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このページでは米寿あるいは喜寿を迎えられた会員の皆さんに寄稿をお願いし、いただいたメッセージを掲載しています。

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米寿を迎えて
 
喜寿を迎えて

バックナンバー
  
2018年上期
 
 


  
2018年下期
 

米寿を迎えて
 
天沼 松次郎 さん

 米寿を迎えた7月末、地元の「夏まつり」で「血管年齢」を見ることができた。
 自治会の保健活動推進委員のコーナーで、高齢者が多数ならんでいた。検査器に右手をのせ、人差し指を中心に検査する。検出されたメモ用紙を見てスタッフともどもビックリ。「血管年齢は4X歳です(私の実年齢の1/2)。あなたの年代では良好な機能といえます」。以前にもかなり若いことは知っていたがまさかと。早速いろいろ調べてみる。「血管の硬さから導き出し、固くなるほど「血管年齢」は高くなる。血管には、酸素や栄養素をカラダの隅々まで届けたり、老廃物を回収する役割がある、血管が若々しく、しなやかな状態だと、血流がスムーズになって全身の代謝を促進しやすくなる」そうです。
 なるほど、朝早く起きて、野菜たっぷりの食事を作り、変形性膝関節症と脊柱菅狭窄症と診断されていながら、ドクターから指示された毎日3回のストレッチ体操を執拗にやり続けた結果だろうか? 月曜から金曜まで子どもたちの見守りを続けて7年。一日4千歩以上の歩行運動は結果を示してくれたのか?
 私の健康法と、最近になって嬉しいことの一つです。

 毎年8月になると、この国の戦争と平和を考えます。
 先日、主宰している防災委員会が終わり、暑気払いにビール片手に語った私のむかし話ですこしもり上がった。戦前生まれはわたしだけ。自治 会長の女性は「戦争体験の語り部になって地域の子どもたちにも話してほしい」と持ちかけられた。「そんなこ
とがあったとは知りませんでした」と何人かは語る。
 終戦の年,1945年4月頃、国民学校最高学年で高等科2年の私は14歳。毎日60センチほどの樫(かし)の棒をもっての登校した。戦時中の小学校は本土決戦に備えて校舎の半分は軍隊の宿舎になり、校庭では毎日軍事教練が行われていた。リヤカーを戦車に見立て、弾薬を背にした兵士が「たこつぼ」から飛びだす肉弾特攻の訓練もやれていた。本物の銃剣をもたされワラ人形を突き刺す実践訓練をわたしもやった。そんな状況のなかで、わたしをふくめクラスの数人は軍曹殿から呼びだされ、直接の指導を受ける。ちょうど、ゴルフのバンカーショットみたいに、足を大きく開き、持っている樫の棒を振りおろす動作を黙々と繰り返す訓練。目的は「鹿島灘から上陸して侵攻してくる米軍が、野営しているテントに忍びこみ、寝ている米兵の急所を狙う。一人必殺」。まさに漫画チックといわれそうですが、今になっても何故だろう? もし失敗したらわたしはどうなっただろう? そんな疑問を何十年も持ちながら過ごしてきた。昨年、NHKスペシアルで「沖縄の少年護郷隊」の放映があり、沖縄の14歳の少年たちが多数犠牲になっていた事実を突きつけられた。先日「陸軍中野学校と沖縄戦・知られざる少年兵・護郷隊」ー吉川弘文館発行―の著書をしらべ判明するものがあった。それは沖縄戦が終了した’45年6月23日、本土決戦近しとみた日本政府は「法律第39号義勇兵役法」を官報で通知し「国民皆兵」とする義勇兵のレールを敷いた。そんな方針を立案して政府に提起した中心は、大本営、参謀本部、そして陸軍中野学校の出身者が中心であったという。「15歳以上を建前とし、14歳は志願兵とする」としている。当時、14歳のわたしも駆り出されることになった根拠があきらかになった。
 2年、3年先輩などは少年兵として戦線に赴いた。特攻隊として白い箱で悲しい帰還した先輩をこの目で覚えている。もうこんな体験を語る年代がすくなくなったと思い、思い切って話してみた。
 昭和史研究家の保坂正康氏は「戦争の行き詰まった軍のトップは学徒兵や少年兵たちを消耗品として犠牲にしていったことが、いま明らかになってきた」とこの原稿を書き終えようとした8月30日、NHKTV9時のニュースで語っている。もう決して2度と繰り返してはならない歴史の一コマでした。





 
石垣 英明 さん

人生下り坂最高!

 「人生100年時代」に直面し、喜寿の年齢に到達した私が、今思うことは、後半の人生をどう生き抜くかである。古代インドでは、生涯を四つの時期に区切って、それぞれの生き方が示され、人々はそれに従って生きてきたといわれる。四つの時期とは人生前半が「学生期がくしょうき」「家住期かじゅうき」で、そして後半が「林住期りんじゅうき」と「遊行期ゆぎょうき」に区分される。作家の五木寛之氏が「林住期」という本を平成19年に出版された。その本によれば「林住期」とは、社会人としての務めを終えたあと、すべての人が迎える、もっとも輝かしい「第3の人生」のことである。「遊行期」とは、家を捨て死に場所を求める放浪と祈りの余生である。
 私自身の場合、65歳から80歳までが林住期と考えている。定年退職後、私は現在、以下の三つの道を歩んでいる。一つ目は、縁あって世田谷地域のシニア情報生活アドバイザーの仲間と共にNPO法人を設立して、シニアの方にパソコンを教える仕事について14年になる。二つ目は退職後、先輩が起こされたコンサルタント会社に就職して、イラク、モンゴルをはじめ途上国の開発援助の仕事ができたこと。三つめは、中央仏教学院で仏教を学び、平成25年に得度し、浄土真宗の僧侶になった。築地本願寺の参拝者に堂内接遇の奉仕活動を続けている。混声合唱団に所属して仏さまを讃える歌を通して伝道している。
 退職後のオマケの人生をどう過ごすか、あらかじめ準備をしていたわけでもない。ご縁があって、社会とかかわりが持てる利他の生活を過ごしている。人生下り坂最高といえる林住期の生き方ができることに感謝している。でも、何となくあわただしくて、自分自身を静かに見つめる時間がもてないのが実感で、そろそろ身の回りを整理し、いらないと思いながらしまってあるものを、思い切って捨てなければと最近思っている。
 「死は前よりしもきたらず」とは、吉田兼好の言葉である。死は前方から徐々に近づいてくるのではない。この後には「かねてうしろに迫れり」の言葉が続く。私たちが死を恐れ、それを意識の外に放置して実生活にうつつをぬかしているそのとき,死は背後に音もなく忍び寄ってきている。そしてポンと肩を叩いて「時間ですよ」と知らせられるのだと兼好は言っている。「死は前からこない」ということを、実感としてしっかり確認した上で、実生活をなげうつことなく穏やかに死を迎えることができたら最高、しかし思うようにはならないのが人生である。生かされていることに感謝し、そして今を大事に生きることが大切で、この瞬間・瞬間を大事にして、喜寿の後の人生を元気で生き抜きたい。



宮内 美耶子 さん

 喜寿、77歳、いつの間にか、たどり着いた ~ そんな気がいたします。
 これと言った大きな病もなく、健康でここまできましたが、全く無傷と言うわけではありません。
 もともと目が悪かったので、60代で白内障の手術を受けました。その時、緑内障を発症していることを知らされ、以来10年間緑内障の治療を受けています。
 70歳ころから、カメラに興味を持ち、写真教室へ通ったり、地元の写真クラブなどで活動しています。k-unetのアートコンテストでも、写真の部で入選したことも励みになっています。
 KDD時代の友人知人とは、「109の会」という電話局の同窓会お会いするくらいで、いまや、地元の写友との交流を深めています。
 これと言った健康法は、ありませんが、写真撮影に出かけるようになって、足腰が鍛えられました。歩くことが嫌いだったのに、カメラを持てば、歩くことが苦にならなくなりました。
 私は、こうして元気にカメラ片手に歩いていますが、最近は、主人(83歳)が、少々弱ってきまして、見守りが必要になっています。私も、いつまで、自由に外出できるか分かりません~今のうちという思いで、写真に傾倒しています。夢中になれるものがあるのは、本当に幸せです。
 写真をということで、コレクションのアンティークビスクドールと一緒に自撮りしました。
 100年たっても、いつまでも若くて可愛いドールに元気をもらっています。


 
 


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