連載コーナー
新 四 季 雑 感(13)
(1995年8月15日の |
村山首相談話のこと) |
樫村 慶一
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草木1本もない曠野を行く装甲列車 |
あっちを向いてもこちを向いても、キナ臭い匂いが充満している地球だが、漸くちっぽけだけど、雪解けのささやかな音がかすかに聞こえてきた。日本と韓国の仲直りの気配である。そこで、真っ先に思い出すのが、過去に何かある度に何回も言われたり、聞かされてきた、1995年に発表された、いわゆる村山富市首相の談話である。首相談話の他にも天皇のお言葉というのがある。私は、過去の記録や資料を保存しておくのが趣味の一つである。当日(1995年 (平成7年)8月15日火曜日)の新聞(朝日新聞)も保存してある。それを下記に添付したのでどうぞお読み頂きたい。
この内容はその後、故安部元首相も同じような趣旨の発言をした。今、岸田首相は、「現政府もそれらを踏襲していく」、なんて、持って回った言い方をしている。何回目になろうと、同じ意志を持ているなら、すんなり、改めて言い直してもいいではないと思うのだが、面子にこだわるのか、それとも、これが外交と言うものなのか知らないが、なぜ素直になれないのかが理解できない。
私は、最近、人と話をしていて、時々聞くことがある。「今、後期高齢者の限界を超えた、78歳の人までは全く戦争を知らない人間ばかりだ。今外敵が本土に入ってきた時に、お国のために死ね、といわれたら死ねるだろうか?」と。皆さんはどう思われるだろうか。
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万里の長城を占拠した日本軍 |
私のように敗戦時15歳の半大人だった人間には、それまでの、天皇陛下は神様で、すべてが軍事優先の教育を受けており、”男は天皇陛下のために戦争で死ぬんだ”、と思いこまされていた当時の精神状態を思い出すことできるけど、平和ボケどころか、戦争ってよその国でやるものと思いこんでいるような現代の青荘年は、はたして敵に向かって鉄砲を撃てるのだろうか。自衛隊の若者には、どこまでの覚悟ができているのか、はなはだ心もとない気がしてならないのだ。
ウクライナで、家族を同じ国内において、自分だけ前線に立つ兵士達の心境は、昔の日本の兵隊と同じような心境なんだろう。戦時中は、実際に死ぬ間際に「天皇陛下万歳と叫んで倒れた。あっぱれな最後だった」という話を聞かされたが、実際は、奥さんや子供の名前を呼んだ、という話を聞いたものである。世界でも珍しい長期平和が続く日本でも、男なら「国を守るためなら逃げる、だけど、妻や子供を守るためなら死ねる」、という気持ちにはなれるだろうな、と妻が元気な頃は感じたことがあったのを思い出している。中国本土と台湾の争いはいわば内戦だ。それなのに第三国の日本の、米軍基地のある各地にミサイルが飛んでくるような、帳尻の会わない愚挙だけは、絶対に避けてもらいたい。
おわり
(2023.3.10 昔陸軍記念日、東京大空襲犠牲者追悼の日、そして三陸大地震追憶の前日 記)
「写真出典:1億人の昭和史(1)1975.5毎日新聞社」
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新 四 季 雑 感 (11) (12)
新 四 季 雑 感(11)
樫村 慶一
半藤一利さん著の |
「昭和史B面」から |
掘り起こす |
(その6) |
2.26事件のあった |
昭和11年 |
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横綱 玉錦 |
世の中なべてこともなし。昭和11年(1936)が明けた1月5日、例年の如く読売新聞社主催の箱根駅駅伝(第17回)行われ、日大が2年連続の2回目の優勝を飾った。10日からは、両国国技館で大相撲初場所の初日が幕開けした、連日満員御礼で20日千秋楽、横綱玉錦が全勝優勝した。
警視庁は牛車、荷車、リヤカーの時代からすでに「自動車の時代」へと東京も変化していると気づき、緊急の場合の119番を設定することを決定した。それまでは交通事故による死亡とか重症などは考えられないことであったからである。この前年頃から東京府の年間交通事故は約2万件、うち死者は約4千人に達していた。そこで消防部に救急車6台を配置、救急病院173を指定、緊急呼び出し電話を119番とすることにした。
2月26日の反乱事件のちょっと前の平和な出来事を挙げてみると、特記すべきは、2月9日のプロ野球公式戦の初記録がある。名古屋市郊外の鳴海球場で行われた。
名古屋金鯱軍 | 2 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 3 | 0 | 計10点 |
東京巨人軍 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 計 3点 |
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日本初めてのプロ野球の結果の報道 (ウイキペディア) |
記録によると金鯱軍の左腕投手内藤幸三の剛速球と鋭いドロップが冴えにさえて、巨人軍は散発8安打、一方金鯱軍は青芝憲一、沢村栄治、畑福俊英の3投手に集中打を浴せ、安打7本だけどすべてが有効打となり圧勝した。本邦初のプロ野球公式戦第一線のスコアである。因みに、翌日の第2戦は8対3、11日の決勝戦は4対2 といずれも巨人軍が勝った。すでにラジオの実況も始まっていた。
20日に行われた、第19回衆議院議員総選挙で、予想を裏切り社会大衆党から出た、合法左翼の加藤勘十が全国最高点で当選した。それだけではなく、吹けば飛ぶよな存在であったこの党から18名の当選者が出た。反対に保守大物で、”腕の喜三郎”と言われた鈴木喜三郎が落選という、大番狂わせがあった。世の中なんとなく「革新」に期待をかけている機運が表れてきたことがわかる。
(筆者註:ここで言う革新とは、昭和9年に、軍事啓蒙のために陸軍パンフレットなるものが国民に掲示され、その中で、池田純久元中将が、岸信介、和田博雄、などの革新に熱意のある官僚と手を組み、新国家建設の構想を革新的構想と称し、広く国民に訴えていく様になり、国民の中にも共鳴するものが次第に増えて行った、ということ。)
それにしても、この年は東京によく雪が降った、2月4日に東京は49年ぶりの大吹雪に襲われた。省線電車は2、3時間おきに徐雪していたが、午後10時過ぎには完全運休、市内電車もバスもタクシーも夕方頃には雪の中に釘付けになる。「銀座も暗黒化し劇場、映画館は閉鎖となってもお客は去らず、結局歌舞伎座へ300人、日比谷映画劇場に、東宝、日劇、有楽座などの従業員とお客1200人が収容され、炊き出しの握り飯で腹を満たした」と2月5日付けの東京朝日新聞が報じている。更にこの後も、7日8日と雪は続いた。中旬にも雪模様の日が続き、25日も降った、
この日、銀世界の吹上御苑で天皇は久しぶりのスキーに打ち興じた。
そして26日は、前夜からの大雪で、東京は何回目かの一面の銀世界となった、その雪を踏んで完全武装の陸軍部隊約1400人が、都心占拠、重臣暗殺による反乱を起こした、いわゆる、2.26事件である。 『2,26事件については、別編にてB面話(いわゆる裏話)だけを紹介するので、そちらをお読み頂きたい。』
自然界は地上の出来事に関係なく四季が廻る。3月になった。東大法学部教授の南原繁が春の歌をいくつも詠じている。
* 音立てて ストーブの湯はたぎちおり 3月の陽は斜の射せり
* 朝の光 さし来て庭の椎の木の 雪すべり落つ木 木の葉さやげり
事件の後、軍部は”反乱”という恐怖をテコにして、その後、政、財、官、言論の各界を陰に陽に脅迫しつつ、軍事国家への道を強引に押し開いていった。3月9日、広田弘毅の新内閣が成立し、首相が人心一新の声明を発した。寒気はゆるんだがまだ戒厳令は解除されない。4月19日、外務省が突然、思いがけもしないことを発表した。証書、公文書などでは、これまで日本国、大日本国、日本帝国、大日本帝国などまちまちに呼称されてきたが、本日3月18日より「外交文書には大日本帝国で統一し実施する」。また皇帝と天皇とが混用されてきたが、「大日本帝国天皇」に統一する、と突如として知らしめた。国際連盟を脱退して以来世界の孤児となったが、今後は威厳と権威にみちた重々しい国名で列強との交渉にあたると言う決意を内外に示したのである。
さらに、5月18日、軍部大臣現役武官制(現役将軍ではないと入閣できない制度)を復活させ、8月7日には、陸海軍が協議して、これからの日本の在り方を決定づける国策の基準を策定した。すなはち「南方海域にも進出する南北併進」である。
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外地へ出発する兵隊達を載せた列車 |
国民の生活にはなにも変化は感じなかったが、時代の空気という大きな枠で捕らえてみると、この年を境にしてそれ以前とそれ以後とでは、同じ昭和とは思えないほどの変質と変貌を遂げて行ったとみることができる。例えば海軍は、ワシントン軍縮条約をすでに脱退し、更にこの年の1月にはロンドン軍縮条約からも脱退し、世界列強を相手にした苛烈な建艦競争に身を投じていった。大正11年(1922)以来続けてきた「建艦すれど戦わず」の海軍思想はかなぐり捨てられ、仮想敵国でしかなかったアメリカが,真正敵国になり大平洋の向こうから巨大な姿を現し始めてきた。そのためには、パナマ運河が通れないような巨大戦艦を複数建造しなければならないと、大和、武蔵の設計が着々と進められていった。先の国名表記の問題あたりから鬱陶しい時代が到来したと言える証拠に、この年のメーデーは禁止、渡辺 はま子の流行歌「忘れちゃいやよ」が官能的であると発売停止、言論の取り締まりが厳しくなってきた。この間には、反乱をおこした第一連隊、第三連隊は次々に満州に送られていった。そんな、暗いムードを打ち破るかのような、思いもかけぬ事件が起きた。
5月18日、荒川区尾久の待合「まさき」で40歳位の男が、布団のなかで首を絞められ、急所が切り取られて死んでいたのだ。左太ももには血文字で、「定吉二人」と書かれていた。有名な阿部お定事件である。今ではもう知らない人の方が多いかもしれない。もう87年昔のことだから。この事件が社会的になったのは、殺人行為そのものではなく、その直後からのマスコミの狂奔ぶりにある。戦後すぐにお定本人と「オール読物」誌上で対談した坂口安吾が、その点を鋭くついている。「あれくらい大紙面を使ってデカデカと煽情的に書き立てられた事件はなかった。当時はあの事件でもなければやりきれないような、押しつぶされたファッショの走りの時代だった。お定さんもまた、そんな時代のおかげで、反動的に煽情的に騒ぎ立てられた犠牲者だったかも知っれない」。
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美人と言われた、阿部定 |
全く安吾の言う通り、当時の報道のすさまじさは、例えば19日朝日新聞は社会面トップ5段抜きの大見出し、「尾久紅灯街に猟奇殺人・・・美人女中姿を消す・・・」、20日朝刊トップ4段抜き、「いずこに彷徨う? 妖婦、血文字の定・・・」という調子である。これは他紙も同じで、戒厳令下の報道制限のうっ憤を今ぞ晴らさんとするかのように、新聞はセンセーショナルに事件を報じた。この日、チャップリンとフランスの詩人、ジャン・コクトーが来日したが、二人の芸術家が束になっても、お定人気にはかなわなかった。当時の朝日新聞の政治部長、細川隆元がその当時の話を詳しく話している。「あんなけばけばしい編集をしたのは朝日新聞始まって以来のことかな。一番問題になったのは、切り取った一物さ、これをどう表現するか。局部とか急所とかにすべきという論と、直接表現は避けた方が良いという論があって大論戦になったが、慎重論が勝って”下腹部”という新語がうまれたんだ」。一方東京日日は”局所”となっていた。こちらも頭をかかえたようで、編集局内に懸賞募集が張り出され、局部と急所の間を行く言葉が採用されたと言う。事件は20日夕方、お定が高輪の旅館で逮捕されあっさり解決した。捜査課長が一物をどうしたかと聞くと、お定は帯の間からハトロン紙包をとりだして、ちらっと見せただけですぐ大事そうにしまいこんでしまったという。当時馴染みの薄かったハトロン紙がこれで一躍有名になったということである。
戒厳令が解けぬまま夏になった。何かが歴史の裏側で進行していた。明らかなのは自由主義の排撃がいまや軍の総意となったこと、更に一般大衆にもその影響が及んでいく。多くの人が、自由主義が何たるかを知らぬまま、利己主義と同じようなことと勘違いして、声高に撃滅を叫ぶその声は、天皇万歳の斉唱と同じくらいの力を示し始めていった。そんな動きとは別に、民衆は時代の暗さを忘れたいかのように、阿部定事件を話題に乗せていった。川柳や小話が沢山作られた(筆者註、沢山あるのが、本篇では紙面の都合上掲載しない)。そんな時、また笑いの種になるような事件が起きた。「東大法学部の学生が往来で立小便をした」、との罪状で蔵前署の巡査にとがめられ1円の過料に処せられた事件である。学生は身に覚えがないと主張し裁判になった。した、しないの水掛け論になり、小便は地中に吸い込まれ証拠の痕跡は残る筈もなく、東京区裁判所は無罪の判決を下した、かくて新聞は、流石東大生なりと一斉に讃辞を載せた。報道制限の鬱屈をはらしたのである。
そうして、2.26事件のことは大衆から忘れられようとしていたが、7月7日、こうした大衆の心に冷水を浴びせるように2.26事件の判決が出た。首謀の将校17名には死刑の判決である。執行の日は銃声を紛らわすために、隣合わせた練兵場では軽機関銃の空砲の音がひきりなしに鳴っていたと言う。この日が終わり、7月18日、ようやく戒厳令が解除になった。ここかしこに銃をもった兵士の姿が一斉に消え、東京はようやく普段の顔を取り戻した、そして、待ってたように隅田川の川開きが行われた、見物人は何と85万人と時事新報が嬉しそうに報じた。
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優勝した前畑秀子 |
昭和11年(1936)は明暗それぞれに大きな出来事が起きた年である。海外では第11回ベルリン・オリンピックが華やかに開かれた。開会宣言をしたヒトラーの前を各国選手団が挨拶をしながら行進する。挨拶のスタイルは、フランスが過去のオリンピック・スタイルによるものだが、これがハイル・ヒットラーに良く似ているので、ドイツ観客は大拍手。イギリスはだた単に「頭(かしら)右!」、アメリカは挨拶はおろか旗手は星条旗を下げるどころか、誇らしげに高々と掲げた。ドイツ観衆は口笛と足を踏み鳴らし、無礼なヤンキーに抗議を送った。そして我が日本選手団は戦闘帽姿で、おとなしく手を横に出し足を直角に上げてカッカッと行進した。世界の各国の間では、ナチス・ドイツをめぐって敵意と猜疑と追従と様々な思惑を秘めて冷たい戦争がもう始まっていたのだ。ベルリン・オリンピックは選手自身の名誉より国家の栄光が先に立って争われ、競技は国家の威信をかけたの戦いとなっていた。
昭和8年の国連脱退以来、栄光ある孤立、を誇っていた日本人が、鋭敏な国際感覚と国際情勢への認識を持ち得ていたとは到底思えない、ただ、このオリンピックを通して国民的熱狂が燃え上がったことだけは確かである。全国民が日の丸が上がるかどうかに一喜一憂した。前半の陸上競技では5千米、1万米の村社(むらこそ)選手の健闘、棒高跳びの西田、大江がアメリカ選手相手に大熱戦を繰り広げ日の丸を2本挙げた活躍、三段跳びの田島直人が16米の世界記録で優勝など大活躍。後半の水上は日本が威力を発揮した。
「特に今でも語り草になっている、女子200米平泳ぎ決勝。前畑秀子の白い帽子とドイツのゲネンゲルの赤い帽子が先頭を競った。白がややリード、しかし赤が猛然とスパート、<前畑危ない、 頑張れ前畑、がんばれ、! 頑張れ、頑張れ>河西アナウンサーが絶叫する、<あと5米、4米、あと3米、2米、アッ前畑リード、勝った 前畑勝った、勝った、勝った・・・>スポーツ放送史に輝く名実況である」(註:クリックすると音声で聴けます)。1936年8月11日のことであった。
祭りの後には戦いがくる。6月頃からくすぶり続けていた、スペインの内乱がついに火を噴き、みるみる拡大していった。フランコの率いる国家主義者(右翼)と人民戦線(左翼)が砲火を交え本格的な戦争へと発展した。ヒトラーのドイツとムッソリーニのイタリアがフランコ側に付き、ソビエトとフランスが人民戦線側についた。アメリカとイギリスは不介入・中立の立場をとったが、明らかに人民戦線側に多大な同情を示した。その結果国際的対決の場となり、武器の性能などやがて来る第二次世界大戦の実戦訓練をスペインの国土で行い、スペイン人の血によって武器の性能を確認すると言う得難い経験を得たのである。
一方、日本国民は、2.26事件後は軍部は謹慎しているとばかり思っていたのだ。しかし広田内閣は軍の主導により重大な国策を次々と決定していた。この頃、戒厳令が解除されて静けさが戻った東京の盛り場には、ホット・ドッグという当時としては妙な食べ物が出現して、若者や子供たちを喜ばせ、ビヤホールでは黒いビールが売り出された。昭和11年11月11日、11という数字が並ぶ日である。この日たばこのゴールデンバットが7銭から8銭に値上げとなった。それで新聞に号外が出たと言うから驚きである。一方タクシー(円タク)の値下げが話題になった。東京駅から新宿、渋谷までが70銭となって運転手は大ボヤキである。雷門まで50銭、数寄屋橋まで30銭。この年のタクシーの総台数はおよそ4千6百台なのであるが、それでも競争が激しく、東京市内1円均一(円タクの由来)の看板は壊れ、距離に応じて値下げせざるを得ない状況になった。そんなタクシーの嘆きをよそに、この年から僅かではあるが国産の黒塗りのダットサンの走る姿がみられるようになった。
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国産自動車 ダットサン |
そして都市部を中心に結婚ブームが起きた。8年頃からの軍需景気がつづいて失業者は減り、青白きインテリなどといわれた大学卒業者は、皆大手を振っていい職業につくようになり、娘達のあこがれの的になってきた。そのうえ新婚生活の甘い歌が大いに売れた。
「空にゃ今日もアドバルーン さぞかし会社で今頃は・・・」、「髪は文金高島田 皆さんのぞいちゃいやだわよ・・・」、「何か言おうと思っても・・・女房にゃ何だかいえませぬ・・・」などなど。民草は生活にかなりの余裕を感じ始め、国運は前途隆々たるものがあると思っていたのである。東北地方の貧農の娘の身売り話は全くなくなったと言えた。昭和11年10月から翌年4月にかけて、東京日日、大阪毎日新聞に連載された吉屋信子の代表作「良人(おっと)の貞操」が爆発的人気になった。未亡人と妻ある男との道ならぬ恋の物語である。
ちょうど同じ頃、朝日新聞が、国産飛行機「神風号」による初の渡欧飛行計画を発表し、連日これがいかに壮挙であるかを紙面であをった。この話も人気になり2紙は天下を2分した。小説は連載中から映画化・劇化の話が持ち上がり、浅草の喜劇・大衆劇まで即席の「良人の貞操」一色となる。こうなると、まだ飛んでいない神風より話題は貞操に引っ張られ、翌年まで貞操ブームは続いた。この恋愛小説には時局性は全くなく軍の反乱も南北併進も全く無縁である。2,26事件後の重苦しい息苦しさを忘れるためにも大ヒットしたということである。戦争などと言う物騒なことは夢にも思っていない大衆は、ひたすら不倫小説に惑溺した。大衆の感覚はまだ健全であったということでもある。この年のクリスマスは盛大にやろうと言う空気が高まり、東京や大阪のホテルやダンスホールは、年に一度の書き入れ時と大宣伝を始めた。
陰に陽に、明るい事も暗いニュースも色々あったこの年の、最後に政府が行った重要施策が「日独防共協定」である。11月25日、陸軍の革新派と外務省の親ナチス・反英米的革新グループの主導のままに締結する。このことを聞いた元老西園寺公望は「結局ヒトラーに利用されるだけで何も得るところはない」と嘆いたと言う。
更に、隣国支那では蒋介石が部下の張学良によって軟禁された。共産党の周恩来が仲介に入り、日本の支那侵略に対し抗日共同戦線を樹立しようと呼びかけたところ、蒋介石はこれを受諾して無事解放された。これによって「国共合作」が成立した。しかし当時の日本政府はこの事実をあまり重大視していなかった。蒋介石と毛沢東が手を結ぶなんてことがあり得るはずはない、と信じて対支強硬策を取り続けていたのである。
(つづく)
【写真: 懐かしの昭和時代、(株)ベストセラーズ1972.1.20/ 流行歌と映画で見る昭和時代Ⅱ、(株)国書図書刊行会1986.2.10/ 青春プロマイド70年、(株)主婦の友社1988,8.6 】
新 四 季 雑 感(12)
樫村 慶一
2.26事件 |
B面話 |
(特集) |
|
* 半藤一利さん著の |
昭和史B面を |
主に他の資料を |
加えてまとめた * |
大雪の昭和11年2月26日、兵を率いるのは陸軍大尉、野中四郎、安藤輝三以下の青年将校22名。そして、内大臣斎藤実、教育総監渡辺錠太郎、大蔵大臣高橋是清が死亡、侍従長鈴木貫太郎は重傷、総理大臣岡田啓介は義弟松尾伝蔵大佐の身代わりの死で奇跡的に命拾いをした。この大事件に際して内閣は無力、陸軍首脳はなすすべもなく右往左往した。ただ一人、反乱軍として討伐を決意したのは昭和天皇である。昭和天皇実録が記載している天皇の言葉と態度は毅然としていた。「自らが最も信頼する老臣を殺傷するとは真綿にて我が首を絞めるに等しき行為である」と。この天皇の怒りとゆるがぬ意志の基に事件は4日間で終わった。しかし実際には本当は終わっていなかったと言う人もいる。
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赤坂山王ホテルに集結した反乱軍 |
この事件に関して、全く事前に情報をつかんでいたものが一般大衆の中にいなかったのか、となると、あながちそうとばかりは言えないようである。麻布の歩兵第三連隊(反乱軍の主力になった部隊)が10日ごろ首相官邸や警視庁付近で夜間訓練をやっていたとか、20日過ぎに、一部の青年将校が朝日新聞社に見学と称して訪れ、屋上から写真撮影をしていたとか、その他、外部の忠告やらで朝日新聞の編集局長美土路昌一は、ある種の予感を抱いていたと言っている。また一匹狼の津田という男が、ある日新聞社にやってきて、「何か軍の方で大きな計画をしているようだ、西田税(みつぎ)や北一輝が軍の提供したキャデラックで飛びまわっている、計画の中には朝日の襲撃も入っているようだから気をつけなさい」と言ったとか。美土路は主筆の緒方竹虎に話したが、緒方は一笑に付したと言われている。
この事件については、読むのに難儀を極めるほどたくさんの資料がある。さりとて、B面だけで事件の4日間を書くことはむずかしい。主な話だけを紹介することにする。一般の人はその日、いつもの通り勤めに出た、街にはタクシーも走っていた。
噂の一つに、秩父宮が軍隊を率いて応援に来るというのがあり、こうなると内乱である。あわてて東京から脱出した人々もいた。哲学者三木清は新橋駅から早々に三重県に旅立ったとか、随筆家高田保は夫人に「貴方は厄年だから危険だから」と言われ熱海に避難したとか、王子製紙の藤原銀次郎は市内を自動車で乗り回し、本社には時々電話を入れて情報を確認したとか、三井総本家の池田成彬は一日中雲隠れしたとか、他にも本宅を気にせず妾宅にしけこむ政財界人も多かったとか。
一番大袈裟なのは、静岡県興津の坐漁荘に隠棲していた元老西園寺公望で、木戸幸一からの電話で緊急避難を強く要望されたので、側近が早速辺鄙な地へ移る準備をしたが、西園寺は、「通信や交通不便な所へ行って、もし畏き当たりより御用があった時はどうするのか」ということで、清水水上署の警備船を屋敷の裏海岸へ待機させた、という話もある。
こうした中で、秩父宮が天皇に代わる、というのが一番重大な話であった。つまり反乱軍の黒幕は秩父の宮だと言うことだった。完全なデマだったのだが。しかし、こうしたデマは、夕方ちかくには、何となく落ち着いてきた。東京の夜が寂然として夜が更けて行った時、皇居の堀端だけがやたらににぎわっていた。奇怪ともいえるこの現象を、2月27日の東京日日新聞の記者が書いている。「いつも銀座を漫歩している人並みが、この夜だけは日比谷のお堀端を埋めていた。丸の内のビジネスセンターは巨大なビルの谷底に眠っているのに、2.3丁もはなれぬ堀端を行く人、人、人は静かに動く。しかしこの尋常ならぬ散歩者の姿も夜が更けるにしたがって消えて行き、警備令下の帝都は深沈として静かになった」。
そして翌27日が明けると、夜のうちに香椎浩平司令官の名において戒厳令が布告されたにも関わらず、市民生活はもう平常の活気を取り戻していた。劇場は開き、映画館は呼び込みを始めた。有楽座は水谷八重子の「母なればこそ」、新橋演舞場は松竹少女歌劇の「東京踊り」、宝塚劇場では星組の「バービー」などなど。帝劇はこの日が封切りでジュリアン・デビビエ監督の「白き処女地」が公開された。フランス映画がどんどん輸入されてくるのはこの頃からである。「地の果てを行く」、「ミモザ館」、「幽霊西へ行く」など、結局は何事も起こっていなかったという楽観に、殆どの人はとらわれていた。
政治評論家の戸川猪佐武が赤坂の料亭「行楽」の女将福田らく、から聞き取った、笑えない回想が庶民感情を代表している。
「あの日、中橋中尉に言われ、お酒を4樽、握り飯を沢山首相官邸に届けました。何か目出度い事でもあるのか、としか思いませんでした。7時ごろ軍曹がきて、百畳広間と食事の用意をしました。まもなく景気のいい進軍ラッパが聞こえ兵隊がきて、家の前で酒井中尉が演説しました。27日の朝、北一輝が支那服を着て颯爽と現れ、激励演説を始めましたっけ。28日、晒し木綿の白鉢巻、白たすきが全員に配られ、冷や酒の乾杯、首相官邸や陸相官邸から握り飯の催促がどんどんありました。29日、まだ夜の明けない3時ころ、うちの不寝番が「大変です、ヒトッ子一人いませんよ」と駆け込んできました。お隣の山王ホテルに集結したのです、庭のお地蔵さんの前に遺書がありました」。
「後の話になりますが、困ったのはお勘定です。5千円弱なんですが、麻布の歩兵3連隊に行くと、頭ごなしにどなられました。近衛3連隊でも相手にしてくれません、二つ月ほどたって、赤坂の憲兵隊から呼び出しがあったので、喜びいさんて行くと”何と思ってあちこちに請求書を持ち歩くのか、逆賊に味方したのだから、本来なら手が後ろにまわるところだぞ”と叱られました」。
女将は、いわば大スペクタクルの見物人としての気持ちで対処していたのであって、市民もまた見物人に徹した。29日、皇軍が相打ちの危険を含んだが、天皇の強い意志の元に決起部隊の原隊復帰をもってあっという間に終息した。
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「兵に告ぐ」のビラ |
それにしても、新聞社はなかなか情報がとれなかった。朝日新聞社会部記者は戒厳司令部に詰めていて、風呂へ入ってくる将校たちの話をきいて言いネタを取ったといわれる。そのうち、「兵に告ぐ」というビラを撒くことになって、それを朝日新聞で印刷してくれということなった。ただ、そのころはまだ反乱軍が勝つか負けるか分からなかった。しかし反乱軍はやっつけにゃいかん、となりビラの印刷引き受けた、ただし朝日が刷ったことは秘密にしてもらったという。このビラは飛行機から撒いたり戦車で撒いたりしたようである。
反乱が起きた当時は、いろいろな作り話がはやった。高橋是清が裸で寝ていた所へ襲撃した兵隊が着物を持ってきて、「高橋これ着よ(是清にひっかけ)」と言ったとか(護衛の警官が言ったという説もある)。天皇侍従が事件の報告を言上したら、天皇がヨロヨロとよろめき「朕は重心(重臣にひっかけ)を失った」とか。陰惨な空気の中でもそうゆう笑い話が流行った。
反乱軍の首謀者は千葉県の谷津海岸の料理屋に軟禁された。憲兵が囲んでいて外出は許されない。外部と連絡をとりたいので、すぐそばに撮影所があったので、そこの人間に頼んだかすぐ憲兵に捕まってしまった。その次に出入りの”不見転(みずてん)芸者”に頼んだら、全裸にされて調べられたが分からない所へ隠して持ち出したと言う。これは厳粛な事実である。そんなこを言っているうちに、号外だ! と言う。26日の夜に内務大臣の後藤文夫が臨時首相になったのが、「首相臨時代理」に代わった、これはおかしい、岡田が生きているから臨時代理になったんじゃないかと思われた。それで新聞記者の空気はなごやかになった。宮中から退出するところを撮った写真は朝日の特ダネである。平河門のところで待機していてぶつかった。すぐ自動車を平行させ5米くらいから窓の中の岡田首相を撮った。
殉職した警官が5人いたけど、その見舞金が一般国民から7万6千7百16円46銭。高橋是清の葬儀には縁もゆかりもない民衆が3万か4万人焼香している。国民はこういったファッショ的空気には非常に反感をもっていたことが分かる。
筆者註:半藤一利さんもおそらく知らなかったであろう秘話。 2.26事件とKDDとは思わぬ因縁があった。岡田啓介首相は女中部屋に隠れていて、義弟松尾大佐が身代わりになって難をのがれた。その後首相秘書官二人が、官邸を囲む反乱軍の目を盗み、首相を安全な場所に移す方策はないかと思案し、警護の憲兵と相談して、弔問客に化けて無事に脱出させた。首相を無事脱出させた最大の功労者である秘書の一人が、KDD創立当時の役員の一人になった。そしてその子息もまたKDDに入った。2.26事件の隠れた主役の一人がKDD創成期に活躍したことは、平成の時代まで世に知られることはなかった。この秘話はNHKで2016年2月22日に放送されたほか、KDD・OBの証言もある。
ここまで、東京の状況ばかりを書いてきたが、地方の都市はどうだったのか、これは今まであまりふれられていない。そこで、代表的なものとして、京都日出新聞(現京都新聞)の記事を一部紹介する。「27日早朝までに市民に知らされたが、いたって平穏で、新聞号外の鈴の音もなく、官庁、銀行、会社は勿論、各学校も普通の授業を開始し、市電、市バス、円タクなどの交通機関も正常、繁華街や京都駅前などは前日にもまして活気をみせていた」。また大阪では、レコード屋が集まり、これからはは正価厳守で行こうと妙な決議をしたり、高島屋がデパート結婚式の先鞭をつけながら、ソロバンに合わないと、式場閉鎖を公表するなど、いかにも大阪人らしい。「君側の奸」だとか「昭和維新」だなどとの言葉とは全く縁もゆかりもない話題ばかりであった。
事件はおわって暦は3月になった、騒がさしい世であっても、麗しい春はおもむろに訪れた。
(2.26事件 B面話特集 おわり)
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