連載コーナー




 

 

 

新 四 季 雑 感 (22)

樫村 慶一

サケの握りが

たべられるようになった

理由とは・・・

 

 

 前回の「四季雑感」には牛肉の話を書いたので、今回は、魚と行きたいと思う。魚と言えば、すぐ寿司を連想する。実は私は、生魚を食べられない。どうしてか、理由はよく、じゃない全然わからない。おそらく昔、魚に当たってひどい目に合ったからかなと思うのだが、別に生魚が食べられなくてもたいしたことはない。だから、私には、マグロのトロだろうが、タイだヒラメだといったって、猫に小判で、ぜんぜん見向きもしない。その代わり肉にはおおいにこだわりがあるが。

地の果て、プエルト・モンの町

ロス・ラーゴ州都
プエルト・モン市

 さて、寿司のことを昔は関西では箱寿司と言ったが、関東(東京)では、断然握り寿司で、昭和の初めころまでは、寿司のNo.1はコハダで、マグロはズケと言って安物だったと言われていた。時代は飛んで、昭和30年頃(1950年代後半)になると寿司飯を小さくした店が増えてきた。飯よりもサカナが大きい方が良い値段になると思たのだ。しかし下町では飯はある程度大きいのを好んだようで、「刺身を食いに来たんじゃねー、飯を喰いたいんだ!」という客もいたようである。小さい飯にサカナがしなだれかかっているような寿司は、売春婦が客にしなだれかかって、「旦那、お金ちょうだい」と言っているような下品な女郎寿司だ、と作家の小島政二郎は言っていた。(以上、宮尾しげを著 下タ町風物詩より)。

プエルト・モンの青空市場

 すし飯が小さい事を現実にあてはめると、先日近所に新しくできた「くら寿司」というのに行った。そして驚いた、飯が小さいのなんの、普通の握り寿司の2/3くらいしかない。そして種が薄い、更には、ワサビが付いていない。ちょいと前に回転寿司で悪さをする子供がいたことが問題になったためか、ワサビはテーブルにあり、薄い種を自分でめくってワサビをつける、なんとも、寿司屋らしからぬ寿司屋である。もうこりごり、もう絶対に「くら寿司」には行かない。          
 寿司の話を続けよう。かっては、生でたべられなかったサケ(鮭)が、今では回転寿司の人気トップとか。スーパーでは、年中生の切り身が買える。その元は17000キロ離れても一衣帯水の、遥か彼方のチリからやってくるものである。昭和40年頃(1965)における家庭での魚購入量は、アジ、イカ、サバが上位であったが、2001年頃にはイカ、マグロ、サケとなり、2011年以降はサケ、イカ、マグロの順になり、その後はサケが首位を厳守している。そして今の日本人が食べているサケの68%がチリからの輸入サケで、ノルウエーからは10%である。しかし、このような状態になるまでには、何も考えないで買っている人々には、到底理解できない苦労話があった。

プエルト・モンの名物料理 クラント

プエルト・モンの土産物店街

 JICA、世界の発展途上の国々のあらゆる分野で活躍する団体で、今までに多大の実績を上げてきたが、アフリカ、中東、南米など各地で多くの犠牲者もだした。そのJICAに1970年頃にチリからやってきた鮭養殖の技術研修生と出会った技術職員が、南部のロス・ラーゴス州(ラーゴは湖で複数形でラゴス)に眼をつけた。緯度が北と南の違いだけど、それぞれ約50度と同じであり、地勢的にも小さな島が寄り合ったり、フィヨルドのある地帯なので、北海道の鮭の稚魚を持っていけば、きっと立派な産業になるに違いないと考えた。ところが、これがとんだ見込み違いであった。ぜなら、稚魚が育っても帰ってこないのである。動物の本能は微妙で南北の違いは簡単には解消しなかったのだ。自然の海を回遊してきたのでは、日本のサケと同じで生ではたべられない。その問題をどう解決したのかは知らないが、地勢を利用して自然の養殖池のようにしたのかもしれない。JICAは20年近く苦労したのち、チリ政府に試験事業を引き継いで引き上げた。それを受け継いだチリ側も立派であった。見事成功させたのである。日本の援助から始まった養殖事業なので、チリも養殖したサケを日本へ優先的に輸出してくれる。
 養殖のサケが輸入されるようになって、生のサケがたべられるようになった。北海道などの自然に生きるサケは、プランクトンなど食べているので、雑菌がいるため生ではたべられない。養殖の飼料はこうした心配のない、人口の餌だからナマでも大丈夫である。何気なくスーパーやデパートで買うサケには、こうした先人の苦労と努力の汗がにじんでいる。大威張りでチリのサケを食べていいのであるが、先人が苦労した裏話も合わせて覚えていてほしいと思う。

プエルト・モン~アンクー間フェリー

 このことは、チリの産業経済全体にも大きな影響を及ぼし、ロス・ラーゴス州の発展に大きな影響を与えている。小さな島が寄り合い、島と島の間は川のようであり、フィヨルドは細い川が縦横に流れているジャングル地帯で、とても人が住める環境ではない。しかし、サケの養殖が始まる前も、日本とは全く関係のない所ではなかった。このあたりの森林の木材をパルプの原料として輸入する商社があり、数えるほどの日本人が州都プエルト・モンの町に駐在していた。この地方がサケの養殖に最適ということになり、ここで養殖したサケを、プエルト・モンのすぐ南に位置する、チロエ島で加工するようになったわけである。
 フィヨルド地帯の入口に当たる位置にある、チロエ島は、真否は確かめたことは無いが、南米大陸で2番目に大きい島だということを聞いたことがある。また、チロエ島は南米というか世界のジャガイモの始祖の土地でもある。サケのための工場ができ、人口78万人のロス・ラーゴス州には養殖会社が60社もでき、3万人がサケ産業に勤めていると言うことで、チロエ島の住民の家族は親戚単位では、誰か一人はサケ産業に関わっていることになる。

チロエ島のアンクーの町

アンクー漁港
南米太平洋岸南端の漁港

 私は妻と二人で2000年にチロエ島に行った。細長いチリは南北約4000キロあり、隣のアルゼンチンとの国境越えルートは大きく3つある。一番北はアルゼンチンのサルタ州からアンデス山脈の峠越えのルート、昔はチリへの直通列車が通っていた。しかし今はアルゼンチン側の線路だけが生きていて、アンデス山脈の凡そ4000米の高さまで登り、国境に近い終点の高さ70米の鉄橋で折り返す「雲への列車El tren a las nuves」という観光列車が走っている。2番目はアルゼンチンの、というより世界的ワイン生産地として知られるメンドーサ州の州都から、国境の上に聳えるアンデス山脈最高峰アコンカグア(6960米)のほぼ真下に掘られた国際トンネルを抜けるルート。
 3番目が、一番南のルートで、南米のスイスと言われる、アルゼンチンの高級保養地サン・カルロス・バリローチェから、ナウエル・ウワッピ湖を遊覧船で渡り、バスを乗り継ぎまた湖を渡るという、一日がかりだけど一番景色を楽しめるルートがある。このルートの終点がプエルト・モンである。この町は、南米大陸の北の端コロンビアから続く道路(パン・アメリカン・ハイウエー)の南端の終点でもあり、サンチアゴから来る列車の終点でもある。この先には全く道はない。つまり、本当の地の果ての町である。ここからチロエ島の島都アンクーの町とはフェリーボートで約30分で繋がっている。
 

1960年の大地震の震源地近く
地震で河口が拡がった
入江を渡るプデト大橋

 サケブームが来るまでのプエルト・モンは、町の周辺に野菜や魚の市場が開かれ、土産物屋が軒を並べていいる質素な町であったが、今では、高さ90米のツインタワーができたとか、高級住宅が沢山建ちデパートもできて、サケ養殖の都と呼ばれている。目だった産業もなく、経済的に低い生活水準だった町に雇用がうまれ、すっかり町の様子がかわったようである。全ては、日本の発想と援助のお陰だったのである。
 サケの話とは関係がないが、このチロエ島は1960年(昭和35年)のチリ大地震の震源地に近く、地盤変化でそれまで海にそそぐ川口だった所が、広い湾のようになってしまったところがある。この大地震は、日本の三陸地方にまで津波を影響を与えたことで知られている。 今日本で一番沢山食べられている鮭の話はこの辺で幕としよう。
(2024.3.10記 ) 

 

 

 


 

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