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  Happy Birthday !

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Happy Birthday !

  12月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。 この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。

今月のお誕生会員:  中島 薫 さん  松平 恒和 さん  古澤 嘉平 さん

(バックナンバーは こちら を、また投稿者一覧は こちら をクリックして、ご覧ください。)




    
1. 中島 薫 さん (12月9日生まれ)

 私の健康法

  (株)テレサーブを定年退職して早や23年。 12月で齢83歳を迎えます。 この間あっという間に歳月が過ぎ去ったように感じます。 今は、ただ健康に注意してこれからの余生を過ごしたいと思っています。 そこで、現在の私なりの健康法について紹介してみたいと思います。

● 先ず一つは、体を動かすことです。 家の近くに生命の森リゾート(千葉県長生郡長柄町)という広大な自然の中で本格的なスポーツができる施設があります。 そして、体力アップのための多彩なプログラムと設備があり家内ともども主に水泳を中心に運動をしています。 10年前は全くの金槌でしたが。 他に、各種マシンによる筋力アップにも挑戦しています。

 二つには、声を出すことです。

● 運動を通していろんな人と知り合い世間話に花を咲かせます。 殆ど定年者の集まりなので屈託がなく楽しいですよ。 また、自治会の有志でカラオケサークルをつくっています。 私も地域の代表として時たま市民センターなどで喉を競いますが入選しません。 目標は県大会出場ですが。

● 三つには、体調の検査をすることです。 この施設に付属する診療所で年一回の人間ドックを行って、健康状態を見てもらっています。 今のところ、健康には大きな問題はなさそうです。 まずは安心。 また、歯は健康の元とも言いまので、年二回の歯の検診をしています。 虫歯が見つかっても即その場で治療してくれます。 お蔭で、8020を維持しています。


以上ですが、ゆるやかな生活を送れるのも健康と会社あってのお蔭と感謝しています。



    
2. 松平 恒和 さん (12月15日生まれ)

 グローバル人材育成しながらジャズミュージシャン

  合併の翌年KDDIを退任してから既に10余年が経過しました。 KDDにお世話になった32年のうち約28年を国際部、その前身の部門もしくは海外で過ごし、数知れぬ国際会議や国際交渉を経験。 その中で身につけた技術やノウハウを若い世代に少しでも伝えようと、早稲田大学や日本ITU協会などのお手伝いをし、また4年前には様々なバックグラウンドを有する同志達と今はやりのグローバル人材育成のNPO法人を立ち上げ、ほぼ毎月講を催すなどの活動を行っています。

  一方、最近では私と英国の古い縁から、神田外語グループが福島県天栄村に展開しているリゾート型研修施設 "British Hills"の非常勤の館長に就任しました。 海抜1千メートルの羽鳥高原に7万3千坪の「英国村」が出現して満20年。 日本に居ながら純英国風環境の中で、英国もしくは英連邦から来ている教師陣(間違ってもアメリカ人はいない!)から英語を学び、異文化体験をするというユニークな世界です。 もちろん一般のお客様もホテルや結婚式場として(日本語で)ご利用になれます。 私の役割はここが「純英国風」であり続けるよう監視し、また上述のグローバル人材育成に助力することです。
  そんな訳で、お蔭さまでKDD時代に培った経験を活かして日々を過ごしている一方、実はもっとも時間と労力をかけているのはジャズクラリネット奏者としてのミュージシャン活動です。 学生時代に熱中した音楽(管弦楽とジャズ)でしたがサラリーマン時代はほとんど封殺されていました。 今はその反動か、月に10回、ひどい時は15回以上のジャズライブを銀座、赤坂、六本木、新宿などのライブハウス等で行っています。 ジャズといっても古いディキシーランドやスウィング系のスタイルで すが、最近ではこれらライブの半分以上がその方面のトッププロのジャズメン達との共演で、KDDのOB・OGの皆様にもよく聴きに来ていただいています。
  プライベートの方では二人の息子からそれぞれ3人ずつ、計6人の孫ができました。 目下小6から5歳までの5女1男ですが、私に似ず全員スポーツが得意なのは何故でしょうか。

以上にご紹介した活動について、ご興味があれば次をご覧ください。
  特定非営利活動法人
     国際人材創出支援センター: http://icbjapan.org/
  ブリティッシュヒルズ: http://www.british-hills.co.jp/
  ミュージシャン: https://www.youtube.com/watch?v=z4eepA2eG_w
 
 (その他、YouTubeを私の名前で検索していただくと多数出てきます!)




+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+  会員の皆様から一言 +:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+

クラリネットの響き

鎌田 光恵 2014/12/04 10:26:21

殿のニックネームに相応しい風格あふれるセカンドライフ! そして遊び心満喫のクラリネットの響き! 今後はジャズの音が聴きたいときはいつも Happy Birthday! のこのページを開くことにします。 (鎌田光恵)



    
3. 古澤 嘉平 さん (12月17日)

 シニア世代を元気に生きる・・・私の健康法

  私のモットーは、「心身ともに毎日を元気で、健康に過ごす」ことです。 毎日、何もせずにボーット過ごすと、身体機能が低下し、気力がなえ、「ぼけ」が進行することにもなります。
  以前、「天声人語」の欄に、アンチエージングのボケ防止には「教養」と「教育」が、「今日用があり、今日行くところがある」 ことが大切との記事がありました。 年齢を重ねると体を動かしたり、考えたり、外出するのが次第におっくうになり、家に閉じこもりがちになります。 このことが体や脳の機能低下・やる気をなくし、急速に老化が進むことになります。
  ある健康誌によると、体力は年齢によって違ってきても、脳については、「もう歳だから」という言葉は当てはまらず、常に頭を使って脳を上手に刺激することによって、幾つになっても脳は育ち 「脳は、年齢よりも、使い方 で変わる」 とのことです。 脳を活性化するためには、脳内の血液のめぐりを良くすること、手と脚、口を積極的に動かすことにより、脳全体の血液のめぐりが良くなり、それに呼応して司令塔の前頭葉が育てられるとのことです。 私も残された人生を「生き生き」と元気に過ごすために、次のようなことを心がけています。

● 大学や県・市の教養講座を積極的に利用して知識を吸収し、頭の活性化を図る。 また、地域の人々との会合、クラブ活動等を通して、仲間たちとの交流・親睦を図り、絆を深める。

 何事も年相応、無理をしない。

● 定期的な健診により健康状態をチェックし、バランスのとれた食事・腹八分、医食同源。

● 趣味を持ち、心を豊かにする。 仲間たちと歌やコーラス、オカリナ演奏など、音楽を楽しむ。

● 骨や関節、筋肉などの運動機能を維持するため、できるだけ体を動かす。 起床、就寝時の軽いストレッチ、ラジオ体操、ウォーキング、仲間たちとペタンクゲームやラケットテニスなどのスポーツを楽しむ。

  なお、現在の課題は、口腔内を手入れして食事をおいしく、楽しめるようにすることです。  私も12月で満83歳を迎えますが、これからも頭と体の健康を維持し、これまでの経験と知識を生かして 「人生をますます愉しく、味わい深いもの」 にしたいものと願っております。





 
  

Happy Birthday !

  11月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。 この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。

今月のお誕生会員:  鈴木 英昭 さん   高橋 俊雄 さん

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    1. 鈴木 英昭 さん (11月12日生まれ)

近 況

  1997年(平成9年)に退職以来、早いもので既に約17年が経過しました。 リタイア直後、今後はまず「健康」が第1に重要であると思い、その健康維持のためには、規則正しい生活を送るように心掛け、特に食生活には好き嫌いなく栄養バランスのある食事をとるように留意しています。 これに加えて「ピンピン、コロリ」の理想を目標に掲げ、そのためには肉体的、精神的な両面対策の必要性を強く感じたことから、まず「肉体的な体力低下の防止策」としては、運動が重要であり散歩やゴルフ等を行うこととし、「精神的なボケ予防策」としては、頭を使うことが重要で株式投資等を行うこととし、これら2点を心掛けて日常生活を送るよう実践しています。 また生来の医者嫌い、薬嫌いによる自然治癒力まかせの生活は今も殆ど変わらず、老化現象が忍び寄るのを若干感じていますが、前述の健康維持の留意点などの生活対応にも助けられて、リタイア以降、幸い大病もなく、風邪をひくこともなく、極めて元気に日常生活を送っています。 そして先述の「肉体的な体力低下の防止策」等の実践については、次に記述する「つれづれ会」活動の好影響に支えられて健康への効用が絶大であり、メンバー諸兄に大いに感謝しています。
  「つれづれ会」は、退職を目前に控えた同年輩の有志で結成され、リタイア後における情報不足を危惧して、気の合う仲間同士間で情報交換を行い、また親睦を図ることを目的に1997年(平成9年)4月に発足した会です。 この会には明文化された会則もなく、また会長も置かず、入会・退会や休会は本人の自由意志に任せるというもので、まさに有志による本当に「自由な懇親会」です。 これまでメンバーに若干変動はあったものの、2014年(平成26年)10月現在7名で、発足以来、小生が幹事役を務め、17年間以上の長きにわたり継続しています。
  写真は、平成26年10月16日(木)に「ぶらり旅」の記念に撮ったものです。 場所は東京都港区白金台にある「八芳園」の中の庭園で、左から筆者、続いて城下征治、大場光男、橳島明、鈴木雄二、見城正幸です。 月に1回、楽しいひとときを過ごすための月例会については、「1次会」と「2次会」があり、「1次会」は、旨い物を食べながら楽しく酒を酌み交わし、相互の近況や参考となる情報などを話す「情報交換の会」であり、また「2次会」は、スナック等で演歌などを楽しむ「ストレス解消の会」です。 このほか、自由参加の海外旅行または国内旅行を楽しむ「旅行の会」が年1回あり、海外旅行は10年を区切りに現在休止中ですが、これまでに海外は台湾、タイ等のアジアや、イタリア、スペイン等のヨーロッパ、計20ヵ国の旅行を、また国内は北海道等の旅行を楽しんできました。 
  さらに、2004年(平成16年)から新企画として、「健康の維持増進」を目的に東京都内の名所名跡などを巡って1日約6~9Km歩く、「ぶらり旅」を月例会当日の昼間に実施しています。 この「ぶらり旅」は、橳島明氏が幹事役を務め、鈴木雄二氏が散策コース案の作成や案内役を務め、これまで約1年間の休止があったものの、約10年間続いています。 これまでの散策範囲は、JR山手線の外側近傍と山手線の内側全域で、これらの区域に点在する由緒ある神社仏閣や著名な庭園・公園、著名人ゆかりの地のほか、著名人が眠る雑司ヶ谷霊園や青山霊園なども訪れました。 このほか、品川や谷中の七福神巡りや、東大・早大・慶大、東京理科大、国学院大などの博物館や歴史的建物の見学、さらには国会議事堂内の見学も行ってきました。
  近年、日本列島は自然災害が多く秋晴れの毎日ばかりではありませんが、皆様方のご健康とご活躍をお祈りします。 


+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+  会員の皆様から一言+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+

7人の侍の「月一ぶらり旅」いいですね!

鎌田 光恵 2014/11/02 22:46:05

会の幹事役、ぶらり旅を計画する役などうまく分担しておられるので会が17年間も維持できているのですね。うらやましいです。 家に籠もらず外に出かければ新しい発見もあり、長生きできますね。 一家のアルジ殿が元気で溌剌しているとみんなが幸せになります。 活動の様をk-unetのHappy Birthdayコーナーにご紹介下さいまして誠にありがとうございました。(鎌田光恵)



   
2. 高橋 俊雄 さん (11月26日生まれ)

近 況


  今年の誕生日で68才になります。 昨年3月末にサラリーマンを卒業して、毎日が日曜日状態になりました。 しばらくは、朝早く起きる必要もなく、ゆっくり新聞を読んだりテレビを見たりと、のんびりしていましたが、多趣味で情報通の友人(10年以上も前に某メーカーを早期退職)が、各種イベント(美術展、コンサート、演劇、文楽公演、科学/文化講演会、展示会など)を頻繁に紹介してくれる様になったので、出来るだけ出かけて、未体験ゾーンでの経験を楽しんでいます。
  また、「ボケ防止」、「健康維持」および「友人のアドバイス(ボランティア活動の勧め)」を念頭に、以下の活動を行っています。

◆囲碁
KDD研究所時代に囲碁を始めましたが、「ザル碁」を卒業できませんでした。 そこで、一念発起し、今夏から囲碁の上達を目指して勉強(?)を始めました。 日曜のNHK囲碁番組を欠かさず見るようにし、また、地元の囲碁同好会での対局(月、木の午後)で腕試しをしています。 急な上達は望めませんが、考えて打つ様にしているので、脳の活性化には役立っていると思います。

◆観光ボランティアガイド
東京都の募集を知ったので、今年4月に、英語での観光ボランティアガイドに登録しました。 登録者が多いためか、ガイド依頼は少ないのですが、勉強のために、折々に、都内の観光スポット、名所旧跡、庭園、博物館、歴史資料館を訪ね歩いています。 一日に2万歩以上歩くので、足腰が鍛えられます。 (普段も、1万歩を目標に歩いています。 )都内の観光コースをガイドする活動以外に、臨時の観光案内所でのコンシェルジェ的な活動依頼もあります。 写真は、外航客船「ミレニアム号」(9万トン、全長300m、乗組員1000名、乗客2100名)の東京港入港時の活動記念写真です。










 
  

Happy Birthday !

  10月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。 この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。


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1. 出石 昌三 さん (10月3日生まれ)

 ミャンマー郵電公社(MPT)の思い出

  2014年7月1日17付けの日経新聞(電子版)は、「KDDIは住友商事と組んで、ミャンマーの携帯電話事業に参入し、約2,000億円を投じる」と伝えた。 そして、KDDIの石川雄三取締役は「ミャンマーの情報化を牽引したい」と記者会見した。 長い間、ミャンマー郵電公社(MPT)の国際部門の方々と付き合ってきたものとして、"ついにミャンマーとも新しい時代を迎えることになった"と、感無量の思いであり、うれしさでいっぱいである。 総裁(ウータンタン)をはじめ、ウーセーウィン(国際部門トップ)、ウーソームーディー(伝送部門担当)、ウーゾーチン(交換部門担当)は今でも健在なのだろうかと若かりし頃の姿を思い出している。
  KDDは、両国間の疎通改善、ODA(政府開発援助)を使っての人材育成、円借款による衛星地球局、国際交換局の設置などを、国際協力の名のもとに推進してきたが、ミャンマーとの間では、1986年5月にMPTとコンサルティング契約を結び、ヤンゴン郊外に衛星地球局を、国際交換機をヤンゴンの中心地にある中央局に設置すべく、現地調査などを行い、その入札仕様書を作成した。 もう28年前のことである。
  しかし、ミャンマーでの民主化運動のうねりのなか、軍事政権が1990年の選挙結果を否定したため、日本政府は、ミャンマーにたいして、厳しい姿勢を取るところとなり、経済協力は、大幅に削減され、毎年300億円から400億円のレベルを維持していた円借款はストップされ、また、100億円近くあった無償資金協力も停止され、われわれの国際通信改善プロジェクトは頓挫した。
  その当時、MPTはNECが商業ベースで納入したNO.5国際交換機を中央局に、また、スタンダードB地球局(コンテナ型)を短波送信所エリアに設置して、国際通信を疎通していたが、その規模が小さく、需要に応じた国際回線を増設することが、はなはだ難しく、さらには、MPTには回線増設パネル(SCPC)を購入する資金に余裕がなく、KDDは、これらのパネルを現地に持参し、MPTの回線増設を支援した。 回線増設では、回統部の古賀君が大活躍してくれたし、円借款プロジェクトでは、衛星伝送部の小野君、近藤君、山根君、国際部では、木本先輩、菅田君、小池君などが、度々ミャンマーに出向き、活躍してくれた。
  当時は、外国人が泊れるようなホテルはほとんどなく、ヤンゴンの中心地から北の郊外に位置する、インヤー湖湖畔にロシアの援助で建設された「インヤー・レイク・ホテル」を利用したが、トイレット・ペーパーや蚊取り線香の携行は必須であり、夜は明りが十分でない部屋で、蚊取り線香をたきながら、仕事をした。 ホテルには、地ビール(マンダレー)があったが、7時ごろにレストランに行くと、もう「売り切れ」で、ここでの唯一の楽しみを取り上げられ、がっかりしたことを思い出す。
  住商の事務所は、スーレー・パヤ(仏塔)近くにあったが、MPTのオフィスに近かったことから、資料つくりなどでよく使わせてもらった。 ロンジー(腰巻)をいつもはいていた滝田さんには大変お世話になったが、今はどうしておられるだろうか。
  2011年3月、ミャンマーは新しい憲法のもと、新しい大統領を選び、新政府を誕生させた。 この新政府は、民主勢力のリーダー、アウンサンスーチーをも取り込み、本気でこの国を変えようとしている。 2013年6月7日、日本政府は、510億円の円借款を決め、貸付契約に署名した。
  KDDIは、今回の携帯電話事業への参入により、モンゴルやロシアでのプロジェクトのごとく、本格的、かつ、長期にわたり、ミャンマーでのビジネスを展開していくことになろう。 日本とミャンマーとの過去の歴史を見れば、多数の日本人を太平洋戦争(インパール)で失うとともに、ミャンマー国民に多大な迷惑をかけてきた。 時間はかかったが、歴史は動き、少なからずのお返しができる時期が到来した。 お互い、仏教徒であり、東洋民族でもある。 KDDIおよび住友商事の関係者のみなさんの奮闘を心から願っている。

+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+  会員の皆様から一言+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+

私もヤンゴンに行きました
吉澤 生雄 2014/10/04 11:36:58

 出石さん、ミャンマーの思い出面白く読ませて頂きました。 ちょうど、今週か来週辺り(10月の初め頃)、KDDI財団の人達がヤンゴンを訪問し、児童向けの美術教室を開くと聞いています。 私も、この7月にミャンマーへ行きました。 仏教が人々の生活の中に溶け込んでいましたね。
 同行した知人も30年前にインヤ-レイクホテルに泊まったといってました。 当時は、ロシア系だから最も安全だったそうです。 でも、現在は当時と比べて様変わりだとか。 街は日本車が溢れていました。 でも、バンコクやジャカルタと比べるとまだまだ渋滞は少ない。
 通信も東南アジア諸国の中では最低レベル。 回線が細く、一般のインターネットではYoutubeの動画が見られない状態。 私のブログでヤンゴン訪問記を書いています。 お時間があるときにでも覗いて見て下さい。
  「一燈照隅的なお話」 ヤンゴン訪問記 その1
http://light4you.blog.fc2.com/blog-entry-171.html  )


    
    
2. 小川 桂子 さん (10月9日生まれ)

 小野受信所

  私は小野受信所で生まれ その後引っ越しと疎開の後 終戦の年に小野に戻り 小、中学校時代を過ごしました。 食糧難でいつもお腹がすいていましたが自然と友達はいっぱい、楽しい日々でした。 私の人生の基礎を作った時でした。 受信所は田んぼと山に囲まれ、田んぼの中には空中線、山には鉄塔があちこちに立ち独特の景色でした。夏、ムセンの子供たちは連れだって山の中の溜池に行き、木が池にせり出しているところから水に飛び込んで遊びました。 トロンとした緑色の水の表面は生暖かく、水底は冷たく水草などが脚に触り気味悪かったのですが夢中で遊びました。
  ある日そろそろ帰ろうかという時、鉄塔に登ろうという子がいて、7,8人の女の子たちは山の中の鉄塔に向かいました。 鉄塔は真下から見上げるとてっぺんが空で泳いでいるようでした。 始めにリーダー格の女の子が鉄のはしごに手をかけ、私ともう一人の女の子が続きました。 時折周りを見る以外ひたすら上を見て登りました。 舟形をしたてっぺんは3人の女の子が動き回れるくらいの十分なスペースがありましたが、床の隙間から豆粒のような下にいる子達の頭が見え、てっぺんが揺れているのがわかり始めて怖さを感じました。 それでも遠くの景色を目に焼き付けてから、はしごを降りたのです。 こわばる手ではしごをしっかり握りしめ、足を踏み外さないよう自分に言い聞かせながら降りました。 その時が一番緊張しました。
  小野受信所の施設、空中線、鉄塔は撤去され今はありません。 今は昔の話。




    
3. 相馬 良明 さん (10月21日生まれ)

 近況(ウォーキングにハマっています)

  2007年3月末に退職する前は、妻とほぼ毎週のようにワゴン車で出掛けておりました。 日帰りまたは1泊で、行き先は関東・中部・東北が中心でした。 退職を機に、キャンピングカーを購入し、その行動範囲は北海道・近畿・四国・九州地方へと広がりました。 日数も長い時には10日~2週間位となりました。 そうなると毎週というわけにはいきません。 先立つものが続かないからです。
 旅に出掛ける以外は、家でごろごろして、身体を持て余しておりました。 そんな私を見かねたのか、退職した年の誕生日に、妻から「万歩計」のプレゼント。 早速身につけて、妻と一緒に家の近所を歩くことを日課にするようになりました。
  退職して1年ほど経ったある日、新聞折込の地方版に、県のある団体が主催する「歩く会」のハイキング記事を妻が見つけ、『行ってみたら?』と勧められ、参加してみることにしました。 入会してちょうど1年経った頃に、運営を巡ってのもめごとがあったらしく、「歩く会」は突然閉会となってしまいました。 この先どうしようかと考えていたところに、「歩く会」を担当していた方から、『毎週1回地元周辺を歩く私的な会だけど、どうですか?』とのお誘いがありました。
  主催する方は、何と同じ町内会の方でした。迷わずに入会しました。 2009年4月のことです。 以来6年半になりますが、1カ月ほどの夏休みを除いて、ほぼ毎週歩き続けております。 今では、年間スケジュールの企画とコース地図の作成を任されるようになりました。 年に5~6回バスハイクを実施していますが、参加者の確認・連絡の他、バス・弁当の手配から、入浴施設の確認・交渉など全般をやらせていただいております。 また、例会の様子を写真に撮り、ブログへのアップなどで、多忙な日々を送っているこの頃です。
  毎週の歩きに飽き足らない訳ではありませんが、「関東ふれあいの道」を企画して、前述の「歩く会」を通じて知り合った別の仲間と、毎月1回関東の山々を歩いています。 これまで、茨城県・東京都・神奈川県の「関東ふれあいの道」を歩きました。 この9月からは、新たに埼玉県の「関東ふれあいの道」に挑戦しています。 各県が発行する「踏破認定証」を受領することが"モチベーション"に繋がっているのかもしれません。
  さらに、「関東ふれあいの道」とほぼ同じ仲間ですが、「旧街道を歩く」と称して、旧水戸街道・旧成田街道・旧日光街道を歩き終えました。 現在、旧東海道を三島宿へ向けて歩いている最中です。 今回の誕生日を迎える頃には、とりあえずのゴール三島宿へ到着して、仲間と一緒に美味しいお酒でも酌み交わしていることを
想像しております。 三島宿から先(京都三条)へは、具体的な計画は未だですが、気の向いた時に皆さんにも声を掛けて、一緒に歩こうかなと思っています。
  一時は「KDD遊歩会」にも参加していて、KDD-OBの皆さんとも、首都圏各地を歩いておりましたが、前述のような忙しい状況で、やや足が遠のいているこの頃です。 故障や破損で買い代えた「万歩計」は、4代目となりますが、今でも肌身離さず毎日身に着けています。 買って貰ったその日から記録し始めた"歩数"は、この誕生日で丸7年になります。
  数年前から、妻から『最近、あまり一緒に出掛けなくなったね』との声が漏れるようになってきました。 『これはまずいっ』と思い、共通の目的として「道の駅」スタンプラリーを始めました。 道の駅を回って、スタンプを押すというものです。 「道の駅」では産直野菜などの買い物も欠かしません。 一応関東地方は全て回り、中部・東北地方の「道の駅」もかなりの数スタンプを押しました。 そんな中、2010年7月に上田市の観光センターで、たまたま妻が「日本100名城」の本を見つけました。 歩くことには全く興味を示さない妻も、『これだったら、一緒に行っても良い』と言うので、早速買い求め、「日本100名城」を巡ることにしました。 お城を回って、台帳にスタンプを押すだけですが、47都道府県に散らばっている全てのお城を回るというのは、なかなか大変なことです。 お金も時間もかかりますが、妻と共通の目的を持つことは大切なことと考え、続けている次第です。 主にキャンピングカーを利用して、各地の観光地も併せて訪ねていますが、長野県の上田城から始めたお城巡りは、現在までに89城に登城しました。 残り11城は、北海道・九州・沖縄などと家から遠い所ばかりですが、ここまで来たからには、何としても全ての城のスタンプを押そうと妻と励まし合っているところです。
  会社勤務の頃から釣りが好きで、今でも元会社仲間と房総・鹿島方面へはよく出かけています。 かつては、遠く新潟や佐渡にも遠征していました。 多い時は年に20回以上も釣行していましたが、最近は、ウォーキングで時間が割けないこともあり、釣行回数はめっきり減ってきました。 しかし、現役も含めた元会社仲間との釣行は欠かさず行っております。釣りの合間に一杯飲みながら、昔話に花を咲かせるのが楽しみのひとつとなっているのです。
  前述のように、近況としては、年中ウォーキングやハイキング、城巡りで歩き回っている状況です。 ウォーキングは、健康を保つために始めたことですが、今では私の生活の一部であるとともに、地域の皆さんと過ごす大事な手段となっています。 体力と気力が続く限り、続けて行きたいと願っている所存です。 また、日記代わりに始めたブログですが、最近はウォーキング一色となってややマンネリ化の傾向になっていると、自分でも感じていますが、今後も続けていきたいと思っています。 このブログを続けるということが、健康であるという証明になると思うのですが・・・。「日本100名城巡り」もブログで紹介しております。 興味のある方はご覧いただければと思います。

「ウマさんの気ままな行動日記」

  K-unet会員の皆様、本コラムまたはマイブログへのコメントお待ちしております。

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誕生日、おめでとうございます
金坂 祐爾 2014/10/21 09:22:43

4代目の万歩計、釣り、古城めぐりそして奥様との共通の目的が健康の秘訣とお見受けしました。花言葉の「聡明」とお名前の良明さん、よく響きます。当方上欄写真の川越在住です。



    
4. 豊川 修司 さん(10月24日生まれ)

 会社の皆さんに感謝
―培われた国際性と行動性、今なお健在―

1.名前も知らない会社へ

  皆さん、こんにちは。 豊川修司と申します。 1997年3月、牧師になるため52才で会社を早期退職してから、既に18年が経ちました。 この10月で丁度70才になりますので、会社時代を振り返りつつ、現況を手短に報告したいと思います。 初めは会社との不思議な出会いのことです。 工業高校の入試合格発表を見に行くと、受験した科には名前が無く、受験しない「電気通信科」に名前がありました。 更に、高校3年の就職の時期に、早い段階で大手電気メーカに内定したものの、11月に行われた健康診断で異常ありとのことで内定を取り消されました。 就職の先生は、落胆している少年に「豊川、こんな会社から求人が来ている。 おそらく外国へ沢山行けるぞ、行くか?」との問いかけに、迷わず「はい!」と答えたのを覚えています。 こうして「名前も知らなかった会社(KDD)」に。 この不思議な導きは神様が用意されたのかな。


2.世界を相手に、この会社は凄い!

  入社して現場に配属された職場は、短波通信業務の衰退で、事業所は廃局を余儀なくされていました。 残務整理の独身者は私一人、最後まで残りました。 連日、書類の焼却や撤去設備の片づけで、「くじけるな!」と言われても無理でした。 最後は局舎に鍵をかけ、たき火で沸かした熱かんで、互いに労をねぎらいました。 翌日、上司は、私を本社に連れて行き、役員一人一人に「最後まで頑張ってくれた豊川君です」と紹介しました。 「ああ!最後まで諦めないでよかったなー。 」当時は、これが感激だったのです。
  東京での新しい職場は、伝送路や電話回線を作る部門でした。 先輩は、韓国との電話回線設定作業の時、私に「ヨ・ボ・セ・ヨ、ソウル、ヨ・ボ・セ・ヨ、ソウル」と言いなさいと教えました。 外国語すらろくに話しできなかった者が、外国人と話会うなんて、なんて凄い会社だろうと驚きました。 それから通信ネットワーク構築にひた走りです。


3.大好きな会社に別れを告げる

  このような中、30代半ばで最初の人事部、40代で2度目の人事部、40代後半で3度目の人事部を経験しました。 真夜中に職場を廻り、遅くまで仕事をしている人に声をかけ、会社を支えている人材がいかに大切かを知りました。 でも当時は、本当に忙しい会社生活でした。 当時、小学2年の長男は、その様子を日記にこう書いています。 「今日、お父さんが休みだと思っていたら、11時にまた会社に行くというのでかわいそうな気がしました。 お父さんはまだ、きのうの疲れがとれていないようでした。 これからもおとうさんがんばってください。」(原文のまま)。 子どもと家庭は妻に任せ、子どもがどう大きくなったかも分からず、ただひたすら仕事に打ち込む企業戦士でした。
  しかし、3度目の人事部を経験する中で、将来に対して、もっとなすべきことがあるのでないかと自問自答した結果、牧師になろうと決め、52才で会社を辞めました。 この時が「時」だったのです。 それから神学校に3年半通い、牧師試験に合格して東京高島平にある教会に招聘されました(56才)。 早期退職して既に18年が経ちました。 今年の10月24日が満70才誕生日で定年ですが、働きの継続を要請されています。


4.80才に向けて、これからを生きる

  さて、70才になって、前述のように振り返ると、KDD時代に培われた外国人との付き合い、スピーディーな行動、幅広く人を知る知恵は、牧師になっても基本スタンスは同じです。 これからも生涯現役で80才を目標に、国際性を持ちつつ、人と関わる仕事を継続していきたいと思います。 東日本大震災で今なお仮設住宅で暮らす人たちの支援や、高齢者の社会福祉法人施設評議員や高齢者へのお話し、認知症サポーター、人生相談など連日舞い込んできますが、「喜ぶ人と共に、悲しむ人と共に寄り添う人生」は、何にも代えがたい価値ある生き方だと思っています。 しかし、忘れてならないことは、好きなようにひたすら走れたのは、妻の理解と協力があったからです。 これからはどちらが先に天に召されるか分かりませんが、妻には感謝をし続けたいと思います。
  70才を機に、改めてKDDという素晴らしい会社で働いたことと皆さんにお世話になったことに感謝します。 一方、当時、会社を突然辞めて挨拶する余裕すらなかった無礼をお許しください。 皆様方の人生が、これからますます喜びと希望に溢れ、充実した日々を送られますようにお祈りしています。


+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+  会員の皆様から一言+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+

古希、おめでとうございます

金坂 祐爾 2014/10/21 09:23:19

>この会社は凄い!-----まさしく同感! 本当にありがたい会社でした。 仕事・待遇・ひと・etc.
>80歳に向けて-----宮仕えから信仰の道への転身。 困窮者への奉仕。誕生日の花言葉の「公平」プラス、トヨさんの場合は「博愛」がぴったり。 トヨさんであればこそ、更に奥様の絶大なる支えがあったればこそ歩めた、そしてこれからも歩む道! 古稀といっても、K-unet会員の年齢構成を見ると互いにまだまだ若輩。 生涯現役。 ますますのご発展を!




 
  

Happy Birthday !

  9月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。 この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。


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    1. 青木 丈夫 さん (9月13日生まれ)

70翁ボランティア奮闘記

 数年前から、地域の小学校のパソコン授業をサポートするボランティア活動に参加している。 ボランティア活動の要請は学校側から来るが、夫々の学校のパソコン教育に対する考え方が一律ではないので、事前に授業の目的や方法について学校側との打ち合わせが必要だ。
 私達ボランティアの原則は、小学校低学年(1~3年)のパソコン授業を円滑にすすめるため教師を補助することにあるが、例外的に教師のパソコン・スキルによっては、更に踏み込んだサポートを頼まれることもある。 ボランティア活動は4人一組で行っている。 各小学校にはパソコン授業の特別教室があって、生徒用の約40台のノートパソコンと、教師用のパソコンとで教室内LANが組まれている。
 当日は8時30分までに登校し、職員室で挨拶してパソコン教室の鍵を受け取る。 先ず、生徒機の点検、先生機と生徒機との間の送受信のチェック及びプロジェクターとの接続を行う。 そうこうするうちに、担任の先生に引率されて子どもたちがやって来て授業の開始となる。 初めてパソコンに触る子供も多いので、マウスの握り方から始めて基本操作の説明を行う。
 授業は予めインストールされているキューブキッズ4(スズキ)やポケモン(PokemonCo.)の教育用ソフトを使う。 これらの教育用ソフトはゲーム仕立てになっているので、こども達は楽しみながらパソコンの基本操作を修得することができる。 授業の最後に、お絵かきソフトや名刺作りソフトで作った作品を印刷すると、受け取った子供たちは大喜びだ。 お絵かきソフトを使って作った作品を掲げる子どもたち作品にはお絵かきソフトのスタンプ機能を使って各人の名前を書くが、子どもたちに「お名前は?」と聞いても、シニアが多いボランティア達にはどんな漢字を書くのか想像できない。
 写真の前列の子が「いぬいあいか」と名前をスタンプした絵を掲げているが、苗字は想像できても「あいか」の方はどんな漢字を充てるのだろうか(聞くところによると、これをキラキラ・ネームと言うらしいが・・)。 授業が終わると、教室に戻って子ども達の給食のお相伴に預かる。 この時どんな話題を持ち出すか苦労するところだが、何の事はない子供たちの方で気を使ってくれる。
 このボランティア活動は、子どもたちに楽しみながらパソコンの基礎を理解してもらうことにある。 一方私達シニアにとっても、若い友人達に元気を頂ける貴重な機会になっている。 しかし、この9月に73才になる爺にとっては、長い時間40人近い子どもたちの相手をするのがだんだんシンドク感じられるようになってきた。 頭の隅には、そろそろ引け時かなという思いもよぎる。 
 私は、川崎創造プロジェクト(KCP)というNPO法人に所属して、ボランティア活動をしている。 学校からの要請はこの団体( http://kawasaki-sozo.net/ )宛に来る。 KCPは色々な事業を展開しているが、私が担当しているのはシニア向けのパソコン教室と小学校のパソコン授業の応援、それにシニア向け講演会の設定である。




    
2. 矢部 靜樹 さん  (9月19日生まれ)

近況と最近のつぶやき

 2年前ひょんなことから、フランスの運河を旅する人々に船を提供するフランスの船会社Canalous社の日本代理店になった。( http://canal.advantis-jp.net )  ヨーロッパには5万キロにも及ぶ水路(運河及び航行可能な河川・湖)があるといわれており、その中心的存在となるフランスの運河網は約9,000Kmにもなる。 10年ほど前からこの運河を水上のコンドミニアムとも言えるボートに乗りフランスの田舎をゆっくりノンビリ旅する運河の旅にはまっている。 今年は偶々、12名のお客様が同時期に集まったので我々夫婦ともども14名で3隻のボートに分乗し、5月下旬、フランス南西部のミディ運河を1週間クルーズした。 17世紀後半に造られたミディ運河はヨーロッパ最古の現役運河であり、ユネスコの世界遺産ともなっているが、4万5千本植えたとされる両岸のプラタナスの並木が作る木陰を時速8km以下の速度で12~13m長のクルーザーを運転し、36個の閘門(ロック)を越え、126Kmを7泊8日でクルーズする。 日本のような船舶操縦免許は不要であり、出港前に受講する30分ほどの運転講習でクルーズ期間中だけ有効な仮免許が交付される。 フランスはもとより、ヨーロッパ、アメリカなど世界中から家族連れや、友人・仲間連れが訪れている。 (クルーズの様子はお客様のHP、http://homepage1.nifty.com/okharry/  をご覧ください)
 KDD時代にチャンスを得、1年ほどパリ大学VIに留学した。 この時、お世話になったのが大学構内やパリ市内何箇所かにある学食であった。 1.5Fr(フラン)でレバーステーキのコースが食べられた。 聞いたとこで はフランス政府が倍の金額を払っており、実際には4.5Fr(1974年当時の換算で350円ほど)の食事であったようだ。 40年近く経った現在でも一宿一飯の恩義は忘れず覚えているようだ。 2年前偶々借りたボートの船会社のディレクターに代理店をやらないかと言われOKと返事をしたのは、この一飯の恩を返せればと思ったのかも知れない。 パリ以外のフランスの地方を旅する運河の旅は、どうも誤解を受けやすい様に思われるフランス人を知ってもらう良いチャンスを提供するのではと考えた。 だから今年になりフランス観光開発機構から御社のホームページをメルマガで紹介したいがとの電話を受けた時はしてやったりと思った。
 若者の海外留学熱が冷めたと言われ久しいが、周りの留学経験者や自身の経験からすると、今はむしろより多く 海外からの留学生を招聘したら良いのではと思う。 知る努力と同じ程度に知ってもらう努力も必要かもしれない。 留学生会館を設置する候補地は広島、長崎、福島、沖縄など多くあるが、中でも県知事でさえ有史以来の立派な内容と驚いた( http://www.j-cast.com/2013/12/26193106.html?p=all )、今後7年間毎年3000億円の振興予算のある沖縄が最適か。 もはやコンクリート造りの町村役場も、舗装が必要な村道も無いだろうから、摩文仁の丘辺りに学園都市を作り、主にベトナム、タイ、カンボジア、フィリピン、マレーシア、インドネシアなど距離的にも近い東南アジアの若者を招聘し、ITでも、アニメでも好きなものを日本、沖縄の若者と一緒に学んでもらう。 もし米国の若者が望むなら彼らも招聘しよう。 日常生活の中で日米地位協定がいかに理不尽か知ってもらう機会が有るだろう。 彼ら留学生が国に戻り親日派になるかはわからないが少なくとも知日派にはなるだろう。 それでも20年後、30年後には集団的自衛権より有効な存在になっているだろう。
 近況と最近のつぶやきでした。 

PS: この文章を書いている最中に、TBSが世界遺産ミディ運河を放映した(8月10日)。
   運河の旅の資料請求のメールが多数寄せられうれしい悲鳴を上げている。



    
3. 矢島 勇夫 さん  (9月29日生まれ)

 趣味雑感ー写真とファイターズ

 今趣味として何に多くの時間を割いているかと考えると写真かと思われる。 月に2回ほど集まり、自分で写した写真を一人4~5枚(A4版)提出し、先生に批評してもらうと同時に、仲間の写真を鑑賞し、参考にしている。 月に2回くらいなら大したことはないと思っていると、これが中々大変で、ストックが忽ちなくなり、手当てに走ることとなる。 年に1回六本木で皆で協力して写真展を催していたが、現在は都合で休んでいる。 最近は撮影に赴くと女性カメラマンが増え、写ガールもしくは写マダムを良く眼にする。写真も近年フイルムからデジタルへと技術革新が進み、コダック、アグファ、コニカとフイルムの分野から消え、カメラ本体でもペンタックス、ミノルタ等は他社に吸収されてしまった。
 もうひとつの趣味であるプロ野球について言えば、小学生の頃から現在の北海道日本ハムファイターズのファンで東急フラーヤーズ、急映、東映等々色々球団名が変わった中、昔の大下、櫟、長持、白木、黒尾といった選手の名前も懐かしい。 日本ハムは、一昨年はリーグ優勝、昨年は最下位、今年は3位(今のところ)と動きは激しいが昨年糸井選手をオリックスへトレードしてしまったのは、何といってももったいなかった。 少々我侭をいっても受け止める度量があっても良かったのにと思わざるを得ない。 稲葉選手がフリーエージェントで米国へ行く夢が破れた際、待っていて受け入れたこともある球団としては、如何なものかと今でも残念でならない。 若手選手の成長が上手くかみ合って、戦績が上がるかどうかファンとして心配でならない。 3位を確保して、クライマックスシリーズに進出することを願って止まない今日この頃である。






 
  

Happy Birthday !

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1. 橳島  明 さん (8月11日生まれ)

 古代ロマンが世界遺産へ

 親しく接して頂いた職場のみなさまに会う機会も減りその思い出を追う日々も増す。 さて、限られたスペースを埋めるとすれば先ずは話題の世界遺産とその古代ロマンに触れさせて頂きたい。
 私の故郷、高崎市吉井町には清流鏑川が流れ、そこにかかる鏑川橋がある。 この橋から眺める妙義山の夕焼けは絶景で、また、この橋の前面に拡がる景色は奈良明日香の地に酷似していると私には思えてならない。 そんなことから、大好きな奈良明日香の地にも何度となく足を運んだ。 藤原京が栄えていた頃、絹の大生産の可能な地を探すことが重要な国策となり、帰化人による技術指導も受けこの辺一帯が選定された歴史があり、絹生産が脈々と育まれてきた。 やがて、1300年余の時を経て、この橋より10数キロ上流の地にあの富岡製糸所が世界遺産として登録された。
 大昔、国命を受けた人々が豊かに暮らした都をしのびつつ、はるばるこの辺境な地にたどり着いた先人達に想いを馳せるのも"自分流ロマンのひとつ"として大切にしています。 
 また、骨董に興味があり、そう金もかけられないが、実家に少々眠っていた素材をベースに、日本刀、薙刀、やりなどと共に刀の鍔、古銭などの収集整理も進めてきま した。 が、少々淋しいのは見てくれる仲間もあまりいないことだ。 
 まあ、冥途に迎へられる頃には伝来の武士道の掛け軸を床の間にかけ、その精神に一歩なりとも近づけることを心がけたいが、当面はチョイ悪老人位で許してもらいたいと思っています。 重ねて、健康趣向のひとつとして同輩たちのお世話になり、江戸情緒を探る旅として数年以上にわたる都内散策が進み、終点品川が見えております。 
 最後になりましたがみなさまのご多幸ご健勝をお祈りしております。



    
2. 前田 昭男 さん (8月19日生まれ)

 人の話を聴くことの大切さ

 退職してから7年程になりますが、自分から話すのは慣れているのに他人の話を聴くのは難しいと、今感じております。 人の話をじっと、あたたかく、無心に、相手が言ったとおりにきく、会社時代ではなかなかできなかったことでした。 「私の話をきいていただいてありがとう、ホッとしました」と笑顔でいわれたお年寄り、「自分のできないことを責めてもダメですよね、責めても先へ進めないもの」と自分を受け入れ始めた自閉スペクトラム症の失職者、そういう方々に接していると、話を聴くことはとても大切だということを実感しています。 話を聴くということは、「その人は大事な人だと思う」「その人自身の成長力を信頼する」ことか、と思っています。
 退職の3年ほど前に「社員力強化本部」でカウンセリングにかかわることになってから、なにか人の相談にのれたら、と思ってカウンセリングの勉強をしていました。 退職後、幸いにも50年以上カウンセリングを実践されている先生にめぐり逢い、カウンセリングを習ってきました。 その間、「人間尊重」「人間の成長力」「自己実現」「傾聴」「The way to do is to be」「無心」「こだわらずに」「あるがままの自分」「誠実」「裏表がない」等々、それらの言葉は私の生きざまを考えるうえでとても魅力的でした。 幸運にも、仲間の紹介で今の心理相談所でカウンセリング業務に携わることができ、こころの悩みをもった人達の相談にのっています。
(NPO法人はぐくみ心理相談所・所属)



    
3. 小川 明義 さん(8月20日生まれ)

 リタイア後に好まれる趣味って何?

○ 多摩版"シルクロード" - 私の散歩道 -
 先々月6月、当時としては世界最大級の規模を誇る器機製糸工場として明治5年に操業を開始した群馬県富岡製糸場と、それを中心とする絹産業遺産群がユネスコ世界文化遺産に登録されました。 広く知られておりますように、明治から昭和初期にかけて生糸は日本からの輸出の主要品目であり国の近代化を大きく支えてきました。 富岡製糸場はその第一立役者ですが、官営の同製糸場よりやや遅れて八王子にも民営ではありますが器機製糸工場が生まれ明治の中頃には全国屈指の大きな工場にまで発展(1)しました。
(注1) 残念なことに、八王子の製糸工場は明治33年の大恐慌の影響を受けて人手に渡ってしまいました。
 もともと八王子は江戸中期頃より生糸の集積と絹産業が盛んな土地柄であり、特に横浜開港以降は近県近郊から八王子に集められた生糸を横浜に輸送して明治・大正期と大いに繁栄したことから、今もって『桑都』の美称を冠されています。 富岡製糸場で生産された生糸は利根川と江戸川の水運を利用して東京や横浜に運ばれたようですが、八王子に集められた生糸は人に背負われ、或いは馬の背に乗せられて陸路横浜まで運ばれました。 その陸路とは八王子から南へ多摩丘陵大塚山を越えて麓の鑓水集落を経て境川(2)沿いに原町田に至り、更に南下して横浜まで続く路程50kmほどの道で、当時は「浜街道」と呼ばれていました。
(注2) 武州と相州の境界を成したことに因んだ古くからの名称で、現在も東京都と神奈川県の県境にほぼ沿って流れて
    います。
 浜街道の八王子寄りの僅かな一部、大塚山山頂近くから鑓水に至る1.5km程の山道は生糸の運搬が隆盛だった当時を懐かしんで、戦後「絹の道」と名付けられました。 この山道は今では綺麗に整備されて良い散歩道(写真1)となっています。 また、大塚山山頂付近には絹の道の碑(写真2)が建っています。
 麓の鑓水地区の商人達は生糸の仲買で幕末から明治中期にかけて大いに財を成し「遣水商人」として名を馳せましたが、その後の鉄道の開通(甲武鉄道〔現JR中央線〕や横浜鉄道〔現JR横浜線〕)により浜街道が衰退すると共に急速に凋落していきました。 鑓水の絹の道沿いには、八王子の絹製糸産業と鑓水商人隆盛の頃の歴史を語る「絹の道資料館」(写真3)が一豪商の広大な屋敷跡地に建てられています。 
 健康維持のため、天気の良い日にはこの絹の道からいま少し足を延ばして往復1時間ほどの散策を良くしますが、春秋気候の良い時には年配の方々のグループが幾つも絹の道コースの散歩を楽しんでいます。 標高200m少々と云えども大塚山は多摩丘陵の中では高い方なので、快晴だと東に視界が開けている登り坂に立って振り返ると肉眼で新宿のビル群、そしてその向こうに(小さく霞む)スカイツリーをも望むことができます。
 健脚向きには、鑓水を過ぎて多摩美大近くの小山内裏公園まで行くと更に東南に向かう多摩丘陵の尾根道、通称「戦車道」が長く続いています。 戦車道、これは戦前の相模陸軍造兵廠(今はアメリカ在日陸軍相模総合補給廠になっています)において建造された戦車の走行性能試験を行った山道で、これまた其処ここに桜並木の残る散歩に最適なところです。
 皆さんも、新緑輝く頃や秋風薫る頃にのんびりとした多摩丘陵の歴史散歩道に是非お出掛けください。

○ リタイア後に好まれる趣味って何? と自身の趣味
 過日、何気なくTVのクイズ番組を観ていたら、「リタイア後に好まれる趣味のランキングは?」との問が出されていました。 多くのリタイア前後の人達から聴取した結果として、1位は旅行で他のランキングは既に記憶に定かではないですが、10位ほどまでには写真、登山、散歩、囲碁・将棋、絵画、パソコン、ゴルフ、料理、ボランティア等が挙がっていました。
 確かに、例えば写真、最近は何処へ行ってもカメラを構えている年配の方、それも女性を多く見掛けます。 また、皆さん随分と高級な一眼レフのカメラばかりお持ちです。 山登り、これも近頃は高齢の愛好家が頗る多いようです。 TVで山のニュースを観ても元気な高齢の山男や山ガールの皆さんが一際目立っています。
 これら年配の方々に写真や山の愛好家が多いのは、世の高齢化が進んだことによる相対的な増加ばかりではなく年配の方々の好む趣味嗜好がより広く深く拡がったことに依ると言えそうです。 上記、他のどの趣味を採っても成程近頃は年配の方々の中で随分と流行っているなあと思えるものばかりです。
 そこで、我が趣味は?と自問してみると、以前は上記項目の幾つかを広く浅く嗜んでいましたが近頃ではその殆どがすっかり後退してしまい、今では誰もが好む旅行の他には高々1000m程度以下の決して高くはない山をトレッキングすることや、近くの自然の中とか時には街中散歩・散策を楽しむ程度のみとなってしまいました。
 でも、ランキング外となると電氣工作とDIYだけは随分古くからの趣味です。 馴染みのない方からは「鉱石って何? ST管って何の事?」と言われそうですが、小学生の頃に小遣いを貯めて買った鉱石ラジオのキット組立に始まり、次いでST管を使っての並3や高一ラジオの制作に嵌り、中学の頃にはゲルマニウムダイオード検波後をトランジスタ1石で低周波増幅するラジオ・・・などなど。 因みに、昭和32年頃、トランジスタ(NEC製のST3A)は1個400円程度で京都寺町通りの小さな電気街でも何とか購入できるようになっていました。
 その後、好きな電氣工作もリタイアするまですっかり中断状態にありましたが、暇の出来た今は再び半田鏝を手にこまごまとした物作りを楽しんでいます。 なので、都内に出向いた折には秋葉原に寄って、何を買うでもなくパーツ屋やジャンク屋を覗いて廻ることも今再び楽しみの一つとなっています。 でも近頃では古くからのジャンク屋等が次々と姿を消して、代わりに秋葉原らしくない店がどんどん増えており淋しい限りです。

○ 遅蒔きの趣味
 もう30年以上も前の事になりますが、私はアメリカのWashington D.C.にあったINTELSAT(国際電気通信衛星機構 : 当時は商用通信衛星を調達・運用する国際機関でしたが、現在は民営化されています)の研究開発部門に3年間在籍しました。
 その時のセクションチーフはフライフィッシングが大好きで、春から秋の釣りの季節にはINTELSATや彼の前職場であるCOMSAT研究所の釣り仲間とキャンプ兼釣りによく出掛けており、私も誘われて何度か同行しました。 行先はペンシルバニア州の中央山間部で、大きな川がゆったりと流れている雄大な自然の中にテントを張りアウトドア生活とフライフィッシング(狙うのは鱒で種類はRainbowやBrown)で過ごす2~3泊の釣行は頗る楽しく、私もそんなアウトドアライフとフィッシングがすっかり好きになりました。
 フライフィッシングは、帰国した直後の国内においては未だ殆ど流行ってはいなかったのですが、1992年にBrad Pitt主演のアメリカ映画 "A river runs through it" が公開されてのち爆発的に広まりました。 勿論、私も映画を観ましたがスクリーンに映し出されるモンタナの広大な自然の中で川面にフライを飛ばす主人公と兄と父親。 寛と流れるペンシルバニアの似たような川辺、夕靄のやや赤みがかった景色に溶け込んでの釣りの思い出は映画の中の幾つものシーンと完全に重なりました。
 現役時代は余り行かなかったフライフィッシングもリタイア後は年に数回奥多摩等へ出かけており、今、遅まきの趣味となっています。 釣果は常に二の次ですが。
 そうそう、近頃、写真も楽しそうだなあと思い始め、コンパクトデジカメではやや物足りないので超遅蒔きスタートになりますが一眼レフのデジカメも買おうかと目下思案中です。

○ 以上、取留めもなく家の近くの散策好適地の紹介を兼ねて趣味の話しにて大変失礼しました。




 
  

Happy Birthday !

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1. 佐賀 健二 さん (7月4日生まれ)

「生涯現役」からの引退と今後の生活

 7月4日に83歳を迎える。 これを機に「生涯現役」からの引退を実現したい。 正確には、8月4日のJICA海外研修での「開発途上国のICT政策担当者」への講義をもって私の国際協力活動を終了することを考えている。
 KDD経営調査部で海外調査活動を本格化し、国際部で国際協力活動を始めて以来、30年を超える国際活動への終止符である。 KDD時代に約10年、亜細亜大学での12年に続いて、NICT(情報通信研究機構)での12年とつづいてきた私の国際協力活動の内容は、電気通信インフラの整備に始まって、時代の変遷とともに大きな変化を遂げてきた。 いまや「SNS」、「クラウドコンピューティング」、「ビッグデータ革命」、「3Dプリンターによる生産プロセスの大変革」など、30年前には想像することもできなかった課題が国際協力活動の中心課題として登場するような時代を迎えようとしている。
 初めは「ボケ防止」などと冗談を言いながら、情報通信技術の進化に挑戦してきたのだが、「老害」をまき散らす前に引退をしようと考えた次第である。 この間、郵政省の国際部、通産省の機械情報産業局、総務省の情報通信国際戦略局、外務省の経済協力局、JICAなどの政府機関、さらには、PECC、APEC、APT、 PTC等の国際機関への政策提言や国際協力活動を行ってきたが、それらの内容については、別の機会に譲りたい。
 さて、これからの生活をどうするのか、ということであるが、「ボケ防止」のためにパソコンいじりを続けながら、健康が許せば、海外旅行、国内旅行、ゴルフとワインとシーフードを楽しむツアーに出かけたいと考えている。 しかし、残された人生は長くないので、子供たちにエンディング・ノートを書き残し、1年・1年を大切に人生のラースト・ステージを楽しみたいと考えているところである。

 皆さん、一緒に残された人生を楽しみましょう!




    
2. 小室 圭五 さん (7月9日生まれ)

実験用静止通信衛星「さくら(CS)」

 私は昭和1960年KDD入社、半年の新入社員研修を終えて、新築の研究所の調査課へ配属になりました。 その後、電子回路課、材料部品研究室と移りましたが、1972年に宇宙開発事業団(NASDA)(現、宇宙航空研究開発機構、JAXA)に出向となりました。 最初に「筑波宇宙センター計画」、次に「NASDA追跡管制計画」の作成とその実施に従事して二年余が経ち計画も順調に進展していました。 これでKDDへ復帰だと思っていましたが、国産初の通信衛星開発に残って欲しいとの強い要望で残留し1974年に「人工衛星開発グループ」に移りました。
 この開発グループには、気象衛星、放送衛星、通信衛星の三つの開発準備室があり、郵政省の電波研究所からの出向者を核に、気象庁、NHK、NTTからの要員がそれぞれの衛星チームに配置されました。 ここにKDDから、私が通信衛星グループに、そして放送衛星グループに久保勝一さんが加わったのです。
 国の「宇宙開発計画」では、これら三つの衛星は、いずれもそのサイズから純国産とは行かず、また打ち上げも国産ロケットの能力不足から米国によることとなっていました。
 通信衛星は、日本電気・米ヒューズ社という予想に反して、三菱電機・米フィルコフォード社に発注されました。 ただし、通信機器の一部はNTT通研の設計、NECの開発・製造とし、米国へ輸送して取り付けることとなりました。 通信衛星は、その主目的の通信系機器、アンテナと、これをサポートする機器で構成されます。 私はこのサポート機器を担当しました。 ちょっと技術的な話になりますが、テレメトリ・コマンド、衛星の姿勢・軌道上位置の制御、アンテナ指向方向の制御、電源、構体等々と多岐にわたるものです。
 人工衛星の開発には、設計、審査、製作、試験が幾つもの段階で行われます。 それらの殆どが米国で実施されたので、年に数回メーカーの人と外国出張をしていました。 当時はまだ海外渡航が珍しい時代で、最初の出張の時には、羽田まで皆の家族が見送りに来たほどです。
 それからの数多くの経験は割愛しますが、日米協力の通信衛星「さくら(CS)」は、1977年12月にケネディ宇宙センターから成功裡に打ち上げられました。 私はその前の4月にKDDへ帰ったので、仲間からは「敵前逃亡」とからかわれたものです。 でも3月に、打上センターでの最終審査に参加して全ての段取りを終えてありましたので、責任は十分果たしたと自負しています。
 実験用静止通信衛星「さくら(CS)」は、各種の実験による成果をあげ、それに続くNTTの通信衛星CS2号、CS3号へと花開いて行きました。



    
3. 小田 洋之 さん (7月18日生まれ)

 私の趣味

 日本ではボウリングと言えば10本のピンを倒すあのボウリングがイメージされるのではないでしょうか。 ところがオーストラリアやNZではローンボウルズを意味します。 ボウルズは13世紀イギリスの発祥でその後スポーツとして体系化され、いま世界では200万人以上の愛好者がいるのです。
 私はシドニーに住んでいた或る日、オージーの友人に誘われ地区の大会を観戦したのがボウルズとの出会いでした。 競技は芝生のコート(グリーンと呼ぶ)上で目標球のジャックに向かって偏心球のボウルを転がし、対戦相手とその距離を競い合います。
 初めはただボウルを転がすだけと思ったのが、実際は芝目を読み風向きやボウルの曲がる角度と強弱を頭におき、集中力、持続力、技術力に加えて戦略や駆け引きなどが要求され大変奥深いものがあり、たちまち引き込まれ、はまってしまいました。 この競技の特徴は年齢や性別に関係なく幅広い年代層で障がい者を含め、同じルールで競技を行うことのできる他に例をみない生涯スポーツであると言う事です。 ボウルズは単に勝敗を競うだけでなくゲームの楽しみ、人に会う楽しみ、ゲームの後でビールや食事をする楽しみなど社交の場でもあります。
 日本に帰国後も本場で培った経験を生かし、普及活動を行う一方で福祉施設において利用者を対象にボウルズのボランティア活動を行っております。 日本国内ではボウルズ施設の環境が整っていないためマイナースポーツに甘んじていることが残念です。
 嘗て国際大会をはじめ各種大会に日本選手団の一員として出場する機会を得たお蔭で、喜寿を迎えた今なお共通の趣味を持つ国内外の仲間とボウルズを通じ交流を続けています。
 過ぎし日の想い出に浸ることなく、きのうより今日、今日より明日を有意義に過ごす努力を続けたいと願う今日この頃です。

 追記: 過日、ローンボウルズの海外取材があり、日本テレの番組で放映されました。
    http://www.ntv.co.jp/cork/intro/index.html 
 番組: 「コルクを抜く瞬間」click → バックナンバーclick → #6clickで映像が出ます。




 
  

Happy Birthday !

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1. 北田 聖明 さん (6月1日生まれ)

 健康と趣味 ― 少しでも皆さんのお役にたてる日々を ―

 定年後早いもので20年が経ちました。 誠に幸いなことに、家内共々元気にそして充実した毎日を過ごさせてもらっています。 このような現在を迎える事が出来たのも、健康のこと、生きがいのこと、そして年金など極めて恵まれた状況にあったためと感謝しつつ、少しでも皆さんの参考になればと思い近況を振り返ってみました。

☆ 健康について ☆
40歳のころ十二指腸潰瘍を患い手術を受けたのですが、運悪く執刀医が下手で術後の経過が悪く、このままでは余命10年と宣告されました。 そして再手術、幸い今度は上手いドクターで、人並みの生活が出来るようになりました。 そして10年前血圧の管理をしてもらっているホームドクターに、運動不足を指摘され歩くことを進められました。 それがきっかけで、今日まで「ウオーキング」を続けています。
 自宅から15分の所に「服部緑地」という恰好の公園があり(面積・甲子園球場33個分)利用させてもらっています。 ただし最初の頃は、ただ漫然と散歩していたのですが、ある時、これだけでは勿体ないと気が付き、8キロ90分をもっと有効に使うべく、文献などを参考にしながら、「有酸素運動・副交感神経をより働かす・腕の運動・掌のグーパー」などをやっています。 
 時間帯は朝食後ですが、専門家によりますと、夕食後が生理的に良いと言っています。 そこで夕食後も何回か歩いてみましたが、これは不採用でした。 自然に触れ合い移ろいを感じながら行動するのが一番だと思うのですが、夜の暗闇の中ではそれが出来ません。 同じ理由で友達も出来ません。 そして我々高齢者にとって一番の問題は危険が潜んでいるということです。 明るい所でも、ともすれば躓いたりすることがある年頃ですが、暗い所ではその危険性は更に大きくなりますし、もし万が一倒れたりしたら、発見が遅れて取り返しがつかないことも容易に想定されます(夜の散歩でのメリットはゴミが目につかないくらいかな)。 この「ウオーキング」を活用出来ているので、毎日が元気に過ごせているのだと確信しています。
(参考文献)
  「なぜ、これは健康にいいのか?」  小林弘幸 著  サンマーク出版
  「60歳からはじめる認知症にならない脳にいいこと」 周東寛 著 日経印刷
  「やめてみるだけで病気は自分で治せる」 安保徹 著 永岡書店
  「生き方上手」 日野原重明 著 ユーリーグ株
  「歩く人はなぜ脳年齢がわかいか」 大島清 著 新講社

☆趣味について☆
 60年来付き合っている趣味に「音楽鑑賞と囲碁」があります。 音楽は自分だけの世界ですからさておいて、囲碁についてお話したいと思います。 囲碁は勝敗を競うゲームですが、それだけではありません。 囲碁は昔から別の呼び名を「手談」とも呼ばれ、ゲームを通じて対戦相手と「お話」をする、またお付き合いをするものとも、言われています。
 さて、60年付き合ってきたおかげで、それなりに力も付き、先般日本棋院から「普及指導員」に認定していただきました。 自分が楽しむだけでなく、それを生かしながら、普及活動にも力を入れ、少しでもお返しをしたいものと日頃心掛けています。 以前、高校の囲碁部のお手伝いをさせてもらったこともあります(部活休止中)。 またプロのお手伝いでインストラクターとして、初級・中級クラスの指導もやっています。 勿論いろいろなグループ(KDDのOB会も)での楽しい交流含めて。 
 このように月の内半部以上を囲碁三昧で、多数の方々と交流を深めた充実した日々を過ごさせてもらっています。 囲碁に親しんでおられる方は勿論益々楽しんで頂きたいと思いますし、もし今からでもとお考えの方がいらっしゃいましたら、ぜひ一声お掛けください。

☆ 終わりに☆
 これからお迎えが来るまで、元気で楽しく、そして少しでも皆さんのお役に立てる日々でありますように思っています。 こんな自分勝手な亭主を許してくれる家内に感謝しつつ。



    
2. 堀 正夫 さん (6月15日生まれ)

 近 況

 私は、岡山県の山村に生まれ、昭和39年4月KDDに入社、早期退職制度を活用して退職しました。 その後、ベルシステム24(株)で約4年間働き、60歳で最終的に退職しました。 退職を迎えるに当たり、この当時 男性の平均寿命は78歳程度だったと記憶していますが、約20年の余生が有りますので、この間の生き方によっては更に充実した人生が送れると考え、今後行っていく趣味は何が良いか少し考えました。 これまで、スポーツ(テニス)を中心に活動してきましたので、静かな趣味を選択する事とし、近くにありましたNHK趣味講座(ピアノ教室)に通う事としました。 と同時に、退職者支援雇用促進制度の介護研修で障がい者、特にろうあ者の生活を知り、関係を持ちたいと思い『手話』の勉強も始める事としました。 以後、9年に成ろうとしていますが、『継続は力なり』を頼りに続けています。
 ピアノは、過去全く経験のない分野でしたが、練習により少しずつ上達しており、ピアノを趣味として選択した事に満足しています。 現在、暗譜して演奏できる曲は、ベートーベンの月光(第一楽章のみ)ですが、第二楽章、第三楽章を演奏できる様にしたいと思っています。
 手話は、手話講座を約一年間受講した後手話サークルに通い、ろうあ者の方々と話し合いゲームをしたりして楽しく続けています。 手話表現は、世界でも日本でも地域でも個人でも違いがあり、手話表現も難しいのですが、それ以上にろうあ者の手話を読み取る事はもっと大変な事です。 ろうあ者と一対一で会話を続け、ろうあ者の癖を理解し、一歩一歩上達していく以外に方法はありません。 勿論、テニスは、KDD・OBの方々と年一回の全国交流会、関西地域では一般の方を交えKDD・OBの方との交流会等、動ける範囲内で無理をせず楽しんでいます。 『健康が一番』ですので、お酒を飲みすぎず、適度な運動を行い、適当に外出し、おしゃべりをする事に努めています。





    
3. 衣畑 晃治 さん (6月24日生まれ)

 近 況

 皆様ご無沙汰しています。 若葉の季節、乾いた風が心地よい日が続きますが、梅雨もすぐそこに。 KDDを退職以来はや17年、大過なく過ごしていますが、それにしても時間の過ぎるのが早いこと。 いささかあせっています。
 5月19日から6月初めまで、ドイツ、イギリスを旅行、KDDやINTELSAT時代の友人を訪ねます。 機会があれば、旅の中の体験を投稿出来ればと考えています。
 写真は去年我家に来た愛犬チェロを描いた私の油絵。







◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ 会員の皆さんから一言 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇


来山 征士 >> 衣畑さん、グループ展等で作品をみせてもらっています。
2014/06/07 23:35:43



    
4. 松本 潤 さん (6月29日生まれ)

 5年間を振り返って

 退職してから最初の節目となる5年間が過ぎてしまいました。 瞬く間の出来事でした。 最初の2年間はNICT(独立行政法人情報通信研究機構)の特別招聘専門員としてネットワーク型音声翻訳システム標準化の仕事をお手伝いしました。 ITU-T 会合出席のため、約20年ぶりにジュネーブを訪問しました。 ジュネーブの空気は昔の儘で懐かしい限りでしたが、ITU-Tの方は、当時のサロン的な雰囲気は消え、さすがに審議の スピード感が増しているように感じました。 何よりも驚いたのが、出席者の様変わりでした。 NTTはまだそれなりに頑張っているようでしたが、当時のAT&T、BTと言った欧米の通信キャリヤは全く存在感がなく、フアウェイやZTE等からの中国勢が闊歩していました。 時代の流れを強く実感しました。 NICTの担当者は、とても優秀なリケジョのはしりのような方で、その大活躍もあって、信じられないことに、たったの2年間で標準化を達成してしまいました。 その働きぶりが高く評価されて、日本ITU協会から国際協力賞が授与されました。 恥ずかしながら、私もそのご相伴にあずかる結果となりました。
 私は、長い間人知れず、楽譜が読めなくて楽器も何一つ演奏できないことに強いコンプレックスを抱いていました。 そこで時間もできたことだし、この際と思い、一念発起して、クラシック・ギターを始めました。 ギターを選んだのは、ただ最も簡単そうだと思ったからでしたが、結果としては、無謀なチャレンジであったことを思い知らされています。 ギターの演奏は、要は、五線譜をドレミに翻訳し、それをさらに弦を抑える左指の動きと、弦を弾く右指の動きに展開すれば良いわけですが、曲の速度に、脳・神経系の情報処理速度がなかなか追いつきません。 ギターは弦から左指を離してしまうと音が消えてしまいますから、一つの音符から次に進むときには、ぎりぎりまで左指は弦から離さずにいて、瞬時に左指の抑える弦を切り替え、それと同期をとって右指で弦を弾く必要があります。 これがなかなか上手くできなくて、どうしてもスタッカート奏法になってしまいます。 ギターを始めてから約3年が経ちますが、遅々として、上達しません。 この歳で、上手くなる野心もなく、脳トレとボケ防止にでもなれば満足ですから、練習方法だけは分かりましたので、ひとまずは音楽教室の方はお休みして、今後はのんびりと独学を楽しんで行こうと考えています。
 こんな調子で、最初の5年は終わってしまいました。 目下、次の5年後に向けて、新たな目標を設定すべく考慮中です。

◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ 会員の皆さんから一言 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇


来山 征士 >> 松本さん、KDD, KDDI, NICT でのご活躍ご苦労様です。
2014/06/07 23:32:47





 
  

Happy Birthday !

  5月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。 この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。


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1. 山本 英雄 さん (5月9日生れ)

JAL 747の最初のフライト搭乗と初めての外国出張

 この3月末で日本ではジャンボジェット747の飛行が終了したとのニュ-スを聞き、その最初のフライトに乗ったことが思い出されました。 それは1970年7月1日午前11時30分ホノルル発の羽田行きです。 搭乗した時、機内の広大さと快適さに感激し、科学技術の将来に大きな確信を感じたものです。 しかし747がそれ以後40年以上も働き続けるとは当時は想いもしませんでした。 この時の米国出張が私の最初の海外経験でこれまでの人生で最も感激多く楽しかった出来事の1つです。
 私は1965年にKDD入社、研究所情報処理課に配属になりました。 直接の上司が当時主任であった井上誠一さんでした。 衛星通信の仕事がしたくてKDDを希望したのですが、当時の新川研究所長かあるいは大島研究部長だったか、村谷拓郎さんをはじめ衛星通信のための人材は十分足りているので 君はコンピュ-タをやれと、井上さんの配下に付けられた訳です。 具体的には、研究所で開発したリアクトロン素子による大型(当時としては)コンピュ-タ KR-2を使って当時の基幹業務であった国際電報の中継・交換作業を自動化することでした。 井上さんはこのKR-2の論理設計に中心的な役割を果たされたようです。 その井上さんの指導下、システム制御ソフト開発担当として清水宏さん、それに新入社員の私と森弘道さんの3人が集められました。 私自身はリアルタイムモニタの開発を担当しました。 それまでKDDにおける唯一のコンピュ-タ利用は茨城衛星通信実験所でのアンテナの衛星追尾でしたから、基幹業務へのコンピュ-タ採用はこれが最初です。 2年ほどでこの仕事を完成させて、その後この成果がTASの商用化に引き継がれました。
 それから2-3年は割合自由な時間が与えられて、渡辺昭治さんの指導で高信頼化技術の研究を始めました。 ある時自らAlternating Logic と名づけた計算機回路を思いつきました。 おおざっぱに言うとこれは時間的な2重系で、回路に故障が発生した場合に自律的に故障表示信号を発生できるものです。 思いついた時はこれはやったぞと大いに興奮しました。 アイデアをまとめてゆくと、渡辺さんからIEEEの国際コンピュ-タ会議に出してみるよう激励されて、論文投稿したところ採択されたのです。 このおかげで初めての外国出張の機会に恵まれることになりました。 井上さん、渡辺さんに相談し4週間の調査計画を作り以下のような日程を組みました:
表1 米国出張日程-1970年














 今から思うとよく段取りをつけたものです。 RCAだけはKDDのつてでしたが 多くは論文で名前をみただけの方に手紙を書いて訪問許可をもらいました。 なお、出張のほとんどの期間を、同じIEEE会議で高密度磁気メモリに関する論文発表を行った天野橘太郎さんとご一緒しています。 またワシントンでは別の国際会議に参加されていた(?)深田康夫さんと一緒になり経費節減のため天野さんと3人でホテルの1部屋で泊まったことがあります。
 6月11日のIBM研究センタ訪問は 論文発表のセッション座長であったIBMシステム開発部のR. J. Preiss氏からの、セッションのリハ-サルをするので事前に来てほしいという指示によるものでした。 このセッションでは計算機回路の故障診断技術に関連する6件の発表があり、そのうち4件は米国人の発表、残り2件の一つが私で、もう一人がインド人のSarni氏でした。 この外国人2人が発表練習に呼ばれたというわけです。 Sarni氏のインド英語は私にはとんでもない発音のように思え、自分の方がはるかにましだと感じたのですが、彼のスピ-チは問題ないと1回の練習でOKが出ました。 ところが私の方は、研究所の英会話クラブの米国人講師に発音チェックしてもらい、数十回の練習も行いかなり自信を持っていたのですが、2回発表を繰り返してもOKがでません。 特に論文に頻繁に出てくる "circuit" の発音が聞き取れないと指摘されました。 何回言い直してもダメで、最後にPreiss氏からSarni氏の発音"シルキット"をまねてみろと言われてしまいました。 Sarni氏の練習中に"シルキット"は何度も耳にしましたがそれがcircuitであることには全く気が付かなかったですね。 "シルキット"と発音するとそれなら分かると言われ、その発音で3回目の練習をしてなんとかOKがでました。
 最後に訪ねたハワイ大学には天野さんと親しかった大阪大学の嵩忠雄教授(符号理論と形式言語理論の権威)が客員教授として滞在されていて、先生の紹介でアロハ計画で有名だったAbramson教授と誤り訂正符号の権威Peterson教授を訪ねました(写真右:ハワイ大学 Abramson, Peterson, 嵩 各教授)。 アロハ計画の印象がいまでも強く残っています。 これはハワイ州の島々を中央制御なしで結ぶ無線ネットワ-クを開発するものでランダムアクセス方式と呼んでいました。  数年後これがRAND CorporationでLANのイーサネットの通信方式として実用化されて現在まで続いています。 Peterson教授からはハワイ大学の計算機センタ-の機能・設備の紹介を受けたようですが、覚えているのはサ-フィンのレッスンです。 サ-フィンが好きでMITからそれが自由にできるハワイ大学に移ったのだと聞いています。 研究室訪問の後 Peterson先生のじきじきの指導で午後2-3時間ワイキキ近辺の浜辺でサ-フィンを習い、小さい波の上ですが立ち上がれるようになりました。 サ-フィンはこれが唯一の経験です。
 出張中、一晩、天野さんと一緒に大山さんのお宅に夕食に呼ばれましたが、その時には元社長の増田さんとご一緒しました(写真左:大山さん宅 増田さん 天野さん)。 当時は外貨持ち出し制限があり、現金に乏しく事務所で食事に招かれることは本当にありがたかった。
 さて出張の後半どこかでJALが7月1日に747の最初の便をホノルルから開始するというニュ-スを目にしました。 当初予定の帰国便は6月30日ホノルル発でしたが、滞在1日延期の用件を急遽つくって、研究所に連絡を取りなんとか承認してもらい、ホノルル発7月1日、羽田着7月2日としたわけであります。
 最後にお土産の話、私も定番のウィスキ-2本とハーフボトルのナポレオン2本など用意しましたが、そのほか15ドルで8mmフィルム一巻を入手、羽田到着時この持ち込みに一苦労ありました。 背広の下、ズボンベルトの背中側に挟んで歩いていましたが 入国審査口近くでベルトから外れズボンの中にずり落ちました。 あわてて近くのトイレに駆け込みベルトを締めなおしてなんとか無事持ち帰ることができました。 この評判は良かったですね。 しばらく研究所や本社の所々を巡り、やがて主管庁方面へ移動したようだという噂を聞きましたが、その後行方不明になったままです。
 ところで、Alternating Logicについてですが、論文の採否審査中に同じようなアイデアが米国でその十年ほど前に提案されていたこと また後日、日本でもパラメトロンの発明者後藤英一さんによる同様の提案があることが判明しました。 とは言え私自身のアイデアにもオリジナリティがあることが認められて発表論文に採択されたようです。 しばらくこの研究を続けていましたが、そのうちこれには発展に限界がありKDDには役立ちそうにないと私自身で見切りをつけ、まもなくデジタル映像通信技術の研究に転向しました。 しかしAlternating Logicにより、初めての海外旅行の機会に恵まれ、さらに後日この論文を基に工学博士の学位を得ることができたことで個人的には大きな成果になりました。 

以上    

◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ 会員の皆さんから一言 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇


大橋 正良 >> Abramsonの情報理論の教科書は名著ですね。 今でも情報理論の授業スライド作成に参照しています。大橋
2014/05/02 10:22:53

鎌田 光恵 >> 日本人の私達にとってインドやシンガポールから来られた方々の英語は奇妙に聞えるのですがネイティブにとってはどういうわけか日本人のそれよりスムースに理解されるのがいつも不思議でした。 山本さんの国際学会デビューの苦労話面白く読ませていただきました。
2014/05/06 16:25:52

小川 明 >> 山本さんは、上記初海外出張の人生への大きなな影響を書いておられますが、全く同感です。私も1969年にコロラド大学で開かれた国際会議ICCでの発表のため太田忠一さんと初の海外出張をさせてもらい、約2週間アメリカの各所を訪問しました。 そのとき得た様々な経験は、自分の人生に大きな影響を与えてくれたと思っています。 若い人たちにこの様な経験をしてもらいたいと大学勤務になってから、自分の研究室の学生たちに海外での研究発表を勧め、それと同時に学会発表の後、2週間程度の旅行をしてもよいことにしました。 このような経験をした学生は、100人近くになりましたが、一様にその時得た経験の何物にも代え難い印象深さを感じているようです。
2014/05/25 11:42:36



    
2. 齊藤 秀樹 さん ( 5月21日生まれ)

私の里山活動(近況報告に代えて)

 青森県下北生まれの北海道育ちで小さい頃から自然好きであったが、在職時は時間や心の余裕が無く特に後半はそうであった。 退職後、トトロの森や多摩湖・狭山湖のある狭山丘陵の尾根道を散策していたとある日、「雑木林マイスター講座」開催ポスターが目に入り、雑木林の響きに田舎育ちのDNAが共鳴即受講、翌年の平成20年から、家から車で20分程の都立野山北・六道山公園(注1)のボランティアとして活動を始めました。 
 本公園は都立公園で一番広大な公園で、ボランティアは約370名、里山の美しい景観・豊かな環境・文化を次代に残すため、活動分野は田んぼ、雑木林、湿地ビオトープ、生き物調査、野の花保護と伝統食保存と多岐に亘っています。 活動を進めて行くうちに自然を系統的にもっと知りたいと思い、森林インストラクター資格試験に挑戦、平成22年に取得(登録番号3257号)、現在森林インストラクター東京会(FIT)(注2)に所属、森林・里山・雑木林の保全活動(伐倒、下草刈、林床整理等)や高尾山での親子自然観察会などのお手伝いをしています。 
 都立公園では世話役として、ガタの出始めた心身の健康のため週2回の定例活動と春・秋祭り、収穫祭等のイベント、講座のサポートをやっています。 「春山笑う、夏山滴る、秋山粧う、冬山眠る」という表現にあるように里山には四季折々の風情があります。 どうぞ皆様近くへお越しの際は足をお運び下さい(平素のご無沙汰をお詫びしご報告まで)。 
  注1: 野山北・六道山公園HP    http://www.sayamaparks.com/noyama 
  注2: 森林インストラクター東京会(FIT)HP   http://forest-tokyo.org/index.html 

◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ 会員の皆さんから一言 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇


小川 明 >> 齊藤さんはスキーがすごく上手でした。そのこととインテルサットの研究契約で一緒に仕事をした時のことを思い出しました。
2014/05/25 11:55:10



    
3. 金澤 徹郎 さん (5月27日生まれ)

 近 況

 60歳の定年後、自然の美しさと健康的なスポーツに魅せられ、中高年スキークラブで楽しんでいます。ウインタースポーツのスピードスケートを経験していることからか、スキー滑走に慣れることも比較的容易でした。雪の上をスケートに乗っている感じで滑る体感です。
 スキーシーズンには、4~5回位、上信越、東北、及び北海道などで、講師の指導を受けながらスキーを行い、中高年の交流を図っています。スキー道具もゴルフと同じで進化されており、スキー板に体重を乗せるだけで曲がってくれます。私は、今月で喜寿ですが、年々上達するので楽しくてしょうがない。何歳になっても向上心は大切にしております。
 一方、山の頂にリフトで気軽に登れ、時には山頂から360度の美しい景色とすがすがしい空気に感動する。また、疲れた身体を癒す温泉も素晴らしい。
 そして、出会いも良い。野沢温泉で「元KDDオリンピック選手・川端絵美さん」に会い、私がスキーをやっていることにびっくりしておりました。また、富良野スキー場で「元オリンピック選手・木村公宣さん」、札幌テイネスキー場で「80歳でエベレスト登山の三浦雄一郎さん」に会い、一緒にスキーを楽しみました。
 若者より体力の衰えを感じる私ども中高年は、「無理しない、頑張らない、競い合わない」を基本とし、目標は素敵な仲間と生涯スキーを楽しむことです。



    
4. 大橋 正良 さん (5月30日生まれ)

福岡に移り住んで

 先日KDDI研究所新旧懇話会の場で佐藤敏雄さんよりお誘いを受けてk-unet会に入会しました、S58年入社の大橋正良です。 2013年4月にKDDIを退職し、福岡大学に参りました。 最後の5年は出向し、「京都けいはんな」にあるATRでメディア情報科学研究所所長を3年、適応コミュニケーション研究所長を1年半勤めました。以下近況を報告します。  
1.大学生活
大学教員というのはもっと暇かと思ってましたが、思ったより忙しいものです。 私立大学故、教える人数も多く、昨年度は前期2コマ+後期は4コマ&実験&3年生への卒論準備指導で、授業を準備してスライド作るだけで一週間があっという間に過ぎてゆきました。 本年度は少し落ち着くかとも思っているものの、卒論指導は始まる上に、学外委員なども入り、なかなか思うようには時間を与えてくれません。 昨年度は静岡大学と東京大学空間情報科学研究センターの客員教授も務め、境界領域で普段話できない方々とも議論する機会を得ました。 
2.福岡での暮らし
福岡は生まれて初めてきましたが、とても住みやすいです。 食べ物、特に魚が安く美味しく、魚以外にも肉野菜も豊富です。 毎日糠床で漬物を作り、長崎のいりこで味噌汁を入れ、自炊を楽しんでいます。 福岡にはKDDIのOBの方も何名もおられます。 研究所におられた遠藤俊明さんは、今唐津の家業を継がれ、福岡にお住まいです。 また早稲田に移られた宇高さんも最近唐津にある早稲田佐賀中学校・高等学校の校長先生に兼任で着任され、しばしば来福されます。 九州総支社長の澤田さんも含め定期的に楽しく会食をしています。  
3.趣味
ATR時代には週末京都の山を良く歩き回っていました。 また鯖街道の終点である出町に住んでいたことから、夏になるとロードレーサで、鯖街道を、起点の若狭小浜まで走って海水浴したり、春秋には琵琶湖をぐるりと一周したりしていました。 90年代後半にNYに出張した際、セントラルパークで楽しそうに多くの人が滑っているのを見て、思わずインラインスケートを衝動買いして始め、それ以来15年ほど機会あるごとに滑り続けています。 今も福岡では大濠公園で夕方気分転換に滑ってます。 
 福岡に来てから何をしようかと思っていたところ、たまたまエントリーした京都マラソンに当選してしまいました。 フルマラソンは未だ走ったことなく、これはえらいことだと靴・ウェアを新調し、この数か月暇があればジョギングを続けました。 おかげで2月の本番では5時間を切って完走できました。 大谷大学の池田先生が応援に来てくださり、写真を撮っていただきました(写真1)。 
4.PC
k-unetということでPCの話題も触れます。 近年、GPGPUを搭載したグラフィックボードが充実し、飛躍的に向上した処理能力を駆使して、昔ならできなかったCGが個人でも楽しめるようになってきました。 先日、思い切ってGeforce GTX780Tiを購入し、32GBのメモリを積んだPCを組みました。 極めてリアリスティックなCGが作れます。 数年前ならできかった、いまどきならではの趣味ではないかと思います。 図1は日本庭園のキットを購入して、自分で構図や光を作ってレンダリングした例です。 




◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ 会員の皆さんから一言 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇

山本 英雄 >> 大学教授は忙しいですね。 私も経験しました。 なにもかも一人でしなければいけない。 健闘ください。 山本
2014/05/08 17:17:32






 
  

Happy Birthday !

  4月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。 この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。


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1. 池田 佳和 さん (4月1日生まれ)

 京都を楽しむ

 2000年6月にKDDを離れてから、もう14年も経過しました。 その後、ADSLベンチャー企業「アッカネットワークス」に3年、東京工業大学に教員として4年、国立情報学研究所に1年勤務して、2008年4月から京都にある大谷大学文学部に転職しました。 今は神社仏閣の四季や和食の食べあるきを楽しんでいます。
 KDD出身教員の方々はほぼ理工系大学に転職されていますが、私の場合は人文系大学で情報学を教えています。 勉強することがあまり得意ではない学生も多い大学ですが、これからは情報通信技術(ICT)を身につけて社会で活躍してほしいと思い、授業をしています。 ゼミでは3年生と4年生の各々十数人を受け持って(文系なので人数が多い)、ICT応用の調査研究をさせ、卒業論文を書かせています。 この3月にはゼミから12人を卒業させたばかりです。
 ITU-Tが主催する「カレイドスコープ学術会議」の組織委員を仰せつかったので、ジュネーブ(スイス)、マル・デル・プラタ(アルゼンチン)、ケープタウン(南アフリカ)、京都で開催された学会にセッション議長で参加しました。 大学で担当しているのは学部教育ですから、夏季休暇などもゆっくり取れるので夏は八ヶ岳山麓にある山荘にて、素朴なソバを食べ友人たちと山歩きやBBQをしています。          http://www.otani.ac.jp/nyushi/article2013_05.html

 KDD在職時に誘っていただいて始めた水彩スケッチと油彩絵画も、ほそぼそと続けており日本ITU協会月刊機関誌の表紙絵を描かせてもらっています。
 いま大学で若い学生に知識や経験を伝える仕事を通じて社会に貢献できることは、KDDにて国際通信システムの研究と商用化に従事できたお陰です。 また標準化活動や外国キャリアとの交渉を通じて諸外国の文化や生活を体験する機会があり、現代の若い人たちの内向き志向を少しでも変えさせたいと思う原動力になっています。 ICTベンチャー企業で競合会社との軋轢や、米国式経営マネジメントに翻弄されたことも、授業の大切なネタになっています。
  備考:学生たちにも読んでもらうためにブログをほぼ毎日書いています。そのリンクを参考までに書いてお
     きます:  http://blog.goo.ne.jp/geneve1992



    
2. 横山 幹雄 さん (4月2日生まれ)

 デジタル化余話

 平成14年に早期退職し、IT関連の技術コンサルティング会社の設立に参画して、仕事上もっぱらパソコンと向き合ってきました。 振り返ってみると、この10年余りのパソコンの進化は驚異的というほかはありません。 ヤフオクで買い集めたIBMの(当時は垂涎の)ハイエンドモデルが埃をかぶって積みあがっています。 かたや我が愛車は12年落ちでも元気いっぱいで、古さを感じさせないのは何とも対照的です。
 最近目を見張るのはスマホです。 ネットワークの高速化も手伝って、向かうところ敵なし。 小生は不本意ながら半島の某国製ファブレット(大画面スマホ)の虜になっています。 そんな中で趣味の世界にまだ残っている「アナログ」なものを何とかしたいという話です。
 古書、フィルム写真、レコード盤などのデジタル化は、どなたも関心のある話題ではないかと思います。 かなり前ですが、藤沢周平の文庫本を探して都内のブックオフを渡り歩いたことがあります。 1年ほどかけて買い集めた藤沢は、およそ70冊になります。 最近は人気作家も電子書籍化に前向きになっており、浅田次郎や池井戸潤など(なぜか直木賞作家ばかりですが)電子書籍で読んでいます。 電子書籍は文字の大きさが変えられるので助かります。 最近は目の衰えもあって、文庫本の文字がこんなに小さかったかと驚くほどで、藤沢を読み返すのが苦痛になっていたところです。 紙の書籍の電子化には自炊という方法もあるようですが、幸いなことに、最近ようやく藤沢作品も電子化されました。 早速、読み返したい作品からダウンロードしているところです。 件の70冊は自炊されることなく本棚に眠っています。
 電子書籍としてはスマホやタブレットは機能が高く、雑誌にも対応できるメリットはあるのですが、目に優しい電子ペーパーをもっぱら愛用しています。 次は、フィルム写真のデジタル化です。 デジカメ以前に趣味で撮った膨大なフィルムを長期保存したいというのが動機です。 スキャナーを使って、退色補正が必要になるかもしれない気の遠くなる作業ですが、デジタル化後の記録メディアが壁になりました。 作業は何年も前に頓挫したままです。 長期保存となるとDVD、BDはまずNG です。 HDDや半導体メモリーにしても何十年か後に読み出せる保証はありません。 定期的に新しいメディアに書き換えていくのが唯一の方法かもしれませんが、そこまでやるかということです。 ということで残念ながらフィルムに関してはそのまま保存するのが無難というのが今のところの結論です。 最後はLPレコードのデジタル音源化です。 ターンテーブルなどは大昔に処分してしまったので、業者を探すことにしました。 ネットで調べたところ、いくつか見つかりました。 そこで初めて知ったのですが、針で摩耗した部分を避けて溝の奥からレーザー光で再生する方法もあるようです。 これはさすがに値が張ります。 クラシックのビンテージ盤ならこれもありでしょう。 たまたま近くのマンションの一室で商売する業者を見つけ、普通の方法でCDに焼いてもらいました。  LPレコードの落札とデジタル音源化でかなりの出費になりましたが、無事にファブレットに収めることができました。
 ここからは演歌ファンの余談になります。 YouTubeで、たまたま聴いた知らない演歌歌手の上手さに惹かれてしまったのが事の発端です。ネットの情報によれば、演歌の大御所にスカウトされて弟子入りし、17歳で華々しくデビュー、当時はかなり注目された天才少女だったとか。 早速ヤフオクで掘り出したのが1984年発売の件のLPレコードで、デビューしたばかりの初々しい歌声です。 不運なことに女盛りの30歳過ぎに声が出なくなる病気を患って休業し、10年以上も「焦らず、諦めず」(本人のモットーのようです)リハビリに耐え、数年前に奇跡的に復帰しました。 さらに余談ですが、本人のブログによれば、なんと70台でラウンドする腕前というおまけ付き。 足を痛めてゴルフから遠ざかること4年、リハビリ中の小生にはなんとも刺激的です。 




    
3. 川角 靖彦 さん (4月23日生まれ)

 2014年

 誕生月の順番で本欄に投稿して欲しいと幹事から依頼がありましたので駄文を書いています。 昔から文才がないので、KDD時代には社内の決裁文書など上司に真っ赤かに直されていました。
 まず、私の誕生日は、4月23日ですが、この日はかの有名な英国の劇作家ウィリアム・シェークスピアの誕生日と命日であると覚えています。 生まれた年は、1564年(人殺し)で、亡くなったのが1612年の4月23日と云われています。 誕生日は当時出生証明書と云う制度がなかったので、通例三日後に行われる洗礼の記録が4月26日となっていることから、誕生日が4月23日と云われているそうです。 これがシェークスピアは誕生日と命日が同じ4月23日として後世の人達によく知られています。 日本語のゴロ合わせから生誕が「人殺し(1564年)」と云うのも覚えやすく、ご存知の方がおられると思います。
 KDDに入社(1961年)して間もない1964年には、シェークスピアの生誕400年を祝う行事が多く行われたので上述のシェークスピアの誕生日、命日にまつわるお話を知りました。 今年はその1964年から50年に当たりますが、1964年と云う年は我が国の経済が大きく発展していた時期なので、東京オリンピックやそれに合わせて東海道新幹線の開通、首都高速環状線完成等いろんなエポックメーキングな出来事がありました。
 我々の国際通信の関係では1964年6月19日、日米間第一太平洋横断同軸海底ケーブル(TPC-1)が開通。 米国ホワイトハウスと日本の官邸を結んで、当時のジョンソン米大統領、池田勇人首相との間で記念通話が行われました。 TPC-1は二宮からグアム、ウェーキ島、ミッドウェイ島、ハワイオアフ島、カリフォルニアのポイントアリナ、サンルイスオビスポを経由して米本土と接続されました。 この時、日米のオペレータがそれぞれ相手国の加入者にダイヤルすると云う半自動電話サービスが開始されました。 このサービスのためにはITUで電話の国番号が決められ、米国は+1、日本は+81になりになりました。 その後、まもなく加入者が直接相手国の加入者をダイヤルする国際電話全自動サービスが開始されました。 これは同軸海底ケーブルにより安定した回線が提供されて初めて可能となったものです。 それまでは日米間に東京―オークランド8回戦の短波回線がありましたが電波伝搬の状態が悪いとアウトオブサービスとなることが多かったようです。 海底ケーブルにより安定な電話回線128回線が提供できるようになりました。 短波時代の電話料金は3分間4320円(12ドル)と当時の物価に照らしても破格の値段でありました。 全自動回線になって6秒毎の課金方法が導入され、通話が短ければ安く、きめ細かな課金が行われるようになりました。 その後、電話料金は順次値下げされていきました。
 目下、AT&T、ハワイアン・テルコム、KDDIの関係者が協力して、米国に本部を待つ電気・電子の学会であるIEEE(アイトリプルイー:The Institute of Electrical and Electronics Engineers, Inc.)のGlobal History Networkというカテゴリーのマイルストーン認定を申請しています。 大西洋に敷設され、1956年に開通した第一大西洋海底同軸ケーブル(TAT-1)はすでに マイルストーンに認定されています。 マイルストーンに認定されたら、関係者でTPC-1開通50周年を記念するイベントを開催すべく話し合っているところです。 KDD(I)のLegacyと云えるのではないでしょうか。
 ジョージ・オーウェルの「1984年」と云う小説(スターリン体制の全体主義に対する警告の反ユートピア小説)は1948年に執筆されましたが4と8を入れ替えて「1984」としたと云われています。 1984年当時ジョージ・オーウェルの予言通りになるかと騒がれたのを憶えています。 村上春樹の1Q84はこれをパロディ化した題名かと思われますが、オーム真理教と思われる新興宗教とおぼしき集団と戦う女性が描かれています。 これをもじって2014という題で書いてみたのですが、あまり面白い話はかけませんでした。 いずれにしても2014年を契機として1964年のように日本が元気になるように祈っています。





 
  

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1. 金城 晴八 さん (3月13日生まれ)

菊池堅城さんへの感謝の思い

 昭和45年3月下旬、リンゴ箱に詰め込んだ引っ越し荷物を大宮駅から不夜城と言われた大宮寮に運び込んだのが、私の国際電々生活の始まりでした。 庭を接する大宮社宅には東京電報局訓練課の菊池堅城さん(故人)が住まわれていました。私の人生の師と言える先輩です。 会社への行き帰りには社会・人生のありようについて教わったり、君はもっと勉強しなさいと言う激励もありました。 神田駅から大手町まで短い脚をフル回転して、私を置いてきぼりにしたことも懐かしい思い出です。
 今、国際電報は堅調だが、通信技術は日々進歩する。頼信紙の語数計算を人手でやっているが、自動化の時代が必ずやってくる。 その時、君は何するのか、君は何ができるようになっていなければならないのかを今から考えなさい。 毎日が勉強だ、と育てられました。それはTAS前夜、大量入社の時代でした。
 新入社員の私と言うより、全ての新入社員に共通していることだが、地方から出て来た私にとっては東京での仕事は不安だけしかありませんでした。 その不安の中、菊池さんから頂いた言葉の数々は私に力を与えてくれました。 この感謝の気持ちをどのようにして伝えればよいか計り知れません。 ところが、感謝を申し上げる前に、菊池さんは遠い国に旅立たれました。 残念でなりません。感謝の言葉と共に、菊池さんのご冥福をお祈り申し上げます。
 さて、平成24年、再雇用のお誘いを振り切り、目出度く会社人生を卒業させて頂きました。 これまでお世話になりました諸先輩の皆様に、紙面をお借りしまして、お礼申し上げます。 ありがとうございました。
 今後とも宜しくお願い申し上げます。

 <追伸> 近況は次の通りです。
  ・大阪府高齢者大学校関連
   平成25年度エッセー文学科
   平成26年度古典文学を楽しむ科進学
   平成26年度自然文化研究科進学
  ・ボランティア関連
   大阪市城東区おもちゃ病院勤務(平成25年8月~)



    
2. 吉田 京子 さん (3月17日生まれ)

 今回の東京マラソン完走!

 「あの達成感を私も味わいたい!」と思ったのは、KDD名古屋支社勤務時代の同僚が、木曽川沿いを走る「犬山マラソン」の応援に行った時のことでした。 それまで、マラソン=苦痛とのイメージしかなかった私は、何も考えず「来年は私もでる!」と周りに宣言し10kmにエントリー、約3か月間のトレーニングの後、1時間かけて完走したのが約20年前。これで私のマラソン人生は終わるはずでした。
 それから10年程したある時、KDDアメリカに勤務していた友人にNY シティーマラソンの完走ビデオを見せられ、これに刺激され無謀にもNYのフルマラソンに応募したのです。 しかし幸か不幸か見事に落選。 それ以降は、応募するだけで申込金を取られるNYをやめ、東京マラソンに転向しました。 しかし、当選確率10倍の難関を突破できる程の運があるわけでもなく、応募し続けて5年が経ちました。そして、ついに昨年9月末に当選の知らせが届いたのです。 本格的に練習を始めたのは11月。 しかも仕事の関係で週末1回、1周5kmの皇居を走るのです。 この寒い時期、外に出るのも億劫になりますが、そんな私を引っ張ってくれたのは、旧KDDの仲間、そして他の友人達でした。 毎週日曜日朝8時、皇居平川門に集合し、皆が代わる代わる私の伴走をしてくれたのです。 秋から冬への季節の移ろいを感じ、また他のランナーのパワーを感じ走る。 これが思いの他気持ちよいのです。 そうこうしてマラソン本番までに走った距離は400kmを超えました。
 そして、ついに2月23日、東京マラソン当日、ランナー36,000人、スタッフ10,000人の大イベントが始まったのです。 「日頃東京のど真ん中を走るなんてとてもできる事ではないし楽しもう」と思ってもそんな気持ちの余裕があるはずもなく、どんよりとした曇り空の下スタートしたのは朝9時過ぎでした。 沿道には応援の人の列が絶えることなく、皆がハイタッチで、また声を嗄らして「がんばれ!」と応援してくれる。これにはいやがうえにも私の気持ちも高揚し、感動。横には、ピカチュウやフナッシーの仮装をした人、マラソンをしながら結婚式を挙げるカップル、ホルンや三味線を演奏しながら走る人、「がんばれ日本、がんばれ東北、がんばれ私!」と書かれたTシャツを着て走る女性。 本当に様々な人達が、様々な思いを胸に走っているのだと思うとこれまた感動。 沿道には「苦しい?足が痛い?それは気のせい!」、「そこで走れるだけ、君は幸せ者!」、「You can do it!」等のプラカードが見える。 その中でひときわ大きな友人達からの声、これには大感動! 30kmを過ぎた頃には、太陽が顔を出すとともに、私の気持ちも晴れやかに。 そして遂にゴール! やった! タイムは5時間49分! 上出来!!
 マラソンを走り終わった今は、まるで映画を一本見終わったような気分です。 この経験を通じて得たのは、達成感よりも、何十倍も大きな人の暖かさそして友人のありがたさでした。 今は、その余韻に浸りながら、次の目標を立てようと思っているところです。

◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ 会員の皆さんから一言 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇

吉澤 生雄 >> 完走おめでとうございます。 ご立派、ご立派。 次の目標は、「キリスト」よりも早く走るというのはどう? 十字架を背負って走ったキリストさん、5:13;51あるいは5:11;50ぐらいで走ったみたいだ。 浅学立志
2014/03/07 10:15:06



    
3. 小畑 富宥 さん (3月21日生まれ)

サンフランシスコ追想記

 2013年7月末に、1974年から約3年間KDD駐在員として勤務したサンフランシスコに30年振りに里帰りしました。 赴任中は、旧AT&Tビルの一角にデスクを構え、同社の国際部門の方々と机を並べて執務した。おかげで、米国式の仕事のやり方をつぶさに見ることが出来ました。 また、1976年の米国建国200年の祝賀行事にも参加する機会にも恵まれました。住まいは、ゴールデンゲート公園の近くで、よく同公園への散歩や近場の市営ゴルフ場へ通った。(プレー代 約2~3ドル)
 気候は太平洋から押し寄せる霧のおかげで、夏は涼しく、1年中過ごしやすい土地柄で、いまでも全米の諸会議が数多く開催され、合わせて観光客も押しよせ、ケーブル・カーは約1時間待ちの行列ができています。 日本からは、7月~8月の涼しく、夕方の9時頃まで明るい当地へのお出かけがお勧めです。その際、寒さしのぎのセーターや、薄手のジャンパーやコートを持参されることをお忘れなく。











    旧パシフィック・電話会社ビル(解体中)           ゴールデン・ゲート・ブリッジ



    
4. 髙倉 保 さん (3月21日生まれ)

近 況

 16才から68才までの52年間、電気通信事業とかかわってきました。 まず、昭和24年6月、熊本電気通信学園(電気通信省)に入学しました。 モールス通信の通信士を養成するためのコースでした。 昭和27年8月電電公社になり、昭和28年4月、国際電信電話株式会社(KDD)が発足しました。 その少し前に国際部門に移るための訓練が終わって大阪国際電報局に配属されていた私は、なにも分からぬまま、KDD社員になりました。
 平成4年3月、定年まで1年と少しを残してKDDを退職し、第二電電(DDI)に移りました。 以後、現役1年、嘱託3年、非常勤嘱託5年で業界を卒業しました。 非常勤嘱託のときにKDDとDDIが合併しKDDIになりました。
 平成13年3月末、KDDビル26階で、電気通信事業にかかわることに終止符を打ちました。 通勤電車のつり革を持たなくなって13年になります。 非常勤嘱託になった平成8年から始めたwalking、平成11年に再開した卓球、写真(主として風景の撮影とパソコンでの処理)などが現在の生活のすべてです。
 おかげさまで、元気に、あまり退屈することもなく、無職の境涯を楽しんでいます。







    富士花鳥園にて       初日の出(2014 湯河原にて)       熱海梅園の梅





 
  

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1. 後藤 節子 さん (2月1日生まれ)

 エニアグラムと私

 私がエニアグラムに出合ったのは、KDDアカデミーに出向していた1990年頃のことです。 エニアグラムは「9つの性格」とか「自分探しの旅」といわれますが、当時、聖心女子大学の鈴木秀子教授によって日本に紹介されたばかりでした。 KDDアカデミーでは、いちはやく鈴木先生を講師に招いて公開セミナーを開催したり、新入社員訓練の一環として取り入れたりしました。
 私は56歳で早期退職したあと、鈴木先生のもとでエニアグラムの資格をとり、以後、カルチャーセンターや企業などで講師を勤めてきました。 アメリカのへレン・パーマーのワークショップにも参加し、ここでも資格を取得しました。 アメリカでの経験は、逆に、日本人のメンタリティを理解する上で大変役に立ちました。 
 一例をあげると、昨年、私がある企業の管理職にエニアグラム研修をしたときのことです。 最初に紙を配って、「10分間で自分の良さを10個以上書いてください」といいました。 すると、大半の人が困ったような顔をして、2、3個書くのがやっとでした。 「欠点ならいくらでもでてくるんですが」という人もいました。
 「自分の良さもわからないで、部下の良さがわかりますか?」日本ではこんなやりとりが導入になります。 自分の個性を尊重し、個性の違う人たちを理解することは、エニアグラムの目的でもあります。 自分自身を振り返ってみると、20年以上も学んできたので、自分の嫌なところは改まってもよさそうなものですが、残念ながら、生まれもった性格は変りません。 しかし、「自分の中のいちばん嫌な点こそ、私たちが変容する転換点である」といわれます。 ここに希望があると思います。
 いま私が興味をもっているのは、高齢が「9つの性格」にどのように影響するかということです。 私も今年は後期高齢者になるので、自分を実験台にしながら、気づきを深めてきたいと考えます。 KDD在職中に仕事で出合ったエニアグラムが、退職後の活動のきっかけを与えてくれたことを改めて思い起こし、ありがたく思っています。 


    
2. 平井 富子 さん (2月3日生まれ)

 心に残る二つの仕事とアンシャンテ

 「あなた、今、何してるの? うち、2次募集してるよ、受けてみる?」 高校先輩のこの一言は、進路未定であった私に幸運の女神が舞い降りた瞬間でした。 こうして、昭和44年7月、東京国際電話のオペレータとして、KDDに入社しました。

◆心に残る二つの仕事
 一つは「世界の声の交差点で」というKDD東話局の沿革史の発刊です。 昭和62年、大手町ビルにあった東話局が30余年の歴史に幕を閉じ、KDDビル1ヶ所に移行するに伴い、東話局の沿革史作成プロジェクトが生まれ、メンバー8人の1人になりました。 一般の沿革史とは趣を変え、東話局らしく、読みやすく親しみやすいものをと考え、当時、人気だったドラマ「スチュワーデス物語」にならい、「オペレータ物語」というイメージを意識しました。 国際電話の歴史と秘話をメインに、お客様と声だけで接するオペレータの知られざる素顔や人間性等を紹介した内容です。 先輩への聞き取りは、初めて耳にする話ばかりで、歴史の重みを肌で感じながらも新鮮で、感激することもしばしばでした。 たくさんの方の協力、励ましを得て、約10ヶ月間、全員で取材し、何度も編集会議を重ねながら原稿を書き上げ、発刊した時は達成感でいっぱいでした。 沿革史は、オペレータたちに販売され、また、図書館等にも寄贈されたと聞いています。 なお、昨年、OGで組織する「109の会」で知り合った大先輩に、是非読んで頂きたいと差し上げたところ大感激したと喜びの手紙を頂きました。 時は経ても、みんなの心に東話局の歴史が刻まれているんだと実感しました。  

「仕事場は宇宙」と宇宙飛行士、向井千秋さん講演
 もう一つは、日本女性で初めてスペースシャトル「コロンビア」で宇宙に飛び立つ宇宙飛行士、向井千秋さんが、米国ヒューストンから、東京会場と熊本会場にいる子供達に衛星中継で宇宙への抱負を語る科技庁のイベントを担当したことです。 1994年4月24日でした。 東話局からKDDテレサーブの映像事業部に異動して1年、イベントも担当するようになり、海外での2回目の仕事でした。 東京会場には、当時の江田科技庁長官、毛利衛宇宙飛行士も出席されており、当初、緊張しましたが、向井さんは、とても気さくな方で、直ぐに打ち解け、講演は和やかに進行し無事終了することが出来ました。 その様子は、各新聞社やテレビ局で報道されました。 また、現地スタッフの配慮で、NASAを見学するチャンスにも恵まれ、とても貴重な体験をしました。 このイベントが縁となり、退職後、米国の宇宙飛行士達が来日し、相撲協会に表敬訪問され、大相撲を見学された際、アテンドさせて頂いたことも良い思い出となっています。  

◆KDDから「アンシャンテ」へ
 人生は一度きり、次は何をと考えた時、実家が洋裁店でファッション雑誌を見て育った私は、母は洋裁の先生、姉はデザイナーという環境で、やっぱり私はファッション好きと痛感し、1999年早期退職をして、この世界に飛び込みました。 オリジナルのアクセサリーをデザインし、ウェアやバッグをフランスから輸入し、2002年、代官山でショップをオープン、2005年に表参道の小さなスペース(店名 アンシャンテ)に移転してから、今年で10年目になりました。 また、2年程前から、東日本大震災後、仮設住宅での高齢者の孤立を防ぎ、自立へのきっかけを促すよう、福島や気仙沼の被災者の方々が作っているアクリルたわしをボランティアで販売協力しています。 結婚式の引き出物やバザー、プレゼント等に購入されており、今まで1000個ほど販売し、今後も継続して支援したいと思っています。  

毎日を楽しく
 店は年中無休なので、仕入れ、販売、卸等忙しい日々ですが、多様な年代、職種の方々に接する機会が多く、友達も増え、楽しい毎日を過ごしています。 この仕事を、出来るだけ長く続けたいと思うとともに、KDDに居たからこそ今があると感謝しています。



    
3. 祢津 信夫 さん (2月3日生まれ)

 昨年一番時間を割いたこと

 早いものでKDDIを辞めて2年半が経ってしまいました。 当初は会社を辞めてから3年以内には人生最後の残り20年のおおまかな予定を立てようと思っておりましたが残りの時間は6か月となってしまいました。 なんとか6月末までに方向性を出したいと思っているこの頃であります。 そこで幹事様からのご依頼もあり何を書こうかと迷いましたが昨年最も時間を割いた事柄について近況として書いてみることにいたしました。
 たまたまKDDIを辞めた年に父の身体の調子が悪くなりその年の11月に98歳で亡くなりました。 私の実家は代々社家で私が17代目となります。 おまけに私は長男です。 今や神社も世襲制ではないので私の代で辞めてしまおうかとずいぶん悩みましたがまあ私の代で辞めてしまう勇気もなく次の世代まで取りあえず引き継ぐことにいたしました。 父がご奉仕していた常勤が必要な甲府の穴切大神社は我が実家の世襲制神社でないことから若手の神官に宮司をお願いし、代々ご奉仕して来た甲斐市の小さい神社3つを一昨年2月から引き継ぎました。 そしてそれから2年間は出来るだけ神社界の世界を知るために山梨県神社庁が開催する行事に出来るだけ参加して来ました。
 参加して分かったことですが神社庁の行事もたくさんあり、とても全部参加できずまさに集中と選択が必要であるとの認識に至っています。 特に昨年は神社界に於いては特異な年でした。 5月には出雲大社が60年に一度の平成の遷宮また伊勢神宮は20年に一度の式年遷宮でした。 20年後の式年遷宮の際は私も88歳の米寿です。 次の式年遷宮の行事に参加できるのは大変難しいと思われます。 そこで昨年は絶好の機会と捉え出雲大社に特別参拝を行うと共に式年遷宮お白石持ち行事に参加し、また秋には式年遷宮新穀感謝祭にも参加いたしました。 出雲大社を参拝するに当たり、古事記を読んでみることにいたしました。 皆様ご承知の通り出雲大社のご祭神は伊勢神宮のご祭神天照大神の弟、素戔嗚尊の子孫大国主命です。
 私のご奉仕する神社のご祭神は大国主命の子供の建御名方命です。 大国主命の国譲りの際最後まで国譲りに反抗し戦いに敗れ信濃の諏訪湖近くに追い詰められ降参した神様で諏訪大社のご祭神です。 昨年は改めて新たな気持ちで諏訪大社本宮にも参拝いたしました。
 こんなことが分かりますと出雲大社も諏訪大社も大変身近な存在になりました。 8月には第62回神宮式年遷宮お白石持ち行事に参りました。 ご奉献の前日、伊勢市二見浦の興玉神社に於いて禊の浜参宮をいたしました。 浜参宮は神宮に参拝する前に二見浦で禊を行うという古儀に基づくものでお白石持ち行事、お木曳行事の奉仕者は心身を清めるためにおこなうのが通例となっております。 8月10日(土)朝5時に起床し、酷暑のなか特別神領民として「おはらい町」端から宇治橋まで奉献車の一番車を奉曳しました。
 「エンヤー」「エンヤー」の掛け声に合わせて内宮に向いました。 宇治橋を渡り、神域からは白布に包んだお白石を持ち、新宮のお垣内に参進し奉献しました。 新宮を身近に見る感動は大変なものでした。 西行の歌「何ごとのおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」がまさに実感でき何とも言えない気持ちになりました。 これが聖地なんでしょうか。 それともやはり私めも日本人なのでしょうか。 11月には神宮新穀感謝祭に参加いたしました。 今度は外宮の新宮に御玉垣内参拝をした後、旧正宮の拝観をいたしました。 これで内宮・外宮の新旧正宮を拝観できたことになります。 これが庶民で体験出来るのはまた20年後です。 20年経った旧正宮は新鮮さがなくなって大変古く感じましたが日本の伝統に導かれた古き良さが漂っておりました。 旧正宮の建材は全国の著名な神社に奉納され新たな部材として活用されるそうです。 ECOの観点からも伝統のある日本文化のすばらしさが継承されております。
 国際電信電話株式会社に入社し、日本古来のすばらしい文化に余り接してこなかった会社生活を無事に終え、OBとなってからは日本の伝統に感動する毎日です。 今後も出来るだけ日本文化の神髄に触れるよう努力してゆきたいと思っております。 そしてさらに他の宗教を理解するためにも70歳までに訪れたかったキリスト教の三大聖地の内まだ訪れていないエルサレムとサンテイアゴ・デ・コンポステラを訪問すると共に旧約聖書と新約聖書を理解し日本の神道との比較にも挑戦してみたいと思っております。


    
4. 山本 隆臣 さん (2月21日生まれ)

 平日は遠距離通勤、週末はウォーキング三昧

 1966年(昭和41年)入社の山本隆臣です。 この度、古希を迎えました。 「41会」という同期会で業務系担当の幹事をしています。 この会の活動については「会員の動向/同期会」の欄に写真入りで詳しく書かれていますので、ご覧頂けたら幸いです。
 旧KDDとDDIが合併して数年はどうにも社内が落ち着かない状況が続きましたが、そんな中で幸運にも旧知の友人から誘いを受け、59歳の時にITベンチャーの常勤監査役に転職しました。 既に11年が経過し、節目のゴールまであと1年ちょっとというところまで来ております。 同社は、小生の就任時からしばらくは携帯電話 用のブラウザやメール等のソフト開発が好評で急成長していたのですが、その後オープンソースソフトウェアの普及や、Apple、Googleなどからのスマートフォン攻勢によって市場の情勢が様変わりし、ここ数年事業環境が非常に厳しくなっています。 ビジネスモデルの転換を図ったり、サービス系の新規事業を立ち上げたりして、何とか再び成長軌道に乗せたいものと全社一丸となって頑張っているところです。
 営業用のオフィスは水道橋にあるのですが、海浜幕張駅近くにある研究開発センターと本社管理部門のオフィス統合が3年前に実施されたため、平日は杉並から京王線、新宿線、有楽町線、京葉線を乗り継ぐ片道1時間50分の遠距離通勤を余儀なくされており、かなりヘロヘロ気味です。 週末のウォーキングで何とか心身をリフレッシュして、また月曜から仕事に励むという生活パターンを繰り返しています。
 土曜、日曜のウォーキングはかれこれ30年近く続けています。 各種ガイドブックの情報や鉄道各社の推奨コースを参考にして、花鳥風月を愛でつつ自然との一体感や季節の変化を肌で感じながら、関東各地の地域探訪をのんびりと楽しんでおります。 太陽を浴びて歩いていると、神経伝達物質のセロトニンを増やす効能もあるようですし、足が第2の心臓として機能して血流をスムーズにするようなので、健康維持に大きな効果があると信じています。 また、歩いているうちに良いアイデアが湧いてくることも度々経験しており、密かに「歩キ芽出スの原理」と呼んでいます。
 最後に好きな言葉を一つ、「念ずれば、花開く」。 英語では"If you can dream it, you can do it."でしょうか。 今後年齢を重ねていく中で、ささやかなことにせよ、何らかの夢は持ち続けていきたいと思う次第です。 




    
5. 伊原 昭男 さん (2月28日生まれ)

 『僕の村』 in セブ島

 合併前のKDDを50歳で退社し、55歳で「サラリーマン」を辞めてスキューバ・ダイブに浸かり、57歳で(体力を絞って)「ダイブマスター」の資格を取った。 今はフィリピンのセブ島で「プロ」ダイバーとして、年の1/3を潜っている。

◆なぜ、フィリピンなのか??
 退職後、たまたま潜りに来たセブ島のこの「素朴な村」が余りにも気に入り、それ以来、年2回、各2ヵ月間ずつ「住む」ようになった。 (村の名前は申し上げません。 『僕の村』と表現させていただきます。) 先日第16回目から帰国したばかりだが、毎回2ヶ月間となると、もう通算2年半以上『僕の村』に「住んで」いることになる。 この原稿がK-unet にアップされる頃には、また『僕の村』に「住んで」いることだろう。 

何が気に入ったのか??
 答えは「たくさん」ある。 先ずは、沖縄にもない「自然」だ。 透明度抜群の澄み切った海、生きた珊瑚に住む無数の大型・小型の魚、どこまでも落ちる断崖絶壁の海底地形、そして日本の夏より過ごしやすい常夏。 南国だが東京の地獄のような猛暑はない。 心地よい夏が一年中続いている。 見たこともないフルーツもたくさんにある。

次に「治安」
 マスコミはフィリピンの治安の悪さばかりを煽っているが、『僕の村』に犯罪はない。 村人はとても純粋・素朴で、旅行者に対する「ぼったくり」や「外人向け値段」もない。 お客さんは、半分以上がヨーロッパからのリピータだ。 アメリカ人や日本人は非常に少ない。 というのも、過酷な競争社会で働く人間達は長期休暇が取れないからだ。 『僕の村』に来るヨーロッパ人は最低でも2週間、長期に至っては3・4ヶ月も滞在している。 僕が一旦日本に帰り数か月後に来たら「まだ居た」なんてことは1度や2度ではない。 そんな長期バカンスで来るヨーロッパ人は治安が悪いと絶対に寄り付かないのである。 「長期リピータが集まるところに犯罪なし。」である。

そして「物価」
 公定レートはあるが、お金の使い勝手(価値)は日本の10倍、すなわち物価は1/10だ。 いくら説明しても信用しない友達が、雑貨屋に百円ライターを買いに行った。 そこで「1個10円」の実体験をしてやっと納得した。 「懐」の心配が要らないのは 実にありがたい。 『僕の村』では何をしても怖くない。 ところが、旅行会社が案内する日本人向けリゾートではそうは行かない。 330mlの小瓶ビールが800円もする。 同じビールが『僕の村』では50円、これが地元の通常価格だ。 日本人は(上司に掛け合って)やっと獲得した4泊5日の「特別」休暇を楽しむことの方が大事らしい。 「ぼったくり」でも平然と支払う。 「わーっ、安ーっ! 日本の半額だあ!」との声をよく聞くが、実は通常価格の5倍もぼったくられている・・・。 この手の話は枚挙に暇がない。 『僕の村』は日本人リゾートから100kmも離れている素朴な村だ。 「治安」の項でも述べたように、長期滞在のヨーロッパ人は物価が高いリゾートには寄り付かない。 「長期リピータが集まるところは超・安い。」である。

そして最後に、「仲間との『再会』」だ
 命を託し合うスタッフ仲間、その家族、長期リピータ達との「再会」である。 僕がこの『僕の村』に来る本当の理由、最大の楽しみはこれである!! 今までにない、全く異なる『世界』、海外留学や海外駐在とも異なる『世界』で、仲間との再会だ。 まず、『僕の村』に到着すると、毎回、仲間や長期リピータとのhug & hugが始まる。 大柄のドイツ人おばあさん、ベアッテは僕を見つけると駆け寄ってきて、汗だくのままhug & kissをしてくれる。 そして曰く、「あらっ、メガネがベトベトになっちゃったわね、Akio。 後で自分で拭いてね」と。 こちらも最近は、ベアッテを見つけると、僕はメガネを外すことにしている。 それを見て、また曰く、「そう、いい心がけね、Akio。 私のhugはそうよ。」と言って、苦しいくらい抱きしめてくる。

 毎夕、ダイビングの後も出番が多い。 「マグロ」を刺身に下ろし、ビールのつまみに出したり、向かいのバーを借りて「日本のカレーライス」や「てんぷら」パーティをやったり、「もち」パーティも時々やる。 仲間を僕のコテッジのテラスに招いて「うどん」パーティはしょっちゅうやるし、仲間の家の庭先で4kgもある「ふぐ」を(ライセンスのない)シェフがココナッツ・ミルクで和えた「てっちり」パーティも乙なものである。 3月は、特に「ふぐ」シーズンだ。 『僕の村』には「ふぐ」シェフが3人も居る。
 地域の活動として、小学校でクリスマス・コンサートを開いたり、乳児の洗礼式にGod Father を頼まれたり、結婚式でGod Fatherになったり、…社会的な催しには率先して参加するよう心掛けている。 お葬式も2回呼ばれた。 今では女の子二人(4歳と5歳)のGod Fatherであるし、若い仲間、Larry夫婦のGod Father でもある。 2010年には小学校での活動で、教育委員長・校長・PTA会長の3人の連名で表彰を受けた。 面白いのは、この賞状がフィリピン大使館のViSA申請や 現地空港の通関手続きに役立つのだ。 「君は、こんなにフィリピンに貢献しているのか」と、審査もほどほどに握手をして通してくれる。
 この2月の訪問で、もう第17回目になる。 潜水回数も通算1,300本も超えると、何が何でも潜りたいという心境は通り越してしまった。 友達のライセンス講習にはアシストするが、友達が帰国した後は1日1本で上がることも多い。 今では、旅行者としての新鮮な思いはなくなったが、『僕の村』には何か貢献をしたいと思っている。
 最後に、前回滞在中に襲来した超大型台風"Yolanda"(日本では「台風30号」)ついて一言。 これは「人間が作った台風」と言われている。 人間が地球を暖めて引き起こした超大型台風だ。 今後、この手の超大型台風はドンドン増えるらしい。 その内日本にも襲来するだろう。 『僕の村』は幸いにもセブ島の南部に位置するので今回難を逃れたが、セブ島北部はレイテ島と同様Yolanda をまともに受けた。 暴風雨被害というより、まさに「津波」被害という感じだ。 大型船舶が陸に押し上げられ横転し、電柱やココナッツの木は根こそぎ倒され、家の屋根や壁は跡形もない、ただの広場になった。 僕のショップ仲間にレイテ出身者がいるが、彼は実家の家族を引き連れてセブ島南部に引っ越してきた。 というより、難民移動してきた。 レイテの港には、家を失い食べ物を求める一族郎党があふれ長蛇の列をなしている。 いつ船に乗れるのか分からない。 彼の親戚一族はフィリピン海軍が派遣した軍艦の「甲板」に乗り、定期便で2時間のところ、深夜に10時間もかけて渡ってきたのだ。 速度を上げると水しぶき受けるし、甲板の避難民を落とさないように、のろのろ航海して来たという。
 みなさんは、「こんな超大型台風、日本から遠く離れた南の島のこと、日本に来ることはない。」と思っているかも知れませんが、そもそも台風がセブ島に来ることはほとんどない、「日本よりも台風は少ない」のです。 普段はこの辺りで「赤ちゃん台風」が発生し、それが暖かい海面で成長しながら移動してマニラや香港、日本を襲うというのが定番なのだが・・・、ところが今回の超大型台風Yolandaはフィリピンの東、赤道近くで発生し、貿易風に乗って西進する間に異常に暖かい海水面で急速に発達して勢力を増し、サマール島、レイテ島、セブ島北部を襲ったのである。 幸運なことに南部の『僕の村』では、ほとんど被害はなく、僕のコテッジの入口のバナナの枝(葉っぱ)が二本折れただけだった。 ただただ「幸運」であった。 まかり間違えば、僕のコテッジなんぞ、ひとったまりもなかっただろう。 恐ろしいことだ。 こんな超大型台風が日本を襲う日が来るかもしれない、自然に悪さをしたくないものだ。
 毎日毎日、海の中で「大自然」に接していると、人は「自然尊重派」になる。 僕も例外ではない。 大自然、地球を心より大事にしていきたいと常々思っている。 捕鯨も、原発も、反対だ。 捕鯨反対に傾いたのは、計画停電の中、ろうそくの下で、隣にいた英国人のインテリ・プロカメラマン、トニーと生ぬるいビールを飲みながら話した時だ。 捕鯨反対派が決してムードや感情で反対しているのでないことを思い知らされた。 彼らは、非常に勉強しているし、実によくデータを調べている。 むしろ、日本政府の主張、「反対派は、クジラは頭がいい高等動物だから殺してはいけない、と感情論で反対している」とか、「日本はクジラの皮から骨まで有効利用しているから許されるべきだ」とか、「クジラの数は回復している」とか言う論調である。 どれも日本の水産庁が「論理のすり替え」のために誘導する、根拠のない、ヘリクツではないか。数が回復している証拠はどこにあるの?? そもそも生態調査をするのになぜ殺すの? 反対派は実によく生態を研究している(しかも殺さずに)。 日本政府の主張の方が主観的ではなかろうか。
 原発もしかり、我々は東電や原子力村のおじさん達に「安い」と言われ、過度に電気を使わされているのではなかろうか。 もっと、もっと、ケチケチ、効率的に使うべきじゃあない?? 電気をもっと大事に使おうよ。 地球をもっと大切にしませんか。
 皆さん、続きは『僕の村』でビールを飲みながら、マグロの刺身を突っつきながら話しましょう。 僕が居る間に是非いらしてください。 (ご興味のある方は事務局にご連絡ください。)僕が居ない時に訪ねて来ても、「ただの客」ですよ。






 
  

Happy Birthday !

  1月にお誕生日を迎える会員から、お便りをいただきました。 この記事をお読みになられた会員の皆様からも、お気軽にコメントをお寄せいただき、この “Happy Birthday !” シリーズが会員相互の楽しいつぶやき交換の場となればと期待しています。


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1. 久保 勝一 さん (1月1日生まれ)

老楽 (オイラク) の昨今

 本年は喜寿、生誕27,759日目の朝を迎えました。 今年も煩悩に煩わされないよう心身ともに健 やかに過ごしたいと願いをこめました。 
 社会人として初めて巣立った最初の赴任地は、東北線とバスを乗り継いで辿り着いた地、田圃や畑 ばかりで周囲に建物らしきものが見当たらない、当時"KDDの孤島"と呼ばれた「名崎送信所」でした。 
 ここでは僅か1ケ年の勤務でしたが、回線課・運用各課・保全1課(送信機担当)および3課 (空中線担当)と短 波通信全盛時代の送信所の主要業務を担当さしていただきました。 この経験は、社 会人としてスタートしたばかりの私にとって大き な一歩となりました。 外国向けの国際電話回線が、 ここの送信機やアンテナから世界各国へ届いてい るのだと仕事の重要さを痛切に感じた職務でした。 
 また、同所では、先輩や同僚たちとのスキー やアイススケート、クラブ食堂でのビリヤードな ども私のとっては初めての体験でした。 
 本社へ転属後は、長中期計画書の作成(技術 部)・無線局開設免許申請業務・海底線ケーブル システムの保守(保全部)・地元漁業組合とのケー ブル保護活動に関する対応・KDD丸の運行管理、短波送受信所や茨城・山口両衛星通信地球局、海底 ケーブル陸揚げ局など全国の国境局の管理・保守業務、また東施局では伝送設備・専用線・電話交換・ 電信/テレックス交換・データ交換・電力設備の管理・保守業務も経験してまいりました。現業事業所 として発足時の茨城衛星通信所(臨時衛星通信建設部)にも在籍、宇宙通信から衛星通信への幕開けにも 参加できました。 このように多数の部門に配属され、空・海・陸に亘る幅広い職場を経験できたことは 大変幸いでした。 
 一方、出向先では、実験用中型放送衛星(BSE)の開発・設計審査・製 造立会い・検査・デルタ2914ロケット140号機でケープ・ケネディ宇 宙センター(ETR)から打上げらえられた同衛星の管制/運用を宇宙開発事 業団(NASDA)で担当、同衛星のメーカーであるアメリカ・ペンシルバニ ア州フィラデルフィア・ ヴァレー フォージ(Valley Forge)にある Gneneral Electric(GE)社宇宙部門へも製造時の立会い検査/各種審査の ため延べ約8か月間も出張しました。 また、インマルサット船舶地球局 (SES)の無線局免許の監理(KTI社)、国産技術試験衛星(ETS)VIII号の 概念設計(ASC社)などや、インターネット プロバイダ事業(Rimnet社) を経験しました。 丁度30回の配置換え辞令を拝領したことになります。 
 振り返ってみると、KDD在職中は、いずれの職場でも、すばらしい 上司や先輩・同僚に恵まれ、在職37年目に定年退職いたしました。 数多く経験した中でも特筆すべき ものは、① 日中間海底ケーブルの数度にわたる障害修理の対応とケーブル保護活動、② 田中角栄首相 の中国訪問と日中国交正常化に関する現地北京での可搬型臨時地球局の建設・テレビ中継の成功、③ 実験用中型放送衛星の開発と打上げの成功、などでしょうか。 
 一方、1998/3/31に設立されたKDD同友会パソコンクラブ"k-unet"には設立時から参加し、 初代研修担当世話人として7年間勤めてまいりました。 現在は、エキスパートとして協力さしていた だいております。 
 自分史年表を作り終えた昨年の秋、"k-unet"では「KDD創立60周年記念企画」を発表しまし た。 今や幻の会社となった"KDD"の素晴らしい業務実績を大切に記録に残さなければならいと思って いたのと合致しました。 幾多の貴重な資料も散逸し、纏まっているものが見受けられない、何とか業務 実績を整理して残したい。 やるとすれば、"今でしょ!(It's now or never)"。逸機に大挑戦にチャレ ンジしてみようと試みました。 つたない能力しかありませんが、精いっぱい頑張ります。会員の皆さま 方のご支援をいただければ幸いです。 ご協力、よろしくお願い致します。 
 さて、話題は一変しますが、日頃から、"足腰を鍛える"ためと"肥満解消"を意図して、ウォーキ ングには励んできました。定年退職時は、若 干肥満体型でした。 現役当時はあまり運動も しなかった私が、新規一転、毎日のウォーキ ングに加え、スポーツ・ジム通いを始めるこ とになりました。この習慣が今も続いていま す。 
 ウォ-キングは、18,171歩(11.80km/ 151分/758.3Kcal)が日課の成績です。ス ポ-ツ・ジム通いは、週4回のペースで通っ ています。 運動しない日は、何か物足りない 落ち着きのない時を感じています。 最近の運 動量は、右表に示すようなものです。 男性の 皆さんには参考になるのでは?これらのせい か、肩こり・腰痛・肘や膝の痛みは全くあり ません。最近はActive 80を心掛けて、こ れらの他、ラジオ体操も加えました。 平日の 午後は、読書、また、認知症防止を目的とし て、指先を使うパソコン操作に時間を費やすことも多いです。 N88 Basic、MS-DOS時 代を経てMacintoshやWindowsと、かれこれ四半世紀になります。 
 さらに、国内旅行・海外旅行も大好きで、海外へは夫婦で出かけ今までに15回行って来たことに なります。 印象深いところとしてはいくつかありま すが、敢えて挙げれば① オーストリア・チロル地 方のハイキング登山、インスブルグ、ウィーン、ザ ルツブルグ、② ロシア・ヴォルガ河リヴァー・ク ルーズ(モスクワ→サンクト・ペテルブルグ間)とク レムリン、エルミタージュ美術館・小劇場、③ ア メリカ大陸西海岸のカナディアン・ロッキー・ドラ イブ(バンクーバー→カルガリー→バンフ→コロンビ ア大氷原→レイク・ルイズ→ジャスパー)などです。 
 世の中に生を受けて2,398,381,200 秒と計算できます。 "人生まだまだ、健康に気をつけ30億 秒だ!"を目指して、今後の自分を探し求め、老いを楽しむべく、健康に留意して行きたいと思う昨今 です。 


以 上   



    
2. 佐藤 正武 さん (1月4日生まれ)

 パソコンとジャズヴォーカル

 パソコンを使い始めたのは、KDD退職後だから、十数年になる。 私にとって、PCは趣味とは言えないが、極めて優れた道具で、今ではPC依存症になってしまった。 用途は、メール、ネット検索、家計管理、外国旅行時のホテル予約、レストランのメニュー調べ、ネット通販、今がその時期の所得税確定申告、等々。
■ジャズヴォーカル
 話は変わって、高校生のころから、趣味の一つとして、ジャズおよびジャズヴォーカルを聞いてきた。 (ジャズヴォーカルの例:Stardust, Smoke Gets in Your Eyes) 人生を締める前に、聞く方から、演ずる方へ回ってみたいと考えた。 ただ、自慢じゃないが、小学生のころから音楽と体育の成績は劣悪だ。 楽譜も読めない。 楽器をマスターするには遅すぎるが、ヴォーカルなら少しは形になるだろう。 そこで、6年前から、グループレッスンと、時々個人レッスンを受けている。 全くの素人から始めたから、進歩は遅々としているが、自分で歌うようになると、聞き方まで変わってくる。 今まで聞き逃していた、曲の特徴や、歌手の個性、歌唱法などがわかるようになり、趣味が深まった感じがする。 
 ただ、最近感じるのは、一部の人達を除いて、生まれ変わらない限り日本人には英語のヴォーカルは無理なのではないかという疑問だ。 問題は歌詞で、たいていは、簡単明瞭で、紋切型で、暗記は容易なのだが、歌っていてどうも身についた感じがしない。 なかなか歌詞に入り込めないのだ。 始める前から危惧していたことで、非母国語のせいだと思われる(器楽ではこの問題は生じない)。 でも、プロになってお金をもらうつもりではないので、これでよいと思って続けている。 この趣味を追及するうえで、PCは不可欠の存在だ。
■ヴォーカル・データベース
 ヴォーカルのおけいこには、どうしてもお手本、つまりコピー元が必要になる。 いわゆるマニアックなコレクターではないが、聞き始めのころから買い求めてきたLPやCDはかなりの数になり、これを利用すればよい。 ただ、聞きたい曲がどこにあるのか、探すのに大変手間がかかる。 そこで、曲単位のデータベースをエクセルで作った。 入力が大変で、躊躇したが、片手間で、3~4箇月で完成した。 重複もあるが、約4700曲。 探している曲が、どのアルバムにあるか、一発でわかる。 

■楽譜作成ソフト
 個人レッスンを受けるときは、自分のキーの楽譜が必要になる。 市販の楽譜を見て作成する。 殆どがA41枚に収まる簡単なものなので、手書きでも構わないのだが、その方面の知識がないので、楽譜作成ソフトを使用している。 これは演奏機能を備えているので、カラオケ代わりになり、便利だ。 
■PCオーディオ
 いわゆる終活の一環として、いろいろな面でダウンサイズを心掛けているが、溜まったLP, CDをどうするか悩んだ。 とっておいても一度も聞かないかもしれないのに、所有欲は捨てきれない。 解決策として、PC(外付けHDD)に蓄積することとし、現在その作業が続いている。 専用のソフトと接続機器を使用しているが、CDの場合はディジタルからディジタルへ変換するので簡単だが、LPはアナログ・ディジタル変換なので、手間と時間がかかる。 LP, CDは全部中古屋へ持ってゆき、先々は、PC, 外付けHDD, DAコンバーター、質の良いヘッドフォンで音楽を楽しむつもりだ。 



    
3. 來山 征士 さん (1月19日生まれ)

近況と雑感

 KDDを退職して15年になります。 1998年から10年間,徳島に単身赴任して大学で教鞭をとりました。 徳島は魚や野菜が新鮮で手料理を作り,食を満喫しました。 また,3度の四国霊場八十八ヵ所めぐりも経験しました。 徳島はなんといっても「阿波踊り」です。 8月12日から4日間盛大に開催されます。 一見の価値はあります。 絵画の好きな方には大塚国際美術館に足を運ばれるのもいいと思います。 1000点を超える世界の名画が見られます。
 徳島大学を退職した後も高知工科大学の非常勤講師を続けています。 この授業ではKDDIの関係者に来ていただき,講義をしていただいております。 最近では松平恒和さん,小西和憲さん,安田豊さん,松本修一さん,大橋正良さん,そのほか若い方で,お話は新鮮で学生たちにたいへん喜ばれています。 講義終了後,講師のみなさんと高知の郷土料理である「皿鉢料理」を楽しんでいます。
 さて,東京での生活は,旅行に出かけるほか,1日1万歩を目標に散歩し,また誘われると断ることなく飲み会に参加しております。 この秋は山形地方に出かけ,真っ盛りの紅葉と温泉を満喫してきました。 そのほか,「迎賓館赤坂離宮」のボランティア説明員をしております。 ここで迎賓館赤坂離宮について少し説明させていただきます。
 1906年に四ツ谷駅近くの紀州徳川家の中屋敷跡地に,ジョサイア・コンドルの弟子である,片山東熊の設計により東宮御所として完成しました。 国内唯一の洋風宮殿で,明治の建築としては初めての国宝に指定されています。 ベルサイユ宮殿などの西欧の宮殿と比較すると,規模など見劣りしますが,日露戦争中に着工し欧米に追い付かんとばかりにかなり無理して建設したものです。 1967年に迎賓館として改修され,これまで多くの国賓の方々により使用されています。 みなさまの中には既に見学をされている方もあると思いますが,見学は8月下旬から10日間のみで,応募申し込みは6月中で,迎賓館赤坂離宮のWEBから可能です。 国賓の来日の関係で若干変更されることもありますから注意して下さい。 女性の方に人気です。 女性同士,ご主人同伴,ご婦人同伴でどうぞ出かけて下さい。
 釈尊は「思い煩うな,なるようにしかならんから今を切に生きよ。」と説かれています。 KDDI健康保険組合の健康指導員はピンピンコロリ(PPK)には「ストレス大敵」とおっしゃいます。 会員のみなさん,ゆったりと構えて健康を維持しましょう。 写真は築地本願寺宗務長不二川公勝師にお会いし,宗教についてお話を伺った時のものです。 なかなかいいお話しでした。
 趣味の会がありましたら,参加しますのでお知らせ下さい。 



    
4. 柴田 清栄 さん (1月26日生まれ)

七十七の手習い

 俳句との最初の出会いは50歳頃にあった。 新宿KDDビル本社には俳句部があり、毎月、廊下の掲示板にその月の句会の結果が貼り出された。 それを時々眺めてはなんと優雅な世界があるのだろうと感心したものだった。 自分もやってみたいと思ったが何となく踏ん切りがつかずにいた。 
 それから数年後、通勤でいつものように家から地下鉄の駅まで神田川沿いの道を歩いていた。 ふと、川をみると散り始めたさくらの花びらが川面を流れていた。 当時まだ水が汚れていたが、連なって流れる花びらが美しい。 これは俳句になると思い、数日かけて何句か作った。 そして、よし俳句をやろうと決心し、歳時記を買い、俳句ノートも作った。 しかし一人での句づくりは難しく、続けることは出来なかった。 
 次の機会はすべての職を辞めた64歳の秋のこと。 朝日カルチュアセンターに行きタイ語と俳句の講座に申し込みしようとした。 しかし受講料が思ったより高く止むなく俳句を断念した。 今考えれば惜しいことをしたと思う。 15年も前のことだから続けていればと残念である。
 そして、実際に俳句を始めたのは77歳の時、「きさらぎ」に参加させていただいた。 まさに遅かりしスタートである。 当時すでに10年位の句歴のあった家内の勧めであり、会員増加のキャンペーンに乗せられた形であったが、甘受することとした。 入会して3年近くなるが、今は俳句を始めて良かったとつくづく感じている。 その理由はいろいろあるが、その第一は病気の時に助けになったということである。
 入会して間もなく2回ほど入院した。 大手術のあとベッドで呻吟する毎日。 このとき俳句を考えることで辛うじて苦しみに耐えることが出来た。 俳句がなかったらどうなっていたか考えるだけでぞっとする。
 やっと始めることが出来た俳句である。 これからも大事にしたい。 今はまだ夢中で作句しているだけの状態であるが、句会の楽しさとかも少し分かってきた。 やはり、俳句はグループで楽しむ文芸と言えると思う。 一人でこつこつでは楽しさも半減する。
 しかし会を運営維持する先生方、幹事の方々のご苦労は大変なものであり、頭の下がる思いがする。 これからも良き先生方、良き諸先輩の励ましとご指導により少しづつレベルアップを図りたいと思う。
 下の2句は句会で比較的良い評価を得たものである。

    「入院も旅寝の一つ冬の月」
    「争はず己が空飛ぶ赤とんぼ」

 自分で傑作と思えるものはまだできていない。 (写真は2012年タイ ホアヒンで撮ったものです)





 


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