連載コーナー




 

 

 

新 四 季 雑 感(5)

樫村 慶一 

 

今年は、

戦前戦後体制

の平行年

 戦前の世相

を知る投書

 

 私は年紀というものに、割合興味を持っている、ということを以前の四季雑感に書いたことがある。何々の何年目だとか、あれから何年たったとか、かといって、どうってことはないから、すぐ忘れてしまう。そうゆう性格だから、物事を記録するとか、或いは色々な届け物などの書類も絶対に元号は書かない。最近は役所の用紙も、年号欄の初めには何もないのが多い、かっては、昭和とか平成などがあらかじめ印刷してあったものだが。だから、私は、お寺ごとも西暦を使う。塔婆は勿論、墓誌の妻の死亡年号ももちろん西暦である、先年、先祖の墓地に行ったが、徳川時代の元号が色々書いてあったが、いつ頃死んだのか見当がつかない。西暦だった、ヘー 何年前だったのか、とすぐわかるのにと思う。 
 その手で今年を見てみたら、面白いことが分かった。今年は、日本の国家体制が両極端に分かれて、それぞれ同じ年月が経った年である。つまり、明治維新の1868年から1945年の敗戦までの、帝国主義、神格化された天皇、軍国主義の時代が77年間続いたこと、そして、1945年の敗戦で民主主義、人間天皇、自由主義国家に180度変わってから77年経ったということ。つまりここまでで、日本は二つの国家体制を同じ年数だけ経験したことになる、世界でも珍しい国である。

  さりとて、明治時代は明治45年まで、つまり1912までだから、明治最後の年に生まれた人でもすでに110歳だ。だから実際に明治の風俗を知っている人は、もういないということになる。4月の20日過ぎに世界最高齢だった人が、119歳で亡くなった、今最高齢はやはり日本人で115歳だそうだ。今、日本には100歳以上の人が凡そ65000人いると報道されていたが、明治時代最後の人達(1912年、明治45年と大正元年)でさえ帝国主義の時代は33年しか生きていない。1945年(敗戦の年)生まれでも、もう77歳だ。物心ついて記憶に残るのは5歳くらいからだから、帝国主義の時代を少しでも覚えている人は、日本全体でも僅かしか生きていないと思う。

 私も生まれてから戦争が始まる(1941年)までの11年間の、平和な昭和モボモガ時代を生きたけど、物心ついて記憶にあるのは6,7歳からほんの5,6年間のことである。この時代、軍国主義最高潮の時代だけど、普通の生活をしていくには、なにも不自由はなかった、だからおしゃれな服装髪型に工夫がなされ、モボモガが盛り場を闊歩していたし、今も残る数々の名曲歌謡曲がうまれ、タバコや酒類が店頭に豊富に並び、ダンスホールやバーが繁盛し、野球もプロ野球が始まり、新天地を求めた南米への移民が最高潮期を迎えるなど、戦争とは全く縁のない社会が存在していたのだ。要するに今の中国と同じで、国家体制に不平不満をいわなければ、庶民生活には何の支障もなかったということである。

 映画にもなった「日本の一番長い日」というドキュメンタリーを書いた半藤一利とい人がいた。昨年91歳で亡くなったが私と同じ昭和5年生まれである。しかし、昭和時代の知識の塊見たいな方である。昭和の歴史を表からとらえた本と、三面記事的視点で社会的事件などを主にした、昭和史のB面という2冊ペアーの本がある。面白い、まああ あれだけの本を書くのに、百倍位の参考文献を読みこなしているように感じる。書くのが商売とは言え、ただただ敬服あるのみ。私もそんなことがあったな、ということはおなじ歳なのだから知っているが、細かい出来事でも表も裏もよくもこんなことまで、と思うほど知っているし、流ちょうで江戸っ子的、切れの良い文章で、奥深くまで探求し、名士の残した言葉や歌(俳句、詩、名言、歌謡曲の歌詞など)をふんだんに引用し、知識造詣の奥行の深さ感じさせられる本である。 
 戦前の昭和は平和だったと思っていたが、それはあくまで表面で、裏では特に陸軍が満州を柱にちょくちょく事件を起こし、中国(当時は支那)と小競り合い繰り返し、だんだん侵略していった様子がよくわかる。太平洋戦争までは表向きは平和であったが、表も裏も一番落ち着いていたのは昭和9年10年頃だそうだ。この時代に生きた庶民の生の声が朝日新聞の投書に残っている、それを紹介しよう。(文面は現代文に修正し一部簡略した)

1.南米移民

 『南米熱に浮かされた私は家族5人と、昨年5月ブラジルに移住した。私達は不運にも辺鄙な農園にやられた。電灯のない豚小屋みたいな生活は覚悟はしてきたが、その後の1年間の生活は来る前の想像以上に惨めである。米は簡単には手に入らない、野菜を作れば野獣に食われる、鶏を飼えば盗まれる始末だ。 (中略) 腕1本で小作から成功するには至難のこと、日本で宣伝される「南米成功者」など千人に一人もいない。渡航の船中は勿論、上陸の際にも賄賂に使うだけの金を準備するのを忘れてはならない。欧米移民に比べて日本移民には日本政府の保護施設も機関も何もない。いつになったら、「移民は棄民なり」の諺から抜けられるのか暗然とする。 (在ブラジル一移民より)1929年5月21日』

2.婦人雑誌

 『近頃の婦人雑誌の記事はどうしてこのように汚い乱暴なものばかりになったのでしょう。先月号のある雑誌の広告には、「やきもちは如何に焼くべきか」とか「夫婦喧嘩の必勝法」などというのがあった。来月号の広告も夫婦愛増進号と称して「男性の心をつかむ奥の手公開」だの「妻が夫に恋される秘訣伝授」だのと言う題目がいくつも並んでいる。雑誌は多くの婦人の良友であり休養所であります。それが今日の如く私達の読むに堪えないものとなっても、どうすること出来ないと言うのは情けないことだと思います。 (たへ子より) 1927年6月23日』

3.駅名の呼び方論争

 『秋葉原の読み方に異議をとなえた人の提灯を持つ。鉄道省はアキハバラを本来の呼称たる「アキハノハラ」にあらたむべきである。どこを探してもアキハバラなんてところがあるものじゃない。秋葉原は私の知る範囲でもう一か所ある。向島の秋葉神社の境内で、アキハノハラと知られていた。地名を勝手に読みたければ、神田をカミタ、徒土町(おかちまち)をトシチャウと読むがよかろう。江戸っ子はなにおボンヤリしておる。 (無腸居士より)』

 『小生も不快感をもっておる。我が長野県下をみても、カルイサハ(軽井沢)をカルイザハと濁らせた。製糸で有名ヲカノヤ(岡の谷)をヲカヤとした。地名は固有の歴史があってそれがやがて大日本の歴史の一部になっておる訳けで、独断で清(す)ませたり濁したりできまい。駅名制定の主義を承りたい。(積水生より)』

 『駅名における処置、甚だ不快に感じおり候。高田馬場をタカダノババは聞く度に不快に候。蒲田をカマタとは何故か。カマボコより他にカマとよむのを知らず候。(沐芳生より)1929年2月16日』

 『蒲田出生でありますが、土地の人は誰でも昔からカマタと称しております。だからカマタの方がいいと思います。(KF生より)1927年2月18日』

4.鰺の抗議

 『私はアジという魚です。うまくて滋養にとみ、安いことはご承知の通りでしょうが、この4月から市民や農民諸君の口に入るために運送されると、2級の運賃をとられます(生糸が1級)。生活必需品値下げの声明に比して、乱暴な運賃改正という他ありません。われわれ魚類は漁場でとれた新鮮なものをどんどん送られるから皆さんがおいしく食べられるのです。常に氷詰めにされて荷造りされるから、自分の重量の約3倍の運賃を納めます。4級とするのが正当でしょう。専門業者を入れないで級品改正なんて絶対無理ですよ。(房州鰺より)1930年2月6日』

おわり  (2022.5.5 記)

 


 

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