連載コーナー
島崎陽子の
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日本美術がテーマのとき
第33回
茶の | 日本への伝来 |
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2024年4月18日〜6月16日に開催されていた、東京都中央区日本橋室町の三井記念美術館《茶の湯の美学―利休・織部・遠州の茶道具―》へ足を運んだ。桃山時代から江戸時代初期、千利休・古田織部・小堀遠州の茶道具や掛け軸が展示されていて、利休の「わび・さびの美」、織部の「破格の美」、遠州の「綺麗さび」に主点を置いた構成であった。3人各人が探求した美意識が表現され、茶の湯の深淵な歴史の奥深さと日本の美を感じてきた。
三井記念美術館の展示品を鑑賞しながら、茶の日本への伝来についてご案内してみたい。
最初に陸羽(733-804年)という人物について紹介させていただきたい。陸羽は中国の唐代の文筆家。後世の我々が茶の恩恵を被るようになったのは、760年頃の陸羽「茶経」による茶の栽培と製造の記述のお陰による。陸羽によって初めて茶の伝導が始まった。仏教、道教、儒教の3つの思想が総合へと向かいつつある時、汎神論的象徴主義が広まっていった中、陸羽は茶のもてなしのうちに、万物を支配する調和と秩序を見出そうとした。「茶経」は茶の聖典とよばれ、そこで茶の決まりごとを定式化している。陸羽は中国では茶商人の守り神として崇拝され、常に最上の品質の茶葉を求めていた。そして茶が中国の陶磁器に及ぼした影響は計り知れなかった。
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さて、茶の知識が日本にもたらされたのは、聖徳太子治世の593年頃で、中国の文化、芸術、仏教とともに持ち込まれたものと思われる。日本の僧たちの多くは、中国で仏教の勉学にいそしんでいる間に、茶木栽培のことを知るようになった。茶の種子を携えて日本に帰り、それが日本の栽培茶の由来となる。
天平時代、聖武天皇が100人の僧に「挽き茶」を振る舞った。奈良時代の僧行基は47の寺を建立、それらの寺の庭に茶を植えることで彼の一生の仕事を飾った。これが記録に残る日本で最初の茶の栽培である。
794年、桓武天皇は平安京に皇居を建てた。そこで彼は中国の建築を取り入れ、茶園を囲った。茶園の管理のため公的な職が典薬寮局の中に作られ、茶木が医薬のための木だとみなされた。
805年、最澄が中国から帰国、持ち帰った茶の種子を比叡山のふもと坂本村に植えた。今日の池上の茶園がここである。
806年、空海が中国から帰国。宮殿と寺院の発達に特徴づけられる中国の進歩に感銘を受け、日本でも茶が中国と同じかそれ以上の地位を占めるようになりたいと願った。彼もまた大量の茶の種子を持ち帰り、茶の製造過程の知識も導入。
815年、嵯峨天皇が梵釈寺に行幸、そこで僧が茶でもてなした。天皇はいたく喜び、朝廷近辺で茶の栽培を命じ、皇室で用いるために茶葉を年貢として求めた。
平安京では社交的な飲み物として人気が高まっていた。もっぱら高位にある人々の間で薬として用いられていた。その後の戦国時代の200年間、茶は忘れられていた。
1191年、栄西が中国から新しい種子を持ち帰り、福岡城近くの背振山の山腹に植えた。日本への茶木の再導入。神聖な療法の源として茶をとらえており、茶に関する日本での最初の書物「喫茶養生記」を記す。少数の僧と貴族から一般の人々にまで広がり始めた。将軍源実朝は大食から重病におちいり、栄西は彼の寺で育てた茶を自分の手でいれた病人に与えた。すると、将軍は一命を取り留めたのである。
茶の魅力は、藤四郎によってもたらされた茶器によってさらに高められた。宗から釉薬を輸入、上流階級の流行となる。1738年、永谷宗七郎による煎茶製法の発明を機に、日本全国で栽培されるようになった。
(参考図書:W.H.ユーカース著『ロマンス・オブ・ティー』)
(2024.7.1)
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西洋美術がテーマのとき
第32回
モネ | 連作の情景 |
2024年 2月10日 | - 5月6日 | 大阪中之島美術館 |
2023年10月20日 | - 1月28日 | 東京・上野の森美術館 |
(本稿掲載の睡蓮の作品画面をクリック(タップ)すると大きく表示されます。 )
クロード=モネ 1840-1926 |
昨年、上野の森美術館で観たモネの展覧会が大阪で開催中、連日の賑わいを見せている。モネの作品のみ60点以上の大集合、壮観であった。モネの息吹を感じ、郊外の自然の中からこぼれ落ちる繊細でやわからい光に包まれ、台頭し始めてきた美しい近代市民生活の豊かな未来を垣間見てきた。
今回は、モネの「睡蓮」に焦点をあて、「睡蓮」に関連するエピソードを紹介していきたい。
1883年にモネは、亡くなるまで過ごすこととなる、パリから西へ80キロほどに位置するジヴェルニーに移り住んだ。1901年、土地を購入して池の拡張工事を行い、大きくなった池にモネが好んだ日本の浮世絵で使われる太鼓橋の下、睡蓮を植えていった。池の周囲には柳や竹、藤など日本美術から影響をうけた植物も植えていく。
1880年代、モネ40代になるとモネは連作という手法を確立していき、より自由で自分らしい独自の描き方を編み出していった。同じ題材をモチーフに、早朝から日没までの移ろいゆく時間、天候や時間による光の微妙な変化を抽出し、キャンパスに映し出していった。光の効果を探求し、光を追い求める画家として名声をとどろかせていったのである。モネは生涯に渡り、連作の手法を含めて200点以上の睡蓮の作品を描いている。
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モネと元首相クレマンソーとの交友はよく知られていて、クレマンソー自身も日本美術のコレクターであった。クレマンソーは、印象派が評価されていなかった初期の頃から印象派を支持し、モネとの友情は生涯にわたって続いた。モネは、1918 年に第一次世界大戦の勝利を祝福するため睡蓮連作の大作を国家に寄贈することをクレマンソーに約束し、クレマンソーは、睡蓮を展示するための個室を用意しようと、オランジュリー美術館を整備することにした。
晩年のモネは白内障を患い失明の危機に陥って睡蓮の制作を諦めかけたときがあったが、その時にもクレマンソーはモネを励まし続け、1926年12月、クレマンソーは死が迫ったモネのもとに駆け付け、モネはクレマンソーの腕の中で息を引き取ったと言われている。モネの死後の 1927 年、睡蓮を収めたオランジュリー美術館が開館した。
オランジュリー美術館にモネの睡蓮の連作が展示されたころ、この絵を観るために訪れる来訪者はほとんどいなかったという。一般公開から約2週間後、「昨日、オランジュリー美術館を訪れたが、誰一人としていなかった」とクレマンソーは記している。フォーヴィズム、キュビズムなどの新しい流派が生まれ、モネは時代遅れになってしまっていた。その後1950年代の再評価を通して評価を確立していったが、その評価も時代の波にもまれて変転してきた。
そして今、世界各国からモネの睡蓮の大作を観るためにオランジュリー美術館を訪れる人は絶えることがない。
オランジュリー美術館 睡蓮の間 |
(2024.5.1)
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