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第10回 

 

 

 

 アタカマ地方の温泉

  チリは南米大陸の西側に張り付いたような地形をしている。南北の長さは南緯18度20分から56度までの4200キロもありながら、東西は一番広いところで僅か180キロしかない、鰻のような国である。サンチアゴの空港を飛び上がる飛行機が、風向きにより東に向かって離陸すると、目の前にアンデスの山々が屏風のように立ちふさがり、ぶつかるのじゃないかと、ひやりとすることがある。

 イースター島のモアイ

国土の端から端まで飛行機でも5時間かかる。これだけ長い土地のため、気候も北部の酷暑地帯から、南極に近い極寒地帯まで、地球上のあらゆる気候が存在する。北部は地球上で最も乾燥した砂漠地帯であり、塩湖があり温泉が噴出する。此処のアタカマ砂漠は標高が3000米もあり空気が澄んでいて 「宇宙に一番近い観測地」として各国の天文台が集中している。ここの気象条件は太陽光発電にも適しており、東大が2008年から世界最大級の太陽光発電を始めた。

 
 プエルト・モンの民芸品店街

 南部に行くに従い雨の多い地域になり、無数の湖沼が点在する風光明媚な地帯になる。最南部は森林と川と入り組んだフィヨルド地帯でマゼラン海峡まで続いている。このため海岸線が長く、総延長距離はヨーロッパの海岸線よりも長い。さらに、本土から3800キロ離れた南太平洋上の謎の孤島、モアイ像で日本でも良く知られるようになった、イスラ・デ・パスクア(イースター島)もチリ領である。 イースター島も観光客が増えて、落書きとか石像の破壊など様々な犯罪に犯されるようになってしまった。

プエルト・モンの青空市場

 民芸品の旅という本題を無視すれば、チリについては書くことが一杯あるが、本編では南部と中部それに北部から、主に日本人には余り知られていない話題を取り上げることにした。

 米国の故ケネディ大統領が作ったと言われる、パンアメリカン・ハイウエーはアラスカからチリのプエルト・モンまで南北のアメリカ大陸の太平洋岸を走っているが、途中パナマとコロンビアの間のダリエン湿地帯で切れている。何故切れたままなのかはっきりした理由を知らないが、地質的に工事が難しくて建設できないからだとか、戦略的理由から南北を分断しておくためだとか、口蹄疫の牛が陸地伝いに米国に入ってこないようにするためだとか、いろいろ言われている。

 
 湖と湖の間をバスで移動する

 ずっと以前、南米の牛の口蹄疫の流行が問題になり、米国が第二次大戦後、中米地峡地帯までは、この病気にかかった牛を個別に処理し絶滅させた。 広い南米には手がつけられないが、この分断のお陰で、口蹄疫にかかった牛が中米以北に来る心配はないと言う話しを聞いたことがある。日本でアルゼンチンの肉が食べられない理由は、
①口蹄疫は人間には影響はないが、家畜(ひずめのある)の間に一度流行すると、餌を食べなくなりやせ細って死んでしまう大変な事態になると言う取り越苦労的な心配と、
②主たる輸入国の米国やオーストラリアへの気兼ねから、アルゼンチンの生肉の輸入が禁止されていためなどである。
 幸い今はあるゼンチン肉も食べられるようになったが、日本では後発で、本当の美味しさが分かってないので、人気はいま一つのように思う、食わず嫌いとはこのことかもしれない。

 
 チリ富士と呼ばれるオソルノ火山

 パンアメリカン・ハイウエーの南の終点プエルト・モンは、鉄道や長距離バスの終点でもあるし、アンデス山脈を越えてアルゼンチンと結ぶ、数本の陸上交通の一番南のルートの終始点でもある。大袈裟に言えばチリだけでなく、南米文明の終点とも言える都市である。此処から南はフィヨルドと、森と川の間に荒れた平地が続く、殆ど人の住まない地域になり、道がないので交通は船頼りである。  プエルト・モンとアルゼンチンのサン・カルロス・バリローチェを結ぶアンデス超えのルートには四つの湖があり、船とバスを乗り継いで超えるのだが、真夏でも真冬の服装が必要だ。

国境の真上にそびえる
アコンカグア

  しかし、このルートは他のルートに比べ,風景が抜群に美しい。特に一番西にあるジャンキウエ湖の東側に聳える"オソルノ火山"は、日本人にチリ富士と呼ばれるのにふさわしい優雅な姿を見せている。チリとアルゼンチン国境の南部アンデス山脈には休火山がいくつもある、いつ噴火するか分からない。2008年にはチロエ島の東に位置するチャイテン火山が爆発した。火口から30キロのチャイテン町の住民4000人が海軍の艦艇で避難した。

 ジャンキウエ湖畔の町、プエルト・バラスは、赤いとんがり屋根のバンガローや白い教会が、緑の森に点々と浮かび、通りには薔薇やチリの国花コピウエ (日本名:ツバキカズラ=真っ赤な筒のような花をつける) が咲き乱れる、それはそれは美しい町である。 チリとアルゼンチンは、南米大陸最南端の島フエゴ島の国境線を巡り犬猿の仲であった。1982年4月~7月、アルゼンチンがマルビーナス諸島(フォークランド)の領有権をめぐって英国と戦争した頃は、チリがアルゼンチンの情報を英国に流したりして敵国に肩入れをしたため、さらに関係は悪化した。このため、当時は特に両国の国境警備は厳しく、旅行者も随分と厳しい検査を受けたものである。

 
市内の民芸品店、銅製品が多い

 私は、マルビーナス戦争の最中にメンドーサから国境トンネルを抜けてチリに入った。国境を越えてすぐに、カメラの絵が画かれた標識の下で写真を撮った。この標識は写真撮影に適した場所を示すものだが、突然、白いジープが現われ自動小銃を突きつけられて、カメラをよこせと脅かされた。そんなものには気が付かなかったので抗議したら、そのままジープに乗せられ、近くにある国境警備隊の本部に連行され、フイルムを抜けと強要された。36枚撮りフィルムの最後の2~3枚を此処で撮っただけなので、それまでの貴重な撮影まで駄目になってしまうので拒否した。アルゼンチン電気通信庁長官からもらった、駐在目的の身分証明書を見せ、帰りにここを通る時までに検閲して、不適当なものだけ没収して返してもらうことで合意した。しかし、帰路には、このときの将校がいなくて分からないと言われ、未解決になったその後、チリ電気通信公社を通じて執拗に交渉してもらった末、半年後にプリントだけが返ってきた。

 
 チリの特産品、銅板彫刻

 後にアルゼンチンの新聞記者にこの話をしたら、プリントだけでも返してくれたのは、極めて珍しいケースだとのことだった。それにしても、自動小銃を突きつけられた時は鳥肌が立ったが、よく平気で強気に交渉できたものと、後になって、その時を思い出し、改めて恐怖感を蘇らせたものである。 しかし、今では国境検査もおおようで旅行者も増えた。細長いプエルト・モンの南の端にあるアンフェルモ港周辺は手工芸品店がびっしりと建ち並ぶ民芸品の宝庫である。チリ特産の輝石ラピス・ラスリを始め、珍しい虎目石の装飾品、銀のアクセサリー類、銅板画や食器類、カバンなどの革細工や、革に焼き鏝で風景を描いた壁掛け、動物などの陶製品、木彫りの人形などが、どの店にも、所狭しと並べられている。衣類では、アルパカの毛をふんだんに使った分厚いセーターやチョッキなどが、無造作に山積みされて、埃をかぶっている。

 
 銅製のトレイ

 アンフェルモ漁港はチリでも有数の漁港で、市場の中には獲りたての魚介類をすぐに食べさせてくれる店がたくさんある。数種類の魚介類をソーセージやじゃが芋と一緒にぐつぐつ煮た"クラント"と言う煮込みが名物だ。日本人の旅行者は殆ど来ないが、パルプ材の買い付けの商社マンや日本漁船員が来るので、日本人らしいと見ると、"ウニ、カニ、アワビ、オイシイヨッ!"と日本語で愛想を振り撒いて寄って来る。 アンフェルモからフェリーで30分の所に南米第2の大きさのチロエ島がある (因み1位はティエラ・デ・フエゴ=火の島)。途中の風景が美しいが、その中に1960年のチリ地震 (日本の三陸沖まで津波がやってきたことで有名な地震)の震源地で、地形が変わったのがはっきり見られる場所がある。 

海産物をごった煮にしたクラント

 1972年ごろから、日本のJICA(海外協力事業団)がフィヨルド帯で紅鮭の養殖を始めた。南半球であっても、北半球で鮭が住むのと同じ緯度なので、簡単に養殖ができると思ったようだが、鮭の生活本能は、そうは簡単に南北が逆にはならなかった。稚魚を放流しても帰ってこないのである。いろいろと試行錯誤を繰り返してきたようで、その実験の過程で漁獲した鮭を1980年代にはチリやアルゼンチンにいる日本人に供給してくれるようになった。アルゼンチンの港に入った日魯漁業の船が、新巻きにした鮭を祖国を遠く離れた日本人駐在員達に頒布してくれたのである。

 
 牛革に焼き鏝で絵を描く壁掛け

 魚と言えば目の赤くなった深海魚(銀ダラと言われるメーロもこの仲間)とか、水揚げされてすぐに火に通され、砂だらけで、じゃりじゃりな貝などが平気で売られている頃に、日本の船が日本人用に作った新巻き鮭は、本当に嬉しい贈り物であった。それが今では、日本のスーパーやデパートで、ノルエー産鮭との競争でいつでもチリ産にお目にかかることができるようになった。

 
 1960年の大地震の震源地
風光明媚な所

 JICAの実験は成功しなかったが、その後をチリ政府が引き継ぎ完成させ、世界の鮭漁獲高第二位の地位にまで成長させたのである。日本の水産技術の素晴らしい偉業だと思う。牧畜業と林業と発電所で占められていた寒帯地方に、新たな資源が生まれた。 首都サンチアゴは細長い国土のほぼ中央部にある。アルゼンチンのメンドーサとはバスで約8時間で連絡している。このルートは、チリとアルゼンチンのワイン産地の真っ只中を過ぎ、アンデス山脈の最高峰アコンカグアのすぐ南の山腹に入り、山脈の下の約2キロの国際トンネルを潜り抜ける。トンネルの中は殆ど真っ暗で、途中に両国の国旗を描いた電光看板が地下の国境を示しているだけである。 

 
 チリ唯一の外国貿易港
バルパライソ

 このトンネルの真上、標高4200メートルのクンブレ峠に、1902年にチリとアルゼンチンが不戦の誓いを立てて、両国の軍隊が青銅の大砲を溶かして作ったと言う、左手に十字架を持ったキリスト像(キリスト・レデントールと言う)が立っている。訪れる人も殆どいないアンデス山中に立つ、赤銅色のキリスト像が神秘的に感じる。白い台座には 『レデントール(救世主)の足元で結んだ平和を壊そうとすれば、この山は消えうせてしまうであろう』 と刻まれている。 チリを語るとき、3Wとか3Cとか言うことがよくある。3Wは、ワイン、ウーマン、ウェーザーのことで、ワインはアルゼンチンと共に,世界のワイン大国であるし、美人の女性が多いことでも有名だ。

獲れた海産物をその場で調理する

 また、ウエーザーは、春はリンゴ、アンズ、菜の花など黄色い花が山野を埋め、夏には真紅の国花「コピウエ」や紅薔薇などの赤い花が妍を競い、澄み切った晴天が続く四季の彩りを言ったものである。 3Cは、美人の多い国の頭文字を取ったもので、コスタ・リカ、コロンビア(コロンビアの中で特にカリ市のことを言うようだ)と共に、美人の多い国として世界的にも有名だ。確かに街を歩いていても、しなやかな腰つきで黒髪に黒い瞳の美人が多い。何年か前に、青森県の何とか公社の馬鹿職員が、日本に来ていたチリ女に逆せ上がり十数億円を貢いだ話しがあったが、ラテン・アメリカ人の性格は、「人間性悪説」が基本で、騙される方が馬鹿だと言うことになるので、多額の金を貢がれても貢く方が悪いと思っている。ただし、彼女達も歳相応(一般的には20歳代後半)になるとラテンの血は争えず次第に太くなっていく宿命を背負っているのが哀れだ。

 
 不戦の誓いの象徴

 1973年にアジェンデ社会主義政権がピノチェットの軍事クーデターで倒れた後、厳しい軍政が続いたが、1990年に民主的選挙で漸く民政が復活した。軍政当時、ブエノス・アイレスでは、チリの言論統制を皮肉って、こんな小話が流行った。 ≪サンチアゴの犬が遥々とアンデスを越えてアルゼンチンにやってきた。アルゼンチンの犬が "チリには食い物がないのかね?" と訊ねると、チリ犬は "何とか食べているよ" と答えた。"じゃ、着る物がないのかね?"、"それもあるよ"、"それじゃ、一体、苦労して何でアルゼンチンくんだりまで来たんだね?"、"思いっきり吼えたいからさ"≫。当時は街の角々には軍隊と警察が交互に立っていた。市民生活は緊張しており、通りには紙屑一つ落ちていない清潔な街で、旅行者には安心だったことを思い出す。

 
 チリの国花 コピウエ

 ところが今では、サンチアゴの中央広場では、昼日中でもそこここに人だかりが出来て、政治に関する街頭討論会が活発に行われている。10数年前には想像もできなかったことである。時の流れの偉大な力に驚き入るばかりであるが、一番驚いているのは、ほかならぬチリ国民そのものではないだろうか。この他広場では大道芸人の興行や、街頭画家の活動が盛んである。 サンチアゴには観光ポイントが殆どない。市内にある小さな、サンタ・ルシアの丘か、もう一つのサン・クリストバルの丘へでも登って、市内を一望にするしか楽しみはない。市内を回って驚いたのは、市の西部に位置する、ラス・コンデスと言う高級住宅地である。

 

サンチアゴ市内
サン・クリストバルの丘
からの眺め

 1軒の家でも広い敷地は雑木林に囲まれ、小川が流れ、小高い丘のような起伏もある。これが1軒の敷地なのである。ラテン・アメリカ諸国の金持ち階級は、人口の1%にも満たないが、日本人には想像できないほどの金持ちが多く、貧富の格差は物凄いものだ。チリにおいても、ピノチェット政権が進めた新資本主義と称す民営化を推進する政策で、一部の資本家が富を増やした結果格差が多くなったためだといわれる。つい昨年も、地下鉄のたった30円ほどの値上で学生の猛烈な反発を食らった事件があった。

ショー・レストラン

 その結果、格差是正を認める新し憲法草案の是非を問う国民投票が行われ圧倒的支持をえた。チリも変わろうとしている。 中央広場を取り囲む建物の一つに、1階全部 が民芸品店になっている所がある。ここには、高級装飾品を始め家具,生活用品などを売る店から、小さな土産品的民芸品などの店まで数十軒も並んでいる。ある店でいい物を見つけても、念のため他の店も見て、再び元の店に戻ろうとしても、同じような店が並んでいるので、分からなくなってしまうほど、複雑でたくさんの店がある。

 
サンチアゴ市内の目抜き通り

 市内の目抜き通りを一寸奥に入ると、洒落たブティックや宝飾店、靴屋などが並んだ小道が所々にある。ブティックでは、民芸品店にあるのとはちょっと違った、都会的センスのデザインをしたアルパカの高級セータやカーディガンなどを見っけることができる。宝飾店には、これも細工の技巧に優れたアクセサリー類がある。こうした場所を見つけるのが、ヨーロッパ流に洗練された、サンチアゴの本当の魅力を求める歩き方かもしれない。 チリの北部は元々は、ボリビアとペルーの領土であった所である。アリカ、アントファガスタ、イキケ、カラマなどは、ボリビアの経済を支えた重要な地域であった。この地域は、乾燥度世界一と言われるタラパカ砂漠やアタカマ砂漠を挟んで、硝石、銅、塩、金、銀、硫黄、石英、モリブデンなどの鉱物資源の宝庫で、所々に温泉が噴出している。

 
 チリEntel(電信電話公社)の
シンボルタワー

 特にチュキカマタ銅山の露天掘りは有名で、今でも毎日大勢の観光客が見学に訪れる。1860年代にノーベルが発明した火薬の原料になる硝石が、この地方から大量に産出され、ボリビア経済の根幹を支える貴重資源であった。 ボリビアの太平洋岸と首都ラ・パスとは真ん中にアンデス山脈が聳えていて十分な行き来ができず、政府の目が十分届かなかった。これに目をつけたチリは、英国と組んで、この地の権益を手に入れようとしてボリビアを挑発した。1879年2月には、ボリビアと同盟を結んでいたペルーがまづ宣戦を布告し、太平洋戦争が勃発した。十分に準備をしていたチリ軍は、ペルー、ボリビア連合軍を破り、思惑通りに今の利益を手に入れた。チリらしい極めて巧妙な、汚いやり方である。 両国は領土の一部と貴重な資源を奪われたが、特に哀れなのはボリビアで、国の将来を左右する経済的2大要素を一挙に失った。

 
 陶製のリャーマの人形

つまり、資源の宝庫と貿易の拠点になる海への出口を一遍に失ったのである。このことが、いかに大きな損失だったかは、その後のボリビアの貧困ぶりを見ても分かるし,今も南米の最貧国に甘んじている現状からも、当時の政府の不手際が如何に大きな失政だったかが分かるというものである。この戦争については、ボリビア編で述べようと思う。

 チリを観光するのに4200キロもの長い国を全部歩くことはない。北の方は砂漠だし、南部は交通手段が極めて悪いので、サンチアゴと100キロほど北西の太平洋岸に面した保養地ビーニャ・デル・マルと、日本などへのワインを積み出す、バルパライソ港などを見物し、プエルト・モンまで1000キロをバスか列車で途中下車しながら歩けばよい。

 
 左:陶製灰皿、右:銅製小皿

 チリは海産物が美味しいとよく言われるが、確かに魚介類は豊富であるが、料理方法が違うので、人は、必ずしも美味しいとばかりは言えない。特にシーフードと言われるものは、いきなり生で食べたりすると下痢を起こす。例えば、日本では高級品である "うに" などが、嘘みたいな安い値段で食べられる。この際と思って腹いっぱい食べたりするとてき面である、つまり、旅をしながらこの辺まで来るには、日本を出てからかなりの日数がたっている筈で、体力的にも疲れて抵抗力が弱まっていることなどから、簡単に腹をこわしてしまうのである。

 食べ物をほどほどに、他の南米の都市とは一味違う、ゲルマン調の落ち着いた雰囲気の街を歩き、数多くある博物館、美術館などを周る。天気がよければ、広場やビルの角には、大道芸人や青空画家が通りかかる人々に、愛想を振り撒いているのに出会う。夜はショー・レストランで食事をしながら、チリの伝統的民族舞踊であるクエッカなどを鑑賞するのが、短い時間でのチリ旅行のコツだと思う。 

(チリ編終り 2021.10.31)

 

 

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第9回

 

 

 
キトー市街
 赤道の下には15以上もの国や島嶼があるのに、南米のエクアドルだけが"赤道"の名前を独占しているのは不思議な話である(アフリカに赤道ギニアと言う国があるが、この国の位置は正確には赤道より少し北にずれている)。
 赤道直下でありながら、涼しい風が吹き、北部アンデスの高峰には万年雪が残っている、太陽とは一見縁のないような感じのするエクアドルは、南米大陸の中では、ウルグアイに次いで小さく、インデイッヘナ(”インディオ”は差別用語なので私は使わない)の割合もボリビアに次いで多い国である。この国については、日本では余り知られていないように思えるし、実際に世界的なニュースにも乏しい国である。日本と関係のあることを私の知っている範囲であげてみよう。
民族衣装を着た人形
①1918年に野口英世博士が黄熱病の研究のため、グアジャキール(Guayaquil=グアヤキールと呼ぶ人もいる)にわたり、ワクチンを開発して流行を食い止めた。その功績を称え、エクアドル政府は、"名誉大佐"の勲章を贈った。グアジャキール市のほぼ中央部に野口通りがあり、胸像が立っている。
②1931年に米国の宣教師がキリスト教放送のために開局した"アンデスの声"短波放送局が、1964年から長年日本語放送を行っていた。ラテン・アメリカに関心のある人はたいてい知っていた。この放送局はキト市の外れにあり、世界の18の言語で放送しており、民族音楽や現地の出来事などを伝える番組である。情緒ある局名とともに、宗教を越え、世界の短波放送愛好家に広く知られていたが、今はもうない。
木彫り人形
③かっては日本全国に流行したパナマ帽の製造地である。パナマはこの帽子の単なる輸出港であって、帽子そのものはエクアドルで作られている。
④何気なく食べているバナナの中には、エクアドル産がたくさんあり、2008年頃からは移住した日本人が、自分の名前をいれたバナナを日本に輸出している。田辺農園はその中でも先駆者的存在である。一度召し上がって頂きたい。  
 この国の商業経済の中心地は、太平洋に面した港湾都市グアジャキールで、首都キトはアンデスの山中の盆地のような場所にある。玄関口の、マリスカル・スクレ国際空港は、飛行機から見下ろすと、滑走路がたった1本だけの小さな空港である。空港はキト市の北の外れにあり、中心部から約10キロ離れている。キト市は新旧2つの地域に分かれていて、新市街には、公園や近代的なビルやホテル、文化施設や官庁などがあり、旧市街には、植民地時代の古い建物が残っており、住宅街の通りは狭く、ごちゃごちゃした感じで民芸品などを売る店も多い。  
壺を持つ少女
 エクアドルの民芸品は、南米の他の国と同じように、木彫りの人形類とか、毛織物、陶器などが主である。木彫り人形は百姓や、乞食を扱ったものが多く、比較的大きなものもあるが、重いので旅行者には持ち帰るのが厄介だ。珍しいものとして、パンをこねて、人形や花の形に固めた"マサパン"と言うものがある。これについては後で述べる。
 この他に、民芸品とはちょっと異質であるが、これこそエクアドルにしかないと思われる、"Tzantza(ツァンツァ)"と言う、人間の首を干して縮小したものの複製品がある。本物のツァンツァは、ヒバロ族が、部族間の戦争で捕虜にした敵の首を、そのまま約半分の大きさに干し固めて作ったものである。頭蓋骨そのものを縮小するのだが製法は秘密だそうだ。この風習は、戦った仇敵への呪いのために、捕虜の首を自分の家の天井にぶら下げておき、朝夕これに向かって思い切り悪口を吐くと言うものである。ある米国人が、製法の秘密を探ろうとしたところ、自分がツァンツァにされてしまったと言う話がある。以前は本物も売られていたが、今は販売禁止になっている。男よりは女、土人よりは白人の首の方が高いそうだ。民芸品として売られているものは、後述の写真のように、羊の鞣革を使った模造品であるが、実に良く出来ている。2018年2月に上野科学博物館でインカ展があったとき、このツアンツアが展示されていたが、この章に載せた私の物よりずっと小さいものだった。  
南米で一番古いと言われる教会
 旧市街の目玉は、1535年に造られた、南米で一番古いサン・フランシスコ教会である。頑丈な建物だったが、1987年の大地震で、あちこちが壊れ、修復に10年以上もかかったが、大部分は当時のままの状態を保っている。この教会前の広場から、キト市の南端に当たるパネシージョの丘が一望にできる。高さ180メートルほどの丘であるが、頂上には、"ビルヘン・デ・エクアドル"と言う、コンクリート製の聖母マリアの像が建っている。この像の下に名前を彫ると、再びキトに来ることができるとの言い伝えがあるので、私も最初に行った時(1977年)、持ち合わせていた爪切りの端で名前を刻み込んだら、その3年後に本当に、再度この丘に登ることが出来た。頂上からはキトの新旧市街が一望にでき、地理を把握するのに好都合な場所である。 
 エクアドルに行ったなら、"赤道記念碑"は絶対に見落とせない場所である。記念碑はキト市の北方約22キロの、サン・アントニオ村の広場の中に建っている。記念碑は高さ30メートルで、てっぺんには直径4.5メートルの地球儀が乗っている。記念碑の下には、南北緯度0度を表す赤と白の線が引いてある。ここを訪れた観光客は、必ずこの線を跨いで写真を撮る。南北両半球一跨ぎと洒落るわけだ。この記念碑は、以前はもっと辺鄙な場所にあったものを、1979年頃に現在の場所に移設したものだ。今の場所は周りに土産物屋が沢山並び賑わっている。この他にも、赤道を示す標識は、南米大陸の太平洋岸を南北に走る、パン・アメリカン・ハイウエーなど、赤道直下に当たる場所に大小の標識が立てられている。

ツアンツア
捕虜の干し首

 記念碑と言えば、やはりキト郊外に、インカ帝国最後の皇帝になった、アタウアルパの胸像がある。15世紀にインカ帝国の皇帝ワイナ・カパックがエクアドルを征服した。ここがインカ帝国の版図の北限になる。エクアドルを征服したワイナ・カパックは、2人の息子の一人アタウアルパにキトを支配させ、もう一人の息子ワスカルにクスコを統治させた。しかし、ワイナ・カパックの死後二人の兄弟は、王位継承をめぐる長期間の戦争を繰り広げ、1532年に漸くアタウアルパが勝った。丁度その頃、スペイン人のフランシスコ・ピサロがペルー北部のツンベスに上陸、黄金を求めて次第にエクアドルに侵入してきた。鉄砲や馬を持たないインカ軍は、少数のピサロ軍に敗れ、アタウアルパは遂に捕虜となり、1532年11月、ペルーのカハマルカで殺され、インカ帝国は滅亡した。この最後のインカ皇帝アタウアルパの記念碑である。
 
 
上野科学博物館で2018年2月に行われたインカ展で展示されたツアンツアの製法図
 
 エクアドルと言う国は、インディヘナの数がボリビアに次いで多い。しかし、ラ・パスのように、街中に伝等的衣装をまとった人たちが歩いているわけではない。その代わりではないが、地方にはインディヘナの町や村が沢山あり、毎週土曜や日曜にはインディヘナの市が立つ。
市でクイを売る女達
こうした市(いち)に集まる人達は、被る帽子によって出身地を見分けることができる。各地にあるインディヘナの市の中でも、オタバロ町の市が一番有名である。オタバロはキトからパン・アメリカン・ハイウエーを2時間ほどで行ける場所で、十分日帰りができるので観光客には嬉しい。この途中のカルデロンと言う村が、先にちょっと触れたが、エクアドルの有名な民芸品の一つである"マサパン"(マジパンという人もいる)の産地である。マサパンは、パンをこねて、動物や花などの形に固め、乾燥させて色をつけたものである。形は様々で、大は30センチくらいの置物から、小は胸につけるブローチ、ペンダントなどまである。私も幾つか買ったが、生のパンを固めたものなので湿気に弱く、中に閉じ込められていた虫が復活し、中から食い荒らして、人形をぼろぼろにしてしまった。そのため写真が紹介できないのが残念である。 
赤道記念碑
 オタバロのインディヘナの市は、エクアドル民芸品のショーウインドウのような観がする。中でも目を奪われるのは、毛織物の敷物や壁掛け、ベッド・カバー、袋物、クッションなどで、鮮やかな色彩は見事なものだ。色鮮やかな織物が、山と積まれている市の光景は、それは美しいもので、平均身長150センチくらいの小さいオタバロ族の人々が着る、真っ黒いポンチョが一際、浮き上がって見える。アンデスの高原に暮らす人たちの貴重なタンパク源である、"クイ"(天竺鼠、モルモット)を焼いて売っているのは、日本人にはちょっと気持ちが悪い。壁掛けや敷物、ポンチョなどの毛織物のデザインには、いずこの国のものもそうであるように動物が主である。しかし、ここの動物には、ハチドリとかガラパゴス諸島の亀など、他の国にはないモチーフがある。特にハチドリは、鳥類の中で一番小さい鳥で、南北両アメリカに約300種程住んでいるが、その内米国には約20種くらいなのに、エクアドルには100種類もいて、米大陸で一番種類が多い。

赤道を示す標識は
他にもある

ハチドリは、体長8センチ未満で、体重は4グラムほどの小さな鳥である。羽の色は光沢のある緑色を基調にしているが、玉虫色に変化して輝く美しい鳥で、"空飛ぶ宝石"とも言われている。花から花へ蜜を求めて飛び渡り、蜜を吸うために空中静止ができるように、1秒間に80回以上も羽を回転させる。また、蜜を吸いやすいように、舌が嘴の2倍以上も伸び、エネルギーの補給のために、1日に体重の2倍もの蜜を吸う。花から離れる時に、後ろ向きに飛べるのもハチドリだけの特技である。
 ガラパゴス諸島がエクアドル領だと言うことを知らなくても、この諸島の名前だけは有名である。チャールス・ダーウインの進化論で世界に知られたガラパゴス諸島は、1978年に世界自然遺産第一号に指定された。この貴重な島々も、島の開発や、1994年5月に起きた大規模な山火事、さらには、心無い観光客が棄てるゴミ、付近で起きたタンカーの座礁事故で流れ出した大量の重油などが重なって生息地を襲い、生態系を壊す環境破壊が、予想を超える速さで進んでいる。こうした環境破壊に警鐘を鳴らす写真集「ガラパゴスがこわれる」を、日本人の藤原幸一さんという人が2008年2月に出版した。人間の活動がいかに自然をかえてしまうか、本当に恐ろしいと語っている。この諸島にしか生きていない、陸イグアナ、象海亀、飛べないコバネ鵜、ガラパゴス・ペンギンなど、そのうち見られなくなるかも知れない。象海亀は、かって25万頭もいたのに、今では最大に見積もっても約1万4千頭しかいないと言われる。保護の努力が続けられているが、密漁者に獲られたりして、減少が続いている上に、人間が島に持ち込んだ動物達が、卵や子亀を襲ったりして、減少に拍車をかけている。
キトー市街を見下ろすパネシージョの丘に立つマリアの像
 エクアドルを書くには、抜かしてはならないことがある。それは、コロンビアとの国境に近い南部の長寿村、ビルカバンバ村のことである。ビルカバンバとは、ロハ県のマラカストス、ビルカバンバ、ヤンガーナの3部落の総称で、全部の人口は約5千人である。古い国連の統計によると、5千人の中で、100歳以上が約380人、90歳以上が約600人と言う、驚くべき数字が記録されている。住民の農民達は素朴で早寝早起きでよく働き、食事は粗食で過ごし、ゆったりとした平和な生活の中で、ストレスは全く感じていないと、この村を研究した各国の研究者は報告している。村は海抜1600メートルの高地にあり、気温は常に20度前後、自然環境は極めて良好である。地味は豊な上、特にアンデスの山から流れ出る水は、美味で炭酸カルシュームの含有量が豊富である。このような条件が健康を保つ長寿の原因と見られている。飽食でいらいらの多い生活を送る日本人には、真似のできない、羨ましいことである。
ガラパゴス島の軍艦鳥
 先のペルー編でも述べたが、南米大陸の太平洋岸の国々は、地震の巣の上に座っているようなものである。キトから南へ下るパン・アメリカン・ハイウエーの両側を、アンデスの連山が平行して走っているが、この中にはコトパクシ、イリニサなどの火山が混じっている。19世紀にドイツの地質学者アレキサンダー・フォン・フンボルトが、このあたりを"火山大通り"と命名した。有難くない大通りは、しばしば大きな地震を起こす。最近でも、1987年3月には、アマゾン源流地帯に近い東部のナポ州で、1996年3月には、海抜3000メートルを越す、インディヘナが住む山岳地帯で大きな地震が起き、大勢の死者や家屋の倒壊を引き起こした。最新の地震は2006年に起きている。  
 地震も自然現象の一つと捉えるのならば、エクアドルは、むせ返るような湿気に覆われた海抜ゼロの海岸地方から、涼しい高原、活火山の多い火山地帯、未だに外界との接触を拒んでいる原住民のいる密林地帯まで、全ての自然現象や環境を揃えた欲張りな国である。南米の国々の中では治安の良い国なので、ペルーへ行くチャンスがあれば、2~3日日程を水増しして、赤道を跨いでくるのも一興であろう。ただし、音楽や食べ物は余り期待しない方が良いかもしれない。(2021.10.3 改正版)  
 
 

 

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第8回

 

 

 

 

 

 

2度の戦争の戦没者を追悼する霊廟

 南米大陸の中で国と国とが本格的に戦争をしたのは、過去に僅か3回だけ(注)であるが、パラグアイは、そのうちの2つの戦争の当事国となっている。一つは1864年から5年間も続いた、パラグアイとアルゼンチン、ブラジル、ウルグアイ連合軍が戦った三国戦争である。この戦争では大敗を喫し、悲惨な経験をした。もう一つは、1932年から1935年にかけて、ボリビアと戦ったチャコ戦争で、これには勝った。後の一つはパラグアイは関係ない。1879年から1883年まで続いた、チリとボリビア、ペルー連合軍が戦った、いわゆる"元祖太平洋戦争"である。
夕暮れのアスンシオン港
 三国戦争で敗れたパラグアイは、国土を大幅に失い、国民の半分以上が死んだ。特に男子は小学校の生徒までが駆り出され悲惨な死を遂げた。そのため長い間、国民の男の数が極端に少ない状態が続いた。このため、嘘か本当か知らないが、男が道を歩いていると、木の上から男を求めた女が落ちてくると言う、信じられないような話も伝わっている。首都アスンシオンの中心部にある霊廟には、独立戦争を始め、上記の二つの戦争の犠牲者が祭られ、一年中花が絶えない。
(注)チリとスペインの戦争、アルゼンチンと英国の戦争など大陸外の国との戦争を除く。
  
 パラグアイの原住民はグアラニ族で、南米の原住民の中でも、最も従順で素朴な種族である。このためか、スペイン人が侵入してきた当時は、南米各地の原住民がスペイン人に対する激しい抵抗戦争を起こしたのに、パラグアイでだけは、このような抵抗を受けずに、スペイン人は入植することができた。

パラグアイが誇る芸術品
ニェアンドッティ ñyandotti

スペイン人は原住民グアラニ族との融和を進め、イエズス会の修道士が、各地に"レドゥクシオン"と称する城壁に囲まれた区画を建設し、ここで、教育、布教、職業訓練などを施した。これを"ウトピア(utopía=ウトピーア=英語ユートピア=理想郷)"と言う。このためか、今では,純粋なグアラニ族は殆ど残っておらず、国民の97%がスペイン人との混血である。

イパカライ湖
 パラグアイは、ボリビアと共に海への出口を持たない内陸国のため、産業貿易の発達が遅れ、今でも貧困に悩んでいる。ボリビアとパラグアイの経済開発が遅れているため、南米全体の発展の足並みが揃わず統一市場ができずに、自由経済圏がいくつもできる原因だといわれている。内陸国と言っても、ボリビアとは違い、パラナ川~ラ・プラタ川を経由して、1400キロもある大西洋と直接結ばれ、首都アスンシオン港までは、1500トンもの船が通行できる。しかし、航路は全部アルゼンチンの領土を通るため、かなり高い通行料を払わなくてはならず、これが発展を阻んでいる。アルゼンチンは大型船のための浚渫費用だと言っている。
 

ダンサ・デ・ボテージャ、
瓶踊り

ワインの瓶を5~6本乗せる

 パラグアイの国土は、ボリビアと接する西部チャコ地方のジャングル地帯と、東部の豊かな平野と森林地帯に分けられる。チャコへ自動車で行くなら必ず2台以上で行けと言われる。チャコ地方には殆ど人が住んでおらず、車も通らないので、もし故障したり、ガス欠にでもなって動けなくなったら、飢え死にしてしまうかもしれないからである。このような地勢の国なので、産業は殆どが綿花を中心とした農牧産業で、その他に目立った産業はない。農業国なので雨は絶対必要であるが、21世紀にはいり2006~2007年のラ・ニーニャ現象により少雨と高温に見舞われた。また、これにより生息域が広がった蚊が媒介する黄熱病が2008年に34年振りに確認された。 
アスンシオン郊外に国内唯一の湖、イパカライ湖があり、海のないパラグアイ人の格好の保養地になっている。ラテン音楽愛好家ならば、この湖の名前を題にした"イパカライの思い出"と言うフォルクローレをご存知の方も多いかと思う。

大統領官邸
裏がパラグアイ川
 パラグアイは、南米各国の中でも有数の親日国で、日本の経済技術援助の重点国であり、特に電気通信関係の技術や資材設備などの援助が多かった。現在はどうなっているのだろうか。1970年代からKDDを始め、NTT,NHKの技術者が通信・放送施設の建設や技術指導に携わってきた。イパカライ湖畔に立つ,衛星通信用アンテナも日本の援助(主としKDD)で出来たものであるし、2000年に運用を開始した携帯電話会社"オーラ・パラグアイ"も100%KDDの資本援助で創立されたものである。
 
ネアンドッティで作った人形

 アスンシオン市は、人口50万の、こじんまりとした地方都市といった感じの街で、今でもまだ近代的建物よりも、スペイン統治時代の名残の残る、コロニアル風の建物が多い。 春先(日本の9月頃)には、市内にラポーチャの紫の花が美しく咲き乱れる。大統領官邸は、一旦緩急ある時は大統領がすぐに船で逃げられるようにとの配慮から、パラナ川に通じるパラグアイ川を背にして建てられている。大統領官邸は、ルーブル美術館を真似したと言われており、前庭の花壇の花時計は7~8月に綺麗な花を咲かせる。

カージェ・ハポン、日本通り

 パラグアイは1954年から34年間にわたり、ストロエスネル大統領の独裁が続いていたため、ストロエスネルの名前が町や道路、橋、空港などに沢山残った。アスンシオン国際空港もストロエスネル国際空港であった。しかし、政権が変わり、これらの名前は一掃されてしまった。パラナ川を挟んでブラジルとの国境を画する位置にあったパラグアイ第2の都市、プエルト・プレシデンテ・ストロエスネル(ストロエスネル大統領の港)もシウダ・デル・エステ(エステ市=東市)と名前を変えた。
木彫りの瓶踊り
パラグアイでは、2008年4月の大統領選挙において、61年も続いた右派コロラド党の政権が倒れ、中道左派政権が誕生した。ブラジル、アルゼンチンの工業製品が大量に流入して国内産業が打撃を受け、長期政権に対する国民の不満が頂点に達したためであると言われている。

アルパを弾く
女の人形
 パラグアイには凡そ7000人の日本人移民がおり、1996年には移住60周年記念式典が行われた。このような背景から、アスンシオン市内には、"ハポン通り"がある。しかし移民の中には、生活上の問題からアルゼンチンへ再移民してきている人も多い。
パラグアイと言う国には、大きな遺跡はなく、遺跡と言えば、先に述べた"レドゥクシオン"の跡くらいであり、 地勢的にも森林や湿地帯が多くて、自然美と言うような風景・景観に乏しく、観光資源の少ない退屈な国である。このため観光客も少なく、同じ途上国のボリビアと比べて、外貨収入の資源の点で劣っている。この国に来る観光客は、イグアスの滝を見物に、ブラジルやアルゼンチンにやってくる人が、時間の合間を見て、パラナ川に掛かる国際橋"友情の橋"を渡り、シウダ・デル・エステに革製品を買いに来るか、或いは、月からも見えると言われるほど大きい、世界最大のダム"イタイプー"発電所を見学する人達などであろう。
(ブラジル編イグアスの滝周辺図を参照されたし)
 始めてパラグアイを訪れた時、自動車で行ったが、遠くから放牧されている牛を見て馬と間違えた。体格が細くて腹にあばら骨が浮いているので、どう見ても牛には見えなかったからである。近くに寄って始めて牛だと気がついた。色々聞いた結果、牛らしくない理由が分かった。
美しい紫色のラポーチャの咲く
アスンシオン市内

それは、アルゼンチンの肥沃な大パンパに放牧されている牛達は、自分の立っている場所を時計の針と同じ速度で一回りし、足元の草だけを食べていれば満腹になる。パンパには牛が好むアルファルファ(うまごやし)が自然に密生しているので、 草を探して動き回る必要がないため、運動量が少なく筋肉は硬くならず、いつも肥って食べごろの柔らかい肉質の体格になっているので、誰が見たって馬と見間違えられることなど絶対にない。
 これに反して、ウルグアイやパラグアイなどのように、大きな山はないが、地勢全体に傾斜地が多く、牧草が十分ではない土地に住む牛は、草を求めて斜面を移動しなければならないため、肉は硬くなり、痩せているというわけなのだ。

 パラグアイの民芸品は、世界的にも有名な、"ニェアンドゥティ"に尽きる。これは、日本語に訳すと"蜘蛛の巣様刺繍"と言う。一口に蜘蛛の巣刺繍というが、二つの種類がある。
パラグアイと
アスンシオンの位置

 一つは,四角い木枠に張った布の上や、衣類の上に、普通のフランス刺繍のように、いろいろな色の糸を使い、花や動物の模様を刺繍したものである。もう一つは、生地の上に描こうとする図柄を残し、それ以外の糸を抜いたり、括ったりして花模様を浮き立たせるもので、形は殆どが円形で、どちらかと言うと色は単色が多い。これは、テーブルセンター、敷物、ハンカチなどに使われる。アスンシオンからシウダ・デル・エステへ行く国道沿いの、イパカライ湖近くにあるイタウグアと言う町が主な生産地である。
 かっては国道の上まで店を広げて観光客に呼びかけていたが、いまは、国道が拡張され、店も大分道の内側に引き下がった。このほかには、他の国と同様に、木彫りの動物や壁掛け、人形類、それに革製品などがあるが、革製品はナメシが固い。

 民芸品ではないが、パラグアイと言えば、アルパ(インディアン・ハープ)と言う、34~36本の糸を持つ弦楽器が有名だ。アルパの音色は高い金属性の音で、心に響くが、演奏される曲は単調なものが多く、初めて聞く人にはみな同じ曲のように聞こえると言われる。また、民族芸能として、ダンサ・デ・ボテージャ(瓶踊り)と言う踊りがあるが、異国人には珍しい踊りであろう。東洋人に似た顔つきと体型の美女が、頭の上にビール瓶やワインの瓶を5~6本も重ねて、リズミカルな音楽に合わせて踊るのだが、観客は終わるまで、はらはらのしどうしである。
 一般の日本人の行くツアーの観光ルートからは全くと言ってよいほど、取り残されたパラグアイであるが、アルゼンチンやチリなどからは、"田舎っぺえのパラゲーニョ"と言われるほどの素朴な国であり、治安も良いので、グアラニ族の笑顔を見て、ひと時のんびりするにはもってこいの国である。
おわり
(2021.8.29記 パラグアイ編改定版) 
 
 

 

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第7回

 

 

 

 我々は1985年以来長い間、”ウルグアイ・ラウンド” と言う言葉を、新聞やテレビで数え切れないほど聞かされていた。ラウンドとは丸テーブルのことで、ウルグアイ・ラウンドをスペイン語では、Mesa redonda de Uruguayと言う。丸いテーブルについて多角的な貿易のことを話し合おうと言う場のことである。2001年に新たなラウンドが中東のドーハで始まり、ようやくウルグアイ・ラウンドという言葉は消えた。
 

ウルグアイ・ラウンドが行われた
サン・ラファエル・ホテル

1986年に、120カ国以上もの代表が集まったGATTの総会が、ウルグアイ第2の都市プンタ・デル・エステ市で開催された。それ以来、ウルグアイという言葉だけが一人歩きしてきたが、殆どの日本人は、なんとなくサッカーが強い(そう思っている人も意外に少ないかも)国ということぐらいで、ウルグアイについて殆ど馴染みがないと思う。ウルグアイ・ラウンドが行われたのは、プンタ・デル・エステで一番大きく、カシノもあるサン・ラファエルと言う、ウルグアイでも有名な老舗ホテルである。2回ほど泊まったことがあるが、広さだけは一級だが部屋の中は古いので、当時は余り快適とは言えなかった。

ウルグアイ国会議事堂

 ウルグアイはもともと、ブラジルとアルゼンチン両国の緩衝地帯として創られた国で、正式な国名は“ウルグアイ東方共和国”と言う。アルゼンチンとの国境を流れる、ウルグアイ川の東に位置するからである。国内には高い山も谷もなく、ほとんど平坦なパンパが広がる、のんびりした農業国である。従って、この国を書こうとしても、特徴がなく文章の糸口を見つけるのが難しい。ブラジル、アルゼンチン両国の間にあるとは言っても、アルゼンチンとは川幅42キロの海のようなラ・プラタ川を挟んだ一衣帯水の関係であり、一口で言えば、ミニ・アルゼンチンというような感じがする。1980年代に南米各地で軍事政権が終焉を迎えた頃、ウルグアイも例外ではなく、文民政府に代わり、宗教的対立もなく、世界各地の紛争とも関係なく、誠にもって穏やかなのんびりした国だと言うのが私の印象だった。日本でも伝記映画が公開され、来日もした第40代大統領ホセ・ムヒカ(Jose Mu’jica、2010~2015在任)が登場したのもこの頃である。以前冷戦の時代に、核戦争が始まったとき、最後まで生き残る国は、ウルグアイとアルゼンチンとチリの南部だろう、なんて言われた時代があった。
 
牛車で野菜を運ぶ農夫
陶器製

 首都モンテビデオとブエノス・アイレスはラ・プラタ川を斜めに削いだような形に向かい合う位置にあり、飛行機で行くと、水面をかすめるように飛んで、離陸後僅か15分で着陸態勢に入る。勿論ベルトをはずす暇などはない。そんな近い位置にありながら、観光客向けに一晩かけてゆっくり走るフェリーボートもある。 また、ラ・プラタ川を挟んで、ブエノス・アイレスと正面に向き合う位置にある、サクラメント・デ・コロニアの町とは高速船で1時間で結ばれている。首都同士がこれほど近い関係にあるのと反対に、ブラジルとは陸続きでありながら、裏口同士の接触なので、どうしても、アルゼンチンとの関係が強くなるのは当然である。裏口のせいか国境意識が薄弱で、例えば、北部の大西洋岸でブラジルと国境を接している、チュイ(ブラジルではシュイと言う)と言う町などは、町の中を通る道の真中が国境で、道の両側で言葉違う。国や言葉が違いながら普通の隣人として付き合っているのだ。言葉はそれぞれが、ポルトガル語とスペイン語を理解し合っているので問題はないらしい。

椰子の実のガウチョの人形

 このような国だから、ウルグアイにはアルゼンチンに似ているものが沢山ある。その中でいくつかを上げるとすると、まず、国旗の色がどちらも水色と白であること、旗に画かれている太陽の顔のデザインが殆ど同じであること、そして代表的な音楽がタンゴであること。ご存知の向きもあるかもしれないが、アルゼンチン・タンゴの代表的名曲と言われる“ラ・クンパルシータ”は、ウルグアイ人のエラルド・エルナン・マトス・ロドリグエスと言う人が作った曲である。50年の著作権保護期間はとっくに過ぎで、今では誰でも自由に演奏する事ができる。大袈な言い方をすれば、世界中のどこかで、毎日演奏されていると言われるほどの名曲である。それに、ワインはウルグアイでも造ってはいるが、高級品はアルゼンチン・ワインが圧倒的であり、電話もブエノス・アイレスからは国際通話ではなく、アルゼンチンの市外通話扱いである。さらには、アルゼンチンにしかいないと思われている、ガウチョ (放牧している牛の面倒を見る人、カウボーイ) もウルグアイには大勢いる。勿論代表的料理だって、アルゼンチンと同じ“ビッフェ・デ・チョリッソ(ビフテキ)”である。

モンテビデオ湾西側に聳えるモンテ(山)の丘

 
 首都モンテビデオの街並みは、アルゼンチンに住んだ人間には誠に退屈だ。ただ、金融業務は経済の安定化を背景に、以前から自由経済政策がとられていたため、幾たびかのアルゼンチンの経済危機の都度、金持ちが外貨をウルグアイの銀行に緊急避難したという話を随分と聞いたものである。モンテビデオの港は日本の南大西洋の漁業基地にもなっており、その人達を相手にする日本料理店もある。
ウルグアイの民族衣装
両国を分けるラ・プラタ川は、一番広い川幅が42キロもあり、岸からは対岸が見えない海のような川である。川幅の約3分の1くらいまで進んだ辺りで、漸く高いビルの屋根が見えてくる。 川の色は上流のパラナ川が運んでくる鉄分のために赤茶けた色で透明度はほぼゼロに近い。それでも子供達は水に潜り鯰などを獲っている。赤銅色の水は400キロ下流の大西洋まで続いている。
 
 ラ・プラタ川は河口の幅と長さがともに約400キロで、川と言うよりは三角形の湾のような形をしている。この河口に位置するのが、ウルグアイ・ラウンドの行われたプンタ・デル・エステ市である。モンテビデオから約140キロ東で、ラ・プラタ川が大西洋に注ぐ突端に当たる。そのため、市の名前が、プンタ・デル・エステ(東の先端)と言うのだ。この街は、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロ、アルゼンチンのマル・デル・プラタと並び、南米大陸大西洋岸の3大リゾート地の一つである。 ラ・プラタ川の赤茶けた水の色は、漸くこの辺にきて色が薄れ、本来の大西洋の色になってくる。市内には豪華マンションやホテルが立ち並び、ヨット・ハーバーには高級ヨットが浮かび、立派なゴルフ場もあり、夏のバカシオンには外人で溢れる。特に多いのがアルゼンチン人で、リゾート施設で働く人以外の一般のウルグアイ人には無縁の都市になる。

陶製の動物人形、
世界的に有名である

 ほぼ100%の農業国なので、ウルグアイの産業も農産物と牧畜業、その加工品といったところが主な物である。以前、ウルグアイの友人に、機械産業はないのかと聞いたとき、彼は、ウルグアイにも自動車産業があると答えたのに驚いた。それは実は、クラシック・カーの部品を作る工場の事だったのである。ウルグアイには20世紀末までは、1920~30年代のT型フォードのような年代ものの車が走っていた。キューバで走る古い米国産自動車は1950年代のものだから、更に古い時代のものだ。21世紀になって、さすがに今は殆ど走っていない。クラシックカーの手入れが出来る国は世界遺産にならないだろうか。
  内陸部は緩やかな傾斜地が多く、直線の道は遥か彼方の丘の稜線を横切り、上下に波を打って伸びている。古い鉄道も走っており、”今は山中、今は浜・・・・”と言う昔の小学校の唱歌を思い出させる。中央部を流れる“ジ (Yi)川”と言う川があるが、おそらく世界一短い名前ではないだろうか。
 
 ミニ・アルゼンチンのような国なので、民芸品にも特に目新しいものは少ない。ただ、アルゼンチンにないものとしては、オットセイの毛皮の敷物と、毛皮を使った動物人形があった。オットセイの毛皮は一見牛の毛皮と見間違えるが、両方の“ひれ”に当たる場所に大きな穴が開いているのが特徴であった。もうだいぶ前に捕獲禁止となり禁制品になって、毛皮などはとっくになくなった。
 それと、陶器の小さな動物の人形があるが、これは世界市場での民芸品で、大分前から日本でも売っている。ウルグアイから、どうしてこんな物だけが、輸入されるようになったのか不思議でならない。この他には、南米では珍しくないアメジストを細工した装身具が多い。もともと宝石より一段価値の低い輝石なので、かなり手ごろな値段で売られている。石の台には銀が多く、南米はどこの国も同じだが、金台は14Kが大部分である。

 

瓢箪の人形

 ところで“民芸品の旅”というタイトルとは、全く縁のない話であるが、モンテビデオを語る時にどうしても、忘れてはならないことがある。本題とは大分横道に逸れることをお詫びして、この話をしたいと思う。  それは、70歳後半以上の人たちは記憶している人もいると思うが、第二次世界大戦初期の1939年(昭和14年)に、ドイツの豆戦艦グラフ・シュペー号が、南大西洋で英国艦隊に追われて、中立国であったウルグアイのモンテビデオ港に逃げ込み、最後に自爆した有名な話である。シュペー号は、長い間モンテビデオ港外に沈んだままだったが、1995年4月に、ウルグアイ海軍と英国のオックス・フォード大学による合同調査が行われ、50年以上も川底に横たわっていた悲劇の戦艦の残骸の様子が明らかになった。そのときの現地の新聞記事を要約して紹介する。
 
【ドイツ豆戦艦グラフ・シュペー号の最後】
(ブエノス・アイレス日刊紙、クラリン、1995.4.24)
 
 ≪シュペー号がモンテビデオ沖に沈んだのは1939年12月17日のことで、シュペー号の艦長ハンス・ラングスドルフの決断によるものである。艦首には当時爆発しなかった爆薬が未だに残っており、ウルグアイ海軍にもどの位の量の火薬が残っているのか分かっていなかった。このため、105ミリ大砲の引き上げには細心の注意が払われた。当時の自爆の様子を知る、ウルグアイ人のバド氏は次のように語っている。

シュペー号の錨、
今では自国民にも殆ど忘れさられている

 『シュペー号の艦長と士官達は、砲弾の火薬を利用した爆薬を艦尾と機械室付近及び艦首の3か所に装置した。この爆薬は艦長がシュペー号から離れる時に乗ったランチから操作し、同時に爆発するはずであったが、艦尾と機械室の2か所が始めに爆発し、その衝撃で艦体が激しく揺れたため、艦首の爆薬装置が作動せず不発に終わった。爆発は艦尾にある100トンを越す口径280ミリの3つの砲座から始まり、破片は60メートルの高さまで飛び散った。さらに、火薬庫に近い機械室からも大爆発が起こった。
 排水量1万2千トン、長さ185メートル、幅22メートルの艦体は真っ二つになって、右に50度傾き川底に横倒しになった。しかし、艦首の下に仕掛けられた爆薬は爆発せずに、今日まで不発のままであった。いつ爆発するか分からないので、潜水グループが艦首に入るときは細心の注意が必要であった。この調査で大砲と船体の一部が引き上げられた≫。
 地元の歴史研究家メディアナ氏は 『シュペー号は12月17日夜8時、モンテビデオ港から凡そ7キロ沖のプンタ・ジェグーナで自爆したもので、当日は日曜日とあって、凡そ20万人の人々が海岸でこの世紀のスペクタルを見物した。また、港の周辺では80隻を越す船舶が見物していた。英国艦隊との海戦を避け、シュペー号の千人以上の乗組員の命だけでなく、英国艦隊の乗組員をも救ったラングスドル 【シュペー号の錨、今では自国民にも殆ど忘れさられている】フ艦長は、ウルグアイ人の間で未だに賞賛に値する人物として尊敬され、この事件は今日までウルグアイの民族的歴史として伝えられている』と語っている。
 
 シュペー号はその後引き上げられたと聞いたが、日本では全く歯牙にもかけられない話で、何も伝えられなかったと思う。シュペー号の話の他にも、1923年(大正12年)に、日本の軍艦 「浅間」 から脱走したと言われる機関兵の話があるが、詳しいことは何も分からない。遠い遠い時代の遠い遠い国のお話である。
(ウルグアイ編おわり) 
 
 

 

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第6回

 

 

 

 ブラジルはとにかく広い国だ。南北と東西の距離は凡そ4300キロでほぼ同じであり、日本の23倍もある。しかし、このような面積の比較では、なかなか大きさや広さが想像できないので、日本とブラジルの、国内における社会的文明的水準の格差の大きさで比較して見ると、また違った見方が出来る。

ブラジル大聖堂、
キリストがかぶった荊の冠を模した。
ガラスとコンクリート製

つまり、ブラジルと言う国は、人跡未踏の無人地帯や、アマゾン奥地のヤノマミ族のような裸族の住む原始的社会から、大西洋岸の世界的大都市、そして まだ、ようやく半世紀あまりの歴史(2020年で60歳)しかない、超近代的首都ブラジリアまでの文明発展の時間格差は、数百年もの隔たりがある国である。
 反対に日本には、このような地域間の発展の落差は、今は殆どなくなったと言ってよいと思う。今ではどんな僻地や孤島でも、地図に載っていない場所などないし、少なくとも定住者のいる所には電話は皆自動で繋がるし、郵便や宅配便の届かない場所はなく、映画は全国で一斉に封切りが見られるし、流行ファッションもすぐに全国津々浦々に普及する。

コルコバードの丘のキリスト像

 こんな広い国でも、1億5000万人を超える人口の90%は、大西洋沿岸の都市部に集中している。南米最大の近代都市サンパウロは人口1100万人で全人口の7%が住み、ブラジル経済の中心地である。サンパウロの外港でブラジル最大の貿易港サントスは、1908年に日本からの始めての移民が上陸した所である。しかし、この周辺には観光ポイントは少ない。
 
サンバ行列の先頭の旗人形

 人種の坩堝と言われるブラジルでは、移住してきた人種は、どうゆうわけか、北緯と南緯を逆にした自分の本国と同じ緯度付近の土地に住みたがると言われる。例えば、日本人はサンパウロやその近郊に、ドイツ人は南部に、黒人は北部にという具合である。サンパウロに住み着いた日系人は、リベルダージ地区のガルボン・ブエノ通りを中心に、日本文化を受け継いだ街並みを作っている。       
 第2の都市、リオ・デ・ジャネイロは人口600万人で、経済ばかりでなく文化の中心地であり、南米大陸の大西洋岸有数の観光地でもある。華やかなサンバのカーニバル、贅沢なリゾート海岸、絶景のポン・ジ・アスーカルなど、いくつもの観光要素を備えた国際的大都市である。

ウハカの丘の向うに屹立する
ポン・ジ・アスーカルの奇岩
(リオデジャネイロ)

 ポン・ジ・アスーカルは丁度ラグビー・ボールを半分にしたような奇岩が、手前のウルカと言う丘の先に聳え、常に一体で眺められる。市内から見ると丁度オットセイが首を持ち上げたような、あるいは亀が首を伸ばしたような格好に見える。リゾート海岸はポン・ジ・アスーカルに近い方から南へ、コパカバーナ、イパネマ、レブロン、サン・コンラードの順に続く。名前が変わっても、別に海岸に仕切りがあるわけではなく、砂浜をづっと歩いていける。砂浜を眺める海岸には高級ホテルやマンションがびっしり立ち並んでいる。
 ポン・ジ・アスーカルと並ぶ観光ポイントが、海抜710メートルのコルコバードの丘に立つ、白いキリスト像である。高さ30メートル、横一文字に広げた両手の幅は28メートルもあり、重さは145トンもある。市内の何処からでも見られ、特に夜はライトを浴びて夜空に怪しく浮かび上がる。

ペルナンブコ州の素焼きに色を付けた人形

この丘ばかりでなく、リオ市内には急斜面の丘が多いが、その山腹には"ファベーラ"と言う、貧しい人たちの部落がひしめいている。リオで一番貧しい人たちが、一番良い景色を独占しているとして、市当局は何十年も前から、立ち退きを要求しているが未だに実現していな。そうは言っても、ほんの一瞬ブラジルに立ち寄るだけのパック・ツアーでもブラジルを代表する二つの都市(リオとサンパウロ)だけは見たいものだ。
 ブラジリアは、"50年の進歩を5年で"というスローガンの下に、当時の権力者クビチェック大統領が自分の任期中の完成を目指し、1953年から建設がはじまり1960年に完成した超近代都市である。
ピラニアの剥製
左前は魚の化石
完成から2020年で50年になるが、半世紀以上も経ったいまでは木々も大きくなり、市街地も膨らみ落ち着いてきてはいるが、奇抜な建築物が随所にある珍しい光景である。建築家や都市計画に関心のある人々には興味ある所であろうが、なにせ歴史がないので古い物を見たい人間には今一つ魅力を感じさせてくれない。

 ブラジルの地勢は大きく分けて、北部のアマゾン川流域地帯、中央部から南東部のブラジル高原地帯、南部のラ・プラタ川流域の平野部となっている。これだけ広い国だと、各地域の産物も違うし、文化習慣も違うので、自ずと手工芸品なども、地域の特色のある物が作り出される。

水草の上に住むヌートリア
(上の黒い部分)


 北部のアマゾン川地域の民芸品としては、獰猛な肉食魚ピラニアの剥製が有名である。大西洋に突き出た形の東部のバイーヤ州では、木彫りでできた人形や人物像などが特産だし、隣のペルナンブコ州の、素焼きに泥絵の具を塗ったような人形、椰子の実を使った物入れなども価値がある。
南部の平野部は、なだらかな丘陵地帯が果てしなく続いている草原である。牧畜が盛んなので牛の皮を使った動物の人形や、アルゼンチンでよく見るマテ茶の壷などの民芸品が目に付く。南部最大の都市ポルト・アレグレから最南端のウルグアイとの国境の町シュイ(スペイン語ではチュイ)にかけては大きな湖が連なる湿地帯になっていて、水面に繁茂している草の上には、ヌートリアと言う体長60センチくらいの "南米川鼠” が住んでいる。
 ヌートリアの毛皮は、女性のコートに最適で、加工方法によってはミンクと同じように見える。毛の手触りがミンクより若干固く、目方が少し重いのがミンクとの違いで、値段はミンクの10分の1くらいである。

バイーア州の革細工人形

ヌートリアはとてもすばしっこい動物で、人の気配がするとすぐ水に潜ってしまい、網などではなかなか獲れない。獲り方は魚を釣る要領で、糸に餌をつけて投げ、咥えたところを釣り上げるのである。
アルゼンチンでは、ヌートリアを養殖しており、同国の主要な産物である毛皮製品の原料として重要な地位を占めている。近年は日本でもちょくちょく出没して話題になる。

蝶々の羽を埋め込んだ
トレイと椰子の実の
物入れ

 アルゼンチンとの国境に跨るイグアスの滝付近には、世界的にも貴重な蝶がたくさん生息していて、近年捕獲が禁止されているにもかかわらず、この美しい羽を細工した工芸品が観光客を喜ばせている。数年前まで、東京豊島区の北池袋に個人の収集家がアマゾンへ行って集めた、蝶のコレクションで有名で「昆虫博物館」があり、ここだけにしかない標本もいくつかあり貴重な博物館であったが、本人が亡くなった今はどうなったか。散逸したとしたら勿体ない話である。       
 この他にも、木や魚類の化石がたくさん掘り出されるようで、化石そのままのものの他に、加工して文字盤にした時計とか、灰皿、置物などもたくさんある。また、ブラジルは、ダイヤモンドだけは採れないという、世界的にも有数な宝石・貴石の産出国なので、アメジスト、トパーズ、アクアマリン、ガーネット、エメラルドなどの貴石を使った、鳥、ミニチュアの盆栽、動物、壁掛けなどが作られている。
 全国各地の民芸品は、リオ・デ・ジャネイロやサンパウロの民芸品店で売られており、少し歩くだけで十分手に入る。各地のものの他に、リオの誇るサンバの祭典で踊り狂う、華やかな踊り子達を模った人形はリオならではの高価な民芸品である。それぞれの人形は、高さがせいぜい20センチ足らずのものが多いが、顔の表情一つとっても、衣装のデザインにしても、実に精巧に出来ている。顔はブラジル特有のメスティッソ(白人と黒人の混血)の美人で、衣装には2~3ミリの金銀色のスパンコールを一つづつ縫い合わせ、赤や水色に染めた鶏の羽をドレスの裾に縫い付けてある。
民芸品の範疇ではなく、純粋な宝石を使った装身具、装飾品は数え切れないほどの種類があるが、本題と外れるので取り上げないことにした。ただ、イグアスの滝について、一般的に誤解があるので、この部の付録として触れておきたいと思う。

【イグアスの滝】
(正確にはイグアスー(iguazú)と語尾にアクセントがあるのでスーを上に発音する)
 
 イグアスの滝はブラジル、アルゼンチン、パラグアイ3国に跨ると書いてある案内書があるが、これは大間違いである。滝は我々の国のものと信じている、ブラジル、アルゼンチン両国の権威と名誉のためにも詳しく説明しておこう。
 地図のように、イグアスの滝の下流では、パラグアイ北部を源流とするパラナ川が北から南に流れ、西側はパラグアイである。そこへブラジル南部を源流とするイグアス川が東から流れて来て、パラナ川に突き当たってT字路を作っており、北がブラジルで南がアルゼンチンである。T字路から南東へ20キロ上流でイグアス川が南から”Uターン”するように曲がっているため、外側に当たる南のアルゼンチン側の岸は大きく抉られて広くなり、凹凸も激しく、ブラジル側はカーブの内側なので川岸は単調である。落差が付いた所が滝になっている。このように、パラグアイは滝には全く触れていない。
 滝はブラジル側とアルゼンチン側から互いに眺め合うような形になっていて、それぞれが全く違った特徴をみせている。このため、本当の姿を鑑賞するにはどちらかの国のホテルに泊まって、両方から眺めなくてならない。

 空ら見たブラジル側の滝
右奥の滝との間が広くえぐれている

 

 ブラジル側は1か所から眺められるが、アルゼンチン側には大小合わせて数十もの滝があり、それぞれの滝には固有の名前がついている。大小の滝の縁を縫うように遊歩道があり、歩きながら眺められるようになっていて、所々に展望台がある。今では遊歩道に沿ってトロッコ観光列車が走っている。
 その中でも圧巻は落差80メートルもある「ガルガンタ・デル・ディアブロ(悪魔の喉笛)」と言う大きな滝だ。見所の特色を一口で言うなら、個々の滝の迫力を見るならアルゼンチン側、エリザベス女王が"ナイヤガラの滝が可哀想"と言った程の雄大なパノラマを見るならブラジル側ということになろう。

 この記事の原文を書いたのは大分前になるが、その後のブラジルは政治経済、それに自然環境などで、目まぐるしい大きな変化があり、今またコロナで大混乱の真っ最中であるが、観光記事には縁がない話なので、触れないことにした。
(2021.7.5)
 
(ブラジル編終わり)
 

 

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第5回

 

 

 

 かって、メキシコのことを「天国に一番近く、アメリカに最も遠い国」と言った人がいる。これになぞらえて言うと、ベネズエラはさしずめ「アメリカに一番近く、南米に一番遠い国」と言うことができるかもしれない。
 
 

南米最大の湖マラカイボ湖
に林立する油田櫓

私にとっては、南米の国々の中で、ベネズエラが最も馴染みの薄い国である。一度しか行ったことがないし、それも僅か1週間の滞在だったからだ。その短い滞在の中でも一番印象的だったのは、巨大な高層ビル群や、急速にアメリカ化をもたらした象徴である米国製の車の多いことであり、このことから、ここは、もはや南米ではないと感じたものである。実際にフロリダにはほんの一ッ飛びで行ける。金持ち階級などは、ちょいとした買い物などに、時には日帰りで、フロリダへ行くそうである。南米らしい魅力を感じなかったのも、当然だったのかもしれない。
 

ギアナ高原のアンヘルの滝

 この国は南米大陸解放の二人の英雄の一人、シモン・ボリーバルが生まれた国である(もう一人は、アルゼンチン生まれのホセ・サン・マルティン)。首都カラカスで生まれたボリーバルは、今でも国民崇拝の的で、カラカス中心部にあるボリーバル広場には、馬に跨ったボリーバルの銅像が立っている。通貨の単位もボリーバルである。
 アメリカ化に伴い、貧富の差が広がり、地方の町や村からカラカスへ出てきた人が多く、彼らは周辺の丘の中腹などに掘っ立て小屋のような家を建て住み着いた。大きな道路を走っていると、一方が高級住宅地で、反対側が貧民街という全く対照的な光景を幾度となく見た。
 このような光景は、リオ・デ・ジャネイロでも見られる。リオのキリスト像が立つコルコバードの丘から北方の斜面に群がる、古い映画「黒いオルフェ」や、2000年に封切られた映画「オルフェ」、2008年の「シティ・オブ・メン」などの舞台になった、混沌とした住宅密集地帯である。
 

コロニア・トバール
民芸品店(カラカス)

 カラカスから西へ500キロ行くと、南米最大の湖マラカイボ湖がある。狭い入り江でカリブ海と繋がった、大きな潟のような湖である。この付近一帯はベネズエラ経済を支える石油の宝庫で、湖面には油井櫓が林立している。湖上や周辺には今でも原住民のグアヒラ族が住んでいる。

 一方、南部のブラジルと国境を接する地域は密林地帯で、ここを水源とする全長2500キロのオリノコ川はベネズエラの中央部を流れ大西洋へ注ぐ。オリノコ川の東側には広大なギアナ高地が広がっている。ここには世界的に有名な、"アンヘルの滝(エンジェル・フォール)"がある。しかし、2010年1月に、国民の人気とは裏腹に、世界的に悪名高いチャベス大統領が、この滝の名称を、ベネスエラ古来の財産だと言うことから、発見者エンジェルの名前は怪しからんとして、「ケレパクパイ・メル Kderepakupai Meru」という難しい発音の現地名に変えてしまった。

原住民が踊りにかぶる面

 先にも述べたように、やたらにアメリカ・ナイズされたベネズエラは、ラテン・アメリカの魅力を求めてやってくる外国人観光客には余り魅力がない国であるが、南東部のオリノコ高地には、テーブルマウンテンやサルト・アンヘル (英名:エンジェル・フォール)で有名なギアナ高地がギアナ三国まで続いている。落差1000メートルもある、このアンヘルの滝だけは、文句なしに第1級の観光ポイントであろう。この他にもギアナ高地には、「失われた世界」の舞台になった"ロライマ山"や、映画「パピヨン」の主人公が投獄された城砦牢獄"ラス・コリーナス"などがある。
 カリブ海には、ロス・ロケス諸島やマルガリータ島などのビーチリゾートがある。アンデス山脈の観光地としては、メリダがある。ここには世界最長のロープウェイ(全長12.6 km)があり、そこの最高地点ピコ・エスペホからベネズエラ最高峰のボリバル山(5007m)へ行くことができる。

マラカイボ湖近くに住む
原住民グアヒラ族が作る
手工芸品

 ベネズエラは大都市の発展に比べ、地方や僻地は未開発のまま放置されており、奥地にはまだ裸族が暮らす密林が残されている。こうした現状から観光資源の開拓も遅れていて、これに合わせるかのように、民芸品などの特産物も少ない国なので、それも私に魅力を感じさせてくれない理由の一つかもしれない。
 
 数少ない民芸品を上げるとすると、カラカス郊外にある、コロニア・トバールと言うドイツ人移民の入植地で作られる陶芸製品、カラカス市内の民芸品店で売っている人形、原住民の祭りに被るお面、置物等である。

 悪魔の面の人形
(サンフランシスコ
 ・ジャトーレ村)

 それに、マラカイボ湖の周辺に住む原住民グアヒラ族が作る色鮮やかな織物製品などがある。グアヒラ族の手工芸品の中では"チンチョロス"と言うハンモック、色彩豊かな膝掛け、敷物、ポンチョ、帽子などが目を引く。また、サンフランシスコ・デ・ジャーレ村の悪魔のお面を被った人形や、ララ州のグァダルーペ村の鳥や人形をかたどった木彫り細工なども目を楽しませてくれる。この他に、沿岸の島で作る椰子の実細工や麻細工なども、民芸品としての価値がある。 
 
 南米諸国はどこも同じようであるが、国内の主要都市間の交通は一般庶民階級は長距離バスが主であるが、ビジネスには飛行機が一般的である。一時期、飛行機事故が多発したこともあった。ここ数年は殆ど事故の話しを聞かなかったが、2008年の2月に、西部のメリダからカラカスへ向かっていた、サンタバルバラ航空の双発ATR42-300型機がアンデス山中に墜落した。乗員・乗客46人が乗っていた。
 
  ベネズエラは、中央アメリカから広がるトウモロコシ文化圏の国であり、アレパと呼ばれるトウモロコシから作るパンのようなものが一般に食べられている。飲み物としては、ロン(ラム酒)が広く飲まれており、お茶やコーヒーの代わりに熱したチョコレートを飲む習慣もある。スペイン料理やイタリア料理も一般に食べられている。民芸品と旅のお話はこの辺で終わり。もし興味があったら下を読んで下さい。
 
 
現代のベネズエラをちょっとだけ
(民芸品とは関係ないので読まなくても結構です)

 1914年、フアン・ビセンテ・ゴメス時代にマラカイボ湖で石油が発見されるまでは、ベネズエラはコーヒーとカカを主としたプランテーション農業の国だったが、1930年代には石油輸出額が第一次産品を抜き、1950年代にアメリカ、ソ連に次ぐ世界第三位の産油国となった。その後1970年代を通して高成長が続いたが、原油価格が下落した1983年を境に急落し続け、2002年には1960年の水準にまで落ち込んだ。貧富の差が著しく一部の富裕層に富が独占された。

(左)カラカス郊外のドイツ人入植ヒトバールの陶器
(中・右)土産用の小さな人形

その後、1998年に左派のチャベス大統領が登場し、医療の無料化や低所得者への手厚い政策で人気を維持し、格差是正等の貧困層重視の政策が試みられ、原油価格の高騰の恩恵を受け、貧困層への財政支出拡大等の効果により貧困率が改善し経済も好調となっていた。だが、その後の原油価格の下落や政策の失敗などにより経済状況は徐々に悪化し、特に2010年代に入ってからは市場原理を無視した政策によりハイパーインフが慢性化し、市民生活が混乱に陥り、多くの国民が貧困に喘いでいる。
 
 それでも強気に反米政策を推し進めており、2010年には長年親しんできた「ベネスエラ共和国」の国名を、「独立の父」と崇めるシモン・ボリーバルの名を冠し、「ベネスエラ・ボリーバル共和国」と改名してしまった。前記のエンジェルの滝の改称とともに、自分の存在の誇示に躍起である。
 
 ベネズエラにおいては、富裕層が所有するメディアにより、反チャベス的内容のものが報道されることが多かったが、チャベス政権成立以降は、チャベス大統領に批判的な放送局が閉鎖に追いやられたりするなど独裁色が強められた。チャベス派は、反市場原理主義、反新自由主義を鮮明に掲げ、富の偏在・格差の縮小など、国民の大多数に及んだ貧困層の底上げ政策が中心で『21世紀の社会主義』を掲げている。
 しかしながら、チャベス政権以前の旧体制派である財界との対立による経済の低迷や相変わらず深刻な格差・貧困問題、特に治安の悪化は深刻な社会問題となっており、それらを解決できないまま、2013年3月5日、チャベスはガンのため没した。

マドゥロ政権時代
 チャベスの死後、その腹心であった副大統領のニコラス・マドゥロが政権を継承した。国際的な原油価格の低下と価格統制の失敗により、前政権時代から進行していたインフレは悪化し、企業や野党勢力のサボタージュも継続するなどマドゥロ政権下においても政情不安は続いた。マドゥロはチャベス時代の反米路線と社会主義路線を踏襲して企業と敵対し、また野党とも激しく対立している。 
 マドゥロは、野党連合民主統一会議の早期再選挙の要求を却下し、代わりに憲法の修正による改革を提案した。しかし制憲議会選挙が「一人一票の原則」を無視し、通常の1票に加えてマドゥロが指名した労組や学生組織など7つの社会セクターに所属する者に2票を与えるという前例のない与党有利の選挙制度になっていたことから野党に強い反発を巻き起こし、全野党が立候補せず、選挙をボイコットした。
 2017年7月31日、制憲議会 (Asamblea Nacional Constituyente) の議会選挙が実施、野党候補がボイコットした事で全候補が与党から出馬、政権に対する「信任投票」と位置付けられ、街頭での衝突も内戦寸前の状態に陥った。軍や警察は政府側を支持して行動し、民間人と警官・兵士双方に死者が発生した。同日深夜、マドゥロは統一社会党が全議席を占める制憲議会の成立を宣言した。宣言により国民議会は廃止され、ベネズエラは事実上の一党独裁体制へ移行した。

マドゥロ政権下のハイパーインフレ
 チャベス権期から開始された「21世紀の社会主義」政策は経済活動の硬直化を招き、その過程で行った主要生産設備や企業の強制的な国有化と、それに伴う利益を度外視したずさんな経営 により、物資不足と二桁以上のインフレが常態化している。2013年以降のベネズエラ経済は、ハイパーインフレの危機的状況を迎え、2016年1月にマドゥロは経済緊急事態を宣言する事態となったが、食料品の高騰がつづき、日用品不足が深刻となる、国外へ脱出する国民も多数に上っている。
 豊富な原油を背景に、世界幸福度報告では2015年には23位、2016年の44位と比較的上位に位置していたが、2017年には82位と順位を急速に低下させた。アメリカの前大統領トランプは「チャベスとマドゥロの社会主義は、原油埋蔵量世界一の国を電気も灯せないまでに荒廃させた」と批判している。(ウイキペディア等よりダイジェスト) 
おわり
(2021.6.10記)
 

 

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 樫村さんへのメッセージ


◆ 最近の状況、たいへん参考に!

ベネズエラの最近の状況、気になっていたのですが、よくわかりませんでした。要領よく解説いただき、ありがとうございました。

06/13 楳本 龍夫


 

 

 

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第4回

 

 

 

 飛行機の窓から眺める富士山は美しい景色である。でも、この富士山のような美しい山が3つも見えるグアテマラの光景は、3倍とまでは言わないまでも素晴らしい風景である。

 飛行機から見た美しい山々:
3つが重なって2つに見える。
下方はグアテマラ市街

グアテマラ市内の高級住宅地に近い、ラ・アウロラ空港に発着する飛行機からは、天気がよければ、これらの山がいつも眺められる。
 グアテマラ全土には火山が多く、タカナッ、タフムルコ、サンタ・マリア、スニル、サン・ペドロ、トリマン、アティトラン、フエゴ、アグア、パカジャ、スチタン、イパラなどと、この狭い国土の中に、10を超える火山が聳えている。地震帯の真っ只中に位置しているので、M7級の大きな地震も多い。
 富士山のように美しい3つの山とは、グアテマラ・シティの西150キロにある、「世界一美しい湖とグアテマラ人が自慢する"アティトラン湖"の周りに聳える、サン・ペドロ、トリマン、アティトランの、いずれも3000メートルを越す火山群である」。世界一はおこがましいと思うが、レイアウトを分かりやすく言えば、伊香保の榛名湖とその後に聳える榛名富士を三つ並べて、全体を10倍位にした風景だと思って頂ければ良い。
花が咲き競うホテルの庭でマリンバの演奏

 それほどグアテマラという国は自然が美しい国で、穏やかな気候に恵まれていることもあって"永遠の常春の国"とも言われている。都会にも田舎にも一年中四季の花が咲き乱れている。ちょっと歩いただけでもハカランダ(ジャカランダ)や、ブーゲンビリア、ジェラニュームなどが目に入る。七色に彩られたような美しいホテルの中庭からは、時折この国特有の楽器であるマリンバ(注)の、"からからころころ"と言った澄んだ音色が響いてくる。 中米最後のグアテマラの内戦が終わったのが1996年12月だが、やはり平和は有難いものである。ただ生活は苦しく、、米国に向かって行進する難民の行列は新聞をにぎわせる。
(注)木琴を大きくしたようなものに木の共鳴装置をつけた打楽器。

サン・ペドロとアティトランの代表的火山

 南西部の太平洋側の火山群とは対照的に、北東部カリブ海側の低地地方には、密林に覆われたマヤの遺跡が多い。有名なティカル、コパンを始め、キリグア、セイバル、ウアサクトゥンなどの遺跡が密林の中に眠っている。時間の許す旅であれば、これらの遺跡群も、民芸品の収集などとは別に、グアテマラアを知るには是非とも見たい観光ポイントである。

 30年位前までは、グアテマラのことを「今のグアテマラは本来のグアテマラではない。真のグアテマラには存在在しない」 と言われていた。その理由は、地勢的にも社会的にも統一国家を形成するには不向きな要素が多すぎると言うものであった。そのためか、長い間内戦が続いていたのである。 

1773年の大地震まで首都だったアンティグア市

 しかし、実際にこの目で見て見ると、住んでいる人たちは、マヤ族の後裔が殆どで、性質は他の国のインディヘナと同様に、温和で従順である。1996年12月29日まで、36年間も反政府軍との内戦が行われていたのが信じられない。この戦争で主に地方の住民が28万人もが死んだ。この終焉により、中米各地で長い間続いていた内戦は全て終わり、中米の細い地峡に平和が訪れた。

 グアテマラの人々は、メキシコ南部からグアテマラ、ベリーズにかけて勢力を伸ばしていたマヤ族共通の文化を持っており、生活様式はあまり変わらない。

陶器の民芸品の店:
アティトラン湖畔
ノサンタ・カタリーナ・バロポ村

日本の観光会社が主催する"秘境ツアー"(この地方を秘境と言うのは大変差別した言い方だと思ううのだが)で知られる、北西部のアルト地方(山岳部)の町や村は、生活様式に昔からの伝統を守っており、民芸品の宝庫である。民芸品としては、いずこも同じように、人形や陶製品、木彫り、壷などであるが、やはり何と言っても、グアテマラの民芸品はマヤ文化を今に伝える織物製品で、各地独特の色合いを持った衣装や、敷物類は傑出しており、同じような織物を使ったカバンなども実用的価値が高い民芸品である。

 郷土衣装を着た人形:
(左)チチカステナンゴの人形
(右)トトニカバンの人形
(中央)蛙の入ったペーパークラフト

 変わったところでは、遺跡から掘り出したと言う陶器や、その破片を骨董品として売っている。ところが、これらはとんだ食わせ物で殆どが偽ものである。高いお金を出して買おうものなら、跡で後悔すること間違いない。売っている店では、さも貴重品のように特別のガラス・ケースなどに入れていて、証明書も付いているなどと、まことしやかに勧めるのである。

 これらの民芸品は地方の町でも勿論売っているが、なんと言ってもグアテマラ市の旧市街にある、政庁と広場を挟んで立つ大聖堂の裏の大市場が有名だ。ここには、国中の手工芸品が揃っている。地下は住民の日用品、食料品などの店で、1階が全部民芸品店になっている。余談であるが、政庁は一部が観光客に開放されていて、2階の大広間にはグアテマラ全土の道路原標が立っている。

マヤ時代の衣装を着た人形達:
国立考古学博物館
(グアテマラ市)

東京の日本橋にあるのと同じようなものだが、建物の中にあるのは珍しい。また、グアテマラ市にある、国立考古学博物館には、マヤ文明の全てが陳列されており、複雑なマヤ文字や彫刻品、それに年代順の衣装や生活道具などの変遷の様子が見られる。

 1773年の大地震で壊滅するまでの首都であった、アンティグア市には、各地の織物や民族衣装を集めた博物館がある。陳列品は、衣装の他に敷物やテーブル・センター、クッション、紐類、帽子などである。アンティグアには、この他に、民芸品ではないが、木綿製品の優れたものがある。

民族衣装博物館の各地の織物
(アンティグア)
 先に述べた、アティトラン湖の岸にある村々は、村によって着ているウイピル(村の女性の衣装)の色が違う。生地の毛織物は殆ど自分達の村で織る。大体の基調色は紺青や紫、緑系のもので、これに鮮やかな赤が混ざる。村によって模様やデザインが違っており、着ているものを見るとその人が住んでいる所が分かるらしいが、我々にはどこの村のものであろうと美しさには変わりはないように思える。
(後)木彫りの壁掛け
(中)マヤの石像ミニチュア
(前左)アンティトラン湖風景画置物
(前右)陶器の梟の人形
また、この湖の湖畔では、陶芸品を焼く窯場も多く、題材は、ここでも鳥を取り上げたものが多いようだ。値段はグアテマラ市内で売っているものの4分の1程度でかなり安い。

 民芸品を買う時は、色違いとか大小を揃えるなどの買い方が理想的だと思うのだが、陶製品のように目方の張るものや大きなものは、持ち運びが大変なので、買い控えてしまうことがしばしばあり、後で後悔することがよくある。

グアテマラア編終わり
 
つづく
 

 

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第3回

 

 

 
 キューバはリズムの激しいラテン音楽の源泉である。ルンバ、ソン、マンボ、トゥローバ、チャチャチャ、ボレロ、コンガ、サルサ、グアラッチャなど、ラテン音楽で我々の良く知っているリズムは、みなキューバから生まれたようなものだ。
 
 街角の即興バンド
ハバナの市内では、ちょいとした広場や市場の中庭などで、数人のバンドがしょっちゅう演奏しているし、地方の国道沿いのドライブインや、レストランなどでは、観光客へのサービスに一生懸命楽器を鳴らしている。

 内務省広場のゲバラの電光絵
カストロの革命以降アメリカから経済封鎖を受けて国内は疲弊し、あまつさえ、ソ連の崩壊で最大の輸出産業である砂糖の最大手のお得意様を失った中で、キューバは音楽のお陰でどうにか外貨を稼いでこられた。外貨稼ぎの王様は、スポーツ(選手やコーチとして)の輸出?と、音楽の輸出だと言われる。そうでありながら、長い間、国内にはCDの生産工場がなかった。
 

ラテンアメリカスタジアム
広告が全くない

このため、カナダやコロンビアの企業と提携して、音楽の原版だけを国内で作り、これを輸出して、そこで大量生産していたそうだ。
 2000年~2001年は日本でもどうゆうわけかキューバ・ブームだった。ブエナ・ビスタ・ソシアル・クルブと言う、50年も前の年寄り楽士達のグループが蘇り、ヨーロッパや米国で大人気を得て日本にもやってきた。ブームに乗って映画もいくつか出来た。今まで、キューバに関心を持っていた人達の大半はラテン音楽好きの人達で、一般の人は、それほど関心がなく、ましてや、実際にあの小さな島国に行って見ようなどと考える人は殆どいなかったと思う。私がハバナで会った日本人の女の子も、やはりキューバから発生したサルサ大好き人間で、わざわざキューバまで踊りを習いに来たと言っていた。テレビでも同じような番組を見た。  
 しかし、このブームに航空会社や旅行社が目をつけないはずはない。JALがこの頃、初めて直行のチャータ便を飛ばした。チャータ便と言うことは、バンクーバから米国の頭越しに飛ぶのだから、やはり、米国のご機嫌を損なうような定期便には出来ないためなのか、それとも、どれだけ客が集まるか分からないので、試験的に飛ばしたのか知らないが、カストロさんにとっては大満足であったろう。
 

  世界一豪華なトロピカルのショー

寡聞にして、この試みが成功したかどうはは知らない。それからかれこれ10年近くも経って米国のブッシュ共和党政権が退場した。共和党政権が続いている間は厳しかったが、民主党のオバマさんになって漸く動きが出てきた。私は常にキューバへの観光客が増え、海岸沿いのマレコン通りが賑わう日が来るのを夢みていたけど、トランプになって180度政策が変ってしまった。
 

 葉巻を吸う老人

元の木阿弥である。ドルを持った観光客大歓迎のなせるせいか、ラテン・アメリカでも一番入国審査が厳しいだろうと思われたハバナ空港には荷物検査がない。トランクを広げる台そのものがないのである。入国審査官はホテルの予約の有無を聞いただけで、にこにこしてパスポートを返してくれた。入国スタンプもない。
 これは、後日社会主義国へ行ったことがあるために、入国を制限される場合を考慮した親切な措置なのである。しかしドルを持っている客からは、できるだけドル貨を取るのが国策なので、空港に着いてカートを使うところから、これに協力させられることになる。カートに手をかけると、すかさず小さな女の子が手を差し出して使用料を払えと来る。定価などないから精々1~2ドルやれば、グラシアス(ありがとう)となる。
 

 こけし人形

社会主義国の国民に乞食はいないと言っても、街にはそれに近い生活をしている人たちも多く、観光客にやたらにチップや、お恵みを乞う子供達もいる。
 

 民族衣装を着た女性

こうした習性や行動をそのまま外国から来た観光客に見られたら、余り格好いい姿ではないだろう。知られたくない恥部を、曝け出すことにならなければいいがと心配している友人がいた。 要するに底辺に住む国民には受け入れマナーがまだ出来ていないのである。今でこそ貧困に苦しんでいるが、立派な音楽文化を持つ、こうした国を訪ねる場合には、余計な事かもしれないが、純粋にその国の文化を評価できる、サルサを聞きに来る人達のような心構えが必要なのではないかと思うのだが。
 
 玉蜀黍の毛でできた人形
 ハバナには世界最大と言われる音楽ショーを見せる”キャバレー・トロピカーナ”と言う野外劇場がある。ラテン・アメリカではこの種の劇場をキャバレーと言うが、日本人の想像するキャバレーとは全く違う、最高の踊りと音楽を聞かせてくれる場所である。この他にも大きなホテルの中にキャバレーガがある。 ホテル・ナシオナルの中の”パリシエン”(パリジェンヌ)もその一つである。このように、音楽と踊りを国を挙げて世界に供給している国だから、民芸品だってそれにまつわるものが多いのは当然だ。人形の形態や材料も様々である。
 
楽器マラカス
キューバの土産品となると一般的には人形などではなく、葉巻、ラム酒それにコーヒーが代表的である。しかし、葉巻は好き嫌いがあるし、酒瓶は重たいし、液体を機内に持ち込むのは今世界的に禁止になっているので買うのを躊躇するが、コーヒーだけはお薦めである。 あの苦味のある味は、日本にあるコーヒー店の キューバ・コーヒーにはないものだ。
 

 操り人形

 2009年、米国に民主党のオバマ大統領が登場し、それまでの共和党の政策であった「孤立主義」を180度転換して、各国との協調融和政策に変わった。キューバに対しても同様で、渡航制限を緩和したり、お金の送金なども自由にした。
 
 クラフトの蛙
メキシコ市内の旅行社に勤める友人は 「キューバ観光は、米国と対立していた時代には資本主義と社会主義の違いが分かって面白いのであって、米国と仲がよくなっては、また昔の資本主義時代に逆戻りしてしまい、ただの観光地になり面白くなくなる、キューバ観光はカストロ時代(今は弟のカストロ)に行くべきだと言っていた。おわり
 

 

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第2回

 

 

 

 メキシコ市の中心を走るレフォルマ通りの独立記念塔(左の写真)を挟んで、シェラトン・マリア・イサベル・ホテル(とうの反対側の一角が、日本で言うところの銀座通りに当たる"ソナ・ロッサ"である。直訳すると"ピンク・ゾーン"だが、そんな怪しげな所ではなく、メキシコで最も洗練された繁華街である。
 
 レフォルマ通りに立つ独立記念塔

  ブランドものの店や高級品の店が並んでいるが、その中に民芸品や土産物を売る店ばかりが集まった横丁がある。上野のアメ横をもっと狭く、迷路にしたような横丁である。
  ここに集まっている店では、銀製品の装飾品や置物類が目に付くが、民芸品としては、壁掛けや、マリアッチの人形が多く、壁掛けにはアステカの暦時計を始め花模様や鳥などを描いたものが多い。また、もう少し高級な店には、ペーパークラフトや木彫りの人形な どもあるし、一種の美術品としては、壁などに貼り付けたり花瓶敷などに使うる化粧タイルなどもある。

 ソナ・ロッサの民芸品店(メキシコ市)

 この他にも市内には、装身具、装飾品、置物、民芸品、やみやげ物などを売る店ばかりがたくさん集まった、だだっぴろい市場があり、観光バスが必ず立ち寄るようになっている。また、ユカタン半島の突端に位置する、最近では日本でも有名になったリゾート地、カンクンと目と鼻の先の沖合いに浮かぶイスラ・ムヘーレス(女達の島)には魚の形をした陶器の壁掛けが沢山ある。
 

レストランで演奏する
マリアッチの楽団

 マリアッチはハリスコ州から生まれたメキシコを代表するポピュラー音楽の一つである。最高レベルのマリアッチは、国立芸術院で毎週水曜日と日曜日に上演しているショーで、全国各地の民族衣装をまとい、伝統音楽や踊りを紹介する中で、たっぷり聞かせてくれる。また、シェラトン・マリア・イサベル・ホテルの中のレストラン・シアターでも一流が毎晩演奏している。
 

  メキシコの民芸品
  後左:イスラ・ムヘーレスの壁掛け

  後右:アステカの暦時計
  前左・右:フル編成の
      マリアッチ人形

 もっと身近で生々しい演奏を聞きたければ、ガリバルディ広場(通称マリアッチ広場)に行けばよい。しかし、ここは、掏りやかっぱらい、たかりなどが大勢いて観光客は危ないと言われ、お客が減ってしまったと楽士達は嘆いている。
 でも実際はそれほどでもない。ただ、歌わせろと言って客引きするのがしつっこい。
 

 メキシコの民芸品
 左:オアハカ地方の骸骨の人形
 右:装飾用ソンブレロ

 マリアッチを演奏する楽士はチャーロという黒か紺色の短い上着を着て、首にはスカーフを巻き、金色や銀色の縞の入ったズボンを穿いて、縁に飾りのついたソンブレロを被っている。ソンブレロは、革命の頃から愛用されてきた代表的な帽子で、今では実際にはマリアッチが被っているのしか見られないが、民芸品としては大きさも大小様々で、刺繍の模様も色とりどりで美しいものが売られている。
 

 オアハカの死者の祭の
 骸骨踊り

マリアッチ・バンドのフル編成は7~8人で、1曲5ドル~10ドル位はする。高いか安いかはその人の価値観によるが、レコードやCDなどで聞くよりも長い時間演奏してくれる。マリアッチ人形は7人揃っているのが一組なので、足りないのは欠陥品だ。買う時によく注意することが必要だ。
 民芸品で目に付く骸骨の人形は、オアハカ州の死者の祭りに出てくる仮装からもじったものだと思うが、骸骨や白骨も人形になると愛嬌があって面白い。 民芸品には色々な形や衣装をまとった骸骨の人形がある。骸骨は人形だけでなく、国立芸術院の民族踊りの中にも出てくる。
 

 トゥラスカラのカーニバルの
 仮面踊り

 オアハカ州はメキシコの代表的な酒の、テキーラと並ぶ有名な地酒メスカルの産地でもある。メスカルは原料もテキーラと同じマグエイの葉で、味もテキーラに似ているが、瓶の底に芋虫が必ず入っているのが気持ち悪い。
 メキシコ市内から西へ、高原の道を雄大な景色を眺めながら140キロ行くと銀の町タスコに着く。途中所々にハカランダの紫が浮かび、サボテンがにょきにょき立っている。 この途中にリゾート観光地クエルナバカという面白い名前の町がある.ここは皮細工とペーパークラフトの民芸品の本場である。皮細工はカバン、ハンドバックなどの他にサンダルとかベルト、財布など実用品が主である。ペーパークラフトは鳥とか動物の人形が多い。しかし、壊れやすいので観光旅行では持って帰るのに気を使う。
 
 クエルナバカ教会の壁画の文字
 クエルナバカの観光ポイントの一つに、1552年に建てられたアメリカ大陸でも最も古いと言われる教会があり、その壁画には、長崎の26聖人処刑の絵と共に"太閤秀吉が処刑を命じた"と書いた文字が残っている。
 
(注)壁画文字の両端が切れているが、
・・ RADOR . TAYCOSAMA .. MANDO . MART ・・
と読める。これは
EMPERADOR TAYCOSAMA MANDO MARTIRIO
で、"皇帝太閤様が殉教を命じた"という意味である。

 
タスコの銀製品を売る店
 クエルナバカからさらに、西に向かうと銀の街、タスコである、タスコは国内でも有数の銀製品の産地で、それを売る店が軒を並べており、裏側に回ると、手作業で作る工場があちこちにある。
 

 タスコ街道から眺めるタスコ市全景

銀はメキシコの特産の人つで、あらゆるものに使われている。その製品は殆どが職人一人ひとりの手作りが多い。工場と聞いて見学したら、たった一人で小父さんが一生懸命やすりをかけていた。アマテと言う樹皮から作るアマテ紙に画いた花や動物の絵は土産物に最適だ。
 
 メキシコ大聖堂
この前が市の中央広場
 観光案内もする内容なので、メキシコへ行ったら、是非ここだけは見て欲しいと思う、市内中心の教会、有名な行楽地ソチミルコ、それに郊外のティオティウアカアンのピラミッドを紹介してメキシコ編を終わりにする。教会の絶っている場所はかっては、湖だったところで、地盤が非常に弱く教会も傾いている、日本のゼネコンが補強をしていたが、今はどうであろうか。
 
 ソチミルコ湖の遊覧船
 ソチミルコは郊外の湿地帯の川をせき止めて池を作りそこに、いかにもメキシコらしき、極彩色の絵の具で、デコレーションを施した遊覧船を浮かべ、家族や友人達がわいわいがやがや、騒ぐところである。その間をマリアッチのバンドが乗った船が巧みに、近寄ってきて、「旦那1曲どうですか」と来る。1曲最低5ドル、ちょっと気前が良いと10ドル、石油成金などは100ドルなどと様々だ。1曲は5分から10近くやってくれる。
 日本の民芸品店で買える中南米の民芸品の中ではメキシコの製品が断然多い。メキシコの民芸品に限って言えば、わざわざメキシコで買わなくても面白いものはに日本でも結構手に入りそうだ。ただ、日本の店では人形類は一般に少ないようで、骸骨の人形にいたっては殆ど見たことがない。民芸品は、その国の文化の一面を表わすものであり、旅の思いでをいつまでも残しておけるので、同じ品物でも現地で手に入れたものの方が価値観が高いのは当然である。  
 (写真は全て筆者が撮影したものだが、プリント画をスキャンしたものであるためピンボケのようになっている)
(メキシコ編終わり 2021.3.1)  つづく

 

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第1回 ②

 

 

 

ー 中南米の観光地 

  日本の民芸品はと言うと各地の観光地とセットになっていることが多い。ところが、南米の国々は先祖の残してくれた文化、遺跡など貴重な観光資源が多いにもかかわらず、経済的利得に結びつける利活用が誠にお粗末である。日本からラテン・アメリカ方面へのツアーは、中米地域ではメキシコ市周辺のアステカ遺跡、グアテマラにあるマヤ遺跡郡、キューバなどを巡るルートが代表的である。

 クラシックカーの天国ハバナ市内

南米大陸ツアーでは、お決まりの、リマ~クスコ~マチュピチュ遺跡~ブエノス・アイレス~イグアスの滝~サンパウロ~リオ・デ・ジャネイロといった、遺跡と素晴らしい景色と民族音楽をミックスしたルートが代表的なものだ。しかし、南米ルートのクスコ郊外の遺跡の周囲には殆ど何もないし、マチュピチュにも入り口の前にホテル兼レストランがあるだけだ。イグアスの滝だって、アルゼンチン側にもブラジル側にも肝心の滝の近くのホテルは1~2軒しかない。これらの場所も、もし日本ならば、おそらくご本体の影が薄くなるほどに周囲は開発され、ホテル、レストラン、土産物屋などが群がるであろう。 南米の観光ルートは飛行機便の関係や現地の交通事情などから、どうしてもワン・パターンなものにならざるを得ないとは思うが、このようなルートに含まれない所にも行く価値のある所は多い。

 クイ(鼠科)を売る女
オタバロ市場(エクアドル)

 例えば、エクアドルの首都キト市の外れにある赤道モニュメントは、南北両半球が一跨ぎに出来る所であるし、オタバロ村のインディオ市(露天市)は、げてもの料理の屋台やカラフルな毛織製品などが多いことでは特長的である。更にオタバロ族は平均身長が150センチ程度なので、平均的日本人でも巨人になれる。コロンビアの首都ボゴタには、市内の一角に素晴らしい夜景を一望に出来るモンセラーテの丘がある。この丘は、ずっと以前に上映された五木寛之原作の映画「戒厳令の夜」のロケ地になった。また、郊外のシパキラ村には全山が塩の山を刳り貫いた中に作った教会、南部のサン・セバスチアンには多数の石像があり一見の価値がある。ペルーならお決まり の場所以外にも、近年新しい遺跡がいくつも発掘されているし、南部の白亜の町アレキーパ周辺にも観光ポイントは多く、郊外はコンドルの群生地として知られている。

 ドイツ豆戦艦シュペー号の錨
モンテビデオ(ウルグアイ)

 往復に1週間かけられるなら、太平洋に浮ぶイスラ・デ・パスクァ(イースター島)のモアイも見たいものである。ボリビアにはペルー同様のプレインカ以降のティワナク遺跡が無数にある。先住民族の文化のなかったアルゼンチンだって、北部にはインカ族の影響を受けた遺跡や、奇岩怪石の景勝が見られる風景がある。その反面、パラグアイやウルグアイには、残念ながら目ぼしい観光ポイントは殆どないと言ってよい。 しかし、中米はとにかく、南米は日本からは地球のほぼ真裏になり、特に南半分の国々はどこをどう回っても約2万キロ(地球の円周は凡そ4万キロだからその半分)は飛ばなくてはならず、30時間は有にかかる。

ティオティウアカンのピラミッド
(メキシコ)

簡単には行けないが、行けば行っただけの価値と満足感は十分に得られると思われる地域である。

 そして、絶対に言い忘れてはならないのは、ラテン・アメリカは多種多彩な音楽の宝庫であることだ。メキシコのボレロ、ルンバ、マリアッチ。キューバのソン、トゥローバ、マンボ、サルサ。グアテマラのマリンバ。ブラジルのサンバ、ボサノーバ。アルゼンチンのタンゴ、ウルグアイのカンドンベ。チリのクエッカ。ペルーのバルス(ワルツ・ペルアーノ)、アンデス・フォルクローレのウワイノ、マリネラ。コロンビアのクンビア。ベネスエラのホロッポ、などなどの他に、各国とも独自の民族音楽(フォルクローレ)やそれに合わせた踊りがある。どこか面白い国、珍しい場所はないかと考える機会があったら、是非ラテン・アメリカの国々を候補に上げられることをお薦めしたい。

すり鉢の底のような街、ラ・パス
(ボリビア)

日本に一番近いラテン・アメリカの国はメキシコだと言うことには誰も異論はないであろう。しかし、私は、フィリピンこそ本当は最も日本に近いラテン系の国ではないかと思っている。なぜならば、四百年もスペインの統治下にあって、今でも、人の名前や、町や通りの名称がスペイン語でたくさん残っているし、通貨単位もスペインのペソのままである(注)。私はフィリピンを全く知らないが、テレビなどで見るフィリピン人の体型や気質などには、今でもスペインの血が流れているような気がする。先ほど亡くなったアルゼンチンのフットボール界の神様マラドーナの体形はどうみても、ヒリピン人に似ている。国語のタガログ語も何となくスペイン語に似ているような気がする。 まあ、れはとにかくとして、ラテン・アメリカと言えば中南米諸国であり地球の裏側である。

 ではいよいよ「ラテン・アメリカの民芸品の旅」を始めよう。まずメキシコから出発して、メキシコ湾を東へ飛び、カリブ海の真珠と言われるキューバ(今はすっかりその輝きを失っているが)を巡り、再び中米はグアテマラに戻り、一路南下して南米大陸のベネズエに入り、そこから時計回りに広大な大陸を回って、コロンビアまで行き、アルゼンチンを締めくくりとするお話しである。

 集めた民芸品の数は、国によって行ったときの手荷物の量や日数の関係で、数が少ない国や、逆にたくさん集められた国がある。自分がいたアルゼンチンは元よりであるが、ウルグアイ、ペルーやチリ、ボリビアなどは複数回行っているので多く、反対にグアテマラ、ベネスエラ、エクアドル、コロンビアなどは1~2回しか行ってないので、ほんの数点しか集められなかった。

 お話は、収集した民芸品の写真を紹介し、それに関連する事柄を説明し、観光ポイントなどに触れながら進めていくが、どうしても横道にそれがちである。でも、それはそれで、話のねたがある訳で、多少の道草はご勘弁願いたい。この物語は、2003年に初版が完成した。そして、その後に世界の状況も随分と変わった。しかし、民芸品のありようは、政治・経済・軍事問題などに影響を受ける事はないが、その国の様子に触れる部分もある。そういった理由から2015年に大改訂を行い、さらに本稿の掲載に当たり手元資料によりできるだけ現行になるよう修正した。 

(2021.2.2  つづく)

(注) ペソと言う言葉は、重さ、秤、重要性などの意味で、メキシコ、キューバ、ドミニカ、アルゼンチン、ウルグアイ、チリ、コロンビアなどの通貨単位になっている。

 

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第1回 ①

 

 

 

(まえがき)

 元来、旅とは、自分のペースでのんびりと、ゆっくりと行きたいものである。しかし、外国旅行の場合は、時間的、経済的、健康的な制約、さらには、行き先での言葉の問題などの理由から、添乗員が案内してくれて、短期間の間に観光ポイントを無駄なく、出来るだけ沢山回れるパック・ツアーで出かける人達が多い。しかし、アジア諸国や大洋州のような、比較的短距離で時差の少ない地域は別として、南北アメリカ大陸にまたがるラテン・アメリカへの旅行となるとそうはいかない。特に日本からはちょうど地球の裏側になる南米方面のパック旅行となると、ただただ疲れだけが蓄積し、帰ってから写真を見ても、どこをどう巡ったのか全然思い出せないと言う声を何度も聞いた事がある。しかし、それも無理はない。南米ハイライト何日間などという旅行は、往復で4日間が消えてしまい、実際にホテルに泊まれる日はぐっと少なくなる。しかも、1か所一泊で、トランクを全部開く余裕もなく、観光ポイントからポイントへ移動する事が多く、時差ぼけの取れる暇もない。

 南米くんだりまでやってくる旅人達は、医者とか、なになに士とか、自営業とかの比較的経済的に余裕のある人達で、今までに世界のあちこちを回ってきて、残ったのが南米だと言う人が多い。こうした人達だから皆年寄りである。予定地に着いてからの移動中のバスではぐっすり眠りこけている。観光場所に着き、いきなり起こされて下車し、写真を撮って、また次の目的地まで眠る。車中での説明なんか聞いていないから、自分が今どこにいるか分かるわけがない。老夫婦がホテルのレストランや喫茶コーナでぼんやりしているので 「どうしましたか」 と声かけると、日本人と分かってほっとした表情で、「コーヒーを飲みたいのだが言葉が通じない、南米はコーヒー一杯、サンドイッチ一つ食べられない」と力なく話しかけられたことがある。スペイン語圏では“コーヒー”といっても通じない。“カフェッ”と発音しなくてはいけない。アメリカンなどという邪道?の飲み方はしない。砂糖をたっぷり入れたカップの上から濃いめに煎じたコーヒーを注ぐのが本来の飲み方だから。

 ラテン・アメリカという定義は難しい。一口に言うと、メキシコを含む中米、カリブ海諸島、南米大陸の国々でスペイン語かポルトガル語を話し、ラテン文化を継承している国々と言う事が出来る。フランス語をラテン系の言語に含めると、ハイチ、グアドルペ、マルティニク、ギアナなどが含まれる。ただ、フランス系住民が30%もいるカナダは一般的にはラテン・アメリカには入らない。英語圏のジャマイカ、ベリーズ、スリナムもラテンと言うのは難しい。しかし、中南米と言う場合は、言語、文化に関係なく、地理的に中米、南米、カリブ海諸国を言う。メキシコは地理的には北米であるが、中南米という場合でも、ラテン・アメリカという場合でも、どちらの場合にも含まれる。

民芸品収集のきっかけ

 

大草原を走る、メンドーサ州

 旅の楽しさや面白さを本当に味わうには、地上の交通機関を利用するに限る。暫くの間アルゼンチンで暮らした私は、仕事の上でも、観光のためにも、南米諸国を気軽に歩けるという幸運に恵まれていた。チリやパラグアイ、ウルグアイ、それにブラジルの南部などはみな車で行った。ペルーやボリビアへも車で行きたかったが、さすがに遠すぎるのと、道が悪くて車が殆ど走っていないので、万一故障したり、ガス欠になったら飢え死にしてしまう恐れがある、との知人の忠告に従って諦めた。一日に1000キロも走ったことがある。(8時間かかる)。このくらい一気に南北を移動すると植物の分布が変わるのがはっきり分かる。それほど長距離ではなくても、途中の景色を楽しみながら小さなレストランとかガソリンスタンドに立ち寄って、土地の名産や民芸品を聞き出したり、あるいは、道端の老婆から採りたての果物を買ってお喋りをしたり、綺麗な花が咲いているのを見て、その名前を聞き、ちょいと摘まんでバックミラーに挿してみたり。地面を走ることによって、その国のその地方の生の生活が見られる。これが旅の楽しさだと思う。こうした旅が出来ながら、その記念となるものが写真だけというのは勿体ないし、歴史や文化の片鱗でも偲べるものを思い出として残しておこうと思い立ったのが、各地の民芸品の収集のきっかけである。

 このホームページで紹介するものは、私が行った際に入手した収集品のなかの一部である。このほかに絵画、壁掛け、楽器、敷物、民芸調雑貨等があるが、それらの話は別の機会に譲る事にする。また、現地では目につかなかったり、興味を引かなかったりして入手しなかったものも多数あるので、各国にはこの他にもまだまだいろいろなものがあると思っていただきたい。

  

アンデス山脈を車で超える
チリ国境通過直後

 ラテン・アメリカ諸国の独立は、1810年ごろから1820年代の後半にかけて次々と達成されたもので、やっと200年である。その上、独立前はポルトガル、英国、フランスなどの支配を受けていたごく一部の地域や島々を除き、殆どがスペイン一国の支配を受けていたため、国ごとによる個性が育ちにくかった。政治、宗教、教育などのメンタルな面だけでなく、街作りのレイアウト,教会,議事堂、役所などの建物についても、大きさ,規模は別として皆同じような規格の外観を持っている。このため、各国の民芸品は、スペインの征服前に栄えた原住民の文化・伝統をモチーフにしたものが中心である。これらを題材にして、革や陶器、,金・銀・銅・錫などの【アンデス山脈を車で超える、チリ国境通過直後】金属、そして 毛織物、木・竹・葦・石・ガラス、貝殻などの材料を使って、人形、敷物、壁掛け、置物、装飾品、灰皿、壷、篭、物入れ、小さな実用品、遺跡から発掘されたもののミニチュアなどを作っている。これらの民芸品は、生産された場所ごとに独特のものがあるわけではなく、その国のどこへ行っても同じ物が売られている。先住民族の歴史の長さとか版図の大きさが、国ごとに見た民芸品の種類の多少に現れているように思える。

 すなはち、南米ではインディオ文明の中心的存在であったインカ族の本拠のあった、ペルー、ボリビアなどが民芸品の種類が最も多く宝庫である。材料も上記に述べたようなものがすべて使われている。南米の原住民の中でも最強と言われ、最後までスペイン軍と戦ったアラウカーノ族がいたチリには、銀製品、銅製品、陶器、籐製品、木彫りなどの他、日本でもお馴染みのラピスラスリ細工がたくさんある。チリのラピスラスリには細かい金片がたくさん入っている。

 

パラグアイのネアンドティ 

 逆に最も穏健であったグアラニ族のパラグアイには、世界的に有名なニェアンドティ(蜘蛛の巣刺繍)の他、木彫り、革製品が多い。コロンビアでは、採掘量世界一のエメラルドや金の装飾品が有名だが、民芸品としては陶磁器製品、籐細工などがある。ベネズエラでは、グアヒーラ族の色彩豊かな織物、麻細工などが代表的である。エクアドルでは、木彫り、織物(ポンチョとか敷物、壁掛けなど)パンを固めて人形や鳥などの形にしたものが有名だが、珍しいものとして、ツァンツァ(Tzantza)と言う、原住民同市の争いで捕虜にした敵の首を干し首にしたものの模造品がある。
 ウルグアイにはアメジストを用いたものや椰子の実を使ったものがある。以前はオットセイの革細工があったが、今では捕獲禁止でなくなった。ブラジルは、サファイア以外の全ての宝石が採れると言われるほど、宝石・貴石がたくさんあるので、これらを使った装飾品、置物などが多いが、木や魚貝の化石を細工したものもある。民芸品としては、やはり木や革、椰子の実を材料にした人形や置物類が主である。アルゼンチンのようにヨーロッパ人が侵入するまでの原住民は、ほとんどが狩猟漂流民族であった国では、固有の文化がなく、民芸品と言えばヨーロッパからの移民が流入した後のものばかりで、ガウチョ(牛飼い)か、タンゴにまつわるものに集約されるが、形態や材料は多種多彩である。また、北西部で採れるオニクス(薄緑の他にルビーのような赤い高価なものもある)の加工品も有名である。

  

素朴な人形、グアテマラ

 中米のメキシコ、グアテマラなどには、繊維製品、陶器製品、銀製品が多いが、題材はそれほど古いものとは思えない。キューバには色々な形で、色々な材料を使った人形がたくさんある。中南米の民芸品は、あくまで民芸品であって、美術品のような芸術的価値のあるものは少ないように思える。金銀宝石を使った装飾品のようなものを除き、日本人の高級品志向の目から見るとお粗末な細工なものが多い。特に人形類については、顔の表情に重きをおく日本人から見ると、まことに幼稚である。しかし、私にとっては芸術的価値などは二の次三の次のことだ。広大な大陸にある国々やカリブ海に面した国々から、自分の足で集めたものであること、特に、南米にある全ての国(ブラジル北部の3つの小さな国を除き)の民芸品を集めたことに最大の誇りを持っている。近年は日本の各地に外国の民芸品を売る店がたくさんできて、ペルーやメキシコ、グアテマラなどのものは日本でも手に入り易くなってきた。
 人形達を一つ一つじっと見ていると、私が彼らの故郷の町や村を訪れた時の情景を彷彿とさせてくれる。埃っぽい石ころだらけの道、紫色に起伏する小山のような砂漠、果てしなく続く大草原、見事なまでに深い紺青の海、異様な臭いが漂い蝿が群がる市(青空マーケット)の屋台、皺だらけの手の老婆、地の果てを思わせる黒い海の砂浜などなどが今でも目に浮かんでくる。   (つづく 2021.1.5 )
 
* コロナ禍のなかで、違和感を持つ題材になったけど、それはそれとして、気分を変えてお読み頂くようお願いいたします。

 

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著者へのメッセージ
感想 ラテンアメリカの観光事情がよくわかり、興味深く読まさせていただきました。
続編を期待しています。   楳本
01/05 楳本 龍夫