連載コーナー
新 四 季 雑 感 | (28) |
樫村 慶一
昭和は | 遠くなりにけり、 | というが、 | 昭和モダンが | 懐かしき |
遂に昭和100年になった。ついでに、敗戦80年でもある。他事ながら私はツクモ坂(90代の坂?)の頂上にたった。後は下り4年がんばれば、良く言われる白寿、百に一つたりない二桁最後になる。そんなケチなこと言わないで、もう一つたして、1世紀生存した証拠をつくりたい。100歳、世紀の紀をとって「紀寿」という。あまり一般的ではない表現であるが素晴らしい言葉だと思う。
どうも歳をとると、昔への望郷心が強くなるのか、またまた、昭和恋しや節になってしまうが、やっぱり書きたい。しかし、うれしいことに近頃は世間でも、昭和が何となく懐かしがられ、想い出の時代ともてはやされている。ところが、騒いでいるのは本当の昭和生まれではないと思う。そもそも、昭和は63年と1週間あった。1/3の1ずつ分けると、前期、中期、後期と、20年づつに分けられる。平成に入って10年も立った頃(20世紀の終盤)、世紀変わりが近づくにつれて、ノストラダモスが「1999年8の月に人類が絶滅する」と予言したという、五島なにがしの本が飛ぶように売れてた。それから、もう25年、1/4世紀が過ぎる。時の流れは本当に早く感じる、昭和が終わってから生まれた人間が、もう37歳になるのだからオドロキである。しかし90歳を過ぎた人間には、100歳までは遠い。1年を無事生きるのに、若いころの3倍も4倍も努力しなくてはならないからだ。
昭和は遠くなりにけり、懐かしむのは結構だが、きちんと懐かしんでもらいたいものだ。80年間も戦争がない先進国は珍しいと言われる。戦争の怖さは、テレビでよそ事としてしか知らない世代が懐かしむから、どうしても前期に思いが及ばない。せいぜい、昭和中期からしか思い出せないのだろう。それじゃ本当の昭和は分からない、本当の昭和の良さは、昭和初期から戦争に負ける1,2年前までだったのだ。それを言えるのは、敗戦のときには、せめて7,8歳位になっていた人、今年米寿になる位の人である。
そのくらいの歳の人ならば敗戦の時7,8歳、疎開していなければ都会で空襲を経験し、街の荒廃,食料不足、物資不足、闇市の繁盛、戦災孤児が溢れていたことなど、戦後の混乱を覚えている筈である。しかし、これから書く本当の昭和の良き時代は知らないだろう。
振り返ってみる過ぎ去りし日々の思い出は、善悪、硬軟、甘辛、苦楽などを取り交ぜて山ほどある。懐かしむ方法、手段はいろいろあるだろうが、その一つに、懐メロで思い出すことができる。現在の私の子供の年代(60代)の懐メロは、昭和40年代から後のものだ。主なものを挙げてみる。(昭和39年)ああ上野駅、御座敷小唄 (40年)柔、二十四の瞳 (41年)霧の摩周湖、悲しい酒 (42年)ブルーシャトー、小指の思い出 (43年)神田川、クチナシの花 (49年)二人でお酒を、昭和かれすすき (50年)昔の名前ででています、北の宿から などであろう。
私の懐メロ時代には遠く及ばない。それもそのはず、私の懐メロは軍国主義時代の戦前ものなのだから。昭和の始めはまだ大正メロディーの時代だった、「船頭小唄」とか「カチューシャの歌」とか「波浮の港」など極めてのんびり調のものだった。それが、昭和4年の東京行進曲で一遍に現代風に脱皮した。そして、中山晋平に続いて古賀政男が世にでてきて、いわゆる古賀メロディーが流行り出した。
昭和10年頃からは、今でも年寄りの郷愁を呼び起こす、文学的・詩的価値が高い(私の個人的感傷)歌詞に、甘くせつない、純情なメロディーの歌謡曲が大量生産された黄金時代だった。昭和12、3年になって、日支事変が長期化してきた世情に迎合して、軍国調が現れてきた。しかし、私として不思議なのは、昭和10年頃は私はまだ6つか7つの、いたいけない子供である。それなのになぜ、私の懐メロなのか。歌詞の意味が分かる筈はない、それでも、私にはこの時代の流行歌が、歌詞も覚えた絶対の懐メロなのである。随分と考えた末、ある程度納得できる答えが出た。そこへ偶然にもNHKのバラエティ番組で、まさに私の疑問に答えてくれるかのようなものに出会った。このことを「レトロスペクラティーボ」というのだそうだ。番組は「自分が生まれてもいない時代を、なぜ懐かしいと感じるのか」というものであった。答えは、親が懐かしがっているのを見ているからだ、と言ってい

た。”社会的共通体験”として親の価値観が子供に伝わることだ、という。
まさに私の体験にピッタリの話しである。それはこうゆうことだと思う。「父親は明治37年(1904年、日露戦争が始まった年)生まれで、明治大学で1歳年下の古賀政男と同じ年代だった、そして古賀政男のマンドリンクラブに入っていた。そんな関係で、家で練習するのを私の母親が聞き、それを常に口ずさんでいたのを、また聞きで私が覚えた」。そして、成長するにつけ、その心に沁みるメロディや歌詞が、心の奥底に焼き付き、私の生涯の懐メロになったのだろう、と推察する。

知らない人も沢山いるかもしれないが、参考のために私の、「懐メロベスト5」をあげてみよう。
①東京行進曲、「作詞西条八十、作曲中山晋平、歌佐藤千夜子」これだけは昭和4年のもの、あとは昭和10、11年頃の、②東京娘「西条八十,古賀政男、歌藤山一郎」③愛の小窓「西条八十、古賀政男、歌ディック・ミネ」④青い背広で、「西条八十、古賀政男、歌藤山一郎」⑤懐かしの歌声「西条八十、古賀政男、歌藤山一郎 」。
③の愛の小窓は歌詞が5番まであり、全部覚えていないが、他は何も見ないでも歌える、バスタブの中がよい唄い場である。”とり”はいつも東京行進曲だ。この歌は私の生まれる前年にできたものである。
「東京行進曲」(1929年) | 作詞:西条八十、 | 作曲:中山晋平、 | 歌:佐藤千夜子 |
① | 昔恋しい銀座の柳 あだな年増をだれが知ろ ジャズで踊ってリキュールで更けて 明けりゃダンサーの涙雨 |
② | 恋の丸ビルあの窓あたり 泣いて文かく人もある ラッシュアワーに拾ったバラを、 せめてあの子(娘)の思い出に |
③ | 広い東京恋ゆえ狭い いきな浅草忍び逢い あなた地下鉄わたしはバスよ 恋のストップままならぬ |
④ |
シネマ見ましょかお茶のみましょか |
④番のオリジナルの歌詞は(下線部分)、 長い髪したマルクスボーイ、 今日も抱える赤い恋 ・・・だったそうである。 |
封建的な丁稚小僧制度が壊れ、大正デモクラシーの時代になったが、世は金融恐慌の荒波にもまれ、貧困を救うものとして大衆が期待した社会主義思想、つまりマルキシズムが広まっていった。『長髪の深刻そうな青い顔をした青年が、翻訳されたばかりの、ロシヤのコロンタイ女史著の「赤い恋」を抱えているのをよく見かけたためである。』と作詞家の西条八十は語っている。彼は当時早稲田の仏文学部の教授でフランス留学から帰ってきたばかりだった。この作詞をみたレコード会社のビクターがビビった。官憲から文句が出そうなので、何とか書き換えてもらえないか、と泣きつかれ書き直したのが現在の歌詞だ。ところが今度は小田急から勝手に社名を短縮したと苦情が出た、でも世間は呼びやすい事から「小田急」の呼び方が流行り、会社は痛しかゆしだった、と本には書いてある。
全部字画があっている。覚えやすいし、覚えやすいから心にとまる。さらに、五・七文字の言葉で情景を想像させる、まさしくこれが詩であると思う。昔の流行歌は、みなこのように、格調が高かった。それが今の歌(というのもおこがましいが)はなんだ、5,6人が集まって、歌詞とはとても言えない言葉を、メロディとはとても言えない、不思議な抑揚をつけて叫び、飛び跳ね回る。NHKが真っ先にやっている。もう、日本人の心を表現する本当の”歌謡曲、流行歌”は絶滅したのだと思う。
しかし、なぜ戦前の昭和が懐かしいのか、という理由は、懐メロが素晴らしいからだけではない のだ。その話をこれから、申し上げようと思う。
日本陸軍がこの頃から、ごそごそ蠢きはじめた。昭和4年9月に南満州鉄道の張作霖爆殺事件を起こし、そろりそろりと、牙をむき始めた。6年には満州事件を起こし、中央の思惑とは逆に段々と満州方面に深入りしていった。そして昭和7年に満州国をでっちあげた。この辺のことは、3年前に亡くなった、半藤一利さんの、「B面昭和史」を元にして、「新・四季雑感第6部~16部まで」 で紹介したので、その頃の話はおいておいて、子供の眼と体で覚えている昭和の社会の雰囲気を思い出してみようと思う。
小学校2年か3年の頃、悪ガキどもは何処も、いつも大体同じメンバーが集まる。遊びは、空地でのゴロ野球(球を投げるのではなく、ころがしてバットで打つ)、水雷艦長(要するに相手の親分の帽子を取る)、馬飛び(じゃんけんして馬になる奴,乗る奴を分けて、飛び乗る)や、ベーゴマとかメンコだった。
ある日、生意気にも時局談義?をしたことがあった。日本、独逸、伊太利亜を日独伊と纏めて言い、枢軸国と言った。なぜ枢軸なのかは子供にわかるわけがない。昭和11年(6歳小学校1年)に日独2か国で防共協定を結んだときだったか、15年(10歳小学校5年)の日独伊3国が軍事同盟を結んだときか、どちらだったか覚えていないが、子供心にもなんだか物凄く興奮したのを覚えている。物事が分かる歳だったのだから15年の軍事同盟締結のときだったのだろう。場所は、私の家の近くにあった、駿河寮という静岡県人が利用するクラブの様な建物で、テニスコートが何面かある広い庭の片隅の鉄棒に寄りかかっての談義だった。なにもわからないのに、すげーなー、すごいね! と言い合った。
何故かこの時の様子がまざまざと思い浮かぶ。85年も昔のことなのに。
一方で、世間は少なくとも、昭和19年の秋頃 (19年11月からB29の空襲が始まる)までは、緊張感は子供には強く感じなかった。現代の経済的不安、新たな戦争の不安、深刻化する気象変動の不安、穏健な民主主義に対する極端な左右勢力の台頭の不安、日本の国防に関する不安、食料に関する不安などなど、現在の不安の方がはるかに、比較にならないほど多岐多彩で大きく深刻だ。
当時だって勿論世の中は動いており、2.26事件とか物騒なことも起きた。でも箱根駅伝は普通に走ったし、自動車が増えてきたので、警視庁はようやく緊急通報用に119番の電話を作り、プロ野球が始まって野球に関する関心が一挙に高まった。初戦は巨人対名古屋で、名古屋が10対3で勝ったとか、内幸町のレインボーグリルでは有名人の結婚式が盛大に行われたとか。新宿のムーランルージュは何時も満員だし、あちこちの映画館も新作に沸いたと新聞は報じていた。
銀座や新宿には、ハイカラな帽子を、一寸横にかぶったモボ(モダンボーイ)、ロングスカートのすそをはためかせたモガ(モダンガール)が闊歩し、何となく引き締まりだした緊張ムードを和らげていた。朝日新聞の神風号がヨーロッパ親善飛行に成功したのもこの頃である。名古屋城の天守閣の鯱(しゃち)の金の鱗(うろこ)が58枚(現在の価格で約3億円)も盗まれたとか、第一回文化勲章が制定されたとか、川端康成の小説「雪国」大評判になったとか、いろいろあったのだ。
世情は現在とは全く違った。庶民の生活は平穏、無事、玄関に鍵を掛けない家は普通だった、そこで説教強盗が現れたが、怖さもさることながら、珍しがられた。殺人事件も知っている人は、もう残り少ないだろうけど、阿部お定事件とか、向島の玉ノ井のお歯黒どぶのばらばら事件とか、今なら、一笑に付されかねない隅っこ記事を、大きなニュースのない新聞は大々的に報じた。
昭和12年(1937)七夕の夜に北京郊外盧溝橋で日支事変が勃発した。いつのまにか「日中戦争」と言うようになってしまった。しかし、国内的には生活に殆ど影響はなかったし、その後も平穏な日々が続いた。映画館、劇場は満員が続き、ダンスホールは遅くまで甘いムードを漂わせ、喫茶店が増えたとか、ゴルフやカメラがブームになった。カメラはドイツとの貿易が増えたことにより、当時の世界最高レベルのカメラが怒涛のように輸入された。父親が新宿伊勢丹近くで小さなカメラ屋をやっていたので、ドイツの色々な高級カメラを弄っては叱られた(昭和8年の新宿の古い地図に店の位置が出ている)。
外蒙古のノモンハン事件(昭和14年)で日本軍が重大な損害を受けた、と戦後に言われたが、当時はソ連と衝突したというだけで、負け戦なんてニュースはなかった。この頃になって、ようやく「建設へ一人残らず御奉公」「遂げよ聖戦起こせよ亜細亜」なんて言うスローガンが目につくようになってきた。でもまだまだ、カフェー、飲み屋、小料理屋、ダンスホール、麻雀クラブ゙、ビリヤードなど、遊びの場は健全で、国民の気分は気楽なものであったように思う。家の近くの住宅地の中にビリヤード屋があり、エプロンを着たお姉さんが、「ナンテーン」とか叫ぶ黄色い声が外へ聞こえてきた。 勿論、配給制は段々厳しくなっていったし、防空演習も回数が増え、夜の光も急激に暗くなっていった。それでも世間はあまり緊張感を感じなかったし、子供はがき仲間とせっせと遊び呆けていた。ときどき大本営発表で、どこどこを占領などと景気のよいニュースが発表された日は、昼は旗行列、夜は提灯行列に大はしゃぎをした。何故、緊張感が今と違うのか考えた。そしてようやく近年になって理解できるようになった。
それは、政府がいくら声を大にして、戦争ムードを煽り立てても、なかなか戦争の恐ろしさを感じなかったからだ。それはそうだ、新聞もラジオも戦争報道は負け戦は報道しない、損害は常に軽微、連戦連勝のような戦争雰囲気だったから。後に嘘パチのことを「大本営発表」と揶揄されるようになるほど、インチキ報道が多かったのである。それに対して、今の人達は、赤裸々なマスコミの報道で、世界で起きている戦争の悲惨さが十分に分かる。しかし、昔は今のような、大量破壊兵器はなかったし、何よりも日本は周囲が全部海なので、本土が攻められるという心配がなかったから、戦争は海の向こうのことと思っていた。私の覚えている限りでは緊張感が少なかった。
そして、もっとも重要な違いは、空の心配が全くなく、静かだったことだ。大空にはおてんとうさま、お月さま、お星さまだけが存在し、時たま流れ星がアクセントをつける、不純物のない青空はあくまでも澄んでいた。ただ1度昭和17年4月にアメリカ空母から発進したB25という中型爆撃機16機が日本本土を空襲した事件があった。私は、上野駅で1機を目撃した。まだ瞼の裏にはっきり残る。
支那事変のさなか、日本陸軍の爆撃機が日本の本土から支那の奥地の武漢三鎮(3つか4つの都市の頭文字を集めた言い方)を爆撃した。渡洋爆撃と言って大騒ぎをしてもてはやされた。たかだか千キロばかりの海を渡って行っただけである。戦闘機は、重そうな足をぶら下げたままの機体が主流で、日本が空から攻められる恐れなど、考えもしなかった。四方全部海に囲まれた日本を攻めるのは船しかない、しかし、周りの国にそんな力のある国はない。だから、軍部が国民を戦争気分に盛り上げるために、標語をやたらに作って、町の電信柱や店のガラス戸や、貼れるところにはやたらに貼った。それでも、戦争の怖さは昭和19年秋ごろから、サイパン島に作った空軍基地から発進したB29爆撃機による空襲を受けるまでは、身に沁みる恐ろしさを知らなかった。
現在のように、日本は戦争をしていないのに、世界の遠い地域の戦争実態を見聞きするだけで、恐れ、戦争が起きるかもしれないというだけで震える。それは、境界のない空から、ミサイルが飛んでくるかもしれない怖さである。中国本土と台湾の争いは、国内紛争の筈なのに、若しも巻き込まれたら、海など全く障害物にならず、国防に役に立たない。米国は本当に日本のために血を流してくれるのだろうか?自衛隊は本当に国民を守れるのだろうか?それに巻き込まれて、ミサイルを撃ち込まれる。考えただけで身の毛がよだつ。戦争をしていない現在の方が、緊張感はずっと高い。
前期昭和の国の体制は天皇制で、軍国主義だった。民主主義ではなかった、徴兵制度だった。しかし、その体制に甘んじていれば、みな平穏無事に暮らせたものだ。ひもじい思いも、暗い電灯も、娯楽の自粛も我慢できた。だから、私は、昭和19年秋までの前期昭和の平和が堪らなく懐かしい。
現代は、電車に乗れば10人中7,8人は携帯を叩いている、杖を突いている私に真っ直ぐに歩いてくる奴がいる。そんな自己中心主義の若者達は、日本が戦争に巻き込まれたらどうするだろうか、国を守るために命を捨てられるだろうか? 考えただけでもぞっとする、恐ろしいことである。
「昭和は遠くなりにけり」 と昭和時代を思い出すのはいいけれど、中期の高度成長期以降だけに焦点をあてて、300万人の尊い命が犠牲になった前期の20年間を、決して忘れてはいけない。昭和のルーツは、80歳代以前の、戦争を知らない世代が、生まれる前の時代にあることを考えなくてはならない。マスコミは、歌番組でもなんでもいいし、「日本ニュース」社には、従軍記者が撮った戦争のニュース映像がごまんとあると思う、それらを活用して、昭和のあけぼの時代の海外事情・社会風景を、テレビなどを通して、是非再現してもらいたいものである。おわり
(2025.2.15)
【参考文献】
★ 半藤一利著 | 「B面昭和史 | 1926~1945」 | :平凡社 | 2019.2.8発行 |
★ NHKテレビ | 「ちこに叱られる | 叱られる | (2025.2.7放送)」 | |
★ 懐かしの昭和時代 | 第1巻 第3号 | (株)ベストセラーズ | 1972.1.10発行 | |
★ 流行歌と | 映画でみる | 昭和時代Ⅰ、Ⅱ | (株)国書刊行会 | 1986.2.10発行 |
★ 浜谷浩作品展 | 「市の音 | ・ 街のさざめき」 | JCIIフォトサロン | 2011.4.26発行 |
★ネット検索資料等 | および自分自身の記憶。 |
いいね!ボタン
メッセージもよろしく