世界的に活躍)

ラダメス:ブライアン・ジャッジ(ニューヨーク生まれのテノール)

「アイーダ」のカーテンコール

  二本目の「トリスタンとイゾルデ」ですが、10年くらい前にパリのオペラ座バスティーユで見たことがあります。長くて退屈で、眠たくなるオペラでした。しかし、ドイツではやはりワグナーです。迫力のある歌いっぷりで、メリハリが効いて心打たれました。10年たって私の耳が肥えたのかもしれませんが。それに、終幕後のカーテンコールで観衆の熱狂ぶりには圧倒されました。皆さんスタンディングオベーションで、しかも足を踏み鳴らして大変な騒ぎでした。やはりドイツはワグナーの国です。オペラならワグナーでイタリアオペラなど眼中にないという人も多いそうです。

 ミュンヘンではウクライナ支援の旗が至る所に見られました。地政学的にもNATOの一員としてもウクライナ侵攻は日本では想像できないくらい深刻なようです。もちろん世界的にも影響は大きく、今回の飛行ルート、日本航空なんですが、往路は太平洋をアラスカに向けて北上し、カナダ北部から北極圏を突っ切ってヨーロッパに入りました。かってのアンカレッジルートに近いものです。しかし着陸無しで15時間もの飛行でした。今回はビジネスクラスだったからよかったものの、エコノミーだったら私の歳では耐えられないところでした。復路はヨーロッパから黒海の上をトルコ沿岸に沿って飛び、カスピ海を横断し、中央アジア諸国、中国の上を飛んで北京上空から日本へ向かう南回りのルートでした。偏西風の追い風で往路より短く13時間程度の飛行でした。つまり、往復合わせて、ロシア周囲をぐるりと回るミニ世界一周の旅でした。私にとっては珍しいルートでしたが、ヨーロッパが本当に遠くなりました。これもロシアのウクライナ侵攻のせいです。

2023.8.11 投稿

 


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