第16

 

風景画のはじまり  コローから印象派へ
ランス美術館 コレクション

2021.6.25-9.12 SOMPO美術館

展示品構成: 19世紀風景画 -バルビゾン派 -版画家の誕生 -ウジェーヌ・ブーダン ー印象派の展開
画家:  コロー   ルノワール   モネ   ピサロ   クールベ   ブーダン   シスレー 

 

 雨の日のとある週末、行ってきました。混雑もなく当日券で入場でき、館内も人影もまばらで落ち着いて観覧でき、満足のいく展覧会となりました。
 フランス絵画や風景画、印象派展覧会となると必ず展示されているといっていいコローです。一見地味と思われる色使いではありますが、淡い濃淡の木や森の葉とくすんだ空の色、境目のあいまいな湖、そしてうっすらと存在しながら存在感のある人物、そこからあふれる詩情感、惹きつけてやまない魅力がありました。今回の展覧会では存分にそのコローの作品を見せてくれました。

 自画像

 今回は本展覧会の中心画家であるコローに焦点をあて、コローと風景画について取り上げてみます。

 ジャン=パティスト・カミーユ・コロー Jean-Baptiste Camille Corot (1796-1875) パリ生まれ

 まず、風景画です。風景画は西洋絵画の歴史のなかでは物語の背景やわき役にすぎないと考えられていたため地位が高くありませんでした。しかし19世紀のフランスではそうした風景画に対する考えに変化が起き、フランス革命と産業革命を経て生まれ変わった社会では、身近な自然を描いた風景画が人気となっていきました。イギリス人画家のジョン・コンスタブルとターナーの作品が大きな影響力を与えたことはいうまでもありません。
 それまで絵画には伝統的な地位の順序が決められていたのです。歴史画、肖像画、風俗画、風景画、静物画の順です。

 イタリアのダンス
(
今展覧会で展示)


 湖畔の木々の下のふたりの姉妹
(今展覧会で展示)

コローはイタリアへ3回旅行してイタリアの風景を多く描き、フランスに戻るとフォンテーヌブローの森などで風景画を手がけました。イタリアで学んだ光の効果はコローの画風に変化をもたらし、のちの印象派に大きな影響を与えるようになるのです。

 コローはパリ市内の裕福な織物商人の子として生まれ、布や色に幼少期から接していた経験はのちの画家としての色彩感覚に多大な影響を与えたようです。シティボーイでありながら風景画に重点を置いて描き、その風景画には野暮ったさや闘争的、挑戦的な感覚はなく、詩情豊か、シンプルな色合いの中に大変洗練された上品さが漂っていて知性も感じられます。一遍の詩が浮かんでくるではありませんか。
 コローの評価はずっとかんばしくなく、サロンに出品してもその多くは落選しました。一般大衆にも人気がなく、作品もほとんどが売れず、不遇な時代を体験しながらゆっくりキャリアを積んで評価を高めていき、晩年に高く認められるようになりました。
 1845年にボードリヤールが「コローこそ、現在の風景画のリーダーだ」と先頭に立って宣言してから徐々に注目が集まり始めたようです。「コローの色は薄く、作品は平凡で下手くそだ」という批判に対して「コローは色彩を重視するカラリストよりも作品全体の調和を重視するハーモニストであり、全体的に常に衒学的でなく、色がシンプルだからこそ魅力的なのである」と反論しました。晩年は謙虚で控えめ、幸せな生活を送りました。「人はプライドを持って威張るべきではない」というのがコローの固い信念でした。

 「自然は芸術を模倣する」と言ったのはオスカー・ワイルドです。どういうことでしょうか。思考経路を反転しないと理解不能の表現にも思われますが、意味深いメッセージ性のある言葉です。芸術を通して自然の美しさに気が付き自然のあるがままの姿とその美を再認識するということでしょうか。

 最後に、最も知られた一点で、コローの代表作となった作品を。

 モントフォンテーヌの想い出

 《モントフォンテーヌの想い出》
 「サロンに出品された際に皇帝ナポレオン3世によって買い上げられ、フォンテーヌブローの城館に置かれました。皇帝失脚後はその財産整理によって国有財産となり、1879年以来ルーヴル美術館に所蔵されています。銀灰色の朝の光の中に、若い女性と子供たちが思い思いに花を摘み、樹に掲げて遊んでいる。伝記作者ロボー「軽々と筆を走らせたその確信的で単純な製作法によって、この自然の素描はこの画家の美しい作画法をよりよく分からせてくれる。これはもう、絵というよりは、あえて言うならば詩そのものなのだ」と語っている。まさに「甘し(うまし/ douce)国フランス」を体現するようなこの絵の理想主義的なイメージは、フランス人の心を掴んだのであろうか、発表後は瞬く間に版画などを通して多くの人に知られるようになった。さらに20世紀に入っても、紙幣の絵柄になるなど、ミレーの『晩鐘』に劣らない国民的な人気のある絵となった。」(高橋明也著『コロー 名画に隠れた謎を解く!』より)

(2021.9.23)

 

  

 コロー作品集 (YouTube から)

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著者へのメッセージ

松本房子様 へ

ありがとうございます。いつもわき役のコローが大きな位置を占めてきました。

次回は日本人版画家です。心を奪われました。

11/14 島崎 陽子

 

地味ですが上品な印象のコロー

島崎様

松本です。コローに焦点をあてての紹介、良かったと思います。加えてスライドショーも作品数が多く堪能いたしました。まるで美術館に行ったつもりになりました。楳本さんにも感謝ですね。

次回も期待しています。

松本

 

11/08 松本 房子

 

楳本さま いつも掲載ありがとうございます。

コロー作品集、楽しみました。

軽快な音楽がとても興味深いです。テンポのいい音楽に乗りながら詩情豊かなコローの絵画を楽しむ冒頭で、一瞬、んっ??と思いましたが、鼓動に響いてくるこの軽快感がとても心地よいのです。

ありがとうございました。

9/24 島崎 陽子


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第15

 

フリック・ コレクションと フェルメールと 野口英世と

 

 今回はニューヨークにある美術館、フリック・コレクションをご紹介したい。
 お洒落なブティックや店が並ぶマディソン街の先に堂々と佇んでいる新古典様式の白亜の建物の美術館。この美術館は元はフリックという鋼鉄王の大邸宅であったが、フリック死後、娘が邸宅を改装し1935年12月に開館した個人美術館である。美術館としては小規模でありながらも名作揃い、噴水と植物のある中庭が素敵な空間を醸していてそこは館内の憩いの場となっている。フェルメール、ルノアール、レンブラント、ターナー、ゴヤ、エル・グレコ、ベラスケスなどの作品を観ることができる。

 さて、ここで野口英世である。
一冊の本、福岡伸一著『フェルメール 光の王国』を手にしたら、冒頭で野口英世が登場してきたのには意表を突かれた。フェルメールになぜ私の生まれ故郷の野口英世が? 絵画本になぜ黄熱病研究者の野口英世が?
 この本はアメリカから始まり、フリック・コレクションのフェルメールから始まっている。この美術館には3点のフェルメールが所蔵されているのである。そして福岡先生は英世がフェルメールを観ていたのではないかと大胆な仮説を立てる。最初にフェルメールを観た日本人は福島県片田舎生まれの英世か? 興奮する仮説だ。
1935年開館に先立つ7年前、すでに英世は西アフリカの地で研究対象だった黄熱病に感染し非業の死を遂げていた。したがって美術館としてのフリック・コレクションを彼が訪れることは出来なかったが、NYに20数年間滞在していた間にフリック邸宅のコレクションを観る機会があったのではないか、と福岡氏は推測する。
1900年の暮れ、ワシントンD.C.にたどり着いた英世はフィラディルフィアの病理学者・細菌学者、フレクスナー博士のところへ押しかけ雇ってほしいと懇願、そこで研究に邁進し博士の全幅の信頼を得る。ロックフェラー研究所初代所長に選ばれた博士は英世をNYへ帯同し英世は研究所のヒーローとなる。英世はそこで結婚、近くに借りたアパートには日本人画家、堀市郎が住んでいて、堀の手ほどきを受けて油絵を始め、油絵が生涯を通じての趣味となった。研究室では、英世は顕微鏡下に観察された菌などの像を手書きのスケッチで書き留め、光の粒のような正確なスケッチを残していたという。
そしてフリック邸宅はこのアパートの近くだった。フリックはしばしばパーティを催し、NYの名士たちにコレクションを披露していた。新しい絵を購入したときには特にそうだったそうだ。英世はすでに世界的に名が知られていてロックフェラーの庇護下にあったのだから、ここに招待された可能性は非常に高いというわけである。

 フェルメール3点「兵士と笑う女」「婦人と召使」「稽古の中断」。
フリックはなぜ早くからフェルメールの価値に気が付いたのか、近くにあるノードラー社という画商の影響が大きかったそうである。目利きがいた。本場ヨーロッパでいったん忘れさられ再評価されつつあったフェルメールをいち早くアメリカの富豪たちに教えたのはノードラーだった。
フリックは鉄鋼業で成功したが、ビジネスマンとしては波乱万丈、冷酷な経営者と批判され不遇の現役時代だった。私生活では二人の子供に先立たれ、先の見えない日々のなか、フェルメールの優しい光と穏やかな表情の人に癒されていたのであろうか。
世界各国で開かれている大規模フェルメール展にフリック・コレクションが参加したことは一度もなく、この3点を観るためには現地へ行くしかないそうだ。
英世死後19年後 妻メリー・ダージスが死亡、メリーはロックフェラー研究所から支払われた英世の恩給の一部をずっと猪苗代の野口家に送金していた。二人はNYの墓地に並んで眠る。
NYと英世とフェルメールと、そして故郷と。心温まるつながりができた。

(2021.8.9)

 

 

 

フェルメール  全作品    

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著者へのメッセージ

松本房子様 へ

意外なところで意外な出会い、楽しいものです。

日本で紹介されている絵画は、やはり商業主義的な思惑が背後にあり(お金になるかどうか云々)、画一化されてきていると感じています。率先して自分からアプローチしていかないと、掘り出し物等に出会うチャンスは薄れていくばかりでしょう。最近知人より、海外地元の絵画本は日本で出版されているのとは違い、構成、色合い等々、非常に魅力にあふれているとの話を聞きました。言語は横に置いといて(笑)、私も受け身ではなく積極的にアプローチしようと思った次第です。 

09/19 島崎 陽子

 

小規模ながらも素晴らしい個人美術館:フリックコレクション

今回は、フリックコレクション⇒フェルメール⇒野口英世⇒島崎さんの故郷繋がりの興味深い縁なるものを感じ、ホッコリしました。有名な美術館ではなく個人の美術館なので、普通にしていると目にする機会はないように思います。紹介していただいたことで知ることができ、よかったと思います。

 

09/05 松本 房子


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第14

 

ゴッホは 何者であったのか
 ―― ゴッホと 自然と 日本美術
                

 

  ゴッホは何者であったのか。 ビーチャー・ストウやディケンズの良書を読み、アルルではドーデの「タルタラン」の描いた南にすなおに引き付けられたといい、ピエール・ロティ「お菊さん」に感動して自然のうちに生きている単純な日本人たちが僕らに教えるのは、実際、宗教といってもいいではないかといい、フランス・ハルスをゾラの小説のように美しいと語るのである。ここに挙げた作家はほんの一部であり、多くの優れた作家がゴッホのテオにあてた書簡(650通)に出てきてそれらを読んでいたことがわかるし、アルルへ向けてパリを発つ前日にはワーグナーを聴きにいったというのである。

 原田マハ『たゆたえども沈まず』と小林秀雄『ゴッホの手紙』を続けて読んだ。
 小林秀雄を先に読んでいたら、おそらく不明点だらけですんなり入っていくことはできなかったであろうが、原田マハを先に読;んだことで、弟テオとゴッホとの関係、ふたりの人物像とその生活ぶりがよく把握でき、基本的な土台部分はおおよそ吸収でき、気構えして読み始めた『ゴッホの手紙』を心底味わい、リラックスして楽しむことができた。パリ万博のころの活気と躍動感のある当時のパリの様子も原田マハは冒頭で描写してくれていてパリの映像を描くことができ、この辺も大助かりであった。
 小林秀雄『ゴッホの手紙』、モーツァルトト短調シンフォニーを道頓堀で聞いたときのような衝撃を受けた。感動で衝撃を受けると涙を超えるが、今そんな状態にある。

 ゴッホは牧師の子として生まれた。牧師になろうとして失敗し画家の道へ進んでいった。22才の時ロンドンでひどい失恋にあい、寡黙で憂鬱な孤独を好む青年になっていった。弟のテオは兄のゴッホにあこがれ、いつも兄を慕いながら幼少期を一緒に過ごし、いつしか分身のような存在になっていった。そして国際的画商、パリのグービル商会の支配人として活躍するようになる。

 今回は両作家が重要性を置いているゴッホと自然、ゴッホと日本美術とのかかわりに注目してみたい。

自然について。

「ゴッホは専門画家ではない。何の因果か絵筆をにぎらされた貧乏人にすぎなかった。特徴はそこにある。…自然とは貧乏人にこたえる冬の事だ。…彼が忍んだ生活そのものである。…自然の方に出向いて行く余裕なぞなかった彼は、吹きさらしの自分の生活の中に、容赦なく侵入してくる自然について、知らず知らずのうちに、極めて人間的なある観念を育て挙げた。…感覚や観念によってではなく、生活を通してだ、『手仕事』によってである。…自然とは、人体にこたえる冬の事だ。だから働かねばならぬ。」「たくさんの自画像、この不安な執拗な人間性の分析家に一つの終点を見出していた。人間の、性格とは心理ではない、言葉ではない、自然を相手の勤労が形成する形である、という信念。…画家の思想であるとともにモラリストの思想。」「労働は彼の人生の綱領であり、労働による自然との直接関係のなかにしか、彼はいかなる美学も倫理学も認めていない。」(『ゴッホの手紙』より)
 ゴッホはミレーという絶頂をながめながらミレーを模倣して《馬鈴薯を食う人々》を描き上げた。自然を相手に働く農夫、生きるということはこういうことだ、手仕事でだ、と強く主張する。死の直前には麦畠を描きそこに死の影を見たというのは、自然とのかかわりのなかに生きてきたゴッホの全てが凝縮し反映されていたのであろうか。炎のような力強さ、絵具を投げつけたような筆致、激しくうずまく糸杉と空、自然と向き合い、苦悩とともに自然とかたくなに戦ってきた結果の表れなのであろうか。

日本美術について。

 パリの画家達や絵画コレクターのブルジョワジーが求めていた「新しさ」の背景には少なからず日本美術がかかわっていた。
 「パリ、激動と変革の時期を迎えていた。新しい何かを、変革を求める人々の欲求が高まっている。最初に『窓』を開いたのは、日本美術だった。その斬新さ、日本美術の素晴らしさにもっとも敏感に反応したのは革新的な芸術家たち、つまり印象派の画家たちだった。」「モネたちがなぜあんなに従来の絵画の手法からかけ離れた表現を生み出すにいたったのか、その答えが浮世絵にあるのだ。」(『たゆたえども沈まず』より)
 ゴッホは渓斎英泉の《雲竜打掛の花魁》を見て強い衝撃を受けた。これまでに見たことのない新しい、別次元の斬新な芸術がそこにはあった。
 ゴッホがアルルへ行ったのは「日本」を求めてだったということを初めて知った。そこに芸術家仲間を呼び寄せ、芸術村を創り、孤立した強烈な個性の力を超克し助け合いながら高みを目指そうという夢を描いていた。日本のように太陽が輝き、心も晴れ晴れとして、絵を描くことを楽しむことができるであろうと期待に胸を膨らませてパリを発ちアルルへ向かった。
 「アルルからの手紙、日本という言葉がしばしば現れてくる。…色彩のオーケストレーションに心労するゴッホに、日本の版画の色彩の単純率直なハーモニーがいつも聞こえている。日本風の色の単純化、日本人は、反射を考えず、平板な色を次々に並べ、動きと形とを捕える独特の線を出しているのだ。黒と白とはやはり色彩であるということでもう充分なのだ。…日本人たちはそれを色として使っているではないか。」「日本の画に現れた全く新しい色彩効果の秘密、そんなものは彼は一目で看破したが、そこから彼が想い描かざるを得なかった幸福の夢は、彼の苦しい思想上の問題につながっていた。」(『ゴッホの手紙』より)

 印象派、日本、ゴーギャンとの出会いがあろうと、ことごとく一種強迫された切羽詰まった諸条件となり、それらがキャンバスの上に塗り立てられていった。アルルに来てからのゴッホの絵に、黄色が取りついた。アトリエも椅子も、アトリエの窓も黄金のような黄色でなければならなかった。燃え上がるような黄色、いまいましい黄色、どこに行きつくのかわからない黄色。張り詰めた緊張の色の黄色。《麦畠》では「私の理性は半ば崩壊した」とテオに伝えている。 小林秀雄は本の序盤でこう語る。「一体自分を語るのと他人を語るのと、どちらが難しい事であろうか。いずれにしても、人間は、決して追い付けないもう一人の人間を追う様に見える。という事は、パスカルの言う様に『人間は限りなく人間を超える』という事になるのであろうか。」そして「「人間には人間を超えるあるものが在る、という強い鋭い感覚をゴッホの書簡全集から得ることができると、私は思っている。」と最後に語る。
 ゴッホの青と黄色が好きである。

(2021.6.20)

 

 

 

1881〜

1888〜

1890〜

 ゴッホ  全作品    

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著者へのメッセージ

樫村慶一様

メッセージありがとうございます。

今回の2冊で、ゴッホがとても身近になりました。常に対峙するような気構えと緊張感が沸いてくる画家でしたが、これからは寄り添えそうな気がしています。専門家が書いた本や学術書ではアプローチしにくいのですが、こうして原田マハさんが未踏分野への登頂の取っ掛かりを作ってくださりとてもうれしいです。気軽に近づけるという切っ掛けがいいですよね。

ところで、コロナ禍により以前のような美術館めぐりが出来ず、困ったもんです。これはぜひ行ってみたいと思う展覧会はチケットを事前にオンラインでクレカ払いで購入。オンラインクレカ払いはしたくない私には致命的です…トホホ。まあ、画集や本で絵画を楽しむことも出来ますので、しばらくは我慢です。

引き続きご指導のほどお願いいたします。

 

08/07 島崎 陽子

 

芸術の評の分かりにくさ

よく研究されていますね。ゴッフォは向日葵、と浮世絵の真似をして絵とかしかしりませんけど、ゴッフォの絵は好きです、家の玄関には一年中向日葵がかかっていています。取り替えるのが面倒になりました。(歳を経て 額は季節を 気にもせず  川太郎)。貧乏人でも絵描きになれるんですね。外国人の画家を評するとき、よくわからない(わかりにくい)表現をします。いつどう家庭で育って、どんな先生について、どのような絵が得意だったとか、ではない、本筋から外れた評が多いような気がします。単純な評だとバカにされるからでしょうかしらね。もっとも、これは映画でも本でも評というものは、元来素人には分からないことをもって良しとすべし、という哲学があるんですね。これからも頑張ってください。

08/02 樫村 慶一

 

松本房子様 へ

マハさんはこの後『リボルバー』を著していますね。

『たゆたえども沈まず』でゴッホを書ききれなかったのではないか、と読書会で発言された方がいらっしゃいました。

小林秀雄『ゴッホの手紙』は泣けます。魂の奥底に入ってきます。

美術と小説を一体化させた原田マハさんは新分野を切り開きましたね。

あいまいだった印象派の生い立ちやゴッホのこと、当時のパリの状況等、この本を通して習得することができました。先日のNHK大河ドラマがパリ万博に行ったところを放映していて、うんうん、とうなずきながら見ることができてにんまりでした。

07/22 島崎 陽子

たゆたえども沈まず

島崎 様

今回も興味深く拝読しました。作家の原田マハについては、松方コレクションの号でも紹介されていたように記憶しております。

ラテン語由来である「どんなに風が吹こうと揺れるだけで決して沈没はしない」という16世紀以来用いられているこの言葉は、戦乱や革命などの困難を乗り越えたパリ市民たちの標語になったとのことを知り、ゴッホの生涯とこのタイトルをリンクさせた原田マハの見識の高さを素晴らしいと感じました。

この刺激を受け、少し前まで読んでいましたカズオ・イシグロの「わたしたちが孤児だった頃」をすばやく読了させ、目下「たゆたえども沈まず」を読んでいる途中です。

次回も楽しみにしております。

07/19 松本 房子


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第13

 

『ヴェニスに死す』 とギリシア神話
     
                

 

 学生時代機上から見下ろしたクレタ島、ギリシア神話が気になり始めた学生のころからいつかあの地へと思いを馳せているうちに〇十年が経過してしまった。クレタ島は地中海に浮かぶギリシア最大の島で、古代ミノア文明が栄えたところである。クノッソス宮殿といえば馴染みがあるだろうか。
 ギリシア神話は西洋音楽や文学、芸術にはどこかにさりげなく挿入されていてよく登場してくる。ゼウスとオリュンポスの神々から始まり壮大な絵巻物語を呈していてすべてを網羅するには私には気の遠くなる話であるが、先般トーマス・マン『ヴェニスに死す』を読書会で取り上げたことでギリシア神話と対峙する機会に遭遇した。この本に真正面から真剣に取り組んでみたとき、目の前に大きく立ちはだかったのがギリシア神話である。ギリシア神話を踏破しないと『ヴェニスに死す』の真髄には入っていくことができないと悶え始めてきてしまったのである。ギュスターヴ・モローの「アフロディテ(添付)」や「ガラティア」に強烈な刺激を受け、モローの描く華やかで幻想の世界に惹かれて画集を開くのが楽みだった頃もあったが、特段さらに突っ込んでみようという気にもならず今日まで来てしまった。
主人公のアッシェンバッハは「自分がいまエリシウムの地につれてこられたように思うことがあった」と語るまでにギリシア神話の世界に誘われていく。エリシウムとはギリシア神話に登場する死後の楽園である。

 今回『ヴェニスに死す』に出て来るギリシア神話のなかでヒュアキントスとナルキッソスについてふれてみたい。
 まず『ヴェニスに死す』のヒュアキントスの場面から。
 「いくたびも、ヴェネチアの背後に太陽が沈むとき、彼は公園のベンチに腰をおろしてタジオを眺めていた。アッシェンバッハは自分が見ているものはヒュアキントスだと思った。そしてヒュアキントスは二柱の神に愛されたために死なねばならなかった。いつも美しいヒュアキントスと一緒に遊ぼうとして、神託を忘れ、弓を忘れ、キタラを忘れてしまった恋敵に対してゼピュロスが抱いた、痛ましい嫉妬の気持をアッシェンバッハは感じた。彼は、円盤が残酷な嫉妬に導かれて、ヒュアキントスの愛らしい頭に当るのを見た。彼は、――彼も蒼ざめならが、折れた身体を受けとめた。そして、ヒュアキントスの甘美な血から咲いた花には、彼の無限の嘆きの刻印が捺されている。」
 ヒャアキントスについては次の通りである。
 「アポロンの愛は女性だけでなく、少年にも向けられました。古代ギリシアでは、大人の男と少年のあいだで結ばれる同性愛の関係は、信頼や同志的な絆に通じるものと考えられており、女性への愛よりも高い価値を持つとされていました。ギリシア神話には同性愛の物語が数多くありますが、それはこうした考えから生まれたものです。
 ヒュアキントスは、アポロンに恋する美少年でした。…西風の神ゼピュロスもこの美少年に思いを寄せており、嫉妬を感じていました。悲劇はアポロンとヒャアキントスが円盤投げを楽しんでいるときに起こりました。アポロンが投げた円盤をキャッチしようと少年が夢中で走っているときに、ゼピュロスが風を吹かせたのです。この風で円盤はヒャアキントスの額に命中し、彼は死んでしまいました。自分の投げた円盤にあたって死んだのを見たアポロンは「花になっていつまでも私の愛を受け続けなさい」といい、ヒャアキントスの額から流れた血からヒアシンスの花を咲かせました。ヒアシンスという花の名は、この悲劇に由来しているのです。」(吉田敦彦著『ギリシア神話』より)

 そしてナルキッソスの場面。
 「彼と少年の視線が合ったときには、歓びと驚きと讃嘆とがはっきりと現われていたにちがいなかった。――そしてこの数秒間にタジオは微笑んでみせたのだ。話しかけるように、親しく、愛らしく、はっきりと、微笑しつつ徐々に開いて行く唇で笑いかけたのである。それは水に自分の顔を映してみたナルキッソスの微笑であった。あのわれとわが美の反映に手をさしのべる、あの深い、魅惑された、誘い寄せられたような微笑であった。――ほんの少し歪んだ微笑であった。歪んだというのは、おのれの影にやさしい唇で接吻しようとする努力の不可能さのゆえで、媚態を含んだ、好奇心を浮べ、かすかな悩みをたたえ、うっとりとした、そしてひとをうっとりさせる微笑であった。」
 ナルキッソスとは。
 「ギリシア伝説中の美少年。この名は〈水仙〉の意。フランス語ではナルシス。森のニンフのエコーから求愛されたが断り、怒ったエコーは復讐の女神に頼んでナルキッソスを自分自身の姿に恋する男にしてしまったため、彼は池に映るわが姿に恋をつづけてやつれ死んでしまい、水仙の花に化したという。精神分析で自己愛をナルシシズムと呼ぶのは、この物語による」(世界宗教用語大辞典より)。
この伝承からフランスでは水仙をナルシスと呼ぶ。

 いずれも主人公アッシェンバッハがタジオの美に吸い込まれるように惹きつけられていく場面である。ギリシア芸術最盛期の彫刻作品を想わせ、自然の世界にも芸術の世界にもこれほど成功した作品はみたことがないと思った少年である。
 タジオが象徴するものは何か、エロスの神だろうか、最後は死してタジオと一体化、神と化して昇天していったのだろうか。至るところでのギリシア神話との絡み合いと融合、アッシェンバッハとタジオとともに濃色の彩りを添えてくれたこの神話、ちっぽけな解釈ではあっても西洋文化への足掛かりの大きな一歩となった。
 本仲間の友人でギリシア神話に詳しい方から次の言葉をいただいた。「日本人における日本神話のようなものでしょう。難しいものではなく知っているとよくわかる教養と思って楽しんでください。」 この一言で肩から力が抜け、踏破するのではなくギリシア神話を楽しもうという気持ちになってきた。
 最後に吉田敦彦氏の本から。
 「欧米の文化や欧米人の考え方を理解するためには、ギリシア神話を知ることが近道であると同時に必須です。ギリシア神話を知ることは、もうひとつ大切な意味があります。それは、科学の目とは違う目で、世界を見直すことができるという点です。…科学が発達したからといって、すべてが満たされるわけではないことにも気づいています。ギリシア神話には、科学だけでは絶対に説明できない自然現象や力があると描かれています。自然の神聖さを思い出し、それを敬う心を取り戻すためにも、多くの人にギリシア神話を知っていただきたいのです。」

(2021.4.29)

 

 

ー 映画「ベニスに死す」 (ヴィスコンティ監督作品) のテーマ曲 ー

 

 

マーラー 交響曲第5番からアダージェット
ノイマン指揮 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団 1977年


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メッセージもよろしく


著者へのメッセージ

松本房子様

いつもメッセージありがとうございます。とてもうれしいです。

パナソニック美術館「クールベ展」を観にいきたいと思っていてもずーっと閉館です。

気長に開館を待つしかありません。

コンスタブル、自分の感性に忠実に描いていてどこかイギリス人らしい上品さを醸していました。先日、E.M.フォースター「ハワーズ・エンド」を読み終えたところで、どっぷりイギリス文化に浸りました。階級社会、辛辣で皮肉たっぷりな人間観察、イギリスの田園風景…。因みにカズオ・イシグロは『日の名残り』でイギリスの田園風景にも“品格”があると語っています(笑)。

 

05/25 島崎 陽子

 

洋画、洋書を理解するうえで、
「ギリシャ神話」の重要性


3回目の非常事態宣言が発出され、博物館、美術館など多くが休館となっています。

その中でいろいろな切り口で、寄稿を継続されており感謝します。

今回は、「ベニスに死す」を足がかりに「ギリシャ神話」について紹介していただきました。とても興味深く拝読いたしました。「ギリシャ神話」というと敷居が高く難しいものだと思っていましたが、全てを理解するのは無理でも部分的に知識として持っていれば、「ギリシャ神話」にまつわる絵画や小説に触れた際には、一層理解が深まるのではないかと思いました。また、別の機会に続編として「ギリシャ神話」にまつわる絵画や小説などを紹介していただけたらと思います。

追記:緊急事態宣言が発出される前に「コンスタブル展」へ行ってきました。やはり、雲の描写には迫力を感じました。また、イギリス文化に触れるひとときでした。

05/21 松本 房子


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第12

 

テート美術館所蔵 《コンスタブル展》
Constable  A History of His affections  in England
 
 2021/ 2/ 20  ー  2021/ 5/ 30  三菱一号館美術館

 

 開催日から数日後の2/23(火・祝)、高ぶる弾む気持ちを転がすようにしてコンスタブル展へ出向いて行った。東京駅から美術館までの丸ビルや三菱関連ビルの重厚な趣のある建物が建ち並ぶ道を歩いて美術館へ。赤煉瓦ビルに掲げられた大きなコンスタブル展垂れ幕が出迎えてくれ、中庭に入ると木々、花々、カフェや銅像が見えてきてヨーロピアンテイストを存分に醸していたお洒落な空間があった。お日様が照っていて、椅子でくつろぐ人たち。
 初めての美術館。各部屋には暖炉があるというイギリス風建物の中でのコンスタブル展、これ以上最適な会場はないようだ。

「三菱一号館は、1894年、開国間もない日本政府が招聘した英国人建築家ジョサイア・コンドルによって設計された、初めての洋風事務所建築です。19世紀後半の英国で流行したクイーン・アン様式が用いられています。」(三菱一号館美術館HPより

 風景画家ジョン・コンスタブルはイングランド東部サフォーク州イースト・バーゴルトに生まれた。父は製粉業を営む裕福な家庭で、自宅周りの草地や小道沿いで遊んだ子どもの頃の楽しい記憶や風景の思い出が画家を志す最初のきっかけとなった。才能の開花には父の理解と支援が大きく、専用のアトリエを用意してくれ、製粉所に画材を置くことを認めてくれて画家活動の環境を整えてくれた。
 結婚して家族が新鮮な空気に触れられるようにとロンドン郊外に位置する高台のハムステッドに住まいを借りて移り住んだ。そこには視界いっぱいに広がる風景と千変万化の空と雲があった。時には画面の半分以上を占めるコンスタブルが描く空と雲。緑豊かな木々や色彩豊かな花々以上に雲に魅了されていたコンスタブルの画家魂はいかばかりか、と突っ込んでみたくなる。「自然は絶対的な規範とみなしうるものだったのではないか」とライター前橋重二氏は述べる。

 「空は自然界の『光の源』であり、あらゆるものを統べている」(コンスタブル)。 コンスタブルは空を観察して記録し、当時最新の気象科学の成果を学んでいたそうだ。虹についても光化学的な原理を理解したうえで描くべきだと考えていたらしい。
 イギリスの天候は非常に変わりやすく、晴れ間がのぞいていたと思うと突然雨雲が押し寄せてきて強い雨模様になり、そしてまた太陽が照り出す…そんな変化の中の雲を捉えて描くのには根気が必要だったに違いないと思うが、雲の描写は変化に富み表情豊かで、雲のみでここまでに起伏を持たせた物語性を描くことができるのかと感嘆した。

 コンスタブルの同僚でライバルにウィリアム・ターナー(1775-1851)がいる。ターナーが一歳年上。二人ともそれまで見向きもされなかった風景を描きイギリスを「風景画大国」に位置付けた。コンスタブルは生涯にわたり一歩たりとも国外に出ることはなかったが、対照的にターナーはフランスとの戦争が終わると足しげく大陸に通った。
 本展覧会の見どころのひとつは二人の一騎打ちの場面である。コンスタブル「ウォータールー橋の開通式」、ターナー「ヘレヴーツリュイスから出航するユトレヒトシティ64号」。 ロイヤル・アカデミィー展においてふたりのこの二つの絵画が並んで展示された。ターナーはコンスタブルの鮮やかな大型作品の隣に自分の絵が配されたことを知り、手直しの期間に画面中央に鮮やかな赤色のブイを付け加えて観客の視線を引きつけようと画策した。歴史に語り継がれるターナーの悪名高い行為。後日「ターナーはここにやってきて銃をぶっ放していったよ」とコンスタブル。この両絵画が当時をしのばせるかのように一室に配されている。
 2020年2月から、20ポンド紙幣にターナーの絵と肖像が採用され、ターナーは紙幣に登場した最初の画家となった。私は本展覧会の後、出口ショップでコンスタブル本(図録外)を購入してコンスタブルを学習して…と目論んでいたのだが、一冊たりともコンスタブルの名を冠した本がなかったことに愕然とした。偉大なイギリス人画家ターナーの陰に二番手として認知されているのであろうか。

 「コンスタブルは自然を描いた芸術家の中で、最も著名な画家であると同時に、間違いなく最も優れた画家のひとりです」(本展より)。 

(2021.3.5)

 

 

ー コンスタブルの展示作品から ー

ターナーの作品は第9回をご覧ください。

 

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著者へのメッセージ

松本房子さま

コンスタブルを通してイギリス文化に触れる、至福の時でした。

こうしてみなさんからコメントもいただき、感無量です。

最近、またコロナ渦で美術館へ積極的に出かける気持になりません。

日にちが開いてしまいますが、近々またアップしようと思っていますので、引き続きご支援お願いいたします。みなさんからいただくコメント、楽しみです。

04/16 島崎 陽子


京極さま

興味深いお話、ありがとうございます。「巡査」なんですね、初めて知りました。

最近イギリス本に凝っていますのでうれしい情報です。

ジョン・ル・カレ、スパイ小説にハマっています。「巡査」が出てきそうな予感ですね。なんとこの作家シリーズの新しい訳者は元KDDマン、加賀山卓朗氏です。

職場で一時期ご一緒させていただきました。

出版社の方も加賀山卓朗さんのお仕事ぶりを絶賛しておりました。

これから加賀山卓朗さん訳を購入して読むところです。すっごく楽しみです。ファンレターをお送りしちゃおうかな(笑)。

04/16 島崎 陽子


コンスタブル展行ってみようと思います

雲の描き方が独特で、流石、雲について研究した成果だと感じました。”百聞は一見にしかず”なので、開催中に足を運ぼうと思っています。

追記:前号のグレゴリー・フランク・ハリスについては、メッセージを書く時期を逸しましたが、時折、バックナンバーから検索し、音楽付きスライドショーを楽しんでおります。得も言われぬ充実感に満たされております。

04/03 松本房子


コンスタブルって
島崎さん

画家 John Constable って良くは知りませんでした。ターナーの風景画は印象にあります。同僚でライバルとはよくあることですね。

なぜか Contable は英国では巡査のことを言うのですよね。警察ものの映画やTVで知っていました。モース警部も若いときは Constable Morseとか。

失礼、変なことを書きました。

03/25 京極 雅夫

 


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第11

 

女性の優雅な生活 を描く画家 
グレゴリー・ フランク・ ハリスと
マンスフィールド 『園遊会』
     

 

 一枚の優雅なお茶会の絵が飛び込んできました。

 フェイスブックからです。テーブルの上の花瓶の花と背景の色とりどりの花々は薔薇の花でしょうか。女性がふたり、お友達同士かしら、会話が気になります、何を話しているのでしょうね。
 画家はグレゴリー・フランク・ハリス、1953年南カリフォルニア生まれ。上流階級の女性の優雅な生活を印象派の絵のように描いています。 一目ぼれしました。何と美しい絵なのでしょう。私はモーツァルトの K353を聴きたくなり、CDを取り出してきました。フランスのシャンソン「La belle Francoise 美しいフランソワーズ」を主題とした12の変奏曲。陽の光が多彩な装飾音符とともにはじけているようです。

  この絵をみて、キャサリン・マンスフィールド『園遊会』(The Garden Party)を思い出したと友人が連絡をくださいました。

 マンスフィールドは短編小説の名手といわれ、『園遊会』はマンスフィールドの最高傑作の代表作といわれている珠玉の一篇です。
 上流階級の無垢な少女ローラが、自宅開催の楽しい園遊会の日に初めて“死”と貧しい人々に直面するお話です。
 物語は園遊会の準備から始まります。明るく澄んだ青空と多彩な植物に満たされた庭、庭に張るテントやバンド、サンドイッチの準備などで家族全員が忙しく動き回っています。
 詩情豊かに印象派の絵のように上流階級の優雅な生活の描写が展開されていきます。

 「薔薇といえば、この花は園遊会のお客の気を惹く花は自分のほかにはない、と自分で考えているようだ」
 「ピンクの百合の鉢がいっぱい、美しい紅の茎に、大きなピンクの花がぼっかり開いて、光り輝き、びっくりするくらいいきいきとしていた」
 ローラの母シェリンダ夫人「一生に一度でいいから、いやっていうほどカンナ百合をほしいと思っていた――園遊会がいい口実よ」
 サンドイッチにはクリーム・チーズにレモンカード。高級店から盛りだくさんのシュークリームを取り寄せます。

 そしてローラは、身近な人々とのふれあいから少しずつ生を認識しかみしめていきます。庭で園遊会の準備をしている、たくましく働く男たちに魅力を感じ始め、理不尽な階級の違いを感じ取ります。
 きれいな目をした職人たちを見て「職人のひとりがラヴェンダーの小枝をつまみ、匂いをかいだ。この職人たちとどうして友達になることができないのかしら。それはすべて、不合理な階級制度にもとづく誤りであると、彼女は決めてしまった」と悟るのです。

 そんな時、料理番が「おそろしい事故があったんですよ。男の人が死んだんです」と血相を変えて報告にやってきます。
 「このすぐ下に何軒か小さな家のあるのをご存じでしょう。あそこにねスコットという、若い馬車屋がいるのです。スコットは放り出されて、後頭部を打ったんです。死んでしまったのです。おかみさんと5人の子供が残されました」
 みすぼらしい住まいがひと固まりになって建っていて、シェリンダ家の子供たちは、小さいときには、そこへ足を踏み入れてはいけないといわれていました。
 ローラは園遊会の中止を主張しますが、家族はとりあってくれません。園遊会が終わると、母はローラに残り物をその家族に届けるように提案し、ローラはそれが良いことなのかどうか悩みながら、籠に食べ物を入れてその家を訪れ、そこで横になっている死人と対面します。

 「そこには若い男が横になっていた――眠りこけていた――とてもぐっすり、とてもふかぶかと眠りこけていた――ずっと向こうに、とても平和に。夢を見ているのだ。眠りをさましてはいけない… 園遊会も、籠も、レースのドレスも彼になんのかかわりがあろう。こういうものから一切から、彼は遠く離れているのだ。彼こそすばらしい、美しい。みんなが笑っている間に、バンドが演奏している間に、この路地にこの奇蹟がおこっていたのだ。幸福…幸福…『総てよし』とこの眠っている顔はかたっているのである。こうあるべきなのだ…心残りはない…と。」

 小説の終末、主人公ローラが兄ローリーに語りかける描写が秀逸でこの短編の名場面になっています。
 帰り際、路地で心配で様子を見に来た兄のローリーにばったり出会います。

 「お母さんが心配していたよ。うまくいったかい?」とローリー。
 「『人生って…』、と彼女はどもりながらいった。『人生っていうのは…』。しかし、人生がなんなのか、彼女には説明できなかった。それでよいのだ。兄はすっかりわかってくれた。『そうだろうね、ローラ』とローリーはいった」(完)。

 “生と死”のはざまに初めて直面し言葉では表現できない感情や戸惑いをやさしく受け止めてくれる兄。
 死人の顔をみて「総てよし」「こうあるべきなのだ」と感じたローラの心境、死生観や人間の感情を超越した宇宙のような果てしなさを私は感じ取りました。

 一枚の絵から音楽と小説へ。そこかしこに春の気配を感じ始める今日このごろ、ゆるやかなお陽様のもと得もいわれぬ充実感に満たされています。 

(2021.1.23)

 

 

ー ハリスの作品から ー

 

 

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メッセージもよろしく


 著者へのメッセージ

松本房子様へ

前回の原稿へのメッセージをありがとうございます。

昨年は美術館巡りが厳しい状況で、思うように活動できませんでした。もちろん皆さまも日常生活において同じ状況だったことでしょう。

それでも楽しみは身の回りにたくさんございます。引き続き小さな楽しみを見つけながら投稿していきたいと思っております。ご感想等(ご指摘も含めて)述べていただくと、私は舞い上がってしまいそうです。

引き続きよろしくお願いいたします。

役員の方々の発案でこのメッセージ欄を新設していただいたのは大きな喜びです。一方的ではなく双方向のコミュニケーションが可能になりましたので。

島崎 陽子

 


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第10

 

夏目漱石と 女性像  
     

 

 夏目漱石関連本を読んでいたら、漱石はジャン=バティスト・グルーズ《少女の頭部図》のこの蠱惑的な女性像を好んでいたそうである。
 意外な印象を受けた。正直驚いた。私が創り上げてきた漱石の小説の中の女性像は、竹久夢二の描くような女性の中に芯の座った、一本気の通った細身の女性である。この絵に描かれているぽっちゃりした少女は想像外だった。
 1985年、当時上映された映画「それから」を観に行き三千代を演じる藤谷美和子が登場してきた時、う~ん、違うなあ~とうなったことを覚えている。あのぽっちゃり感は違う違う、私の描く女性像とは違う、と反感を覚えたものだ。しかしながら、映画監督の森田芳光は漱石好みの女性を知り尽くしたうえで藤谷美和子を選んだのかもしれない、と35年という長い年月が経った今、思い直しているところである。

 『草枕』に那美さんという、キ印とうわさされている女性が出てくる。
 鏡が池に散歩にきた主人公の余は、こんな所に美しい女の浮いているところを描いたらどうだろう、と元の所へ戻ったりと鏡が池周辺を歩きながら想像をめぐらす。ジョン・エヴァレット・ミレイ《オフィーリア》を思い起こす場面である。
 ここで余の脳裏に登場してくるのが那美さんである。
 「お那美さんが記憶のうちに寄せてくる。」
 しかし直後に次のように語る。
 「人間を離れないで人間以上の永久という感じを出すのは容易なことではない。第一顔に困る。あの顔を借りるにしても、あの表情ではだめだ。苦痛が勝ってすべてを打ち壊してしまう。といって無暗に気楽ではなお困る。…やはりお那美さんの顔が一番似合うようだ。しかし何だか物足らない。…あれに嫉妬を加えたら、どうだろう。嫉妬では不安の感が多過ぎる。憎悪はどうだろう。憎悪は烈しすぎる。怒? 怒では全然調和を破る。恨? …ただの恨ではまり俗である。色々に考えた末、しまいにようやくこれだと気が付いた。多くある情緒のうちで、憐れという字のあるのを忘れていた。憐れは神の知らぬ情で、しかし神にもっとも近き人間の情である。お那美さんの表情のうちにはこの憐れの念が少しもあらわれておらぬ。そこが物足らぬのである。」
 漱石は「憐れさ」を醸し出す女性を好んだようだ。
 『草枕』の最後の場面は、那美さんが元夫を汽車で見送るプラットフォームで見せた「憐れ」の表情で主人公余の絵がやっと出来上り、小説の完了となる。

 漱石は小説で花を象徴的に使っていることが多い。
 椿の花の狂おしい女性の擬人化の場面が『草枕』で描かれている。凄味を感じるほどだ。エロス。突き刺さってくるような魔力さえ感じる。長いがこの場面も抜粋してみたい。鏡が池での背景場面である。
 「向う岸の暗い暗い所に椿が咲いている。椿の葉は緑が深すぎて、昼見ても、日向で見ても、軽快な感じはない。ことにこの椿は岩角を、奥へ二、三間遠退いて、花がなければ、何があるか気のつかない所に森閑として、かたまっている。その花が! 一日勘定してもむろん勘定しきれぬほど多い。しかし眼が付けばぜひ勘定したくなるほど鮮やかである。ただ鮮やかというばかりで、いっこう陽気な感じがない。ぱっと燃え立つようで、思わず、気を奪られた、後は何だか凄くなる。あれほど人々を欺す花はない。余は深山椿を見るたびにいつでも妖女の姿を連想する。黒い眼で人を釣り寄せて、しらぬ間に、嫣然たる毒を血管に吹く。欺かれたと悟った頃はすでに遅い。…あの花の色はただの赤ではない。眼を醒ますほどの派出やかさの奥に、言うに言われる沈んだ調子を持っている。悄然として萎れる雨中の梨花には、ただ憐れな感じがする。冷ややかに艶なる月下の海棠には、ただ愛らしい気持ちがある。椿の沈んでいるのはまったく違う。黒ずんだ、毒気のある、恐ろし味を帯びた調子である。この調子を底に持って上部はどこまでも派出に装っている。しかも人に媚ぶる態もなければ、ことさらに人を招く様子も見えぬ。ぱっと咲き、ぽたりと落ち、ぱっと咲いて、幾百年の星霜を、人目にかからぬ山陰に落ち付き払って暮らしている。ただ一眼見たが最後! 見た人は彼女の魔力から金輪際、免るることはできない。あの色はただの赤ではない。屠られたる囚人の血が、自ずから人の眼を惹いて、自ずから人の心を不快にするごとく一種異様な赤である。見ていると、ぽたり赤いやつが水の上に落ちた。…あの花は決して散らない。…また一つ大きいのが血を塗った、人魂のように落ちる。また落ちる。ぽたりぽたりと落ちる。際限なく落ちる。」

 『草枕』では、主人公余が湯に浸かっている時、ガラッとお風呂場の戸が開き那美さんが知らぬ顔で入ってきて入浴する場面がある。唖然とする余ではあるが、那美さんの美しい裸体にしびれてしまう。しかし何かが起こるわけではない。
 漱石が女性の裸体を描いたのは全作品のなかで唯一この場面のみだそうだ。妖艶でどこか娼婦的な女性像を展開させながらも一線を越えないところで留まっているところに、漱石は決して女性を性的対象にはせず、女性に対してのリスペクトをわきまえていたのではないかと思う。
 そして派手派手しい女性ではなく、内部から密かに狂おしさをにじみ出している女性が漱石の本には登場してくるように思われる。内に秘めた魔性の女、色っぽく科を作る艶のある少女めいた女性。椿の花の毒々しさと重なる女性。小説という架空の世界では思う存分、現実離れした好みの人物像を創り上げ、実生活とはかけ離れたところの女性像を漱石は楽しんでいたのだろう。
 鏡子夫人の写真を見た時、ぱっちゃり型の凛としたそのお顔は、冒頭で取り上げた絵の少女にも相通じるものがあると私は合点してしまったのである。

(2020.12.13)

 

 

ー グルーズの作品から ー

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メッセージもよろしく

著者へのメッセージ

松方コレクションから欠かさず拝読しています

次号は何だろうと、いつも楽しみにしております。

コロナ禍の中で、中止となった絵画展もあろうかと思います。題材に苦慮されているかもしれませんが、今後もさらに連載を続けられることを希望します。

松本房子

 


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第9

 

ウィリアム・ターナー  William Turner  (1775/4/23~1851/12/19)
ロンドン、 コヴェント・ガーデン 生まれ


 

 17~18世紀のイギリス風景画の最盛期、ロマン主義を代表する画家として巨匠といわれ、イギリス近代画家に多大に影響を与えた画家。1870年に普仏戦争が勃発した際モネやピサロたちが英国に逃避し、ターナー始め英国画家たちより影響を受けたと言われている。

 ターナー、これまで何度か本物の絵を見る機会はあったが、取り立てて私の興味を掻き立てるほど魅力を感じることはなかった。ぼやっとしたイメージ、輪郭の不明瞭な風景、船、汽車、これらが私が描くターナー像である。 今般、夏目漱石『草枕』を読んでいると、ターナーが2回出て来た。以下に抜粋してみたい。

・・・・・

ターナーがある晩餐の席で、皿に盛るサラドを見詰めながら、涼しい色だ、これがわしの用いる色だとかたわらの人に話したという逸事をある書物で読んだことがあるが、この海老と蕨の色をちょっとターナーに見せてやりたい。いったい西洋の食物で色のいいものは一つもない。あればサラドと赤大根ぐらいなものだ。滋養の点から言ったらどうか知らんが、画家から見るとすこぶる発達せん料理である。そこへ行くと日本の献立は、吸物でも、口取でも、刺身でも物綺麗にできる。会席膳を前へ置いて、一箸もつけずに、眺めたまま帰っても、目の保養からいえば、お茶屋へ上がった甲斐は充分ある。

・・・・・

…してみると、四角な世界から常識と名のつく、一角を摩滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう。このゆえに天然にあれ、人事にあれ、衆俗の辟易して近づきがたしとなすところにおいて、芸術家は無数の淋琅を見、無常の宝璐を知る。俗にこれを名けて美化と言う。その実は美化でも何でもない燦爛たる採光は、炳乎として昔から現象世界に実在している。ただ…(略)、ターナーが汽車を写すまでは汽車の美を解せず、応挙が幽霊を描くまでは幽霊の美を知らずに打ち過ぎるのである。

 国民的作家漱石が1冊の本の中で2回登場させているとなれば、気になって仕方がない。漱石はターナーの作品を愛していたようだ。 調べてみたら、代表作3作品が目に留まった。

1.《戦艦テメレール号》1838~39年 

2.《吹雪-港の沖合の蒸気船》1842年

3.《雨、蒸気、速度-グレート・ウエスタン鉄道》1844年 70歳前の晩年に描いた“最後の傑作”のひとつ

1.テムズ川を下る老朽化した戦艦を描いた作品。テメレール号は新時代の蒸気船にとって代わられ、解体されるために曳航されてゆく様子、赤い夕日に染められた空は哀しみを表現しているという。晩年になるにつれ、モチーフの輪郭が不明瞭になり光と色彩が溶け合うような叙情的な風景画を描き、のちに「印象、日の出」のモネなど印象派に影響を与えた。

2.Steamboat in a Snowstorm

英語の原題の方がすんなり入ってくる。吹雪の中の蒸気船。このころターナーの幾度にもわたるヨーロッパへの旅が始まり、特にイタリアのベニスへは数回訪れ、こよなく愛したこの地の多くのスケッチを残している。フランス、スイス、イタリアへの旅はターナーに大きな収穫をもたらし、彼が光を描くことに影響を与えていった。

3.当時世界最大の鉄道だったグレート・ウエスタン鉄道の黒い蒸気機関車が、テムズ川に架かるメイデンヘッド高架橋の上を猛スピードで走り抜けていく様子を、デフォルメされた遠近法を用いて描いている。産業革命の象徴である機関車の速度感を強調するために、線路の側壁の線を極端に左右に開くという大胆な遠近法を用いて描かれている。産業革命賛歌だそうだ。ターナーが近代化に肯定的だったか否定的だったか、今でも議論が分かれるところとのこと。

 名作『坊ちゃん』にもターナーは登場してくる。赤シャツが野だに「あの松を見たまえ、幹が真直で、上が傘のように開いてターナーの画にありそうだね」と語る場面。野だは「全くターナーですね。どうもあの曲がりぐあいったらありませんね。ターナーそっくりですよ」と得意顔である。ターナーとはなんのことだから知らないが、聞かないでも困らないことだから黙っていた。『坊ちゃん』ではこのあと赤シャツが勝手にこの島を“ターナー島”と命名してしまう。今では松山にある実在の島を“ターナー島”と読んで観光名所になっている。

 漱石のターナー論を読んでみたいと検索してみたが見当たらなかった。漱石ならではのターナー論を覗いてみたい衝動にかられるが、こんな茶目っ気たっぷりに小説に登場させて場を沸かす漱石の遊び心を楽しんでいるだけでも十分である。“光と色彩が溶け合うような叙情的な風景画”に魅せられつつ自分もいることであるし。

*「四角な世界から常識と名のつく、一角を摩滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう」、英訳題名 The Three-Cornered World となった文章です。

(2020.11.2)

 

 

ー ターナーの作品から ー


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第8回

 

The National Gallery, London
ロンドン・ ナショナル・ ギャラリー展

国立西洋美術館 2020年6月18日~ 10月18日

 

 9/20(日)曇天の日に行ってきました。コロナ禍により入場整理券を事前に購入しての鑑賞となりました。事前購入という煩わしさもありましたが、混雑を避けてゆったりと観て回ることができ、結果的にはとても良かったです。
 ロンドン・ナショナル・ギャラリー200年の歴史で、史上初めて英国外での大規模な展覧会とのことです。61作品、すべて初来日。日本で開催されることの意義や価値について中野京子氏が次のように語っています。「ほんとうにすごいこと。とんでもないこと。そういった表現に尽きるでしょうね。一般的な美術館展は目玉となる作品が数点あって、その他大勢が脇を固めるというラインアップがほとんどですが、今回はほとんどの作品が目玉クラス。『61作品、全てが主役!』というキャッチコピーに偽りはありません」。
 作品がバラエティーに富み画家の国籍も多岐にわたり、時代背景や絵画の属性が多様で少々戸惑いもありましたが、中野氏によると、そういった“違い”や“差”に注目しながら見比べるのがこの展覧会を楽しむポイントのひとつでしょう、と仰っています。「完璧に統一感が取れているというわけではなく、良い意味でなんでもありというか、ごった煮状態になっている点もロンドン・ナショナル・ギャラリーの特徴です。ここは他のヨーロッパの多くの有名美術館のように王室が母体ではなく、市民によって設立された美術館でヨーロッパ中から買い集められたコレクションがベースになっています。」
 そしてまた、中野氏は絵画におけるイギリスの国民性を興味深く語っています。「物語が大好きな国民性ということもあってか、イギリスでは美術よりも文学のほうが広く好まれてきました。だから、イギリス出身のメジャーな画家は数えるほどしかいません。…興味深いのは集められた作品に物語が好きなイギリス人らしさが垣間見えるところで、…深い意味やストーリーが込められた作品の多い点が際立った特徴といえます。」  
 パオロ・ウッチェロ、ドミニク・アングル、フランシスコ・デ・スルバラン等の絵は確かに一片の小説から一場面が立ち上がってきているようです。
 会場は7つのセクションに分かれて展示されていました。

- イタリア・ルネサンス
- オランダ絵画の 黄金時代
- ヴァン・ダイクと
 イギリス肖像画
- グランド・ツアー
- スペイン絵画
- 風景画と ピクシャレスク
- イギリスにおける  フランス近代美術受容

 

 私は馴染みのある画家の絵を楽しむことができました。 カナレット《ヴェネツア 大運河のレガッタ》、ゴッホ《ひまわり》、フェルメール《ヴァージナルの前に座る若い女性》、モネ《睡蓮の池》、ルノワール《劇場にて》、ゴーギャン《花瓶の花》

 今回は《ひまわり》を取り上げてみたいと思います。土壁を力強く塗りたくったような筆遣いが印象に残りました。SONPO美術館にも《ひまわり》はありますが、こんなにゴテゴテしていたかしらと気になっているところです。合計11点(または12点)の《ひまわり》のなかで、ロンドン・ナショナル・ギャラリーのは4番目の作品(1888年8月)、SONPO美術館のは5番目(1888年12月~翌年1月)です。この時期、ゴッホが日本絵画から影響を受けていることは知られていますが、「ロンドン・ギャラリー所蔵のものは、背後に塗られた黄金色がひときわ輝き、どこか金屏風を思わせなくもない」と小野正嗣氏は述べています。そして「ゴッホの絵のひまわりがどれも根を断たれ、花瓶に挿されたものであることが気にかかる。すでに萎れはじめている花もいくつかあるように見える」と興味を掻き立てることを語っています。
 日本の切り花とは違い、西洋では切り花は“残された儚い時間”、“死”を意味するそうです。燦燦と輝く太陽の日を受け、その太陽に向かって光り輝くように咲くひまわりの切り花を描くことで、心の闇の部分を対照的に表現しようとしていたのでしょうか。ゴッホを調べていたら“黄色は孤独の中で愛を求める希望、暗闇の中の一条の光”の一文に出会いました。
 会場で、この絵の解説にゲーテの『色彩論』からの抜粋がありました。そのコメントは覚えていませんが、ゲーテは光に一番近い色が黄、闇に一番近い色が青であるとする、とその著書で述べています。「もっと光を」とも関連性があるのでしょうか(笑)。『色彩論』はターナーの絵にも影響を与えたようです。『色彩論』を初めて知り、ゲーテの多才さに驚かされた日でもありました。

(2020.9.22)

公式ページはこちら 

 

 

ー 展示作品から ー

 

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第7回(2020年8月)

 

ざくろの聖母子と 神秘の磔刑
サンドロ・ボッティチェリ(1444/45 ~ 1510)
「春の戴冠」辻邦生著 を読んで 第3回(完)


 ジロラモ・サヴォナローラ、後にサン・マルコ修道院長となるこの僧侶の登場で、フィオレンツァに暗雲が立ち込め、フィオレンツァは大きな変遷をたどってゆく。
 ジロラモは、フィオレンツァの諸悪の根源であるとされたメディチ家による独裁体制を批判、「祈りによる統治」を掲げ信仰に立ち返るよう市民に訴え、激しい言葉で市民たちの心をわしづかみにしていった。少年たちを集めて説教、扇動していき、その少年たちの騒動は常軌を逸するまでになり、街を歩いている女たちのブローチや首飾りを奪い、各家を訪ねて贅沢品と思われるものを破壊し奪い取っていった。ジロラモを崇拝していく少年少女たちの態度にはどこか子供らしからぬ残忍さ、執拗さ、あくどさが加わり始め、少しでも彼らの考える基準に合わぬ人間を見ると、糾弾し嘲笑するのであった。なぜ手の汚れていない子供たちがそれをやる必要があるのか。
 「虚飾をやめよ、キリストに栄光あれ」が合言葉になっていった。謝肉祭、ドゥオーモに姿を見せたジロラモの説教は人々の熱狂を呼び起こした。多くの人々は以前の華美な祭礼よりこの簡素な復活祭の方が、はるかに荘厳で清浄感に満ち、神を身近に感じることができると言っていた。こうした清浄感に打たれた人々の心を捉えたのがジロラモの説教であった。
 しかしながら数年経つと、人々もさすがにジロラモの言葉だけでは、差し迫った不安や空腹はどうにもできぬことを理解していった。疫病、死人、穀物の値上がりと人々の不安は増していった。反対派が立ち上がり、ジロラモに対する理由のない嫌悪感が突然火のように拡がった。サン・マルコ修道院に暴徒と化した市民が押し寄せ、ついに共和国もサヴォナローラを拘束し、絞首刑ののち火刑に処され殉教した。
 このころサンドロの絵は、急に激しさを加え、なまなましくなり、喘ぐようになって、そして突然、火が消えたように描かれなくなり、いっそう陰気になっていた。体調を崩し病床で過ごす日々となっていった。

 ジロラモに扇動された少年少女たちのなかに、語り手の次女、アンナがいた。生真面目で笑うことのない少女、尼になり尼僧院で暮らしている。父から尼僧院に住むアンナへの思いが述べられている。
 「アンナ、お前はいま何を考えているのだ。ひたむきに正義と愛とを求める気持はよくわかる。だが、人間には美も要れば悦楽も要る。たまには笑声をあげ、冗談を言い、朝ねをし、酒を飲むことも必要なのだ。そういう弱点を持っているからこそ、人間は互いに許し合うこともできるのだ」。
 この小説は尼僧院のアンナから父の語り手への手紙で幕を閉じる。長くなるがここに抜粋したい。アンナとサンドロは、父の知らないところで交友を深める友人同士であった。
 「最大の喜びは、サンドロが死ぬ前に、私の好きな『聖母子像』を尼僧院に贈ってくれたことでした。礼拝堂にゆくたびに、この美しい円形肖像画の前に、ながいこと座っております。心が安らいでいるのはそのためなんです。あのやさしい顔をした幼児キリストが聖母の手にあるざくろに触っている絵です。お父さまはこの聖母のモデルが、サンドロやお父さまが憧れていたシモネッタのお母さまだ、と仰っていましたね。私を捉えたのは、サンドロの絵のなかにある魂でした。
 お父さまが首をかしげ、多くのサンドロ愛好家が不安な表情をしたあの最後の絵、それを最後に、サンドロはもう二度と画筆をとろうとしなかった絵ほど、私の心を捉えて放さないものはないのです。色も形も混沌としているあの絵の遠景にフィオレンツァの都市が見えている。十字架にとりすがる前景の女。気味の悪い赤い眼の狐が女の衣服の下から逃げ出そうとするところです。フィオレンツァの半分は火焔に包まれ、天使が女に向かって立ち、剣を振りあげてもう一匹の狐をこらしめています。火焔は嵐に煽られ、悪魔の大軍はなお無数の火を投げているのです。
 フィオレンツァの形をとって現れた人間の運命というふうに受け取って頂きたい。十字架を抱いて心から痛悔するときだけ、自分の深い根源の正しさに向かって、自分の一切の虚偽、不正、冷酷を告発するときのみ、はじめて人間の心が美にかなうようになることを、この絵で示しているのです。この最後の絵がサンドロの心の絵であり、私の心であり、十字架の心を描いていると信じることができるのです。ジロラモへの心酔がサンドロから絵を描く根拠を失わせたといいます。サンドロはもう絵を描く必要がなかったのです。あの最後の絵のなかにサンドロの心は、すっかり言いつくされてしまったからです。サンドロは本当の生を心から生きたのです。あれから、時間をこえたところ、場所をこえたところで生きつづけました。それはサンドロがよく言っていたように〈永遠〉という言葉がいちばんふさわしかったでしょう。
 私たちが〈地上にいる〉ということだけで、すでに一切が成就している、サンドロが静かな老年の生活のなかで示したのは、単純にこの真実であったのです。しかしそのことに思いを致すときほどに〈永生〉を感じることがあるでしょうか。人々の生死も、花々も、雲も、風も、こうした思いのなかでのみ、ヴィーナスが誕生したあの朝の香しい軽やかな光を取り戻せるのです。」

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 私にはアンナの次の言葉が重くのしかかっている。
 「私はなおジロラモを信じておりますが、ジロラモの本当の心は少年たちの仲間よりも、ずっとずっとサンドロに近いと思われました」。
 『ヴィーナスの誕生』『春』、その他数々の甘美な香しい陶酔するような絵を描き続けてきたサンドロと、フィオレンツァを陥れたジロラモとが心の内では最も近い関係にあったというのだ。この長編を数週間かけて読んできて、このような言葉がアンナから出てこようとは、そしてこの小説の締めがこの言葉で終えようとは誰が想像できたであろうか。
 アンナにこの言葉を語らせて静かに完了、本の最後に確かに(完)とあるが、ルネサンス以降の人々と私たち読者に「永遠に同じ出来事を演技する、それが人間なんだ(サンドロ)」の言葉と同時に、他人の心を理解することはできず、人間は常に問題を抱えながら未解決で曖昧模糊としながら日常を送っていく、これが〈神的なもの〉である、と辻邦生氏は提示しているように思えるのです。その提起された問題も心豊かな日常と表裏一体ですよ、と言っているように思えて仕方がないのです。(完)ではなく、サンドロの言うように繰り返していくのです。そして「私たちが〈地上にいる〉ということだけで、すでに一切が成就している(アンナ)」
のです。
 小説の構成、語り手とサンドロとの関係、語り手父と叔父とフィオレンツァ経済行政との関わり、語り手娘アンナとジロラモとサンドロの関係等々、全てにおいて卓越した小説である。これから時間をかけてじっくりとこの小説を消化、咀嚼していきたい。


アンナの手紙に出てきたサンドロ最後の絵について
 
京谷啓徳著
『もっと知りたいボッティチェリ』(東京美術より)

「黙示録的なイメージや、悔悛によりフィオレンツェが救済さるという意味内容は、サヴォナローラの説教や改革に基づくと考えられる。とりわけサヴォナローラの存在の深く刻印された作品であり、サヴォナローラ主義者の注文によるものであろうと推定される。
 

 

 

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2020年7月

 

カステッロの受胎告知 サンドロ・ボッティチェリ(1444/45 ~ 1510) 「春の戴冠」辻邦生著を読んで 第2回 

  

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 聖マルティノ寺院から依頼された「受胎告知」の背景に、一本の樹が枝葉を空に開いている。明らかに北方画家の作品の背景に触発された雰囲気、不思議な静謐感。一本の樹木はこの細長い窓の枠取りの中央に、内と外の両方を静かに眺める証人のように立っていた。
 私にはその樹木が無人の、音の絶えたような、澄明な神聖劇の唯一の観客のように思えた。それは沈黙した、敬虔な存在に化身した人類そのものに他ならぬのではないか。「神曲」の詩人と同じように、自由な視覚で〈神的なもの〉を表わす形を空想の中から呼び出している。この異国風な風景のなかに私は地上の静寂と懐かしさを感じる。(本文より)

 本の主人公に語らせたこの描写。
 推敲に推敲を重ねたのであろうか、それとも想うがままにペンを走らせたのであろうか、無駄のない文章で情景を見事に描き切っている。静謐感、澄明さ、敬虔さ、懐かしさを全身で感じ取ることができ、放心するように陶酔してしまう。辻邦生を敬い仰ぎ見、大ファンであるといいたくなるこのような描写場面に至る所で出会う。
 私が今回この絵を取り上げたのには理由がある。1489-1490に製作されたこの絵はフランドル派の影響を受けているといわれていてこの頃から芸術作品に北方の暗示が見られ始めてきたからである。絵画では、遠くがぼんやり霧で薄れるトスカナにおいて、それまで冷たく澄んだ水のような空気の表現は不可能だったそうだ。それまでフィオレンツァでは試みられなかった画法で、その澄明な空気を湛えた実物そっくりに描かれた世界は驚異的だっだそうである。北方画家たちの影響が拡がり始めた。
 そこには当時のフィオレンツァとヨーロッパの政治情勢が大きく関わっている。
 そのころまでにはメヂィチ銀行の柱がぐらつき始め、すでにロンドン支店が閉鎖されていた。北ヨーロッパのみょうばん独占販売権を失い、今度はアヴィニヨン支店の崩壊と続いていた。
 すでに英国もネールランディアも羊毛をフィオレンツァに輸出せず自国産の毛織製品で自給自足をはじめていて、フィオレンツァの輸出入業にも大きな陰りが見えてきていた。メディチ家当主のロレンツォにはもはや打開の道はなく、問題は各支店をいつ閉鎖するかにあった。一日のばせばそれだけメディチ家の財政に負担が加わることは眼に見えていた。一斉に引き揚げることはロレンツォの地位を危うくするのではないかという忠告の声のなか、最後にブリュージュ、ヴェネツィア、アヴィニヨンの三支店の閉鎖を決定したのはロレンツォ自身だった。実質的な負担を軽減したほうがメディチの力を温存することになるとロレンツォは判断した。
 ブリュージュのメディチ商会を取り仕切っていたのがトマソ・ボルティナリ。ブリュージュ支店が閉鎖されブラドラン館が売却されて、ボルティナリが生涯の大半を過ごしたブリュージュからフィオレンツァに戻ってきた。ボルティナリの屋敷に相当の数の北方都市の絵画、木彫、レース飾り、家具、飾物、つぼ、細工物、装身具が持ち帰られていた。
 フィオレンツァの人たちが北方文化に触れる大きな契機となった出来事である。
 ボッティチェリをはじめとした画家や職人たちも足しげく通い詰めたのであろうか。新しい世界に目を見張るボッティチェリのクリクリとした目と純真な好奇心を垣間見るようである。

 京谷啓徳著『もっと知りたいボッティチェリ』東京美術より。
『カステッロの受胎告知』について
 マリアは美しい曲線を見せながら、思わず身を引くかのようなポーズを見せており、戸惑いと受け入れの間の絶妙なパランスが感じられる。
 この作品で焦点になっているのは、マリアと大天使ガブリエルの手振りにより対話だ。垂直に立てた天使の手は、開口部の垂直線と一致し、それに対して、同じ形を繰り返すマリアの両手のうち、右手は開口部のくり型のなかにぴったりと収まることによって、その役割を際立たせている。彼らの手先の、いかに表情豊かなことか。戸惑いながらも天使を受け入れようとするマリアの心情が、彼女の表現とポーズに加えて、この手によるコミュニケーションによっても見事に表現されている。通常描かれる象徴的なモチーフは切り詰められ、ガブリエルとマリアが大きくクローズ・アップされたこの作品は、キリスト教の教義の図解よりも、人間的なドラマの表現に比重があるといえる。

 ロレンツォ時代のボッティチェリについて付記しておきたい。
 当初、ボッティチェリ初期の時代の評判はさして目立ったものではなかった。当時の流行から離れていて、画家仲間ではどこか異質の人物、わかりにくい人物、煙ったい人物と見なされるようになっていた。ボッティチェリの絵は、ただきれいごとを狙っているだけ、真実味が欠けていて〈ありのまま〉が描かれていないという批判があった。
 ところがコシモやピエロの時代が終わり、ロレンツォが花の都に春をもたらした時代になると、急激な人々の好みの変化があり、ボッティチェリの出現は町の人々に待たれていたものであった。まさに人々が求めていた〈神的なもの〉が現われていて人々の心に広く感じら受け入れられるようになってきていたのである。 

 

 

 

 

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2020年6月

 

プリマヴェーラ(Primavera)/春 サンドロ・ボッティチェリ(1444/45 ~ 1510) 「春の戴冠」辻邦生著を読んで 第1回 

  

 3月から読み始めた「春の戴冠」中公文庫全4巻を5月中旬に読み終えた。長編、週末のみに取れる読書時間、要点をメモりながらの読書となったので時間がかかったが十分に満足のいく読み方ができたと思っている。この壮大なルネサンス期の歴史ドラマを理解し咀嚼していくには、読書メモを取る以外に方法がないと考え、ペンを持つ指に疲れを感じた時もあったが最後まで遂げることができた。画家サンドロ・ボッティチェリの生涯を軸として展開される花の都フィオレンツァの物語である。フィオレンツァの政治経済、フィチーノ先生を中心とするプラトン・アカデミア、シモネッタとジュリア―ノの恋物語、メディア家の興亡、ジロラモ・サヴォナローナによる春の終焉。読了後の今、豪華華麗で壮観な大きなうねりが体のなかに渦巻いていて、体と精神がルネサンス期のフィオレンツァを浮遊している感覚である。数回に渡ってこの本に出てくる絵画を取り上げてみたい。
 初回となる今月は『プリマヴェーラ(Primavera)/春』。
 ウフィツィ美術館で数回観ている絵である。フィオレンツァにある全ての絵画についていえることではあるが、この本を読む前と後では鑑賞眼に大きな違いがあることは明白である。2016年1/16~4/3 東京都美術館でボッテチィリ展が開催され、その時にも足を運んだが同じことがいえる。この時に購入してきて居間の壁に立て掛けてある『春』のレプリカを見ながら『春』の部分を読み進めていった。
 この絵はロレンツォ・デ・メディチの結婚を祝う目的で描かれたといわれている。ロレンツォはボッティチェリやリッピら芸術家を擁護し、ボッティチェリも顔を出していたプラトン・アカデミアにも参加し芸術・文芸のパトロンとして親しまれ敬愛されていた。 本の2巻終盤に『春』が完成に至るまでの経緯と、製作中のボッティチェリの苦悩、苦心、迷走など心の内奥が描かれている。プラトン・アカデミアの思索を絵画で表現したものがこの傑作、死の床にあるシモネッタの生命を絵によって救済しようとし、シモネッタその人を〈永遠の不滅〉であることを表現している。ゼフィロス(西風)が2人の女に戯れかけ、乙女が香しきフローラ(花の女神)に変身。中央の三美神の輪舞は美の女神、憧れの女神、快楽の女神。左側にヘルメス、7人の人物をまとめているのがこのヘルメス。ヘルメスが死であると同時に蘇りを示していて、左への進行が元に戻って右側から再び始まることとなる。 単なる名画の1枚だった居間の絵に息吹が感じられ、生命が宿ってきた。 ボッティチェリは絵が出来上がった時、病床のシモネッタを訪ねてシモネッタに絵を見せた。シモネッタはジュリアーノの愛人、23才で病死、ヴィーナスのモデルと言われている女性である。
 シモネッタは次のように語る。 「世界じゅうの人間が、この絵があることを伝え聞いて、きっとフィオレンツァに集ってくるでしょう。そしてそのとき、いつも、そうした大勢の人たちのなかで生きることができる。人間って、こうした〈美しいもの〉を見るためには、明日死ぬことがわかっていても、遠くへ旅立とうと思うもの。この〈美しいもの〉が人間の心を高く打ち響かせ、死をさえ、小さな、取るに足らぬものに思わせるの。」
 花の女神フローラの言葉の音が醸す優しさと優雅さを感じるこの絵にシモネッタの姿が重なる。花の香に満たされている春の訪れと死、フィオレンツァ一の美女と薄命。「左への進行が戻ってまた右側から始まる」、ボッティチェリはシモネッタの死を間近にして「再生」をこの絵で表現しようとしたのだろうか。
 本のなかで繰り返し述べられたフィオレンツァの春は、この作品『春』とボッティチェリとともに永遠に生きていくことであろう。私自身、甘美で華麗な花盛りの都市フィオレンツァの豊潤さをまといながら、これからの後半生を生きていきたいものであると読了後に思った。 “春になってトスカナの空が明るく晴れ渡り、桜草が土手に花をのぞかせるようになった。” シモネッタが亡くなってもフィオレンツァの春は永遠である。

 

 

 

 

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2020年5月

 

シシィ(皇后エリザベート) 上野国立西洋美術館『ハプスブルク展』より  

  

 昨年10月~今年1月、上野国立西洋美術館にて『ハプスブルク展 600年にわたる帝国コレクションの歴史』が開催され、秋の日差しがさす休日に行ってきた。ハプスブルク家の隆盛の基礎を築いたマクシミリアン1世の絵画から始まり、マリア・テレジア、アントワネット、フランツ・ヨーゼフ、シシィ(エリザベートの愛称)、マルガリータ・テリサとハプスブルク家一家が一堂に会した展覧会だった。
今回はそのなかで不遇の一生を遂げたオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフの妃、絶世の美女シシィ(1837.12.24-1898.9.10)に焦点をあててみたい。私が訪れたことのあるオーストリア郊外のバート・イシュルとハンガリーとの関係に的を絞って進めていく。
 フランツ・ヨーゼフとシシィの出会いはザルツカンマーグート、オーストリア最古の温泉の町、皇帝一家の避暑地があったバート・イシュルである。ここでフランツのお見合いが行われたときのこと、お見合いの相手はシシィの姉だったがフランツが心惹かれたのは15才の妹シシィであった。フランツに見初められ求婚されたことでシシィの数奇な運命が始まる。  
 結婚してウィーンで華やかな宮廷生活に入るも姑のゾフィーが取り仕切る宮廷は居心地が悪く、フランツは業務に明け暮れシシィに真正面から向き合ってくれることはない。宮廷の堅苦しい儀式にも疲れ、シシィの日常は常に逃避の連続だった。ウィーンの生活に疲れるとシシィはバート・イシュルの夏の別荘カイザーヴィラにきて過ごしたという。シシィがくつろいで過ごした部屋は今も残っている。
 バート・イシュル、この町はもうひとつの意味で私には強烈な記憶として残っている。1914年7月28日、皇帝がサラエヴォ事件を受けてセルビアに対する宣戦布告に署名した場所であるのである。署名をしたカイザーヴィラの執務室の机の前に立ったとき、私は皇帝の気配を感じ生身のひとりの人間として感じたことを覚えている。一種の緊張感が走り、身震いするほどの思いをしたものだった。
 さて、シシィはオーストリア帝国からの独立を求めるハンガリー人に好意的になっていった。その理由は姑ゾフィーがハンガリーを嫌っていたという感情的な理由からである。シシィのその好意的な行為はオーストリア=ハンガリー二重帝国成立への真の立役者にシシィを成長させていく。ハンガリー民族の立場を尊重し、二重帝国に再編成するようにというシシィの勧告があって成立に至ったといわれている。
 シシィのハンガリー人への慈しみや愛情の表れはシシィの日常生活や身の回りにもみられた。ハンガリー人の侍従や女官を身近におき、ハンガリー語を自由自在に使い、ハンガリーを第二の故郷として頻繁に訪れた。そしてシシィのハンガリーへの思いと同等にハンガリー人もシシィを愛した。シシィが亡くなったとき、その柩の上には「オーストリア皇后」とだけ記されていたが、ハンガリーが抗議をして「ハンガリー王妃」と付け加えたという。
 ハンガリーの首都ブダペストにはエリザベートの名を冠した橋が架けられている。ハンガリー人のシシィへの情愛と敬慕の表れのひとつである。30年ほど前、私はウィーンからフェリーでブダペストへ入り、19時エリザベート橋のたもとにフェリーが停泊するため速度を落として、夕方から夜に変わろうとする銀色の世界のなかに高貴で華麗、優雅な真珠のごとく輝くブダ王宮が見えてきたとき、その幻想的な王宮を見上げながら感嘆の声を発するほど興奮していたことを思いだす。私のシシィとハンガリーとの出会いの原点である。

 シシィはハンガリーでは今でも絶大な人気を誇っている。
 シシィの生涯は苦悩の多い波乱に富んだ人生だった。ひとり息子のルドルフはマイヤーリンクで謎の死を遂げるなど悲劇に見舞われた人生を送った。
1898年9月10日、スイス、ジュネーブでシシィが暗殺された時、皇帝フランツ・ヨーゼフは「私がシシィをどれほど愛したかは誰にも分からないだろう」と側近に繰り返し言い続けたという。

 

 

 

ー ハプスブルグ展出品作品 ー

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2020年4月

 

真珠の耳飾りの少女 トレイシー・シュバリエ著を読んで 訳者:木下哲夫

  

 1664‐1665年 そして1676年
 肩越しに振り返り、濡れた唇に情感を漂わせ、大きな瞳でこちらを見ている青いターバンを巻いた少女。真珠の耳飾りに秘められた物語。
 モデルとなったフェルメール家の女中フリートをめぐり、旦那様(フェルメール)と妻カタリーナ、同居するカタリーナの母親、5人の子供たち(最終的には11人の子持ちとなる)、女中の先輩タンネケ(牛乳を注ぐ女のモデル)、そして将来の夫となる精肉屋の息子ピーテルたちとが織りなす小都市デルフトの一角での人間模様。そうそう、旦那様の重要な顧客で、フリートにちょっかいを出すファン・ライフェンの存在も無視できません。大きな目の17才のフリートはさぞかし魅惑的だったのでしょう。
 カタリーナのフリートに対する嫉妬心との闘い、嫌がらせをする子供、バランスを取ろうとするカタリーナ母、常に画家の目を通して(と思われる)フリートに接している旦那様、一枚の世界的名画が出来上がるまでの過程は、ページを追うごとに複雑な人間模様との絡み具合とともに興味が増幅していきました。
 この時代、顔料の調合に亜麻仁油が使われていたのには驚きました。今、体にいいとしてスーパーに並び始めていますが高くて手が出ません。高額な材料―青・赤・黄―は小分けにして豚の膀胱にしまっていたそうです。風邪薬として乾燥したニワトコの花とフキタンポポの溶液が出てきます。当時の人たちの知恵には驚嘆するばかりです。
 プロテスタンとカトリックの静かないがみあいと共存も随所に描かれていて、当時の社会状況の一端を垣間見ることができます。
 時がたつにつれて、フリートは旦那様の重要な助手になっていきました。カメラ・オプスクラを巧みに使用する旦那様とその手伝いをするフリート。旦那様から色の選定に助言を求められ、茶色と返答するフリートに「なぜ茶色を選んだのかね」、青と黄色は淑女の色だということを旦那様に申し上げるのも気が進まないとはにかむ純真なフリート。
 そして旦那様の画家魂。水差しと水盤に数か月の月日をかけて描く旦那様、椅子に掛ける布やモデルの娘さんの胴着と違い、水差しと水盤は何よりも手が込んでいてこういう色でなければならないという色へ仕上げていく様子はフェルメールの穏やかで強靭な執念を感じます。
 数か月後、フリートがモデルとなった「真珠の首飾りの少女」が出来上がった時、絵の前にはパレットナイフを持って絵のなかのフリートにダイヤモンドの刃を突き立てようとするカタリーナがいました。咄嗟にその手首をつかんだ旦那様、フリートはフェルメール家を出て脇目もふらず一目散に逃げ回り、フェルメール家に戻ることは二度とありませんでした。
 月日が流れ11年後の1676年、結末は耳たぶに掛けられた大きな真珠の意外な行方で幕が閉じました。最終ページのわずか数行の出来事に驚きしばし茫然としましたが、読み終えて気持ちが落ち着けば傑作と思える終わり方に納得し脱帽しました。
フェルメールの遺言「真珠の耳飾りをフリートへ」、その耳飾りをフリートに届けるカタリーナ、そしてその耳飾りを質屋にもっていき生活の足しにするフリート。
人間模様の終着点の整理とその具現化。
ピエールと結婚、男の子の親となっていたフリート、今後のフリートに幸あれと強く願って止みませんでした。

木下哲夫氏
「著者はフェルメールの絵のような小説を志したのではないか。フェルメールの絵は言うまでもなく、芸術のジャンルを問わずとびきりの上物。較べる相手としてはモーツァルトくらいしか思いつかないほどの傑出した存在。」

 

 

 

ー フェルメール展から ー

 

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2020年3月

 

オランジュリー美術館コレクション ー ルノワールとパリに恋した12人の画家たち (2019/9/21-2020/1/13)

  横浜美術館

 パリ、セーヌ川岸に佇むオランジュリー美術館から70点の作品が横浜美術館にやってきました。 
 初めて訪れる横浜美術館、入り口を入るとオルセー美術館内を彷彿とさせる広々とした吹き抜けの造りに心が躍りました。印象派が似合うとひとりにんまりです。
 20世紀初頭、自動車修理工だったギヨームはアフリカ彫刻に興味を持ち始め、それがきっかけでパリの画家たちとの交流が深まり画廊を開設、コレクターとして絵画の収集を始めました。ギヨーム死後は妻ドメニカが担い、最終的にはフランス国家に譲渡、オランジュリー美術館で展示されることになりました。モディリアーニが描く肖像画でおなじみのギヨーム、今回の展覧会でその画商の人となりが解説されていて、ようやく人物像が判明、少々不気味な様相を呈していた肖像画のキヨームに親しみを覚えるようになりました。

 

 一枚の絵、オーギュスト・ルノワール「ピアノを弾く少女たち」に会いたくて、お正月休みに出かけてまいりました。 姉妹なのでしょうか、あるいは仲のいいお友達なのでしょうか、一緒に楽譜を覗き込む愛らしいふたりにこちらが幸せいっぱいな気持ちになってきます。水玉模様のワンピースのかわいらしいこと、後ろで結ばれて椅子にたらんと垂れるブルーの布のベルトがいいアクセントになっていますね。この絵を引き締めいっそう引き立てています。椅子の背もたれの細い造りの精巧さがピアノ右側のあいまいな描写と好対照をなしていますが、計算されつくしたデッサンなのでしょうか。
 ふくよかな金髪の髪の毛は展示室の淡い光に照らされ、本物のように輝いていました。
 少女たちの純粋無垢な生命観、あふれ出る生きることの楽しさや喜び。みなさんはどんな曲をアレンジされますか? 

 アンリ・マティスも好きな画家のひとりです。「ブドワール(女性の私室)」「ソファーの女たちあるいは長椅子」、ヨーロッパの海辺に佇む家の一室でしょうか、穏やかさにほっとします。上品な淡いパステル調の色彩の組み合わせに魅了され続けています。 「線の単純化と色彩の純化によって作者の個性や感情が伝わる表現を追求した画家」(解説本より)、十二分にその想いが伝わってきます。
 瀟洒でトレンディな建物が並ぶお洒落な街、横浜。最寄り駅の桜木町から美術館までの10分ほどの道のり、胸をときめかせながら美術館へ向かい、夕暮れ時の退館後は満足感と幸福感で満たされた気持ちが街並みに暖かく包まれるのを感じました。
 年始を彩る素敵な一日でした。

 

 

 

ー 展示作品から ー

 

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2020年2月

 

コートールド美術館展  魅惑の印象派

 

  昨年12/8(日)快晴、残り1週間となった上野東京都美術館《コートールド美術館展 魅惑の印象派》に行ってきました。ポスターに使用されているエドゥアール・マネ「フォリー=ベルジェールのバー」のお出迎えを受け、胸をときめかせながら入場しました。
 コートールド美術館、今回初めてこの美術館の存在を知りました。学生時代、数回のロンドンへの旅の時にひょっとしたら足を伸ばしていたのかもしれませんが記憶になし。美術館改修工事のために今般多くの名作が来日できることになったようです。

 美術館創設者サミュエル・コートールド(1876-1947)はイギリスの実業家でフランス近代絵画の魅力を母国に伝えたいと1920年代を中心に精力的に絵画を収集、ロンドン大学に美術研究所が創設されることが決まるとコレクションを寄贈しコートールド美術館誕生に至りました。
 上野の館内にはセザンヌ、ドガ、ゴーガン、マネ、ルノワール、ロートレック、モネ、モディリアーニと傑作が勢ぞろい、展示数も多く見応え十分でした。

 私の目を引いた作品のひとつはモネ「花瓶の花」(1881-1882)。華やかでみずみずしく、淡々しい桃色で統一されていて愛くるしい可憐な姿に引き寄せられました。水色のテーブルと藍色の花瓶との配色も絶妙、和室にも似合いそうな雰囲気ですね。場を引き立て和ませてくれることでしょう。
 マネ「フォリー=ベルジュールのバー」の前では、黒山の人だかりの中、時間を忘れて立ち尽くしていました。何かを語りかけてくるようなあるいは注文を待ち受けているかのような謎めいた表情の売り子、テーブルの上の琥珀色やロゼ色のアルコールが透けて見える魅惑的な数々の瓶、マネのサインが刻まれた左端のボトル、フルーツ皿に盛られたリアル感たっぷりのオレンジ、背後の観客の紳士淑女たちのざわめき…。この絵との対峙と会話が醸しだしてくれた異国情緒満載の世界はそれはそれは素敵なエキゾチックな空間でした。
 少女の両腕の長さがちぐはぐであったり鏡に映る少女の背中の位置が不正確であったりと、観る者の注意喚起と想像を呼び起こすアンバランスの構図はマネの遊び心でしょうか、この絵の楽しみのひとつにもなっています。左上の空中ブランコの両足にはドキリとさせられますね。
 “マネ最晩年の傑作”のタイトルにふさわしい、期待に応える一枚の絵でした。

 

 

ー 展示作品から ー


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