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第10回
チリは南米大陸の西側に張り付いたような地形をしている。南北の長さは南緯18度20分から56度までの4200キロもありながら、東西は一番広いところで僅か180キロしかない、鰻のような国である。サンチアゴの空港を飛び上がる飛行機が、風向きにより東に向かって離陸すると、目の前にアンデスの山々が屏風のように立ちふさがり、ぶつかるのじゃないかと、ひやりとすることがある。
国土の端から端まで飛行機でも5時間かかる。これだけ長い土地のため、気候も北部の酷暑地帯から、南極に近い極寒地帯まで、地球上のあらゆる気候が存在する。北部は地球上で最も乾燥した砂漠地帯であり、塩湖があり温泉が噴出する。此処のアタカマ砂漠は標高が3000米もあり空気が澄んでいて 「宇宙に一番近い観測地」として各国の天文台が集中している。ここの気象条件は太陽光発電にも適しており、東大が2008年から世界最大級の太陽光発電を始めた。
南部に行くに従い雨の多い地域になり、無数の湖沼が点在する風光明媚な地帯になる。最南部は森林と川と入り組んだフィヨルド地帯でマゼラン海峡まで続いている。このため海岸線が長く、総延長距離はヨーロッパの海岸線よりも長い。さらに、本土から3800キロ離れた南太平洋上の謎の孤島、モアイ像で日本でも良く知られるようになった、イスラ・デ・パスクア(イースター島)もチリ領である。 イースター島も観光客が増えて、落書きとか石像の破壊など様々な犯罪に犯されるようになってしまった。
民芸品の旅という本題を無視すれば、チリについては書くことが一杯あるが、本編では南部と中部それに北部から、主に日本人には余り知られていない話題を取り上げることにした。 米国の故ケネディ大統領が作ったと言われる、パンアメリカン・ハイウエーはアラスカからチリのプエルト・モンまで南北のアメリカ大陸の太平洋岸を走っているが、途中パナマとコロンビアの間のダリエン湿地帯で切れている。何故切れたままなのかはっきりした理由を知らないが、地質的に工事が難しくて建設できないからだとか、戦略的理由から南北を分断しておくためだとか、口蹄疫の牛が陸地伝いに米国に入ってこないようにするためだとか、いろいろ言われている。
ずっと以前、南米の牛の口蹄疫の流行が問題になり、米国が第二次大戦後、中米地峡地帯までは、この病気にかかった牛を個別に処理し絶滅させた。 広い南米には手がつけられないが、この分断のお陰で、口蹄疫にかかった牛が中米以北に来る心配はないと言う話しを聞いたことがある。日本でアルゼンチンの肉が食べられない理由は、
パンアメリカン・ハイウエーの南の終点プエルト・モンは、鉄道や長距離バスの終点でもあるし、アンデス山脈を越えてアルゼンチンと結ぶ、数本の陸上交通の一番南のルートの終始点でもある。大袈裟に言えばチリだけでなく、南米文明の終点とも言える都市である。此処から南はフィヨルドと、森と川の間に荒れた平地が続く、殆ど人の住まない地域になり、道がないので交通は船頼りである。 プエルト・モンとアルゼンチンのサン・カルロス・バリローチェを結ぶアンデス超えのルートには四つの湖があり、船とバスを乗り継いで超えるのだが、真夏でも真冬の服装が必要だ。
しかし、このルートは他のルートに比べ,風景が抜群に美しい。特に一番西にあるジャンキウエ湖の東側に聳える"オソルノ火山"は、日本人にチリ富士と呼ばれるのにふさわしい優雅な姿を見せている。チリとアルゼンチン国境の南部アンデス山脈には休火山がいくつもある、いつ噴火するか分からない。2008年にはチロエ島の東に位置するチャイテン火山が爆発した。火口から30キロのチャイテン町の住民4000人が海軍の艦艇で避難した。 ジャンキウエ湖畔の町、プエルト・バラスは、赤いとんがり屋根のバンガローや白い教会が、緑の森に点々と浮かび、通りには薔薇やチリの国花コピウエ (日本名:ツバキカズラ=真っ赤な筒のような花をつける) が咲き乱れる、それはそれは美しい町である。 チリとアルゼンチンは、南米大陸最南端の島フエゴ島の国境線を巡り犬猿の仲であった。1982年4月~7月、アルゼンチンがマルビーナス諸島(フォークランド)の領有権をめぐって英国と戦争した頃は、チリがアルゼンチンの情報を英国に流したりして敵国に肩入れをしたため、さらに関係は悪化した。このため、当時は特に両国の国境警備は厳しく、旅行者も随分と厳しい検査を受けたものである。
私は、マルビーナス戦争の最中にメンドーサから国境トンネルを抜けてチリに入った。国境を越えてすぐに、カメラの絵が画かれた標識の下で写真を撮った。この標識は写真撮影に適した場所を示すものだが、突然、白いジープが現われ自動小銃を突きつけられて、カメラをよこせと脅かされた。そんなものには気が付かなかったので抗議したら、そのままジープに乗せられ、近くにある国境警備隊の本部に連行され、フイルムを抜けと強要された。36枚撮りフィルムの最後の2~3枚を此処で撮っただけなので、それまでの貴重な撮影まで駄目になってしまうので拒否した。アルゼンチン電気通信庁長官からもらった、駐在目的の身分証明書を見せ、帰りにここを通る時までに検閲して、不適当なものだけ没収して返してもらうことで合意した。しかし、帰路には、このときの将校がいなくて分からないと言われ、未解決になったその後、チリ電気通信公社を通じて執拗に交渉してもらった末、半年後にプリントだけが返ってきた。
後にアルゼンチンの新聞記者にこの話をしたら、プリントだけでも返してくれたのは、極めて珍しいケースだとのことだった。それにしても、自動小銃を突きつけられた時は鳥肌が立ったが、よく平気で強気に交渉できたものと、後になって、その時を思い出し、改めて恐怖感を蘇らせたものである。 しかし、今では国境検査もおおようで旅行者も増えた。細長いプエルト・モンの南の端にあるアンフェルモ港周辺は手工芸品店がびっしりと建ち並ぶ民芸品の宝庫である。チリ特産の輝石ラピス・ラスリを始め、珍しい虎目石の装飾品、銀のアクセサリー類、銅板画や食器類、カバンなどの革細工や、革に焼き鏝で風景を描いた壁掛け、動物などの陶製品、木彫りの人形などが、どの店にも、所狭しと並べられている。衣類では、アルパカの毛をふんだんに使った分厚いセーターやチョッキなどが、無造作に山積みされて、埃をかぶっている。
アンフェルモ漁港はチリでも有数の漁港で、市場の中には獲りたての魚介類をすぐに食べさせてくれる店がたくさんある。数種類の魚介類をソーセージやじゃが芋と一緒にぐつぐつ煮た"クラント"と言う煮込みが名物だ。日本人の旅行者は殆ど来ないが、パルプ材の買い付けの商社マンや日本漁船員が来るので、日本人らしいと見ると、"ウニ、カニ、アワビ、オイシイヨッ!"と日本語で愛想を振り撒いて寄って来る。 アンフェルモからフェリーで30分の所に南米第2の大きさのチロエ島がある (因み1位はティエラ・デ・フエゴ=火の島)。途中の風景が美しいが、その中に1960年のチリ地震 (日本の三陸沖まで津波がやってきたことで有名な地震)の震源地で、地形が変わったのがはっきり見られる場所がある。
1972年ごろから、日本のJICA(海外協力事業団)がフィヨルド帯で紅鮭の養殖を始めた。南半球であっても、北半球で鮭が住むのと同じ緯度なので、簡単に養殖ができると思ったようだが、鮭の生活本能は、そうは簡単に南北が逆にはならなかった。稚魚を放流しても帰ってこないのである。いろいろと試行錯誤を繰り返してきたようで、その実験の過程で漁獲した鮭を1980年代にはチリやアルゼンチンにいる日本人に供給してくれるようになった。アルゼンチンの港に入った日魯漁業の船が、新巻きにした鮭を祖国を遠く離れた日本人駐在員達に頒布してくれたのである。
魚と言えば目の赤くなった深海魚(銀ダラと言われるメーロもこの仲間)とか、水揚げされてすぐに火に通され、砂だらけで、じゃりじゃりな貝などが平気で売られている頃に、日本の船が日本人用に作った新巻き鮭は、本当に嬉しい贈り物であった。それが今では、日本のスーパーやデパートで、ノルエー産鮭との競争でいつでもチリ産にお目にかかることができるようになった。
JICAの実験は成功しなかったが、その後をチリ政府が引き継ぎ完成させ、世界の鮭漁獲高第二位の地位にまで成長させたのである。日本の水産技術の素晴らしい偉業だと思う。牧畜業と林業と発電所で占められていた寒帯地方に、新たな資源が生まれた。 首都サンチアゴは細長い国土のほぼ中央部にある。アルゼンチンのメンドーサとはバスで約8時間で連絡している。このルートは、チリとアルゼンチンのワイン産地の真っ只中を過ぎ、アンデス山脈の最高峰アコンカグアのすぐ南の山腹に入り、山脈の下の約2キロの国際トンネルを潜り抜ける。トンネルの中は殆ど真っ暗で、途中に両国の国旗を描いた電光看板が地下の国境を示しているだけである。
このトンネルの真上、標高4200メートルのクンブレ峠に、1902年にチリとアルゼンチンが不戦の誓いを立てて、両国の軍隊が青銅の大砲を溶かして作ったと言う、左手に十字架を持ったキリスト像(キリスト・レデントールと言う)が立っている。訪れる人も殆どいないアンデス山中に立つ、赤銅色のキリスト像が神秘的に感じる。白い台座には 『レデントール(救世主)の足元で結んだ平和を壊そうとすれば、この山は消えうせてしまうであろう』 と刻まれている。 チリを語るとき、3Wとか3Cとか言うことがよくある。3Wは、ワイン、ウーマン、ウェーザーのことで、ワインはアルゼンチンと共に,世界のワイン大国であるし、美人の女性が多いことでも有名だ。
また、ウエーザーは、春はリンゴ、アンズ、菜の花など黄色い花が山野を埋め、夏には真紅の国花「コピウエ」や紅薔薇などの赤い花が妍を競い、澄み切った晴天が続く四季の彩りを言ったものである。 3Cは、美人の多い国の頭文字を取ったもので、コスタ・リカ、コロンビア(コロンビアの中で特にカリ市のことを言うようだ)と共に、美人の多い国として世界的にも有名だ。確かに街を歩いていても、しなやかな腰つきで黒髪に黒い瞳の美人が多い。何年か前に、青森県の何とか公社の馬鹿職員が、日本に来ていたチリ女に逆せ上がり十数億円を貢いだ話しがあったが、ラテン・アメリカ人の性格は、「人間性悪説」が基本で、騙される方が馬鹿だと言うことになるので、多額の金を貢がれても貢く方が悪いと思っている。ただし、彼女達も歳相応(一般的には20歳代後半)になるとラテンの血は争えず次第に太くなっていく宿命を背負っているのが哀れだ。
1973年にアジェンデ社会主義政権がピノチェットの軍事クーデターで倒れた後、厳しい軍政が続いたが、1990年に民主的選挙で漸く民政が復活した。軍政当時、ブエノス・アイレスでは、チリの言論統制を皮肉って、こんな小話が流行った。 ≪サンチアゴの犬が遥々とアンデスを越えてアルゼンチンにやってきた。アルゼンチンの犬が "チリには食い物がないのかね?" と訊ねると、チリ犬は "何とか食べているよ" と答えた。"じゃ、着る物がないのかね?"、"それもあるよ"、"それじゃ、一体、苦労して何でアルゼンチンくんだりまで来たんだね?"、"思いっきり吼えたいからさ"≫。当時は街の角々には軍隊と警察が交互に立っていた。市民生活は緊張しており、通りには紙屑一つ落ちていない清潔な街で、旅行者には安心だったことを思い出す。
ところが今では、サンチアゴの中央広場では、昼日中でもそこここに人だかりが出来て、政治に関する街頭討論会が活発に行われている。10数年前には想像もできなかったことである。時の流れの偉大な力に驚き入るばかりであるが、一番驚いているのは、ほかならぬチリ国民そのものではないだろうか。この他広場では大道芸人の興行や、街頭画家の活動が盛んである。 サンチアゴには観光ポイントが殆どない。市内にある小さな、サンタ・ルシアの丘か、もう一つのサン・クリストバルの丘へでも登って、市内を一望にするしか楽しみはない。市内を回って驚いたのは、市の西部に位置する、ラス・コンデスと言う高級住宅地である。
1軒の家でも広い敷地は雑木林に囲まれ、小川が流れ、小高い丘のような起伏もある。これが1軒の敷地なのである。ラテン・アメリカ諸国の金持ち階級は、人口の1%にも満たないが、日本人には想像できないほどの金持ちが多く、貧富の格差は物凄いものだ。チリにおいても、ピノチェット政権が進めた新資本主義と称す民営化を推進する政策で、一部の資本家が富を増やした結果格差が多くなったためだといわれる。つい昨年も、地下鉄のたった30円ほどの値上で学生の猛烈な反発を食らった事件があった。
その結果、格差是正を認める新し憲法草案の是非を問う国民投票が行われ圧倒的支持をえた。チリも変わろうとしている。 中央広場を取り囲む建物の一つに、1階全部 が民芸品店になっている所がある。ここには、高級装飾品を始め家具,生活用品などを売る店から、小さな土産品的民芸品などの店まで数十軒も並んでいる。ある店でいい物を見つけても、念のため他の店も見て、再び元の店に戻ろうとしても、同じような店が並んでいるので、分からなくなってしまうほど、複雑でたくさんの店がある。
市内の目抜き通りを一寸奥に入ると、洒落たブティックや宝飾店、靴屋などが並んだ小道が所々にある。ブティックでは、民芸品店にあるのとはちょっと違った、都会的センスのデザインをしたアルパカの高級セータやカーディガンなどを見っけることができる。宝飾店には、これも細工の技巧に優れたアクセサリー類がある。こうした場所を見つけるのが、ヨーロッパ流に洗練された、サンチアゴの本当の魅力を求める歩き方かもしれない。 チリの北部は元々は、ボリビアとペルーの領土であった所である。アリカ、アントファガスタ、イキケ、カラマなどは、ボリビアの経済を支えた重要な地域であった。この地域は、乾燥度世界一と言われるタラパカ砂漠やアタカマ砂漠を挟んで、硝石、銅、塩、金、銀、硫黄、石英、モリブデンなどの鉱物資源の宝庫で、所々に温泉が噴出している。
特にチュキカマタ銅山の露天掘りは有名で、今でも毎日大勢の観光客が見学に訪れる。1860年代にノーベルが発明した火薬の原料になる硝石が、この地方から大量に産出され、ボリビア経済の根幹を支える貴重資源であった。 ボリビアの太平洋岸と首都ラ・パスとは真ん中にアンデス山脈が聳えていて十分な行き来ができず、政府の目が十分届かなかった。これに目をつけたチリは、英国と組んで、この地の権益を手に入れようとしてボリビアを挑発した。1879年2月には、ボリビアと同盟を結んでいたペルーがまづ宣戦を布告し、太平洋戦争が勃発した。十分に準備をしていたチリ軍は、ペルー、ボリビア連合軍を破り、思惑通りに今の利益を手に入れた。チリらしい極めて巧妙な、汚いやり方である。 両国は領土の一部と貴重な資源を奪われたが、特に哀れなのはボリビアで、国の将来を左右する経済的2大要素を一挙に失った。
つまり、資源の宝庫と貿易の拠点になる海への出口を一遍に失ったのである。このことが、いかに大きな損失だったかは、その後のボリビアの貧困ぶりを見ても分かるし,今も南米の最貧国に甘んじている現状からも、当時の政府の不手際が如何に大きな失政だったかが分かるというものである。この戦争については、ボリビア編で述べようと思う。 チリを観光するのに4200キロもの長い国を全部歩くことはない。北の方は砂漠だし、南部は交通手段が極めて悪いので、サンチアゴと100キロほど北西の太平洋岸に面した保養地ビーニャ・デル・マルと、日本などへのワインを積み出す、バルパライソ港などを見物し、プエルト・モンまで1000キロをバスか列車で途中下車しながら歩けばよい。
チリは海産物が美味しいとよく言われるが、確かに魚介類は豊富であるが、料理方法が違うので、人は、必ずしも美味しいとばかりは言えない。特にシーフードと言われるものは、いきなり生で食べたりすると下痢を起こす。例えば、日本では高級品である "うに" などが、嘘みたいな安い値段で食べられる。この際と思って腹いっぱい食べたりするとてき面である、つまり、旅をしながらこの辺まで来るには、日本を出てからかなりの日数がたっている筈で、体力的にも疲れて抵抗力が弱まっていることなどから、簡単に腹をこわしてしまうのである。 食べ物をほどほどに、他の南米の都市とは一味違う、ゲルマン調の落ち着いた雰囲気の街を歩き、数多くある博物館、美術館などを周る。天気がよければ、広場やビルの角には、大道芸人や青空画家が通りかかる人々に、愛想を振り撒いているのに出会う。夜はショー・レストランで食事をしながら、チリの伝統的民族舞踊であるクエッカなどを鑑賞するのが、短い時間でのチリ旅行のコツだと思う。 (チリ編終り 2021.10.31)
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第9回
赤道直下でありながら、涼しい風が吹き、北部アンデスの高峰には万年雪が残っている、太陽とは一見縁のないような感じのするエクアドルは、南米大陸の中では、ウルグアイに次いで小さく、インデイッヘナ(”インディオ”は差別用語なので私は使わない)の割合もボリビアに次いで多い国である。この国については、日本では余り知られていないように思えるし、実際に世界的なニュースにも乏しい国である。日本と関係のあることを私の知っている範囲であげてみよう。
②1931年に米国の宣教師がキリスト教放送のために開局した"アンデスの声"短波放送局が、1964年から長年日本語放送を行っていた。ラテン・アメリカに関心のある人はたいてい知っていた。この放送局はキト市の外れにあり、世界の18の言語で放送しており、民族音楽や現地の出来事などを伝える番組である。情緒ある局名とともに、宗教を越え、世界の短波放送愛好家に広く知られていたが、今はもうない。
④何気なく食べているバナナの中には、エクアドル産がたくさんあり、2008年頃からは移住した日本人が、自分の名前をいれたバナナを日本に輸出している。田辺農園はその中でも先駆者的存在である。一度召し上がって頂きたい。 この国の商業経済の中心地は、太平洋に面した港湾都市グアジャキールで、首都キトはアンデスの山中の盆地のような場所にある。玄関口の、マリスカル・スクレ国際空港は、飛行機から見下ろすと、滑走路がたった1本だけの小さな空港である。空港はキト市の北の外れにあり、中心部から約10キロ離れている。キト市は新旧2つの地域に分かれていて、新市街には、公園や近代的なビルやホテル、文化施設や官庁などがあり、旧市街には、植民地時代の古い建物が残っており、住宅街の通りは狭く、ごちゃごちゃした感じで民芸品などを売る店も多い。
この他に、民芸品とはちょっと異質であるが、これこそエクアドルにしかないと思われる、"Tzantza(ツァンツァ)"と言う、人間の首を干して縮小したものの複製品がある。本物のツァンツァは、ヒバロ族が、部族間の戦争で捕虜にした敵の首を、そのまま約半分の大きさに干し固めて作ったものである。頭蓋骨そのものを縮小するのだが製法は秘密だそうだ。この風習は、戦った仇敵への呪いのために、捕虜の首を自分の家の天井にぶら下げておき、朝夕これに向かって思い切り悪口を吐くと言うものである。ある米国人が、製法の秘密を探ろうとしたところ、自分がツァンツァにされてしまったと言う話がある。以前は本物も売られていたが、今は販売禁止になっている。男よりは女、土人よりは白人の首の方が高いそうだ。民芸品として売られているものは、後述の写真のように、羊の鞣革を使った模造品であるが、実に良く出来ている。2018年2月に上野科学博物館でインカ展があったとき、このツアンツアが展示されていたが、この章に載せた私の物よりずっと小さいものだった。
エクアドルに行ったなら、"赤道記念碑"は絶対に見落とせない場所である。記念碑はキト市の北方約22キロの、サン・アントニオ村の広場の中に建っている。記念碑は高さ30メートルで、てっぺんには直径4.5メートルの地球儀が乗っている。記念碑の下には、南北緯度0度を表す赤と白の線が引いてある。ここを訪れた観光客は、必ずこの線を跨いで写真を撮る。南北両半球一跨ぎと洒落るわけだ。この記念碑は、以前はもっと辺鄙な場所にあったものを、1979年頃に現在の場所に移設したものだ。今の場所は周りに土産物屋が沢山並び賑わっている。この他にも、赤道を示す標識は、南米大陸の太平洋岸を南北に走る、パン・アメリカン・ハイウエーなど、赤道直下に当たる場所に大小の標識が立てられている。
エクアドルと言う国は、インディヘナの数がボリビアに次いで多い。しかし、ラ・パスのように、街中に伝等的衣装をまとった人たちが歩いているわけではない。その代わりではないが、地方にはインディヘナの町や村が沢山あり、毎週土曜や日曜にはインディヘナの市が立つ。
ガラパゴス諸島がエクアドル領だと言うことを知らなくても、この諸島の名前だけは有名である。チャールス・ダーウインの進化論で世界に知られたガラパゴス諸島は、1978年に世界自然遺産第一号に指定された。この貴重な島々も、島の開発や、1994年5月に起きた大規模な山火事、さらには、心無い観光客が棄てるゴミ、付近で起きたタンカーの座礁事故で流れ出した大量の重油などが重なって生息地を襲い、生態系を壊す環境破壊が、予想を超える速さで進んでいる。こうした環境破壊に警鐘を鳴らす写真集「ガラパゴスがこわれる」を、日本人の藤原幸一さんという人が2008年2月に出版した。人間の活動がいかに自然をかえてしまうか、本当に恐ろしいと語っている。この諸島にしか生きていない、陸イグアナ、象海亀、飛べないコバネ鵜、ガラパゴス・ペンギンなど、そのうち見られなくなるかも知れない。象海亀は、かって25万頭もいたのに、今では最大に見積もっても約1万4千頭しかいないと言われる。保護の努力が続けられているが、密漁者に獲られたりして、減少が続いている上に、人間が島に持ち込んだ動物達が、卵や子亀を襲ったりして、減少に拍車をかけている。
地震も自然現象の一つと捉えるのならば、エクアドルは、むせ返るような湿気に覆われた海抜ゼロの海岸地方から、涼しい高原、活火山の多い火山地帯、未だに外界との接触を拒んでいる原住民のいる密林地帯まで、全ての自然現象や環境を揃えた欲張りな国である。南米の国々の中では治安の良い国なので、ペルーへ行くチャンスがあれば、2~3日日程を水増しして、赤道を跨いでくるのも一興であろう。ただし、音楽や食べ物は余り期待しない方が良いかもしれない。(2021.10.3 改正版)
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第8回
(注)チリとスペインの戦争、アルゼンチンと英国の戦争など大陸外の国との戦争を除く。 パラグアイの原住民はグアラニ族で、南米の原住民の中でも、最も従順で素朴な種族である。このためか、スペイン人が侵入してきた当時は、南米各地の原住民がスペイン人に対する激しい抵抗戦争を起こしたのに、パラグアイでだけは、このような抵抗を受けずに、スペイン人は入植することができた。
アスンシオン郊外に国内唯一の湖、イパカライ湖があり、海のないパラグアイ人の格好の保養地になっている。ラテン音楽愛好家ならば、この湖の名前を題にした"イパカライの思い出"と言うフォルクローレをご存知の方も多いかと思う。
パラグアイと言う国には、大きな遺跡はなく、遺跡と言えば、先に述べた"レドゥクシオン"の跡くらいであり、 地勢的にも森林や湿地帯が多くて、自然美と言うような風景・景観に乏しく、観光資源の少ない退屈な国である。このため観光客も少なく、同じ途上国のボリビアと比べて、外貨収入の資源の点で劣っている。この国に来る観光客は、イグアスの滝を見物に、ブラジルやアルゼンチンにやってくる人が、時間の合間を見て、パラナ川に掛かる国際橋"友情の橋"を渡り、シウダ・デル・エステに革製品を買いに来るか、或いは、月からも見えると言われるほど大きい、世界最大のダム"イタイプー"発電所を見学する人達などであろう。 (ブラジル編イグアスの滝周辺図を参照されたし) 始めてパラグアイを訪れた時、自動車で行ったが、遠くから放牧されている牛を見て馬と間違えた。体格が細くて腹にあばら骨が浮いているので、どう見ても牛には見えなかったからである。近くに寄って始めて牛だと気がついた。色々聞いた結果、牛らしくない理由が分かった。
これに反して、ウルグアイやパラグアイなどのように、大きな山はないが、地勢全体に傾斜地が多く、牧草が十分ではない土地に住む牛は、草を求めて斜面を移動しなければならないため、肉は硬くなり、痩せているというわけなのだ。 パラグアイの民芸品は、世界的にも有名な、"ニェアンドゥティ"に尽きる。これは、日本語に訳すと"蜘蛛の巣様刺繍"と言う。一口に蜘蛛の巣刺繍というが、二つの種類がある。
かっては国道の上まで店を広げて観光客に呼びかけていたが、いまは、国道が拡張され、店も大分道の内側に引き下がった。このほかには、他の国と同様に、木彫りの動物や壁掛け、人形類、それに革製品などがあるが、革製品はナメシが固い。 民芸品ではないが、パラグアイと言えば、アルパ(インディアン・ハープ)と言う、34~36本の糸を持つ弦楽器が有名だ。アルパの音色は高い金属性の音で、心に響くが、演奏される曲は単調なものが多く、初めて聞く人にはみな同じ曲のように聞こえると言われる。また、民族芸能として、ダンサ・デ・ボテージャ(瓶踊り)と言う踊りがあるが、異国人には珍しい踊りであろう。東洋人に似た顔つきと体型の美女が、頭の上にビール瓶やワインの瓶を5~6本も重ねて、リズミカルな音楽に合わせて踊るのだが、観客は終わるまで、はらはらのしどうしである。 一般の日本人の行くツアーの観光ルートからは全くと言ってよいほど、取り残されたパラグアイであるが、アルゼンチンやチリなどからは、"田舎っぺえのパラゲーニョ"と言われるほどの素朴な国であり、治安も良いので、グアラニ族の笑顔を見て、ひと時のんびりするにはもってこいの国である。 おわり
(2021.8.29記 パラグアイ編改定版)
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第7回
我々は1985年以来長い間、”ウルグアイ・ラウンド” と言う言葉を、新聞やテレビで数え切れないほど聞かされていた。ラウンドとは丸テーブルのことで、ウルグアイ・ラウンドをスペイン語では、Mesa redonda de Uruguayと言う。丸いテーブルについて多角的な貿易のことを話し合おうと言う場のことである。2001年に新たなラウンドが中東のドーハで始まり、ようやくウルグアイ・ラウンドという言葉は消えた。
首都モンテビデオの街並みは、アルゼンチンに住んだ人間には誠に退屈だ。ただ、金融業務は経済の安定化を背景に、以前から自由経済政策がとられていたため、幾たびかのアルゼンチンの経済危機の都度、金持ちが外貨をウルグアイの銀行に緊急避難したという話を随分と聞いたものである。モンテビデオの港は日本の南大西洋の漁業基地にもなっており、その人達を相手にする日本料理店もある。
ラ・プラタ川は河口の幅と長さがともに約400キロで、川と言うよりは三角形の湾のような形をしている。この河口に位置するのが、ウルグアイ・ラウンドの行われたプンタ・デル・エステ市である。モンテビデオから約140キロ東で、ラ・プラタ川が大西洋に注ぐ突端に当たる。そのため、市の名前が、プンタ・デル・エステ(東の先端)と言うのだ。この街は、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロ、アルゼンチンのマル・デル・プラタと並び、南米大陸大西洋岸の3大リゾート地の一つである。 ラ・プラタ川の赤茶けた水の色は、漸くこの辺にきて色が薄れ、本来の大西洋の色になってくる。市内には豪華マンションやホテルが立ち並び、ヨット・ハーバーには高級ヨットが浮かび、立派なゴルフ場もあり、夏のバカシオンには外人で溢れる。特に多いのがアルゼンチン人で、リゾート施設で働く人以外の一般のウルグアイ人には無縁の都市になる。
内陸部は緩やかな傾斜地が多く、直線の道は遥か彼方の丘の稜線を横切り、上下に波を打って伸びている。古い鉄道も走っており、”今は山中、今は浜・・・・”と言う昔の小学校の唱歌を思い出させる。中央部を流れる“ジ (Yi)川”と言う川があるが、おそらく世界一短い名前ではないだろうか。 ミニ・アルゼンチンのような国なので、民芸品にも特に目新しいものは少ない。ただ、アルゼンチンにないものとしては、オットセイの毛皮の敷物と、毛皮を使った動物人形があった。オットセイの毛皮は一見牛の毛皮と見間違えるが、両方の“ひれ”に当たる場所に大きな穴が開いているのが特徴であった。もうだいぶ前に捕獲禁止となり禁制品になって、毛皮などはとっくになくなった。
それと、陶器の小さな動物の人形があるが、これは世界市場での民芸品で、大分前から日本でも売っている。ウルグアイから、どうしてこんな物だけが、輸入されるようになったのか不思議でならない。この他には、南米では珍しくないアメジストを細工した装身具が多い。もともと宝石より一段価値の低い輝石なので、かなり手ごろな値段で売られている。石の台には銀が多く、南米はどこの国も同じだが、金台は14Kが大部分である。
【ドイツ豆戦艦グラフ・シュペー号の最後】
(ブエノス・アイレス日刊紙、クラリン、1995.4.24) ≪シュペー号がモンテビデオ沖に沈んだのは1939年12月17日のことで、シュペー号の艦長ハンス・ラングスドルフの決断によるものである。艦首には当時爆発しなかった爆薬が未だに残っており、ウルグアイ海軍にもどの位の量の火薬が残っているのか分かっていなかった。このため、105ミリ大砲の引き上げには細心の注意が払われた。当時の自爆の様子を知る、ウルグアイ人のバド氏は次のように語っている。
『シュペー号の艦長と士官達は、砲弾の火薬を利用した爆薬を艦尾と機械室付近及び艦首の3か所に装置した。この爆薬は艦長がシュペー号から離れる時に乗ったランチから操作し、同時に爆発するはずであったが、艦尾と機械室の2か所が始めに爆発し、その衝撃で艦体が激しく揺れたため、艦首の爆薬装置が作動せず不発に終わった。爆発は艦尾にある100トンを越す口径280ミリの3つの砲座から始まり、破片は60メートルの高さまで飛び散った。さらに、火薬庫に近い機械室からも大爆発が起こった。
排水量1万2千トン、長さ185メートル、幅22メートルの艦体は真っ二つになって、右に50度傾き川底に横倒しになった。しかし、艦首の下に仕掛けられた爆薬は爆発せずに、今日まで不発のままであった。いつ爆発するか分からないので、潜水グループが艦首に入るときは細心の注意が必要であった。この調査で大砲と船体の一部が引き上げられた≫。
地元の歴史研究家メディアナ氏は 『シュペー号は12月17日夜8時、モンテビデオ港から凡そ7キロ沖のプンタ・ジェグーナで自爆したもので、当日は日曜日とあって、凡そ20万人の人々が海岸でこの世紀のスペクタルを見物した。また、港の周辺では80隻を越す船舶が見物していた。英国艦隊との海戦を避け、シュペー号の千人以上の乗組員の命だけでなく、英国艦隊の乗組員をも救ったラングスドル 【シュペー号の錨、今では自国民にも殆ど忘れさられている】フ艦長は、ウルグアイ人の間で未だに賞賛に値する人物として尊敬され、この事件は今日までウルグアイの民族的歴史として伝えられている』と語っている。
シュペー号はその後引き上げられたと聞いたが、日本では全く歯牙にもかけられない話で、何も伝えられなかったと思う。シュペー号の話の他にも、1923年(大正12年)に、日本の軍艦 「浅間」 から脱走したと言われる機関兵の話があるが、詳しいことは何も分からない。遠い遠い時代の遠い遠い国のお話である。
(ウルグアイ編おわり)
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第6回
ブラジルはとにかく広い国だ。南北と東西の距離は凡そ4300キロでほぼ同じであり、日本の23倍もある。しかし、このような面積の比較では、なかなか大きさや広さが想像できないので、日本とブラジルの、国内における社会的文明的水準の格差の大きさで比較して見ると、また違った見方が出来る。
反対に日本には、このような地域間の発展の落差は、今は殆どなくなったと言ってよいと思う。今ではどんな僻地や孤島でも、地図に載っていない場所などないし、少なくとも定住者のいる所には電話は皆自動で繋がるし、郵便や宅配便の届かない場所はなく、映画は全国で一斉に封切りが見られるし、流行ファッションもすぐに全国津々浦々に普及する。
第2の都市、リオ・デ・ジャネイロは人口600万人で、経済ばかりでなく文化の中心地であり、南米大陸の大西洋岸有数の観光地でもある。華やかなサンバのカーニバル、贅沢なリゾート海岸、絶景のポン・ジ・アスーカルなど、いくつもの観光要素を備えた国際的大都市である。
ポン・ジ・アスーカルと並ぶ観光ポイントが、海抜710メートルのコルコバードの丘に立つ、白いキリスト像である。高さ30メートル、横一文字に広げた両手の幅は28メートルもあり、重さは145トンもある。市内の何処からでも見られ、特に夜はライトを浴びて夜空に怪しく浮かび上がる。
ブラジリアは、"50年の進歩を5年で"というスローガンの下に、当時の権力者クビチェック大統領が自分の任期中の完成を目指し、1953年から建設がはじまり1960年に完成した超近代都市である。
ブラジルの地勢は大きく分けて、北部のアマゾン川流域地帯、中央部から南東部のブラジル高原地帯、南部のラ・プラタ川流域の平野部となっている。これだけ広い国だと、各地域の産物も違うし、文化習慣も違うので、自ずと手工芸品なども、地域の特色のある物が作り出される。
北部のアマゾン川地域の民芸品としては、獰猛な肉食魚ピラニアの剥製が有名である。大西洋に突き出た形の東部のバイーヤ州では、木彫りでできた人形や人物像などが特産だし、隣のペルナンブコ州の、素焼きに泥絵の具を塗ったような人形、椰子の実を使った物入れなども価値がある。 南部の平野部は、なだらかな丘陵地帯が果てしなく続いている草原である。牧畜が盛んなので牛の皮を使った動物の人形や、アルゼンチンでよく見るマテ茶の壷などの民芸品が目に付く。南部最大の都市ポルト・アレグレから最南端のウルグアイとの国境の町シュイ(スペイン語ではチュイ)にかけては大きな湖が連なる湿地帯になっていて、水面に繁茂している草の上には、ヌートリアと言う体長60センチくらいの "南米川鼠” が住んでいる。 ヌートリアの毛皮は、女性のコートに最適で、加工方法によってはミンクと同じように見える。毛の手触りがミンクより若干固く、目方が少し重いのがミンクとの違いで、値段はミンクの10分の1くらいである。
アルゼンチンでは、ヌートリアを養殖しており、同国の主要な産物である毛皮製品の原料として重要な地位を占めている。近年は日本でもちょくちょく出没して話題になる。
この他にも、木や魚類の化石がたくさん掘り出されるようで、化石そのままのものの他に、加工して文字盤にした時計とか、灰皿、置物などもたくさんある。また、ブラジルは、ダイヤモンドだけは採れないという、世界的にも有数な宝石・貴石の産出国なので、アメジスト、トパーズ、アクアマリン、ガーネット、エメラルドなどの貴石を使った、鳥、ミニチュアの盆栽、動物、壁掛けなどが作られている。 全国各地の民芸品は、リオ・デ・ジャネイロやサンパウロの民芸品店で売られており、少し歩くだけで十分手に入る。各地のものの他に、リオの誇るサンバの祭典で踊り狂う、華やかな踊り子達を模った人形はリオならではの高価な民芸品である。それぞれの人形は、高さがせいぜい20センチ足らずのものが多いが、顔の表情一つとっても、衣装のデザインにしても、実に精巧に出来ている。顔はブラジル特有のメスティッソ(白人と黒人の混血)の美人で、衣装には2~3ミリの金銀色のスパンコールを一つづつ縫い合わせ、赤や水色に染めた鶏の羽をドレスの裾に縫い付けてある。 民芸品の範疇ではなく、純粋な宝石を使った装身具、装飾品は数え切れないほどの種類があるが、本題と外れるので取り上げないことにした。ただ、イグアスの滝について、一般的に誤解があるので、この部の付録として触れておきたいと思う。 【イグアスの滝】 (正確にはイグアスー(iguazú)と語尾にアクセントがあるのでスーを上に発音する) イグアスの滝はブラジル、アルゼンチン、パラグアイ3国に跨ると書いてある案内書があるが、これは大間違いである。滝は我々の国のものと信じている、ブラジル、アルゼンチン両国の権威と名誉のためにも詳しく説明しておこう。
地図のように、イグアスの滝の下流では、パラグアイ北部を源流とするパラナ川が北から南に流れ、西側はパラグアイである。そこへブラジル南部を源流とするイグアス川が東から流れて来て、パラナ川に突き当たってT字路を作っており、北がブラジルで南がアルゼンチンである。T字路から南東へ20キロ上流でイグアス川が南から”Uターン”するように曲がっているため、外側に当たる南のアルゼンチン側の岸は大きく抉られて広くなり、凹凸も激しく、ブラジル側はカーブの内側なので川岸は単調である。落差が付いた所が滝になっている。このように、パラグアイは滝には全く触れていない。 滝はブラジル側とアルゼンチン側から互いに眺め合うような形になっていて、それぞれが全く違った特徴をみせている。このため、本当の姿を鑑賞するにはどちらかの国のホテルに泊まって、両方から眺めなくてならない。
その中でも圧巻は落差80メートルもある「ガルガンタ・デル・ディアブロ(悪魔の喉笛)」と言う大きな滝だ。見所の特色を一口で言うなら、個々の滝の迫力を見るならアルゼンチン側、エリザベス女王が"ナイヤガラの滝が可哀想"と言った程の雄大なパノラマを見るならブラジル側ということになろう。 この記事の原文を書いたのは大分前になるが、その後のブラジルは政治経済、それに自然環境などで、目まぐるしい大きな変化があり、今またコロナで大混乱の真っ最中であるが、観光記事には縁がない話なので、触れないことにした。 (2021.7.5)
(ブラジル編終わり)
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第5回
かって、メキシコのことを「天国に一番近く、アメリカに最も遠い国」と言った人がいる。これになぞらえて言うと、ベネズエラはさしずめ「アメリカに一番近く、南米に一番遠い国」と言うことができるかもしれない。
アメリカ化に伴い、貧富の差が広がり、地方の町や村からカラカスへ出てきた人が多く、彼らは周辺の丘の中腹などに掘っ立て小屋のような家を建て住み着いた。大きな道路を走っていると、一方が高級住宅地で、反対側が貧民街という全く対照的な光景を幾度となく見た。
このような光景は、リオ・デ・ジャネイロでも見られる。リオのキリスト像が立つコルコバードの丘から北方の斜面に群がる、古い映画「黒いオルフェ」や、2000年に封切られた映画「オルフェ」、2008年の「シティ・オブ・メン」などの舞台になった、混沌とした住宅密集地帯である。
一方、南部のブラジルと国境を接する地域は密林地帯で、ここを水源とする全長2500キロのオリノコ川はベネズエラの中央部を流れ大西洋へ注ぐ。オリノコ川の東側には広大なギアナ高地が広がっている。ここには世界的に有名な、"アンヘルの滝(エンジェル・フォール)"がある。しかし、2010年1月に、国民の人気とは裏腹に、世界的に悪名高いチャベス大統領が、この滝の名称を、ベネスエラ古来の財産だと言うことから、発見者エンジェルの名前は怪しからんとして、「ケレパクパイ・メル Kderepakupai Meru」という難しい発音の現地名に変えてしまった。
カリブ海には、ロス・ロケス諸島やマルガリータ島などのビーチリゾートがある。アンデス山脈の観光地としては、メリダがある。ここには世界最長のロープウェイ(全長12.6 km)があり、そこの最高地点ピコ・エスペホからベネズエラ最高峰のボリバル山(5007m)へ行くことができる。
数少ない民芸品を上げるとすると、カラカス郊外にある、コロニア・トバールと言うドイツ人移民の入植地で作られる陶芸製品、カラカス市内の民芸品店で売っている人形、原住民の祭りに被るお面、置物等である。
南米諸国はどこも同じようであるが、国内の主要都市間の交通は一般庶民階級は長距離バスが主であるが、ビジネスには飛行機が一般的である。一時期、飛行機事故が多発したこともあった。ここ数年は殆ど事故の話しを聞かなかったが、2008年の2月に、西部のメリダからカラカスへ向かっていた、サンタバルバラ航空の双発ATR42-300型機がアンデス山中に墜落した。乗員・乗客46人が乗っていた。
ベネズエラは、中央アメリカから広がるトウモロコシ文化圏の国であり、アレパと呼ばれるトウモロコシから作るパンのようなものが一般に食べられている。飲み物としては、ロン(ラム酒)が広く飲まれており、お茶やコーヒーの代わりに熱したチョコレートを飲む習慣もある。スペイン料理やイタリア料理も一般に食べられている。民芸品と旅のお話はこの辺で終わり。もし興味があったら下を読んで下さい。
現代のベネズエラをちょっとだけ
(民芸品とは関係ないので読まなくても結構です) 1914年、フアン・ビセンテ・ゴメス時代にマラカイボ湖で石油が発見されるまでは、ベネズエラはコーヒーとカカを主としたプランテーション農業の国だったが、1930年代には石油輸出額が第一次産品を抜き、1950年代にアメリカ、ソ連に次ぐ世界第三位の産油国となった。その後1970年代を通して高成長が続いたが、原油価格が下落した1983年を境に急落し続け、2002年には1960年の水準にまで落ち込んだ。貧富の差が著しく一部の富裕層に富が独占された。
その後、1998年に左派のチャベス大統領が登場し、医療の無料化や低所得者への手厚い政策で人気を維持し、格差是正等の貧困層重視の政策が試みられ、原油価格の高騰の恩恵を受け、貧困層への財政支出拡大等の効果により貧困率が改善し経済も好調となっていた。だが、その後の原油価格の下落や政策の失敗などにより経済状況は徐々に悪化し、特に2010年代に入ってからは市場原理を無視した政策によりハイパーインフが慢性化し、市民生活が混乱に陥り、多くの国民が貧困に喘いでいる。
それでも強気に反米政策を推し進めており、2010年には長年親しんできた「ベネスエラ共和国」の国名を、「独立の父」と崇めるシモン・ボリーバルの名を冠し、「ベネスエラ・ボリーバル共和国」と改名してしまった。前記のエンジェルの滝の改称とともに、自分の存在の誇示に躍起である。
ベネズエラにおいては、富裕層が所有するメディアにより、反チャベス的内容のものが報道されることが多かったが、チャベス政権成立以降は、チャベス大統領に批判的な放送局が閉鎖に追いやられたりするなど独裁色が強められた。チャベス派は、反市場原理主義、反新自由主義を鮮明に掲げ、富の偏在・格差の縮小など、国民の大多数に及んだ貧困層の底上げ政策が中心で『21世紀の社会主義』を掲げている。
しかしながら、チャベス政権以前の旧体制派である財界との対立による経済の低迷や相変わらず深刻な格差・貧困問題、特に治安の悪化は深刻な社会問題となっており、それらを解決できないまま、2013年3月5日、チャベスはガンのため没した。 マドゥロ政権時代 チャベスの死後、その腹心であった副大統領のニコラス・マドゥロが政権を継承した。国際的な原油価格の低下と価格統制の失敗により、前政権時代から進行していたインフレは悪化し、企業や野党勢力のサボタージュも継続するなどマドゥロ政権下においても政情不安は続いた。マドゥロはチャベス時代の反米路線と社会主義路線を踏襲して企業と敵対し、また野党とも激しく対立している。 マドゥロは、野党連合民主統一会議の早期再選挙の要求を却下し、代わりに憲法の修正による改革を提案した。しかし制憲議会選挙が「一人一票の原則」を無視し、通常の1票に加えてマドゥロが指名した労組や学生組織など7つの社会セクターに所属する者に2票を与えるという前例のない与党有利の選挙制度になっていたことから野党に強い反発を巻き起こし、全野党が立候補せず、選挙をボイコットした。 2017年7月31日、制憲議会 (Asamblea Nacional Constituyente) の議会選挙が実施、野党候補がボイコットした事で全候補が与党から出馬、政権に対する「信任投票」と位置付けられ、街頭での衝突も内戦寸前の状態に陥った。軍や警察は政府側を支持して行動し、民間人と警官・兵士双方に死者が発生した。同日深夜、マドゥロは統一社会党が全議席を占める制憲議会の成立を宣言した。宣言により国民議会は廃止され、ベネズエラは事実上の一党独裁体制へ移行した。 マドゥロ政権下のハイパーインフレ チャベス権期から開始された「21世紀の社会主義」政策は経済活動の硬直化を招き、その過程で行った主要生産設備や企業の強制的な国有化と、それに伴う利益を度外視したずさんな経営 により、物資不足と二桁以上のインフレが常態化している。2013年以降のベネズエラ経済は、ハイパーインフレの危機的状況を迎え、2016年1月にマドゥロは経済緊急事態を宣言する事態となったが、食料品の高騰がつづき、日用品不足が深刻となる、国外へ脱出する国民も多数に上っている。 豊富な原油を背景に、世界幸福度報告では2015年には23位、2016年の44位と比較的上位に位置していたが、2017年には82位と順位を急速に低下させた。アメリカの前大統領トランプは「チャベスとマドゥロの社会主義は、原油埋蔵量世界一の国を電気も灯せないまでに荒廃させた」と批判している。(ウイキペディア等よりダイジェスト) おわり
(2021.6.10記)
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樫村さんへのメッセージ
◆ 最近の状況、たいへん参考に!
ベネズエラの最近の状況、気になっていたのですが、よくわかりませんでした。要領よく解説いただき、ありがとうございました。
06/13 楳本 龍夫
第4回
飛行機の窓から眺める富士山は美しい景色である。でも、この富士山のような美しい山が3つも見えるグアテマラの光景は、3倍とまでは言わないまでも素晴らしい風景である。
グアテマラ全土には火山が多く、タカナッ、タフムルコ、サンタ・マリア、スニル、サン・ペドロ、トリマン、アティトラン、フエゴ、アグア、パカジャ、スチタン、イパラなどと、この狭い国土の中に、10を超える火山が聳えている。地震帯の真っ只中に位置しているので、M7級の大きな地震も多い。 富士山のように美しい3つの山とは、グアテマラ・シティの西150キロにある、「世界一美しい湖とグアテマラ人が自慢する"アティトラン湖"の周りに聳える、サン・ペドロ、トリマン、アティトランの、いずれも3000メートルを越す火山群である」。世界一はおこがましいと思うが、レイアウトを分かりやすく言えば、伊香保の榛名湖とその後に聳える榛名富士を三つ並べて、全体を10倍位にした風景だと思って頂ければ良い。
(注)木琴を大きくしたようなものに木の共鳴装置をつけた打楽器。
30年位前までは、グアテマラのことを「今のグアテマラは本来のグアテマラではない。真のグアテマラには存在在しない」 と言われていた。その理由は、地勢的にも社会的にも統一国家を形成するには不向きな要素が多すぎると言うものであった。そのためか、長い間内戦が続いていたのである。
グアテマラの人々は、メキシコ南部からグアテマラ、ベリーズにかけて勢力を伸ばしていたマヤ族共通の文化を持っており、生活様式はあまり変わらない。
これらの民芸品は地方の町でも勿論売っているが、なんと言ってもグアテマラ市の旧市街にある、政庁と広場を挟んで立つ大聖堂の裏の大市場が有名だ。ここには、国中の手工芸品が揃っている。地下は住民の日用品、食料品などの店で、1階が全部民芸品店になっている。余談であるが、政庁は一部が観光客に開放されていて、2階の大広間にはグアテマラ全土の道路原標が立っている。
1773年の大地震で壊滅するまでの首都であった、アンティグア市には、各地の織物や民族衣装を集めた博物館がある。陳列品は、衣装の他に敷物やテーブル・センター、クッション、紐類、帽子などである。アンティグアには、この他に、民芸品ではないが、木綿製品の優れたものがある。
民芸品を買う時は、色違いとか大小を揃えるなどの買い方が理想的だと思うのだが、陶製品のように目方の張るものや大きなものは、持ち運びが大変なので、買い控えてしまうことがしばしばあり、後で後悔することがよくある。 グアテマラア編終わり つづく
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第3回
キューバはリズムの激しいラテン音楽の源泉である。ルンバ、ソン、マンボ、トゥローバ、チャチャチャ、ボレロ、コンガ、サルサ、グアラッチャなど、ラテン音楽で我々の良く知っているリズムは、みなキューバから生まれたようなものだ。
2000年~2001年は日本でもどうゆうわけかキューバ・ブームだった。ブエナ・ビスタ・ソシアル・クルブと言う、50年も前の年寄り楽士達のグループが蘇り、ヨーロッパや米国で大人気を得て日本にもやってきた。ブームに乗って映画もいくつか出来た。今まで、キューバに関心を持っていた人達の大半はラテン音楽好きの人達で、一般の人は、それほど関心がなく、ましてや、実際にあの小さな島国に行って見ようなどと考える人は殆どいなかったと思う。私がハバナで会った日本人の女の子も、やはりキューバから発生したサルサ大好き人間で、わざわざキューバまで踊りを習いに来たと言っていた。テレビでも同じような番組を見た。 しかし、このブームに航空会社や旅行社が目をつけないはずはない。JALがこの頃、初めて直行のチャータ便を飛ばした。チャータ便と言うことは、バンクーバから米国の頭越しに飛ぶのだから、やはり、米国のご機嫌を損なうような定期便には出来ないためなのか、それとも、どれだけ客が集まるか分からないので、試験的に飛ばしたのか知らないが、カストロさんにとっては大満足であったろう。
これは、後日社会主義国へ行ったことがあるために、入国を制限される場合を考慮した親切な措置なのである。しかしドルを持っている客からは、できるだけドル貨を取るのが国策なので、空港に着いてカートを使うところから、これに協力させられることになる。カートに手をかけると、すかさず小さな女の子が手を差し出して使用料を払えと来る。定価などないから精々1~2ドルやれば、グラシアス(ありがとう)となる。
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第2回
メキシコ市の中心を走るレフォルマ通りの独立記念塔(左の写真)を挟んで、シェラトン・マリア・イサベル・ホテル(とうの反対側の一角が、日本で言うところの銀座通りに当たる"ソナ・ロッサ"である。直訳すると"ピンク・ゾーン"だが、そんな怪しげな所ではなく、メキシコで最も洗練された繁華街である。
ブランドものの店や高級品の店が並んでいるが、その中に民芸品や土産物を売る店ばかりが集まった横丁がある。上野のアメ横をもっと狭く、迷路にしたような横丁である。 ここに集まっている店では、銀製品の装飾品や置物類が目に付くが、民芸品としては、壁掛けや、マリアッチの人形が多く、壁掛けにはアステカの暦時計を始め花模様や鳥などを描いたものが多い。また、もう少し高級な店には、ペーパークラフトや木彫りの人形な どもあるし、一種の美術品としては、壁などに貼り付けたり花瓶敷などに使うる化粧タイルなどもある。
この他にも市内には、装身具、装飾品、置物、民芸品、やみやげ物などを売る店ばかりがたくさん集まった、だだっぴろい市場があり、観光バスが必ず立ち寄るようになっている。また、ユカタン半島の突端に位置する、最近では日本でも有名になったリゾート地、カンクンと目と鼻の先の沖合いに浮かぶイスラ・ムヘーレス(女達の島)には魚の形をした陶器の壁掛けが沢山ある。
でも実際はそれほどでもない。ただ、歌わせろと言って客引きするのがしつっこい。
民芸品で目に付く骸骨の人形は、オアハカ州の死者の祭りに出てくる仮装からもじったものだと思うが、骸骨や白骨も人形になると愛嬌があって面白い。 民芸品には色々な形や衣装をまとった骸骨の人形がある。骸骨は人形だけでなく、国立芸術院の民族踊りの中にも出てくる。
メキシコ市内から西へ、高原の道を雄大な景色を眺めながら140キロ行くと銀の町タスコに着く。途中所々にハカランダの紫が浮かび、サボテンがにょきにょき立っている。 この途中にリゾート観光地クエルナバカという面白い名前の町がある.ここは皮細工とペーパークラフトの民芸品の本場である。皮細工はカバン、ハンドバックなどの他にサンダルとかベルト、財布など実用品が主である。ペーパークラフトは鳥とか動物の人形が多い。しかし、壊れやすいので観光旅行では持って帰るのに気を使う。
(注)壁画文字の両端が切れているが、
・・ RADOR . TAYCOSAMA .. MANDO . MART ・・
と読める。これは
EMPERADOR TAYCOSAMA MANDO MARTIRIO
で、"皇帝太閤様が殉教を命じた"という意味である。
日本の民芸品店で買える中南米の民芸品の中ではメキシコの製品が断然多い。メキシコの民芸品に限って言えば、わざわざメキシコで買わなくても面白いものはに日本でも結構手に入りそうだ。ただ、日本の店では人形類は一般に少ないようで、骸骨の人形にいたっては殆ど見たことがない。民芸品は、その国の文化の一面を表わすものであり、旅の思いでをいつまでも残しておけるので、同じ品物でも現地で手に入れたものの方が価値観が高いのは当然である。
(写真は全て筆者が撮影したものだが、プリント画をスキャンしたものであるためピンボケのようになっている) (メキシコ編終わり 2021.3.1) つづく
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第1回 ②
ー 中南米の観光地 ー 日本の民芸品はと言うと各地の観光地とセットになっていることが多い。ところが、南米の国々は先祖の残してくれた文化、遺跡など貴重な観光資源が多いにもかかわらず、経済的利得に結びつける利活用が誠にお粗末である。日本からラテン・アメリカ方面へのツアーは、中米地域ではメキシコ市周辺のアステカ遺跡、グアテマラにあるマヤ遺跡郡、キューバなどを巡るルートが代表的である。
南米大陸ツアーでは、お決まりの、リマ~クスコ~マチュピチュ遺跡~ブエノス・アイレス~イグアスの滝~サンパウロ~リオ・デ・ジャネイロといった、遺跡と素晴らしい景色と民族音楽をミックスしたルートが代表的なものだ。しかし、南米ルートのクスコ郊外の遺跡の周囲には殆ど何もないし、マチュピチュにも入り口の前にホテル兼レストランがあるだけだ。イグアスの滝だって、アルゼンチン側にもブラジル側にも肝心の滝の近くのホテルは1~2軒しかない。これらの場所も、もし日本ならば、おそらくご本体の影が薄くなるほどに周囲は開発され、ホテル、レストラン、土産物屋などが群がるであろう。 南米の観光ルートは飛行機便の関係や現地の交通事情などから、どうしてもワン・パターンなものにならざるを得ないとは思うが、このようなルートに含まれない所にも行く価値のある所は多い。
例えば、エクアドルの首都キト市の外れにある赤道モニュメントは、南北両半球が一跨ぎに出来る所であるし、オタバロ村のインディオ市(露天市)は、げてもの料理の屋台やカラフルな毛織製品などが多いことでは特長的である。更にオタバロ族は平均身長が150センチ程度なので、平均的日本人でも巨人になれる。コロンビアの首都ボゴタには、市内の一角に素晴らしい夜景を一望に出来るモンセラーテの丘がある。この丘は、ずっと以前に上映された五木寛之原作の映画「戒厳令の夜」のロケ地になった。また、郊外のシパキラ村には全山が塩の山を刳り貫いた中に作った教会、南部のサン・セバスチアンには多数の石像があり一見の価値がある。ペルーならお決まり の場所以外にも、近年新しい遺跡がいくつも発掘されているし、南部の白亜の町アレキーパ周辺にも観光ポイントは多く、郊外はコンドルの群生地として知られている。
往復に1週間かけられるなら、太平洋に浮ぶイスラ・デ・パスクァ(イースター島)のモアイも見たいものである。ボリビアにはペルー同様のプレインカ以降のティワナク遺跡が無数にある。先住民族の文化のなかったアルゼンチンだって、北部にはインカ族の影響を受けた遺跡や、奇岩怪石の景勝が見られる風景がある。その反面、パラグアイやウルグアイには、残念ながら目ぼしい観光ポイントは殆どないと言ってよい。 しかし、中米はとにかく、南米は日本からは地球のほぼ真裏になり、特に南半分の国々はどこをどう回っても約2万キロ(地球の円周は凡そ4万キロだからその半分)は飛ばなくてはならず、30時間は有にかかる。
簡単には行けないが、行けば行っただけの価値と満足感は十分に得られると思われる地域である。 そして、絶対に言い忘れてはならないのは、ラテン・アメリカは多種多彩な音楽の宝庫であることだ。メキシコのボレロ、ルンバ、マリアッチ。キューバのソン、トゥローバ、マンボ、サルサ。グアテマラのマリンバ。ブラジルのサンバ、ボサノーバ。アルゼンチンのタンゴ、ウルグアイのカンドンベ。チリのクエッカ。ペルーのバルス(ワルツ・ペルアーノ)、アンデス・フォルクローレのウワイノ、マリネラ。コロンビアのクンビア。ベネスエラのホロッポ、などなどの他に、各国とも独自の民族音楽(フォルクローレ)やそれに合わせた踊りがある。どこか面白い国、珍しい場所はないかと考える機会があったら、是非ラテン・アメリカの国々を候補に上げられることをお薦めしたい。
日本に一番近いラテン・アメリカの国はメキシコだと言うことには誰も異論はないであろう。しかし、私は、フィリピンこそ本当は最も日本に近いラテン系の国ではないかと思っている。なぜならば、四百年もスペインの統治下にあって、今でも、人の名前や、町や通りの名称がスペイン語でたくさん残っているし、通貨単位もスペインのペソのままである(注)。私はフィリピンを全く知らないが、テレビなどで見るフィリピン人の体型や気質などには、今でもスペインの血が流れているような気がする。先ほど亡くなったアルゼンチンのフットボール界の神様マラドーナの体形はどうみても、ヒリピン人に似ている。国語のタガログ語も何となくスペイン語に似ているような気がする。 まあ、れはとにかくとして、ラテン・アメリカと言えば中南米諸国であり地球の裏側である。 ではいよいよ「ラテン・アメリカの民芸品の旅」を始めよう。まずメキシコから出発して、メキシコ湾を東へ飛び、カリブ海の真珠と言われるキューバ(今はすっかりその輝きを失っているが)を巡り、再び中米はグアテマラに戻り、一路南下して南米大陸のベネズエに入り、そこから時計回りに広大な大陸を回って、コロンビアまで行き、アルゼンチンを締めくくりとするお話しである。 集めた民芸品の数は、国によって行ったときの手荷物の量や日数の関係で、数が少ない国や、逆にたくさん集められた国がある。自分がいたアルゼンチンは元よりであるが、ウルグアイ、ペルーやチリ、ボリビアなどは複数回行っているので多く、反対にグアテマラ、ベネスエラ、エクアドル、コロンビアなどは1~2回しか行ってないので、ほんの数点しか集められなかった。 お話は、収集した民芸品の写真を紹介し、それに関連する事柄を説明し、観光ポイントなどに触れながら進めていくが、どうしても横道にそれがちである。でも、それはそれで、話のねたがある訳で、多少の道草はご勘弁願いたい。この物語は、2003年に初版が完成した。そして、その後に世界の状況も随分と変わった。しかし、民芸品のありようは、政治・経済・軍事問題などに影響を受ける事はないが、その国の様子に触れる部分もある。そういった理由から2015年に大改訂を行い、さらに本稿の掲載に当たり手元資料によりできるだけ現行になるよう修正した。 (2021.2.2 つづく) (注) ペソと言う言葉は、重さ、秤、重要性などの意味で、メキシコ、キューバ、ドミニカ、アルゼンチン、ウルグアイ、チリ、コロンビアなどの通貨単位になっている。
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第1回 ①
(まえがき) 元来、旅とは、自分のペースでのんびりと、ゆっくりと行きたいものである。しかし、外国旅行の場合は、時間的、経済的、健康的な制約、さらには、行き先での言葉の問題などの理由から、添乗員が案内してくれて、短期間の間に観光ポイントを無駄なく、出来るだけ沢山回れるパック・ツアーで出かける人達が多い。しかし、アジア諸国や大洋州のような、比較的短距離で時差の少ない地域は別として、南北アメリカ大陸にまたがるラテン・アメリカへの旅行となるとそうはいかない。特に日本からはちょうど地球の裏側になる南米方面のパック旅行となると、ただただ疲れだけが蓄積し、帰ってから写真を見ても、どこをどう巡ったのか全然思い出せないと言う声を何度も聞いた事がある。しかし、それも無理はない。南米ハイライト何日間などという旅行は、往復で4日間が消えてしまい、実際にホテルに泊まれる日はぐっと少なくなる。しかも、1か所一泊で、トランクを全部開く余裕もなく、観光ポイントからポイントへ移動する事が多く、時差ぼけの取れる暇もない。 南米くんだりまでやってくる旅人達は、医者とか、なになに士とか、自営業とかの比較的経済的に余裕のある人達で、今までに世界のあちこちを回ってきて、残ったのが南米だと言う人が多い。こうした人達だから皆年寄りである。予定地に着いてからの移動中のバスではぐっすり眠りこけている。観光場所に着き、いきなり起こされて下車し、写真を撮って、また次の目的地まで眠る。車中での説明なんか聞いていないから、自分が今どこにいるか分かるわけがない。老夫婦がホテルのレストランや喫茶コーナでぼんやりしているので 「どうしましたか」 と声かけると、日本人と分かってほっとした表情で、「コーヒーを飲みたいのだが言葉が通じない、南米はコーヒー一杯、サンドイッチ一つ食べられない」と力なく話しかけられたことがある。スペイン語圏では“コーヒー”といっても通じない。“カフェッ”と発音しなくてはいけない。アメリカンなどという邪道?の飲み方はしない。砂糖をたっぷり入れたカップの上から濃いめに煎じたコーヒーを注ぐのが本来の飲み方だから。 ラテン・アメリカという定義は難しい。一口に言うと、メキシコを含む中米、カリブ海諸島、南米大陸の国々でスペイン語かポルトガル語を話し、ラテン文化を継承している国々と言う事が出来る。フランス語をラテン系の言語に含めると、ハイチ、グアドルペ、マルティニク、ギアナなどが含まれる。ただ、フランス系住民が30%もいるカナダは一般的にはラテン・アメリカには入らない。英語圏のジャマイカ、ベリーズ、スリナムもラテンと言うのは難しい。しかし、中南米と言う場合は、言語、文化に関係なく、地理的に中米、南米、カリブ海諸国を言う。メキシコは地理的には北米であるが、中南米という場合でも、ラテン・アメリカという場合でも、どちらの場合にも含まれる。 民芸品収集のきっかけ
旅の楽しさや面白さを本当に味わうには、地上の交通機関を利用するに限る。暫くの間アルゼンチンで暮らした私は、仕事の上でも、観光のためにも、南米諸国を気軽に歩けるという幸運に恵まれていた。チリやパラグアイ、ウルグアイ、それにブラジルの南部などはみな車で行った。ペルーやボリビアへも車で行きたかったが、さすがに遠すぎるのと、道が悪くて車が殆ど走っていないので、万一故障したり、ガス欠になったら飢え死にしてしまう恐れがある、との知人の忠告に従って諦めた。一日に1000キロも走ったことがある。(8時間かかる)。このくらい一気に南北を移動すると植物の分布が変わるのがはっきり分かる。それほど長距離ではなくても、途中の景色を楽しみながら小さなレストランとかガソリンスタンドに立ち寄って、土地の名産や民芸品を聞き出したり、あるいは、道端の老婆から採りたての果物を買ってお喋りをしたり、綺麗な花が咲いているのを見て、その名前を聞き、ちょいと摘まんでバックミラーに挿してみたり。地面を走ることによって、その国のその地方の生の生活が見られる。これが旅の楽しさだと思う。こうした旅が出来ながら、その記念となるものが写真だけというのは勿体ないし、歴史や文化の片鱗でも偲べるものを思い出として残しておこうと思い立ったのが、各地の民芸品の収集のきっかけである。 このホームページで紹介するものは、私が行った際に入手した収集品のなかの一部である。このほかに絵画、壁掛け、楽器、敷物、民芸調雑貨等があるが、それらの話は別の機会に譲る事にする。また、現地では目につかなかったり、興味を引かなかったりして入手しなかったものも多数あるので、各国にはこの他にもまだまだいろいろなものがあると思っていただきたい。
ラテン・アメリカ諸国の独立は、1810年ごろから1820年代の後半にかけて次々と達成されたもので、やっと200年である。その上、独立前はポルトガル、英国、フランスなどの支配を受けていたごく一部の地域や島々を除き、殆どがスペイン一国の支配を受けていたため、国ごとによる個性が育ちにくかった。政治、宗教、教育などのメンタルな面だけでなく、街作りのレイアウト,教会,議事堂、役所などの建物についても、大きさ,規模は別として皆同じような規格の外観を持っている。このため、各国の民芸品は、スペインの征服前に栄えた原住民の文化・伝統をモチーフにしたものが中心である。これらを題材にして、革や陶器、,金・銀・銅・錫などの【アンデス山脈を車で超える、チリ国境通過直後】金属、そして 毛織物、木・竹・葦・石・ガラス、貝殻などの材料を使って、人形、敷物、壁掛け、置物、装飾品、灰皿、壷、篭、物入れ、小さな実用品、遺跡から発掘されたもののミニチュアなどを作っている。これらの民芸品は、生産された場所ごとに独特のものがあるわけではなく、その国のどこへ行っても同じ物が売られている。先住民族の歴史の長さとか版図の大きさが、国ごとに見た民芸品の種類の多少に現れているように思える。 すなはち、南米ではインディオ文明の中心的存在であったインカ族の本拠のあった、ペルー、ボリビアなどが民芸品の種類が最も多く宝庫である。材料も上記に述べたようなものがすべて使われている。南米の原住民の中でも最強と言われ、最後までスペイン軍と戦ったアラウカーノ族がいたチリには、銀製品、銅製品、陶器、籐製品、木彫りなどの他、日本でもお馴染みのラピスラスリ細工がたくさんある。チリのラピスラスリには細かい金片がたくさん入っている。
逆に最も穏健であったグアラニ族のパラグアイには、世界的に有名なニェアンドティ(蜘蛛の巣刺繍)の他、木彫り、革製品が多い。コロンビアでは、採掘量世界一のエメラルドや金の装飾品が有名だが、民芸品としては陶磁器製品、籐細工などがある。ベネズエラでは、グアヒーラ族の色彩豊かな織物、麻細工などが代表的である。エクアドルでは、木彫り、織物(ポンチョとか敷物、壁掛けなど)パンを固めて人形や鳥などの形にしたものが有名だが、珍しいものとして、ツァンツァ(Tzantza)と言う、原住民同市の争いで捕虜にした敵の首を干し首にしたものの模造品がある。
中米のメキシコ、グアテマラなどには、繊維製品、陶器製品、銀製品が多いが、題材はそれほど古いものとは思えない。キューバには色々な形で、色々な材料を使った人形がたくさんある。中南米の民芸品は、あくまで民芸品であって、美術品のような芸術的価値のあるものは少ないように思える。金銀宝石を使った装飾品のようなものを除き、日本人の高級品志向の目から見るとお粗末な細工なものが多い。特に人形類については、顔の表情に重きをおく日本人から見ると、まことに幼稚である。しかし、私にとっては芸術的価値などは二の次三の次のことだ。広大な大陸にある国々やカリブ海に面した国々から、自分の足で集めたものであること、特に、南米にある全ての国(ブラジル北部の3つの小さな国を除き)の民芸品を集めたことに最大の誇りを持っている。近年は日本の各地に外国の民芸品を売る店がたくさんできて、ペルーやメキシコ、グアテマラなどのものは日本でも手に入り易くなってきた。
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