第34回

 

 

サー・トーマス・リプトン(1848-1931)
「紅茶王」とよばれた男 The King of Tea

 

 

 前回の茶の話から今回は紅茶の本場イギリスへ渡り、英国の紅茶ブランド「リプトン」の創業者についてご紹介してみたい。

 リプトン

 リプトンはスコットランド・グラスゴー下町生まれ。両親はアイルランド農民でジャガイモ飢饉を逃れて移住し小さな食料品店を営んでいた。リプトンは生まれついてのアイディアマン、その独創的で機知に富んだアイディアで、ヴィクトリア朝後期のイギリスにあって紅茶産業を世界的規模に発展させ、常識を覆した実業家として成功を収めていった。セイロン紅茶を興隆させて「紅茶王」の地位を築くまでに至った。

 子供の頃のこと、ある朝、父が卵をお客に手渡しているのをそばで見ていて「どうしてお母さんにやらせないの? お母さんの手のほうがずっと小さいから、卵が大きく見えるのに…」 10才にもならない頃から、自分の学費は自分で稼ぐべきだと考えていてアルバイトをしながら夜学に通っていた。大柄で利発、子供仲間の大将、手作りボートのヨットクラブをつくっていた。波止場に浮かぶ貨物船の積み荷の揚げ卸しを観察しながら実務的な知識を吸収した。13才の時、蒸気船のキャビンボーイとして採用してもらう。いつか船でアメリカに渡り、自分の実業王国を築きたいと夢見ていた。

 リプトンの第一号店 
(1871年にリプトンがグラスゴーに
開いた最初の店)

 1894年のリプトンの広告

 南北戦争(1861-1865)終了後、あこがれのNYへ渡る。3年後、百貨店の食料品部で働くことになった。様々な商法を勉強、移民成功者になることは間違いなかったが、19才、さっさとグラスゴーに引き揚げた。

 時代は奇しくも、小売店のチェーン化が進み、町には商品があふれ、都市の労働者がそれらを消費するという「工業化経済社会」の実現に移っていく。その流れに乗って自分の事業家としての夢を果たそうと決断。保守的な昔かたぎの父親のもとで働くことはものたりなく、自分自身の店をだすことを決心した。「商売はだれがやっても同じようなもの。大切なことはビジョンをもち、決断し、素早く行動すること」という確固とした信念を持っていた。
 リプトンは宣伝広告の有効性を最大限に活用していくようになる。名言「商売の資本は、体と広告」「広告というものは、それを見て顧客が笑い、おもしろい話題であるとして、次々に他の人に伝達されていくものでなければならない」 アメリカ仕込みのモットーのもとに、一人で切り回し、朝早くから夜遅くまで店を開いていた。そして20年間、毎日、新しい広告の方法を考えていた。とりわけ奇抜で、しかも大きな成果を上げたのが「凹凸カガミ」。店の出入り口に凹凸の鏡をとりつけ、入り口の鏡には「私はリプトンの店に行きます」 お客の姿は細長く伸びて、とても貧弱に映った。出口の鏡には「私はリプトンの店から出てきました」 お客の姿は太って幸福そうに映った。

 このようにしてリプトンは、これまでにだれも考えつかなかった妙技・妙案を次々と考えだし、自分の店で実践していった。地方紙は「リプトンの名は、グラスゴーで日常当たり前のように使われる言葉になるであろう」と大絶賛。30才の時、20店舗にまで成長していた。人々は「この次には、リプトンがどのような離れ業を見せてくれるのだろう」とワクワク期待して待つようになっていった。

 その後本格的な紅茶事業へと進出していく。18世紀初めのイギリスでは、東洋の珍品である茶を飲むということは、貴族・上流階層の特権であった。だが、18世紀末-19世紀初頭にかけて成功した「産業革命」によって中産階級が大量に出現、「砂糖革命」(西インド諸島で大量生産が可能、砂糖の価格が大幅に下がり、イギリス人の食生活に大きな変革が現れた)により、「茶に砂糖を入れる」という贅沢を楽しむことができるようになった。人口が増えて、労働者階級の人たちも紅茶を愛飲するようになり、この頃、中国産紅茶をしのいで、インド産「帝国紅茶」が本格的に出回るようになった。この頃までに、ディーラーが巨大な販売力を誇るリプトン・マーケットに対して、熱心に紅茶の売り込みにきた。リプトンはまず、ディーラーの取り扱い利益がどれほどかを調査、驚くほど大きな儲けであることがわかった。まだまだ高価な嗜好品としての紅茶は利益が非常に大きかった。
 他の普通の小売店よりも2/3以下の価格で売ることができると計算、この商売を実現させるためには紅茶の葉をブレンドする熟練した技術が必要と判断、ロンドンの茶業界から専門家を雇うことにした。「オリジナル・ブレンド」、だれの口にもぴったりとあう傑作が生まれ、イギリスの紅茶市場で大センセーションを呼び起こしたのである。リプトンの店に顧客が殺到、品質に大満足していった。
 パケット・ティー(銘柄包装紅茶)を生み出し、小分けにして防湿効果のある鉛を引いた包材に包むか、金属の缶に入れて、品名やブランド名を印刷したシールを貼り付けた。消費地の水に合わせた紅茶のブレンドも行う。その土地の水質によって香味やコクに違いがあることに気付いていた。各店長に命じて、その土地で使われている水を定期的にロンドンの本店に送らせ、それぞれの土地にあったブレンドが、リプトンによって初めてつくられた。

 アフタヌーンティーの様子

 これによりリプトン紅茶に対する信頼と名声はより一層高まっていった。
 その後の事業としてセイロン島の茶園を買った。「イギリスの貿易史上、新しい時代のはじまりを意味する。プランテーション経営と民衆を結ぶ独特の商取引きによって、イギリス国民は利益を受けるであろう」と言われた。この頃からセイロン島は「リプトンそのもの」となる。その後、インドの紅茶取引の中心地カルカッタに支店を設置、インドの紅茶事業に乗り出していく。アメリカ、カナダ、ヨーロッパ、アジアの国々にリプトン紅茶を売り込んでいった。

 宣伝広告の有効性を最大限に利用して、一大チェーンストア網を築きあげ、世界の紅茶王となった。「チャンスは決して逃さないこと」リプトンの先見性と決断。名言「宣伝のチャンスは決して逃すな。ただし、その商品の品質が良いことこそが、その条件である」

 日本へは1887年(明治20年)初めて紅茶が輸入された。100㎏のみだった。1906年(明治39年)明治屋がイギリスブランドの紅茶を輸入し、1907年から販売しはじめる。

 紅茶の繊細な味わいを鑑賞する最善の方法は「静かに味わう」ことである。一杯の紅茶が醸す穏やかなリフレッシュ、私はミルクティーで味わうのを好む。

 

(2024.9.1)

 

 

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島崎さんへのメッセージ

坂口さん ありがとうございます。

坂口さん

こんばんは メッセージありがとうございました。

いつもいつも大変励みになります。

お酒のお話ですか~(笑) ちょっと考えてみます(笑)

これから秋~晩秋に向けて興味深い美術展が目白押しです。

散歩がてら、またふらりと出かけていきたいと思います。

引き続きどうぞよろしくお願いいたします。

 

島崎 陽子

こんにちは島崎さん。

こんにちは。島崎さん。

ご無沙汰しています。

坂口です。

9月号拝見しました。

いつも素晴らしいですね。

今回はリプトン紅茶のお話

素晴らしいですね。

何気に無く頂いる紅茶のお話しありがとうございます。

勉強になりました。

私しは紅茶がだいすきです。

また島崎のお話しお願いしますね。

今度はお酒のお話しなどお願いします。ごめんなさい。

まだ暑いので気をつけて下さいね。

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