連載コーナー




 

 

 

新 四 季 雑 感 (24)

樫村 慶一

敗戦の日に思う、

本当の空襲体験の

話し

 

 

 敗戦の日の8月15日が、もうすぐ79回目がやってくる。この79年間に戦争を全く体験しない、自衛隊が敵兵を殺したことも、敵に殺された自衛隊員も、一人もいない。主要国のなかでは、世界でも珍しい国だといわれる。いつまでこの貴重な記録が続くのだろうか?

  私が戦争当時住んでいたのは、千葉市の南部、母親が勤めていた軍需工場の社宅であった。そこで経験した空襲の様子を、そして、1億火の玉だ、と叫ばれた当時の男子の戦争に対する心構えについて、覚えていることを話ししよう。
 私が空襲を受けたことは一度だけである。恐らく日本の都市で2度以上受けているのは、あまりないのではないだろうか。東京は江東地域とか、北西部とか西部とか何回か受けているが、広いからであって、同じ場所は一度だけだと思う。軍需工場や軍関係施設は別として、あちこちの都市の住宅地に空襲を行ったのは、国民に恐怖心を植え付け、厭戦気分にさせることが目的であったためで、空襲は破壊するのではなく、火災を起こさせるものだった。

 それは1945年(昭和20年)の初夏の頃だった。私は15歳の旧制中学4年であった。学童疎開というのは小学校高学年の子供たちで、彼らは実際の空襲は余り知らないはずである。私の年ごろの学生は男の子も女の子も、みんな勤労動員に駆り出されていた。

 深川大空襲で黒焦げになった焼死体

 それまでも夜、空襲警報が鳴ることは何回かあり、その都度、家から50米くらい離れた、低い松林の丘の斜面に掘った穴の防空壕に飛び込んだ。でも、それまでは、防空壕に入っても実際の空襲は来ず、B29は私達の上空を通り過ぎて行ってしまった。千葉市南部は九十九里浜辺りから侵入するB29の通路になっていたようだ。30分か1時間もすると警報は解除になった。 私の家の防空壕は、低い松林の台地の斜面に、前年14歳の私が一人で、家族4人(私と母と妹弟)のために幾日かかけて掘ったものだ。幾つもの同じような入口の防空壕が並んでいた。入口は1米くらいで、斜め下に堀り下げ、底を1.5米平方くらいの平面にして板を敷いた。入口はどうして塞いだか覚えていない。また、空襲警報のサイレンは良く覚えているが、空襲警報解除はどんな形態だったか覚えていない。しかし、ラジオ以外に大衆通信手段がない時代だから、やっぱり解除もサイレンだったんだろうと思う。               

B29 爆撃機

 その夜、1945年6月10日、まだ寝付く時間ではなかったが、空襲警報が鳴った、またかと、慣れっこになっていた感覚で防空壕へ急いだが、その日は、何故か緊迫感が違った。爆弾が落ちる音が遠くから次第に迫ってくる。いよいよ来たかと緊張した。ひゅーー という独特の音だ。当時の住宅地への爆撃は、弾薬が破裂する破壊型爆弾ではなく、焼却が目的の焼夷弾だから、直撃を受けない限り防空壕に入っていれば、死ぬことはなかった。だから、近くに落ちるときの、”ひゅるひゅるひゅるっ”と言う音さへ我慢すれば、それほど恐怖心は持たなかったように思う。(あるいは80年近い時の経過が当時の恐怖心を浄化してしまったのかもしれないが)別の日に2キロほど離れた航空機製造工場には本格的爆撃が行われ、そこでは、爆弾がさく裂して付近の多く市民が亡くなった。腕や足が住宅の塀に引っ掛かっているの見た人は何人もいる。

火はたき
これを防火用水の水につけ火をはたく

 ひゅるひゅるがどのくらい続いただろうか、その夜の私達の住む地域への空襲はそれほど大規模ではなかったのかもしれない。30分かそこらで(そう思った)爆弾の落ちる音はしなくなった。しかし、防空壕から見上げた、探照灯の光が交差する中に浮かびあがる、低空で飛ぶB29の大きな機体には、さすがに恐怖心に震えあがったものだ。
 空襲警報が解除になると同時に、皆一斉に防空壕を飛び出し家に走った。それぞれの手にはモップのような火はたきを持っている。外へ出てみると、木造家屋が密集した社宅の屋根の あちこち から炎が立登っている。そして地面には、六角形の直系15センチくらいの鉄製の濃い緑色の筒(ミリタリーカラー、長さは1米くらいだったろうか)のようなものが半分地面に突き刺さり、その筒から、飛び散った油が炎を噴き上げている。焼夷弾は空中で爆発して火のついた油を雨のように降らせたり、地面に落ちてから、充満しているグリス状の油を周囲に飛び散らせたりした。この脂があちこちの木造家屋にくっついて燃え上るのだ。1本からどのくらいの範囲迄飛んだんだろうか。
 社宅はあちこちに集団になっており、私の住んでいた集団は200米平方位の広さで、その中に2軒長屋の平屋の木造家屋が庇を接して建っていた。その夜の空襲は千葉市を目標にしたもので、後日の情報でかなりの範囲がまる焼けになったことが分かった。焼失家屋8900戸、死者1173人。

 空中で爆発して炎が雨の如く降りそそぐ

 すでにB29は去った後なので、空からの心配はない。住宅地のあちこちにはコンクリート製の防火用水槽がある。火はたきを防火用水で濡らして油の火を消すのである。季節はすでに初夏であった。元気な若者は屋根に上った。それでも私の家のある集団は半分以上がまる焼けになった。私の家は、2軒先まで全焼したが好運にも助かった。 実際に空襲を受けた記憶は、この時の一度だけである。しかし、すでに半大人だった記憶は今でもかなり鮮明にもかかわらず、恐怖心が残っていないのが自分でも不思議だと思う。怖くないはずはなかったと思うのだが。地面に刺さっていた鉄の筒は、皆抜かれた。ちゃっかりシャベルや鍬等に再生させた人もいた。

 このような住宅地の空襲は爆弾ではない場合が多いので、死者は焼死が多かった。大規模な火事になると爆風にあおられ、逃げまどい、水を求めて川などに飛び込んで溺死したりと、直接死ではない犠牲者が多かったのではないかと思う。1945年3月10日の東京大空襲は、米軍が風向きを詳細に調べ、火災が広がる方向を予測して、焼夷弾を落とす場所を決めたと、ずっと後の新聞で読んだ。残虐である。犠牲者は隅田川の水を求めて亡くなった人が多かったと聞く。私は、この日の爆撃により燃え上る東京深川の様子を、防空壕を掘った小さな松林の丘の上から眺めていた。東京湾を挟んだ対岸の猛烈な火の山がはっきりと見え、火の塊が少しずつ移動しているのが分かった。

 住宅地の空襲は夜が多いように思った、何故か知らないが。昼間は偵察のようで、高空を1機で飛ぶB29を何回も見たし、象にまつわる犬のように、上下左右に飛び交う日本の戦闘機の攻撃も目撃した。レーダーを狂わすと言われた、アルミ製の細長いテープのようなものがB29からひらひら落ちてくる。日本にレーダーなんか無かったろうと思うんだけど、なんのためか意味がわからない。上空を飛ぶ敵機は、高空を通過して行くだけで、直接自分の住む土地には害がないので、割合平気で眺めていられたものである。

 また一度だけだが、艦載機(航空母艦から発信する戦闘機)に狙われたことがある。夢中で逃げた、機関銃を撃ってきたが、弾の間隔はそんなに密ではない、精々2,3米間隔はあったんじゃなかったろうか。狙われたと思ったら、どっちかへ避ければよい、戦闘機はそう簡単に方向は変えられないから、敵機の方向をみてから避ければいいんだが、なかなか落ち着いてそんなことはできるものではない。今でも右足のすねに、総武線の駅のホームの角でぶつけた跡が残っている。(何故そんなところにいたかなどは全く覚えていない)もう喉はからから、生きた心地はしないとは、あの事だったんだ、と後で思った。さすがに、この時の恐怖感は今でも覚えている。

国のために死ぬということ

防空壕(これは立派なもの)

 1942年(昭和17年)4月、米空軍のドーリットル爆撃隊が日本本土に初めて空襲を行ったが、B25双発爆撃機の見慣れぬ黒い機体が不忍の池の方へ低空で飛んでいくのを、下校途中の上野駅の山手線ホームで、不思議な目で眺めたのが、なぜか、はっきりと記憶にある。 私は太平洋戦争の敗戦時は満15歳(中等学校4年)であった.当時は14歳(旧制の高等小学校を卒業した歳)から志願すれば軍人になれた、まだ坊主刈りの子供があこがれたのは、霞が浦の海軍予科飛行練習生、いわゆる予科練で、今でも年寄が歌う懐メロ「七つ牡丹は桜に錨」という軍国歌謡の傑作、予科練の歌に煽られたこともある。しかし、まだまだ勉強をしたかった私は、ほとんど興味を持たなかった。さらに、もう2,3年生まれるのが早ければ、いやおうなしに徴兵される可能性もあった。

 しかし、戦争で死ぬことに 恐ろしさは感じなかったし、天皇陛下のために死ぬことに、何の違和感も持たなかった。純粋な子供の頭に沁みこませる愛国主義教育の結果だろうが、今では不思議であり恐ろしい。

 イスラム教の兵士が自爆テロなどするのは、死んでも再び生まれ変わるとモハメッドの教えを幼少期から叩き込まれているからだと言われるが、子供の純真なまっさらな脳に、最初から植え付けられる教育は誠に恐ろしい。天皇陛下は神格化されていて、天皇の為に死ぬことは日本人男子の本懐である、と教え込まれ、国の為に死ぬことは最高の名誉であると叩き込まれてくれば、子供であっても、当たり前と思うのが当たり前であろう。

 そこで、時々思うのだが、平和と自由にどっぷりとつかり、死を強制されることなど、夢にも考えたことのない今の日本人が、死ななくてはならない境遇に立ち至った時、どうするだろうか、ということを。ウクライナの男子が銃を持って立ち上がったと同じ心境になれるのだろうか。今の自衛隊員に、国の為、国民を守るために、死ぬことができるのだろうか。
  戦争中は喜んで死ぬと言われていたが、果たして本心はどうだったのだろうと、しばしば考える。でもやっぱり当時の男の子は皆当たり前だと思っていたんだと思う。私もそうだったから。自衛隊の戦力は世界第5位と最近報道されたが、軍隊の強さは武器だけではない、死ぬことを恐れない兵隊がどれだけいるかだと思うのだが。

 後世の色々な記録や実録が世の中に披露されるにつれ、戦死する時に、天皇陛下万歳を叫ぶ兵隊は殆どいないとか、叫ぶのは、お母さんとか、恋人の名前とかと言われるが、実際はどうだったんだろう。軍国歌謡曲などに出てくる男性は、近親者だけである、父親、夫、兄、弟であって、恋人などは男と認めてもらえなかった。結婚して種馬になって、初めて男と認めてもらえるのだ。特攻隊が米艦に突っ込む時、進路を敵に向けて全速で飛んでいる時はすでに意識は不明だと聞いた。自分の意志で死ぬのだから、怖くはないのかもしれない。当時は私も怖いとは思わなかった。教育こそ怖いものである。
 ”命をかけて国土を守る、国民を守る” という信念は、子供のころから教育しないと無理なのではないかと思うのだが。平和ボケした今の日本の若者達が、他人の為に死ねるだろうか、実体験の時が、場が来ないことを祈るのみである。

おわり

(2024.7.1記)

 

 終戦の詔書
クリックすると全文が読めます。
(国立公文書館所蔵)

 79年も前の古い話ばかりで恐縮だが、そうゆう話題が、遠い遠い昔話とは感じないような雰囲気が、近年、南西諸島方面に漂ってきた。台湾と中国のいさかいに、第三者の日本が巻き込まれ、日本人が死ぬのだろうか。まことに辻褄の、間尺の、平仄の合わない話しである。
 79年前の8月15日の正午、彼方此方で大勢が一つのラジオを囲んで、雑音だらけの、音量の小さな玉音放送とやらを、夢中で聴いた。私は殆ど聞き取れなかったし、ましてや、意味など分かる筈もなかった。まだ神様であった天皇が御名御璽を押した本物の文書の写真があるので、改めてお読み頂きたい。へー こんな字だったのとか、難しい文章だったなあとか、思いはそれぞれであろうと思う。
 ごゆっくりご覧ください。

 

参考資料: 毎日新聞社刊 1975年9月、「一億人の昭和史」④ 空襲・敗戦・引き上げ

  

 


 

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