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パトリツィア・ヤネチコヴァPatricia Janečkováに花束を
─ 若き歌姫の死とメディアの光 ─
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2025年の投稿
田代 務一さんの投稿 | ||
米国小学校における子女教育体験など 田代 務 自身はひと昔前、主に企業テレワーク等に係わる関連ブログをA2A株式会社WEBに連載しておりました。先般これを読み返したところ、現在なお通用する部分があると思われたので下にリンクを示します。
おりしも米国では新大統領が就任、一方、日本では少数与党政局下での高校無償化の決議もあり子供達の教育環境の変化が気になります。 それもあってか米国在住時の次のような経験知見を思い出した次第です。 暇な折りにご笑覧ください。 特に下記ページはpdfの目次にて下線をクリックすると当該ページにジャンプします。また、下記の項目をクリックすると直接、当該ページが開きますので、拡大してお読みください。 16 主夫業も慣れたもの
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2024年の投稿
田代 務一さんの投稿 | |||
フライ・ツー・ザ・ムーン・アゲイン 田代 務 先日、「フライ・ミー・ツー・ザ・ムーン」というラブストーリー映画を観て、1960年代の米ソ宇宙開発競争の頃が懐かしくなりました。
その目次は次のとおりです。 1 1960年代の宇宙開発競争 2 月の歴史と環境 3. 月探査の新時代 お暇なおりにご笑覧頂き、間違い等あればご指摘頂ければ幸いです。
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伊藤英一さんの投稿 | ||||||||||||||||
パトリツィア・ヤネチコヴァ Patricia Janečková に花束を ─ 若き歌姫の死とメディアの光 ─ 伊藤 英一*
1 . 若き 歌姫の死を悼んで 「悲しいニュースがチェコのクラシック音楽界にもたらされました。歌姫パトリツィア・ブルダ・ヤネチコヴァが25歳で早世したのです。(1)」 そんなスペイン語放送だけでなく、10月8日の国際プラハ・ラジオは、フランス語、ドイツ語、 ロシア語、英語の放送でも、多少の編集上のヴァリエーションを加えながらも、いずれも30分前後 の枠でパトリツィアの歌声と人となりを紹介する追悼音楽番組を流した。 フランス語放送(2)では、スペイン語放送よりも多少ポピュラーな話題と曲も選ばれており、番組は パトリツィアが12歳だった2010年に歌った「Time to Say Goodbye」で開始された。これは、チェ コおよびスロヴァキア両国のテレビ会社合同開催によるコンクールであるタレントマニアで120万票を得て、1万人の参加者から勝ち抜きパトリツィアが優勝(3)した時のものである。もっとも、それ は冒頭のさわりのイントロだけで、パトリツィア・ヤネチコヴァへの追悼番組にふさわしい、彼女 の歌う聖歌をメインに置く流れに直ぐ切り替えられたのではあるが。 ドイツ語放送(4)では、彼女がドイツで生まれたものの、オストラヴァで成長、ヤナーチェク音楽院 で学んだことに触れた後、オストラヴァにあるモラヴィア・スレスコ(シレジア)国立劇場でレ ナード・バーンスタインの「ウエスト・サイド物語」に出演、マリア役で喝采を浴び、来シーズン の主役となる演目も予定されていた彼女の死を伝えた。 ロシア語放送は「オペラ歌手の星が消えた(5)」と報じ、2年にわたって癌と戦って亡くなった若い パトリツィア・ブルダ・ヤネチコヴァの死が、チェコ共和国に衝撃をもたらしたと伝えた。2014年 ローマで開催された国際典礼音楽歌唱コンクールで優勝、2016年にはチェコ・ボヘミア西部の温泉 都市カルロヴィ・ヴァリ(ドイツ語名;カールスバート)で開催されたドヴォルザーク歌唱コン クールで三つの賞を受けたパトリツィア・ヤネチコヴァを追悼した30分01秒の番組であった。 英語放送は、「日曜の半時間、今日の音楽の時は、少しほろ苦いものです」と前置き、「オペラ界の輝く新進の星、パトリツィア・ブルダ・ヤネチコヴァは、25歳で癌に倒れました(6)」として、いき なり彼女の歌うサルヴェ・レジナを聴かせていた。番組は30分13秒で終了したが、最後の視聴者への慰めとして、「25歳だったが、彼女は録音・録画を永続的遺産として残してくれた」の言葉で締 め括られた。 チェコの国際プラハ・ラジオの追悼音楽番組からは、スロヴァキア人の両親に守られドイツで生 まれたパトリツィアが、育ったチェコで暖かく迎えられ、惜しまれつつ亡くなった悲しみと哀悼が 伝わっていた。そこには、国籍や国境の制約が全く影を落とさない空気感も感じられた。 同時に、パトリツィアへの追悼音楽番組であり、30分前後と時間の枠がありながらも各々の言語 による番組の内容と選曲には差異があり、時間のずれに関して柔軟性があり、編成上の自由に幅が あることにも、興味が持たれる番組となっていた。 尚、パトリツィア逝去の翌々日、2023年10月3日の国際プラハ・ラジオは、その3日後の金曜日6日に開催されるレドニツェでの音楽祭(7)は、パトリツィアに捧げられると報じていた(8)。ちなみに、レ ドニツェはドイツ語ではアイスグルプと呼ばれ、リヒテンシュタイン家ゆかりのワイン畑と史跡で 有名なところである。 また、チェコ放送(Český rozhlas;ČRo)のディジタルによるクラシック音楽チャンネルである ČRo D-Dur は、2023年10月25日水曜日の午後8時から「Zpívá Patricia Janečková(9)(パトリツィ ア・ヤネチコヴァは歌う)」とのタイトルで、4時間に及ぶ長時間番組を編成放送した。「25歳で早 世したパトリツィア・ヤネチコヴァを偲ぶ最良の手立ては、録音を通して」と、ラジオ放送用録音 ストックからドヴォルザーク歌唱コンクールに於ける彼女の歌声等(10)を選曲しての番組だった。前半 はバロック音楽を中心に取上げたが、後半に入ってから、パトリツィアが素晴らしい声を披露して いるロッシーニの小荘厳ミサ曲(本稿 3 で取上げる)全曲を紹介した。 続いて、一昨年(2022年)にスプラフォンのレーベルで発売されたCDから、パトリツィアが 歌ったクリスマス ・ ソングとして「Tichá noc」を含む3曲を選び番組を閉じた。「Tichá noc」は、 「静かな夜」との意味で、日本でも「きよしこの夜」としてお馴染みである。ザルツブルク近郊のオーベルンドルフで1818年のクリスマスに初演された賛美歌「Stille Nacht」は、オーストリアの 無形文化遺産としてユネスコが2011年に指定しているが、ボヘミアやモラヴィアでも19世紀半ばか らチロル民謡のように愛唱されて来た。 チェコ放送の音楽チャンネル名である「D-Dur」とは「ニ長調」を意味している。同時に、Dは神デウスの頭文字あることから、D-Dur とは神デウスの長調、即ち「神の調べ」を示唆している のであろう。オーストリア近辺では、ヴィーン・フィルハーモニー管弦楽団を、そのドイツ語名 「Die Wiener Philharmoniker」の冠詞 Die と「ヴィーンの」を意味する Wiener をリエゾン風に続けて、ラテン語の Divina(神の)と同音同義のように呼ぶことを好む音楽ファンが多いのと同様 の感じを受ける。 2. オストラヴァそしてチェコの花が世界へ 国際プラハ・ラジオのフランス語放送では、番組冒頭にパトリツィアが12歳だった2010年に、 チェコおよびスロヴァキア両国のテレビ会社合同開催によるコンクールであるタレントマニアで優 勝した折に歌った曲で開始されたことを前の項で述べた。 その番組をインターネット上でストリーミングにより流すだけでなく、ニュース部分を文字で要 点を伝えると共に、番組で放送できなかった曲目をカヴァーするユーチューブ等をウェブサイトで 紹介している。それはフランス語放送だけでなく、他の言語による放送も同様であるものの、紹介 された曲目と曲順はいずれの放送も差異があり、自由に選ばれている。 フランス語版(11)の紹介サイトでは、先ず、放送時には冒頭のさわりの部分だけに留められた 「Time to Say Goodbye(12)」を、ユーチューブで全曲視聴出来るようリンクを張っている。 次いで、パトリツィアが機械仕掛けの人形オランピアに扮して歌った「生垣には、小鳥たち (Les oiseaux dans la charmille)(13)」が紹介されている。ジャック・オッフェンバックの幻想的オペラ である「ホフマン物語」の第2幕で、機械仕掛けの粋を尽くした精華である人形オランピアにより 歌われる曲である。 この「生垣には、小鳥たち」は、パトリツィア自身が2016年5月15日にユーチューブ上にアップ している。以来7年余り経過した2023年12月7日11:00JST(日本標準時)現在で視聴回数20,002,730 回と、2千万回を超えており、クラシック音楽では異例とも言えるヒット数を伸ばしている。上演 されたのは、2016年1月7日のオストラヴァ新春コンサートで、ヤナーチェク・フィルハーモニー管 弦楽団が共演している。指揮はマティアス・フェルスターであるが、当時パトリツィアは未だ17歳 であり、コントラバスを支える父君はさぞ嬉しかったであろうと思うと微笑ましい。機械仕掛けの 人形を生身の人間が演じるアンビバレントな魅力を見事に出している。機械仕掛けの人形そのもの を本当の娘(fille)のように錯覚させる可愛らしさ、コロラトゥーラやトリルの見事さは勿論とし てスタッカートの歯切れの良さをはじめとした歌い上げる技術の正確さ、声の清澄度と暖かさの融 合した素晴らしさ、と魅力に満ち溢れた逸品となっているところが世界の人々を魅了しているので あろう。同時に、そのコメント欄に世界各地から寄せられた1万4千を超えるメッセージから溢れ出 る、パトリツィアの早世を悼み、悲しむ声の多さに圧倒される。 (この「生垣には、小鳥たち」へのアクセス先は https://youtu.be/mVUpKIFHqZk) 第3曲目には、アントニン・ドヴォルザークが作曲した「ルサルカ(14)」から、水の精ルサルカが歌 う「月に寄せる歌」が掲げられている。人間の王子様との恋に落ちてしまった水の精のルサルカ。 はかなくも、危うい恋が成就したかに見えながらも、ルサルカ自身が人間の姿でいる限りは口もき けず、話すことも出来ない水の精の切ない悲しみを、月に訴える歌である。 そして最後の4曲目にシャルル・グノーがヨハン・セバステアン・バッハの前奏曲に聖句「アヴェ・マリア(15)」を重ねた曲が紹介されている。 スペイン語版では、フランス語版の4曲に「私のお父さん」1曲を加えた計5曲とし、その「私の お父さん」を2番目に紹介している。 ドイツ語版(17)は、パトリツィアが機械仕掛けの人形オランピアに扮して歌う「生垣には、小鳥た ち」の一曲のみに絞っている。 ロシア語版(18)では、バッハ=グノーのアヴェ・マリアに加え、「私のお父さん」、と「生垣には、小 鳥たち」の3曲が紹介されている。 一方、英語版(19)では、「Time to Say Goodbye」、ルサルカからの「月に寄せる歌」、「私のお父さ ん」、「生垣には、小鳥たち」の順序で4曲が選ばれている。 このように国際プラハ・ラジオがウェブサイトで案内しているユーチューブでのパトリツィアの 活躍を見てみると、25年の生涯を殆どオストラヴァで過ごした彼女がオストラヴァから、チェコ全 国に、更には地球全体、くまなく世界の各地から視聴者層の熱烈な支持と情熱的関心を集めている ことが判って来る。オッフェンバックのホフマン物語「生垣には、小鳥たち」への2千万回を越え る視聴者が受けたであろう感激、印象、哀悼を多様多彩な言語によるコメントの数々から読み解い て行くと、彼女の歌声の素晴らしさとその力の大きさと共に、ユーチューブのグローバル性も同時 に理解できる。 3 . 小荘厳ミサ曲の小天使として ブルノのチェコ・フィルハーモニー合唱団はそのホームページ(20)で、合唱団の推奨演奏録画を掲げている。その筆頭に、ジョアキーノ・ロッシーニの「小荘厳ミサ曲(21)(La petite messe solennelle)」 が挙げられている。これは、同合唱団による2020年〜2021年シーズンの第4回定期演奏会の模様を 録画した1時間27分に及ぶものだが、この演奏会でソプラノのソロを担当したのがパトリツィア・ ヤネチコヴァで、彼女の素晴らしい歌声を思い起こす為の貴重な記録となっている。 もっとも、ソプラノのソロによる部分である Crucifixus(クルシフィクス)および O Salutaris Hostia(オ・サルタリス・オスティア / ホスティア)の内、後者の O Salutaris Hostia は当初の小 編成による曲には入っていなかったと言われる。ロッシーニが後にオーケストラ編成の曲を用意し た際に、トマス・アクィナスによる O Salutaris Hostia の冒頭4行分に曲を付け、小荘厳ミサ曲に 加えている。以後、ピアノ2台とハーモニウムをバックとする小編成の場合も O Salutaris Hostia を含む形で演奏され、歌われるのが慣例となったとされる。 (小荘厳ミサ曲のアクセス先は、https://youtu.be/CqrzmdevQSI である。ここで取上げたパトリツィア・ヤネ チコヴァ独唱の Crucifixus は、冒頭から45分29秒〜48分50秒、O Salutaris Hostia は1時間12分48秒〜1時間17 分54秒の部分で視聴出来る。) Crucifixus は、andante sostenuto(アンダンテ・ソステヌート)で、音を丁重に扱いながら歩 く速さで演奏される変イ長調の部分であるが、ピアノ伴奏の静かな下支えを受けながら、パトリ ツィアの伸びのある声が天上に届くかのように響いている。十字架上でキリストが受ける苦難と試 練の場が天上の世界に通じていることを確信させるようである。 O Salutaris Hostia は、「天の門を私たちの為に開いて、励まして下さる聖体に感謝します。追ってくる敵と闘う力をお与え、お救い下さい(30)」と祈るトマス・アクィナスが綴った冒頭の4行部分に、 ロッシーニは、andante mosso(アンダンテ・モッソ / 躍動して早めに歩くような速さ)でト長調 の曲を付けている。 小荘厳ミサ曲の歌い手は、小天使に他ならないとロッシーニは言い、また使徒になぞらえたりも こな している。この小荘厳ミサ曲で、属音上の七の和音等を縦横無尽に使い熟して歌い上げ、アルペジ オで高音部に向かうパトリツィアの声は、まさに小天使になりきっている。 パトリツィアは両親がスロヴァキア人の為に、スロヴァキア人として紹介されることも多い。ま た、パトリツィア自身も、自己紹介時にはスロヴァキア人と称することを好み、選択している。そのスロヴァキア出身のソプラノ歌手としては、1939年生まれのルチア・ポップ(31)が個人的な印象に 残っている。 2013年、15歳になったばかりの頃のパトリツィアは「誰を理想像としているか?」とのインタヴューに答えて、「音楽上のモデルと考えている人はいないけれど、オペラ界のスターだったルチア・ポップが大好きです。私たちの間に、もういらっしゃらないのが残念(33)」、と語っていた。 「何故、大好きなのか?」との更なる突っ込みに対しては、「ルチア・ポップのグローバル(全体 を包み込むようなとのニュアンス)な表現は、多くの面で美しい。彼女の歌は、軽くて、簡潔であると同時に、敏感で、優しく、やすらぎと幸せの感興を運んで来てくれます(34)」と、しっかり答えてい た。 また、時系列的には時を遡ることになるが、2011年11月、13歳のパトリツィアが父君と共に雑 誌のインタヴューを受けた際、「将来の夢として、是非、歌いたい一曲は?」との質問に、「魔笛の 中で夜の女王が歌うアリアだ」と答えている。ただ、「うんざりする程、練習して、アリア中の最高音 F3もこなせるようになったけれども(35)」との話だった。「音楽で怖じけることはありますか?」 との質問に対して、パトリツィアは「Ne(Non;いいえ)」と即座に否定したのに加え、父君は「恐れるのも、敬い過ぎるのも駄目で、何事も挑戦と受けて立つのが大切(36)」と補足していた。 4 . モラヴィアの空を見上げて パトリツィア・ヤネチコヴァの素晴らしい歌声を、ブルノのチェコ・フィルハーモニー合唱団演 奏会での小荘厳ミサ曲で視聴出来ることを、先の項で紹介した。 ブルノはチェコ第2の都市であり、モラヴィア地方の中心地であるが、音楽の都ヴィーンまで高 ただよ 速道路 E461と A5で南下すると130km 程の至近距離であり、オーストリアの香りが漂う街でもあ る。逆に、オーストリア側から見れば、ドイツ語ではブリュン(Brünn;泉、源泉)と呼ばれるブ ルノの都市名どおり、泉湧く憩いの地なのだ。 そのブルノを出て東南東に向かうと23km 程でスラフコフ・ウ・ブルナ(Slavkov u Brna)、ド イツ語でアウステルリッツ(Austerlitz)に着く。 1805年12月2日朝からの「アウステルリッツの戦い」の描写は、ロシアの大文豪トルストイの 『戦争と平和』を一読、再読+α回、読み直すことを薦めておきたい。史実に近いか否かの問題はさておき、正に血湧き肉躍る描写から味わえるダイナミックな小説の面白さは、『戦争と平和』を 読んでこそ味わえるものだと言える。サマセット・モーム(Somerset Maugham)、ジョン・ゴー ルズワージー(John Galsworthy)、ロマン・ロラン(Romain Rolland)、アーネスト・ヘミング ウェイ(Ernest Hemingway)を始めとした小説家が、世界第1級の作品と評価していることが腑 に落ちる。 戦いに敗れ、重傷を負ったアンドレイ・ボルコンスキー公が、出血多量で意識朦朧となっていく中、それでも軍旗を手に、仰向けになったまま、プラツェン高地から見上げる空は、あくまでも高く、清らかで、寛やかだった(37)。そんな空を眺めていると、勝利で慢心し虚栄心にまみれたナポレオ ンが、とてもちっぽけに見えた。そのように描かれた紺碧の空は、プラツェン高地やアウステル リッツを包摂するモラヴィアに拡がる無窮の空である。 トルストイが描くモラヴィアに拡がる空に触れたからには、フランスの文豪スタンダールの描い た『パルムの僧院』の話を避けては通れない。 「アウステルリッツの戦い」から下って、ほぼ9年半後のことになる。『パルムの僧院』に描かれ る、侯爵家のうら若き青年ファブリスは、崇拝するナポレオンがエルバ島を脱出したことを知り、 1815年6月18日のワーテルローの戦いに向け、フランス軍に組みするべく馳せ着けようと試みる。 未だファブリスが16歳半ばから17歳にかけての頃であった。しかし、フランス軍は敗れ、故郷イタ リアの景勝地コモ湖周辺は敵方オーストリアの保護下に入ってしまった。そこで、ナポレオンの共 鳴者と見做され逮捕投獄されることを恐れての、ファブリスの逃避行と恋の遍歴が始まるのであ る。ファブリスの老恩師が語る、「(恩師は司祭に昇任されなくて、かえって良かった)もし司祭に なっていたら、モラヴィアの丘の牢獄、シュピールベルクに行く運命だったのだ(38)」との回想は、 ファブリス自身にとっては身近に迫った恐怖であった。「(ファブリスが官憲に)見つかったらコモ湖畔からシュピールベルク一筋道(39)」を辿らざるを得ない窮地に立たされていた。 このように、スタンダールは『パルムの僧院』の中で、モラヴィアのシュピールベルク城塞を牢 獄として描いている。それから125年程後の第2次世界大戦中、シュピールベルク城塞は、ナチスド イツの秘密国家警察ゲシュタポ(Geheime Staatspolizei)により利用された時期もあった。 しかし、シュピールベルク(ドイツ語で Spielberg、チェコ語では Špilberk)とは、ドイツ語の 意味では「遊ぶ(Spiel)山(berg)」であり、楽しく遊ぶ野山なのだ。事実、シュピールベルクは ブルノの市街を眼下に望み、周囲に拡がるモラヴィアを一望に眺められる景勝の地である。 更に、2000年からは、夏になると、シュピールベルク城塞の庭園でシュピールベルク音楽祭 (Festival Špilberk)(40)が開催されるようになった。 2019年から2020年初頭にかけては、オストラヴァ、ブルノ、スロヴァキア、ポーランド、ドイツ と、パトリツィアの超過密スケジュールが続いていた。本拠地であるオストラヴァの管弦楽団に加 え、プラハのスメタナ・ホールでは西ボヘミア交響楽団と、ポーランドではポズナン・フィルハー モニー管弦楽団等と共演し、素晴らしい躍進を示していた。 しかし、パトリツィアの飛翔する空が大きく拡がったかに思われた元気溢れる時期、2020年初頭 から、世界中がコロナ禍に席捲されてしまった。そのコロナ禍に前向きに挑戦しようと葛藤するパトリツィアの様子が、自宅の携帯ピアノで弾き語り、歌う姿(44)から覗われるのが痛ましい。
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2023年の投稿
森弘道さんの投稿 | |||||||||||
森 弘道 このフェスティバルは1875年に開始された歴史あるイベントで、今年は6月23日から7月31日までミュンヘンのバイエルン州立歌劇場などで開催されました。今年のテーマは「戦争と愛」、私は7月26日から30日まで滞在してオペラ二本を観ました。ミュンヘンは涼しくて気温は日中最高の時でも摂氏22度程度、長袖が欲しい気候でした。帰国したら35度を超えるこの暑さ、すっかり参っています。
一本目の「アイーダ」はウクライナを意識した読み替え演出の新作で、第一幕の舞台は保育園か小学校の体育館で、天井が至る所破けている中で子どもたちが遊んでいます。緊迫した場面になると爆撃で天井の破れ目から大量の砂や灰が落ちてきます。そんな中でエチオピアの侵攻が伝えられ物語は始まります。第二幕はこのオペラの見どころ、凱旋パレードですが、何と行進してきたのは凱旋軍ならぬ戦傷兵の列、車椅子や松葉杖の行進です。私としてはこのような読み替えには抵抗があったのですが、休憩後の第三幕は歌が感動的で、第四幕のお墓に生き埋めになった場面は非常に綺麗で、保育園の子どもたちが天使のように上座後方に立ち、実に感動的でした。私はこれまでこのお墓の生き埋めがあるため、アイーダを観るのが億劫だったのですが、今回のこの最後の場面を観てホッとしました。最初の嫌な演出の後でこの印象的な最終場面、まさに演出のうまさを感じました。後味の良い舞台でした。 指揮:ダニエレ・ルスティオーニ(ミラノ出身の新進気鋭、将来の巨匠との呼声が高い) アイーダ:エレーナ・スティヒナ(ロシア生まれのソプラノ、2017年から世界的に活躍) ラダメス:ブライアン・ジャッジ(ニューヨーク生まれのテノール)
二本目の「トリスタンとイゾルデ」ですが、10年くらい前にパリのオペラ座バスティーユで見たことがあります。長くて退屈で、眠たくなるオペラでした。しかし、ドイツではやはりワグナーです。迫力のある歌いっぷりで、メリハリが効いて心打たれました。10年たって私の耳が肥えたのかもしれませんが。それに、終幕後のカーテンコールで観衆の熱狂ぶりには圧倒されました。皆さんスタンディングオベーションで、しかも足を踏み鳴らして大変な騒ぎでした。やはりドイツはワグナーの国です。オペラならワグナーでイタリアオペラなど眼中にないという人も多いそうです。 ミュンヘンではウクライナ支援の旗が至る所に見られました。地政学的にもNATOの一員としてもウクライナ侵攻は日本では想像できないくらい深刻なようです。もちろん世界的にも影響は大きく、今回の飛行ルート、日本航空なんですが、往路は太平洋をアラスカに向けて北上し、カナダ北部から北極圏を突っ切ってヨーロッパに入りました。かってのアンカレッジルートに近いものです。しかし着陸無しで15時間もの飛行でした。今回はビジネスクラスだったからよかったものの、エコノミーだったら私の歳では耐えられないところでした。復路はヨーロッパから黒海の上をトルコ沿岸に沿って飛び、カスピ海を横断し、中央アジア諸国、中国の上を飛んで北京上空から日本へ向かう南回りのルートでした。偏西風の追い風で往路より短く13時間程度の飛行でした。つまり、往復合わせて、ロシア周囲をぐるりと回るミニ世界一周の旅でした。私にとっては珍しいルートでしたが、ヨーロッパが本当に遠くなりました。これもロシアのウクライナ侵攻のせいです。 2023.8.11 投稿
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