連載コーナー




 

 

 

新 四 季 雑 感 (18)

樫村 慶一

半藤一利さん著の

「昭和史B面」から

掘り起こす

(その10)


 (B面昭和史を再開します。半藤一利さん著の「B面昭和史」を主体に、その他の本から写真を拝借した、昭和14年、1939年の記録です。)

 

 初代天皇神武天皇の即位を皇紀(紀元)元年とする日本独自の元号で数えると、昭和15年は皇紀2600年目の年で全国民が挙げて祝うべき記念の年であった。果たしてめでたい年になるのかならないのか、前年に廃棄を通告されていた日米通商航海条約は、明けて間もなくの1月26日に失効となる。この損なわれた日米関係を何とか修復しなければ大平洋の波立ちが治まることはない。

 文芸春秋の昭和15年新年号に、時代の風潮を知る上に面白い世論調査が載っている。東京、埼玉、千葉、神奈川の読者196人に10項目のアンケートを出してその回答を得たものである。

① 現状に鑑み統制を一層強化すべきか   賛成 461  反対 228  不明 7
② 対米外交は強硬に出るべきか      賛成 432  反対 255  不明 9
③ 最近の懐具合はどうか         良い 108  悪い 573  不明 15

 

などなどであるが、平和を楽しんでいる人々がいる一方で、そうした悠長な気分にかなり苛々して、もっと指導者による強い国家指導を望む声が高くなっているのが分かる。

最後の祭典 紀元2600年奉祝花電車

この新年号には大島駐ドイツ大使、白鳥駐イタリア大使が威勢の良い記事を投稿し、社長菊池寛も煽情的な一文を載せた。国はもっと強くなり、勇壮たれとの声が2600年という節目をむかえて益々高まってきた。そんな空気の中に在った、おそらくこれが最後の抵抗ともいえるであろう特筆すべき事件が起こった。第75国会の衆議院本会議場における、民政党の斎藤隆夫議員による、軍の威嚇をも恐れぬ名演説「支那事変処理方針」である。昭和史に輝く歴史的演説なので、少し長く引用する。

支那大陸は泥濘ばかり
ふんどし部隊

野戦病院へ着いた従軍看護婦

【の世界情勢を無視して、只いたずらに聖戦の美名にかくれて、国民的犠牲を閑却し、いわく国際正義、いわく道義外交、いわく共存共栄、いわく世界の平和、かくのごとき雲をもつかむような文字をならべ立て、国家百年の大系を誤るようなことがありましたなら、現在の政治家は死してもその罪を償うことはできないのである】、と頭ごなしに政策批判をした上で、陸軍に対して、いわば喧嘩を売った。2月2日のことである。【支那事変は始まってからすでに2年になるが、10万の英霊を出しても解決しない、どうやって戦争を解決するのか処理案を示してもらいたい】と。これに対して米内首相も畑俊六陸軍大将も「中々うまい事いいますな」と感服したが、あくまで控え室でのひそひそ話。石頭ばかりの陸軍は聖戦目的を批判した、聖戦を冒涜するものだ、と激怒し議員辞職を要求した。斎藤議員は「俺は正論を言ったまでだ、辞職はしない、文句あるなら除名しろ」といきまいて一歩も引かなかった。その後すったもんだの末、3月7日になり、本会議で投票ということになり賛成296、反対6,欠席・棄権144で除名が可決された。斎藤議員はさばさばとして議場を去って行ったという。3月25日、陸軍派の政党人が結集して、この非常時に及んでは全政党を解散し強力な一大政党を結成すべきであり、体制を刷新するべきである、と米内内閣打倒、近衛文麿の担ぎ出し動きだす。担がれるといい気持ちになる近衛は、6月24日、枢密院議長を辞任して新体制運動推進の決意表明という呆れた展開になる。斎藤隆夫の最後の抵抗は、折角アメリカと和解を進めようとする米内内閣の命運を逆に縮める結果になってしまった。

支那の戦争孤児たち

芸術慰問団小唄勝太郎

 少し時間を戻す。3月16日、内務省からの指示で、芸能界が異変に遭遇させられた。警視総監名で、新興行取締規則なるものが交付され、芸能人は新たに技芸証を内務省から発行してもらうことになったのである。これも総動員体制で戦地慰問の白紙を出すためという名分である。思想、素行、経歴その他不適格と認めるものは不許可となって技芸証がもらえなかった。お陰で、芸者出身の映画女優花柳小菊は「俳優と芸者の二足のワラジは不適当なり」と言われ考え抜いた末、やむなく芸者の方を選んだ、そっちの方が稼ぎが多かったからだ。更に3月28日、内務省は世にもバカバカしい命令を映画会社やレコード会社に発した。芸名の中で、不真面目、不敬、外国人と間違えやすいものの改名を指示してきたのである。漫才のリーガル千太、万吉、ミス・ワカナ、低音の魅力の歌手ディック・ミネ、東宝の藤原鎌足、日活の尼リリスなど、該当者16名全部がいかんとなった。それで、リーガルは「柳家」、ミスは「玉松」、ディックは「三根耕一」、藤原鎌足は「藤原鶏太」と改名させられた。また中村メイコは本名が誕生月の5月から取ったメイだったが、メイは敵性語だからけしからんと言われ、「コ」をつけて日本名らしくさせられた。
 この技芸証の徹底で芸能人の戦地慰問、軍隊慰問がやりやすくなったのはたしか。もともと昭和13年から始まった慰問隊、名付けて「わらわし隊」はこの時から二線級、三線級もどしどし徴用されて組織化され、次々中国大陸や満州に送り出されていった。政府がこの調子だから、お調子ものがでてくる。諸事百般からアメリカ色、イギリス色は一層しようという声が高まりだした。「敵性器具に頼るな」すなはち、マイクロフォンで歌うなから始まって、以下、プラットホーム→乗車廊、自転車のハンドル→方向転把、ビラ→伝単、パーマネント→電髪、ラグビー→闘球、アメフト→鎧球、スキー→雪艇と呼ぶ。野球のスタルヒンという投手がいた、とに角横文字は直せということで、須田博に改めるというバカ騒ぎ。医学研究所で研究中だったペニシリンは、カビの一種で緑色をしているから碧素とよぶことになった。もはや滑稽もきわまれりであった。

銀座通りの防空演習
物陰に隠れるか伏せる

 更におかみからの統制にニュース映画があった。日支事変勃発この方、その戦況を伝えるニュース映画はたいそうな人気を集めた。皇軍の快進撃はニュース映画によってよく理解できる、これによってしか、戦争を目にすることができない。ということでニュース映画専門館があちこちにできてきた、たとえば新宿なら武蔵野館の裏の朝日ニュース劇場、伊勢丹前の新宿文化映画劇場・・・こうなると学生がしきりに出入りしても時局を知るために良い事と、口うるさい教師もここは不良の巣窟だ、など文句をいえなくなった。それまで朝日一社しかつくっていなかったニュース映画を、「東日、大毎」、「読売」、「同盟」等も作り出し、外国のニュース映画もパラマウントのほかに、ワーナーニュースとかパテーニュースとかいうのもやりはじめた。そして思いついたのが新聞や雑誌とおなじようにニュース映画も又当局による指導・統制ということである。ニュース映画の乱作は面白くない傾向と当局には感じられ、ただちに手をうった。

 4月16日、新聞、通信社系の四つのニュース映画を一つにしようということで、社団法人日本ニュース映画社の設立となり、社長には同盟通信社の古野伊之助が就任した。以来終戦まで「日本ニュース」の独占となったのである。これによって当局の監視のもとにワンパターン化し、日の丸を掲げて万歳する兵隊たちが毎回出てきて勝った勝ったとやっている。このため日支事変が点と線を確保しているに過ぎないドロ沼であるという事実が伝わらなくなっていった。

産めよ増やせよ、子供は国の宝

 海軍大将米内光政と書くと14年の平沼内閣のときの海軍大臣として山本五十六次官、井上成美軍務局長の海軍良識派三羽からすの見事な活躍が大きく映る。しかし首相としての米内は殆ど見るべき仕事はしていなかった。ヨーロッパでは、突如として5月10日にドイツ軍が矛先を西に向け、オランダ、ベルギーをアッという間に席巻、更にフランスへ向かった。イギリス軍はダンケルクに追い詰められ、命からがら逃げだした。かくて6月14日、フランスは完膚なきまで撃破され、22日には無条件降伏、ピトラーがパリに意気揚々と入場したのである。ドイツは強いという見方が大方の日本人に定着する。
 この時に、特に陸軍と海軍や外務省の親ドイツ派の目は東南アジアのフランス領、オランダ領の植民地にむけられ、そこにある天然資源が喉から手が出るくらい欲しく、「バスに乗り遅れるな」という昭和史の名言が国民的大合唱になり始めた。こうした世界情勢、世情を考えると英米友好を基調としてきた米内内閣の立場は相当に厳しいものになった。そこで精々、更なる引き締め、物資の統制を強め、砂糖とマッチの配給制が実施され、さらにはくだらない法律を作ったりした挙句、戦時中の名言「贅沢は敵だ」の言葉を残した。早速新聞は協力の太鼓をたたいた。禁止になった主な物は「指輪、ネクタイピン、宝石類、白羽二重生地、丸帯、洋服等で、例えば、夏物の背広は100円、時計は50円、ハンカチは1円、ワイシャツは10円、洋傘は25円、下駄は7円、靴は35円、香水は5円まで、それ以上は禁止とされた。デパートの食堂も贅沢は禁止で代用食になった。大阪毎日新聞はスクープの如くデパートの代用食メニューの腕比べを大きく報じた。8月1日の永井荷風の日記「断腸亭日乗」の日記には、思いがけないことが書いてある。「贅沢は敵という言葉は、ロシア共産党政府創立の際につかわれた街頭宣伝用の言葉であるという」。本当だろうか、と半藤さんは疑問を持っている。話はちょっと戻るが、初めて国民歌謡の時間が設けられ、「トントン とんからりんと隣組」の歌ができたのが、6月である。この歌は、政府が音頭を取らなくても、流行していった。

 7月22日に米内内閣が強引に崩壊させられて第二次近衛内閣が成立した。陸軍の策謀が見事に成立したのである。「陸軍の、ドイツとの軍事同盟を結ぼうと急接近する姿勢や、日本もドイツばりの強力な一元政治を取るべしと言う声にも耳をかさない。対米関係の改善を何とか図りたいと、やることなすこと、陸軍と反対の方向に進もうするもうとする米内内閣の存在」が、陸軍には邪魔で邪魔で仕方がなかった、これを鮮やかに倒してしまったのである。

日独伊三国同盟締結祝賀会 
帝国ホテル 昭和15年10月

 成立した近衛内閣はすでに予定稿としてきめていた、「基本国策要綱」を発表した。「・・・・皇国を核心とし日満支の強力なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設するにあり、これがため、速やかに新事態に即応する不抜の国家体制を確立し、国家の総力を挙げてこの実現に邁進する」。言っていることは実に立派である。八紘一宇の大精神といい、東亜新秩序と言い、誰も文句のつけようもない。しかし、果たしてこんなことが現実に日本にできることなのか、支那との戦争でもニッチモサッチモ行かない状況にあり、その上に、強敵米英が目の前に立ちふさがっている。しかし、当時のわが国民は「出来る、しなくてはならないの」と本気で思わせられた。そして、近衛内閣が成立した日、太平洋戦争への道が決定的になった、破滅の序曲が始まったと言っても差し支えない。
 外相松岡洋右、陸相東条英機など、対英米強硬派がぞくぞくと入閣した。終戦時の首相となった鈴木貫太郎の当時の批判はすこぶる手厳しい。「松岡を外相にしたのは誰か、東条を陸相にしたのは誰か、近衛公としては認識不足もはなはだしい」と。しかし近衛は記者会見で大言壮語した。「米国は日本の真意をよく了解して、世界新秩序の日本の大事業に、積極的に協力すべきであると思う。米国が日独伊三国同盟の立場と真意をあえて理解せず、どこまでも同盟を敵対行為として挑戦してくるにおいては、あくまで戦うことになるのは勿論である」。この大ボラを近衛が本気で考えていたとはとても思えない。大衆の「バスに乗り遅れるな」の大合唱に迎合した人気とり、とみれば理解できよう。世の風潮は正しく新体制運動の一色に染まっていく。

 『茲で、半藤さんの本からちょっと離れ、月刊雑誌「選択2023年9月号」の記事からヒントを貰ったものを私流にして紹介する。”歴史に もし はない”とか、小林秀雄の”歴史とは、人類の巨大な恨みにほかならぬ”といった言葉がそのままあてはまる好例がある。それは、「海軍良識トリオといわれた、米内光政首相、山本五十六次官、井上成美軍務局長の時代が終わり、山本五十六は連合艦隊司令長官に出た。その山本は近衛の自宅に呼ばれ、対米英戦への見通しをきかれたとき、=どうしてもやれと言われれば半年、1年は相当暴れてみせます。しかし、2年3年ともなると、全く自信はありません。日米開戦は極力さ避けて頂きたい=。 と答えた。これが大誤算だと言われる。軍務局長だった井上成美は山本をこよなく尊敬した人だが、この一言だけは許しがたい、と言った。なぜあんな曖昧なことをいったのだろうか。軍事に素人で優柔不断の近衛公が、あれをきけば、とにかく1年半くらいは持つらしいと曖昧な気持ちになるは分かり切っている。=海軍は対米英戦はできません、やれば必ず負けます= と、はっきり言うべきだった。それでは、連合艦隊を任せられないと言われたら、=潔く辞めます=と、なぜはっきり言いきれなかったのかと言っている。結局情勢はずるずると海軍の思うことと反対の方向に進むのだが、もし山本が「できません」と断言し、近衛がこれを取り上げていれば、歴史の”もし”が実現していたかもしれない。』

米が配給に、昭和15年4月

 ヨーロッパにおけるドイツの勝利によってドイツとの同盟を急ぐべしとの声がたかまるばかりとなる。それにつれて、反英、反米の運動が強くなっていく。8月2日、ロンドンで英国官憲が日本の商事会社の支社長を検挙する事件が起こった。これを取り上げて、「実業之世界」9月号に浅沼稲次郎が「英国を東洋から追放せよ」という激しい論文を発表している。更に返す刀で米国にも斬りつけた、「英国の退潮に比例して米国の極東前進を見るのである、米国は英国の後退以上に東亜新秩序建設の妨害者として進出してきている」と、社会主義者にあるまじき戦争肯定論を述べ、法律家清瀬一郎もすさまじい事を主張した。「この際日本は英国にいる日本人を全部引き上げさせる態勢をとらなくてはならない。新聞もバカ騒ぎしないで、南阿、インド、シンガポールなどから、どしどし日本人をひきあげさせることだ。要するに英領から日本人を一日も早く全部引き上げることだ」。すでに、思想信条を問わず、識者の間にも排外的な強い言葉が飛び代わっていたことが分かる。こうした米英に対する敵視が、ドイツへの親近感を増幅させ、日本人の心情をぐーんとヒトラーに傾斜させていった。ヨーロッパ戦況は圧倒的にドイツが優勢で、8月下旬ころからドイツ空軍は連日数百機で、英国各地を猛爆した。そのころに、やがてドイツが負けるだろう、などということを予見できたものがいるだろうか。

 話は少し戻るが、8月1日、米国は航空機用揮発油の輸出を禁止、更に石油輸出を許可制にすると発表した。屑鉄や鉛に続く石油の禁止である、遅かれはやかれ全面的に石油を止めるだろうとの予測は軍を戦慄させた。ともあれ、日本の政策に真っ向から異を唱え、友好条約の廃棄に続くこの許可制、真の敵の立場を米国がはっきりと出してきたとみるほかない。英米と呼んでいたのに、いつの間にか、呼び方が逆転して、米英となったのは、この頃からである。内閣情報部は情報局となり、報道規制はさらに強まる。銃後の空気も、ドイツ軍の英本土上陸を予想させる世界情勢の緊迫化に伴い、米内内閣当時の様な、何とはなしの太平楽をきめこんでいるわけにはいかなくなっている。近衛内閣は新体制運動の一つとして「戸毎に翼賛運動」というのを始めた。すなわち近衛の筆による「臣道実践」「大政翼賛」の2枚の札を玄関に貼る。とく他愛のない事であったが、それを実行するために当局が利用したのが隣組という、すでにできている組織であった。9月11日、内務省は、「部落会町内会等整備要領」を発表、つまり隣組を「国民の道徳的錬成と精神的団結を図る基礎組織」とすることを表明、嫌も応もなく隣近所を接触せざるを得なくなるようにした。隣組から出征兵士が出ると総出で見送り、隣組全員が署名した日の丸を送るのが習わしになった。また、隣組は監視機関・密告機関となって、当時盛んに言われた、スパイ防止の標語の実践機関ともなって行った。

愛国国債を買おう運動
左から渡辺はま子、音丸、松原操

 それと俄然猛威を振るったのが、在郷軍人会という組織である。天皇の名のもとに軍服を着ると星一つの違いで天と地の違いがでる。小作人の倅が先に召集を受けていたゆえに星が一つ多くなり、後から来た地主の倅に非人間的な往復ビンタを張ることは正義なのである。所が満期になって除隊して家に戻ると、肩章もなければ星の記章のついた軍帽もないから、まさに木から落ちた猿と同じに元の身分に戻る。しかし、彼等にも一つだけ楽しみがあった。在郷軍人会という組織である。ここでは元の階級が生きているから、軍人としての自尊心をもう一度満足させることができた。防空演習や隣組での訓練が行われるときは、在郷軍人会メンバーが軍服を着て出てくる。一般人は元軍人の指揮に従わなくてはならなかった。
 10月5日付けの東京朝日新聞によると、「厚生省では男子用国民服を祭典・儀式に際して従来のフロック、モーニング、紋付き羽織袴等の式服と共に着用できるよう、今月末の勅令をもっ国民服令が公布されることが決定した」と報じた。それでなくても防空服装の名目のもとに、男はゲートルをつけ、女はモンペ着用のことと、元軍人が服装にまで厳しく指示を発していたのである。これがいよいよ法律ないし規律化されて国民服となった。ウヘー野暮ったい、とかドロ臭いのと言ってはいられない、これぞ、近衛首相の言う臣道実践の証なのである。
 銃後のこうした空気に乗って、9月23日、軍部は北部仏印(今のベトナム)に武力進駐を行った。蒋介石軍が頑張れるのは米英が軍需品などの援助物資を背後から輸送しているからである。その援蒋ルートの一つが仏領インド支那からのルートだったのだ。そのルートの全面封鎖のための進駐であると国民はあっさり納得した。

1940年映画 熱砂の誓い
長谷川一夫・李香蘭

 9月27日、日独伊三国同盟が、それこそアット言う間に調印となった、近衛が再び首相になった時、彼の頭にあるのは、三国同盟と政治新体制の二つの問題だけ、そのほかは馬の耳に念仏であった、といわれている。その目的の一つが成就したことになる。新聞各紙も大歓迎した。朝日新聞の28日社説は、「誠に欣快に堪えざるところである」と手放しで喜び、「今ぞ成れり、”歴史の誓” 万歳の怒涛」などと特大の活字でその意義を伝えている。そしてこの日、同盟締結に関する証書が出て、「大儀を八紘に宣揚し、坤與(こんよ)を一宇たらしむるは、実に皇祖皇宗の大訓にして、朕(ちん)が夙夜(しゅくや)、けんけん措かざる所なり・・・」と天皇もまた同盟に賛意を表しているのである。ところで、作家野上弥代子は29日の日記にこんな不敵な文字を書き付けている。「英米の代わりに独伊と言う旦那持ちになった、10年後にはどんな目に逢うか、国民こそいい面の皮である」。
 10月1日におこなわれた人口調査で、日本は内外地(台湾、朝鮮、樺太南半分)合わせて1億500万人と、ついに1憶人を超えた。高度国防国家体制を作る、さて、それにはまず「産めよ増やせよ」というわけではないが10月19日、厚生省が子宝隊(優良多子家庭)を表彰すべく、選ばれた10336家族の名簿の発表をした。このニュースを伝える新聞の見出しが「出たゾ!興和の子宝部隊長」と書いた。その人は長崎県庁の総務部長の白戸半次郎さん、なんと男10人、女6人を育てている。この白戸さんを筆頭に表彰されるのは満6歳以上の子供10人以上の家庭で、しかも父母が善良な臣民の条件を兼ね備えていること。これにめでたくパスした家庭は北海道が978、以下鹿児島県541、静岡県444、最低は鳥取県の39。とにかく昔のお父さんお母さんは、お国の将来のため頑張ったのである。

懐メロ、加藤隼戦闘隊 藤田進

 B面的話題はといっても、大政翼賛会という大義名分が大手をふるい、規則ずくめの世となっては、そんなに多くの話題を見つけることはできない。10月20日、日本野球連盟が監督、選手、マネージャをそれぞれ教士、戦士、秘書と改称することを決める、同27日,戸田ボートコースが竣工する、全長2400米、幅70米、本当はこの年に開催されるはずであった、東京オリンピックのレース会場となる予定であったのである。同31日、外国名のタバコ「ゴールデン・バット」が「金鵄」、チェリーが「櫻」に改名された。そして、この日には、日本中のダンスホールが完全に閉鎖された。東京には10のホールがあって、ダンサーは361名、楽士109名が職を失った。最後の夜はどこも超満員、やけっぱちでハシゴするものも多かったとか。いよいよラストで、ワルツの「蛍の光」が演奏されたとき、ホールのあちこちですすり泣く声が高くなった。「くだらねえ、権力で押さえつけるなんて」歌手の三根耕一(ディック・ミネ)が隅の方で悔しそうに言った。

 11月24日、元老西園寺公望が世を去った。享年91、日独伊三国同盟が結ばれたとき、「これで日本は滅びるだろう、お前たちは畳の上で死ねないことになった。その覚悟を今からしておけ」と側近にしみじみ嘆いたという。当時の国民には、西園寺のそんな憂いなどが伝えられるわけはない。日本が滅びるなどとは思ってもみないことである。
 もっぱら大人も子供もひそかに口にしていたのは、この流行語 「あのねエ おっさん、わしゃかなわんよう」。元は喜劇俳優の高瀬実乗(たかせ みのる)がチョンマゲにちょび髭、目の周りに墨を塗って、スクリーンで頓狂な声で叫んだセリフである。とにかくやたらに重く苦しくなっていく時代。取り締まりだけは厳しい時に「わしゃ かなわんよう」と悲鳴を上げることが一部の民草には一服の清涼剤となっていたのである。しかしこれすらも、9月には皇道精神に反すると禁止命令が下される。
 紀元(皇紀)2600年、本来なら、平和に祝うべきだったこの年を一口で表すと、「やたらな切符の氾濫と回覧板、スフを着て代用食を食え」という年になった。小さな記録だが、本文以外で今も関心がありそうなものとして、4月1日、所得税の源泉徴収がはじまった。6月14日には、勝鬨橋が開通し、7月8日、日本労働総同盟が解散、戦前の労働組合運動おわった。そして11月3日 に国産初のカラーフイルムができた。

つづく(昭和15年、1940年おわり 2023.9.21記)

(本連載は、次回昭和16年太平洋戦争開始年で終わる予定)

 

出典:

「B面昭和史」半藤一利 平凡社2019.2.8/
「1億人の昭和史②」毎日新聞社1970年7月1日/ 
「懐かしの昭和時代」株式会社ベストセラーズ1972年1月10日/ 
「流行歌と映画でみる昭和時代Ⅱ」(株)国書刊行会1986.2.5/
「青春プロマイド70年」主婦の友社1988.8.6。


 

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