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  Happy Birthday !

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Happy Birthday !

  12月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。 この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。

今月のお誕生会員:   柏原 修一 さん

(バックナンバーは こちら を、また投稿者一覧は こちら をクリックして、ご覧ください。)



    
1. 柏原 修一 さん (12月15日生まれ)

 通信の世界から東洋医学の世界へ

◆自己紹介
 昭和46年入社の柏原修一です。 昨年還暦を迎えたのでk-unetではまだまだ若輩の部類に入ると思います。 今回この原稿を書くにあたり、初めて本コーナーを拝見させて頂き、諸先輩方の近況を懐かしく読ませていただきました。
 以下、私の近況を簡単にお伝えしたいと思います。 私は現在故郷の福島県いわき市で鍼灸師として働いております。 2006年3月に53歳で早期退職し、かねてから計画中であった鍼灸師の国家資格を取得するために新宿の鍼灸専門学校に入学。 2009年3月に念願の国家試験を取得し、その後故郷の福島県いわき市に戻り、鍼灸院を開業して現在に至っております。
 KDDでは最初の東回統を除き、ほとんどが衛星通信一筋でしたが、第二の人生として選んだのは最先端の通信技術とは対極にある2000年の歴史を持つ東洋医学の世界でした。 これは20代の頃に鍼灸治療によりギックリ腰を治してもらったのが契機になっています。 鍼灸師は定年のない職業なので、自分の体が続く限りは生涯現役の気持ちで出来るだけ多くの人を楽にしてあげたいと思っています。

◆東日本大震災
 私はまさしく被災地で地震を経験しましたので当時の模様をお話したいと思います。
 2010年11月に開業して四カ月後の3月11日に東日本大震災が発生。 新築まもない治療院は何とか無事だったものの、築38年の自宅は屋根瓦が崩落し、室内はひびだらけと全壊一歩手前の大規模半壊でした。 断水、放射能の恐怖、食料不足そしてガソリン不足の悪夢は今でも忘れられません。 幸運にも当時の気象条件により、いわき市は高濃度の放射能汚染からは免れられました。 震災から1年半もの間、ブルーシートに覆われていた屋根の修理もやっと昨年6月に終わってほっと一息ついているところです。 それ以来「備えあれば憂いなし」のことわざどおり、水、食料、ガソリン等は常に準備しておくようにしています。

◆鍼灸師としての日常
 お陰さまで震災も無事に乗り越え、本年11月に開業三年目を迎えました。 経営的にはまだ目標の7割程度ですが、スタートとしてはまずまずだと思います。
 経営理念は地域密着型の治療院なので、通院できない高齢者のために出張治療も取り入れています。 患者は時代を反映して高齢者の比率が多いです。 加齢による疾患が多いので、食事指導、運動指導も必須ですね。 多くの高齢者の患者を治療していて感じるのは病気は生活習慣から引き起こされるということです。 長年の生活習慣を変えるのは大変ですが、勇気を持ってチャレンジした人は薬に頼らず改善しているようです。
 食事は高血糖になりやすい炭水化物(米、パン、うどん等)を控えて、肉類、野菜類の摂取を多く、そして下半身の筋トレが大事です。 「老化は足から」というのは真実です。

◆ぺルー 還暦男一人旅
 本年9月末に還暦記念と称してペルーに行き、マチュピチュ遺跡とナスカの地上絵を見てきました。 これはかねてより計画していたもので、体力のあるうちにと思い挙行しました。 念願の遺跡に立ち、アンデスの風に吹かれながら古代の人々の暮らしに思いを馳せた幸せな時間でした。

ながながと書き連ねましたが、k-unetを通じて今後とも諸先輩との交流ができることを楽しみにしております。 また最後に当治療院のHPを紹介させていただきますので、興味のある方は覗いてみてください。
(しゅう鍼灸院: http://shu-harikyu.com )    





 
  

Happy Birthday !

  11月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。 この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。


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1. 梅田 昭夫 さん (11月4日生まれ)

 すばらしい会社 - KDD

 東京への単身赴任も2度経験しながら、40年間勤めてきましたが、本当にすばらしい会社でした。 昭和31年1月、酷い就職難のなか運よく会社から採用通知があり、書類を返送するため郵便局へ出向きました。伊勢神宮・外宮のすぐ前にある宇治山田(現伊勢市)郵便局です。 宛先を見た局員さんにこの会社に入ったのかと聞かれうなずくと、給料の高いこと、ボーナスの多いことなど実に良い会社であること、それにここで働いていたTさんが大阪にいるはずだと話してくれました。 そんなころ、なにかの経済誌で「KDD」がとりあげられており、渋沢社長のインタビュー記事が出ていました。記者が給与水準の高いことを指摘したのに対し、社長は「うちの社員は皆英語がペラペラですから...」と答えておられたのを今でも覚えています。
 当時短波放送に凝っていて、NHKの国際放送Radio JapanがKDDの送信所から送られていることも知っていましたし、国際電話も当時は短波しかなかったので、スケジュール開始前の呼び出しが聞こえたりしてましたので、KDDが極く身近に感じられるようになっていました。
 入社して「皆が英語ペラペラ」でもないことはすぐ分かりましたが、すばらしい会社に入社したとの思いは日に日に、年々強くなってゆきました。 この思いは40年の間、一度も?がついたことはありません。
 良い想い出ばかりでもなく、苦情顧客に胸ぐらをつかまれて振り回されたこともありますが、まあまあ良い想い出いっぱいのKDDでした。 なかでもいろんなイヴェントに参画できたことを懐かしく思い出しています。
 俄然盛り上がってきた2020東京オリンピック。 1964年当時はまだTV中継などなく、各国の記者がテレックスで原稿を送っていました。 国立競技場横のプレスセンターで、来る日も来る日もその原稿の鑽孔作業をやっていました。 打っても打っても無くならない原稿の山。 そんななか、自分の原稿をすこしでも早く打ってもらおうといろいろ工作をする記者がいたりして、文字通り目の回るような忙しさでした。
 万博がありました。 電気通信館に皇太子ご夫妻(当時)がご訪問されることになりました。 電気通信館のイヴェントの司会は宮城まり子さんがされてましたが、ご夫妻がお越しになる少し前に私たちの仕事場兼控室に来られてしばし談笑されていました。 「美智子様はプリマですから必ず白っぽい服をお召しになるはず。だから私は...」と言って上着をとったら下は肩口がほどけたようなドレス。 「袖付けが間に合わなかったのよ...」と笑いながら会場へと出て行きました。 たしかに美智子さまは白いスーツ姿でした。 人気女優さんのまた違った一面を垣間見たようで、うれしくなったのを思い出します。
 1975年5月エリザベス女王が来日され、鳥羽をご訪問されました。 ホテルの玄関前で従業員らと一緒にお待ちしてると、わざわざ玄関のかなり手前の緩やかな坂の途中で車を降りられ、にこやかに手を振りながら出迎えの人々の列の前を歩いてこられました。 ウグイス色のスーツをお召しになった女王を今も鮮明に覚えています。

想い出のお宝2題
 東話局から大話局へ帰るとき、サビ管のお姉さんから贈られたネクタイ。 西陣織のしっかりしたタイで、40年近く経った今でも立派に当時の風合いを保っています。 
 もう一つは大阪支社から本社へ転勤になったとき、当時の運用部の皆さんから贈られた掛け時計。 田無社宅で2年半愛用したあと、自宅でず~っと使っていますが、30年経った今でも正確無比な時を刻んでくれています。 現役時代は5分前精神とか、6秒課金、11秒以上の待呼などなど時間には神経を使う仕事をしていましたが、さすがに卒業後はさほど時刻を気にするようなことはありません。 それでも正時に長針が少しずれていればやはり気になります。 ところがこの時計、木製の薄いボードに長・短針がむきだしの状態で付いていて、裏にムーブメントのブラックボックスがあるだけのいたって簡単な作りですが、全く狂わないのです。 おかげで電池を取り換えるとき以外、さわったことがありません。
 同友会がなくなり、こんな想い出話をする機会が無くなってしまいました。 それでも現役時代から続いている月例の飲み会が2つと、これも30年以上続いている東西ハムクラブメンバーの定時交信などがあり、「KDD」との繋がりはいついつまでもなくなることはなかろうと思うとうれしくなります。 幸い体もいたって元気です。
 この上は、KDDIのご発展をお祈りするばかりです。



    
2. 見城 正幸 さん (11月13日生まれ)

南極越冬記出版の顛末

 11月は毎年、南極観測隊が出発する月です。 今年も第55次日本南極地域観測隊が、昭和基地を目指して砕氷船「しらせ」に乗船し、東京港晴海ふ頭を出帆します。 
 今から43年前の1970年11月25日、私も第12次南極地域観測隊の越冬隊員として、晴海ふ頭を出港しました。当時の砕氷船は、「宗谷」に次いで就航した「ふじ」で、出港時は、船上と岸壁の見送る人々の間で五色のテープが飛び交い、たいへん賑やかなものでした。 岸壁を離れて間もなく、船内のテレビで三島由起夫の割腹自殺の報に接し、出港は忘れられない強い記憶として残っています。 また、11月は第12次南極越冬隊の仲間が集合する「12次隊の会」の月でもあり、全国に住居が散らばる隊員が集まり、一晩、越冬当時の思い出話に浸ります。 この集まりは毎年欠くことなく継続している楽しみの一つで、今年も伊豆の川奈に集うこととなっています。 昨年、12次越冬隊の仲間の共著で、南極越冬記を出版しました。 40年余も昔の事を、何でこの期に本にするのかといった疑問を皆さんお持ちになろうかと思いますが、ことの顛末は以下のとおりです。
 2008年11月の「12次隊の会」の席上、小口隊長から、越冬隊のことを纏めて本にするから、原稿を書くようにとの下命があったのが、そもそもの始まりです。  私も、遠い昔の記憶を掘り起こし、担当したオーロラ観測のためのロケットの打ち上げについて、苦労してなんとか原稿を書きました。 ところが2010年の暮れに隊長が他界されてしまったのです。 そして葬儀に集まった隊員間で、「隊長の遺志を継ごう」ということになり、隊員の一人を編集長に仕立て、翌年の春先から隊長に替わり、編集作業が再開されました。 編集やら校正やらと慣れない作業をこなし、途中、すったもんだもありましたが、編集長もそれなりに頑張り、この越冬記が「極地研ライブラリー」として、国立極地研究所のお墨付きをもらえることも決まり、8月には何とか出版の運びとなった次第です。
 12隊は、往路40日間、復路14日間、氷海に閉じ込められ、身動きできない状態に陥り、そのため出国から帰国までの期間は、歴代観測隊では最長となり、反面、昭和基地滞在期間は最も短い1年に満たない状況でした。 ロケット打ち上げ観測プロジェクトの初年にあたり、また、日本の観測隊では初めて、南極大陸奥地の内陸基地で長期間滞在があり、その他昭和基地では火事騒ぎもあったりと多忙多事で、50数回に及ぶ南極観測隊の中では特異な隊であったことは否めません。 この特異な隊のことを記録に残したかった隊長の遺志に、我々隊員が応えたのが、越冬記の出版でした。
 本のタイトルは、「氷海に閉ざされた1296時間」、副題は「第12次越冬隊の記録」、出版社は成山堂書店、値段は少々高く2,200円(税別)です。 印税の分配を期待しているわけではありませんが、南極に興味がおありの方は是非ご購読願いたいと思います。




    
3. 横井 寛 さん (11月17日生まれ)

誕生月に寄せて――近況と昔の思い出――

 私は昭和5年(1930)11月17日の生まれであるから今年の誕生日で83歳になる。 日本男子の平均寿命からみるとすでに3年余りも余分に生かせてもらったことになる。 私は、昨年の5月に帯状疱疹を患って以来、今もその後遺症である神経痛に悩まされていて、痛み止めの薬を服用しているが,その為かいつも眠くなり、毎日の昼寝が日課となってしまった。 そんなことで、いつお迎えが来ても恥ずかしくないように身辺の整理をしておかねばと考えるのだが、それも煩わしいと思う今日この頃である。
 さて、私が80歳になった翌年の3月11日に東日本大震災が起きた。 これからの日本はどうなることかと心配になり、少しでも若い人たちのためにお役に立てばと考えて、インターネットでのブログ「短檠」を立ち上げた(  http://yokokuwan.blogspot.com )。

■「昭和29年 KDD入社の学卒一期生」
 最初の2年余りを小室受信所で過ごした後、研究所で主にアンテナとか電波伝搬の研究に従事し、あのKDD事件の直後から伝送部、機器部、そして大阪支社などで勤務させてもらった。 そして、(財)国際コミュニケーション基金での仕事を最後にKDDを退職し、KDD出身者としては全く異色の防衛大学校教授に就任した。 その定年退官後、東京電機大学の非常勤講師として75歳まで勤務したが、それからは全くの自由人となった。

■「オフセットグレゴリアンアンテナ」
 KDDでとくにに印象に残っていることは、研究所時代に世界初の人工衛星スプートニーク1号の電波を受信したことと衛星通信用アンテナや電波に関する研究を行ったことである。
 初の衛星通信実験については今年で50周年になることからk-unetで特集が組まれるようだし、また黎明期の衛星通信についてはブログの随筆でも紹介しているのでここでは省略する。 その後、私が水口芳彦君や赤川正孝君とともに開発したアンテナで今も広く使われているものに"オフセットグレゴリアンアンテナ"がある。 これが地球局用として用いられているのは代々木のNHKで見ることができる。 またTV取材の移動局から衛星に向けられるアンテナは世界中のものが殆どすべてこのアンテナである。
 電波の研究では衛星通信用の大気減衰のほか準ミリ波での降雨減衰研究では、今はすでに故人となった山田、福室の両君をはじめ小川明義君や古田治君とともに2周波レーダーを開発して、降雨の立体構造を明らかにした。
 これらの話は防大を定年退官した後、「宇宙通信よもやま話」として裳華房から1997年に出版された。
 このほかCCIR(国際無線通信諮問委員会)の電波部門では日本代表としてジュネーブでの国際会議に度々出席させてもらったが、英語が下手なため随分と苦労をした苦い経験がある。

■「大連海事大学での講義」
 本社に移ってからの仕事はさておき・・中国の大連海運学院(現在の大連海事大学)からの依頼で、度々同学院で衛星通信の講義を行っていたところ、1987年10月7日に同学院より名誉教授の称号を授与された・・。 そしてこの日の夜の月見の宴で同学院の李教授から彼が作ったという次の漢詩を渡された。
鑑真昔曾東渡海
横井今又講学来
皎皎秋月歴千載
綿綿友誼傳万代
 白髪三千丈というようにオーバーな表現をする国であることは知っていたが、私を鑑真和尚と対比させたのはいくらなんでも面映ゆい限りであった。(鑑真和尚と私の名前の中国語の発音が似ていることにも因んでいるとのこと)なお、李教授も日本語が出来たが、この大連では年配者の多くが日本語を理解することができ、また日本語から中国語への通訳の方が英語よりも容易であるということから日本語で講義をすることができたのは有難かった。
 この翌年、私がコミュニケーション基金に移ってからのことであるが、李教授と会っていろいろ議論をしているうちに、「目前に迫りつつある21世紀の情報社会を、技術、経済、法律、通信、文化の多方面から日、中双方の学者で展望しては」ということになり、1989年の5月初旬に北京で「情報社会の建設と生活」と題した公開討論会が開催された。 あの天安門事件の1か月ほど前で、学生のデモが高まりを見せていた頃である。
 その時の日・中双方それぞれ7名の論文を筆者と李先生が編集したのが「情報社会への道――日・中の学者が語る理想と現実――」という本で、日本ではオーム社、中国では新時代出版社から夫々出版されている。

■「日本画、四国遍路、郷土史研究」
 趣味としての日本画はKDD時代からたしなんでいたが、防大時代からは全国展にも出品するようになり、また自衛隊の全国美術展では防衛庁長官賞を受賞した。 ここに掲載した鯉の絵(120号)は(社)新興美術院の全国展に出品したものの一枚で、現在は防大の幹部食堂前に飾られている。
 70歳を過ぎてから4回に分けて行った四国遍路は、その紀行文が「準・歩き遍路のすすめ」として2005年に講談社のα新書として出版された。
 私のいま一つの趣味は郷土史の研究である。 静御前については、私の郷里である讃岐に残る彼女の伝承と遺跡を訪ね歩いて「その後の静御前」の話をまとめるとともに、あの屋島合戦も静御前の母磯禅師の地縁血縁による協力があったことを明らかにした。 次に、保元の乱に敗れて讃岐に配流となった崇徳上皇については、中央で書かれた保元物語や今鏡と讃岐に残る郷土史の話とで異なるところがあることに着目した。 すなわち、戦記物は勝った方が都合の良いように書くものであり、捏造されることもあること、また第3者も、勝者に気兼ねして、事実を曲げて婉曲に書く場合が多いことなどに着目して、古典を読み直し、新しい視点に立って、郷土史と整合するような物語として発表した。 これらは「西行と崇徳上皇・その後の静御前」として2012年に美巧社から出版された。 この本は、朝日新聞の香川版において、これまでの定説を覆す崇徳上皇像として、筆者の写真入りで紹介された。
 紙面の制約もあり思いのほどを書くことができていないところはインターネットでの私のブログ「短檠」( http://yokokuwan.blogspot.com )をお読みいただき補完していただければ幸いである。





 
  

Happy Birthday !

  10月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。 この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。


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1. 石原 英雄 さん (10月12日生まれ)

 『老い』が自分の年令を越さないよう、あがく?日々

 また、誕生日が来てしまった! 自覚せずとも満74歳と立派な、誇るべき?年齢になった。 誰しも年は取りたくないが、それは不可能なので、せめて、年より老けてみえるのだけは避けたいと常々考えている。 年を忘れたいと思っている。 お幾つになられました?と聞かれるた場合は、「たしか・・少し前に還暦をすぎました」と応える事にしている。
 最近の研究で、人間だれしも長寿遺伝子(サーチュイン遺伝子)を持っているが眠っており、目覚めさせるには少食を維持し、体を飢餓状態に保てばよい、ということが判明している。 しかし、1日1食にして人間の最大の欲望を封じ込める老化防止法は、意志の弱い私にはまず無理とあきらめた。 代わりに、自分が少し貢献できることで若い人とともに身体を動かすプログラムに参加することに決めた。 体にも若干の負荷がかかる作業を若い方々に引っ張られながら行うことにより、老骨に鞭打つ?ということである。 
 現在、東北大震災支援活動として、私の住む団地の若手リーダー達が運営している、鎌倉七里ガ浜発宮城県七ヶ浜町復興支援隊に入り、ボランティア活動に連れていってもらっている。 団地の中から大型バスを仕立てて七ヶ浜町に通うゼロ泊2日のボランティア活動は、震災発生直後から実施して現在24回を数えている。 その間支援の内容も変遷し、現在私は仮設住宅の皆さまと園芸活動を行っている。 特に若返りの野菜として有名なヤーコンを支援隊員で手分けして栽培し、ヤーコン茶を作って仮設住宅の皆さまにお配りして喜ばれている。 毎回集合写真を撮影してお配りしているが、全員が前回の写真より若返って写っている! 「ヤーコン茶は確かに効くね」というのが、全員の感想である。 嬉しい事だ!(*^_^*)
 支援隊の活動にご興味がある方は支援隊のブログ等をご参照ください。
     http://bond7.sblo.jp/

(写真)集会所でヤーコン茶作りに励む、七ヶ浜中学校グランド仮設住宅にお住まいの方々と石原講師



    
2. 長浜 剛毅 さん (10月16日生まれ)

KDD時代の思い出

 お世話になった先輩たちが達者でいる間は大口をたたけないので、控えめな気持ちで書かせてもらう。
 千葉の田舎の高校を出て何もわからないうちにKDDに就職していた。 というのは当時担任が会社案内か何だか持ってきてこれ受けろというものであった。 後日談であるが、この担任も当時KDDを知らなかったとのことである。 ただ流れのままに身を任せていたらこんなに良い会社に就職できた。 自分は運が良い人間に違いないと、お世話になった35年間ずっと思いこんでいて、70歳になった今でもそう思っている。 おまけに嫁さんまで世話してもらったのだから、KDDのほうには足を向けて寝てはいけないのかもしれない。
 こんな日本一のいい会社で過ごしながら、サラリーマン人生を振り返ると名古屋での4年間を除いて意外なほど楽しい思い出は出てこない。 自分の至らなさから恥をかいたこと、失敗したこと、周りの人々に迷惑をかけたことなど、これらの場面が次から次へと浮かんできてしまう。
 35年のサラリーマン人生の思い出はブルーなことのほうが多かったが、名古屋で過ごした、たったの4年間がすべて明るく楽しい思い出に塗り替えてくれた。この4年間が、いい会社にはいい思い出という、あたりまえのピントに合わせてくれた。 単身という身軽さもあってか自分がやりたいことはもちろん、当時サラリーマンが楽しんでいたすべてのことに首をつっこんだ。 好きなことでやらなかったのは犬を飼うことぐらいか。 自分がこれほど好奇心旺盛だったとは知らなかった。 これは名古屋という地がナゴチョン(単身赴任者)に対して思いやりのある街で住みやすかったことも原因している。
 仕事面でも、源氏鶏太が小説の中で言っているように、サラリーマンの幸せとは、よい上司に出会う幸せ、よい部下に出会う幸せ、目標を成し遂げる幸せ等、4つ5つあげているが、これらの幸せをすべて味あわせてもらった。 42歳ぐらいの時だったか、名古屋料金課長を命ずということで、新米の管理者が単身で名古屋へ。 東京を出るとき、名古屋の問題点はこうだからそこを改善してくれなどとエライ人に言われて、やる気満々で名古屋へ向かったのを覚えている。 家族との生活でも結構我がまま放題で、自由にさせてもらっていたが、これからは単身だからさらに自由が広がる、そう思うと胸がワクワクしてきたものだ。
 課員はみな地方出身の若者であり独身寮で生活していた。 彼らに対しては時には兄貴に、時には父親がわりをするからそのつもりで、などと言ってお互い独身寮生活をエンジョイしていた。
 名古屋人特有の気質で、関東人にはなかなか心を開かないというのがあるが、お客様をはじめ名古屋の人たちが徐々に心を開いてゆくその過程も結構楽しかった。 名古屋市内の他に、近いところに金津園、柳ヶ瀬、雄琴温泉など、夜になると昼よりも明るい場所が何か所かあるが楽しい思い出の一助となっている。
 何だか、名古屋では遊びばかりの印象の文章になってしまったが、通信の競争時代に突入し、料金課から営業に移って東海4県を汗水流して走り回っていた頃なので、そこには仕事のやりがい、仕事の充実感等で満ち溢れていた。 このように仕事と遊びの両方がほどよくミックスされているからこそ、いまだにいい思い出として残っているのだろう。 それまで、肩肘ばかり張って歩いてきた自分が、名古屋を契機にまわりの人たちに感謝するようになった。 これは、仕事でも遊びでも一人では何もできないということを悟ったからであろう。
 この原稿を書いていてあれからもう25年も経つことに気が付いた。 昨日の事のように思っていたが、月日の経つのは早いものだ。 この度自分の頭の中に登場する多くの人たちに、改めて感謝すると同時にますますのご健康をお祈りする次第である。


    
3. 稲尾 登志高 さん (10月20日生まれ)

近 況

 私は、ICF事務局職を最後に平成8年3月に定年退職をしました。 それ以来早くも18年が経過、改めて月日のたつのは早いものだと実感しています。 定年に際しては実に多くの先輩、同輩、後輩の方々が心温まる歓送会を催してくださったことをつい先日のように思い出し、改めて厚くお礼申し上げるしだいです。 定年後大分県杵築市に移住し、両親を看取り、5年前から両親の故郷でもあり妻の故郷でもある別府に移住し現在を迎えています。 老後を楽しく過ごすには、まず健康と考え、次のスポーツをやっています。


  1.月間100kmを目標に、1回10kmの海沿いのコースをゆっくり80分程度で走る。
  2.毎週1回グループ仲間と室内で、ミニバレー、ソフトテニス。
  3.ウォーキング倶楽部主催のウオーキングに参加(月1回)
  4.月2~3回のゴルフ

 次に心の健康のため、週2回(月、木)のコーラス、月1回の(大分第九を歌う会)で歌っています。 コーラスは毎年10月に定期演奏会開催、ちなみに昨年はイタリア民謡5曲、会場の皆さんと(花によせて)を大合唱、組曲「別府鶴見火山」全6曲、間に楽団による軽音楽をはさんで、約2時間の演奏会でした。 今年は今のところ混声合唱組曲「海鳥の詩」全4曲と日本叙情歌曲集8曲を練習中です。 「第九」は毎年クリスマス前後に九州交響楽団の演奏で歌います。

 今住んでいるマンションは小高い丘の上にあって7階建てで、その6階に住んでいます。 窓の前には別府鶴見山(835m)を望み、反対側は別府湾を一望できます。 自宅の風呂は栓をひねれば温泉のお湯が出るし、小さいながらもプールもあり、出かけるのも便利が良いのでとても気に入っています。 幸いこれまで健康に生きて来られ、両親も見送り、子供たちもそれなりに何とかやってますので、夫婦二人仲良くこれからも楽しく過ごして行きたいと思っています。

 最後に、今こうしていられるのは、お世話になった会社の皆様方と現役の方々の頑張りと年金のお蔭様であると改めて御礼申し上げる次第です。



    
4. 岩本 喜直 さん (10月20日生まれ)

私のオリンピック

 私の誕生日は、恐れ多いのですが皇后陛下と同じ日なので、毎年祝って頂いている気がしています。 今年で73回目となります。 毎日、元気に出勤しています。
 さて、先月の8日(日)は楽しいニュースが1日中TVを賑わしました。 2020年の東京オリンピック・パラリンピックの開催といううれしい、うれしいニュースです。
 私にとって、オリンピックにはいくつかの思い出があります。 昭和39年(1964年)の東京オリンピックは、私のKDD入社の年でした。 太平洋横断ケーブルTPC1や衛星通信の開通という広帯域時代に飛躍を遂げた年でした。 新幹線の開通もありました。 東名高速道路の建設が最終工程で、間もなく開通するという高速時代の幕開けで、日本全体が高揚感の中にありました。 東洋の魔女が女子バレーで金メダルを取ったのはこの時のオリンピックでした。(上の写真は昨年のロンドンオリンピックを妻と訪れタワーブリッジ前でのスナップ)
 それからずっと下って、1992年のバルセローナオリンピックの現場に私は立ち会いました。 KDDのスペイン事務所に駐在し、滞在足かけ6年目の夏に開催されたこの大会は、いささか苦い思い出と達成感を感じたイベントでした。 この時期、日本では、モノクロからカラー写真が時々紙面に掲載される新聞に変わっていました。 このカラー写真掲載ニーズを受けて、本格的な高速伝送を実現したのは、このバルセローナオリンピックが初めての大会だったのではないかと思います。 1枚のカラー写真の伝送に30分近く要していたようですが、高速回線のお陰で、どの新聞にも、前日のゲームでの日本選手の活躍が翌日の朝刊をカラー写真で飾りました。
 しかしその裏では、今では全く驚くに値しない64kbpsや精々その数倍の伝送速度の回線を作るのに四苦八苦したのです。 スペイン通信キャリアのTelefonicaではこのような回線は国際伝送路では初めての経験であったようです。 特に3倍という半端な192kbpsについては、大会直前になって、お客様に速度の変更をしてもらってくれと、担当者から言われたときは青くなりました。 結果的には事なきを得ましたが、なかなか伝送路開通に至らず、伝送試験も出来ないまま、だらだらと残りの日が少なくなり、連日、東京から、なんとかしろ、と厳しい注文があって、現場はまさに尻に火がついた状態でした。
 スペイン語で、「ウルティマ・モメント」という言葉があります。 「最後の瞬間」という意味です。 ウルティマ・モメント、つまり最後の瞬間にはきちっとやるよ、と担当者は言いますが、日本人の感覚からすると、これでははなはだ心もとない。 大会直前になって、なんとか、やっと、日本の通信社、新聞社向きの全高速専用回線が開通し、事なきを得ました。
 この前年の秋に、米国のブッシュ大統領(先代)、ソ連のゴルバチョフ大統領(この年の暮にソ連崩壊)の呼びかけで、イスラエルとアラブ諸国(パレスチナやシリアなど数カ国が参加。会議につきものの国旗と握手の無かった会議として話題)の中東和平マドリード会議が、世界から大報道陣4,500人を集めて、呼びかけからわずか1ヶ月足らずで開催したという実績とその底力に、私自身は、本心では冷や冷やしていたものの、最後は何とかなるのではないかとの確信はありました。
 日本向けに数回線のTV回線もスペインの地球局の設備導入が遅れ、これも薄氷の思いでしたが、これも大会直前になんとか開通に漕ぎ着けることができました。 ユーラシア大陸の西端のスペインと東端に位置する日本は、インド洋上のインテルサット衛星では多分一番遠い伝送路です。 10数日の大会期間中に一度だけ大雨が数時間バルセローナ近郊に降りましたが、これには伝送路は抗しきれずTV回線はダウンしてしまいました。 また、山口方面に巨大台風が接近しているとの情報に、アメリカ周りの回線を準備して待機しましたが、台風が逸れてくれたので事なきを得ました。 モトローラ製の現在の端末形状に近い携帯電話が大ブレイクしたのもこの大会だったと思います。
 この準備作業の最中に、母親が亡くなり、身動きできない状態でしたので、会うことができなかったことが今でも辛い思い出の一つとなっています。
 オリンピック閉会式に招待を受け、モンジュイックの丘のメインスタジアムで数時間、全てをやり遂げたという安堵感に浸り、幸せの時間を過ごせたことがうれしい思い出の一つになっています。

 写真は昨年、Queen Elizabeth2世号でノルウエーのフィヨルド観光の時に立ち寄ったBergen(ベルゲン)郊外でのスナップ




    
5. 竹田 文子 さん (10月29日生まれ)

近 況

 私は、今、横浜市の区役所でカウンセリングの仕事をして8年目になります。 その前の2年間は、神奈川県主催の"よこはま若者就職支援センター"でした。
 私がこの仕事をするきっかけを作ってくださったのは、退職時、相談室にいらっしゃった西田治子先輩が、日本産業カウンセラー協会の受講を勧めてくださったお陰です。 資格も取ることができ、友人が紹介してくれた1枚の求人票が"よこはま若者就職支援センター"でした。
 大学を卒業しても仕事が決まらない人、転職を希望する人、仕事をしたいが心の病気を抱えている人たちが、毎日多く詰め掛けました。千葉県や静岡県からも来ました。 元気な若者は、履歴書の書き方や面接の練習を何度もしていくうちに、就職が決まっていきますが、問題は心の病を抱えている人たちでした。 アイコンタクトもできない若者が多かったからです。 それでもじっくり話していくうちに、目が輝き始め営業マンとして就職していく人もいました。多くの若者と毎日面接をしていき、そして皆さんが嬉しそうに就職していってくださるのが何よりの楽しみでした。
 今は、区民の皆様を対象に就職のお世話をさせていただいています。 中学卒の若者から、60歳を過ぎた高齢者の方まで幅広いですが、やりがいのある仕事をさせていただいております。 やはり、心を病んでいらっしゃる方が多いですが、お一人お一人がしっかり自立できるようにとの思いで面接させていただいております。
 でも、そろそろ私の人生も考える時期だと思っています。 元KDDの皆様の退職後の記事を読ませていただきながら、残りの舞台をどう演じていこうかと楽しみです。






 
  

Happy Birthday !

  9月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。 この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。


(バックナンバーは こちら を、また投稿者一覧は こちら をクリックして、ご覧ください。)



    
1. 橋本 恵三 さん (9月3日生まれ)

 近 況

 会社卒業後、縁あってインターネットでの和雑貨販売ビジネスを立ち上げました。早いもので、今年7月で12年目を迎え、当初は商品数も20種類程度でしたが、今では800種類を超えています。 現在は独自サイトのほか、超有名な2つの人気モール(Amazon、DeNA)からお声がかかり、それぞれ出店運営しています。
 小さな会社経営ですので、色々な種類の仕事を自力でこなす毎日です。 例えば魅力的な商品選定。 定番商品のほか季節にあわせた商品等をどれだけ仕入れるか、新商品の発掘と売れ筋商品の確保などマーケティング的な仕事は一番大切。 じつは今、和物×音楽コラボとして「楽譜」を取り込んだオリジナル商品を企画していて、どの曲目が絵柄的にいいか、様々なクラシック音楽を聴いて曲の選定中です。 
 また商品写真をHPにいかにうまく表現するか、撮影技術も重要な仕事。 昔から一眼カメラが好きだったこともあり、カメラの新製品が出るとついつい手を伸ばしてしまうことがたびたび。 そして扱っている商品を紹介するため、SNSやリスティング広告を駆使して、タイムリーに費用対効果を考えつつ広告を出し、数多く存在する商品の中からいかに検索にヒットさせられるか、頭をボケさせないよう知恵をふりしぼり酷使しています。
 さらに営業収支バランス、販売上の資産管理等の経理業務、商品の在庫管理なども大切な日常業務なのです。 そして最後に、体力仕事の梱包発送業務や料金収納業務(もちろんKDDIの「auかんたん決済」も利用しています!)などなど、多岐にわたる仕事を日々こなしています。
 この10年間でインターネットのビジネス環境も様変わりとなり、Facebook、Twitter、ブログなどの利用者からのアクセスが増え、注文もハード的にはPCからスマートフォン・タブレット端末への移行が顕著となってきています。 HP仕様も当然のことながらその時代の変化に柔軟に対応していかなくてはなりません。 70代なのに、毎日が新しい未知の知識への挑戦ですが、楽しくやりがいがあります。 人生で一番充実した仕事をこなしているのでないかと自負しています。 いや、むしろ、自分の年齢を重ねた諸経験こそが、今の最新ITビジネスにも、ある立ち位置を見つけ、活かせている気がします。
 プライベートでも積極的に日本の良いものを観たり食べたり訪ねたりと楽しむようにしています。 また、脳の働きをより活性化するため難度の高い「数独」にも挑戦しています。 そのような感性や刺激も仕事の充実に通じることがあると思っています。 このようなタフな日々を過ごせるのも健康であってのこと。 幸い大きな病気もせず元気に過ごしています。 最近の血液検査の結果を見ながら同世代のホームドクターより「あなたは長生きするよ」言われています。 今の最大の目標はちょっと早いですが「100歳を元気な状態で迎えたい」です。





    
2. 塚田 一幸 さん (9月14日生まれ)

ホールインワン 4度目

 リタイアー後の人生を豊かにする方法は人それぞれでありましょうが、もっとも一般的に言われているのは打ち込める趣味をもつことでしょう。 私の場合、趣味は囲碁とゴルフです。
 囲碁に関しては、定年後4年半ほど日本棋院の囲碁教室に通いましたが、3年ほどで講座担当のプロ棋士から入会時よりは一目昇段を認定されました。 現在は近所の碁会所、KDD囲碁部例会、OBの集まりである「石友会」、学生時代の友人等と烏鷺を楽しんでいます。 さすがにさらなる上達は難しいでしょうが、これからも囲碁を楽しむつもりです。
 ゴルフに関しては、定年後は回数が増え、年間30Rから50Rくらいプレイしています。 スコアは60歳前後のころが今思えばベストであります。 k-unet 会員の中にもゴルフを楽しんでおられる方は多くいらっしゃると思いますが、ホールインワンの経験者はどのくらいおられるでしょうか?
 私の場合、これまでに4回達成しました。 記念すべき第一回はまだ現役時代の2004年2月29日(日)です。 岡部チサンの美里コースアウト2番でした。2回目は2008年9月14日(日)、入間カントリー倶楽部イン13番、三回目が2012年9月15日(土)錦が原ゴルフ場さくらコースアウト2番、4回目は2012年11月7日(水)伊勢原カントリー倶楽部イン18番です。
 私がホールインワンを達成したのは奇しくもすべて閏(うるう)年というのも不思議なことです。 4回のうち3回はキャディー付という幸運も重なり、ゴルフ場はから証明書を発行していただき、ずいぶん若い時から加入していたKSS(現KDDIエボルバ)のホールインワン保険から支払いをいただいています。 掛け捨ての保険で元が取れたのは、唯一ホールインワン保険だけです。
 ホールインワン達成4回の話題出すと、私の腕前を良くご存知の方たちは訝しげな表情をされるのが愉快です。 「どうしたらそう何回もできるの?」とよく尋ねられますが、その時は「あれは当然狙ってやるものです!」と、したり顔で答えることにしています。
 次の閏年の2016年まであと3年、その年にはま5度目のホールインワンを狙う?つもりです。達成したらまたこの欄で報告します。 それまではもちろんそれ以後も健康を維持しゴルフを楽しむつもりです。










    
3. 上村 新八さん (9月28日生まれ)

子供のころからの趣味・アマチュア無線

 「JA1HOD」のコールサインを1961年以降更新し、53年目になる。 自宅に建設した15メータ高の鉄塔や大型の八木アンテナは8年前に撤去したが、簡易のワイアーアンテナおよび高い周波数のビームアンテナで「KDD東京ハムクラブ」の会員の方々と交信する。 サイパン島、ハワイ島、マウイ島、およびグアム島へ、沖縄の久米島、石垣島へ無線機およびアンテナを持参して個人、KDDクラブ員、NTT-TRCクラブ、および地元の与野アマチュア無線クラブの方々と無線および旅行を楽しんでいる。 写真は本年2月に印刷したQSLカード(交信証)。 2年前に「S・K:Silent Key」となった愛犬(Puppy)があたかも電鍵を叩いているようなことから「PUPPY IS ENJOYING DOG PILE UP」と注釈を入れて海外局からの関心を駆っている。
<高校野球の応援>
 現職の時代も結構興味を持っていたが高校野球の「追っかけ」は大変で地元の某高校を応援している。 選抜大会で全国優勝して、今年こそは夏の大会で全国優勝をと期待していたが、延長戦とは云え1回戦で敗退してがっかり! 高校野球は夏の大会が終了すると直ぐに新人戦、秋の県大会、関東大会へと続く。 秋の関東大会でべスト4に入ると翌年の選抜選手権大会への出場が出来る。 春には県大会、関東大会等が開催され12月から2月迄がオフとなる。
 サンデー毎日の身分となってからは体調維持のため近所の「スポーツクラブ」に入会して、時間を見つけて、2時間程度ストレッチや水中歩行、その後のサウナを楽しんでいる。 現役のころと比較して15キログラム以上スリムになったが、減量による「軽量感」は全く感じられない。 前の晩に飲んだアルコールを24時間以内に消化するのが目的であるのでそれはそれで良いのではと思っている。
<「さいたま市シニアユニバーシティ」へ入学>
 1997年3月にKDDを早期退職し、出向先のKDD-SCSに入社、今迄の国際電話交換網から異なる海底ケーブルの業務に携わり、インドネシア、イタリアのナポリ勤務等経験後、KDDの先輩のお世話で2001年10月、新設の(株)メディアに入社、再度電話サービスを提供する技術業務を担当。 2005年5月に同社を退職した。 退職後、元の上司の勧めもあり、さいたま市長が学長をしている「さいたま市シニア・ユニバーシティ」へ入学した。 大学、大学院を修了して、現在は同組織のOBで構成する校友会連合会で活動している。 大学および大学院を通じて知り合った仲間と学習会、見学会や旅行会、クラブ活動としての史跡めぐり、自由散策、料理教室としての「ダンチュウ」およびカラオケ等を楽しんでいる。 入学当時から「期」の会長を仰せつかり、所属協議会の理事、および校友会連合会の理事もしている。 OB会員を含めて3,500名の組織で元KDD社員の方々も数名所属しておられる。
 我が埼玉は近い将来スポーツの若者、インテリジェンスのシニアの力で関東を席巻するのではないだろうか?



    
4. 福村 明さん (9月30日生まれ)

いちどきりの人生

 KDDビル1983年6月。 冒険家 植村 直巳さんが「自然と冒険」というテーマで 「生きて帰ってくることが冒険だ」と、真摯な姿勢で語りかけてくれた講演会。 その半年後、氏は厳冬期のアラスカ州マッキンリー山で消息を絶ってしまった。
 定年後、アメリカの国立公園巡りを始めた僕にとって 植村直巳さんが消息を絶ったマッキンリー山を訪問することは夢の一つであり、66歳の夏にセスナ機からではあったが夢をかなえることができた。
 サンフランシスコからアンカレッヂまで5千キロ。 さらにシカゴを経由して昔の駅馬車街道ルート66をロサンジェルスまで。 文化も人種も言語も異なる国の広大な大自然の中を自らの意志でハンドルを握り、果てしない大地を駆け抜ける2万キロの旅は驚きの連続だったし、毎日が新たな発見であり自然の恵みに心から感謝する旅でもあった。    残された一度切りの人生を、明るく、楽しく、活き活きと過ごしてみたい。 そんなことから始めたアメリカドライブであったが、10年間で全50州も走り抜けてきた。
 皆さんも若いころからの夢に果敢に挑戦してみては如何でしょうか。 いちどきりの人生をもっともっと楽しみましょうよ。
 なお、マッキンリーのことは 次の私の拙いWebサイトに掲載してあります。

  http://www.ne.jp/asahi/93/xdriving/alaska/alaska/alaska701.html







 
  

Happy Birthday !

  8月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。 この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。


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1. 宮内 美耶子 さん (8月1日生まれ)

 カメラ女子デビュー

 55歳で早期退職してから、はやくも15年たちました。 当初は、仕事から解放されて日々の家事なども新鮮でしたが、そんな日常にもすぐに飽きてしまいました。 そのころから、タイミングよくインターネットが手軽にできるようになり、ネット三昧が始まりました。 今年4月、長年親しんで使用してきたWindows XP が不調でWindows 8 に買い換えました。 使い勝手がXPとは異なり、戸惑いながらも、なんとかマスターしました。 習うより慣れろですね。
 さて、表題の「カメラ女子デビュー」とは? 今まで、私にとって、写真は記録という認識しかありませんでした。 旅先でも、フィルムの時代から、たくさんの写真を記録として残してきました。
 今年の春先3月ごろ画像サイト「フォト蔵」に出会い、写真はアートだ!~
と、目からウロコ、衝撃を受けました。 「フォト蔵」には、300万人が会員登録しており、日々作品をアップしています。 使用されているカメラは、スマートフォンから一眼まで様々です。 プロ級の作品から記録的な作品まで、ジャンルも様々です。 私は、無謀にもコンデジ(コンパクトデジカメ)で撮影した稚拙な写真を投稿しました。 次に素晴らしいと感動した作品の数々をお気に入りに登録しました。 なんと言うことか~作品を通して会員の方たちとサイト上で交流が始まりました。 私の投稿した稚拙な作品にコメントや、お気に入りマークがつき始めました。 投稿された写真に使用したカメラ機種や撮影月日が自動的に表示されます。 当然、こんな素晴らしい写真を撮影したカメラが欲しいと思いました。 5月、美しい花々が咲き乱れ、撮影意欲がそそられる新緑の季節に、悩んだ末、ついに「一眼ミラレス」を購入しました。
 ミラレスを選んだのは、軽くて携帯しやすい女性向きだからでした。 以来、2ヶ月間、習うより慣れろ~の精神でカメラ女子デビューとなりました。 撮影した写真は、facebook にも投稿して友達に見てもらうオマケの楽しみも増えました。




プロのカメラマンの提言

 ・単焦点レンズでの撮影は、腕磨きになる。
 ・写真は、アートである。
 ・被写体に近づくこと、たいていの場合は、その方がいい写真が撮れる。
 ・撮れば撮るほど上手くなる。
 ・シンプルさが鍵。
 
・フォトグラフィーは、「光で描く」という意味。 光を撮ること。
 ・カメラを過保護に扱ってはいけない。 使い倒すこと。
 ・完璧な写真を撮ろうと必死になるより、その瞬間を楽しむこと。

 フィルム時代では、ネット上に画像を投稿するなんて、想像もできなかったことです。 デジタル化により、画像の編集、データの保存、プリントなど自宅で手軽にできるようになりました。 カメラのデジタル化は、まさに一大革命ですね。


    
2. 柳澤 孝雄 さん (8月6日生まれ)

近 況

 昭和37年4月に入社し、平成10年4月30日付で早期退職をしてから早いもので15年が過ぎました。 退職後4年程関連の会社のお世話になりその後フリーな状態が続いている時に埼玉県上尾市在住で幼稚園を運営している従姉が社会福祉法人の保育園を立ち上げるので、事務と行事カメラマンの仕事を手伝ってくれとの話がありました。 神奈川の自宅から一都二県をまたがっての2時間強の通勤であり一寸ためらいましたが週数日とイベント時のみであればと引き受け現在に至っております。 最初は0才から5才までの幼児相手に戸惑いながらも「爺ちゃん先生」として上尾詣では7年目にはいりました。
 カメラのファインダー越しに見える純粋な幼児の顔を見ているとサラリーマン時代のことは忘却の彼方に消え去り、今では登園をすると0,1才児の部屋に行き高い高いをしながらストレッチをしております、ただ4,5才児は少々重すぎて腰を痛めてしまいかねないので腕へのぶら下り程度で勘弁してもらってますが・・・。
 少子高齢化が騒がれる中で将来の日本を担っていく幼児をお預かりする保育園の存在は非常に重要に感じております。従姉もその重要性を認識して昨年4月に第2園、今年4月に学童保育と事業を拡大し、働く若い父親、母親への子育て支援を積極的に取り組んでいる姿勢は頭が下がる思いでおります。 ただ私自身の仕事も膨らみ遠距離通勤も手伝だって、ややボデーブロー気味です。自分では若いつもりでいましたが、この誕生日で中国の詩人杜甫が詠んだ「人生70古来稀なり」の古稀となりました。 65才から高齢者の仲間入りとの法律用語がありますが、人生スタートに立ったとの気持ちで幼児パワー(約120名)を全身に受けて頑張れるだけ頑張ろうと思っております。




    
3. 堀内 周樹 さん (8月9日生まれ)

私とスペイン・バスク

 私が1985年マドリード事務所駐在から始まったスペインのバスクと関わりは現在も続いており、この僅かな拙文が、バスクのご参考になれば幸いです。
 「スペイン」と言えば情熱の国、マドリード・バルセロナ・セビリア、ザビエル神父・支倉常長・ピカソ、イスラム史跡・闘牛・フラメンコ・スペイン料理等の歴史・観光・文化が挙げられる。 「バスク」となると情報は少なく、スペイン・フランス国境ピレネー山脈の南側で独自のバスク語と封鎖性の強い地域である事や、スペインを二分した市民戦争とピカソの反戦画「ゲルニカ」やレジスタンスと治安警察との戦いの米国映画「日曜日には鼠を殺せ」等が思い出される。
 1975年にフランコ総統が没して後、スペインは一気に流れ込んだ世界のビジネスと共に近代化の道を歩み、1978年にKDDマドリード事務所が開設された。 マドリード事務所の活動は、スペイン進出中の日系企業通信対応と通信監督主官庁、通信事業体CTNE:現Telefonica、郵電総局が主で、バスクは業務的にも感覚的にも遠い北の地であった。
 1986年1月某日の午後、スペイン北半部で自動車道路標識製作・工事会社の営業課長職でカルロス・ヌーニェスと名乗るカントリー風情の男がマドリードの交通総局(運輸省)へ出向き、JETRO事務所訪問の後、同じビルのKDD事務所のドアを好奇心からノックした事から、私のバスクへの扉が開かれた。
 以降、カルロスは仕事仲間を伴ってマドリードへ現れ、広い分野のバスク・ビジネスマン達との交流へと広がり、通信省官報、CTNE情報とは別に、彼等から通信需要の動きや道路・公共施設・通信網構築、欧州物流等の情報が得られた。 そのお返しとして、本来JETRO事務所で入手できる筈の日本企業名・国際テレックス・アドレス等を彼らに開示した。 彼等こそ、15世紀に木造外洋帆船・鉄砲、世界地図、航海術等往時の最先端技術と情報を携えて世界へ雄飛したスペイン人DNAを持つ末裔であると思えた。
 バスク州はスペイン語でパイス・バスコ(País Vasco)、バスク語でエウスカディ (Euskadi) と呼ばれ、内陸部のアラバ県(ビトリア市)に州議会を置き、ビスケー湾岸部のビスカイア県(ビルバオ市)とギブスコア県(サンゼバスチャン市)の3県から成る。 ピレネー山脈を駆け登ったバスク台地は、通年乾燥した中南部のラ・マンチャ、アンダルシア地方とは異なって、秋から春の湿風・降雨と雪が州旗に緑のクロスを染め込む程に草原・山林を潤し、ビスケー湾を豊かにする。
 彼等からのスペイン事情に理解を深めるうち、スペインが多言語・多民族の大小王・諸侯国の合従連衡、イスラム民族、世界に伸したヒスパニア帝国、ブルボン・パプスブルグ欧州王家の国盗り時代を生き抜いてきた証しとして、地方分立主義の根強さが見える。 その最たるはバスク州かも知れない。 バスク州の民族的・言語的起源の定説が不明ながら、カタルーニャ地方・ガリシア地方と並んで、スペイン北部に商工業が発達し、大英帝国・仏国・和蘭・地中海諸国との交易・侵略・攻防の歴史を介して来た事が州内結束・自立気風を高め、1930年代・スペイン第二次共和制時代の中央政府に自治政府体制を認めさせた。 現在、国内17自治州と2海外自治都市があり、外交的にはスペイン王国の傘下に収まりつつも、国の在外交館とは別に独自に海外事務所を構える等、各々独自路線を行く強い自立性が窺える。
 人気のフットボールも、他州チームの様に有名外国人選手を獲得せず、バスク州生まれの監督・コーチ・選手のみで地元チームの陣容を固めていて、ここにも彼等の封鎖性が見られる。
 その他、バスク民族独立運動(ETA)が、長い間スペイン中央政府と悲惨な抗争を繰り返した歴史から、スペインの危険地域とも報道されたが、現在は中央政府とETA間は10余年の和平プロセス協定上にあり平穏を取り戻しているかに見える。 州民約400万人は、歴史的にバスク人であり、公用語はバスク語とスペイン語で、小学校からバスク語が正科目で、州営TVのETBはバスク語で放送する。
 ラテン民族に属するバスク人だが、忍耐強く律儀で言葉少なめの働き者、頑固とも言える質実剛健と、常に備えの構えで州民の貯蓄意識が高く、経済的にはカタラン州(バルセロナ)と並んで古くから鉱業・製鉄・造船・金融・大陸・地中海交易等で栄えたスペインの経済先進地域であり、この2州の人口はスペイン総人口の20%ながら、同GDPの45%を占め、彼らの生産成果が中央交付税に消えて行く事への不満から独立意識が高まるのも頷ける。
 バスク農業は、スペイン中南部地方の様に外国人季節労働者を雇い入れない為、スペイン1番の安全都市を自負し、スペインの北欧とも称される街の整備・清掃を徹底する等、ビスケー湾の景観とグルメで多くの欧州人観光客を呼び込んでいる。 世界で人気のあるスペイン料理人の6割がバスク出身者と言われ、愛想は少ないが彼等拘りの調理で、四季の豊かな食材は街角のバルやレストランの多彩なメニューとなり、リオーハ・ワインを添えてその味を引き立たせる。


    
4. 田中 成欣 さん (8月15日生まれ)

近 況

 私の誕生日は昭和18年8月15日で終戦の丁度2年前です。 従って戦争の記憶は全くと言っていいほどありません。 古稀を迎えた私でさえ記憶がないわけですから私より若い人は当然戦争というものを知らない訳です。そういう意味で今の若い人たちには戦争の怖さ、無意味さを伝えていく必要があろうかと思います。
 6月に旧ユーゴスラビアのスロベニア、クロアチア、ボスニアヘルツェゴビナに家内と行って来ました。 世界遺産なども多く、見所満載の旅でした。ただ最後に訪れたサラエボ(ボスニアヘルツェゴビナ)は1991年ユーゴ解体の流れの中、民族・宗教紛争による激しい戦争があった場所ですが今でも至る所に銃弾の痕が残り、戦いのすさまじさを物語っておりました。町を走る路面電車は汚く戦争の影響がまだ残っているという感じで、戦争をしなければもっと発展し、市民も平和に暮らしていたことでしょうと言っていた現地ガイドの言葉が印象的でした。
 話は変わりますが、退職後は地域の活動に力を入れています。 現役時代は地域のことは殆ど家内に任せきりでしたが、退職後は積極的に参加しようと思っておりました。町内会長、自治会長の後、現在は伊勢原市の人権擁護委員をやっております。人権擁護委員はあまりなじみのない委員ですが、法務大臣から委嘱され各市や町に数十人から数人おり、伊勢原市は6人で任期は一期3年です。私は二期目に入りました。主に市民からの人権相談に応じるものですが、人権相談といってもいろいろあり、近隣問題、家族の問題、子どものいじめ問題等を面談または電話相談で対応しています。関連の知識も必要なため研修も多く、また県連の広報啓発委員に任命され、機関紙の発行や啓発業務にも取り組んでおり結構忙しい日々を送っています。
 また趣味はゴルフと謡曲でゴルフは5分で行ける地元の伊勢原カントリークラブには旧KDDOBの川角さん、佐々木さん、三上さん、爪川さんらとよく行っていますし、昭和会ではやはり旧KDDの方々とプレーを楽しんでいます。 謡曲は月2回ほどKDDI新宿ビルに赴き柳川さんの指導の下、稽古に励んでおりますが、謡曲は奥が深く一向に上達しません。でもKDDI宝生会の例会や官庁実業団連盟の会にも参加しており、昨年は「清経」のシテ役を無本でやらせていただきました。 20分程度のものを憶えるのに大変苦労いたしましたが,謡い終わった時の達成感とビールの美味さは格別で楽しい思い出になりました。
 今回北野さんから「Happy Birthday」コーナーへの投稿依頼があり、これまでk-unetへは一度も投稿したことがなく、またk-unetからはいろいろな情報や会員の皆様の消息など知ることが出来るなど日頃大変お世話になっていることに鑑み投稿した次第です。 取り留めのないことを長々書きましたが拙文お許しいただければと思います。 


    
5. 原田 建夫 さん (8月19日生まれ)

近 況

 ご無沙汰しています。 日本のサラリーマンは会社のためには良く働くが、地域貢献をしないと言われています。 私もKDD在職中は地域とは全く関わりのない生活でした。退職を機に、稲城市の緑化環境の保全とスポーツ施設の管理をする財団で仕事をすることにしました(趣味も兼ねて)。 約4年間この活動をすることにより稲城市の様子をいろいろ知ることができました。 この仕事を辞めてからも、地元の人たちとテニス、ゴルフ、水彩スケッチ画を楽しんでいます。 地元での活動は時間的にも、経済的にも、精神的にも負担が軽く、また、いろんな経歴の人たちがおられ面白いです(時にはKDDの人たちは優秀だったなと思うこともありますが)。
 まず、テニスですが、週に1~2回やっています。 最近は体力の衰えのため大会へは出場しなくなりましたが、40~50代の上手い人に相手をしてもらえるのは本当に嬉しいです。 ゴルフは月に2~3回ラウンドします。 約40名いる同好会の月例があり、仲間と競い合っています。 テニスもゴルフも道具の進化と技術コーチングの進歩のおかげで、年配者にも無理なく良いパフォーマンスができるようになってきました。 水彩スケッチ画は月に2回近郊へスケッチに出かけます。 水彩絵の具の色彩と濃淡で風景や静物を描いています。 最近淡彩スケッチ画は中高年者に人気があり、ゴールデンウイークには復原された東京駅の周辺に100人以上の人が腰を下ろし、スケッチしていました。 描いているときには対象をじっくり観察し、大きさ、傾き、バランス、色調等を悩みながら作業しますが、ひと段落した時に充実した時間を過ごせた喜びを感じることができます。
 お蔭様で楽しく日々を過ごさせてもらっていますが、最も大事なのは健康だと思います。 歳をとるにつれ身体は劣化してきます。私も腰痛、膝痛に悩まされることがありますが、休養をとれば少し良くなるし、焦らず少しずつトレーニングすれば改善されると信じています。 三浦雄一郎さんが教えてくれたとおりです。 それから感謝の気持も大事だと感じています。 テニスもゴルフも良い相手がいるからこそ楽しくできるものです。絵も自分一人で描くことはできますが、観てくれ批評してくれる友人がいると一層の励みになります。 付き合いのある皆さんに感謝です。 近況まで。



    
6. 河野 洋三 さん (8月20日生まれ)

近 況

 先日、1962年KDDに同期入社した鎌田さんにあることで電話したところ、最近 k-unet Monthlyに 「Happy Birthday」 というコラムを設けましたので是非投稿を、との依頼を受けましたので思いつくまま拙文を書いてみました。

■ 私の生まれた年
 私は昭和12年、盧溝橋事件-日中戦争が起きた激動の年に生まれました。 正直言って自分の誕生日についてはあまり意識したことはなく、つい忘れてしまうことが多かったのですが、最近になり同居している孫から「今日はおじいちゃんの誕生日だよ」と言われて、ああそうか!と気がつくといった有様です。 孫たちの真意は恐らくバースデー・ケーキが目的なのだと思われます(笑)。  しかし、いろいろな書類には必ず生年月日は書くことが多いのに、実際その日が来てもすっかり忘れてしまうというのは、まことに不思議です。 6~8月は丁度夏休みの時期なので、しばしば自分の誕生日を忘れてしまうのも一因なのかもしれません。
 厚生労働省の統計によると、明治22年から昭和41年までは出生月による差があったそうで、夏(6~8月)は特に出生率が低かったようです。 同様に幼児の死亡率も高く、「夏生まれで今生きている人は丈夫だ」などと言われたことがあります。 私は65才のときに心筋梗塞で手術し約1ヶ月間入院した経験があるものの、この70数年間は割と元気に過ごしてきたように思えます。 では、果たして残りの人生はどうでしょうか? 作家で医者でもある渡辺淳一さんの説によれば、「人間75歳前後から体のいろんな部分で具合が悪くなり始めることを考えると、人間の本当の寿命は75歳位ではないか」とのことです。 私も最近、高血圧症,白内障,歯の治療,頻尿,自律神経失調症,物忘れ等々いろいろと現われ始めましたので、健康には今まで以上気をつけねばと思っているところです。 "後期高齢者"の部類に入りましたので尚更です。
 日本の職場では、誰かの誕生日であっても特段何もお祝いなどしませんが、私が10数年、政府専門家として派遣され、また(財)KECのコンサルティング業務を実施していた時にお世話になった南米パラグアイの電気通信庁(ANTELCO)では職員の誕生日リストが作ってあるのか、誰かの誕生日となると昼の休憩時間にその人の部の職員全員が集まり、シードラー(りんご酒)とパン・デゥルセ(ケーキ)をオフィスボーイが買ってきて、皆でワイワイ騒ぎながら誕生日を迎えた職員を「Cumpleano Feliz!」と言ってお祝いします。 その日は家庭でもレストランに行って家族・親戚皆で祝ってもらうそうです。 私も誕生日の8月20日にたまたまその職場に居たときは同様の扱いを受け、大変感激したものです。

■ 私のKDD歴
 ところで私のKDD歴ですが、1962年4月に入社し、まず6ヶ月の研修期間(宿舎は由比ヶ浜保養所・新宿分室、職場は大手町本社・各送・受信所・中央局)、短い期間でしたが先輩達の訓練・指導を受けましたがとても熱心且つ親切で、この会社は人材育成に力を入れてることを最初に実感しました。 ですが一方で、私の家族や親戚は"KDD"という名前もどんな仕事をする会社なのかも、誰も知りませんでした。 説明しても電電公社(現NTT)の子会社くらいに思われていたようです。 最近では新聞等マスコミで殆ど毎日KDDIに関する記事が出ることを考えると隔世の感があります。
 研修期間の後、八俣送信所、本社無線課、衛星通信建設本部(後の衛星通信部)、政府専門家として南米パラグアイ電気通信庁へ派遣、帰国して再度衛星通信部、国際機構部、山口衛星通信所、国際部国際協力室、最後に(財)KECで定年になりました。 残念ながら海底ケーブル(同軸,光)、中央局の経験はありません。 仕事の関係でITU,インテルサット、インマルサット等の国際機関の会議への出席、各種調査団への参加等でいろいろな国に行かせていただいたこと、また国際部・国際協力室、(財)KECでの海外研修生の受入れ、覚書による職員交換等で、多くの国の方々と知己を得ることができたことは、私にとって大きな財産となりました。 特に南米パラグアイ電気通信庁との関わりは、1971年に同国の国際通信部門の近代化計画作成のための政府調査団への参加に始まり、円借款の実現、それによる施設・設備の建設・増設、それらの保守運用を任せられるまでの技術コンサルティング業務の提供という仕事を与えられ、2002年に無事成し遂げるまで一貫して任せていただけました。これにつきましても影ながら支援して頂いたKDDに大変感謝しています。
 そのほかのKDDでの思い出を挙げますれば、1971年、南米パラグアイに旧郵政省、NTT,NHK,KDDの合同政府調査団が派遣された時、1団員として参加し生まれてはじめて飛行機に乗り、地球の裏側の外国へ行けたこと、その折、くしくも私の誕生日8月20日の出発日直前の8月15日にいわゆるニクソンショックで円が1ドル360円から308円になったわけですがKDDの人だけ8月15日前に1ドル360円で換金したため約17%も出張費が目減りした苦い思い出がありよく覚えています。 政府専門家時代の1978年6月には,南米パラグアイを訪問された皇太子殿下・皇太子妃殿下(現在の明仁天皇陛下、美智子皇后陛下)を完成したばかりのパラグアイ・アレグア地球局にご案内させていただいたこと、1979年10月のKDD事件、インマルサット・インテルサットの技術専門委員会にKDD(日本)代表として参加したこと、八俣送信所・山口衛星通信所という現場を経験しKDDを支えていることを実感したこと、(財)KEC時代に海外の多くの研修生にKDDの通信技術を提供してきたこと、一方KDDは早くから専門家を外国に派遣し、外国からは覚書協定により沢山の幹部職員を招聘していたので外国での会社の知名度は驚くほど高いものでした。
 特に印象に残るのは劣悪であった南米パラグアイの国際通信を先進国並みに近代化し、同国の経済的・政治的独立に貢献できたことなどでしょうか。 2000年に通信の自由化政策のもと普通の総合電気通信会社となったわけですがもともとKDDは法律でできた特殊会社で目的業務が決められており追加、変更がある場合はそのつど法改正が必要があること、また通信の秘密を漏らしてはいけないことは今でも義務で漏らせば刑罰の対象になるのではと思います。 したがって南米パラグアイの通信プロジェクトをコンサルティング業務としてはじめるとき法改正をしたように、最近の話題の小山、八俣、北浦でメガソーラによる発電事業に参入することも法改正が必要になるのではと思います。

■ 定年退職後、現在は…
 一昨年KDD同友会の解散でKDDとの関わりも少なくなり、今では企業年金の受給、k-unet会,サテライト会(故宮元副社長がつくられたKDD衛星通信関係者の会),三七和会(昭和37年入社の同期会)への出席くらいになりました。 普通の総合電気通信会社になったとき、保養所もなくなり、評判の良かったいろいろな刊行物や小冊子、特に毎年世界各国の最新の国情のことを書いたものは必需品でしたが、いずれも廃止になり、OBとしてはちょっと寂しい限りです。 ただKDDカレンダーだけは有料になったものの、今でも毎年購入し我が家のメインのKDDグッズとなっています。 文字が大きいことと毎月の写真がとても綺麗だからです。 我が家のメモ書き、予定行事の記入におおいに役立っています。 どうかスタイルを変えないで今後も続けていただきたいものです。 KDDI株も今は手離してしまいました。 また購入し株主総会にも出てみたいのですが、ちょっと高くて手が出ません(泣)。 昔は額面に近かったのですが。
 通信の世界も、メインの仕事が設備中心のハードウェアからスマホに代表されるようにコンテンツ中心のソフトウェアとなり、KDDI,NTT,ソフトバンク3社もこの点での激しい競争時代になってきているようですが、1953年KDD創業時の理念を忘れず頑張ってほしいと願っております。 我々が通信分野において世界で活躍できるのは日本の電気通信製造業者(日立,東芝,三菱電機,NEC,富士通など)の開発能力、優秀な製造技術、アフターケア等があることも忘れてはいけないことを書き添えたいと思います。
 最後に楽しみと生きがいは2歳の孫(男の子)と近所を散歩することです。 ときどき突飛な動きをするので目が離せません。 これからの人生、doingもさることながらbeingに生きがいを感じるようになりたいものです。

「VIVA KDDI!」

参考文献  「不死鳥物語~国際通信史~、2010年 遠藤 栄造著」、「KDD社史、2001年、KDDIクリエイティブ」、「海外ドキュメント 地球にケーブルをかける男たち 1981年 土屋 省三」、「国際協力と国際通信プロジェクト 1996年 河野 洋三著 (財)国際衛星通信協会発行」


    
7. 仲川 達雄 さん (8月26日生まれ)

近 況

 特段皆様にご報告するような生活を送ってはいません。  至って平々凡々たる毎日を過ごしています。 月一回の昭和会ゴルフでは、KDD時代の先輩、同期、後輩の皆様との和気藹々のプレイを楽しんでいます。 気分が若返ります。







    
8. 田代 道彦 さん (8月31日生まれ)

タイ ホアヒン滞在記

 退職後は生活が単調にならないようにと海外旅行など考えてツアーに参加していた。 そんなときに先輩の柴田清栄さんから冬の間タイのホアヒンでのゴルフにお誘い頂き二つ返事でご一緒した。 初回は慣れるため高級のヒルトンホテルに10泊して、この町での生活やゴルフの仕方を教えて頂いた。 その後2年間は再就職で行かず、2004年から毎年続けて行きすっかり気に入ってしまった。 長期滞在といってもここに来ているヨーロッパ人は通常3ヶ月間滞在し、自分はその半分程度だが最近は更に短く1ヶ月を2回に分けて行っている。
 ホアヒンは首都バンコクからタイ湾に沿って200km程南に下った町で国王の離宮があるので有名だ。 主にドイツ人がリゾートとして利用していて北欧の人も多く日本人は稀だ。 成田を昼前に立てば夕方バンコクに到着してタクシーを飛ばせば3時間で着く。 あっという間に冬から真夏
に変わって次の日からゴルフを開始する。初めの頃は平日5日間ゴルフをしていたが、最近は自分の歳も考えて2日プレー1日休みと減らしているが、もう今年で220回もプレーしてしまった。 KDDの方は今年も3人来られている。 今年参加された別の2人の方はもともとゴルフは上手だが、二百名の市民大会で共に70台のスコアで賞を取られたと喜んでいた。 こちらでは集中してゴルフができるので上手な方は更に実力が上がり、そうでない方もそれなりにスコアもよくなるようで、これをホアヒン効果と呼んでいる。
 日本でのゴルフと違うのは日の出(6:30頃)からスタートしてスルーでアウト、インをプレーし10時前には終了することや、キャディが1人ずつ付くことだ。 この時期は雨が降らないし朝の涼しいうちのプレーで疲労は少ない。 仏教国なのでキャディは8割程度が女性だ。 ロイヤルホアヒンGCはタイで最初のゴルフ場というのが売りだが、最近はアメリカンスタイルのすばらしいコースが周辺に多く出来て、プロの競技はそちらでやっている。 コースは距離も長くて難しく、1グリーンで芝は高麗風だ。 カートもあるが利用していない。 プレーが終わってクラブハウスの2階のオープンテラスでコースを眺めながらビールを飲むのは最高の一時だ。ホテルとゴルフ場は駅を挟んで歩いて5分、ホームと線路を突っ切って行ける。 食事の後は部屋に戻ってシャワーを浴び、洗濯をして1時間ほど昼寝が心地よい。 ホテルは二千円/泊で手頃な値段だ。昼間は暑いので部屋で読書などし、時々本場のタイマッサージに行き、筋肉をほぐして2時間で千円程度、女性には特に人気だ。我々男性にとってはかなりきつく痛いのでソフトプリーズとしつこく言わないとひどい目にあう。
 夕食の一時は楽しみで数軒の店を順に回っているが、炭火のシーフードタイスキ、豚足の蒸し煮など辛くなく旨い料理が多く、氷や水も問題ない屋台などの店だ。帰りはナイトマーケットに寄り果物を買う。 マンゴー、マンゴスティン、パパイヤ、パイナップル等も甘くみずみずしくて旨い。 今年はドリアンに挑戦してホテル内で影響はなく、旨いので病み付きになりそうだ。
 ゴルフのない日は海岸に行き砂浜を裸足で1時間程歩くと気分爽快だ。 日中の砂浜はヨーロッパ人で一杯になり皆長椅子に横になりのんびりしている。海ではカイトサーフィンがはやっていて、アジアの国とは思えない風景だ。
 街中にはコンビニも多く、スーパーでは日本の納豆や蚊取線香まで買える便利さだ。 こんな訳でホアヒンには70歳まではなんとか来られそうで、あと数年間続けられればと願っている。




 
  

Happy Birthday !

  7月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。 この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。


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1. 森田 孝志 さん (7月1日生まれ)

 思い出あれこれ

 出生地は大阪堂島にあった旧・阪大附属病院にて、昭和13年7月1日生れ。 当年75歳。 KDDに入社するまで門真市(当時は 大阪府北河内郡門真町)にて遊び育ちました。 最寄駅は京阪電車・古川橋。 河内レンコンの産地で、生まれ育った実家の裏は蓮田でした。 松下電器(現在はパナソニック)の本社がある街ですが、実家から近すぎたのかもしれませんが、何故か、松下には入りたくなかったのです。 近くの親戚縁者が大勢松下にいたこともあってかも。 近くの村の出に、かつての第44代首相・幣原喜重郎氏の出身地だと聞いていますが、現在ではまったく生家などは無いようです。
 入社は昭和32年4月1日大阪支社に。 入社式は当時の旧大手町局舎でした。 大阪支社管内入社同期の桜は19名、大阪国際電話局の女性2名も、そのまま市ヶ谷・河田町にあった元豪邸跡の「河田町会館」で1週間ほど合宿し、関東地区入社組と大手町局舎で、東西合同の初期訓練を受けたのち、大阪電報局に配属となりました。 昭和46年4月1日大阪電報から本社付属機関の「事務サービスセンタ-・電子計算課」に転勤後、コンシス畑を12~3年、東話局料調・営業部・営業開発部・建築部・管財部と渡り歩いて、最後は KSSの新大手町ビル管理部にて平成8年3月を以て退職しました。 今から思えば 苦もあり楽もありでしたが ・・・  まったくの良き時代でした。 
 k-unet との出会いは、平成10年 目黒研究所の一室での設立時から参加させて頂いています。 いわゆる一期生。 現役時代からコンピュ-タとの付き合いは長いのですが、なかなか深入りできなかったのですが、k-unet 設立者のお一人でおられる「久保 勝一氏」に誘われての出席だったと思っています。 年に数回開催される k-unet 研修会に たびたび参加して教え頂いたのでした。 私のパソコン生活は k-unet に育てられたものだと感謝しています。 設立以来15年とか。 これからもますますの発展を願っています。
 平成23年3月11日14時46分、日本国民すべての人が恐れ慄いた東日本大震災 。 町内の集会所にて囲碁大会の対局中に発生。 新築後すぐの鉄骨造り2階建ての集会所だったので、ここは大丈夫だろうと・・ 、館内の鉄柱の芯柱にしがみつき碁石も散乱のまま 頻繁にやってくる余震が静まるのを待って、家内を案じて帰宅を焦るも、マンション内エレベ-タ-は停止、8階まで駆け上がって様子見に。 築30年、昔のしっかりした構造なので大丈夫であったが、揺れは大変だったと家内。 食器棚内の器が飛びだした状態のまま一階駐車場に避難したとか。 小雪の降る寒--い一日でした。   
 今年4月、ある旅行会社の『未来へつなげる「絆」三陸路 2泊三日のツア- 』に参加し、陸前高田、釜石と田老地区での「語り部」による説明を受け、被害の凄さと悲惨さを感じとって来ました。 特に田老地区での女性ボランティアが語る切々たるその時の状況なりを、聴いては涙したのでした。 帰途、久慈駅前書店にて、岩手日報社発行の「平成の三陸 大津波・岩手の記録」誌を、孫たちにと2冊ほど買い求めてお土産としたのでした。  これから 撮りだめした「震災被害ビデオ」を再視聴しようと。 各人様々な忘れられない「あのとき」があると思います。 昭和20年、あの玉音放送を聞いた場所も・・など。 忘れられない想い出、孫たちにも語り伝えていきたいと思っています。 地震その後もたびたび起こっていますが・・・ もう慣れっこに怖いもんです慣れは。
 当地取手市は、目下のところ放射能の影響が・・・ チョット心配。 郷関をいでしより42年、もうどっぷりの「茨城っぺ」になっています。 良き遊び仲間、飲み友達、OB会、そして町内の遊び仲間達に恵まれ・・時々ゴルフに!
 「元気がなにより 健康で遊べる内が 華!」を実践している今日この頃です。  「Happy Birthday ! 」 にお招き頂きありがとうございました。 毎月のように増え続けているこの投稿企画、拝読を楽しんでいます。 編集者、頑張って下さい。

    * 添付の写真は k-unet 第1回写真コンテストにて 受賞のもの。 PC壁紙として使っています。




    
2. 岩佐 裕司 さん (7月2日生まれ)

六十の手習い、フルート

 フルートを習い始めて9年になります。 きっかけは、趣味で声楽を習っていた妻から、音楽教室主催のヨーロッパ三大音楽都市(ウィーン、ザルツブルク、ミュンヘン)巡りの旅に誘われ、生徒さん達に混じって特別参加したことでした。 ウィーン国立オペラ座でバレエ「ロミオとジュリエット」を鑑賞したり、ホーエンザルツブルク城で室内楽を聴いたり、楽しい旅でした。 途中、先生から「楽器でもお始めになられては?」と声をかけられました。 帰国後、私はその教室で、初めてフルートを習うことになったのでした。 
 初めの数年間は、文字通り音が出なくて苦労しましたが、諦めずに練習を続けていくうちに低音から高音まで3オクターブの音を出せるようになり、やがて易しい小品なら演奏できるようになりました。 しかし、年に2回のソロの発表会は、何時まで経っても頭痛の種です。 どうして、舞台ではいつものように演奏できないのか? 思いつく対策をしても、効果はそれ程表れません。 何事も1万 時間のトレーニングを積めば一流になれる、という説があるそうです。 音楽に限らず、スポーツ、芸術などの分野でも、一流と言われる人は、確かにそれ以上の努力をしているようです。 あがらずに、いつも通りの演奏が出来るようになるには、やはり、もっと練習するしかないということでしょう。 
 4年前から、教室が社会奉仕として時々老人ホームで行っている、歌とフルートによる慰問コンサートに、20名程の仲間と一緒に参加しています。 フルートは、4~5名のアンサンブルで、クラシックから歌謡曲まで幅広く選曲されます。 昨年は「愛の挨拶」、「きよしのズンドコ節」(これは大受け)、この春はエノケンが歌ったヴェルディの「女心の歌」でした。昔を思い出されるのでしょうか、目頭を押さえながら聴いている人を時折見かけます。 アンサンブルには次第に慣れて、最近は楽しくなってきましたが、ソロにはまだ時間がかかりそうです。 
 ところで、日本のフルートの半数以上が、私の住んでいる埼玉県で製作されていることを知りました。 フルート製作の世界シェアは、台湾、中国の追い上げはあるものの、日米の2国がほぼ占めていて、精巧な日本製のフルートは世界のフルート奏者の7割が愛用しているそうです。 近くのフルート工場には、ヨーロッパの有名なフルート奏者がよく訪れています。 私達には孫が4人いますが、将来、その結婚披露宴で、妻が歌い、私がフルートを演奏できればと、夢を描いています。 ピアノ伴奏も孫がしてくれれば言うことはありません。 実現には高いハードルが沢山あり、その一つは、勿論、老いということです。 新聞に、80歳の方が暗譜で80分間ピアノを弾き続けられるという記事がありました。 プロではありませんが、13歳から趣味として続けているそうです。 レベルの違いはありますが、私も夢が実現できるように、諦めずに頑張ってみようと思っています。


    
3. 藤森 正一 さん (7月14日生まれ)

近 況

 1941年(昭和16年)7月14日生まれの藤森正一です。 今年は当たり年なので早くも72歳になります。
 入社から退職までは概ね次のとおりです。 1960年(昭和35年)4月大阪採用で当時の国際電信電話株式会社に入社、最初は名古屋国際電報電話局に配属され約15年勤務した後電報の衰退に伴い、75年から東京国際電話局に転勤、途中小山の4年を含め東京方面で約15年間、いろいろ楽しませて頂きました。 1993年大阪転勤を機に、故郷の上野市(現在の伊賀市)の近くの名張市に居を構えることになり、大阪では電話局、ハローイン、料金センターなどで勤務し1998年国際電信電話株式会社を退職しました。 
 その後、遊んで居るなら手伝って欲しいとの要請を受けて、伊賀市の自動車整備会社に勤務することになり、現在まだ月に2回お世話になっています。
 また、娘2人は東京方面でそれぞれ相手を見つけて独立してしまいましたので、現在は夫婦二人の生活が続いています。 ただし、孫が5人居ますので時々は東京にも出かけます。










写真左: 2010年 6月14日 ミュンヘン市役所前にて 「受難劇鑑賞ドイツ・オーストラリアの旅 6月13日~20日」
写真中: 2011年10月31日 凱旋門前にて妻と現地の添乗員と 「華麗なるフランス2011年10月27日~11月3日」
写真右: 2012年10月10日 マーライオンの前にて 「ダイハツ招待シンガポールの旅2012年10月9日~13日」

 最近は海外旅行づいていて、2009年には高校の同級生が仕事をしているタイで下手なゴルフを楽しみ、2010年には10年毎にキリストの生涯をドイツの小さな村オーバーアマガウ挙げて行う劇を見に出かけ、2011年は三重県の老人会主催のフランス旅行に出かけ世界遺産巡りの旅をしました。 2012年には現在の会社のディーラーの招待でシンガポールに連れて行ってもらい、今年は済州島に行く予定です。
 k-unet で昔お会いした人の名前を見つけると懐かしんでいます。 どうかこれからもよろしくお願いします。 まだまだパソコンを使い切っていないので写真など上手く入れることが出来ません、また教えて下されば幸いです。



    
4. 国府田 大 さん (7月25日生まれ)

近 況

 71歳になりますが、週2回の体育館トレーニング室通いと共に一日7千歩のウオーキング、そして東武鉄道主催の健康ハイキングに参加し、12kmを月に2回ウオーキングするなど健康維持に努めていたが、最近はそれも儘ならず、体力が低下しているのを感じます。 
 また読書が好きで月2回は図書館に通っています。 趣味の飛鳥学の勉強は30年続いており、NHKのラジオ「漢詩」は10年視聴している。 晴読雨読の毎日です。 
 パソコンは苦手なのでメールは専ら妻の役目で娘たちとの連絡に使っています。 我が家の三姉妹は長女は結婚したが子供は生まれず、次女はキャリアウーマンで海外営業部に所属しアジアへの出張が多い。 三女は米国留学し、そのまま現地採用でTBSワシントン支局に報道カメラマンとして働いている。 
 そんな理で夏休みは家族揃って日、米、と各年毎に過ごしている。 「赤毛のアン」の故郷カナダのプリンスエドワード島や「サウンドオブミュージック」のトラップフャミリー一家がその後過ごした米国バーモント州ストウなど訪ねたりと楽しい思い出を作ってきました。 この4月にはその娘が結婚したので夫婦で新居を訪ね、20日程バージニア州アレキサンドリアで過ごし、ワシントン初代大統領や南軍リー将軍の旧跡を見学などして過ごしてきました。


    
5. 桑山 晶次 さん (7月27日生まれ)

思い出ばなし

 k-unet の御担当者から、誕生日に際し、なにか一筆書けとのご案内があり、思い出話を載せていただくこととした。 
 この7月27日で満70歳となる。 実に長く生きてきたものである。 もう充分である。 昭和十八年オギャーと生まれた時は仏陀とは異なり全く自覚がないが、戦争の最中故、父母たちはさぞかし苦労をしたことだろう。 小生は長野県の湯田中に疎開した。 その記憶はほとんどないが、何故か今でも信州と言うと特別のノスタルジアみたいなものを感じる。 その信州の雰囲気が心のどこかに残っているせいだろうか、中学のころから奥多摩、秩父等の山を歩き、キャンプをするのが大好きとなった。 キャンプと言っても野宿みたいなもので、たき火の煙にいぶされたり、炊きそこないの飯ごうの飯を食べたりしたものだ。 大学に入ってからは、毎年北アルプスに出かけたりした。 これもテントを持ち50キロ以上ものキスリングを担いで2週間ほど、親しい学友4,5人と山々をホッツキ歩いたものだ。 勿論我が母校成蹊が開拓した谷川岳の虹芝(こうし)寮にも出かけたものだ。
 70年の人生の中でこの山歩きほど楽しい思い出として残っているものはない。 御蔭様で今でも頑健な体をしており、元気いっぱいではあるが、最早山歩きは無理。 日本の名山などのテレビを見て憂さ晴らしをしている毎日である。








 
  

Happy Birthday !

  6月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。 この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。


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1. 安道 宰一郎 さん (6月2日生まれ)

近 況

 この度は Happy Birthday コラムにお誘い頂き有難うございます。 冒頭この場をお借りして、k-unet幹事皆様の日頃のお世話に深謝申し上げます。
 KDD時代は主に国際部門で、当初広帯域化の時代には関係の技術の方々から指導を受けつつ短波から衛星・ケーブルへ切替えて新規直通回線の開設交渉およびTV、専用線等の対地拡張とその認可取得手続き、その後国際計算料金改定、バイ、マルチのキャリア間交渉等に従事、大凡の世界各地を訪れる機会を与えられ、貴重な経験をさせて頂きました。
 現在、月~金フルに(08:30~17:30)働いております。 青山一丁目駅近辺(近くにカナダ大使館)の外人用マンションの一括管理を任され、所長兼管理人兼苦情承り係のような仕事をしております。下手な英語と仏語を使う機会があり、また用向きで入居者宅内に伺うこともあり、居ながらにして異国の雰囲気を感じることがあります。
 適度な緊張感をもって規則正しい生活を送れば、心身共に健康を維持できるのではとの思いで日々過ごしております。 宿泊も可能で、ここを第2の拠点として利用、夜の飲み会その他出歩くのに都合がよく、また家庭との適切な距離を保ち平穏を維持するのに役立っています。
 毎日数時間クラシック音楽を聴きながら執務、作曲の経緯、時代背景等を調べたり、時々オペラ鑑賞に出かけたりしております。 いずれはこの西洋かぶれ状態を修正、最後は日本古来の楽曲に触れてみたいと思っております。 またある時期年間60ラウンドを超えてプレーしていたゴルフも、ここ10年は年5~6回程度、現在駐在仲間、団地のゴルフ会のお世話役をしていますが、実際のプレーには参加出来ないこともあり、また平日のお誘いにも不義理状態が続いております。 筋力・スキルともかなり落ちたため、これが今後の改善課題かと思っております。
 以上、とりとめのない私事にお付合い頂き有難うございました。
 末筆ながら、k-unetの今後益々のご発展並びに会員皆様のご健勝をお祈り申し上げます。



    
2. 大場 光男 さん (6月2日生まれ)

石友会の歩みと共に

 k-unet会員の皆様にもう一つのサークルを紹介させていただきます。 それは石友会(KDDOBの囲碁愛好会の名称)です。
 私が石友会へ入会し、即幹事に任命されたのは平成7年4月定年の翌月からでした。 当時、会運営の担当者は、会長の小熊栄一さん[注1](故人)、川口浩さん(故人)、そして清田訷久さん(故人)の3名でした。 すでに小熊さんは80代、川口さんも70代で、お二人は後継者を探していた様子で、清田さんも2年前に定年と同時に、幹事されたそうです。 私の場合も職場の先輩であった清田さんに誘われ、それから延々18年の月日がたってしまいました。 その頃石友会の活動は、春秋年2回の定期囲碁大会と年1回のKDD現役との対抗戦でしたが、対抗戦は私の記憶する限り、平成9年1月実施が最後かと思います。 
 一方定期大会は、私が始めて担当した平成7年の秋第38回から今日まで途切れることなく続いてます。 その当時の定期大会ですが、会員はほぼ60歳以上とゆうこともあって、参加者は40名程度ですが開催当日になって、「体調不良につき欠席」、「すっかり忘れてました」、等で必ず2~3名の欠席があり、なれないこともあってその対応に右往左往したことを記憶してます。 また、会場の設定ですが、KDDビル32階の会議室に地下の娯楽室から、20個強の碁盤とその倍の碁石を運び上げること、その後片付け等大変な重労働でした。 そんな訳で1年後定年を待って幹事を引き受けてくれると約束してくれた、先山昌人さんの加入が待遠しく感じたものです。 その他に組合せ表等大会準備は、同友会事務室を利用させていただき、大変便宜を図って頂いていました。
 石友会が最大のピンチを向かえたのは、KDDがKDDIに名称を変更した、平成12年でした。 すでに小熊さん、川口さんも引退され、定期大会の会場やその準備する場所がまったく無くなったからです。 幸いこの非常事態にあっても、吹上伸輔さん、滝野幸則さんの協力を得て、清田新会長のもとその対策に当たることが出来ました。 その結果、大会会場は市谷にある日本棋院(当然有料)、準備、打ち合わせ等は席料を払って新宿棋院で行うことになりました。 これは現在も変わってません。
 調度その頃、渉外を任されていた私は、紅友会(東京でただ一つの女性だけの囲碁サークル、会員200名程度、本部を日本棋院に置き月1回の会報も発行。規模は日本一と聞いてます。)との年一回の対抗戦について交渉を進めていました。 幸い先方の協力を得て毎年10月に日本棋院で行うことが決まりました。 平成12年10月、第1回の対抗戦(各21名参加)が行われ、昨年10月で13回目となりました。 さらに、神奈川県湯河原の「杉の宿」で合同合宿も今年の2月で13回を数えます。
 石友会が次にピンチを向かえたのは平成15年ごろです。 大黒柱の清田会長、メールで大会通知等を一手に引き受けてくれた吹上さんが、ほぼ同時ぐらいに体調を壊され、さらに、滝野さんからは諸事情のためお手伝いが難しくなった旨の申し出があり、途方にくれたのを覚えてます。 しかし捨てる神あれば助ける神あり。 調度その頃、高野敏明さん、柿沼詔一さんの加入もあり即幹事を引き受けていただきました。 その後見城正幸さんの参加もあって、先山さんを会長に5名の新体制が整いました。
 新体制での何か新しい企画をと考えたのが、大阪地区との東西対抗戦でした。 平成16年10月第1回目が、紅友会との合同合宿と同じ「杉の宿」で行いました。 参加者は東京9名大阪7名でした。 しかし大阪側からの参加者が年々減少し、第3回目からは東西合同合宿と名称も変更しましたが、平成20年にはその開催も難しくなりました。 大阪の会長の話では、ここ2~3年入会者は誰も無く、会員の高齢化が進み会員数は減少の一途です、とのことでした。 石友会としても他人事ではありません。私が幹事を引き受けた平成7年は会員数110名でしたが、60数名と40%も減少していたからです。 なお、平成24年時点では59名。
 早速その対策について考えましたが、結局はKDDI囲碁部からの受け入れしか思いつきませんでした。 平成20年の秋ごろでしたか、KDDI囲碁部で幹事をなさった加藤雅夫さんが来春定年を迎えると聞き、その受け入れに全力をあげることにしました。 たまたま幹事として中心的な存在であった高野さんが体調を崩され、代わりに安藤晴雄さんが幹事に就任した時期でしたので、先山会長と相談のうえ、若手中心の新人が入り易い雰囲気作りを心がけることにしました。 その結果、平成21年、柿沼会長、見城、安藤、加藤、の新体制が出来、先山さんと私がそのサポート役に廻ることになりました。
 さらに、KDDI囲碁部の顧問をされ、石友会の会員でもある塚田一幸さんと、加藤幹事のご尽力によりKDDI囲碁部との対抗戦も復活しました。 昨年の4月の第1回目に引き続き、今年の4月新宿の碁会所「天元」で第2回を実施しました。 また、KDDI囲碁部は毎年5月に合宿を行ってますが、昨年は7名今年も数名、石友会から特別参加の予定です。 特に嬉しかったのは、昨年春KDDI囲碁部から会へ2名の加入者が有った事です。 これからも何名かの加入者が予定されてます。 私も安心して幹事を卒業できそうです。
 その他石友会の行事は、トリプル碁[注2](3人一組で必ず女性か子供と級位者が入る)とペア碁[注3](男女一組)および実業団団体戦[注4](3名一組)への参加があります。トリプル碁は毎年12月23日に実施され、平成17年の第3回から参加して昨年12月で8回目となります。 
 写真は昨年12月の大会でAクラスで準優勝の記念です。 男子2名女子1名が普通ですが、男子1名女子2名は異色。 私が舞い上がらなかったら優勝してたかも。 ペア碁は毎年4月29日に行われ、平成22年第2回から参加し今年の4月で4回目になります。 今年Bクラス参加した柿沼会長組みは見事優勝を果たしました。 実業団団体戦は年5回行われてますが、平成21年7月の第1回に2チーム参加しましたが、その後はその性格上KDDI現役組で欠員が生じた場合のみ補充要員として参加してます。 トリプル碁、ペア碁共女性が係わるため、紅友会の全面的な協力を得て参加してきました。 石友会の参加希望者全員が出場出来ないのがネックであり今後の課題です。
 今年の石友会行事は、2月、13回紅友会との合宿(実施済み)。 4月、KDDI現役との対抗戦(実施済み)、ペア碁参戦(実施済み) 5月、KDDI囲碁部合宿に特別参加、6月、 第73回定期大会、8月、石友会合宿、 10月、第14回紅友会対抗戦、 11月、 第74回定期大会、12月、トリプル碁参戦。となっています。
 73回定期大会は今のところ30名の応募がありました。 応募者での最高年齢は94歳、80歳以上も数名います。 今まで80歳以上の大会参加者には、記念品(有名プロ棋士のサイン入り扇子か、湯のみ茶碗。) を贈呈してきました。 (現在贈呈者は9名。) また、大会終了後は表彰式と懇親会を行ってますが、同友会無き今、旧友を暖める数少ない機会となりました。
 最後に石友会の宣伝をさせていただきます。 中国の寓話に「樵夫が山奥で童子達の碁を眺めているうちに、持っていた斧の柄が朽ち果てていた。」の例え通り、碁は面白く、あきない。 人は年とともに一日は長く一年は短いと言われてますが、その一日を楽しくしてくれる素敵なゲームです。
 もし石友会へ入会を希望される方は、柿沼会長のメールアドレス、11-kakinuma@tcat.ne.jpへご一報ください。初心者も大歓迎です。                               
 [注1] 個人名は総て実名。 故人を除き本人の了承済み。
 [注2,3,4] 主催はいずれも「いずみ囲碁ジャパン」です。



    
3. 北村 秀二 さん (6月3日生まれ)

近 況

 平成9年6月31日付で早期退職優遇制度の定年扱い55歳で退職しました。 その後、小学校時代の友人が経営している「尼崎彫刻株式会社」に再就職し、60歳の還暦まで大阪高槻市にいて、平成15年6月に現在住んでいるつくば市に戻ってきました
 その間、友人の会社を手伝いながら福祉有償運送ボランティア活動(自家用車で要介護者等を送迎)を学びました。 その経験を生かし60歳になって地元つくば市でまた、福祉有償運送ボランティアの「NPO法人友の会たすけあい」を立ち上げ、地域住民の足として活動していまいた。 それと同時にKDD時代に覚えた「合気道」を、諸先輩のご指導により東京板橋区の東板橋体育館武道場で、「東京合気道秀和会」という名の道場を、平成15年に設立したのは61歳の時でした。
 合気道は、昭和49年9月KDDビル地下3階にあった武道場で稽古をしているのを見学に行って初めて知り・・・これが私の合気道人生の始まりでした。 「趣味が実益?」となり(ホンの僅かですが)今や、大阪、名古屋、三重県名張支部を持つ50数名の会員が当会で稽古をしています。
 ところが、合気道活動が順調に行っていた矢先!去年(平成24年2月)に血尿がでて、精密検査した結果、「浸潤性膀胱癌」と診断され、6ヶ月間に亘る闘病生活を余儀なくされました。 抗癌剤(GC治療)が功を奏してか、癌が手術できる程に小さくなりました。 平成24年7月17日に膀胱、リンパ節、前立腺、尿道を全摘し10時間に亘る手術でした。満70歳と1ヶ月での大手術でした。 6ヶ月に及ぶ入退院の生活で心身とも衰弱しましたが、家内、友人、知人等の激励のお蔭で回復し、感謝しています。 この4月、9ヶ月検診では「癌転移」もなく順調に回復し、合気道の稽古も再び始めています。
 今まで風邪以外の病気はしなかった健康体でありましたが、ふとした日常生活の乱れから生活習慣病である「癌」となったことを反省しています。 これからの残り少ない人生を人に迷惑をかけない程度にマイペースを守って過ごしたいと思っています。 また、来年の誕生日(6月3日)を楽しく迎えるために「何事もほどほど」の生活をしたと思っています。






    
4. 服部 尚彦 さん(6月6日生まれ)

生まれる事と亡くなる事

 我が家は神徒です。 お線香、菊ではなく、咽せ返る様な生花の香りに今は亡き身内を思い出します。   70数回目の誕生日を迎える年齢になり、嘗ての童謡の「村の渡しの船頭さんは今年60のお爺さん」という節回しがふと浮かぶと、其の歳を遥かに越えることに今更ながらに驚きます。 しかし、今の社会で御会いする方々の中では、まだ駆け出しで扱われるご時勢でもありますし、一方身の回りの親しい方々にも今まで想像も出来なかった事が多く起き始める歳頃でもあります。  
 両親を送ると、もう2度と会うことが出来ないのかとか、喜んでいた物の一つも持ってあの世に行けないとか、死とはどのような状態になることか、生まれ変わるという事はあり得るのかとか、風の様に駆け巡るものなのかとか、常に身内の周りに存在しうるのかとか、宗教的な考えを巡らすことがあります。 それなりに、自己の考えはありますが、
確かなものではありません。  
 最近思う事は、命日より「誕生日」を祝うことに本当の意義があると感じています。 個々の生誕は長い世代に亘り、全くの偶然の塊であり、筋書き一つ変われば、状況が少しでも変化していれば我々自身がこの世に存在しなかった訳です。 また、此の天文学的な偶然が再現されることは、想像を越えます。 この世に生を受けた誕生日こそ、本来末永く祝う価値があると思い始めています。  
 皆様自身の存在に感謝して、価値ある人生を送られます様に祈念致します。



    
5. 西宮 凞 さん (6月29日生まれ)

奈良と私

 今年の6月29日で満82歳を迎えます。 私の住宅は、奈良市帝塚山地区で40数前に奈良市の最西端矢田丘陵の東面に開発されたに住宅地で、現在では北には帝塚山大学・南に近畿大学農学部が隣接しています。 矢田丘陵には紫陽花で有名な矢田寺(直線距離で南3km)や日本最古の厄除寺と云われる松尾寺(南5km)、そして南端には世界最古に木造建築として知られる世界遺産の法隆寺(南12km)があります
 また、我が家から東(5km)の唐招提寺は、毎年6月誕生月5日 ~ 7日の3日間開祖・鑑真大和上を偲び、国宝鑑真和上坐像を収めた御影堂の厨子の扉が特別に開かれ、鑑真和上坐像を拝観することができます。 また、それに合わせ東山魁夷画伯奉納の障壁画と襖絵も特別公開されます。 (今年の特別公開は鑑真和上1250年御諱とのことで特別に6月5日 ~9日迄の5日間だそうです)  鑑真和上坐像(国宝)が安置されている御影堂内には、昭和46年から57年にかけて東山魁夷画伯が10年を超える歳月をかけ、日本の風土をテーマとして、色鮮やかに描かれた「山雲」「濤声」と、墨一色で描かれた和上の故郷中国の壮大な風景「揚州薫風」「黄山暁雲」「桂林月宵」の障壁画と襖絵も特別公開されます。 坐像を収めた厨子の扉絵「瑞光」も東山魁夷画伯の作だそうで、毎年多くの方々がこの日に合わせて全国から来られているようです。
 私事ですが数年前偶然に訪れた松本市安曇の「中の湯温泉旅館」が昔もっと下の方にあったとき東山魁夷画伯が当旅館で「山雲」を描かれたと女将から聞き、懐かしく襖絵「山雲」を拝観させていただきました。 また唐招提寺の御影堂(非公開)の供華園に、鑑真和上の故郷である中国揚州から送られたという春の終わりを告げる花今年は4月25日(木)~5月6日(月)間、日本では皇居と唐招提寺しか咲いていないというガクアジサイに似た白い可憐な花・瓊花(けいか)が咲き乱れます。 (左の写真はYahoo きっすいの奈良人:唐招提寺けいかより引用) 
  襖絵や花はさておき、奈良の第一のお奨めは何といっても奈良公園内の阿修羅像でしょう。 4年前の平成21年3月31日~6月7日に東京国立博物館で「国宝 阿修羅」が公開された際には94万人の拝観者があったといわれています。 本来阿修羅はインド神話では軍の神で激しい怒りを表すのが一般的だそうですが、興福寺の像には激しさはどこにも見られず、この優しい面持ちの阿修羅像は、現代仏像界のアイドルと云われ、モナリザやスフィンクスと並ぶ美仏だそうです。 現在、この阿修羅像は興福寺・国宝館でゆっくり拝観できます。
 さて、私ですが、22年前の定年退職後は健康管理のために、近くのスポーツクラブで軽い運動・水泳などで、のんびり過ごしておりましたが、ある機会から地域のボランティア活動を始めることとなりました。 奈良西警察署管内の防犯委員(現在の地域安全推進委員)や奈良市交通安全指導委員を10数年間にわたり委嘱を受け・平成9年の神戸連続児童殺害事件を機に、地域の有志数名で校区内の主要交差点での安全誘導を開始しその後徐々に協力者も増え、平成16年11月には、すぐ北隣の校区に通学する小学1年生有山楓ちゃん誘拐殺人事件を機に学校教職員・PTA・地域のボランティア三者約100名構成による「富雄第3地区子供の安全を見守る会」を発足し組織だって活動を始めました。 内容は、子供の通学路を主に、青パト5台による巡回、主要交差点10か所での安全誘導を開始しました。 その間平成19年の奈良県警本部長表彰・平成23年の文部科学大臣表彰など受賞しました。
 しかし、3年前に心臓大動脈瘤が51mmと爆弾を抱えた状態との診断を受けたこと、あわせて両足共に膝の軟骨が減る変形性膝関節症を患ったことに伴い地域の防犯活動等の代表役は退くことにしました。 現在は顧問としてお手伝いをしています。 残念ながら最近は地域の防犯活動もボランティアの高齢化とメンバーの減少により地域安全活動が先細り傾向となっていることを憂えます。 安全に強い地域にするために、横のつながりを強め、奈良の美味しく甘い空気・明るく大きな空を失いたくないと思っています。 恵まれた地・古都奈良の少しでもお役にたてば、またそれが自分の健康法の一助になればと、今後も地域活動に取組みたいと思っています。




 
  

Happy Birthday !

  5月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。 この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。


(バックナンバーは こちら を、また投稿者一覧は こちら をクリックして、ご覧ください。)



    
1. 沖 和美 さん (5月2日生まれ)

今は"和の街"がおもしろい

 最近は街の感じがとても変わりました。 そして次々とできるあちらこちらのショッピング・モールはどこも似通ったもので街の個性も無くなった気がします。
 独特のステイタスを持っていた憧れの"銀座"もだいぶ変わりヨーロッパのブランドのビルが次々に出来てもその雰囲気は正直あまり好きになれません。 以前は和の物と日本に入ってきた洋物がそのままの形でと言うよりうまく調和して日本に溶け込んだ形で、やはり最高の --- 日本の --- 東京の --- 究極の街銀座を形成していたような気がします。 今は海外から上陸した物がストレートに入ってきていてバランスが馴染めないと思うことがあります。 あの独特な雰囲気が薄れてしまったような気がして残念です。
 かつて若い頃は青山、原宿、赤坂そしてたまに銀座等へ好んで出かけていましたが、今は"和の街"が面白いと思うようになりました。 過日、浅草橋の喫茶店でちょっとしたことで会話を交わした同年代のマダム(かつては洋風の街を好んでいたような)も同じことを言ってました。
 ちょっと範囲が広いのですが浅草 --- 昨年は長唄などによく登場する花魁道中を偲ばせる吉原界隈、隅田公園近くの待乳山等に江戸文化を偲び散策しました。
 "日本橋"、"人形町"、"湯島"、--- そして今は"神楽坂"にはまっています。 
 先日NHKカルチャーのコースで、"神楽坂散策と料亭女将のちょっといい話"を聞きながらお昼を頂きました。 かつて文豪の通った料亭など沢山の路地を巡り、次回来る時のためにと最初はメモを取ったのですがとても覚えきれずgive-up。 そして知りませんでしたこの街にフランス料理のレストラン、カフェが多いことを --- 。 時々パリの街角に迷い込んだような錯覚を覚えるほど --- フランス人もかなり見かけました。
 そしてこの時知った"神楽坂をどり"を先日観に行きました。 今や芸者さんの数も25名ほどとか --- 募集もしていました。 次は"谷中"を目指そうと思います。  


    
2. 川口 憲一 さん (5月3日生まれ)

私の家庭内自立

 会社勤めをやめて約2年がたち、ようやく新たな生活のリズムができてきたように思います。
 勤め時代は組織の目標を中心に毎日が動いてゆく生活でした。いまでもともすると目標を達成しようとしてる自分をみつけることがありますが、できるだけ何かしている時間を楽しむように心がけています。
 退職後、家で過ごす時間が増えて家内との間で適当な時間空間の距離を形成するまでに時間がかかりました。 家の中にいても自分一人でできるだけ長く過ごせるようになることが第一の条件です。 依存度の高いことの一つに食事があります。 住宅街に住んでいますので毎日食事のためだけに出かけるのもおっくうでまた経済的でもありません。 退職して半年くらいたったころ家内から男の料理教室にゆくように仕向けられ、 毎月1回の教室に通うようになりました。 料理教室だけではなかなか身につかないのですが、家で復習をしたり、レシピーを検索して試してみたり、努力した結果はとても有意義なものとなりました。 自分自身のために作るだけではなく、逆に料理を作ってあげれば辛口のコメントが多くてもまあ喜んでもらえる、息子や娘の家を訪問しても単なるお客様でなく調理人として重宝がられることが分かり、時間の使い方としては気にいってます。 職場にいるころは急いで食べていた昼食も味わって食べるようにもなり、食事に対するこだわりも少し強くなったようです。 いくつか得意の料理もできました。 ドライカレー、ナスとひき肉のグラタンなどです。 今年はケーキにも挑戦してゆきたいと思ってます。 孫の節句の祝いにロールケーキでデビューしようと思って現在準備中です。


    
3. 武村 俊平 さん (5月4日生まれ)

Happy Birthday の贈り物

 皆様お元気にお過ごしのことと存じます。 今年は小生の喜寿の年ですが、それを記念して、自分から自分への贈り物として南米イグアスの滝とペルーのマチュピチュ・ナスカを訪ねるツアーに参加しました。 その観光旅行の感想を送ります。 とにかく、ペルーまでの飛行時間が長くて、シスコ経由で20時間以上もかかり、少々、グッタリで、体力の衰えを思い知らされました。けれども、ナスカの地上絵は期待外れだったものの、イグアスの滝とマチュピチュ遺跡が素晴らしく、訪れた甲斐はありました。
 イグアスの滝は、幅が3キロにも及ぶ壮大なもので、水量も多く、世界の三大瀑布の一つと言われるのも、むべなるかなと思いました。 面白かったのは、イグアスの空港でブラジルの女性係員からアンケートへの協力を依頼されたことです。 アンケートは、日本語で書かれており、サッカーのワールドカップとオリンピックの開催に備えて環境や物価などに対する意見を問うもので、ブラジルも努力しているのだなぁと思いました。
 マチュピチュ遺跡へは、クスコを経由してインカレイルで行きました。 途中、4,000mの高地を通るので高山病を心配しましたが、さほどでもなく、クスコの夜が寝苦しかったくらいで済みました。 石造りの遺跡は美しく整備されており、インカの人たちの技術の高さと努力が偲ばれました。 もっとも、なぜ、このような高地に住居を定めたのかは、あれこれの説明を聞いても、納得しがたいものがあります。 また、マチュピチュ村では露天温泉に入ることも出来、カリフォルニアから来たという女性たちとも交流できました。 彼女たちは親日家のようで、一度は日本を訪れたいと言っていました。 さらに、訪れたペルーの街々は、意外に綺麗で、これまでに訪れたヨーロッパの街よりも好感がもてましたが、同時に、スペインの侵略のすさまじさも感じられ、心が痛みました。 
 いずれにせよ、喜寿の祝いとしては最高で、世界遺産をみることに病みつきになりそうです。



    
4. 吉田 保夫さん (5月4日生まれ)

趣味に生きる

 5月4日の誕生日を迎えると、私は後期高齢者の仲間入りをします。 1957年4月にKDDへ入社し1996年3月末に早期退職するまでの39年間を職場や仲間に恵まれ、可もなく不可もなく勤めてきました。 また退職後も会社の仲間たちと麻雀に、旅行に、そして山登りなどに誘っていただき、楽しく平穏な人生を過ごすことができましたが、その仲間たちも歳を重ねるごとに少なくなり寂しい思いをしております。


  退職後は好きな登山に熱中できました。 KDDに入社し日本橋国際電報局へ配属になり、職場の仲間と山登りを始めましたが、26歳頃には体力の限界を感じて山登りを止めましたが、1993年秋、福島県二本松市の菊人形展と一切経山(吾妻連峰の一つ)に登るツアーがあるが、行かないかと妻に誘われた。 旅行好きの私は二本松市の菊人形展が観られると思い、一つ返事で行くことにしたのが、山に登るきっかけでした。   
 旅行当日は天気も恵まれ、二本松市の菊人形展も、また山々の紅葉も素晴らしかった。 この日の宿は吾妻連峰の山麓にある幕川温泉でした。 内風呂もよし、露天風呂もよし、食事も山菜料理でよし、翌日の天気も快晴でよし、一切経山頂からの展望もよし、帰りに立ち寄った新野地温泉の野趣味に富んだ露天風呂がまたまた素晴らしかった。 数多くのラッキーが重なり快適で楽しい旅行であり山登りでした。   
 これ以後、妻は山登りにのめりこんでいきました。 妻はこの翌年から旅行社のツアー登山に積極的に参加するようになり、私も嫌々ついて行く羽目になりました。 1996年頃、作家で登山家の深田久弥が選んだ日本百名山というものがあると知り本を買いました。 またNHKBS放送で日本百名山の映像を見て感動を覚え、そして日本百名山完登を意識して積極的に山登りを始めました。 
 旅行社のツアー登山に参加するだけでなく、中学時代の同級生たちや会社の麻雀友達でもあり、山登り友達でもある先輩たち(細井敏夫、平出精一、落合正孟、梅田赫、横尾一郎)と一緒に登った木曽駒ケ岳、乗鞍岳、白山、蓼科山、奥白根山、西吾妻山、剣山、荒島岳等々は思い出深い山でした。 特に細井敏夫さんとは長い付き合いで、私と妻と3人で会津駒ケ岳、初冠雪の焼岳、大雪山に登ったこともあり、今でも夫婦の間で話題になります。  1999年7月29日の夕食時、槍ヶ岳山荘の食堂でKSSで一緒に仕事をしていた蕗田五男さんに偶然お会いしたのには驚きました。 この後の同友会でお会いした時、体調を崩して山登りを止めたそうです。 
 2005年10月22日、日本百名山最後の山は美ヶ原(王ヶ頭)でした。 妻・子供・孫そして婿・嫁たちと一緒に登り、日本百名山完登を祝って貰いました。 この後もしばらく登山を続けましたが、平成20年10月細井敏夫さんと二人で登った磐梯山・安達太良山が本格的な山登りの最後でした。 日本百名山を完登して次は何をしようと考えた時、若い頃に一度行ってみたいと思っていた四国八十八か所めぐりが頭に浮かびました。  2006年3月27日の夜、浜松町バスセンターから高速バス乗り、第1番札所の霊山寺へ向かいました。 霊山寺の売店で巡拝用品一式を買い揃えました。 白衣を着て、頭陀袋に納経帳、納め札、数珠、蝋燭、線香、遍路地図を入れ、菅笠をかぶり、金剛杖を持って霊山寺の仁王門を潜りました。 本堂及び大師堂へ行き、灯明と線香をあげて般若心経を唱えた。般若心経は家で少し練習してきましたが、周りの人達が気になって大きな声が出ず、どうも上手く唱えることができませんでした。
 第2番極楽寺、第3番金泉寺・・・と歩き、第1日目は第6番安楽寺の宿坊に泊りました。 第1番霊山寺から第88番大窪寺まで距離は1,200キロといわれています。 この距離を一般的に45日ぐらい掛けて歩きます。 1日平均26キロですので、歩き通すという気力と体力が必要となります。   
 私は3月28日に発願して宿坊・民宿・旅館・ビジネスホテル等に泊りを重ねて40日目の 5月6日に第88番札所大窪寺へ到着し結願しました。 そして更にお礼参りのため第10番札所の切幡寺を経て発願寺の霊山寺に戻り結願の報告をして、その日の内に高速バスで大坂難波へ行き、南海電車で高野山へ。 高野山の宿坊に泊まり翌日弘法大師が祀られている奥之院を参拝しました。 四国遍路の道中記は「わいわいじーの部屋」から検索されるか、http://www.k4.dion.ne.jp/~yoshi-y/  からご覧ください。   
 寺めぐりの楽しさが解り、坂東三十三観音めぐり、西国三十三観音めぐり、秩父三十四観音めぐり、江戸三十三観音めぐりもしました。 四国遍路はこの後、2008年3月25日~4月30日と2012年9月21日~11月7日にも行って来ました。  四国遍路は辛いことも多いのですが、翌年になるとまた行きたいという気持ちが強くなりました。 何か不思議な気持ちです。来年まで体力・気力がまだ残っていればもう一度歩いて見たいと思っています。  
 KDDを退職の翌年に私が住んでいる所の町内会と老人会の役員を引き受けました。 町会では文化部を担当し、文化祭の作品展示や映画会などの行事を主催しました。夏休みには盆踊りのやぐらの組み立て、秋は運動会等などの手伝いを行いました。 老人会では春秋2回の旅行計画や毎月のウォーキングの企画・引率を行い、毎月一人でワープロを使い会報を作成していました。 ワープロが故障し修理不能となったためパソコンを購入しました。 パソコンの操作を教えてくれる人が身近にいなかったので、メーカーへ問い合わせをしたり、本屋で立ち読みをして操作を勉強しておりましたが、地域の公民館にパソコンサークルがあると聞き入会しました。 2006年頃にホームページ作成の基礎を習いました。 会員一人ひとりが自己紹介のページを作り、それをインデックスとリンクさせる作業を私に一任されました。
 試行錯誤して会員の顔写真から自己紹介のページにリンクできるようにして先生に褒められました。 これが病みつきになり自分自身のホームページを立ち上げました。  
 最初の頃は日本百名山と四国八十八か寺めぐりだけでしたが、趣味で撮った写真を残したいと思い、我が家の庭に咲く花や旅行先で撮った風景や鉄道の車両、そしてハイキングやウォーキングなどへ行った際に撮った写真を掲載して徐々に項目を増やしました。 現在は「私の日本百名山」「お遍路の旅」「鉄道の旅」「お出掛け情報」「写真館」「プロフィール」「3年6組」「バックナンバー」があります。 毎月1日の更新作業は大変ですが、更新日を守るよう頑張っております。   
 私のホームページアドレスは「わいわいじーの部屋」で検索されるか、 http://www.k4.dion.ne.jp/~yoshi-y/  をクリックして頂けば見ることができます。 
 2009年4月、ふなばし市民大学校いきいき学部陶芸学科に入学し1年間陶芸の基礎を学びました。 卒業後は船橋市の老人福祉センターにある陶芸クラブへ入会して月2回作陶しています。 妻は陶芸学科の2年先輩で、曜日が違いますが同じ陶芸クラブにおります。 夫婦で同じ趣味を持っているので話題には事欠きません。 ふなばし市民大学校いきいき同窓会の「歩こう会」に入会し毎月1回県内外を歩いております。  「1年の計は元旦にあり」と言いますので、正月に今年の目標を何にしようかと考えております。 今年の目標は気力・体力があるうちに旧東海道を歩こうと思っております。 また旅行回数が多くなっていますので各市町村のマンホールの蓋の写真を撮っております。 枚数が増えましたらホームページに乗せようと思っております。 5月で75歳になりますが、これまでに年齢を意識したり、過去を振り返ったりしたことはありませんでした。 いつも前を見て歩いています。 これからも健康に留意して命の続く限り好きなことに熱中していたいと思っております。 


 
    
5. 佐藤 正紀 さん (5月12日生まれ)

近況報告

 k-unet事務局から、誕生月を迎えるにあたりホームページのhappy birthday のコーナーに何か投稿せよとのお話がありましたので、近況を報告することで責を果たしたいと思います。
 現在、東京都町田市に在住しています。 昭和40年代にKDD共済会が斡旋した分譲地の一つで、昭和49年に転入してきました。 同一自治会の中にKDDの関係者が他に4者(内一人はk-unetホームページのインタビュー欄に登場されている松本一夫氏)いらっしゃいます。 交通アクセスは、小田急町田駅からバスで5番目の停留所の浄水場前下車、徒歩5分程度で、近くには町田市民病院があります。
 小生は今年の誕生日で73歳になりますが、6年前の平成19年3月末で現役を引退し、純・年金生活者となりました。 若いころ、60歳が定年としても63歳くらいまでは現役でいたいなと漠然と思っていましたが、更に3年近く長く働けたことに、恵まれたなと感謝しております。
 家族は家内のほか娘と息子ですが、子供は二人とも独立し、老夫婦が残っています。 家内は4年ほど前から首に痛みを訴え、変形性頚椎症との診断を受け、リハビリのため病院通いをしています。
 小生の健康上の問題としては、3年前の春ころより手が震えるようになり、検査の結果パーキンソン病と診断されました。 現在、服薬とリハビリマッサージによる加療を行っていますが、動作のスロー化や筋拘縮の兆候が現れるなど、病状は徐々に進行しているようです。 現役時代から近くのテニスクラブへ加入し、続けていたテニスも、ほとんどコートに立たなくなってしまったので、昨年6月をもってクラブを退会しました。 医師の指示は、体を動かすための散歩の推奨と転倒しないよう気をつけることで、そのため杖の携帯・使用と禁酒が勧告されています。 そのほか服薬している薬の副作用として突然眠り込むことがあるとの事で、服薬中の機械類(特に自動車)の運転が禁止され、行動範囲がせまくなってしまいました。
 社会的活動としては、前述の松本先輩に誘われて、平成17年から地域の「町田市少年少女発明クラブ」へボランティアの指導員として、原則各々月1回の講座及び役員会・企画委員会へ参加しています。 会員は小学3年生から中学生まで、活動の中心はアイデアものづくりで、指導員は創作支援を行います。 年度前半は工作技術の習得などの準備期間にあて、年度後半に各自がアイデアを形にして評価を競うものですが、指導員として、前述の健康上の問題から工作の実技支援が困難で、今後、どこまで務まるか、頭の痛いところです。 発明クラブの対外活動としては、ゴムと電気モーターを動力源としたハイブリッドカーの性能を競う、発明協会のチャレンジ創造コンテスト全国大会に所属会員が参加し、一昨年度には文部科学大臣賞及び特許庁長官賞を、昨年度にはNHK会長賞及び発明協会会長賞を受賞したことが自慢になっています。
 k-unetの訃報にかつての知人のお名前を見出すことが増えてきたように感じます。 平均寿命まであと6年、平均余命はまだ10年以上あると推察していますが、そろそろ年貢の納め時を意識しなければならないところへ来ているようです。 といいつつ、エンディングに向けて、まだ何も準備ができていないのが情けないところ。結局は準備不足で周りをあわてさせることになるのかな。



    
6. 波多野 雅朗 さん (5月17日生まれ)

喜寿を迎えて -感謝―

 今年喜寿を迎えるに当たり、想い浮かぶはあの日、あの時なのです。 
 
 朝鮮に渡ったのは、大東亜戦争開戦の年、昭和16年4月。 そしてあの日、昭和20年8月15日、国民学校3年生の私は、友達と夏休みに義務付けられていた軍馬の馬草用のアカシヤの葉っぱ取りに・・  父の朝鮮での三番目の赴任地、黄海道・黄州(今の北朝鮮地域)の校長官舎である我が家に帰ると、居間には近所の日本の人々が集まり、ラジオの前で緊張しながら正午からの天皇陛下の重大放送を待っていた。 やがて、玉音放送。 聞き取れぬような小さな擦れた天皇陛下の「・・耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・」の放送が流れるや、集まった大人達が一斉に声を詰まらせ、泣き崩れた。 負けたっ! その場の雰囲気から、これは大変なことが起こった・・と、子供心にも感じた。 翌日には、もう町の中心をソ連兵が馬に乗り、銃を空に向け威嚇射撃をしながら、走り回った。 そして、校長の父は警官2名に付き添われ、国民学校の奉安殿から取り出した御真影を抱き、警察署に納めに出掛けた。 数日後には、自警団を称する2名が銃剣を手に、官舎に家宅捜索に来た。 母は3才と生後6ヶ月の妹を抱え、官舎裏の林檎園に逃げ込み、父が捜索に立ち会い、私はその傍に・・ 自警団は、銃の後部で天井をとんとん突き、倉庫に保管の食糧などの束を剣先で突き刺す。 そして、奴らは引き上げた。
 やがて9月、父が親交のあった現地要人に「明日、日本人が集結させられる」と耳打ちされ、遂に米ソ国境線の38度線に向け,秘かに脱出する日が来た。 近所の5家族と共に・・ ソ連兵に見つかれば銃殺必至の、決死の脱出である。 我が家は、父が3才の、母が6ヶ月の妹を背負い、9歳の私が僅かばかりの食糧を背負い、ソ連兵に見つからぬよう、あの険しい朝鮮の山中を、樹の葉影で雨を凌ぎ、野宿を重ねながら、ひたすら38度線向うの米軍エリア目指して、南へ南へと歩く。 約1ヶ月に亘る、道無き道の逃走。 途中 一度ソ連兵の銃撃を受けたが、山奥に逃げ込み、10月半ば遂に38度線を突破、開城(ケソン)に辿り着く。 (開城は38度線の南側で、当時米国の領域であったが、現在軍事境界線により、北朝鮮の領域となっている。)
 考えてみれば、この脱出も季節的な幸運があってのこと。 あの寒い朝鮮で数ヶ月遅れていたならば、実現していない。 その後の人生も、当然変わっていた。 米軍に救われ、開城から無蓋貨車で京城(ソウル)に運ばれ、京城の米軍の収容所での生活が始まった。 そして1ヶ月、11月半ばに釜山(プサン)から小さな引揚船で日本に向かった。
 母国が近づき、揺れる甲板から彼方に日本列島を眼にした父母が、激しく涙している姿が忘れられず、数年前の母の葬儀の挨拶で、無一文で帰国の我が家族を支えていただいたご近所の皆様に感謝を述べていた際、この時の光景が眼に浮かび、思わず涙してしまったのだ。 島根松江港に着くや、進駐軍兵士に頭の先からパンツの中までDDTを撒かれ、全身真っ白。 それでも何とか支給された鉄道切符で実家へと向かう。
 当時一般家庭には電話など無く、何の連絡も無しにいきなり訪れた我が家族に、心配していた実家の驚きは凄かったらしい。 らしい・・と云うのは、実は私はその時・その光景を全く覚えていないのだ。 疲れていたのか、それとももう安心しきっていたのか・・その時その場に居た叔父は、今でも「Yちゃん(6ヶ月の妹)はガリガリで、息をしているのが不思議だった。」と云う。 おそらく母の乳は出なかっただろう。 何を飲んでいたのか。 聞いていない。 何れにしても、あの状況の中で子供一人欠けることなく全員帰還出来たことは、正に奇跡以外のなにものでもない。両親に、感謝以外の言葉は無い。
 実は、これが私の大人になってからの大きな支えとなった。 どんなに苦しいことがあっても、どんなに窮地に追い込まれても、あの時死んでいたかも知れないと思えば、何にでも耐えることが出来た。 何があっても、怖くない・・
 帰国後の父は、今の自分にいきなり民主主義を教える資格は無い・・との念から、誘いに首を振り、教育界に戻らなかった。 そして、初めての百姓。 経験の無い父には、農業は過酷であった。 戦時中小作に出していた実家の田畑は、戦後の農地改革でその一部を失ったが、可なり残った。 当時田鋤きには牛を使った。 全く経験の無い父は、近所の農家の方の教えを受けながら、牛を操り、必死に頑張った。 母は、初めての田植え、稲刈り。共に体力の限界に耐えながら・・ しかし、現実はそんなに甘くない。 5年で力尽きた。 生活は苦しく、近づく子供たちの進学対策も、このままでは覚束ない。 そして、父は再び教育界に。私が中学3年になった年である。 
 その後の幾多を経て、KDD退職後は平穏にして楽しき日々を享受する今日この頃、この度本欄投稿をすすめられて、この喜寿の年に来し方を想う機会を得ました。 あの時の光景がまざまざと目に浮かぶのです。 あの日があって、そしてその後のKDD人生があって、今日がある。両親に感謝。 そしてその後のサラリーマン人生において頂いた実に多くの方々のご指導、ご援助に、心から感謝です。



    
7. 大場 尚文 さん (5月21日生まれ)

- 近 況 -

 KDDを退職したのが18年前。 丁度、インターネットがNFSからビジネス界に出てきた年だ。 その後、2、3外資系を 経験して2000年のテレコム・バブルで自由の身になった。 変則的定年退職。 余り自由を謳歌すると老化の始まりになるので現在、 通信技術コンサルタント、通訳、 国際金融コンサルタントを行う傍ら、学会、研究会、フォーラム/セミナー、国際ビジネス交流会に所属/参加して忙しい日々を過ごしています。 しかしハイテク通信業界はDog Yearと言われ、7年後はLegacy、即ち、過去の遺物になってしまう。 これについて行くのは容易ではない。 
 一方、全く異なる金融分野については六本木で会った英国ファンド・マネジャーから欧米の優れた投資技術を学び、今では毎月銀座でオフショア投資の講師をしている。 世 界の良いとこ取りの国際分散投資なので日本の数倍~数十杯程度のリターンがあるので大学教授まで勉強に来る。 この間、数年先を考 えて米加にRetirement Resort Communityを探しに行っ たりしたが貧乏暇無しの私は退屈すると思い数年先送りとした。 その内、観光ビザで3ヶ月毎にCalif. Arizona, NY, Costa del Sol, Cote d'Azurなど転々とする計画である。 
 一方、住んでいる多摩市では日本語と英語のサイトで多摩パワーテニスを主催して毎週テニスを楽しんでいる。 加入条件は"中上級以上"、"パワーがあること"と"英語が喋れること"としている。 テニス・バカも英語バカも居らずなかなか知的なクラブである。 テニスコーチ、元教授、研究者、建築家など多士済々。 1995年、私は一生、同じ会社に働くのはおかしいと思っていたところに早期退職プログラム(出て行け)が出来たのでその数年前からハイエンドのHead-hunterに手を回していたのが功を奏し渡りに船で日本モトロー ラの移動通信部門に非華麗に転職。大型Cellの移動通信部門のヘッド。 一人の外人のためにメイルは総て英語。 部下の日本人の英語メイルが意味不明。 会議から外人が出て行くと突然、英語が日本語に急変し急にコミュニケーションが良くなる。 しかし、良くあるように優良外資系も浮き沈みが激しく止むなく退社し、イスラエルの会社、日本支社長になる。 キャリア・クラスのメーカー。 即ち、キャリア 型通 信機器をキャリアに売ってこい、と言う役目。 
 しかし、世界的に通信圧縮技術に優れたこの会社もCapacity Glutと言われる 光ファイバーの出現で日本/世界撤退し、また人財市場に投げ出された。次はOne planet, One network のGobal Crossingの兄弟会社であるGlobal Access の副社長。雇用会社と水と油の子会社で四苦八苦。 そして2000年のTelecom Bubble, 現在のお遊び仕事、年金プータローとなった。 
 一方、帰国子女の娘、紗論はしかるべきしてアメリカン・スクールから米国大学・院、そして GE中央研究所でバイオ・サイエンスの研究者。 米国が長く米国市民になった。 オーストラリア生まれの息子は Depression で今でもStruggle。 この間、私はCiudad de Mexico, Rio de Janeiro, Tonga, Zimbabwe, Egypt, Maldives, Aruba, Bahamas, Bali, Budapest, Prague, Mali 連邦など多くの国へ行って来た。 これから行きたいのはBaltic countries, Croatia, 中央アジア。 
 しかし、4年前、眼癌(Aquamous Cell Carcinoma)になり大手術三回。 一命ならぬ一眼は取り止めたもののDouble Vision となり海外旅行も一時中止。 複視のため運転すると道が二つ、テニスをするとボールが二つ見える。 妻が二人、お金が2倍に見えるのは良いが・・・・。 仕方無 く、片目サングラスで一重に。 
 しかし、距離感がかなり減少するので球をミスる。 即ち距離が時間の函数になるとRacketで Just meetするのは難しい。 しかしVirtualな道に車で突っ込んだことはない。 この複視は眼球裏にあり眼球を上下左右に動かす6本の外眼筋の一部が術後、癒着したためでこれ以上の手術は眼底の視神経を破壊し全盲になりかねないので一生、治癒されることはない。 日本では癌罹病率は5割、3人に一人は癌で亡くなる。 癌は60兆個細胞の1%の体細胞が1日に入れ替わるときのDNAのコピーミス、リンパ球の攻撃で生き残った死のない細胞として増殖する。 現在では慣れて車も運転、テニスもやり、通常の平和な生活を楽しみ5月,70歳を迎える。



    
8. 水橋 量司さん (5月24日生まれ)
私の掃苔

 東京に暮らすようになってから将軍、旗本、大名など武家の墓巡りを皮切りに、文化人から庶民に至るまで歴史に登場する人物の墓碑巡りを楽しみとしてきました。 墓碑の前に佇(たたず)んで墓碑銘や記念碑を見詰めていると、その墓碑には故人の生前を偲んで遺(のこ)された方々が建てた心の丈づくしが伝わって来ます。 また、故人についての人物像が頭に浮かんできたときには、まるで故人にお目にかかっているような錯覚に陥ることさえあります。 江戸の川柳に「墓参り叱られた恩を思い出す」があり、なかなか趣のある句だと思います。 このような墓巡りは掃苔(そうたい)とも言います。 もともと掃苔とは苔生(こけむ)して読めなくなった墓石の文字を掃いて読むことですが、転じて墓参りを意味すると言います。
 最近の掃苔からひとつ;太田道灌の山吹の里伝説に登場する少女の墓碑を新宿区の西向天神社境内にある大聖院に見つけました。 伝説とは、太田道灌が鷹狩りに来て俄雨に遭い、面影橋近くの農家に蓑を借りようと立ち寄ったところ、少女がものも言わずして山吹一枝を折り、差し出して蓑が無いことを伝えました。 この奥ゆかしい仕種が分からず、後になって"七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき"を知った道灌は大いに恥じて歌道に精進しました。 そしてこの少女を城に招いて歌の友としました。 この少女は紅皿(べにざら)と言い、道灌の死後、紅皿は尼となって大久保に庵を建て、死後その地に葬られています。 この逸話は江戸中期、備前岡山藩の儒学者・湯浅常山が戦国から江戸初期の武士の逸話を集大成した「常山紀談」にあり、「太田持資歌道に志す」は広く知られています。
 掃苔いまひとつ;源頼朝の墓は江戸時代に薩摩八代藩主島津重豪(しげひさ)が大御堂(おおみどう)(勝(しょう)長寿院跡)から多層塔を幕府跡が見下ろせる法華堂跡の現在地に移し階段も設置して整備したものです。 有力御家人の島津忠久(島津家祖)が頼朝の子であるとしての庶子説が薩摩では信じられていたようです。 重豪(しげひさ) は頼朝の墓整備に力が入るわけです。 御香台には薩摩の家紋(丸に十字)がくっきりと見えます。 その場から右手の小径を行くと順に、毛利季光(すえみつ)、大江広元、島津忠久と三つの五輪塔があります。 忠久のは重豪(しげひさ)が先に整備し、大江広元(政所別当)とその四男毛利季光(すえみつ)(毛利家祖)のは後から毛利家の手により整備したものです。 ところが十二所(じゅうにそ)にある明王院の裏山(胡桃山)に素朴な多層塔があり、当時の広元の墓ではないかと言われています。 江戸時代、毛利家の家老と藩士達が広元の屋敷跡近くに墓探しに来たが、余りにも威張り散らすので地元民は教えなかったとの伝説があるのです。 季光(すえみつ)のは大正時代に鶴ヶ岡八幡宮の西、鶯ヶ谷(扇谷)の山中にあったものが移されています。 鎌倉を訪れる参拝者は、当時の墓碑かと思われがちですが、実は江戸や大正の頃に整備されているのです。
 さて、広元と季光(すえみつ)の墓の脇にはそれぞれ亀趺(きふ)があり、石碑を背負っています。 亀趺(きふ)とは、亀の形に刻んだ石碑の台石のことを言います。 大きくて重い石碑を甲羅の上に載せています。墓前に置く亀趺(きふ)は、もともと中国の貴族階級の風習であったのが、江戸時代に日本にも取り入れられました。 亀趺(きふ)は功績や功徳などを刻んだ石碑を載せるものが多いが、墓石を載せるものもあります。亀趺(きふ)の亀は贔屓(ひいき)と言い、伝説上の龍が生んだ九頭のうち龍になれなかった一頭で、亀の形に似た想像上の霊獣だとされています。 贔屓(ひいき)は重き物を背負うことを好むので使われます。 山ノ内にある長寿寺(開基:足利尊氏)の門前にも亀趺(きふ)があります。 足利尊氏の墓は京都等持院にありますが、長寿寺にもある尊氏の墓には遺髪が埋葬されています。
 このように墓碑を訪ねることによっていろいろなことが教えられ、気付くことが多いものです。
 かくして私の掃苔は墓碑を巡る漂泊の旅となるのです。 










               源頼朝の墓碑                       大江広元の亀趺










          毛利季光の亀趺                 足利尊氏の亀趺 長寿寺 鎌倉山ノ内



    
9. 小川 忠弘 さん (5月27日生まれ)

もう一人のヘレン・ケラーさん

 今から60年くらい前、日本の敗戦間もなくして、アメリカから三重苦で有名なヘレン・ケラーが来日して日本中の話題を賑わしたことがありました。 映画"奇跡の人"の登場人物にもなった人ですから、皆さんも覚えておられる方も多いと思われます。 今回私がここに紹介する方は同姓同名、もう一人のヘレン・ケラーさんのことです。 ありがたいことに、私とかれこれ50年以上もの長きにわたって文通をしてきてくれているのです。
 彼女はスイス人です。 そして、何年か前に小学校の先生を定年退職されました。 今考えてみるとよくぞこんなに長く文通が続いたものと我ながら感心します。 彼女の母国語はドイツ語です。 でも、我々は英語で文通してきています。 多分お互いに世界の共通語である英語を通じて文通を行うということが、かえってかくも長い間お付き合いが続いた要因の一つかもしれません。
 そもそも、彼女と知り合うきっかけとなったのは、私が購読していた高校生向け英語雑誌で"ペンパル求む"のコーナーに彼女の名前が載っていたのが始まりです。 私がKDDに入社して数年後の22歳、彼女は17歳の高校生でした。 スイスにもヘレン・ケラーと同姓同名の人がいるのだというような軽い気持で文通の申し込みをしました。 失礼なような気がしますが、私にとっては文通が叶う人であれば誰でもよかったような気がします。
 文通開始後数年間はお互いの身近な関心事、たとえば彼女の方でいえば学園生活、スイスの自然の風景、祭りや風習の紹介、当方でいえば日本の四季折々の気候や行事などの話題で、月1~2回程度の手紙のやりとりが続きました。 その後はご多分にもれず次第に回数が減り、お互いの誕生日のお祝いメッセージに添えての近況報告、そしてクリスマス・プレゼント交換といったような節目の度に意思疎通がなされてきました。 彼女の誕生日前には必ず到着するように心掛けました。 一度たりともカードやプレゼントが遅れたりしたことが無かったのが幸いして、親密の度合いがより深まったものと思われます。
 彼女は学校を卒業後小学校の先生になりました。 そしてその数年後には結婚しました。 こうした場合に良くありうることは、結婚を契機にしてお互いの文通を止めましょうということになりそうです。 ところが、彼女の方からは一度もこうした申し出ではありませんでした。 二人の子供さんが生まれましたが、その時々にも何の申し出もありません。 学校の先生として務めていながら、家庭を切り盛りしなければならないという、いわゆる共稼ぎの立場にあっても、文通中止の申し出がなされませんでした。 
 そもそも、かくも長きにわたって文通が続いた要因の一つには彼女の持つ友愛精神の篤さ、あるいは義理人情の厚さであると思われます。 世界有数の観光立国であるスイスには純朴で義理人情に厚い人が多いように見受けられます。 なかでも彼女はとりわけ人一倍こうした友愛精神が強い持ち主のように思えます。 一度友達になったら終生変わらぬ固い友情をもってお付き合いをするという信念が植え付けられているのでしょう。
 やはり親密の度合いが増すようになったのは、定年退職をしてお互いに夫婦そろって相手の国を訪ね合うことができるようになってからです。 当方で言えば彼女のお宅(チューリッヒ郊外)に泊まり込みでお世話になったり、あるいはイタリア国境に近いルガーノ湖畔の温暖な雰囲気の漂う別荘に招待されたりで、大層楽しい時間を過ごすことができました。
 一方において、彼女たちが3週間に渡って日本を訪れた時は、埼玉東部にある我が家を根城にして日本各地を旅行されました。 我々夫婦もガイド役をかねて一緒に付き添ったという次第です。 関西方面へはゆったりと何日も時間をかけ、京都・奈良は勿論のこと姫路城まで足を伸ばして観光することができました。
 KDDを退職して10数年がたってしまった私ですが、一民間人としてかような形でささやかなりとも国際親善の一翼を担うことができているのは、本当に幸せなことだと思います。 できるだけ長生きをして、これから先も末長く文通が続くことを願ってやみません。 

日光中禅寺湖畔のイタリア大使館別邸にて(2008年)左から筆者・ヘレンさん、エリックさん、家内。



 
  

Happy Birthday !

  4月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。 この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この“Happy Birthday !”シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。


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1.宿谷 將夫 さん (4月7日生まれ)

私の健康法

 (生涯現役、生涯修行で周りの社会とかかわって働くことが健康を保つ方法です)

 1939年4月東京生まれ。 今年は74回目の誕生日を現役のまま迎えます。 昭和33年旧KDDに入社(同期入社で燦燦会に参加)し、モールスの時代からテレックスの全自動化まで30年間電信技術畑で一筋に歩み、昭和62年に早期退職し現在の自然良能、骨盤調整の治療師として26年間生涯現役を通しています。

 テレックスの世界通信ネットワークと人体の血管、神経のネットワークには共通点が多く、KDDでの経験が大いに役立ったことは事実です。 血液と神経の働きによって人体は健康を維持しているのです。 血液循環と神経の働きを良くするには手足を使って働くことです。 それとともに65歳を過ぎたら老齢期に入るので生活習慣を正しくすることです。

1)早寝、早起き(夜は寝ること)
2)3食の食事を良く噛んで食べる
3)昼間は太陽の下で良く働くこと(働の字は人が手足使って動くです)

健康を保つには生涯働くことです。



    
2. 山本 昭男 さん (4月8日生まれ)

 健康第一 
~ 九死に一生の再スタート ~

 平成16年6月30日付で私事都合により 
OCC を退職しましたが、なんとその翌日に心筋梗塞で倒れ、葉山ハートセンターでバイパス手術を受けました。 その際、他に2つの心臓疾患が見つかり、心臓を止め、人工心肺に切り替えての長時間に亘る手術となり、まさに九死に一生を得た状態で退職後の人生が始まりました。 リタイヤが1日でも遅れていたら今頃は・・・と思うとぞっとします。 天の意思で生かされているのだと好いように解釈し、日々天に、家族に、執刀医に、・・・感謝しつつ過ごしています。 術後3年ぐらいはかなり用心しながらの生活でしたが、その後は徐々に普通の生活に戻っております。 しかし健康第一と考えノーストレスの超スローライフに徹することにしております。 退職後の人生を家内といろいろ夢見ておりましたが、スタートから躓きました。 健康にだけは自信がありました私ですが、今は健康の有難さを身にしみて感じております。
 最近は、コントラクトブリッジ、ゴルフ、ボランティア、パソコン、野菜作り、孫守等毎日退屈することなく過ごしております。 特に今はコントラクトブリッジにはまっております。 ニューヨークに赴任していた頃家内に「こんな遊びがあるよ」と言ってコントラクトブリッジを教えた(紹介した)ところ、興味を持った彼女はブリッジのスクールに行って基礎をマスターし、以来ブリッジ三昧の生活で、私が退職したときには、ブリッジの技量に格段の差がついている始末でした。 それでこちらも発奮本格的にやり始めた次第です。 当初はレベル差がありましたので2人で組んで出場することは、遠出する時以外はありませんでしたが、最近は近郊ででも2人で組んで
楽しんでおります。 近場のブリッジクラブでのプレイ以外に、ときどき北海道、仙台、茨城、金沢、富山等での競技会にも、家内と旅行を兼ねて参加しております。 さらにたまには海外へのブリッジ旅行にも参加します。 一昨年は台湾へのブリッジ旅行を楽しみました。
 ブリッジといえば故亀田様には厳しく教えていただいたことがあります。 これから対等にお相手していただけると思っていた矢先だけに残念です。 亀田様のご冥福をお祈りします。
 最後に、コントラクトブリッジに興味のある方、始めたいと思っている方はご一報ください。 
OB の仲間もいますので一緒にやりましょう。


    
3. 廣瀬 辰 さん (4月14日生まれ)

アラカン世代のワンちゃんライフ

 稚拙ながら我が家のワンちゃんライフを纏めてみました。
 我が家の愛犬は、陽気なポメラニアン(ドイツ原産の小型犬)、年長のメイちゃん16歳と年少レオ君12歳です。 メイちゃんは人間でいえば80歳は超えている寂しがり屋で、ちょっぴり我儘な可愛いおばあちゃん。 レオ君はアイフル顔が魅力の、とても愛嬌のある散歩が大好きなおじさんです。 ふたり(2匹)とも元来元気に生まれてきたことに加え、毎日の散歩と健康管理の甲斐もあってか、今のところとても元気に過ごしています。 とは言っても食事と散歩の時間以外はあらかた寝ているようで、イビキを掻いたり、寝言を言ったりもしていますが、どんな夢を見ているのでしょうか、興味津々です。
 ペットは癒しと言うのは実感で、可愛い顔で出迎えられるとどんな疲れもふっとんでしまいます。 こちらが疲れて休んでいるとそっと寄り添ってきたりもしますし、もうふたりの居ない生活なんて考えられません。 留守中のふたりの負担を考えると、海外旅行は勿論、泊りがけの名所旧跡巡りもずっとお預け状態ですが、歳が歳だけに日常生活でもそれなりに工夫が必要です。
 ワンちゃんとの散歩は良い運動になると言う話を聞きますが、それは若い時の話、高齢犬になると大した運動にもならないし、なんといっても時間がかかります。 我が家では、年長メイちゃんが元気な午前中は、なるべくふたり一緒に散歩するようにしています。 しかしながら歳のせいもあってか、カロリー消費ゼロに限りなく近いチンタラペース、年少レオくんがイラついているのが良くわかります。 それもあって夕方の散歩は個別メニューにし、顔なじみのワンちゃんに会うとその日一日ご機嫌な、散歩大好きレオくんの不満解消を図っています。 そんなこともあり、万歩計は日々8000歩を超えるものの、朝夕の散歩だけで3時間はかかってしまいます。 しかも今年のように寒い冬は遅めのスタートにならざるを得ないので、朝の散歩が終わると昼近くになることもしばしば、夕方の散歩のスタートまで数時間しかないと言う日が少なくありません。
 また食事の方もそれなりに工夫が必要で、飼い主と同様、低脂肪、低カロリー、高タンパクの食事が必須となります。特にメイちゃんは食事むらがあって、一日4回に分けて与えていますが、偶ではありますが、深夜の徘徊もあり、まるで介護老人です。 食事は治療食を主体に、卵の黄身(勿論白身は飼い主の口の中)、鳥のササミ、白身の魚、温野菜(かぼちゃ、インゲン、ブロッコリー、ニンジン等)をその日の体調に合わせて準備して与えています。まるでお犬さま、残り物をこちらが口にする感じです。
 さて問題は年長メイちゃんにいかにして薬を飲ませるかで、薄くなった頭を悩ませています。 加齢による感度低下はあるものの、そこは動物、人間とは桁違いの嗅覚で、薬の匂いをすぐにかぎ分け、ポイッと捨ててしまいます。 やむなく、医療用カプセルに薬を砕いて入れ、その日の好物に包んでやっと食べてくれる始末で、上手く行った時は思わず拍手したくなります。 毎月の検診結果に一喜一憂していますが、医学の進歩を考慮しても、どうやら17歳に大きな壁があるようです。 我が家の周りの長寿犬はいずれも17歳で他界しており、この夏で17歳になる年長メイちゃんにとってはいよいよ一夏一冬が勝負の歳になります。
 当面の我が家の最大のリスク要因でもある、遠からず訪れるペット・ロスに如何に対応するかに悩みつつ、今日もお犬さまのケアで一日が慌ただしく過ぎてゆきます。


    
4. 野村 幸男 さん(4月20日生まれ)

お奨めの場所

 4月になると気候も良くなり心躍る時期となりますが、今年は3月が異常に暖かく、いずれ、また、寒くなるだろうと思いつつ過ごしている内に2週間も早く桜が咲き、満開となりました。(3月22日) 一方、伊豆河津の桜は例年より遅く、今年の3月はいつもと違う季節となったようです。
 家の近くに都内でも屈指の桜の名所があり、しかも人混みは桜の時期は普段より多少多いものの、ただでゆっくり見物できるので皆さんに来年のためにご案内します。
 場所はJR中野駅から中野通りを北に向かい新井町の交差点から哲学堂公園までの1.5km程、途中には新井薬師、哲学堂公園があり、さらに哲学堂から新青梅街道を西に向かい1km程道路沿いに主に染井吉野が植えられており、車は週末ともなると大渋滞となります。 お寺の境内とそこに隣接する公園、また、哲学堂公園内に花見で一杯やる人たちで賑わいます。 散歩には持ってこいなので、まだ、一度も来られていない方はハイキングがてら是非一度おでかけ下さい。





写真は中野通りの桜並木と渋滞の様子 


    
5. 佐野 智敏 さん (4月24日生まれ)

故郷と野菜つくり

 私は1943年福岡県の大宰府市に生まれ、水城小学校に通いました。 水城小学校は創立138年の歴史を持つ由緒ある小学校です。 近くに大宰府天満宮があります。学問の神様・菅原道真が祀られた神社です。 合格祈願の参拝者が多く毎年初詣には全国から200万人以上の人が訪れるとのことです。 国の重要文化財となっています。平安時代から現代まで連綿と伝えられた飛梅伝説・曲水の宴等多くの伝統行事や伝説が今に残されています。
 水城小学校では毎年6月10日、推古天皇のとき作られた由来の水時計が、都府楼の跡(太宰府政庁跡)の近くの小山に祭ってあることから、時の記念日に各地域単位で時計をもたないで都府楼の跡に朝6時丁度に集合する行事がありました。 6時に一番近いチームが1位で、6時を1秒でも過ぎて到着すると失格となりますので腹時計で到着時間を予測して、歩く速さを調整していた記憶があります。
 天智天皇を祀る近江神宮では毎年6月10日に漏刻祭が行われます。 漏刻とは、水時計のことで、水が一定の速度で水海とよばれる壷に貯まり、水海の水位から時刻を測ります。 水の流入速度が一定になるように、夜天池、日天池、平壷、萬分壷の四個の壷を経て水海に流入し、水海の箭が浮上して人形が指差すところによって時刻がわかる仕組みです。水海の水位は現在の時計と同様に昼夜の長さに依らず一定の速度で変わりますのでこの時代は定時法を用いたとの説がありますが、箭により調整していたかもしれません。
 私は9人兄弟の8番目次男として生まれました。 当時は肉などたべ食べることができませんでしたので、下関から来る鯨の赤肉、博多湾での干狩りで獲ったあさりやマテ貝等、また父が近くに100坪くらいの畑を借りていましたのでゴウヤ(九州では通称、ニガウリ)トマト、キュウリ、サヤエンドウ、サトイモ、カボチャ、ネギ、キャベツ等の野菜を作って食しました。 その関係で野菜つくりのことは、少し記憶にありました。
 本格的に野菜つくりを始めたのは、平成23年3月11日に東北大震災が発生し、放射能の影響による風評被害などで、青物野菜やシイタケ等が余り出回わらなくなってからです。 近くのホームセンターで野菜の種、培養土を買ってきて苗つくりを始めました。 夏の電力の節電対策に南向きの窓の直射日光を遮光するゴウヤ、夏野菜類のキュウリ、トマト、スイカ、オクラ、レタス、ほうれん草、モロヘイヤ、クウシンサイ、トウモロコシなど作りました。 種イモからジャガイモ、苗からナス、ブロッコリー等盛りだくさんの野菜をつくりました。 一番大変だったのは、苗を植え付けてからの病気対策、病原菌のカビ(ウドンコ病)、青枯病、モザイク病、炭素病等に注意し豆に対策を講じること、また害虫対策 アブラムシ、アズキノメイガ、コナジラミ、ヨトウガ、葉ダニ類等の対策が大変でした。
 野菜つくりについての学習は、毎週日NHK教育テレビで野菜の時間がありますのでビデオに収録してその都度、繰り返して視て憶えてきました。 最近は秋冬野菜で人参、大根、白菜、キャベツ、ほうれん草、小松菜、ネギ、タマネギ、ゴボウなどを種から苗を栽培して植え付け収穫しています。 美味しく、新鮮な野菜が収穫出来ますので家族から喜ばれています。
 野菜つくりの基本は、土壌改良、害虫対策、病原菌対策ですが、長時間の作業が伴いますので腰痛対策のため週2~3回トレーニングジムに通い足腰の筋肉を衰えないように鍛えています。 また、健康のために、週3回近くの公園のまわりの芝生で6キロぐらいジョギングしています。 後、楽しみは k-unet のサロン、パソコン教室に参加して皆さんと歓談することです。
 野菜の写真 と 福岡の大宰府の写真(インタネットでとった)ものを添えました。


    
6. 中村 宣洋 さん (4月25日生まれ)

近 況

 私は 4月25日の生まれで、古希(70才)の正月を迎えました。
 最近は五木寛之の「下山の思想」なる書物を読んで、同感するところあり人並みに山の頂に登れたかどうか疑問ですが、今は確かに下山の時で余生をいかに穏かに過ごすかを模索しています。
 書物の中に、平安末期から鎌倉初期の大変動期に歌われた[今様]が紹介されています。 その中で「遊びをせんとや生まれけむ、たわぶれせんとや生まれけん、遊ぶ子供の声聞けば、わが身さえこそ動がるれ」という歌が今のわが身を表しているようで好感をもって読んでいます。
 現在KDD関係者とは「昭和会・昭和の森ゴルフコンペ」に参加し、現役時代の先輩・同輩・後輩40数名とフレンドリーなゴルフを楽しんでいます。 昨年はエイジシュートを達成しましたが、ゴルフ暦30数年ですが未だホールインワンが出来ていません。
 何とか金と身体が持つ間にやり遂げたいものだと思っています。 今となっては「古き良き時代」に仕込まれたゴルフの技術が数少ない趣味として生きています。 k-unetに関しましては一方的にお世話になるばかりですが、関係する方々のご努力で末永く継続されることを祈ります。


    
7. 山村 和臣 さん (4月30日生まれ)

マラソンへの挑戦

 1990年に定年退職、この度の誕生日(4月)で80歳になります。
 近況ですが走ることへ挑戦中?です。 挑戦は上を目指すのではなく目標は無理せぬように歳相応に下げています。
 毎年近くの三浦市主催(毎年恒例の3月第一日曜日開催)の市民国際マラソン大会のハーフマラソン(約21km)に参加していましたが、体力の低下、神経痛など人並みの問題があり、今年は一挙に目標を下げて5kmに参加しました。 目標は制限時間内40分の完走でした。
 成績は添付の完走証のコピーの通り35分14秒、3566人中2651位でした。
 当日はひな祭りの3日でした。三浦海岸駅前の川津桜が満開に近い状況で綺麗でした。 完走を祝して若い人に交じって駅前の居酒屋で祝杯をあげました。



 
  
Happy Birthday !
 
  3月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。 この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この“Happy Birthday !”シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。


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1. 関 義信 さん (3月7日生まれ)

地域で生かしていただく

 私は1995年(平成7年)3月末、56歳で多数の皆さんとともに早期退職しました。(前年末に早期退職の決断をした後、1月17日には単身赴任中の大阪で「阪神淡路大震災」を体験しました。)  退職後は、生活の拠点である「地域で生きる、生かしてもらう」ことを目標に、焦らずに少しずつ活動をしてきたつもりです。
 私の住んでいる「千葉県佐倉市八幡台1~3丁目」は昭和50年代に開発され、入居した団地で一戸建て住宅800世帯強(3000人強)でした。 現在も世帯数はほぼ同じですが、子供たちが独立し住民は2200人程度となっています。
 地域活動の中心は自治会活動にあるので、3年を過ぎたころから自治会の事務局でお手伝いを始めました。 その中で地域のいろいろな方々と知り合うことが出来ました。 特に地域で活動をしている元気な女性(おばさん)達とも話しができるようになりました。 自治会事務局のお手伝いは3年ほどで交代しました。
 この間に知り合った皆さんと「地域の助け合い」のボランティア・グループを2000年(平成12年)5月に立ち上げました。 「無理せず、明るく、楽しく、ほっとするような活動」をということで『ほっとくらぶ』とし会員は約60名でした。 活動は地域限定(八幡台地区)とし、①助け合い活動は安否確認、話し相手(散歩)、育児支援、家事援助、庭の水やり・草取り、車イス介助、通院のお手伝いなどです。 ②ふれあいの活動として1か月に1回コミュニティサロン(名称:ふれあいほっと、参加費200円)を自治会館で開催しています。
 発足してほぼ13年、地域全体で高齢化が進み、ボランティア(活動をする方)も高齢化が進んでいます(現在会員数40名強)ので、これからの活動をどうするか、見直しや検討をする時期にきています。
 この地域では、防犯パトロールのボランティア、小学校の登下校を見守るボランティア、幼児を遊ばせるボランティアグループなどがあり、高齢者が多数参加しています。 たいへん良いことだと自画自賛しています。
 以上地域での事を記述しましたが、KDD関係の想い出としては、2009年(平成21年)7月から2011年(平成23年)12月までの約2年半、KDD同友会の解散の仕事にかかわったことがあります。 依田会長、新倉副会長の下、役員、協力会員とともに無事に解散にこぎつけました。 これも忘れえぬ想い出です。



    
2. 三上 達郎 さん (1939年 3月14日生まれ)

誕生日に寄せて

 とうとう74歳になった。 後期高齢者まであと1年である。 私は57歳でKDDを早期退職し、その後友人の助けもあって71歳まで仕事をすることができた。 最近は皆、長寿になって男性も平均年齢は79歳である。 しかし健康寿命というのがあって、それは75歳辺りだそうだ。 平均ではあるが、それを超えると何らかの肉体的な障害が出てくるらしい。 60代の後半、いつ会社を辞めるかを考えることはあったが、仕事をしている充実感とか、自由人になって、果たして何をするかとの事もあって一日延ばしにしていた。 しかし健康なうちに色々やりたいとの思いがつのって、71歳の誕生日で仕事を辞めた。 前年末に、辞めたら記念に屋久島の縄文杉を見に行こうと決め、準備を開始した。 縄文杉までは往復25kmを歩き通さなければならない。 そのために、休日に高尾山を始め、陣馬山に登ったり、近隣を20kmほど歩くとかして体力強化を図り、辞めてすぐの4月に登頂に成功した。 今でも縄文杉の威容が目に浮かぶ。
 自由人になって、日々どのように過ごすかは重大な問題である。 ボランティアや地域デビューなどの社会貢献は一つの方法であり、多くの方が貢献されている。 しかし私は、健康なうちにできるだけ自分の楽しみに没頭しようと決心した。 今やっている主なものは、ゴルフ、自転車及びエレクトーンである。 現役時代はヨットをやっていて、それに若いうちは金も無かったのでゴルフはやらなかったが、50歳位からぼちぼち始めて、100を切るかどうかの状態であったのを、もっと本格的に90を切るとかに挑戦しようというものである。 ゴルフでは、KDDの方とのお付き合いが多く、田中成欣さんや星山文雄さんに大変お世話になっている。 しかしネットで調べて一人でオープンコンペに行くことも多い。 知らない人と新しいゴルフ場でプレーをするのも刺激があって良いものである。 自転車は学生時代にやっていたが、その後60歳を過ぎてから健康のためにまたやりだした。 若い時代みたいにドロップハンドルのレーサーはキツイので、今はバーハンドルのクロスバイクとミニベロの2台を持っている。 クロスと言っても重量は8kgくらいで非常に軽く、主に多摩川縁を走っている。 昨年は、自転車を車に積んで、渡良瀬遊水地や佐渡、青森の十三湖にも遠征してきた。 風を感じて、一人、自然の中を、自転車を転がす爽快感は何とも表現しがたい。 時々、リュックを背負って、牛乳やヨーグルト、果物やワイン等、重い物を買って来る等、女房にも貢献している。 最近、街中でも自転車が盛んだが、マナーが非常に悪い。 若者だけでなく女性や子供も、もう勝手気ままである。 要は、ルールを習っていないし、あるとも思っていないからである。 最初は反発していたが、最近は全て譲ることにしている。 Don't believe anybody! である。 事故を起こしても結局自己責任だからである(昔の僕じゃ考えられない)。 エレクトーンも既に10年近くなる。 大して上達しないが、ずっとやろうと思っている。 これの良さは、一人でオーケストラ演奏ができることにある。 私は、主としてクラシックだけれど、例えば、平原綾香のネプチューンの原曲等、大迫力で演奏でき、一人で悦に入っている。 また先生の助けを得て、編曲にもチャレンジしている。 今は、メリーウイドウをできるだけロマンチックに仕上げようと頑張っている。 ただ上下鍵盤とフートペダルの操作はやはり難しい。 特に、歳をとると、反射神経や記憶力が悪くなるので、相当苦労をする。
 最近、右腰が痛い。 1年位リハビリに通っているが、なかなか治らない。 これも老化現象である。 ゴルフ、自転車、エレクトーンも身体や気力を維持するには良いがダメージもある。 ゴルフは、腰の負担や腕への衝撃が半端でない。 自転車も年中腕立て伏せをしているようなものだし、無理すると足がつったり、下手すると脱水症になる。 エレクトーンだって片尻で支えるので腰に悪いし、腱鞘炎にだってなる。 これに対処するには、結局ストレッチしかない。 今、整形外科の療養士の指導を受けて、毎日ストレッチをやっている。 長年の反り腰の影響で、それを治すには、腹筋とかの体幹を鍛えなければならないそうだ。 毎日、少しずつやったお蔭で、体重も、特に腹囲も減って結構スマートになったが、肝心の腰はそれほど治らない。長年の悪い姿勢の結果らしい。 ちょっとサボルと筋肉の衰えを感じるが、負けず身体を鍛え、一日でも長く、この貴重な、健康な日々を楽しみたいと思っている。
 末筆ながら、この機会を与えてくださった役員の皆様に感謝するとともに、会員の皆様のご健勝を祈念します。



    
3. 湯口 裕 さん (1941年3月27日生まれ)

退職後は福祉活動に携わっています

 Happy Birthdayコーナーへのご招待、ありがとうございます。 このコーナーは懐かしい方々の近況がわかりいいですね。
 さて私は1997年にKDDを退職、以来、まったく畑違いの福祉の世界に身を置くこととしました。 NPO法人福祉カフェテリア(発足当初は任意団体)という市民活動団体を仲間と一緒に立ち上げ、今も高齢者や心身に障がいのある人たちの生活を支える仕事を続けています。 自分自身の生活のことをあまり気にせず、福祉の世界に飛び込めたのは会社が準備してくれた企業年金制度のおかげと今でも感謝しています。
 私が福祉に携わろうとした動機にはいろいろなことがありますが、その一つが、1988年から5年間滞在したドイツで、親が子に頼ることなく一人暮らしのできる社会があるのを知ったことです。 日本も年老いても、また身体に障がいがあっても周囲の人々の支えによって生活してゆける社会であればと思ったことです。
 一つの人生で2つのまったく異なる世界に身を置く機会を得たことはそれなりに楽しいものです。 日々多くの高齢者と接し(かく申す私も3年後には後期高齢者)、その人たちの歩んでこられた道とそれを投影した今を見せていただき、私自身の日々の在り方を教えてもらっています。
 私たちの団体「福祉カフェテリア」は、高齢者が自宅生活を続けてゆく上で必要とする7つの福祉活動に取り組んでいます。 ホームヘルパーの派遣、宅配給食サービス、通院のための送迎サービス、・・・。
 最もユニークなのは階段昇降支援サービスです。 車いすに座ったまま階段の上り下りができるドイツ製の機械を10年ほど前に購入しました。 これを使って、エレベーターのないアパートや道路に出るまでに階段のある家に住んでいるため病院通いもままならない人たちを支援しています。
 福祉系NPOを運営する上での課題はスタッフ集めと活動資金の調達です。
 スタッフには活動協力金という安い給料を払っていますが、残りはやりがいという名の報酬です。 幸い福祉カフェテリアにはハートのある人が沢山参加してくれています。
 次に活動資金のことです。 移送サービスは利用者にとっては電車・バス代わりですから、安い料金設定をしています。 利用料だけでは必要経費も賄えません。不足分は介護保険サービス事業による利益や、協力者からの寄付に頼っています。
 移送サービス用の車両7台のうち4台は寄付金で購入したものです。 これからも多くの人たちに寄付という形で応援していただくため、今「認定NPO法人」の資格取得をめざして準備を進めています。
 「認定NPO法人」というのは、多くの人が支援し、しっかりとした運営をしていることが実証できたNPO法人だけを特別に認定しようという制度です。 認定NPO法人になると様々な税の優遇制度が適用されます。 その一つが寄付者に対する税の減額です。所得税減額と住民税還付により最大で寄付金額のほぼ50%が還付されます。 全国に5万近くのNPO法人がありますが、そのうち認定NPO法人はまだ300法人程度です。 結構高いハードルですが、私たちの法人も資格要件の整う1年後に申請する予定です。
 最後は紙面を借りて厚かましいことではありますが、皆さんのご支援をお願いします。

 写真への説明: 福祉カフェテリアの事務局長の傍ら、「ひの市民活動団体連絡会」の会長としても微力を。




 
  
Happy Birthday !
 
  2月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。 この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この“Happy Birthday !”シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。


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1. 清水 恍平 さん (2月5日生まれ)

k-unetとのかかわり、など

 ご存知の方も多いと思いますが、k-unetは会員50名余りのグループとして、1998年4月に発足しました。 つまり今年4月には、発足15周年を迎えることになります。 その設立総会で、私は諸先輩と共に石川会長から指名され、運営委員を務めることになりました。 草創期のかかわりについては、2007年3月に企画された「k-unet10周年記念ネットインタビュー(後編)」(注1)で触れましたので、今回は、その後のかかわりについて振り返りたいと思います。
 運営委員は2001年に退任させてもらいましたが、その後の出来事で忘れがたいのは、k-unet内の迷惑メール騒動です。 特に、2004年末から2005年初にかけて、Netsky.Dウイルス(注2)による迷惑メールが頻繁に登場、大きな問題となっていました。 そこで、これをなんとか解決しようと思い、ボランティアとして発信源の探索を試みました。 先ず、迷惑メールの着信記録を分析したところ、特定のプロバイダーを経由して発信されていることが分かったため、そのプロバイダーを利用している会員の方々にご協力をいただいて、ウイルス感染の有無を調べてもらいました。 ウイルス対策をしていないという方には、セキュリティソフト・ベンダーの無料オンラインチェックサービスを活用してもらいましたが、使い慣れないこともあり、かなり難航するケースもありました。 それでも、メールや電話で何度かやりとりを繰り返し、最終的に発信源を特定、問題を解決できたことは、ご当人は勿論のこと、k-unetにとっても幸いだったと思っています。
 ところで、昨年、いわゆる遠隔操作ウィルスによる"なりすまし"事件が発生、関係機関のずさんな捜査の結果、無実の人々が逮捕・拘留されるという、とんでもない事態に発展したことをご記憶の方も多いと思います。 近年、この種の手口は益々巧妙になり、残念なことには、今のところそれらを完全に防止する手立てがないというのが実情のようです。 ただ、このようなウイルスに侵入され、遠隔操作を受けた場合でも、記録に残る(すなわち無実を証明できる)ようにする無料ソフト(注3)が筑波大学発のベンチャー企業から公開されたことは、朗報と言えるでしょう。 このほかにも、オプティムなど数社から、やや手の込んだ対策ソフト(有料)が発表されています。 このような事件に巻き込まれた場合のことを考えると不安になるという方は、万一の場合に備えて、とりあえず無料ソフトの利用を検討してみては如何でしょうか?

(注1)「旧k-unetサイトマップ」 
 < http://k-unet.org/?page_id=1187 > →「スポットライト」下の「ネットインタ
        ビュー」から閲覧可能。

(注2) Netsky系ウイルスの一種で、2004年3月頃に登場。 感染すると、パソコンの電源を投入しただけで
    (メールの送受信をしなくても)発信者を詐称したウイルス付きメールを大量に送信。 メーラーには記
    録が残らないため、ほとんどの場合、発信源の当人はまったく気がつかないという厄介な代物だっ
    た。 「旧k-unetサイトマップ」→「活動状況」下の「資料室」→ 3.(2)「ウィルスに注意しましょう」に当時
    の記録が保存されている。

(注3)「パケット警察 for Windows」 < http://www.softether.co.jp/jp/packetpolice/ >

<参考>「「遠隔操作ウイルス」から身を守るには?」
      <  http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20121102/434543/  >



    
2. 森 弘道 さん (2月9日生まれ)

パークシティとナパ・バレーの旅
~スキーとワインで至福の時を過ごしました~

 この20年ほど、海外スキーは私にとって最も楽しみな年中行事のひとつになっています。会社をリタイアした後は自然と同好の士が集まり、毎年1回ないし2回、10人ほどの仲間と一緒に、主にヨーロッパ・アルプスに出かけています。
 以下は、珍しくアメリカに出かけた昨シーズンの話です。 今シーズンは、この2月下旬、オーストリアのチロル地方の小さな村サン・クリストフに出かけます。 面白い話しができるようなら、別途投稿します。


◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

 2012年2月11日、広大なソルトレイクを右手に眺めつつ機はぐんぐん高度を下げ、ソルトレイクシティの空港に着陸しました。 この街は言わずとしれたモルモン教の本拠地。 先ずは総本山であるテンプルを表敬した後、パークシティへ向かいました。私たちの一行は、総勢11名、平均年齢七十?歳のいつものメンバーと、スキーガイドのS氏です。 パークシティは2002年冬季オリンピックの開催地で、界隈には四つのスキー場、キャニオンズ、パークシティ、ディアバレー、スノウバードがあります。 翌日から6日間、これらのスキー場を渡り歩いて、時には厳しく、時には悠々と滑りまくりました。
 ヨーロッパと違って当地のスキー場は、標高3000メートルを超えても森林限界に達せず、ほとんどのスキーコースは木立に縁どられています。 このため風が遮られ、雪面も柔らかめで、穏やかでゆったりしています。 しかし、斜度はかなりあって快適な高速走行が自然にできます。 よくグルーミングされたコースとオフピステ、林間コースがうまくリンクするように配置されており、足前と好みに応じていろいろなコース選択が可能です。
 私たちのお気に入りはパークシティで、ここでのロングランは忘れられません。 圧巻はスノウバード。何と全コースの70~80パーセントが上級者向け黒コース。山頂近くはほとんど黒一色です。 130人乗りの大型ロープウェイを下り立つと、眼下には急斜面のスキーコース、かなたには真っ白な雲海、その向うにロッキーの岩峰がそびえ立っていました。 素晴らしい景色に囲まれて、快適さと厳しさを織り交ぜた変化に富んだ滑りを満喫しました。


《 ワインに堪能したナパの3日間 》
 パークシティの後、参加者のうち4名がスキーのみで帰国。残りのこじんまりしたグループで、ナパワインを極めるべく、先ずは名高いワイナリー オーパス・ワンからナパ・バレーの旅を始めました。
 旅のハイライトはワイン列車。先ずは駅の待合室でカリフォルニアワインについてのセミナがあり、いくつかのワインを試飲。 その後列車に乗り込みましたが、これがまた驚き。ロココ調に内装された、まるでオリエントエクスプレスのようなアンティークなグルメ車両。1915~17年頃の車両を完全に復元したものだそうです。  早速、車窓に広がる葡萄畑の眺めとワインを楽しみつつ、セレブな気分でフルコースの昼食。 この季節の葡萄畑は、害虫駆除などのために植えた黄色いマスタードの花などの草花が咲き乱れ、葡萄の木と織り成す縞模様が大変印象的でした。
 列車はバレー入口のナパから奥のセント・ヘレナまで、葡萄畑の真っ只中を時速30キロ程度で悠然と走り、ワイナリーを見学して、ナパに戻ってくるという設定。ワイナリーの見学では、5種類ものワインの試飲があり、いい気持ちになって戻りの列車に乗り込みました。 今度の車両はお茶とデザート付きの開放的なラウンジ風です。 
自席から離れて各車両を見物して回ることもでき、西部劇を思わせる素朴な車両、最後尾の展望車のデッキなど物珍しく見物。 ワインの試飲ができる車両もあり、ここでもワインを4~5種試飲して、まさに上機嫌で列車の旅を終えることができました。
 終日車を貸し切ってのワイナリー巡り、これも忘れ得ぬ一日でした。 ワイナリーを5カ所ほど訪問しましたが、その都度、4~5種類のワインを試飲。 ナパのワインはどれも15度前後とアルコール度数がかなり高く、また、注いでくれるワインの量もたっぷりで、飲みごたえ十分。 

昼食や夕食でもワインが欠かせない雰囲気ですから、この日もまさにワイン漬けの幸せな一日となりました。 この頃になると、ワイン、ワインでスキーのことはすっかり頭から消え去っていました。
 ヨーロッパとは一味も二味も違うアメリカン・スキーとワイン、素晴らしい旅でした。





    
3. 金澤 政和 さん (2月15日生まれ)

 k-unet いつも興味深く拝見させて頂いております。 幹事の方のご苦労を感謝しております。
 2月誕生日ということで投稿依頼を受け、思いつくまま書いてみました。
 先日、の記事で「109の会」があることを知りました。 そこで109の由来が書かれていましたが、私は入社当時から大手町の東京国際回線統制局で交換台の保守を行なっていたので興味深く拝見させて頂きました。 50歳代以前の方はご存知ないかもしれませんが、「109」は都内23区内からの国際申し込み電話番号でKDDの大手町国際電話局に着信し、CLR接続という呼び返しなしの国際接続ができたものです。 発信者の識別には「割込み」ボタンを押し、割込み出中継線から加入者に割り込み900HZ?のトーンがオペレータに返ってくることにより確認していました。 当時はアナログ主流なので回線確認には1kHZ等のトーンを耳で確認することが多かったです。 人間的ですね。
 割込み回線で思い出すのは、特定の交換台で非常に稀に割込みできないという障害がありました。 調査したところ、割込み出中継トランクの中のあるロータリスイッチの一本だけ付線ミスだったことを見つけました。 おそらく製造時のミスなので5~6年程たって発見できたので私事ながら、自分自身に自慢していたことを記憶しています。

 




    
4. 畑中 卓純 さん (2月16日生まれ)

 還暦を大過なく過ごして初めての年男になりました。 この歳になると同期会が盛んになり、昨年は中学からKDDまで多くの旧友と会いました。 一方、KDDでお世話になった先輩方のお名前をk-unetの訃報で知るのは悲しいことです。
 幸い心身ともに良好だと思う現在の体力と脳力を維持する生活を、東京の田舎・清瀬市でスポーツクラブにも通いながら続けています。
 畑や林が広がり緑の多い地元の「自然を守る会」で、市内にある全植物1000余種の調査や希少植物の保護、外来種の駆除などの作業に加わってます。 また、林野の笹刈り、落ち葉掃き、枯草木の整理などの力仕事で、早春
に咲く可憐な野生のカタクリの花で多くの人を笑顔にし、水辺の可愛いカワセミを見に来る人達にも喜んでもらう手伝いもしています。 一方、50年も前に触っていたウクレレを再開しました。 地元でサークルを立ち上げ、カルチャークラブで教えるなどいろいろな仲間と楽しみを共有しています。 弾き語りから独奏、合奏などで、日本や世界の歌からクラシックの曲まで弾きます。 人前でカッコ良くはできませんが、いつでもどこでも楽しめる手軽な楽器なので、ずっとUKU001(ウクレレイチバン)の生活を続けていくつもりです。


    
5. 高橋 春雄 さん (2月21日生まれ)

KDD宝生会の思い出

 KDD宝生会とはKDDの職員で構成する宝生流謡曲のグループです。 昭和29年4月、先輩、村本脩三氏の指導で秋元亮一、阿部理一、私の3名が、KDD本社のあった三菱21号館の一室で「竹生島」を教わったのが、今にして思うとKDD宝生会始まりとなりました。この時から早くも58年の歳月が経過しました。
 4名でスタートしたこの会も最盛期には77名となり、現在でも約20名の会員が柳川英夫、米永和人,山田清重の3名の指導をうけながら活溌に活動しています。
 この写真は昭和31年1月に開催された「KDDメンタルレク発表会」で謡曲「竹生島」を謡ったときのもので、私の手元にある謡曲関係の一番古いものです。 後列左より永島健次、村本脩三、阿部理一、丸山乗一、前列左より長坂信一、秋元亮一、筆者ですが、長坂氏と私を除いて皆物故されてしまいました。
 KDDには私たちの宝生流の他に観世流のグループが本社、東報、大阪、名古屋にもあり、全国各地での合同の謡会(末広会)も良き思い出です。 また、宝生流官庁実業団謡曲連合大会(官実連)に、41年間も連続出演し、しかも無本で通したのも当会の他にはないのではないでしょうか。
 このサークルで習った謡曲と、車の運転と、パソコンのおかげで、定年後の30年近くを退屈することなく過すことが出来、感謝感激です。 




 
  
Happy Birthday !
 
  1月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。 この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この“Happy Birthday !”シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。


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1. 勝部 日出男 さん (1月1日生れ)

"一京円資産国家"日本の2013年

 輝かしき2013年、明けましておめでとうございます。
 KDD・OB・OGの皆様、新しい年を迎え、如何お過ごしでしょうか? 我らが誇り高くも懐かしきKDDが吸収合併されて消え去るとともに、私は、自らリードする新しい人生を始め、現役バリバリの起業家人生及び社会活動家人生にて格闘し続けています。
 2000年退職後直ちに、既に創立していた(株)ナレッジカンパニーの代表取締役としてベンチャーキャピタル業務に従事し、金融・投資事業に身を投じると共に日本メナード化粧品(株)、その他ベンチャー企業・NPO等の役員を兼任してきました。 KDD時代から幸いなことに常に新しい困難な企画に数多く挑んできた経験と個人的に続けていた経営・ 経済・金融の研究に基づく資産運用経験を生かした事業ですから、通信事業から全く異なる分野に挑戦することに何らの躊躇もありませんでした。
 他方で40歳半ばごろから国会議員立候補へのお誘いが何度かありました。 当時既にバブル崩壊後の経済・金融政策の失政による"失われた10年"が経過し、日本の資産価値を2000兆円も崩落させた日本の政治に憤激し、政治および金融経済の変革の必要も論じておりました。 竹下登さん、小渕恵三さん、加藤紘一さん、塩崎恭久さん、藤井裕久さん等との交流からとうとう2002年に参議院選挙に立候補となりました。残念ながら準備不足のために落選してしまいました。 (ご支援・ご期待いただいた方々には申し訳なくも改めて深く感謝しております。)
 2か月あまりの短い選挙活動でしたので、慌ただしくも面白い経験でした。 新しい分野への挑戦は、常に新しい発見があり、自分の世界が大きく広がり、苦しいけれど新鮮で楽しいものです。 選挙後超短期間の選挙活動の割に善戦したことから多くの政治家・選挙関係者から次の選挙あるいは市長選挙への出馬を強く勧められたのですが、残念なことに家内及び親族の猛反対のために政治活動を断念せざるを得なくなりました。
 そこで再び投資・資産運用事業(結局20近くのファンドを組成・運用、約50社への投資中10社上場の実績)に回帰するとともに、日本のモノづくり知的資産活用事業(日刊工業新聞提携)、医療従事者支援教育事業(メディバンクス(株))、更に日本インドシナ協会を設立してインドシナ地域特にベトナム・カンボジアとの懸け橋事業(水力発電事業への71億円融資支援、図書館寄付事業支援、Dr服部眼科医のベトナム人失明救済活動支援等)、日本企業等のベトナム進出/M&A支援事業(建築設計会社、一部上場会社等)、日経先物・オプション運用、ベトナム株式投資等々新しい挑戦を続けています。 (写真は夏に愛用するベトナム製シルクシャツを着て自社オフィスにて撮影。 ベトナムは活気にあふれ、年に数回出張。韓国、中国、カンボジア、ロシア、トルコ等へも出張しております。)
 余芸として、この12月の解散総選挙時に、政策比較に基く投票行動に資するため政策工学研究所の活動を再開し、乱立する政党の政策分析・比較・評価とその評価の基準となる"一京円資産国家・日本"という日本再興ルネサンス政策を発表しました。
 皆さん、日本にはどれだけの資産があるかご存知ですか? 日本のマスコミは、財務省の洗脳政策に従い約1000兆円の政府借金(政府の借金であってその95%は日本の法人・国民が債権者ですぞ!)だけを強調し、最も経済に悪影響を及ぼす消費税増税(消費に罰金10%を課すような税制度)を推進しました。 普通の経営者なら必ずバランスシートに基づき借金と対応する資産を見るものです。 日銀統計及び内閣府等で公表している資料に基づき推計すると、政府及び公的部門の資産は約2000兆円以上(金融資産約1300兆円、不動産約600兆円、その他100兆円以上)の資産があり、民間の資産は6300兆円以上(金融資産・家計約1500兆円以上+民間企業約2800兆円以上=約4100兆円以上、不動産その他約2000兆円以上)その他に知的資産・文化資産・海洋資源さらに世界最大の海外金融資産(約370兆円)等々を加えるとほぼ一京円の国家・国民資産を有する国なのです。 (マスコミは不勉強で家計の金融資産約1500兆円を報道するだけなのです。)
 日本は、われわれシニアが戦後ゼロから頑張りぬいて世界有数の資産形成国家となっているのです。 この莫大な資産を生かし、価値をあげ、利回りを増やす経済・金融政策・成長戦略を徹底的にとることが最も効果があり、最重要なのです。これが、デフレから脱却し、2%程度のインフレを実現するリフレーション政策(1930年代の高橋是清が推進した政策の実例がある。)であり、みんなの党が最初に提起し、自民党の安倍総理が甲高く叫んでいる政策です。 年金も社会保障も外交・防衛・安全保障も教育もあらゆる施策も経済が良くなり、財政収入が増えなければ実現できません。 そのためにはまず日銀の非伝統的金融緩和及びバランスシート拡大政策を米国並みに進め、円高を是正し、株価を上げ、金融利息・利回りを増やすことをまず実現することなのです。
 かって我々シニアは、退職するときに数千万円の貯金があればその利息収入で十分老後をやっていけると考えた時期があった筈です。 1990年ごろ金融機関からの利息収入が30数兆円あったと言われています。 また日銀が数年前の国会答弁で"預金者の本来受け取るべき得べかりし利息が累積で331兆円"と報告しています。銀行救済のため・不良債権償却のために預金者はそんなに莫大な寄付上納をし続けていたのです。 そろそろ銀行から本来受け取るべき適正な利息を受ける時が、このアベノミックス政策により実現する可能性が出てきたと言えます。 これまでのゼロ利息、むしろ高い手数料を取られるマイナス利息の腹立たしい状況から、100万円でも利息を得られるようになったら20%くらいの金融利得税を取られても納得できると思います。 また利息収入分なら全部使っても元本が減らないので安心して消費等に回し、また株・不動産・その他の資産の値段が上がると期待できれば、莫大な金融資産が投資、資産購入に回り、資金循環・経済循環が活発になり、景気が良くなり、税増収となり、財政再建が進み、復興が進み、雇用も個人収入もふえ、大変良い循環となるのです。
 政策工学研究所の評価では、みんなの党、自民党の政策の評価が高く次いで維新の会、未来、民主の順番になりました。 今回の選挙では、約束したことをやらないで、一番やってはいけない消費税増税を約束を破って実行した詐欺政党民主党という事実を国民は見事に見抜き、今一番重要なのは経済の再建だと国民が賢明にも判断したのです。 2013年の前半には、安倍政権は強い経済の再建に全力をそそぐことになります。 それが明確に実行されると、円安好業績が見込める輸出の多い会社と10兆円以上の補正予算により潤う建設会社等の株価と不動産を中心に資産価格が明確に上がっていくことになるでしょう。
 年金生活者等にとっては副作用もありますが、基本的にまっとうな経済運営となり、多くのことが改善傾向に向かうと思いますので、金融リテラシーを高めて、適切な資産運用を行うことも大切になってくるでしょう。
 日本では、とかく悲観的な見解や自虐的な見方が溢れています。 勿論政治(家)の酷さ、劣悪さ、愚かさには呆れるものがありましたが、それを補ってきた日本の素晴らしさは世界一であります。 政治・政策の愚かさや数々の誤り、更には自然災害の過酷さにも拘らず、世界一の債権国であり、一京円もの資産を維持し、世界一インフラが国内隅々まで整い(やや老朽化の現実はともかく)快適・便利性に優れ、豊かな美しい自然の多様性や歴史・文化遺産の豊かさを享受でき、加えて不断の改善を続ける技術力・革新力の高さ等々枚挙にいとまがありません。
 しかし何よりも素晴らしいのは、あの東日本大震災の悲惨さの中で現われた日本人の美しい気質ではないでしょうか? 忍耐強さ、思いやり、助け合いと自助努力、謙虚さ、他者との調和、実直さ、勤勉さ、整然さと秩序正しさ、卑怯を嫌う武士道精神、美意識の高さ等々失われつつあったものを改めて意識させられました。 魏志倭人伝にも記述されてきた日本人の美質こそ、日本を高め続けることができると思います。 愚かな政治も終わりを告げて、2013年から新しい復興ルネサンス日本が始まると希望を抱き、毎年の英国BBC放送の調査結果にあるように世界に最も良い影響を与える国と称賛されている日本に自信を持って前向きに挑戦する年にしたいものだと心から願う2013年の誕生日です。

(長すぎる面白くない文面にお付き合いいただき、恐縮至極です。 愛してやまなかったKDD人生を辞して以来の足取りと最近の思いを書き始めたら止まらなくなってしまいました。 どうぞご寛恕の程お願いいたします。 一京円資産国家・日本及び活動の詳細にご関心を抱かれた方は、ナレッジカンパニー及び政策工学研究所 
http://knowledgeco.jp/seisakukougaku/ で検索いただければ幸甚に存じます。)  



    
2. 佐藤 龍夫 さん (1月2日生れ)

1月生まれ

 Happy Birthday 有難うございます。 実はこれまで誕生日祝いらしいことをしてもらった記憶が殆どないのです。お正月三が日生まれなので御節料理の準備や"新年おめでとう"にまぎれて誕生日を忘れられて仕舞いがちだったのです。 お正月が来ると自動的に齢をとり何気なく通り過ぎてゆくという感じで過ごして来たのです。しかしこの2~3年来、心身共に、特にシンのほうがややおぼつかなくなってきたようで、いよいよ人生最終段階に入ったなという感じがしてきました。 1928年生まれ、ここへきて一つ齢をとることの重みがズ~ンと来るようになってきたのです。
 さて、「Happy Birthday!」になにか書いてくださいというご依頼を受けましたが、つい3ヶ月前にウンウンうなって、ある会への寄稿文を書いたばかりで一難去ってまた一難というところです。 そのある会とは「フランス政府給費技術留学生の会」という会で、創立45周年の記念誌に"留学の思い出"など書くよう依頼されたのです。話せば長いことになりますが、じつは1965年に会社(KDD)の有難い計らいで1年間、フランス政府の留学制度に乗ってフランスに留学させていただきました。 そして会社退職後、この「留学生の会」の役員を10年間務め微力ながら日仏友好のための一端を担わせていただきました。 というわけで記念誌への寄稿を断ることが出来ず、遠い空の彼方の雲のような47年前の記憶を掘り起こして駄文を書きました。 四苦八苦しましたが、このところ使っていない脳のもみほぐしに役立ったのかも知れません。 そんなわけでフランスとは1980年代のパリ事務所勤務を中にいれて1965年以来の縁です。 いや64年以来といってもよいでしょう。 と言うのもこの年、かの東京オリンピックがあり、これを契機に一人のフランス人と知り合うことになり以来50年ちかい交際がつづいたのです。 このフランス人(ロベ-ル・クルア-ル氏)はEBU(ヨ-ロッパ放送連盟)の派遣員の一人として来日したのですが、オリンピック開会直後のTPCの切断という大事故が起きたことにより10日間ほど一緒に働くことになったのです。 TPC-米国経由―欧州向け放送番組回線を急遽、数少ない無線回線に移すことになり、欧州各国の放送機関への回線使用時間の割り当てや、切り替えの作業が生じてきたのです。彼は一介の技術者として一手にこの作業を引き受けオリンピック閉幕の日まで働きつづけました。 わたしは日本側技術者の一員として彼を援助し、連絡調整の任に当たりました。 こんな状況の中で彼と親しくなり離日の際は、何時の日にかの再会を言い交わしました。 この時はフランス留学の考えも計画もなかったのですが翌65年、かの地に行くことになり期せずして再開が実現したのです。留学期間中、彼はしばしば自宅に招いてくれたり、職場を案内してくれたりしました。 驚いたのは彼の職場に行ったら彼はフランス国立放送の技術運用部長だったのです。 彼が自分の大きな机の引出しから出して見せたものがあります。 同軸ケ-ブルの断面片を封入したガラスの文鎮とA4の紙片です。 文鎮はTPCの開通記念品で別れるとき私が贈ったもので、紙片は彼との仕事中、回線のスイッチング手順等を決めた合意メモで彼とわたしの署名が入っていました。 彼はいたずらっぽく笑って言いました。 "この文鎮のケ-ブルの所為で知り合いになれたんだよね。 このメモ覚えている? 署名させられちゃったんだ! ほんとにいい記念品、いい思い出だよ。"
 1998年10月、彼は奥さんを連れて来日しました。京都、姫路等を案内しました。一昨年、彼が他界し、つい最近、奥さんの訃報が息子さんからメールで届きました。 とても悲しくさびしいです!
 話が暗くなりましたが、元気な友人もいます。 デンマ-クの友人です。 ご存知の方もいると思います。 元GNTC東京事務所代表のエリック・イェンセンさんです。 彼が今年4月に来日して10年ぶり旧交を温めました。 前回来日の時は奥さん同伴でしたが今度はお嬢さんをつれてきました。 彼が東京駐在の頃はまだ幼稚園児だったと思いますが立派なレディとなって現れたのには予期を超えて驚きました。 彼とはJASC(日本海ケーブル)開通の時知り合いました。 当時彼は旧ソ連のナホトカにいて日本(KDD)とソ連(通信省)との技術上の連絡調整をしていたのですが、電話連絡をしているうちに友達になりそれ以来の付き合いとなりました。 話が外国の友人との交遊話になりましたが、自分自身にかえると、最近は遠出の外出が億劫になり、ましてや海外旅行など思いもよらない今日この頃、パリもコペンハーゲンも遠くなりました。 そこでもっぱらパソコンに向かってネット検索で昔のシャンソンやカンツォ-ネを聴いたり、そして歌ったりしています。 ネットのおかげで日本では歌われていない曲に出会ったり、その曲の由来を知ったりできる楽しみがありますね! 歌を唄うのは少しばかり頭の体操?肺の運動?になるかも...また感情をつかさどる脳細胞のマッサージになるかな?...なんて、ろくに運動もせず"歌舞音曲のたぐいにうつつをぬかしている"と冗談にでも言われそうな日々を送っている自分をジャスティファイしています。 以上、後期(高貴?)高齢者のたわごとでした。 
    
Bonne Année 2013 ! et Bon anniversaire !         以上


右端 故 ロベール・クルアール氏
左端 故 ブリジット・クルアール夫人
中央右 筆者
1998年10月撮影

左端 エリック・イェンセン氏
右端 筆者
2012年4月撮影



    
3. 高宮 孝一 さん (1月3日生まれ)

 アラカンと言われる五十九歳の三月、前立腺肥大のため体調を崩し、定年前に転籍先を退職した。
 仏教では「阿羅漢とは、尊敬を受けるのにふさわしい人」とあるが、退職後も、夜中も眠れずに悶々としていた時に、子供に進められて似顔絵を始めた。
  子供の頃に「イガグリくん」や「赤胴鈴之助」等の漫画の主人公を描いて、褒められたのを思い出した。しかし、最初は余り似たものは描けなかった。
 ただ、前立腺の手術が成功したのを機会に、川口市内や田舎のお祭り等でリピータを増やすために、来訪者の写真を撮り、翌年に似顔絵を描いて差し上げることにした。
  以来、親の介護に伴う関東・関西の往復、国内外の旅先、KDD同友会等でも お世話になった方々の似顔絵を描かせて頂いている。 そして、手交またはインターネット、 郵送等で送付した似顔絵は五百枚余りになった。

  写真とは異なり、似顔絵を描く過程を含め、いろいろな記憶が蘇ってくる。 時間がある限り、喜んで戴ける人がいる限り、これからも似顔絵描写を継続してみようと思っている。






武内陶子アナ


女優・高畑淳子


髙宮孝一


    
4. 田渕 紀一 さん (1月22日生まれ)

近 況

 1940年1月22日生まれなので、この1月で73歳になりました。 2000年3月にKDDを定年退職して13年目になります。 定年を契機にして、W大学オープンカレッジや地元のシニア大学などに入って、意識して今までお付き合いのなかった人たちとの交流を始めました。 いろいろな職務経歴を持った多彩な人たちとのお付き合いは、私とはものの考え方や行動の規範などが大きく違って戸惑うことも多かったですが、文化の違いを痛感しながらも、得難い友人がたくさんできました。 大学や地元の人たちとのお付き合いに加えて、KDDのOBで構成している「京浜東北沿線会」や、現役社員とOBで構成されている「KDD東京アマチュア無線クラブ」のメンバーとして引き続き趣味を通じての親睦・交流を続けています。特に趣味のアマチュア無線関係では、ほぼ毎年、アマチュア無線とプチ観光を兼ねての海外移動運用を行っています。 昨年末にも12月6日~10日に、KDD、NTT、与野アマチュア無線連合会のハム仲間6人でグアムに出かけて、現地ハムとの交流や世界のハム局との無線交信を楽しんできました。 


               (グアム・サイパンに海外移動運用した時の私/JJ1CDYのハム交信カードなど)

 他にKDD関係で、私にとってとても大切なグループがあります。 昭和33年に高卒でKDDに入社して、関東地区の事業所で定年退職した同期生で構成する「燦々会」です。 毎年、夫婦連れで食事会、東京湾納涼屋形船や、有志による台湾、韓国、ベトナム、カンボジアなどへの海外旅行など、親睦行事を行っています。 後期高齢者入りを控えて病気や死亡等によってメンバーは徐々に減りつつあって現在の会員数は17名となっていますが、気持ちで歳をとらないようにみんなで元気に遊んでいます。



    
5. 吉澤 生雄 さん (1月28日生まれ)

あした天気になあれ!

 日本食が食べたくなった。自転車を借りて、ホテルのベルボーイに教わった「米咲(まいさ)」というレストランに行った。 アンコールワットがあるカンボジアの街シェムリアプにある日本食のお店である。 食事中に年配の日本人女性が話しかけてきた。 その店のオウナーだった。聞くとは無しに、「数年前に、このお店を開いた。 二十代後半の孫がいるけれど六十才代では無い。」 と話してくれた。若くは見える。 しかし、20代後半の孫がいると言うからには50代ではない。 ということは、70歳代。 そんなお年になってから、女性一人でよくこんな辺鄙なところでレストランを始める気になったものだと半信半疑な気持ちが残った。 KEC財団の開発関連のお仕事で出張した7年前の思い出。
 昨年2月にTV東京の「世界の秘境!日本の食堂」という番組を見ていた。 シェムリアプのその食堂が映し出された。 あの年配のオウナー女性が出てきた。77歳になっていた。 医療環境が進んで無いカンボジアの子供を救おうという思いが、そこでお店を始めるきっかけだった。 売り上げの一部を近くの小児病院に寄付していた。 若い頃は宝塚歌劇団員の一員だった。 タカラジェンヌの面影は片鱗もなかったが、老いても青春、元気そのものだった。 このカンボジアの「がばい婆さん」には及ばないが、 第二の人生を充実させるべくパソコンを友として、少なくとも自分の年齢と同じ数までは訪問国数を増していきたいと、昨年(2012年)3月末に定年退職する時の挨拶メールに書いた。
 退職時に訪問した国を数えると31カ国になっていた。 最初に外国へ行ったのが1980年の夏だった。 海外へ出かける場合は、役員に挨拶してから出かけて行くという習慣がまだ残っていた頃だ。 コロラド州のボウルダーにある英語学校へ行った。 日本から企業派遣の留学生が大勢来ていた。 その中に「お互いにつぶれない会社に入って、良かったね」と話しかけてきた日本人がいた。 長期信用銀行からの派遣行員だった。 20年経った。2つの会社とも無くなっていた。 その行員は、長銀の国有化に伴って退職していた。 退職後は、転んでは起き転んでは起きの人生を歩んでいた。 現在、JASDAQ上場の小さな会社の社長に納まっている。 私が退職する予定であることを知って、監査役になってくれないかと声をかけてきた。
 監査役として、新橋にあるオフィスに出勤するのは火・木の週2日である。 夕方になると区役所から「夕焼け小焼け」の音楽が流れてくる。 夕焼け空に「あした天気になあれ!」と声をあげながら帰っていた日々を遠くに感じる歳になってしまった。 あの頃に比べると、時がはるかに早く過ぎてゆく。 退職後は、自由な時間が多くなるから、子供の頃のように1日が長く感じられるだろうと期待していた。 しかし、予想に反して、あっという間に半年が過ぎてしまった。
 ジャネーの法則というのを最近知った。 60歳の人間にとって1年の長さは人生の60分の1、6歳の子供にとって1年は6分の1。60歳の大人にとっての10日は、6歳の子供の1日に相当するという。 大人になるにつれ新しい感動が少なく単調になるから、時が早く過ぎるように感じるらしい。 忙しさに追われていると時間の経つのが早く感じる気がするのだが、逆のようだ。振り返ると長く感じるという。
 単調な生活に陥らないようにと、新しい事へ挑戦してみた。 FacebookやTwitterはせわしい感じがするので、ブログを始めた。
    
http://light4you.blog.fc2.com/

 「青春とは人生のある時期を言うのではなく、心のありさまを言う。 子供のような好奇心をもち、挑戦する喜びをもっていれば、いつでも青春」と詩人のウルマンは謳っている。 しかし、挑戦にはかなりのエネルギーが要る。 そこで、「楽しみを見つければいつでも青春」と超訳してみることにした。 明日天気になあれと言いながら寝床に着く遠足の前の日の子供のように、わくわくする気分をもって明日を迎えようと楽しみを見つけている。 KDDIの株を買ってみた。 外貨も買いこんだ。 うまくいくと新しいパソコンが買える。自分の年齢と同じくらいの数の国を訪問できる資金もできる。 暖かくなったら、パワードグライダーで空を飛んでみたい。 荒川サイクリングロードで満開になった桜並木のトンネルの中を走り抜けよう。 海外にもまだ目を向けている。 カンボジアへ行って、がばい婆さんにまた会えれば元気がもらえそうだ。 カリフォルニアに3カ月くらい住むのもいいかな。 ミャンマーでの美術教育を支援してくれないかというお誘いも来ている。 楽しみがいっぱい。あした天気になるといいね。



 


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