連載コーナー




 

 

 

新 四 季 雑 感(8)

樫村 慶一 

半藤一利さん著の

「昭和史B面」から

掘り起こす

(その3)

つづき 

昭和6年~7年

 

 

 昭和6,7年頃の日本の産業、工業の進歩に自信を持った海軍は、とんでもない計画を考えだした。後、悲惨な最期を遂げることになる浮沈戦艦、武蔵、大和の巨艦を作ろうと目論だのである。更に忘れてはならないことに、新聞各社が雪崩を打つように陸軍の満州における野望の応援団と化したことである。あれよあれよという間にメディアは陸軍と同志的関係になっていった。その理由の一つにラジオの普及があった。ラジオの臨時ニュースのスピードに新聞はかなわなかった。対抗して号外を出すが、その記事は陸軍の報道班にもらわなくてはならず、陸軍の意のままに書くことになる、それまで軍縮に賛成したり対中国強硬論反対とぶっていた新聞の権威も主張もどこへやら、陸軍の意のままの存在になり下がり、これ以後新聞の力を自ら放棄してしまったのだ。
 それに戦争は、新聞経営に追い風になったのである。戦争は購読者を伸ばすのである。本来にぎやか好きな民衆はこれまでメーデーの行進に喝采を送っていたのが、180度背中を向けて満州問題の成り行きに熱狂し、確かな事実として、一時は面白いように売れたマルクス資本論は全く売れなくなってしまった。プロレタリア文学は本屋の棚から一斉に姿を消した。エログロ・ナンセンスの昭和史はここから様相を一変し始める。軍事国家へ舵を切り、世は戦争の色が濃くなり出す。貧困が戦争を呼びこんだとも言える。

出征兵士を載せた軍用列車
昭和6年(1931年)

 昭和7年、満州事変は拡大するが日本軍は連戦連勝、国内は提灯行列や旗行列が続いた。しかし支那本土では反日排日の動きが一段と燃え上がり小ぜりあい繰り返された。国際世論も日本の強引なやり方に厳しく当たるようになってきた。、そうした中で国際都市上海で日本人僧侶殺傷事件というのが起きた。実はこれも日本軍の仕組んだもので、昭和7年1月28日、上海は一時戦火の街となった、第一次上海事変である。これは天皇の強い指示によりじき停戦になったが、実は陸軍が満州での拡大作戦に対する世界の非難の目をそらす作戦だったのである。まんまとこの間に満州国を誕生させてしまう。満州の実態を調査するために来日していた国際連盟のリットン調査団はこのずる賢い事態に驚愕した。総会で満州国を承認したのは、日本ただ一国だけだった。
  日本国内の不況は特に農村部がひどく、簡単にはたちなおれるものではなかった。そうした中で、血盟団による井上蔵相、檀琢磨三井理事長暗殺事件がつづき、犬養首相が陸海軍の青年将校に白昼堂々と暗殺された5.15事件など、いよいよ軍部による恐怖時代の幕開けである。しかし、こうした事件の続発にも新聞は強く批判することはせず、世論もまた軽い批判にとどまっていた。その結果軍部と右翼はますます力を強くしていった。日本はこの頃から一歩一歩恐る恐る重苦し時代への足を踏み入れていったのである。
 上海事件で爆弾三勇士の作られた美談がブームになったのは、昭和のご老体諸兄はご存じであろう。2月22日早朝上海廟行鎮の鉄条網を爆破するため、久留米工兵第18大隊の江下武二、北川丞、作江伊之助の三人の一等兵が爆薬筒を抱いて飛び込み壮烈な戦死をとげた話である。荒木貞夫陸相のあっぱれであるとの談話が出るは、新聞社が義援金募集を呼びかけると、一日で2500円(筆者の知識では約175万円位かな?)の新記録が出るは、爆弾三勇士の歌の募集にはなんと84000余通の応募があったとか、3月にはついに映画にもなり、芝居、新派、浅草の一座まで、世は戦意高揚の波に包まれた。

昭和大典奉祝花電車
昭和3年(1928年)

 戦意高揚も一段落した10月、東京市は周囲5群82町村を合併して20区を親設した。新たに加わった区は、品川、目黒、荏原、大森、蒲田、世田谷、渋谷、淀橋、中野、杉並、豊島、荒川、滝野川、王子、板橋、足立、城東、葛飾、江戸川、向島で、全35区、人口551万3482人の大都市になった。そこへB面らしき事件が起こった。向島区ができる前の3月7日、東葛飾郡の寺島村でバラバラ事件が起きた。場所は当時2000人の売春婦がいた私娼窟玉ノ井、その入り口の通称”お歯黒どぶ”。どす黒くにごった水面に、ぼこぼことメタンガスが浮き上がる泡と共に浮かんだのが胴体の上部と下部のバラバラの死体。今時はバラバラ事件などでビックリする人間はいないだろうが、当時の日本人はまだ優しくて、残忍な殺し方をするものなどはいなかった。そのうえ場所が場所だけに気味悪く、しかも猟奇的ということで、この事件は昭和1桁時代の中で、特筆される大事件になった。被害者は30がらみの男と言うだけで身元不明、捜査は難航、迷宮入りかと思われた。そこで新聞雑誌が競って推理小説家を総動員して色々推理させた。

レコード楽譜表紙
昭和4年(1929年)

 ヤメ検の浜尾四郎、医学博士の正木不如丘、森下雨村、牧逸馬(林不忘の別名)、そして大御所の江戸川乱歩の面々、これがまた話題になって事件は東京府下から全国へ拡大していった。犯人は警察のモンタージュ写真が役立って、10月に入り逮捕されるが、その自白で腕や足は本郷の東大工学部の空家同然の教室から発見された。結局は不況のどん底生活がもたらした悲劇であった。朝日新聞が犯人逮捕をすっぱ抜いて号外を出したが、その記事を書いた記者は、警察のトイレに入っていて、二人の刑事が並んで用を足しながら喋っているのを聞いたスクープだったそうだ。  このバラバラ事件の捜査が難航して世間の噂も下火になり始めた5月のこと、昭和史の事件で今も語り継がれている”坂田山心中”が起こり、またまた世間の耳目は衝動した。80歳以上のお年寄りで、この事件を聞いたことがないと言う人はいないはずだけど、懐メロの「天国に結ぶ恋」の事件といえば、あああれかと思うだろう。「今宵名残の三日月も、消えて寂しき相模灘・・・・」という歌い出しよりも、最も歌われたのは3番の「二人の恋は清った、神様だけがご存じよ 死んで楽しい天国で あなたの妻になりますわ」の名歌詞だ。この作詞は柳水巴となっているが、これは西条八十の変名であった。早大教授の肩書の本名では、さすがに、この甘ったるい文句は書けなかったのか、それとも満州をめぐる国連調査団来日中という厳しい時局に、純情な若い男女が清浄なまま世を去ったなど、ロマンスを謳歌する歌詞は教授の肩書ではできなかったのか。

夜の銀座の雑踏 
昭和8年(1933年)

 毎日新聞社編「最新昭和史辞典」の坂田山心中の後日談を簡略して述べると、『5月10日朝、大磯町の共同墓地から前夜仮埋葬された心中死体が盗まれ、翌朝近くの船小屋で発見された、慶大生調所五郎(24)と湯山八重子(22)が結婚に反対され坂田山の松林で心中、女性は清純なままだった。犯人は火葬人夫で、仲間から美人だったと聞き興味をそそられて発掘した。心中者を検視した警察が、女は処女だったと発表した。墓が暴かれ女性の遺体がなくなり、再発見されたとき彼女は全裸で、船小屋の砂の中にうめられていた』、となっている。
 新聞は今の週刊紙顔負けの見出しで報道した。「朧月夜に物凄い死体愛撫・・・砂上に這う女の黒髪」ときては映画がだまっているはずはない。五所平之助監督、竹内良一、川崎弘子主演でたった12日で撮り終わり事件の1か月後に封切り、これが大ヒット、主題歌も日本人で歌わぬものなかったと言われた。しかし、映画はしばらくして上映禁止になってしまう。天国に結ぶ恋を歌いながら坂田山で心中したり、自殺するものが増えたからである。この年だけで20組の心中があったという。

楽譜の表紙
昭和7年(1932年)

 数年続きの不景気、満州事変に始まる軍靴の響き、国際社会からの孤立化の恐れ、血盟団のテロ事件、さらに5.15事件もあり、世の中はぎすぎすする一方である。そうした時代、人は感傷に過敏になるのである。5.15事件は陸海軍の革新将校たちが引き起こしたテロである。彼らは首相官邸、内大臣官邸、政友会本部、警視庁などを襲い、変電所を襲撃して停電を起こして東京を暗黒にし、戒厳令を敷いて軍部政府を作り国家改造の端緒を開こうとした。つまり、テロリズムによって破壊的衝撃を引き起こし、維新政府を作る、自分達は昭和維新の捨て石になると言う目的であった。それゆえ青年将校たちの純粋さ、志士的気概が世の多くの同情心を呼ぶという奇妙なムードになった。忠義と憂国の名においてなされる世直しに人々は大いに共鳴した。そうしたやりきれない現状が、暗殺者たちを昭和維新の志士と祭り上げた。当時の日本人の多くの心のうちには重臣や政治家や財閥に対して漠然とした不信と疑惑があって、これらの階級に対するある種の天誅が下るのを期待する思いがあったようである。その上、海軍大臣や東郷元帥などが彼らをかばう発言をした。こうして国民感情は盛り上がり軍法会議の判決も軽いものになった。首謀者でも禁固15年であり、その後恩赦でかなり早く出所した、後の2.26事件の判決に比べ国民感情を汲み取ったかなり温情的なものであった。

銀座のモガ
昭和8年(1933年)

 とにかく当時の日本人は、長年続く不景気と先行きの不安に飽き飽きしていた。どうゆう形であれ現状打破を待望しつづけた。政党政治は腐敗しきっている、官僚は無為無策である、財閥は暴利をむさぶるだけ、と言う声が巷に蔓延していた。そのため陸軍が無理に建設した満州国こそが、現状打破の突破口になるかもしれない、と人々の目には写ったのである。赤い夕陽の広野こそが現状打破の夢がある美しい理想郷と思われた。これにこたえて日本政府は欧米列強が絶対に初認しなかった満州国を昭和7年9月15日承認した。その理想の大地へ武装開拓移民の第一陣が日本を出発したのが10月3日である。移民しても国に後ろ髪をひかれるような者は活躍ができないだろうからと、当初は係累のない者を送るということで、423名が選ばれた。10月14日、満州北部のチャムスに到着し、先住の中国人400人を一人500円で立ち退かせた後の土地に強引に住みついた。後の弥栄(いやさかえ)開拓団である。
 満州国をめぐって国際世論はますます厳しくなり、日本の傀儡国家にすぎず、日本は手を引くべきであるとする声が高まり、10月1日リットン調査団の報告書がでる、この時の日本の新聞の反応はすさまじかった。すなはち「錯覚、曲弁、認識不足(朝日)、誇大妄想の甚だし(毎日)、葦の髄から天除き(読売)、非礼悔匿なる調査報告書(報知)」などなど、これでは、我が国が国際社会からよってたかった叩かれて、生命線を扼殺されると思い込んでも仕方がなかった。こうして新聞によって導かれる当時の日本の世論が、殆ど国際連盟脱退への強硬論一つに固まってしまうのは目にみえていた。

白木屋の火事
昭和7年12月(1932年)

 非常時とはそもそもなんなのか。国家の危機、重大な時期であるが、今から見ると、自業自得の感が強い。昭和6年の満州事変に始まり、7年の上海事変、血盟団事件、満州国の建設、5.15事件、国連脱退で孤立化へと、日本帝国は軍事大国化への坂道をひたすら転げ落ち、民衆はそれについていったのである。昭和8年の国家予算は過去最高に跳ね上がって、22億3800万円という巨額になった。新聞は日本始まって以来の非常時大予算と報じた。これが「非常時」と言う言葉が流行するきっかけになったらしい。陸軍や官僚が早速「非常時、非常時」と盛んに吠えだした。つまり「非常時日本」は昭和7年からスタートしたことになる。そして小学校教育にも軍事教練を導入していこうとする動きがでて、文部省が青年学校の設立を計画するようになった。
 さて、B面話は非常時の話を主題にしては面白くない。この年昭和7年12月16日、歳の締めくくりにもあたる大事件が起きた。年末売り出し中の日本橋白木屋(のち東急、今コレド日本橋)で大火事があり、近衛3連隊の1個中隊と軍用機7機が出動した。結果として女店員14名が死亡、重軽傷者百数十名が出た。気の毒にも亡くなった女店員たちはみな和服を着ていた。火事となって救命ロープにつかまって脱出したとき、煙火の勢いで着物の裾がまくられるのを押さえようとして、つい片手を離してしまった。そのため転落した気の毒な事故になった。彼女たちはズロースをはいていれば死ななくても済んだのである。これ以後、「ズロースをはけ」が自然に流行語になり、白木屋では女店員はズロースをはくのが義務となった。街ではズロースをめぐって駄洒落が語られた。坂田山心中事件をもじって、
 「天国に結ぶ恋の彼女はズロースをはいていただろうか?」
 「はいていなかったにきまっているさ」
 「へエー、なぜわかる?」
 「美人はくめい(薄命)」
念のために書くと、湯山八重子さんはちゃんと和服の下にズロースをつけていたという。彼女はミッションスクールに通い、寄宿舎生活をした経歴があったからだそうだ。
 昭和7年、非常時、非常時と言われるようになっても、まだ、この程度ののんびりとした、ユーモラスなムードは巷の生活の間には残っていたのである。 ( つづく 2022.11.5記)

(註)写真出典:「流行歌と映画でみる昭和時代Ⅰ」遠藤憲昭 編 
   発行者 佐藤今朝夫 国書刊行会1986.2.10発行。

   なお写真と文章は、白木屋の火事を除き直接関係ありません(筆者)。

 

(2022.11.5 記)

 


 

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