連載コーナー




 
四 季 雑 感(57) 
 
75回目の敗戦の日 がやってくる  改めて満州を思い出そう
 
樫村 慶一

 
 また夏がきて8月15日がやってくる。この日を日本人は終戦記念日と言うけど、敗戦記念日とは言わないのはどうしてだろうか。やっぱり、敗戦では記念日とは言い難いからだろう。とは言っても、敗戦は敗戦だ、終戦なんて体裁いいこと言ったって、あのコテンパンな負けざまを見ている人間には、むしろ終戦という方がおこがましく感じる。国土も家も家族関係もなにもかもが、徹底的にやられたあの日、15歳はもう大人だった、大体のことは知っている。終戦なんてよくも体裁ぶったことが言えたものだと今でも思う。
 敗戦に納得できない内地の兵隊は大勢いたようだが、私がハッキリ覚えていることに、丸焼けになったホームには、ほとんど何もない千葉駅から出たSLに引かれた木造のぼろぼろ列車の屋根すれすれまで降りてきた、木更津海軍航空隊の生き残りゼロ戦が、戦争継続を訴えたビラを撒いて行った光景がある。
 
 昭和20年8月ごろに10歳位(国民学校3,4年位)じゃないと満州と言う国があったことは知らないと思う。おそらく疎開先の学校で優先して教えこまれたんではないだろうか。私は、もうすでに旧制の中学生だったし、疎開はまったく知らない。
 
  戦争を始める前の日本は大国だった。北は北緯50度の樺太南半分から大陸では黒竜江を隔ててソビエトと接する所まで、ここは樺太全島よりも北になる。西は大興安嶺の向こうの蒙古(モンゴル)国境から台湾まで、南は国連委任統治地域のサイパン、テニアン、ヤップなどの南洋諸島まで、そして東は海のかなたまで、膨大な領土領海を持った国だった。満州も樺太も朝鮮半島も台湾もサイパンも、皆パスポートなんかいらない国内旅行で行けた。
 
 我々のような過去の大日本帝国の栄光を懐かしんでいる人間にとっては、日清、日ロの二度の戦争で、何十万人もの尊い戦死者の血で贖った貴重な国土を、いとも簡単に失った軍国主義の信奉者達は、恨んでも恨んでも恨みきれない、憎んでも憎みきれない怨念の塊である。特に関東軍の参謀どもの無謀で傲慢な作戦が、のちの太平洋戦争につながったのだから、いくら憎んでもなんとも言いようのない憤りを感じる。
 
 敗戦の時15歳だった私は、もう大人の感情を持っていたし、戦前の思い出の中には行った場所とか流行した歌とか、食べ物とか、四季の風物とか、私が思うところの、戦争が激化するまでの昭和で一番良き時代(昭和10年頃~16年頃まで)の思い出が、まだ頭のどこかに刻みこまれている。だから、懐メロにしても、映画にしても、今から見るとかなり幼稚で単純な筋書の小説や漫画が、齢いを重ねてくると、やたらに懐かしい。
 懐メロには満州や中国を歌った歌が沢山ある。そしてタイトルや歌詞に出てくる形容詞も今じゃあんまり使われなくいなった、しかし古き良き時代の日本人の心を打つ、響きの良い文句がふんだんに窺がえる。
 満州や、当時は支那と言った中国を歌った歌とは、「さらば上海、幌馬車の唄、急げ幌馬車、さすらいの唄、国境を越えて、雪の国境、夕日は落ちて、馬賊の歌、恋の幌馬車、上海夜曲、国境の子守歌、上海だより、密使の幌馬車、上海の街角で、上海夜曲、白蘭の歌、タンゴ上海、熱砂の誓い、崑崙こえて、夜霧の馬車、凍る歩哨線」、などなど、どれをとっても、年寄には涙が出るほどに身に響く。
 ご一緒に満州を思い出してみよう。私は2004年に北京、上海、徐州、杭州、天津などへ、2005年に大連、旅順、瀋陽(昔の奉天)、203高地、水師営などへ行った。今年は203高地の激戦から115年目になる。遺構はまだ十分に当時の激戦の模様を偲ぶことができる。
 
1.満州国とは
 満州国が存在したのは、第一次世界大戦が終わって世界が大恐慌に襲われた1932年(昭和7年)3月から1945年8月までの僅か13年と5か月間だけだった。そのころ満州と呼ばれた中国の東北部では、日本の持つ満州権益(満鉄の経営権と関東州の租借権など)が張学良政権に脅かされていた。このため、日露戦争で10万人もの戦死者を出して守った場所だとの思いが強かった日本は、満鉄警備のために駐屯していた関東軍をもって、張学良を駆逐し不況から脱出を図ろうと、1931年9月18日の柳条湖付近における満鉄爆破事件を起こした。これを中国側から仕掛けられたことにして満州事件を起こして張学良政権を倒し、関東軍参謀達を中心としたの日本軍人勢力によって建国された国である。まさに日本の傀儡国家である。然し当時の国際連盟は満州国を独立国とは認めなかった。国民は日本人、漢族、満州族、朝鮮族、 モンゴル族などが住む多民族国家であり、これを五族共和と言った。総人口は約4300万人、そのうち日本人は僅か100万人にすぎなかった。 結局「満州国」とは軍国主義が生み出した不祥な国だったのだ。
(注)不祥=よくない、不吉、(不祥事)。   
 
2.満鉄(南満州鉄道株式会社)とは
 日露戦争で日本が獲得した遼東半島の鉄道と沿線の付属地域を経営する国策会社として1906年に設立された。撫順炭鉱や鞍山製鉄所、大連港などの経営や、学校教育、調査研究なども行う巨大組織で、関東軍に協力して満州国を支えた。1937年に満州工業開発(満業)が設立され、参加企業の多くがそちら移管された後は鉄道事業に特化された。
 
3.関東軍とは
 万里の長城の東端にあった山海関東を「関東」と呼んでいた。日本が日露戦争で獲得した遼東半島の権益や鉄道、沿線の土地を守るために兵力を常駐させたのが始まりで、1919年に正式発足した。ソ連に対する守りを最大の任務としていたが、しばしば大本営首脳に背いて独走し満州事変も政府の不拡大方針を無視して軍事行動を拡大した。時には天皇をも出し抜いたこともあった。マスコミの好戦的報道によって、国民は関東軍を熱狂的に支持していた。一番悪い奴らは 石原莞爾 荒木銑十郎などの佐官級の参謀達である。しかし、太平洋戦争がはじまると精鋭部隊が南方へ送られ弱体化したが、ソ連は対ドイツ戦に苦戦していたので当分の間日ソ戦は起きないと考え、敗戦まじかまで天下泰平を決め込んでいた。しかし1945年8月にソ連軍が侵攻するとすぐに壊滅状態になり、邦人の保護どころか、殆ど抵抗せずに逃げ出してしまった。実に罪深き軍隊である。
 
4.満蒙開拓団とは
 日本と満州国の関係を強化するには、日本人が数多く移住し、現地で指導的な役割を果たすことが必要と考えられた一方、当時の日本国内には人口に対して農地が絶対的に不足しており、貧しい農村を救うには過剰な人口を海外へ送り出すことが必要だと考えられるようになった。そこで、満州への大量移民が国策とされ、政府やマスコミが熱心な宣伝で勧誘した。開拓民が入植した土地は当初は関東軍が、後には満州開拓公社が先住民から強制的に奪ったり、安く買い上げた農耕地であった。開拓民は主として今までほとんど日本人が行かなかった北部の奥地に住みついた。開拓民には次の3つの類型があった。
 
 ①試験移民
 日本に反抗する勢力が出没する地域の治安維持を兼ねて在郷軍人から募集した。しかし、治安の悪さや貧しい食事、ホームシックなどで1/4が退団したり戦病死した。 
 
②一般開拓民
 1936年に政府が決定した「20年で100万戸500万人」という大量農業移民計画に基づき、家族ぐるみで数十から数百戸がまとまって入植した。貧しかった村や里から分かれて移住する分村・分郷が主流を占めた。この人達が敗戦後悲劇に会うことになる。
 2019年から2020年3月末まで、テレビ朝日で倉本聰原作のドラマ「やすらぎの刻~道」が放映されたが、その中に山梨県の農家が満州へ集団移住するシーンが何回も出てきた。終戦時10歳の倉本聰には、満州国も開拓団もよくわかっていたのだと思う。 (日本軍の砲弾を受けた203高地のソ連軍陣地)
 
③満蒙開拓青少年義勇軍
 1938年開始、16~19歳の男子が茨城県内原の訓練所で教育され満州に渡り、現地の訓練所で義勇隊を編成し、3年の実地訓練を積んだ後、開拓戦士となって国防も兼ね多くが国境近く入植した。農家の次男三男が多く、彼らに対する花嫁候補が送り込まれ、大陸の花嫁ともてはやされた。
 
5.ソ連軍侵攻の悲劇
 太平洋戦争末期に弱体化していた関東軍は、満州国にいる日本人男子約15万人に招集をかけ、根こそぎ動員した。女子供、老人だけになっていたところに突然ソ連軍が侵攻してきた。命がけの逃避行が始まり、そこへそれまで抑圧されていた漢人たちの怒りも爆発し、残されていた日本人婦女子は略奪、暴行、強姦などの悲劇の的になり、絶望のあまり集団自決する部落も頻発した。また、栄養不良や病気になって冬の極寒の下で次々と命を落とした。特にソ連軍戦車に生きたまま蹂躙された「葛根廟事件」は特筆される悲劇である。(四季雑感(56)女を乗せた特攻機参照)。
 敗戦の翌年から引揚げが始まり、軍民合わせて約127万余 (1931.9.18柳条湖付近の爆発事件の碑) りが帰国したが、生きるために現地人に預けられたり、妻と なっていた子供や女性は中国残留孤児・残留婦人となった。ソ連軍にシベリヤへ抑留された人は約57万5000人、うち死者は約5万5000人と言われている。慟哭! 
 
おわり  (2020.8.1記、敗戦75回忌に寄せて)
 
参考資料 「2005年8月25日 東京新聞サンデー版」、写真作者提供。